三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
黄中通理を知っているか?劉廙、孫劉喬伝(3)
劉表に正論で噛み付いて、殺された劉望之。
曹操にマジギレをされた、劉廙。
魏諷に味方して、国に楯突いた劉偉。

どうも臣下として立ち回りが下手で、司馬徽が確認した「黄中通理を知っているか?」を、いまいち実践で活かせていない兄弟でした。
■劉喬の登場
『解體晉書』http://jinshu.fc2web.com/main.htmlさんを参考にします。
そもそも「劉喬伝」をこのHPで書いてみようと思ったのは、羅憲の甥である羅尚と、職務上のペアを組んでいたから。羅尚との関係性に注意しつつ、読んでいきましょう。

劉喬は、劉廙の弟の孫です。祖父は誰だか分からないけど、魏諷と交わった劉偉だと面白いので、そういうイメージで。劉廙が連座しなかったんだから、劉偉の子が許されていても、無理ではない。
父は劉阜。『晋書』では陳留の相。『三国志』と微妙に食い違うんだが、国と郡は柔軟にコンバートするので、こだわるところではない。

劉喬は、249年生。あざなは仲彦。
故郷の安衆侯を3代にわたって継いだと『晋書』は言う。「劉廙伝」には、そんな記述がなかったのだが、細かいことは気にしない。

■王戎の下
若くして秘書郎となり、建威将軍の王戎の参軍となった。劉喬が羅尚とセットになるのはこのとき。どうやら、王戎について詳しく調べないと、彼らの青年将校時代は解き明かされない仕組みだ。引っ張るなあ。
伐呉之役のとき、王戎は劉喬と羅尚を両翼として長江を渡り、武昌を破った。武昌は、孫皓がヒステリックに遷都したことがある地。ここを抜いたときは、感慨も大きかっただろうなあ。栄陽令になった。
太子洗馬に遷った。

291年、外戚の楊駿を討つのを手伝い、関中侯・尚書右丞。
300年、
賈謐の誅殺も手伝い、安衆男に封じられた。昇進を重ねて散騎常侍になった。
ここまでは、その他大勢の将軍の1人だ。臣下としての立ち回りの巧さは、問われていない。そろそろ50歳なんだから、表舞台に出てきても良さそうなのに。劉廙はあれだけエピソードを詰め込んで、42歳で死んだ。劉喬は、50歳を越えても、将軍Aをやってる。あまり似ていない。

■嵇紹を軽んじよ
司馬冏が大司馬になった。このあたりから、「黄中通理」を問われ始めます。
劉喬は司馬冏に言った。「斉王(あんた)は、嵇紹をとても大切にしていますが、そこまでやる意味があるんですか。いちいち階段を下りて、嵇紹を迎えているようですが、お辞めなさい。裴頠や張華を誅殺したときは、朝廷の人々は孫秀を畏れて、裴頠や張華から財物を受け取っていました。でも、嵇紹は今もなぜ、裴氏の車牛や張華の奴婢を蓄えているのでしょうか」
ちょっと意味が分からないですね。嵇紹を批判しているようですが、権力闘争の顛末を調べないと、劉喬の意図が分からん。
劉喬は「楽広(あざな彦輔、列伝13)が来たときも、斉王は牀を降りなかったのに、どうして嵇紹だけが特別なんですか」と畳み掛け、司馬冏はそれに従った。

後日、嵇紹が劉喬に聞いてきた。「さいきん斉王からの扱いが悪いんだけど、何か知らないかしら」と。
劉喬は答えた。「誰か正しい意見の持ち主が、斉王に諭したんでしょう。嵇紹はそこまでの人物ではない、と」。
嵇紹「誰が斉王にそんなことを言ったんだろう」
劉喬「其則不遠」 (訳:テメエの目の前にいるヤツだぜ!

