■正統派の出世
後に王淩は司馬懿に対して挙兵して、その先例に2人も追従者が出たんだから、王淩が小粒ではツジツマが合わないわけです。魏朝にとって重要度が高い人物であって初めて、陳寿の作った「叛臣伝」とも言うべき魏書の第二十八のスタートを飾れるのだからね。
取るに足らない賊扱いでは、こうはならないよ!
経歴を見てみると、典型的な才能出世タイプです。
曹操が赤壁に負けてから、いわゆる「唯才令」を発信して、才能のある人物ならば嫂(あによめ)と不貞を働いていてもOK!って言い出した。まさに王淩はこの時期に曹操に拾われているわけで、才能が評価されて順当に出世して行った。
仲良しなのは、司馬朗と賈逵でした。司馬朗は兗州刺史で、賈逵は豫州刺史をやったことがあるんだけど、王淩はその後にそれぞれ役職を襲っていて、両方の国で治世を讃えられたのだと。
きっと頭脳も人柄も光っていたんだね。
ちなみに司馬朗は司馬懿の兄。若い頃から「朗さんは、弟の懿くんには及ばないよね」なんて親友の崔琰に言われたものだから、へそを曲げて建安七子と一緒に疫病で死んでしまった人物です。ちょっと歪めて書きすぎか笑
■淮南の実力者
軍事の来歴も輝かしい。孫呉侵攻を何回も退けた。
222年、張遼に従軍して呂範を退ける。
228年、石亭で罠に落ちた曹休を救出した。
240年、征東将軍・仮節都督揚州諸軍事に就任。
241年、全琮が大挙して押し寄せたが、堤防を堅守して撃退。
これにより、南郷侯、車騎将軍、儀同三司(三公待遇)となりました。
魏と呉の国境附近に、王淩の善政と軍事的な指揮の巧みさが知れ渡って行ったんだね。すなわち、淮南に確固たる王淩の地盤が形成されていったということで。
ありていに言えば、もし何かコトを起こそうと思うならば、それを可能にする条件が整っていった。
■司馬懿と王淩の比較
ちなみに司馬懿の動きと比べるために、王淩が戦っているときの三国全体の様子を確認しておきます。
「王淩伝」があんまり年代を書いてくれないものだからさ、明確に時期を特定できる戦で区切って検討するのが、ぼくに出来る精一杯のことで。なんだか苦肉の策だけど、仕方ないよ。
まず222年は曹丕の時代で、劉備が夷陵で敗れた年です。
呉の陸遜が劉備を破って勢いづいたので、曹丕は呉に出兵した。でも成功せずに撤退ということに。どよーん。王淩は、曹丕のミスに漬け込んで攻めてきた呉を撃退したんだろう。
司馬懿は曹丕の四友としてベッタリしてた。曹植に連なる人を、ネチネチ殺すような指示を出していた。
王淩は呉と接する領地で持ち場を守り、司馬懿は宮廷で謀略を練ってた。王淩が張遼と手を組んで頑張ったのは、そんな勢力図のとき。
225年に曹丕が呉を再び攻めたときは「仲達、お留守番お願いね。天下はぼくとキミの2人で分担して治められたらいいね」と言ってる。226年に曹丕が死ぬときは、枕頭で「オレの息子を頼んだ。守り立ててくれ」と言われている。司馬懿と曹丕の個人的な紐帯には、王淩は及ばず。
■対蜀・対呉の雄
次の228年は曹叡の時代で、諸葛亮の第一次&第二次北伐があった年です。春、司馬懿は南陽の宛に駐屯して、孟達を素早く切ったんだね。街亭の責任で馬謖が斬られたのは、このときだ。
5月、蜀の北伐に乗じて、呉が攻めてきた。曹操の可愛がっていた曹休が、周魴の偽りの投降を信じきって残念なことに。王淩がせっかく助けたのに、背中に腫瘍ができて死んでしまった。まあ王淩としては、戦果は評価されたわけだし、悪くないよね。
同じ年の12月、諸葛亮の第二次北伐があった。陳倉城を包囲して落城させることにミスった、見掛け倒しのなんちゃって北伐だ。
