三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
(劉馥+劉表)/2=劉弘伝 (1)
劉弘は、あの劉馥の孫です。
血を引いているから少なからず意識していたんだろうけど、自分が任された地方拠点を死守し、城内に善政を布くことを目標にしたようです。それも、祖父より範囲が広くて、荊州刺史として全域に恩徳を巡らそうとしていたんだから、パワーアップしてるかも。
ただし、孫権の侵寇に晒され続ける元荒地であった合肥と、どっちが統治の難易度が高いか、意見が分かれるだろうが。

劉弘は、あの劉表の後任です。
荊州で独立し、中原の戦火からは距離を置いていた。劉表は優柔不断でダラダラしてしまったが、劉弘も似たところがある。そして、『晋書』「劉弘伝」で明確に、「劉表のお気持ちがよく分かる」と発言してるのを確認できる。荊州という、観客を決め込める立場を活かし、儒教的な理想郷を築こうとした。その念頭には、祖父の劉馥だけじゃなく、劉表というモデルもあった。そう思うのです。

そういうわけで、ぼくの「劉弘伝」のタイトルは、「劉馥と劉表を足して2で割ったような人物」という計算式にしました。
■司馬懿の目利き
劉弘、あざなは和季。236年~306年。
祖父は揚州刺史の劉馥。父は、鎮北将軍の劉靖。劉弘は幼いときから、幹略政事之才 があった。洛陽の永安里に家があり、ご近所の司馬炎と一緒に学んだ。
魏の功臣の子弟として、付き合いがあったのでしょう。

司馬懿がまだ健在だったから、もしかしたら劉弘は、司馬懿と会っているのかも。孫のお友達として「お前も才に優れているじゃないか」と目を付けられていた可能性はある。
司馬懿は、炎のついでに劉弘にも勉強を教えながら、腹の底で「もし司馬氏が天下を取ったら、それを支える人材候補だぜ」と思っていたかも知れない笑

■司馬炎の懐刀?
旧恩より、太子門大夫より起家した。司馬炎が太子をしてるから、司馬昭の時代だね。265年のちょい前くらいか。
就職は20代後半くらいかなあ。
率更令、太宰長史に昇進した。
司馬炎のとき、伐呉のときどうしてたとか、天下統一後にどうしてたとか、記述がない。宮廷の内側で、事務をコツコツとこなして、大国の枠組みづくりに精を出していたんだろう。司馬炎と友達なんだから、地味だが重要な仕事を任されたはず。

■張華の善政
学友の司馬炎は290年に死に、直後には楊駿が乱した。
でも張華が300年まで生きて、最後の10年くらいは、司馬亮と執政してる。290年代は、并州や涼州で叛乱が起きまくっていたが、洛陽は西晋にしては珍しく安定していた。

張華は、劉弘をたいへん重んじた。寧朔将軍・仮節・監幽州諸軍事・領烏丸校尉になり、盗賊は姿を潜めた。人物も功績も立派だということで、宣城公になった。

劉弘は張華の後ろ盾を得て、洛陽で変則人事が行われるリスクを背負わずに、外敵の討伐にじっくり時間をかけて注力できたんだろう。幽州は当時のメインの敵対勢力はいなかったようだが。
こうやって、内に敵を作らず、外に敵を作る体制が続けば、西晋は滅びなかっただろう。劉弘のように、儒教的な発想を持った人物が、軍事でそれなりの手柄を立てて、あとは周辺勢力の慰撫に努める。表面上だけでも平穏を作り出す。
後漢末期の小康状態に似た、現実的な中華帝国のかたちだ。

300年に賈皇后が殺され、狭義の八王ノ乱が勃発。内側が敵だらけになる。中原が漢人によって乱れたときこそ、荊州が局外中立をする必要条件だ。荊州刺史、劉弘が誕生する。
■荊州への赴任
太安年間(302~303)に張昌が叛乱した。
使持節・南蛮校尉・荊州刺史に転任した。このとき劉弘は、67歳か68歳。ずいぶんの重鎮を、北辺から引っ張ってきた印象だ。逆に言えば、任に堪えるデカい人物が、晋朝にいなかったとも言える。
前将軍の趙驤を率いて、方城、宛、新野と平定していった。
新野王・司馬歆が敗れると、劉弘に鎮南将軍・都督荊州諸軍事を兼ねさせた。
どうやら張昌は、直接的には司馬歆の政治に反発したようだ。司馬歆は失策し、自己責任で消火できなかったので、代わりにおじいちゃんが後始末を任されたという感じか。司馬歆の年齢は分からないが、司馬氏の諸王は若すぎるからねえ。

■人材登用による勝利
南蛮長史の陶侃を大都護に、参軍の蒯恒を義軍督護に、牙門将の皮初を都戦帥に任命し、襄陽に進軍した。
張昌は宛を包囲して、前将軍の趙驤を破ったので、劉弘は梁城まで退いた。だが、陶侃や皮初が攻め返し、数万級を刎ねて張昌をびびらせた。劉弘が到官(襄陽への着任?)すると、張昌は逃げて荊州は平定された。
陶侃は、『晋書』に列伝を持ち、東晋で荊州刺史(劉弘の後任)となる。259年生まれだから、40代ですね。孫秀の舎人になった前歴は微妙ですが笑、張華に評価を受けていたということで、劉弘は「お墨付き」の人材を、安心して合流させられたことになる。
(劉馥+劉表)/2=劉弘伝 (2)
■司馬虓がゴネる
八王ノ乱の最中です。外敵よりも、内敵との折衝の方が、面倒だけど重要だったりする。西晋そのものの基盤も危ういのに、本人達は意識の外なので困ったものです。
いちど劉弘が梁城に退いたとき、司馬越の従弟・司馬虓が騒ぎ出した。「劉弘は負けおったぞ。長水校尉の張奕と代わらせよ」
どうせ、荊州という金のなる木を、自派閥に取り込みたかったのでしょう。浅ましいよ。張奕が入城を拒んだので、劉弘は張奕を殺した。上表して、事情を説明した。

