■諸葛亮の死後
234年、諸葛亮が五丈原で死んだ。
『演義』の寵愛ぶりだと、諸葛亮は死ぬときに「じゃあ後継者は姜維で」と言いそうなものだけど、言ってない。劉禅の使者・李福だったかに答えて曰く「まず蒋琬、次は費禕で、その次は…(無言)」だったはず。この諸葛亮の後継者に関するコメントって「小説」だったっけ。正史でも読んだはずだけど、見つけられない。「蒋琬伝」に、諸葛亮が内密に劉禅に上表して「後継者は蒋琬で」と言ったというのは見つけたが。
なぜ姜維の名前が出ないか。一般に言われるには、こう。連続した北伐で国力は疲弊した。次は、守りを固める人物が指導者に適任である。そういう判断だそうで。正解だと思う。
でも北伐を重視した諸葛亮には、費禕の次は…姜維くんで!と言ってほしかった。本人は、言いたかったんじゃないか。でも姜維くんの教育ん上よくないから、名前は出さなかったのかな。彼が早い時期から付け上がるじゃん。
■姜維が孤立した理由
渡邉義浩氏が、諸葛亮の後継者とその後の蜀について、解説をされている。添付された「蜀漢政権枢要官の人的構成」という図もいい。どの役職にいつ誰が就いていたか、一目瞭然だ。渡邉義浩「孔明政権とその人的基盤/荊州人士優遇策から益・荊州融合策へ」『真三國志三』学習研究社1998年に従って、姜維を取り巻く権力環境を見てみます。
はじめ諸葛亮にとって益州は、天下三分の足がかりに過ぎなかった。だから入蜀後は、荊州人士を優遇した。しかし関羽が荊州を失ってからは、益州と荊州人士の融和を試みた。
その証拠は、孔明の姜維評(※前のページで引用済)にも表れている、と渡邉氏は言う。姜維を「李邵」「馬良」と比較している。前者は益州出身、後者は荊州出身。姜維の名士間での立ち位置を示すときに、両州の有能な人物と並べたんだ。
※ともに故人。生きてる人の名を出したら、顔に泥を塗ることになるもんね。さすが諸葛亮さんです。
諸葛亮が後継者にした蒋琬も費禕も荊州出身。でも二人とも、益州人士の間で評価が高かった。※渡邉氏はここでは指摘していないが、費禕は劉璋の母の血縁者。益州人士の協力が得やすいわけよね!
一方で姜維は、涼州から流れてきた軍人。まあ鄭玄の学問をやるらしいが、益州人士のとは繋がりがない。だから、益州を固める時期の指導者としては不適格なのです。孔明も安心して後継者に指名なんか出来ない。人脈が弱い姜維は、北伐で戦績を上げるくらいしか、蜀で支持を得られる見通しが立たない。
蒋琬と費禕の亡き後、全権を握ったかに見えた姜維は孤立する。益州は三分した。北伐しまくる姜維、姜維に協力しない荊州人士、益州保全を願って蜀漢から離反しようとしる益州人士。
渡邉氏は、蜀漢の滅亡をこう位置づける。蜀漢は皇帝権力とその体現者により崩壊した。皇帝権力とは、劉禅本人や劉禅が寵愛した宦官。体現者とは、孔明が作った荊州人士と益州人士の協力体制だ。彼らが(姜維の台頭により)離反してしまった。だから滅びたんだ、という理屈です。渡邉氏からの議論の借用は以上です。
姜維、責任取れよ!ってムードになりかねないね、こりゃ笑
■蒋琬と費禕の時代
遺言どおり、まずは蒋琬が孔明を継いだ。
諸葛亮が死んで4年後の238年、姜維は蒋琬に従って漢中に駐屯。
この次に、特に年代も記さずに「西方に侵入した」とのみ「姜維伝」にある。しかし「郭淮伝」には、このときのことが詳しい。240年、郭淮は侵入した姜維を打ち負かし、彊中まで追撃したそうだ。※歴史書って面白いね。この戦いは、自国に都合のいいことを書き残したがる好例だわ!
政権担当者・蒋琬は諸葛亮の北伐コースではなく、荊州(孟達コース)から魏を攻めようとしたが、243年病気で引退。費禕がトップに。
姜維は、鎮西大将軍・涼州刺史に昇進した。
244年、曹爽と夏侯玄が漢中に攻めてくるが、費禕と王平を中心に撃退。247年、隴右の羌が反乱したが姜維が平定。あの俄何焼戈(ガカショーカ)が姜維に味方した。兀突骨と人気を二分する人物です。※名前の珍しさが笑
同じ年、郭淮・夏侯覇と戦った。姜維の作戦は、涼州を分断して羌を味方につけること。彼は涼州出身だ。魏を攻めるときに武器になる。同時に、これは他の蜀将に対するアドバンテイジでもある。荊州や益州出身の将軍に、同じ芸当は出来ない。
249年も郭淮と決戦し、敗北。やはり「姜維伝」には1行しか記述がないが、「郭淮伝」は違う。廖化と姜維を翻弄して破る郭淮の様子が、ちくま文庫1ページに渡って記されている。姜維がボッロボロだ。
250年にも姜維は西平に出撃して、敗れた。
費禕は姜維にブレーキをかけた。姜維が大軍を動かしたがるたびに、わずか一万の兵を与えるだけだったという。
ここで有名なセリフがお目見えする。「丞相(諸葛亮)ですら北伐をミスった。私たちじゃ無理なんだ。能力ある者の出現を待とリョーシカ。僥倖で勝とうとするな」こう費禕は言った。
姜維の心中やいかに。下手をすると殺意まで覚えたんじゃないか。諸葛亮に劣らない有能者こそ、自分だとおそらく自負してたんだから。
■郭淮のカベ
どうやら郭淮は、姜維にとって因縁の人物だ。姜維が馬遵に捨てられたとき、その査察団を率いていた長が彼だった。その郭淮が、姜維の軍事行動をことごとく阻んだ。
こうなったら、姜維と郭淮に一騎打ちでもしてほしい。一騎打ちはさすがに笑止の沙汰としても笑、書簡の交換なりで郭淮と昔話をしてほしいなあ!
