陳寿『三国志』は、他の正史とは違って、人物の伝記しか載ってない。本紀と列伝のみの集合体だ。
一番初めは「太祖武帝紀」であることは有名だが、一番最後には誰が載っているのだろう?意外と知られていない。というか、意識することが、あまりない。
正解は今回の「華覈伝」だ。
なぜカカクなる人物が一番最後かと言えば、韋曜の親友だからという理由だと思う。華覈本人に必然性はなく、韋曜が理由なんだ。
■陳寿の手の内
このサイト内の「韋曜伝」の冒頭でも書いたが、陳寿は使命感やモチベーションの順に、魏・蜀・呉という順序で巻立てをした。「呉書」を作るときは、韋曜らの『呉書』をパクった。しかし『呉書』は未完の書だから、編者たる韋曜の伝がない。
仕方ないから、パクり作業が終わった後「呉書」の最後に「韋曜伝」足した。そのとき、「そうだ。韋曜の処刑に反対した、華覈も立伝しよう!」という運びになった。
「韋曜伝」が最後尾になると美しいかも知れないが、韋曜と華覈を比べたとき、ただ諫言しまくった(忠臣だけど、オリジナリティがあまりない)華覈よりも、『呉書』を編んだ韋曜を先にするのが、自然に思われた。
なんか展開が美しくないが、そんな「華覈伝」を見てみようと思います。
■孫皓からの尊敬?
華覈、あざなは永先。呉郡の武進の人。
文章や学術に優れ、100通以上の上書を奉った。陳寿は「多すぎるので全部は載せない」として、3通だけ『三国志』に採録した。蜀滅亡時の警戒と、宮殿造営への抗議と、奢侈な風潮への警告だ。
275年に小さなことで孫皓に咎められ、免官され、数年後に死去した。だが充分な老齢だったし、処刑や獄死ではないんだ。むしろ孫皓に気に入られていたというから、不思議だ。
孫皓は、命じた。
「華覈は、もう年寄りだ。上表文は、清書しなくていい。草稿でも内容は同じなんだから、草稿のまま提出することを許す」
※どうせ採用しないし笑
でも華覈は、「そんな御無礼は、致せません」と遠慮した。
※汚さを理由に、読まれなかったら悔しい。
孫皓は部下を華覈の部屋の前に立たせて、草稿が上がったら、取り上げて持ってくるように指示した。
※圧力をかけ、面倒くさい上表文を量産させないため。
華覈は返事して曰く、
「凡庸な才しか持たない私が、特別のご恩をお受けして、畏れてしまいます。私の上表は失策だらけですが、いつもお読み頂いて感謝します。浄書無用というお心遣いに従おうとするも、ひたすら畏れ多くて、魂が消し飛び、私の身体はセミの抜け殻でございます」
※ちゃんと私の文書を読んでるのか。導き甲斐のないアホ皇帝だよねえ。
孫皓の優しさに恐縮して、ますます励む華覈。
そんな美しい図が浮かばないではないが、水面下では、火花散る牽制合戦が繰り広げられているように、ぼくには見えます。
孫皓は華覈を黙らせたい。いちいち上表に返答するのも煩わしいし、治世を非難する老人が煙たい。だから、敬老にかこつけて「もう上表は要らんから」と言ってる。
華覈は、孫皓の意に沿わない自分の主張(上では便宜的に「失策」と謙遜している)をきちんと読ませたい。
■華覈は受け流されていた
坂口和澄『正史三國志群雄銘銘傳』で、華覈は「孫皓に何故か気に入られた幸運な人」と手放しに驚かれている。
しかし、あの孫皓が無防備に老人を尊敬するわけがないと思う笑
とは言え、孫皓と華覈の間で、ぼくが勘繰ったような冷戦があったとしても、すぐに「死刑だ!」とならなかったんだから、孫皓の歓心を買うことに成功していたのは事実だろう。
想像ですが、世俗から一歩引いた学者さんの雰囲気だったんだろう。
あれこれ言ってくるが、影響力が少ないから、ウザくない。こだわりもなく、さらっとしている。上表文を作る行為そのものに、微笑ましいくらい熱中する人。
提出された上表文も、格調ばかり高くて、よく意味が分からない。まあ、好きに遊ばせといても、癇には障らない~、という感じだ笑
意見を採用しなくても「よく書けていた。感心した」とだけ言えば、嬉しそうにして帰っていったんじゃないか。特に晩年になるとね。
次回、陳寿が拾った、華覈の2通の上表を読みます。