三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』列伝9より、「王沈&王浚伝」を翻訳(3)
演與烏丸單于審登謀之,於是與浚期游薊城南清泉水上。薊城內西行有二道,演浚各從一道。演與浚欲合鹵簿,因而圖之。值天暴雨,兵器沾濕,不果而還。單于由是與其種人謀曰:「演圖殺浚,事垂克而天卒雨,使不得果,是天助浚也。違天不祥,我不可久與演同。」乃以謀告浚。

和演は、烏丸族の單于である審登と結び、王浚の殺害を謀った。このころ王浚は、薊城の南にある清泉水上に游(ゆ)くことを計画した。薊城の内部には、西に向かう道が2本あり、和演と王浚はそれぞれ別の道を行った。和演は、王浚と鹵簿(行列)を合流させたいと思い、合流のための画策をした。にわかに暴雨が降り始め、兵器は沾濕(湿り)、計画は果たされずに帰還した。単于が、烏桓の一味と謀って言った。
「和演は王浚の殺害を図り、実行しようとしたら、急に雨が降って中止になった。これは天が王浚を助けたのである。天意に違反することは、不祥である。我らはこのまま久しく、和演に同調していてはいけない」と。烏桓単于は、暗殺計画を王浚に漏らした。


浚密嚴兵,與單于圍演。演持白幡詣浚降,遂斬之,自領幽州。大營器械,召務勿塵,率胡晉合二萬人,進軍討穎。以主溥祁弘為前鋒,遇穎將石超于平棘,擊敗之。浚乘勝遂克鄴城,士眾暴掠,死者甚多。鮮卑大略婦女,浚命敢有挾藏者斬,於是沉于易水者八千人。黔庶荼毒,自此始也。

王浚は密かに兵を固め、烏桓単于とともに和演を包囲した。和演は白幡(白旗)を持って、王浚に面会して降伏したが、斬られた。王浚は(洛陽から独立して)自ら幽州を領した。
大量に器械(武具)を生産し、鮮卑の務勿塵を召して、胡族と漢族の20000人の混成部隊を率いさせ、司馬頴を討つ兵を進めた。
主溥である祁弘を先鋒とした。祁弘は、司馬頴の将である石超と、平棘で会戦し、これを撃ち負かした。王浚は勝ちに乗じて、鄴城を陥落させた。(胡族と漢族が混在する)王浚の軍は、鄴で暴掠し、死者が甚だ多かった。鮮卑は、婦女を大いに略奪し、王浚は(財産や婦女)を隠し持つものは斬るように命じた。このため、易水は8000人の死者で塞き止められた。
黔庶荼毒(まがまがしい行い)は、このときから始まった。

浚還薊,聲實益盛。東海王越將迎大駕,浚遣祁弘率烏丸突騎為先驅。惠帝旋洛陽,轉浚驃騎大將軍、都督東夷河北諸軍事,領幽州刺史,以燕國增博陵之封。懷帝即位,以浚為司空,領烏丸校尉,務勿塵為大單于。浚又表封務勿塵遼西郡公,其別部大飄滑及其弟渴末別部大屠甕等皆為親晉王。

王浚は(幽州の)薊に帰還した、名声はますます盛んとなった。司馬越が大駕(恵帝)を迎えようとしたとき、王浚は祁弘に烏丸突騎を率いさせ、先駆させた。恵帝が洛陽に戻ると、王浚は驃騎大將軍に転じ、都督東夷河北諸軍事・領幽州刺史となり、燕國で博陵の封国を増やされた。
懐帝が即位すると、王浚は司空となり、烏丸校尉を兼ね、(鮮卑の)務勿塵を大単于とした。王浚は上表して、務勿塵を遼西郡公に封じ、別部の大飄滑と、彼の弟である渴末の別部・大屠甕を親晋王に封じるように頼んだ。


永嘉中,石勒寇冀州,浚遣鮮卑文鴦討勒,勒走南陽。明年,勒複寇冀州,刺史王斌為勒所害,浚又領冀州。詔進浚為大司馬,加侍中、大都督、督幽冀諸軍事。使者未及發,會洛京傾覆,浚大樹威令,專征伐,遣督護王昌、中山太守阮豹等,率諸軍及務勿塵世子疾陸眷,並弟文鴦、從弟末柸,攻石勒于襄國,勒率眾來距,昌逆擊敗之。末柸逐北入其壘門,為勒所獲。勒質末柸,遣間使來和,疾陸眷遂以鎧馬二百五十匹、金銀各一簏贖末柸,結盟而退。

