黄中通理を知っているか?劉廙、孫劉喬伝(1)
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今回は『魏書』と『晋書』のコラボです。
劉廙は『魏書』第21に列伝があり、曹操に仕えた人物。劉喬はその従孫(弟の孫)で、『晋書』第61に列伝がある。魏晋は連続しているから、こういう組み合わせを、積極的にこのHPで扱っていきたいです。
彼らのメインテーマは、「臣下としてのあるべき道を知っているか」です。
■傍流の劉氏
『晋書』には、其先漢宗室と書かれているから、姓が示すとおり皇族です。でも『魏書』には、どの皇帝の末裔か書かれていないから、そんなにハッキリとはしてなかったのかも。しかし皇族としてのプライドを強く持っていたという設定にしたい。
劉廙、あざなは恭嗣です。南陽郡安衆県の人。
父の名前が書かれていない。貧しかったのか。貧しいけれど、血統への自負はある。劉廙のあざなは「帝王の血を、うやうやしく嗣ぐ」という本人の意思だということにしましょう笑
劉備という化け物が出てきたように、400年も皇帝だった劉氏という姓には、魔性がある気がする。
■黄中通理を知っているか?
劉廙の列伝は、異色のエピソードから始まる。10歳のとき、経書を学ぶ講堂で遊んでいると、司馬徽に頭を撫でられた。ちくま訳では「ぼうや、ぼうや、『黄が中にあって道理に通ずる。』ちゃんと知っているかね。」と言われたらしい。 ちくま注によれば、これは『易』の坤(全てが陰の爻)に付けられているテキスト。黄は五行の中心の色で、真ん中にあって四方の色(青・赤・白・黒)と条理をもって通じ合っている。臣下の職務をかしこみ、万物の道理に通暁することをいう。らしく。
坤は、包容力を持って、しっかりと受け止めるシンボル。臣下として、それなりに弁え、柔軟に態度を調節できないと、痛い目を見ますよ、という指導か。きっと司馬徽は、向こう気が強かった劉廙少年を危ぶみ、「ほどほどにね」とアドバイスをくれたのだろう。
ネタバレしてしまえば、劉廙の一族はどうも臣下としての振る舞いがイビツで、劉喬も不器用な死に方をした。 しかし、妙に一族が存続する幸運に恵まれ、劉喬の孫・劉耽、さらにその子・劉柳まで栄えた。劉廙から5代の子孫である劉柳は、東晋で3州(徐州・兗州・江州)の刺史を務めた。 裴注『晋陽秋』でも「今もなお、劉廙の一族は盛んだ」と、今日的な解説が加えられている。
この不思議な隆盛は、劉廙が司馬徽に頭をポンポンと撫でられたところから始まったのかも笑
後付けでそれっぽい逸話が創作されることは多いが、陳寿は早くも司馬炎のときに死んでいる。陳寿は、劉廙の子孫の繁栄は知らず、司馬徽の話を記した。これは本物ですよ。
■劉表との悶着
劉廙の兄は、劉望之といった。 望之はあざなだろうね。だが「之を望む」なんて、また物欲しそうなネーミングです。そして劉廙の「恭嗣」とまるで接点がない。親が系統だてて名づけたというより、本人たちが自由に決めたんだろう。親を早くに亡くした没落劉氏である、という設定が現実味を帯びてきた笑
劉望之は名声があり、劉表が従事とした。 あるとき劉表は、望之の友人2人を、讒言と非難を真に受けて殺してしまった。事情はまるで書いてないが、臣下の権力をバランスすることが、劉表の主な関心だ。「正しいか」よりも、「穏当か」という判断基準の方が優先したんだろう。それを、望之は許せなかった。 劉表に食って掛かり、殺されてしまった。
劉廙は兄に、「意見を聞かない主のもとは離れ、大人しくするのが得策です」と提案している。 孔子の故事を引用したんだが、だらだらと論理が複雑で、まどろっこしい。劉廙は、『魏書』の学者や文化人が集る巻に入っているんだが、博識ぶりが日常会話に入り込むのだろうか。周囲にしてみれば、理解しにくくて、付き合いづらい。
兄は劉廙の意図を理解できずに、血気に逸って、劉表のところに走ったんじゃないか笑
■奇怪な申し開き
