三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
黄中通理を知っているか?劉廙、孫劉喬伝(5)
■劉弘からの手紙
今にも駆逐されそうな劉喬のところに、かつて張昌を一緒に平定した、劉弘からメールが届いた。
あのときは、司馬冏に直言したせいで校尉に落とされ、暗い日々だった。そんな毎日を変えてくれた盟友からのメッセージですよ。

「司馬越が、司馬虓を豫州刺史に押し込んできたのは、良くない。でも、昔の人が言うじゃありませんか。牛を牽いて他人の田を踏み荒らせば罪ですが、報復として牛を奪ってしまっては、もっと重い罪になります
なんか牧歌的なメールです。和むなあ。
「劉喬さん。あなたは、司馬越に怒り、叛乱の盟主になりました。正しいことのために怒るのは妥当ですが、今あなたが戦を起こすことを、私は誤りだと思います。ひとかどの人物なら、股くぐりでも何でもやる、懐の深さが必要です。それに加え、いつだって人事問題のゴタゴタは付き物じゃないですか。豫州刺史を取り合いしている場合じゃありません
いちいち、もっともだ笑

「いま、皇帝が長安に閉じ込められている。これは異常事態ですよ。皇帝を北辰於太極に戻すために、協力すべきときじゃないですか。あなたが派閥争いを辞める寛大さを持てば、そのうち司馬虓もゴメンと言ってくるでしょう。さあ、信義を取り結ぶときなのです」
そうしないと異民族が攻め下ってきます、とまでは、ここでは言ってないが笑

■黄中通理は遠く、、
少年の劉廙が、司馬徽に教えられた、臣下としてのある道。自分を取り囲む情勢と、うまく和合して通じ合い、人臣としての生き方を磨きなさい。劉喬はミスったね。

君主の都合を上回る「正義」が見えてしまうのは、劉廙も劉喬も同じ。
劉廙が仕えた曹操がビッグだから、そのKYぶりを暴かれず、学者文化人が集る列伝の中に、ちゃっかりと収まった。
でも劉喬が生きた時代は、八王が争っていて、帝国が私物化されてる。「おのれ司馬顒!皇帝を拉致るとは何事か!」とか、「おのれ司馬越!自拠点の洛陽を守るために、豫州に自派閥を送り込むか!」とか、筋の通らない権力者への怒りが、抑えにくい。

劉弘はメールの中で言ってる。
「司馬虓は皇族サマ(國屬)で、あなたはパンピー(庶姓)です。周の会盟のとき、血筋に関係なく、悪いことをした方が悪いと明らかにされました。でも、いざ判定に持ち込まれると、悪の大きさが同じならば、立場の弱いほうが悪にされるのです」
冷静になりなさい、と宥めているのは分かる。相手が君筋に当たるからって、それだけで正当化されるものじゃない。だが、それも飲み込んだ上で、怒りを抑えなさい、と。

おまけ的に思うが、劉姓である劉弘が、同じ劉姓の劉喬に「オレらは庶民だからさ」と言っているのは、切ないね。劉廙が、少なからず血筋に対する自負を持っていただけに、余計と。
劉を曹が奪い、それを奪った司馬は、ろくでもなかった。でも、それに「庶民」として従わなければならない、この理不尽。臣下としての賢さは、とうてい実践できそうにありません。
黄中通理を知っているか?劉廙、孫劉喬伝(6)
■劉弘から司馬越への手紙
いよいよ司馬越がトドメを刺そうとしていると聞き、劉弘はこちらにも手紙を書いた。荊州というのは、洛陽に隠然とした影響力を持ち、なおかつ安穏としていられる、不思議な領地のようです笑
そういえば劉廙の兄・劉望之は、劉表に殺されたんだっけ。

劉弘は手紙の中で、劉喬を「吾州將」と呼ぶ。荊州出身の武将という程度の意味なのか、私がかつて動員した将軍という意味なのか、よく分からん。でも、大所高所から論じている印象は受ける。

「DEAR東海王。劉喬は、司馬虓さんを追い出し、暴れました。彼を始末するのは、誠に異議を抱く者への牽制として、最適の処置です。しかし敢えて言いましょう。劉喬を討つべきではないと」
いきなり切り返した!
「いま皇帝は、長安に閉じ込められています。諸侯は、陛下を洛陽に戻すために、協力するときです。劉喬は、晋帝国から恩を受け、地方の軍事を預かっていました。いきなり転任も申し渡され、びっくりして反発し、やり過ぎてしまっただけなのです。君子たるもの、自分のあやまちには厳しく、他人のあやまちには優しく。劉喬を許してやって下さい。彼を討つ戦いよりも先に、陛下の奪還を。私は国から大任を受け、荊州にいます。仲間同士が争うことに心を痛めてきました」
何サマなんだ?と言いたくなるような、評論家口調です。

■劉弘から司馬顒への表
こんどは「表」だから、他人の目に触れる前提です。
長安に提出され、恵帝ではなく司馬顒が見るだろうという前提で書かれたのでしょう。

「いま司馬越は、劉喬を討とうとしています。劉喬は司馬虓を攻めましたが、彼に他意はありませんでした。国難の解決に貢献しようと、頑張っているだけで、罪や欠点はありません」
長安側は、劉喬を味方にしてるから、持ち上げておかないとね。

「豫州刺史を司馬虓に代えようとしたのは、司馬越の判断が間違っていたのです。劉喬が強硬な態度を取って、司馬虓を攻めたことは、過剰反応でした。ただ司馬越の愚かさを責めるため、衆人環視の中、司馬虓を処刑して、その不敬を指摘すればよかったのです」!!!
送り先に合わせて内容を変えるのは大切だけど、ここまで変幻自在に、論調を変えることが出来るものか。もうプロってるね。

「いま皇族が勝手なことばかりし、入れ替わり立ち代り権力を握っています。昨日の反逆が、今日の従順で、ワケ分かりません。国内の人々は足を引っ張り合い、位が上昇するスピードを競っています。国境の備えは薄く、いつ異民族に攻められないかと心配です。司馬越に猜疑心を解かせ、和解しましょう」
この一節は、あたかも司馬越をなじってるような体裁だが、実は司馬顒のことも批判しているのだろう。これで感じるところがあるかは、司馬顒の列伝を見てみないと、まだ何とも言えませんが。

■司馬越の勝利
司馬顒は、劉喬に「司馬越を攻撃せよ」と命じていたが、出来ることと出来ないことがある。
司馬越が全国から30000を集めてきて、恵帝を回収するために、蕭県に駐屯した。劉喬は、子の劉祐をぶつけて司馬越を防がせた。
その間に、劉琨(司馬越の味方)が許昌を突くと、許昌は軍勢を迎え入れてしまった。勝った劉琨は、栄陽で司馬越と合流。
劉祐の軍は皆殺しにされ、劉喬は500を率いて平氏に逃げた。

あれだけ熱心に、劉弘が手紙での調整を試みたのに、結局は兵馬を衝突させてしまったのね。劉弘の「外野」を決め込んだ政治姿勢に加え、彼がこの頃に死んでしまったことが原因か。

■意外と悪くない結末
恵帝が司馬越に助けられて洛陽に戻ると、大赦があった。劉喬は、太傅軍諮祭酒になった。司馬越が死ぬと、都督予州諸軍事・鎮東将軍・予州刺史になった。大好きな豫州で任官中に死んだ。63歳だった。
愍帝の末年になって、司空を追贈された。

なぜここまで不器用に立ち回っても、族殺されないんだろうか。宮廷を一掃した後の、司馬越の人気取り政策のせいかなあ。不思議な一族です。つくづく運がいい。080713
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