永嘉年間、石勒が冀州を寇略すると、王浚は鮮卑の文鴦に石勒を討たせ、石勒は南陽に敗走した。翌年、石勒はまた冀州を攻め、冀州刺史の王斌は石勒に殺されたため、王浚は冀州も領した。詔があり、王浚は大司馬に進み、侍中を加えられ、大都督・督幽冀諸軍事となった。(王浚の昇進を伝える)使者がまだ出発する前に、洛陽は傾覆に会った。王浚の大樹威令は、専ら征伐(を命じた)。督護の王昌・中山太守の阮豹らに、諸軍と務勿塵の世子である疾陸眷・弟の文鴦・從弟の末柸を率いさせ、石勒を襄国に攻めた。石勒は大軍を率いて、王浚軍を拒んだ。
督護の王昌は迎撃されて敗れた。末柸は、北から塁門に入り、石勒に捉えられた。石勒は末柸を人質とし、和睦の使者を送ってきた。段疾陸眷は、鎧馬250匹・金銀各1簏で末柸を買い戻し、石勒と結盟して撤退した。


其後浚佈告天下,稱受中詔承制,乃以司空荀籓為太尉,光祿大夫荀組為司隸,大司農華薈為太常,中書令李絙為河南尹。又遣祁弘討勒,及于廣宗。時大霧,弘引軍就道,卒與勒遇,為勒所殺。由是劉琨與浚爭冀州。琨使宗人劉希還中山合眾,代郡、上谷、廣寧三郡人皆歸於琨。浚患之,遂輟討勒之師,而與琨相距。浚遣燕相胡矩督護諸軍,與疾陸眷並力攻破希。驅略三郡士女出塞,琨不復能爭。

その後、王浚は天下に布告して、受中を称し、承制を詔させた。司空の荀籓を大尉にし、光祿大夫の荀組を司隷にし、大司馬の華薈を太常とし、中書令の李絙を河南尹 にさせた。また、祁弘に石勒を討たせるため、廣宗に遣わした。深い霧のなか、祁弘は軍を率いて道を進み、急に石勒軍と遭遇して殺された。
祁弘が殺されたので、劉琨と王浚は、冀州を争うことになった。劉琨は、彼の本家筋の劉希を中山郡に遣わせて支持を取り付け、3郡(代郡、上谷、廣寧)の人はみな劉琨の支持者となった。王浚はこれを疎ましく思い、石勒を討つ軍を出すのを辞め、劉琨と対立した。王浚は、燕相の胡矩に諸軍を督護させ、疾陸眷と協力させ、劉希を力攻めした。三郡の士女が出塞(防禦)していたが、王浚側はこれを驅略したので、劉琨は再び争う基盤を失った。

浚還,欲討勒,使棗嵩督諸軍屯易水,召疾陸眷,將與之俱攻襄國。浚為政苛暴,將吏又貪殘,並廣占山澤,引水灌田,漬陷塚墓,調發殷煩,下不堪命,多叛入鮮卑。從事韓鹹切諫,浚怒,殺之。疾陸眷自以前後違命,恐浚誅之。勒亦遣使厚賂,疾陸眷等由是不應召。浚怒,以重幣誘單于猗盧子右賢王日律孫,令攻疾陸眷,反為所破。

王浚は帰還すると、石勒を討ちたいと考えた。棗嵩に諸軍を督させ、易水に屯営させた。疾陸眷を召して、ともに(石勒の)襄国を攻めようとした。王浚の為政は苛暴で、将吏も(王浚に似て)貪殘だった。広く山沢を囲い込み、灌田に引水し、塚墓を漬陷し、殷煩を調發した。民衆は王浚の方針に耐えられず、大勢が寝返って鮮卑に帰属した。従事である韓鹹が切諫すると、王浚は怒り、殺してしまった。疾陸眷は、たびたび王浚の命令を違えたので、王浚に殺されることを恐れていた。石勒は、使者を遣って厚く賄いを贈り、疾陸眷に王浚からの離反を進めたが、疾陸眷は申出を断った。
これを知った王浚は怒り、重幣(大金)で単于である猗盧の子、右賢王日律孫を勧誘し、疾陸眷を攻めさせた。疾陸眷は敗れた。
『晋書』列伝9より、「王沈&王浚伝」を翻訳(4)
時劉琨大為劉聰所迫,諸避亂遊士多歸於浚。浚日以強盛,乃設壇告類,建立皇太子,備置眾官。浚自領尚書令,以棗嵩、裴憲並為尚書,使其子居王宮,持節,領護匈奴中郎將,以妻舅崔毖為東夷校尉。又使嵩監司冀並兗諸軍事、行安北將軍,以田徽為兗州,李惲為青州。惲為石勒所殺,以薄盛代之。