兄が屍骸で帰ってくると、劉廙も怖くなり、揚州に逃げた。
『劉廙別伝』という、彼の子孫が書いたであろう、劉廙万歳なテキストがある。そこには、彼が道中に書いた、劉表への申し開きの文章が載っているらしい。 「兄は心配りが周到でないので、前人(一族)の意志を果たさずに死にました。天が兄に与えた災厄でしょう。後悔して怨み、悲しみ叫んでも手遅れです」と。 実際は天じゃなくて、劉表が兄を殺したんだけど。文面どおりの意味ではなく、「兄は愚かでした。私は兄を殺されたことに納得しています」という先制攻撃か。 「まさか、怨んでいまいな」と劉表に問われたら、イイエとは言えないのが劉廙の性格。だから、こっちから先に「怨んでませんよ」と言い捨て、その話題には触れられないようにした。
申し開きは、まだ続く。
「私はバカですから、言語や行動が、劉表さまの機嫌を損ねることが、多いです。次第に失点が積み重なり、言い訳が効かなくなる(私も兄のように殺される)ことを懸念します。もし兄を殺しても、劉表さまのイラつきが収まらないなら、次は私ですね。 (たかが劉表さんの虫の居所で)一門が絶滅してしまえば、明哲保身の士に笑われるでしょう。それは余りにイヤ過ぎるので、はっと気づいたら、1日で廬江郡の尋陽まで逃げておりました。バイバイ」
なんじゃこりゃ笑
原文では、劉表への感謝の気持ちを、まるで筋が通っていない文脈で、故事に混ぜて挿入しまくっているが、それらを取り除くと、上記のような文章になる。 愛想を尽かした劉表に、斜め読みだけすれば謝意をひしひしと感じられなくもない、よく分からん手紙を書いた。司馬徽に習ったことを活かしているつもりだろうが、「臣下の仕事は所詮、主君のご機嫌取りでしょ」と書いてる。そんな露骨に言ったら、ダメなんだが笑
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黄中通理を知っているか?劉廙、孫劉喬伝(2)
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■曹丕への下手な返答
賢い頭では、主君の靴を舐めることが、処世の第一歩だと分かっている劉廙。しかし、なかなか上手く出来ず、ネタ晴らしを(あろうことか)主君に対してやってしまう。
劉廙は、曹操に仕えた。丞相エン属とされ、曹丕の文学に転任した。
曹丕に「あんたは、草書が巧いそうじゃないか。草書で、オレに手紙をくれ」と命じられた。これで心の鍵が外れてしまったんだろうね、劉廙は返事を書いた。
「はじめは、卑の隔たりを弁えるのが、礼の不変ルールだと思っていました。ですから、セコい礼節に固執して、思い切って曹丕さまに草書で便りを差し上げませんでした。どうしても草書を用いよと厳命されるなら、仕方ありませんね」と。 これで大人しく手紙を書き終えればいいんだが、まだ続いてしまうのが、劉廙たる所以。
「曹丕さまは功労があるが、謙虚な心構えをお持ちだ。位は高いのに、私のような卑賤の者にご好意を示されるのは、立派なことです。楽毅が、まず郭隗より始めたことに通じますよ。私は愚かですが、草書を書くことをどうして辞退しましょうか」
クドい!ウザい!面倒くさい!
曹丕を褒めているつもりだろうが、いつの間にか上から目線になり、自分の書道の腕を誇る。「今までは遠慮してきたけど、正直そんな心遣いをするの、かったるかったんだ」なんて、暴露しちゃダメだろう笑
魏が建国されると、黄門侍郎になった。
■蜀攻めに反対
曹丕に文化談義で花を咲かせるなら、可愛いもの。
ついに、曹操の戦略にまで口を出した。蜀に親征しようとする曹操に反対し、長安でちくま2ページに渡る上奏文をたてまつった。
「聖人や王者は、人の意見をよく聞きます。もの言わぬ韋(なめしがわ)や弦(ゆずる)を見てすら、自分の性格を反省する材料にします。この劉廙は大した人間ではありませんから、韋や弦になったつもりで、曹操さまに教え諭したいことがございます」ウザ!
