■三国志キャラ伝>孔明より功名を志す死将!姜維伝(3)
■費禕の死 253年正月、費禕が殺された。下手人は魏の「降伏者」郭循。 いつも疑問に思う。250年以降、正史に残る戦はないはず。蜀が勝った戦は、244年まで遡らないと無い。郭循が降伏したのなら、そのときか。もう蜀に10年弱は留まっている計算になる。何をしてた人なんだ。かつ、一介の降伏者が、重臣の正月の宴に紛れ込めるものなのか。 費禕の死は、姜維のしわざじゃないか笑 ※ぼくの勝手な推測   費禕は前年に幕府を開いて、権勢の絶頂。わきまえた費禕のことだから、無茶な政治はしなかった。だが、そりゃ有頂天にもなる。大宴会で、気持ちよく泥酔してた。費禕は姜維を快く思ってないから、席上で軍事行動をたしなめたのかも知れない。 蜀の廟堂で降伏者と言えば、筆頭は姜維。次点に夏侯覇。 彼らはどうしても益州・荊州出身者とは馴染めないから、きっと群れていた。従者も同類で固めていた可能性がある。郭循は姜維の従者として(あくまで推測)すぐ隣に侍っていた。姜維の密命を受けて、グサリと。でも姜維には類が及ばぬように片付けられた。 姜維が培養している「死士」が、いかにも喜んでやりそうなことじゃないか。死に場所が得られてハッピー!みたいなノリの連中だから。   「姜維伝」は言う。 253年春、費禕がなくなった。夏、姜維は数万の軍勢を率いて(以下略)っておい!費禕は一万しか与えなかったのに、彼が死んだ3ヵ月後には、もう最大積載量オーバーしてるよ。こりゃ、黒幕は姜維で決まりでしょう。 ※この出兵も失敗。言わんことはない。   ■輝かしき?戦績  254年、隴西に出陣、徐質を斬り、三県の住民を拉致する戦果。 255年、先に書いた夏侯覇との出兵。王経を破るが、陳泰にビビり退却。 266年、胡済が待ち合わせに来ず、鄧艾に大敗。戦死多数。 257年、諸葛誕に呼応して出兵。司馬望と鄧艾と対峙。 258年、諸葛誕の敗退を受けて、撤退。ダメじゃん。   この辺りから、郭淮に代わって鄧艾の名前が出てくる。 姜維のライバルとして描かれることが多いから、要チェックですね。 しかし、毎年戦争をしないとダメなのか。お前はサメか!諸葛亮の北伐は5回(カウント方法によっては6回)です。それぞれにドラマがあり、それなりに惜しいから物語になる。国家を上げての感動ドキュメントになる。ここまで頻繁に北伐されると、価値が下がるよ!   ■姜維の建議 要旨は、防衛線を後退させましょうだ。 漢中から中原には、放射状に経路が広がっている。それぞれの経路に兵を分散して守るのではなく、経路が集中した場所で一気に守ったらどうか。 そうしたら兵力を増やすことも出来るから、持久戦で勝ちやすくなる。敵を集めるから、遊撃隊を出動させやすくなる。補給に苦戦して敵が撤退を考えれば、諸城から出て叩けばいい。どや!と。   一見素晴らしいが、怖いことだ。建国以来の大変革を、姜維は言っている。これは、劉備が作った漢中防衛方針を覆す提案だ。「姜維伝」にある。劉備は漢中に魏延を駐屯させ、外敵を防ぐために充分な兵力を置いた。王平が曹爽に対抗できたのも、そのおかげだ、と。それをご破算にする、姜維の改革案は通った。姜維の提案どおりに兵が配備された。   なぜこの時期に、防衛線後退になるのか。 姜維が蜀の兵力を消費しちゃったからだろ!お前のせいだろ!と言いたい。「姜維伝」をもう一度注意深く見てもらうと、「充分な兵力を置いた」とある。それが出来ていた。曹爽撃退の成功から15年、蜀の軍事に変化があったとすれば、その要因は姜維の連敗記録だけだ。 本音はこうなる。