■まだまだ司馬冏を諌めるよ
劉喬は、御史中丞になった。
司馬冏の腹心、董艾の制御が利かなくなってきた。しかし人々は牽制を恐れ、黙っていた。よくある構図です。ここを切り崩して行くのが、劉廙の従孫たる所以。たった20日の間に、6回も諌めた。
立場のヤバさを感じた董艾は、尚書右丞の苟晞と謀って、劉喬を失脚させようとした。劉喬は(かつて就いていた)屯騎校尉に引っ込んだ。

あんまり露骨に権力者を責めるもんだから、失敗するんだ。嵇紹のときに味を占めて、正面から無防備な攻勢をかけたんだろうね。
中央に居づらくなった劉喬は、地方に転出する機会を伺ったんだろう。ちょうど良く、王戎時代のライバルである羅尚が、火種を作ってくれた。
黄中通理を知っているか?劉廙、孫劉喬伝(4)
■張昌の乱
李特が益州で乱を起こすと、刺史の羅尚は募兵した。
「乱の平定軍に徴収されてたまるか」と思った人たちが、張昌を祭り上げて荊州で叛乱した。これが303年。
劉喬は、これ幸いと威遠将軍・予州刺史となり、荊州刺史の劉弘と協力して平定した。左将軍に昇進した。

■恵帝の長安幽閉
当事者たちの狙いからすれば、幽閉じゃないのかな笑
司馬顒(と配下の張方)と司馬頴は、司馬衷(恵帝)を長安に連れて行った。劉喬は「許すまじ」と立ち上がり、諸州の兵を挙兵させて奪還しようとした。

司馬越は、劉喬をジャマに思った。劉喬を安北将軍・冀州刺史に任じて(北方への実質的な左遷か)、豫州刺史には司馬虓(司馬越の従弟)を据えようとした。
劉喬は兵で拒み、「オレは豫州に残る。司馬越の命令は、皇帝の意志ではない」と頑張った。

いきなり八王ノ乱の話になってしまったから、ゴチャゴチャになってしまった。長安にいる司馬顒と司馬頴は仲間で、司馬越は彼らの専横を怒っている。最後には、司馬越が勝ち、司馬顒と司馬頴は負ける。
このとき劉喬は、司馬顒・頴の味方ではない(長安連行に反対している)し、司馬越の味方でもない(司馬虓を拒んでいる)のか。

■長安の味方になる
潁川太守の劉輿という人がいる。頴川郡は豫州の要所で、許昌のあるところ。係争地のド真ん中の地方官です。
劉輿と司馬虓が親しいから、劉喬は劉輿の悪口を、尚書を使って並べ立てた。長安の司馬顒はそれを受け取ると、劉喬を味方につけた。敵の敵は味方なんだね。司馬頴は「勅」を発した。
許昌に入った司馬虓を討て。協力者は、鎮南将軍の劉弘(かつて一緒に張昌の乱を討った人。荊州で日和見してる)、征東大将軍の劉準、平南将軍で彭城王・司馬釈だ」と。

司馬虓は劉喬に敗れ、許昌を出た。劉琨(劉輿の弟)が、司馬虓を助けに来たが、間に合わなかった。
河北に逃亡した司馬虓と劉琨だが、ほどなく騎兵5000を率いて黄河を渡って戻り、劉喬に反撃した。劉喬は、考城で防戦した。劉蕃(劉琨の父)を囚人護送車に入れて人質としたが、司馬虓と劉琨に敗れた。衆不敵而潰という結末。「つぶれた」って、どんな負け方だろうか笑

自派閥が風前の灯火になったので、司馬顒は心配した。
景気づけに、劉喬を鎮東将軍・仮節に昇進させ、長子の劉祐を東郡太守にした。位を上げれば求心力を盛り返すかも知れないし、長安に背くことはないでしょう、という読みだね。

■派閥の整理
本当にわけが分からんので、敵と味方の整理を。

【長安】
河間王司馬顒の根城。司馬頴が味方し、恵帝(司馬衷)を幽閉している。三王結義で立ち上がった、かつての主流。
はじめは「皇帝を長安から取り戻せ」と息巻いており、敵対するかと思われた劉喬と子の劉祐を味方につけている。
豫州は、洛陽の南東にぴったり隣接している。洛陽を挟み撃ちするとき、劉喬は頼りになる。
いちおう劉喬の盟友として、荊州の劉弘が宛がわれているが、日和見くさい。劉準、司馬釈も味方のようだが、いまいち活躍していない。

【洛陽】
東海王司馬越がリーダー。八王ノ乱の幕引きを狙う。
豫州刺史に、従弟の司馬虓を送り込もうとしたが、劉喬の反対に合う。頴川太守の劉輿と弟の劉琨が賛同してくれたので、一度は許昌を追われるも、重来してきた。

次回、劉喬が最期を迎えます。
華のない死に様かと思いきや、劉弘がとりなしの手紙を書いてくれて、希望の光が見えます。この、いまいち正体が不明の劉弘は、実はあの劉馥の孫なのです!
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