劉琨が大いに(匈奴で劉淵の四男)劉聰に迫られたとき、もろもろの避亂遊士たちは、王浚を頼った。王浚は日ごとに強盛となり、壇を設けて告類し、皇太子を立て、衆官を備え置いた。
王浚は自ら領尚書令となり、棗嵩・裴憲を尚書とし、彼らの子を王宮に住ませ、持節・領護匈奴中郎將とし、妻舅をことごとく東夷校尉に任命した。また、棗嵩を、監司冀並兗諸軍事・行安北將軍とした。田徽に兗州、李惲に青州の諸軍事を任せた。李惲は石勒に殺されたので、薄盛が後任になった。


浚以父字處道,為「當塗高」應王者之讖,謀將僭號。胡矩諫浚,盛陳其不可。浚忿之,出矩為魏郡守。前渤海太守劉亮、從子北海太守搏、司空掾高柔並切諫,浚怒,誅之。浚素不平長史燕國王悌,遂因他事殺之。時童謠曰:「十囊五囊入棗郎。」棗嵩,浚之子婿也。浚聞,責嵩而不能罪之也。又謠曰:「幽州城門似藏戶,中有伏屍王彭祖。」有狐踞府門,翟雉入聽事。時燕國霍原,北州名賢,浚以僭位事示之,原不答,浚遂害之。由是士人憤怨,內外無親。以矜豪日甚,不親為政,所任多苛刻;加亢旱災蝗,士卒衰弱。

王浚の父は、あざなを處道といった。「當塗高」は王者になるという讖のため、王浚は僭號(皇帝即位)しようとした。胡矩が王浚を諌め、盛陳も反対した。王浚は忿り、胡矩は魏郡太守に左遷された。前渤海太守の劉亮と、彼の從子で北海太守の劉搏、司空掾の高柔らは切に戒めたので、王浚は怒り、彼らを殺した。王浚は、もとから長史で燕國の王悌と気が合わないので、他事にかこつけて殺した。
ときの童謡に曰く「十囊五囊入棗郎(棗嵩が懐に財物を放り込んでいます)」と。棗嵩は、王浚の娘婿だった。王浚は童謡を聴いたが、棗嵩を責めて罪とすることができなかった。また別の童謡が曰く。
「幽州城門似藏戶、中有伏屍王彭祖」幽州には、門は踞府門しかないので、翟雉(キジ)が出入りすることを許した。燕國の霍原は、幽州の名賢であった。王浚が霍原に、僭位してよいかと質問すると、霍原は答えなかった。王浚は、霍原を殺した。これにより、士人層は憤怒し、内外に王浚に親しむものはいなくなった。
王浚の矜豪はひごとにヒドくなり、政治に親しまず、登用する人物はとても苛刻だった。亢旱災蝗が追い討ちをかけ、幽州の士卒は衰弱した。


浚之承制也,參佐皆內敘,唯司馬遊統外出。統怨,密與石勒通謀。勒乃詐降于浚,許奉浚為主。時百姓內叛,疾陸眷等侵逼。浚喜勒之附己,勒遂為卑辭以事之。獻遺珍寶,使驛相繼。浚以勒為誠,不復設備。勒乃遣使克日上尊號於浚,浚許之。

王浚の承制では、みな内勤を命じられたが、ただ司馬の遊統だけは外勤を命じられた。遊統は王浚を怨み、密かに石勒と通謀した。石勒は偽って王浚に降伏し、王浚を主君に奉ることを認めた。幽州の百姓は叛乱していて、疾陸眷は鎮圧をしていた。
王浚は石勒の帰順を喜び、石勒は卑辭(腰の低い言葉遣い)で王浚に遣えた。遺していた珍寶を献上し、駅を継いで運ばせた。王浚は石勒の誠意を認め、再び警戒をすることはなかった。石勒は使者を出して、王浚に尊号を奉った。王浚は、これを快く受けた。