諸葛亮がプランニングした、呉と蜀による二面作戦。魏が呉と蜀を同時に相手にするためには、複数の優秀な司令官が必要だった。王淩と司馬懿は、呉と蜀を分担していたんだね。
『演義』だと、司馬懿が1人で呉と蜀の相手をしていて、司馬懿が向こうに行くと「おー!」と歓声が上がり、司馬懿がこっちに来ると「ええー!」とブーイングを飛ばすのが、諸葛亮ファンの心情なんだが笑、魏がそんな人なしなワケない。
もし司馬懿が呉担当で、王淩が蜀担当なら、知名度が逆転していたかも!そんなチャチなことを言わず、三国鼎立が崩れていたかも!と騒いでみるのも、この暑い季節を乗り切る秘訣かも知れない。
■呉の甘い見積もりの撃破
239年の元旦に曹叡がくたばって、曹丕と同じように「司馬懿、お願いね」と言った。司馬懿は曹爽に父のように慕われて、幼帝の曹芳を守り立てていた。
240年4月、全琮・諸葛恪・朱然・諸葛瑾が魏を攻めた。呉は、魏とのあらゆる接点から、一気に攻めあがらんとする多方面作戦で。全琮はシャクハ、諸葛恪は六安、朱然は樊城、諸葛恪はソ中を攻めたんだから、すごいパワーのかけ方で。ありがちな「皇帝の死で、魏はピンチなのでは」という希望的観測なのだろう。
司馬懿が樊城に進出してきたため、呉は撤退した。このとき王淩は全琮を叩きのめした。ナイスな連携プレーです。広い魏だからこそ、優秀な人物がたくさん要るんだね。司馬懿に比べるとすごくマイナーな王淩ですが、彼が居なければ司馬懿がいかに荊州を堅持したところで、魏は傾く運命だったんだろう。
王淩は確かな地位と影響力を、淮南に持つに到ります。
■司馬懿の逆襲
王淩が淮南で力を蓄えているとき、司馬懿は?
247年、司馬懿は宮廷政治がダルくなって「病気」として引きこもった。曹爽が内容のない権力を振り回しまくって、とても楽しそうな状態で。
249年正月、司馬懿が曹爽の油断を突いて、御曹司を死刑!
このとき、王淩は司空から大尉になり、節鉞を与えられた。三公の間を右から左にズラした意味はよく分からないのだが、王淩はこれで独立して軍隊を動かす権利を得ました。
ただ注意が必要です。王淩を出世させているのは、司馬懿なのです。「魏の朝廷から与えられた!わーい!」という気持ちになって、ビール飲んで寝てしまいそうなんだけど、そこまで手放しに喜んでいいのかは、要検討です。
■司馬懿と王淩の権力の質
それにしても、司馬懿の権力ってすごくミズモノです。
諸葛亮の撃破とか、公孫淵の征伐とか、方面軍を任せたら天下一。でも曹丕とのご縁でクセになったのか、故郷が洛陽に近い河内郡温県だからなのか、よく宮殿の中にいる。都会派だわ。宮殿の中って、古くは袁紹が宦官を皆殺しにしたみたいに、新しくは司馬懿自身が曹爽を一掃したみたいに、ちょっとした衝動で権力者がガラッと入れ替わってしまう。
地盤を持たない(もしくは作らなかった)司馬懿さん。いくら曹爽を片付けても、司馬懿が晋王朝のいしずえを作れるかどうかは、まだまだ分からないんだ。
反面で王淩は、若くして兗州や豫州などの東よりの領国で治世官として評価を集め、淮南に留まって着々と地盤を作っている。これは強いよ!
圧倒的強者の司馬懿と、イタチの最後っ屁をかました王淩。「淮南の三叛」すなわち「叛乱」と称すからそんな構図が頭に出来てしまうけれども、それは違うね。魏王朝を補佐する権利を巡っての、真剣勝負をまだまだ挑める状況なんだ。司馬懿、首を洗って待っていろ。
次回、ついに王淩が淮南で挙兵。勝てるかも?
王淩の挙兵の動機を、ちゃんと追ってみようと思います。