「オレが蜀の兵力を大幅に減らしてしまったから、現状の人数じゃ防衛線が保てないんすわ。ごめんやけど、国を小さくまとめて守るしか手がないんよ」と。 結果から歴史を断じるのは禁じ手だが、これは亡国の策となる。 防衛ポイントを限定したせいで、鄧艾の回り道を許してしまう。主戦力が鍾会と戦っている間に、脇をすり抜けて成都が降伏してしまう。じゃあ、この建策は間違っていたか。いな。これは仕方ない決断だった。問題は、その前段階だ。兵力を減らしてしまったことだ。   ■蜀からの独立 262年、姜維は侯和で鄧艾に敗れた。沓中に駐屯。 成都では黄皓が劉禅に侍り、大将軍・閻宇と結託した。黄皓は姜維を廃して、閻宇に軍権を委ねようとした。姜維ピーンチ。まあ、自業自得な気もするけど。宦官・黄皓の人格は見下げたものかも知れないが、兵力をいたずらに消耗させる姜維は、国賊に等しいもんね。   『華陽国志』にいう。姜維は劉禅に上言して、黄皓を殺させようとした。 劉禅は断った。「黄皓は使い走りに過ぎない。君が気にかけるほどの男ではない」と。そうそう、男ではないよ、宦官だよ笑 劉禅は黄皓に騙されて、忠烈の義士・姜維の注進を跳ね除けたという印象がある。でも実は、劉禅自身が姜維を廃そうとしてたんじゃないか。黄皓が姜維失脚を画策しているように見えるだろうが、彼は使い走りをしてるだけだ。情報元は朕なんだよ。黄皓を気にかけても仕方ないよ。違う宦官・文官を立てても、方針は変わらないよ。そういう謎かけじゃないか。   姜維は失言するのを怖れ、退出した。沓中で麦を植えて屯田したいと申し出て、成都には戻らなかった。 これは「沓中で、独立ミニ国家を経営させて下さい」と言っているに等しいんじゃないか。地盤を独自に持って、成都に仕えないのなら、もう一蜀将じゃない。モデルとしては、魏王となった漢の曹操、晋王となった魏の司馬昭に近かろう。本体の蜀が衰退してるから、ショボいけど。 たびたび魏の投降者であることが、引き合いに出される姜維。居心地がいいはずがない。ついにその因縁を断ち切るときがきた。お気に入りの死士だけが集まる理想郷を、姜維は作った。立地は、蜀と魏が激突する山の中。彼にとっては最高の立地だろう。姜維はついに、死王になった。とか笑   ■孔明の弟子なんかじゃない 姜維が功名より孔明を志すのなら、ここで成都に居座って廟堂の一新に努めただろう。『演義』の雰囲気なら、それが出来そうなものだ。黄皓ぐらい、一太刀で斬れそうなものだ。しかし3つの理由で無理だ。 姜維に成都で政治をする気がない。出身地が遠くて、人士の支持が得られない(これは先天的条件だからどうしようもない)。蜀の兵力を無駄に損なってきたという負の実績がある。 『演義』ファンが望む姜維の一閃が炸裂しないのは、この3要因が彼の刀を封じていたからだ。生半可な客席の声援では、姜維は黄皓を切れない笑 子供が泣いてもダメなのだ。   そういうわけで、姜維を孔明の後継者と見るのは、孔明に対して失礼で、無理のある話だ。孔明は成都でしっかり劉禅を握っていた。その裏づけとなる政治手腕があった。軍事は苦手だけど、やばかったら撤退した。姜維が孔明の何を継いだのか、よーわからん笑 孔明が姜維を褒めながら「調練が終わったら、成都で陛下にお目見えさせます」なんて言ってた日が懐かしいよ。姜維は沓中で独立しましたから。 諸葛亮とは、戦う動機が違うの。ごめんね。   次回、蜀が滅亡します。 そのとき姜維が、驚異で脅威の逆転をかます! ※ついにこの駄洒落を使ってしまった。ベタ過ぎるのに。
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