その伏線として、姜維が故郷で小役人をしてたときに、郭淮との絡みが必要だね。郭淮の有能に、姜維が劣等感を持っててもいい。
場面はこうなるかな。馬を引きながら、夏侯淵の思い出話をする郭淮。
※郭淮は夏侯淵に従って、漢中に残った経歴がある。
夏侯淵と郭淮に尊敬の眼差しを向ける、20代の姜維。郭淮から夏侯淵の遺品の弓をもらっちゃったりする。郭淮は夏侯淵の死後に、弓を収容したんだ。それを血気溢れる姜維を見込んで、渡していた。姜維はこの弓で郭淮に挑む。しかし到底、叶わない。夏侯淵が言い残した教訓みたいのを絡ませたら(諸葛亮の死後は詰まらなくなると言われている)物語が前時代とリンクするよね。
郭淮の軍事行動は249年で終わっている。以後は記録がない。それまでの功績を讃えられて、ご栄転という感じだ。その去り際にも、毛を逆立てて威嚇してる姜維に、一声かけてほしい。「オレの見込み違いだった。お前はその弓を引くのに、全く値しない将だな」みたいな。ますます闘争心を掻き立てられる姜維!と。完全な妄想ですが。
諸葛亮の弟子と言っても、姜維の成分の半分しか言い表した気がしない。郭淮の弟子でもあったんだ笑
郭淮のルックスは『蒼天航路』でしか見たことない。厚めの上唇と巻き毛。あの顔に年季を加えたら、けっこう味が出そうじゃないか。
■夏侯覇の劣等感
夏侯覇は夏侯淵の息子だ。夏侯覇って、専用の伝がないんだね。『演義』や柴田錬三郎で、姜維の無二の親友として活躍してるから、この扱いに驚き。夏侯淵伝の続きが途切れてるのかと思った笑
坂口和澄『正史三國志群雄銘銘伝』光人社2005年の記述を見ると、『魏氏春秋』、「夏侯玄伝」注『魏略』、「鍾会伝」注『世語』、「張嶷伝」注『益州耆旧伝』を繋ぎ合わせるしかなさそうだ。
彼は249年の司馬懿のクーデターで、蜀に亡命した。
姜維との絡みが確認できるのは、255年に狄道に出て、魏の雍州刺史・王経をさんざんに打ち破ったという1回のみ。
でもさ、魏からの亡命という経験は似てるから、きっと姜維は、夏侯覇と気持ちを共有できると期待したよね。『演義』も根拠がないわけじゃない。
姜維の心の師匠は夏侯淵だ(とさっき決まったところだ笑)。姜維は、夏侯覇に父のことをたくさん聞いただろう。夏侯淵の息子として、いきなり敬ったかも。
夏侯淵の息子という出生が、夏侯覇の中でどういう位置づけだったのか興味深い。
あくまで仮説だけど、郭淮や夏侯玄と対立してるっぽいから、血筋に恥じてそう。夏侯淵の話をしたがる姜維。それに快く応じる夏侯覇。でも本心では、父の話をしたくない。姜維は後腐れない投降だったけど、夏侯覇は苦渋の投降だし。
投降の過程でも、かなり道程は厳しかった。予約なしの亡命だからね。秦嶺山脈。自分の馬を解体して食べながら、険阻な山中で星を見上げ、何を考えたんだろう。覇なんて輝かしい名前を付けられちゃってさ、オレは何者なんだ、と。屈折してそう!最高!
姜維は夏侯覇に、郭淮からもらった弓を渡すんだ。※妄想
「これはキミが持っているに相応しい。お父上の弓だ。返すよ。共に功名を立てよう」姜維は夏侯覇の肩を抱いて、親しげに弓を握らせる。しかし夏侯覇はカゲに隠れて、この夏侯淵の弓を叩き折ってしまう。夏侯淵が若き曹操と一緒に野を駆けた日の弓が、真っ暗で底の見えない漢水に投げ捨てられる。誰にも知られることなく。無情だ。いいねえ!
弓を手放した姜維は、郭淮へのコンプレックスを乗り越えて自立する。次は鄧艾戦をやってもらわなきゃ、だからね。
※夏侯覇は史料が少ないと知ったので、早めにキャラ伝を作っちゃいたい。
次回からは姜維の独壇場。
いきなり、彼がトップに登りつめるため?の暗殺劇が起きます。