■親友の死
また星が流れた。※三国時代はよく星が流れる。
毌丘倹が若いころから歯に衣を着せずに議論してきた、曹叡が死んでしまった。
曹叡は死ぬ間際に「司馬懿に会いたい」と切ないことを言い始めたので、胸騒ぎを覚えた司馬懿は洛陽まで、飛行機で帰った。こういう胸騒ぎのアンテナが付いてるから、権力闘争に強いんだよね。凡人はぼーっとしていて、大切な人の死に目に会えないのでしょう。
毌丘倹は「天子様、薨去」なんてお知らせを北方戦線で聞いたんだろう。
「ああ、司馬懿はだからあんなに急いで発ったのか」と今さらながらに気づいたりして。改めて、司馬懿すごいなあ、と思ったに違いない。
学友の曹叡と2度と会えないことのショックが、司馬懿への畏敬がパッと散った後に、花火の炸裂音みたいにドーンと少し遅れてやってきて。
※三国時代に火薬はないけど。孔明さんがいつも使ってるイメージがあるが、それはきっと記憶違いだから!
■ひとりでできるもん
血統不明ながら曹叡が後継として養っていた曹芳が即位。
正始年間(240年~)毌丘倹は奮起して高句麗の討伐に乗り出した。
「毌丘倹伝」には、高句麗がたびたび叛逆してくるため、と書いてあるけれど、どこまで本当かは判定できないね。攻める口実はどうにでも作れるから。あくまで魏側の記録だし。。
司馬懿は宮廷で太傅をやってるから、ここは毌丘倹が頑張るしかない。そして見事、高句麗の丸都に侵攻して宮殿を破壊し、4ケタにのぼる首級と捕虜を得た。
高句麗の位宮は「ああ、たちまちのうちに、高句麗として栄えたこの地にはよもぎが生えるだろう」と嘆いて、食事をボイコットして死んだ。高句麗の人々は、彼を優れた人物として讃えた。
裏を返せば、それほど完膚なきまでに、毌丘倹が北方の身の程知らずを叩いたということで。すごいよ!
■南方戦線へ
いよいよ挙兵に近づいて参ります。
高句麗を落として、毌丘倹は左将軍、仮節監豫州諸軍事。兼ねて、豫州刺史および鎮南将軍に任じられた。
魏の北には敵なしになったので、毌丘倹は次の戦場を求めていた。っていうか、王朝としては有能な将軍を有効活用しない手はないという発想で、次の相手は孫呉です。まるで南征を終えた諸葛亮が「出師の表」をぶち上げて漢中に駐屯したのと同じだね。
251年、王淩が寿春で挙兵し(このサイトの王淩伝参照)司馬懿が謀略を駆使して掃除をした。その後、魏王朝のコントロールがしっかり効いた状態に戻すべく、諸葛誕を鎮東将軍、都督揚州諸軍事に任じて治めさせた。諸葛誕は、司馬懿に協力して淮南に軍を進めた人物だ。
■淮南への接近
252年、諸葛誕が諸葛恪に東関で破れた。同姓同士で戦をされると一瞬だけ「?」ってなるけれど、諸葛恪は諸葛瑾の息子で孫呉の人。諸葛誕は曹魏の人。つまり、魏が呉に負けたのだ。諸葛恪は、やっと死んだ孫権に後事を託されて、調子に乗ってるからね。
洛陽は、敗れた諸葛誕と勝ちに乗ってる毌丘倹を交代させた。すなわち、毌丘倹が鎮東将軍、都督揚州諸軍事。
ここで毌丘倹は、信じてはいけない人格異常者と、運命の出会いを果たしたんだ。彼の名は文欽。
※文欽については、後に詳述します。
諸葛恪は味をしめて翌253年、国内の反対を押し切って再出兵。合肥新城を包囲。繰り返すけど、諸葛恪は調子に乗ってるからね、いくらか無茶をする嫌いがある。
毌丘倹は文欽とともに、これを防ぐ。合肥新城の救援に来てくれたのは、大尉の司馬孚。隣に席すと青く見えるわけだが、司馬懿の弟です。公孫淵攻めで司馬懿の恩を受けた毌丘倹は、司馬孚の恩も受けた。司馬孚の進軍を聞き、諸葛恪は包囲を解いて撤退した。
■夏侯玄と李豊の死
司馬懿が王淩を片付けてすぐ死んだ後、司馬氏は司馬師が告いだ。
司馬師は254年2月、夏侯玄と李豊を殺した。夏侯玄は曹爽の従兄弟(曹真の娘の子)だったので、曹爽と近かった。一緒に入蜀して王平に退けられた人物で。
曹叡は曹爽に後事を託した。曹爽は夏侯玄を厚遇した。曹叡の学友として宗室に近かった毌丘倹は、夏侯玄と近かったはずで。その夏侯玄を司馬師が殺したということは、毌丘倹もヤバいよ。
司馬懿は曹爽と王淩を討ち、司馬師は夏侯玄と毌丘倹を討つ。A is to Bなんたらという英語の構文ではありませんが、対照関係が成り立ちそうです。毌丘倹にしてみれば、成り立たせて堪るか!という心境だ。
司馬懿は、夏侯玄も毌丘倹も討つべきほどの敵とは認識しなかった。
司馬懿は夏侯玄の軍事ミスを見て軍権を取り上げ、毌丘倹の公孫淵攻めを肩代わりしてあげた。それくらいのあしらい方しかしなかった。でも司馬師にしてみれば、夏侯玄と毌丘倹が次世代としてライバルになるわけで。
毌丘倹は已まれず、王淩の例にならって淮南で洛陽の司馬師に対抗せざるを得ない。
王淩は司馬懿のアメとムチの幻惑のせいで難なく刈り取られたけど、毌丘倹は司馬懿を尊敬しているからね、王淩の失敗は素直に受け容れられた。そして「私の相手は司馬懿殿ではない。たかが司馬師だ。王淩殿のようには敗北するまい」という自信もあったと思う。
ヘンな話だけど、司馬懿の軍略と司馬孚の用兵を自分の目で見てるわけだから、これは行けるぞ、と。
■文欽を厚遇
文欽については、本当に後日、独自に伝を立てたいね。陳寿はただの叛逆者のために伝は立てなかった。だけど、ぼくの人物を評価する基準は、王朝への忠誠じゃないからね。人物として考えてみたら面白そうか、だけなんだ。完璧に異文化+異時代からの発想だけどね。
「毌丘倹伝」曰く、文欽は曹爽と同じ村の出身であった(中略)毌丘倹は考えるところがあって文欽を厚遇し、うちとけた好意を示したので、文欽も「こいつ、めっちゃええやん」と毌丘倹に感動して尊重し、心の底から忠実な態度を取った。だそうで。
この文欽を上手く乗せて、毌丘倹は乱に結び付けていくのです。
次回は(ぼくが)お待ちかねの司馬師の11の罪です。
毌丘倹が、口角泡を飛ばして司馬師を弾劾します。っていうか、12の罪を追加したい。「司馬師」と「司馬氏」の打ち分けがすごく難しいんですが。けっこう間違って打ってるかも。