■三国志キャラ伝>司馬懿伝/中。諸葛亮が分からない(2)
曹叡が即位した。 227年、督荊豫二州諸軍事として、仲達は宛城に駐屯。   ■北伐その1 このとき孟達は、新城太守、侯で、仮節まで与えられてる。 孟達は、魏興太守の申儀と有隙(仲が悪い)だった。諸葛亮は、郭模という人を申儀へ偽降させ、孟達の謀意を吹き込んだ。孟達は謀反せざるを得ない状況になった。孟達は挙兵を考え始めた。 孟達が寝返っては困るので、仲達は孟達の決心を遅らせようとした。   仲達が、孟達に手紙を書いた。 「劉備を裏切ってくれたあなたに、私たちは大任を期待しています。心は白日を貫いたとも言えるほど、あなたが魏に二心がないことは明らかだと思います。蜀人は愚かで、将軍が魏に移られたことを切歯しました。諸葛亮は魏を討つといっていますが、路がないことを苦しんでいるだけです(孟達が通さなければ、中原には秦嶺山脈を越えないと出られないから?)郭模の言ったことは、小事ではありません。諸葛亮は郭模の言ったことを軽んじて(以下、意味がよく分かりません)」   仲達は密かに孟達を討とうとしたが、諸将は「孟達は呉蜀と通じていて、やっかいだ。しばらく観望してみよう」と言った。 でも仲達は電光石火だ。 「孟達は、信義というものがない。いま魏と蜀の間で揺れていて、怪しい。今のうちに彼に決断を促す(蜀に付かせない?)べきだ」と言って、倍速で急行した。蜀から援軍を、西城の安橋、木闌塞で足止めした。 孟達は諸葛亮に「司馬公、何其神速也!」と愚痴ったが、三面が河で一面が柵の新城で、木柵を破られ、首を洛陽に送られた。   仲達の、第一次北伐へのコミットは、これでおしまい笑 諸葛亮との対決と言うよりは、持ち場の荊州を守ったという感じだね。   ■諸葛亮はもう出てこないでしょう。 曹叡は「二虜(呉蜀)のどっちを先に討つべきか」と聞いた。 仲達が答えるには、 「魏が水戦に長けていないため、呉は東関に散居しています。敵を討つには、急所の喉を抑えてから、心を衝けと言います。夏口、東関がその喉元です。陸から皖城を攻めれば、孫権を(東関に?)釣り出せます。夏口を水軍で攻め、呉が防衛(水軍を夏口に集中)するように仕向けましょう。その隙に(東関に出てきた孫権を?)討つのです。虚に乗じて撃つのは、神兵が天に従って墜とすということです」 曹叡は「なるほど」と言って、仲達に宛城の駐屯を復命させた。   さて『演義』では、諸葛亮の見せ場が始まっているわけですが、『晋書』はとても冷静です。 おそらく魏では、荊州からの道を潰しておけば、蜀対策は要らないだろうという程度の認識のようです。それは仲達も同じで。「さすがに桟道を駆け上がっては来ない」というのが、常識的な為政者の感覚なんだ。 仲達が曹叡に天下統一について聞かれたときも、「呉か蜀か」と話を振られているにも関わらず、特に前置きもなく呉を片付ける話を始めている。曹叡も答えに満足したらしく、蜀について聞き返したりしない。   諸葛亮ファンは、司馬懿が雍州方面の担当者になると悲しみ、荊州方面に配属になると「手ごわい敵が遠ざかったぞ」と安堵する。 だが、それは蜀目線なんだ。魏としては「征呉の視点から、荊州の攻め方・守り方が重要だ。荊州だけ抑えておけば、蜀は気にする必要はない。それほど負担のない兼務なんだから、司馬懿に呉蜀対策をまとめて委ねておこう」という話になっている。 司馬懿は、蜀対策から解任されているんじゃない。
  ■孔明との初めての合戦 230年、曹真に従って蜀を攻めた。大雨で撤退。   231年、諸葛亮が天水を寇した。守将の賈嗣・魏平が、祁山で囲まれた。 曹叡は「西方有事、非君莫可付者」といって、仲達を長安に移し、都督雍・梁二州諸軍事とした。仲達に、車騎将軍の張郃、後将軍の費曜、征蜀護軍の戴淩、雍州刺史の郭淮を統べさせた。 孔明と仲達の初めての戦いですよ。幕を斬って落した皇帝のセリフといい、祁山という部隊といい、付けられた将軍といい、名場面の予感!   張郃「仲達殿は、郿県で後鎮として茶でも飲んでて下さい。戦さは、現場のオレらに任せておいてくれれば、充分すわ」 仲達「前軍(張郃さん)が正しい判断が出来るなら、あなたの言うとおりにするのがいい。でも、(張郃さんが)戦術を使えないくせに、軍を分けてしまえば、黥布に囚われた楚軍の二の舞ですよ」すげえ皮肉!   ■諸葛亮の弱点 諸葛亮が上邽の麦を刈り取ろうとした。 諸将は恐懼したが、仲達は冷静だ。 「諸葛亮は、思慮深いが、決断力がない。まず陣を固めてから、麦を刈りにかかるだろう。私が2日ほど昼夜兼行で駆ければ、諸葛亮の先手を取って、麦刈を防げる」 兵装を身軽にして、急行した。諸葛亮は、仲達軍が立てた塵を見て、遁げた。蜀軍は「お腹が減ったよお」と毒づいた。 まるで袁紹評を見ているようですね。これで、仲達は行動の素早さを発揮して、諸葛亮に2勝。さすがに色がつけてあるだろうが、『晋書』では、諸葛亮のすごさをアピればアピるほど、それを破った仲達のすごさが強調される仕掛けだ。過剰に諸葛亮を貶めてるとは思えない。この勝ちは、史書特有の誇張で引っ掻き回されていない、確かな勝ちなんだ。    仲達の決め台詞は「吾倍道疲勞、此曉兵者之所貪也。亮不敢據渭水、此易與耳」と。「之」というのは、何だろう。麦のこと?そんなんでいいのか? 「渭水に拠らなかったから、楽勝な相手だ」とは、よくぞ言ったものだよね。孔明ファンが怒るよねえ。   漢陽で諸葛亮と対陣し、牛金を撒餌にした。諸葛亮が引いたので、仲達は祁山に到った。諸葛亮が鹵城にいて、水を断って仲達を包囲した。仲達は囲みを破って、勝利した。 うーん、このあたりの戦さの流れについては、『晋書』を読んでも、よく分かりません。それこそ、『演義』の解説本でも読んだほうが、頭にスッキリ入ってくる。山の中でゴチャゴチャになって戦っているんだから、誰にも真実は分からないのだろうし。
  次回、諸葛亮が陣没します。
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