まだ張昌を殺せていないのに、張奕は私の節度を受けませんでした。益・梁州の人は、いまだ無頼漢どもに、大迷惑を被っています。内輪もめをしている場合ではありません」
「正式な手続きを踏んで、司馬虓どのと誰が荊州の長たるべきか議論するのが、本当だったでしょう。でも時機を逸するのを恐れ、独断で張奕を殺してしまいました。いくら張奕が貪乱で、荼毒を為さんと雖も、専殺(勝手に殺したこと)は私の罪です。ごめんなさい」

これに対する朝廷の返信は、劉弘を支持した。
「いまだ正義が行われているぞ」と喜べたらそれでいいんだが、違うかも。朝廷と言っても、司馬衷(恵帝)は木偶です。司馬越&司馬虓と対立する、司馬顒らが牛耳っていた。「政敵を潰してやろう」という理由で、劉弘が許されたかも。つくづく下らん。
「かの敗戦は、宛城を守れなかった趙驤の責任だ。古人有專之義だから、劉弘の判断は正しい。いっそう頑張ってくれ」と裁可。
劉弘は、下雋山に逃げた張昌をついに殺した。
■荊州人材の充実
荊州のポストは、スカスカだったので、劉弘は朝廷に「補充」の許可をもらって、人材登用した。人を選ぶ基準は、徳が優先された。身分の高さは二の次とされた。まるで後漢に戻ったような時代錯誤(というか理想主義)だと思います。
上表して曰く。
「私は、伍朝を零陵太守にしました。張昌を討つために、陶侃・蒯恒・皮初を抜擢しました。『司馬法』に、手柄を立てたら、すぐに恩賞を出せ。そうすれば、モチベーションは高く保てると書いてあります。ゆえに、皮初を襄陽太守に、陶侃を荊州府行司馬に、蒯恒を山都令にしました」
『司馬法』の原文は「賞不踰時」で、欲人知爲善之速福也。若不超報,無以勸徇功之士,慰熊羆之志。という具合になっています。ぼくが意訳したら、チャラくなったが笑

張奕を殺したときもそうだったが、劉弘おじいさんは、独断で何でも進めてしまうようです。きっと、「取るべき政治選択については、洛陽の連中よりも自分が詳しいぞ」という自負が、そうさせるのでしょう。臨戦態勢とは言え、襄陽から洛陽は近いじゃん笑
他にも掟破りをやって、事後報告で開き直ってる。
「漂郷令の虞潭は、道徳的な模範ですので、醴陵令にしました。南郡の仇勃は、母親孝行だったので、帰郷令にしました。尚書令史の郭貞は、張昌の脅しに耐えたので、信陵令にしました。後半の2人は四品ですが、臣子の鑑なので、九品中正を無視って、高い位を与えました

朝廷は、『三国志平話』で「荊王」と肩書きがついていた劉表のごとき劉弘の振る舞いを、認めざるを得なかった。おそらく「気に食わんが、敵になるよりはマシ」という、苦渋の判断だったのでしょう。曹操と袁紹が、焦れながらも劉表に手紙を送りまくったような状態か。
ほっとげば近いうちに死ぬだろうという読みがあったのかも。

■「婿が10人いれば、国は治まるというのか」
朝廷から劉弘に、お返事が着いた。
「劉弘の決めた人事でOKだ。ただし、襄陽は名郡だ。確かに功績を立てたには違いないが、皮初では軽すぎる。東平太守の夏侯陟を襄陽太守とせよ」と、一矢報いた笑
これに対して、劉弘はしぶしぶ容れたものの、周囲には大御所らしい苦言を撒き散らした。
というのも、夏侯陟は魏の帝室に連なる名族であると同時に、劉弘の娘婿だった。劉馥の孫として、魏の名臣の子弟同士、政略結婚をして交流を深めていたのでしょう。

「一国を治めるならば、相応の実力を持った者が必要だ(わしが任命した皮初は、適任だったのだ)。だが朝廷は、血筋の良い親族(夏侯陟)に太守を任せよと言いおる。じゃあ10人の婿がおれば、荊州は安定するとでも思っておるのか!
原文は、若必姻親然後可用,則荊州十郡,安得十女壻然後爲政哉!です。憎たらしいばかりの皮肉です。
さらに、「夏侯陟は、私の婿です。刺史(わし)と太守が親族であっては、充分に監察できません。加えて、皮初が張昌を討った功績には、やはり報いてやらねばならんでしょうな」とダメ押しの上表をした。
朝廷は、劉弘の粘りに負けた。
次回は、劉弘の「理想的な」儒教政治の中身について見てみようと思います。
張昌を討つというニーズはあったものの、劉弘に「独立国」を与えてしまったのは、朝廷にとってはお荷物になったね。
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