「曹操さまは最強なのに、孫権と劉備は従いません。孫権も劉備も、袁紹より小物なのに、割拠しやがっております。なぜか。官渡のときより、曹操さまの軍が弱体化したのではありません」よくこんな怖いことを言うよ笑
「勝つ国にはビジョンがあり、自壊する国にはビジョンがありません。強くてもビジョンがなければ、秦みたく陳勝の一声で滅びます。当代は、土崩の兆しが見えます。これを直視しなければなりません」
意味がやはり良く分からないんだが、「赤壁以前の曹操は、ビジョンがあった。でも今は、ない。逆に、孫権や劉備が、方針を自ら描くことに成功し、地方を治めている。力攻めをしても、勝てませんぞ」と言いたいのだろう。晩年で停滞気味の曹操に、よく直言するねえ笑
「勝てるときに、勝とうと頑張る。いいこと尽くめ。勝てないときに、無駄な努力をする。これではデメリットばかり。蜀攻めは、辞めた方が良いですね。今は内政に注力し、国家のビジョンを練り直したらいかがですか。10年もどっしり構えていれば、形勢も変わりましょう」
曹操の反応が、おぞましい。
じきじきに前に進み出て、劉廙に返答した。「主君は、臣下の意見を広く聞かねばならん。大いに正論だ。だが、臣下も主君のことを理解せねばならん。劉廙はオレを、周の文王(西伯)にしたいらしいが、オレはそんなことを望んではいない」
もし曹操ほどの度量がなければ、劉廙は殺されているところです笑
帝位に登らずに、曹丕に禅譲のミッションを渡したので、曹操は周の文王と比べられる。でも、今から蜀を攻めようというときは、まだ一代で王朝を開くつもりだったのかな。けっこうな発見です。陳寿が本文に採用しているから、信じても良さそうだ。
■魏諷の叛乱
劉廙が臣下としてギコチなく仕えているとき、弟の劉偉が足を引っ張るようなことをした。魏諷と交際していたのだ。
『劉廙別伝』には、劉偉に警告したセリフが載ってる。
「弟よ。交際とは、賢者といっしょに道義を育むことが目的だったはずだ。やみくもに大人数で群れても、いかんぞ。魏諷は徳行を修めずに、人集めばかりしている。花があって、実がない。乱世をかき回し、名を売るだけの男だ。彼とは付き合うな」
劉廙は連座してしかるべきだったが、曹操に許された。丞相倉曹属に転任した。
三族皆殺しでもおかしくないが、助けてもらった劉廙は、よせばいいのにお礼を述べた。
「私の今の気持ちは、熱湯を火から下ろして沸騰をとめ、焼けただれずに済んだときに似ています。冷たくなった灰の上に煙が上がり、枯れ木に花が咲くことになりました。子は父母に与えられた生命に感謝の言葉を述べませんが、死力で孝行するものです。私が魏に仕えるのは、それと同じです」と。感性が、なんかズレてるんだ笑
■政治への提言
著述は数十編におよぶ。丁儀と、刑罰や儀礼を論じた書物もある。
『劉廙別伝』から、以下抜粋。
「地方の政道について提案があります。いま首長たちはコロコロ転任し、手腕が発揮できません。もう少し任期を延長しましょう。1年ごとに能力を査定し、3年ごとにフィードバックして、降格・免職・昇進を決めましょう。査定は事実に基づくべきで、評判で決めてはダメです。戸数人口に対しての耕田の多少、盗賊の発生件数、人民の逃亡や叛逆の比率など、データ主義で評価するのです」
曹操は感心した、らしい。 まるで、現代の会社の人事制度みたいじゃないか!じゃあ採用されたかと言えば、NOだ。陳羣の九品中正で、貴族化していく。
魏という大きな組織に柔軟性を持たせるために、不器用な生き方をする男を、飼い馴らしておいた。そんなところか。実害がないし、けっこう娯楽として刺激的だから、魏諷のときも連座させなかった。
■劉廙の死
曹丕が即位すると、侍中・関内侯。221年、42歳で死去。
子がなかったので、弟の子・劉阜(あざなは伯陵)が継いだ。劉偉の子なのか?分かりません。陳留太守になった。
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