勒屯兵易水,督護孫緯疑其詐,馳白浚,而引軍逆勒。浚不聽,使勒直前。眾議皆曰:「胡貪而無信,必有詐,請距之。」浚怒,欲斬諸言者,眾遂不敢複諫。盛張設以待勒。勒至城,便縱兵大掠。浚左右複請討之,不許。及勒登聽事,浚乃走出堂皇,勒眾執以見勒。勒遂與浚妻並坐,立浚於前。浚罵曰:「胡奴調汝公,何凶逆如此!」勒數浚不忠於晉,並責以百姓餒乏,積粟五十萬斛而不振給。遂遣五百騎先送浚于襄國,收浚麾下精兵萬人,盡殺之。停二日而還,孫緯遮擊之,勒僅而得免。勒至襄國,斬浚,而浚竟不為之屈,大罵而死。無子。

石勒は易水に布陣した。王浚の督護である孫緯は、石勒の詐術を疑ったため、王浚に伝え、軍を撤退させて石勒から離れるように提案した。王浚は許さず、石勒を間近に布陣させた。
衆議は「胡貪(石勒)は信のない奴です。必ず詐がありますから、防戦なさるように」と伝えた。王浚は怒り、弱気な発言をしたものを斬ろうとしたが、諌める人たちは引き下がらなかった。盛張は用心して、石勒を待った。石勒が城に到ると、石勒の兵たちは、たちまち王浚軍を大掠した。王浚の側近は再び「石勒をお討ちなさい」と願ったが、王浚は許さなかった。
石勒が攻め登ってくることを王浚は聴き、王浚は堂皇に走り出た。石勒軍は、王浚を捕らえて引見した。石勒は、王浚とその妻を並べて座らせ、王浚の前に立った。王浚は石勒を罵って言った。「胡族の奴隷が、キサマを公に祭り上げる。ここまで凶逆なことがあるものか!」と。石勒は王浚の晋に対する不忠を数え上げ、王浚が百姓を餒乏させたことを責めた。粟50万斛を積み上げ、王浚には与えなかった。
石勒は500騎を先に遣わし、王浚を襄国に送った。王浚の麾下である精兵10000人を収容して、皆殺しにした。王浚は、2日停留してから還された。孫緯は護送を遮って攻撃したが、石勒は僅かに戦い、攻撃をかわした。石勒は襄国に到ると、王浚を惨殺した。王浚は最期まで石勒に屈さず、石勒を大いに罵って死んだ。子は居なかった。


太元二年,詔興滅繼絕,封沈從孫道素為博陵公。卒,子崇之嗣。義熙十一年,改封東莞郡公。宋受禪,國除。

太元二年、絶えている王浚の家を復興せよ詔があった。王沈の從孫である、王道素を博陵公にした。彼がなくなると、王崇が継いだ。義熙十一年、東莞郡公に改封された。宋が(東晋から)受禅すると、国は除かれた。
■翻訳後の感想
父の王沈の見せ場は、征蜀のときに呉を押さえたこと。でもそれ以外に、地味だけど政治のあるべき姿を研究している。おそらく、呉蜀にいたら宰相級の人物になったんだろうが、魏ゆえに掃いて捨てられる1人になったのだろう。諸葛亮だって、もし魏にいたら、王沈ほども活躍できたのかどうか怪しいと思う。

王浚は、胡族はあくまで奴隷で、戦闘を有利に進める従順なツールだと思っていたんだろう。八王ノ乱で洛陽がひどいのを見て、幽州という地の利を活かして、うまく中央との距離を保ちながら、割拠しようとした。父は埋もれてしまったが、自分はキャラを立てますよ、と。烏桓と結んで河北の巨人となった、袁紹と同じ戦略じゃないか。すなわち、光武帝・劉秀の踏襲だ。河北を鎮め、南下して洛陽を取る。 こんなフレームワークの利用者だから、前時代的で袁術・曹丕が利用した「當塗高」を持ち出した。王浚は、『三国志』を、もう1回やろうとした。
収集がつかない司馬氏の泥仕合を完結させたのは、王浚が率いる鮮卑ら異民族の部隊だった。反則級に強いが、五胡十六国時代への布石を、深く打ち込んでしまった。
石勒に敗れたとき、彼の思想を収斂させたような罵詈が飛び出したのです。たかが奴隷の自立は、真に想定外だったのだろう。 080729
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