■三国志キャラ伝>再び貂蝉ありせば。王淩伝(1)
■シリーズ、淮南の三叛 魏の王朝で勢力伸張する司馬氏に対して、当然それに対抗する人たちがいました。 淮南を根拠地にして、3回の挙兵がありました。奇しくも、曹操の飼い葉おけに首を突っ込んでいた3匹の馬(司馬懿・司馬師・司馬昭)に、1人1回ずつ征圧のミッションが与えられてます。そこまで美しい反復性を持っているので、いつからかこれを「淮南の三叛」と呼ぶようで。   陳寿『三国志』魏書の第二十八には、5人の人物の列伝がセットで載っています。王淩、毌丘倹・諸葛誕・鄧艾・鍾会。彼らはいわゆる謀反人として、ひとまとめにされたんだね。 魏の朝廷に背いた人物という扱いなんだ。 でも実際は、司馬氏に敵対した人たちで。陳寿の曲がったよな曲がってないような筆を見せられてる気分。陳寿が(スプーンのように)筆の重心を人差し指と親指で挟み持って、上下にふわふわ動かしてるよ! 第二十八の前半の3人が淮南の三叛の当事者です。シリーズのスタートとして、最初に司馬氏に牙を剥いた王淩について見てみます。 ※漢字が正しく表示されていない環境の方もいらっしゃるかも。王リョウの話です。陵のコザトヘンをサンズイに変えた漢字が名です。
  ■少年時代の傷 王淩は太原郡祁県の人。并州ですね。 王淩の叔父は王允。呂布と一緒に董卓を倒して、并州政権を一瞬だけ経営した人です。王允の兄の子が王淩です。   年齢は分からないんだけど、『魏略』で251年に死を覚悟したとき「行年八十年、身名ともに滅びるか」と嘆息しているから、単純に引き算をしたら171年生まれなのか?おそらくは、八十年というのは「長く生きてきて」くらいの意味だろうね。レトリックを真に受けると恥をかくね。 ヒントになるのが、王允が李傕に攻められて殺されたとき、年少の兄とともに塀を乗り越えて脱出したという記述。大惨事だよね。李傕としては三族皆殺しが大方針だろうから、まさに命からがらで。これは一生のトラウマになってもおかしくない。 乱世怖い!乱世嫌い!乱世憎い!という信念を持ちそう。 王允が攻め殺されたのが192年。このとき兄とともに「年少」だったんだね。もし171年生まれとすると、王淩が21歳になってるから、もう大人じゃん。おそらく李傕に対抗して戦って、犬死する筋書きになってしまう。そのとき10歳だと仮定して、182年生まれ。それくらいだと思う。すなわち、死んだときは70歳前。妥当な線じゃないか。   それにしても、三国志ってやっぱりすごいね。 王允が李傕と争ったときに、泣きながら傷だらけ+泥だらけになって塀を乗り越えた少年が、諸葛亮が死んで17年の後に、司馬懿と戦うんだよ。こんなこと言ったら全てに当てはまるんだが「まるで想像できなかったよ」。 もし并州政権が滅びる様子を克明に描いたとしても、そのときに脱走した少年と淮南の三叛の嚆矢が同一人物だと解説したところで、誰がつながりを理解するんだ。その間にいろいろあり過ぎて!   ■曹操への仕官 并州に逃げ帰った若い王淩。 李傕と郭氾が潰し合いを始めるし、彼らに長安から外征する動員力なんてないから、とりあえず一命は取り止めたようです。孝廉に推挙され、県長、中山太守。 曹操との出会いのとき、王淩は頭頂を晒して、ゴミを拾っていた笑 『魏略』曰く、王淩がコン刑5年で道路掃除の労役をしてたとき、曹操が通りかかって「こいつは王允の兄の子だ。今回の罪もとばっちりだ。コン刑を許す」と言ったようで。このとき[馬堯]騎主簿に選抜され、曹操に仕えたようです。 これが曹操が丞相をしていた208年~213年の出来事。王淩が30歳くらい。能力を持てる者が、めきめきと頭角を現す時期だね。曹操は王淩の評判を聞いて、わざわざ出かけて行ったのかも。曹操はプライドが高そうに気取るだろうから、偶然を装って騎馬で通り過ぎたんだね、きっと。
  次回、王淩が曹操の癇に触れて殺されます。 それでは話が終わってしまうので、そんなワケないですが。
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