三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
(劉馥+劉表)/2=劉弘伝 (3)
■荊州の「善政」
劉表は農業と養蚕を推奨し、刑罰と賦役を緩和した。百姓は愛悦した。

ある夜、劉弘は目を覚まし、城の見張り番が苦しそうな嘆き声を出しているのを聞いた。彼は60歳を越えており、服はボロボロだった。劉弘は、老人に見張りを命じたものを罰し、衣服と帽子を与えて、ラクな仕事に移してやった。
「民に魚の禁猟を課すのは、おかしい。『礼記』にも反例があるじゃないか」「同質の酒なのに、神事用・役人用・民間用と分けるのはおかしい。全て混ぜて、民が飲めるようにせよ」と、いかにも恩沢あふれるお殿様のようなことをやった。

荊州には当時、十余万戸の流民がいた。劉弘は、彼らに農地と食糧を与えてやった。

■益州の悲鳴
益州刺史の羅尚から「李特に敗れてしまった。食糧を送ってほしい」と連絡が入った。
この羅尚は、あの羅憲の兄の子。『晋書』の列伝によれば、蓄財のみに熱心で、あんまり益州の平和に貢献していなかったようだが笑

荊州府の綱紀(主簿)は、救援に消極的だった。羅尚の評判が良くないことを、聞いていたんだろう。「どうせ自業自得です」という気持ちだったのかも。
「道が険しく、荊州の役人への俸給すら、支給が滞っています。零陵の米五千斛を送っておけば、充分でしょう」と、劉弘に提案した。

だが、理想家の劉弘が、そんな「私情まじり」で「現実的な」提案を認めるわけがない笑
諸君未之思耳(キミらは思いやりというものがないのか)。天下は1つの家のようなもの。益州を救うことは、荊州を救うことにもなるんだぞ」と諭し、零陵の米三万斛を送ってやった。羅尚は、辛うじて「自守」した。
■劉表への共感
総章・太楽・伶人(楽官の名)が、乱を避けて荊州に流れてきた。まるで、劉表のサロンに中原の文人が移ってきたときのようだ。
ある人が劉弘に、作曲できる人を推薦した。
劉弘は言った。
「むかし劉表は、杜夔に命じて、天子を迎えるための音楽を作らせた。いざ完成して、庭で演奏させようとすると、杜夔は言った。私は天子のために作曲した。劉表さまの庭先で演奏するのは、本意ではありません!と。劉表は杜夔の言い分を、認めたという」

この話は、『三国志』の「杜夔」にも載っている。劉表が、浮かれた気持ちを掣肘されて、反省したエピソードになってる。
だが、劉表本人としては「オレが皇帝」という気持ちだったんじゃなかろうか。以前にこのHPで、「劉表は袁紹に迎えられて、即位する日を待っていた」という仮説を立てたことがあったが、たまたま裏付けることができた。
劉表は杜夔が乗って来なかったので、劉協を心配する風を装って、その場を気まずくやり過ごしたんだろう。それが、劉弘の時代には、美談として伝わっていたのかも。

劉弘の演説は続きます。
「劉表の話を聞くたびに、わたしは嘆息せざるを得ない。天子は八王ノ乱に巻き込まれて、難渋されている。後漢末にそっくりだ。私が荊州に閉じこもって、天子の音楽を楽しんでいていいものだろうか。この楽官たちは、鄭重に送り返しなさい」

■昇進
朝廷は劉弘が張昌を討ったことを褒め、次男を県侯にしようとしたが、辞退した。劉弘は、侍中・鎮南大将軍・開府儀同三司に昇進した。もう、位は人臣を極めた感はある。
■劉喬延命の手紙
恵帝が拉致られて、長安に遷った。河間王・司馬顒が主犯なんだが、劉弘はそれを嘆かわしく思った。
「司馬顒が使っている将軍、張方は殘暴だ。きっと敗れるだろう」と判断し、ライバルである司馬越に味方した。

このとき、司馬顒と司馬越の権力闘争の狭間で、劉廙の弟の孫・劉喬が死にそうになる。「ケンカは辞めたまえよ」と、司馬顒・司馬越・劉喬の3者に手紙を書いて、反省を促した。このときの「評論家」ぶりは、このHP内の「劉喬伝」で追いかけました。
分量を平均化するために、書くべきことが少ない人の伝に、ネタや記述が移される。これは、紀伝体の常。『晋書』「劉喬伝」の後半は、劉弘祭りになってる笑
(劉馥+劉表)/2=劉弘伝 (4)
■西晋から独立せよ
強くなると、「皇帝になっちゃいなよ」と勧める人が出てくる。黄巾を鎮圧した皇甫嵩に、そんな耳打ちをした人がいたっけ。前の広漢太守・辛冉が、「荊州で独立してはいかがですか」と提案していた。
劉弘は怒って、辛冉を斬り殺した。
道義に悖ると思ったら、独断で殺しちゃうのは悪い癖だ。しかし、ここで独立しても、寿命も近いし、大成はしなかっただろう。甘い声に耳を傾けなくて良かったね。もし劉表なら、どうだったか。「時機を見ておるのだ」と濁して、優柔不断なまま、やっぱり寿命を迎えたかな。

■あくまで独尊
司馬顒は、部下の張光を順陽太守にした。
南陽太守の衛展は、劉弘に張光を殺すよう提案した。「司馬顒は、あなたもご存知の通り、恵帝を長安に拉致った悪人です。その腹臣たる張光は、ろくでもないに決まっています。かつて彭城王(誰?)が東に逃れたとき、不穏当な発言をしたようですし」と。
だが劉弘は、衛展を叱った。「司馬顒の悪政は、張光のせいじゃない。理由もなく、ただ派閥に属しているからと言って、殺せるか」と。
衛展は、劉弘を怨むようになった。こうやって敵を作ってしまっても、劉弘は我が道を貫いているので、気は咎めない笑

■陶侃が陳敏を防ぐ
揚州を攻略した、賊の陳敏。長江を遡り、荊州を攻めようとした。
劉弘は、前の北軍中候蒋超を南蛮校尉にした。南蛮校尉は、劉弘が兼ねていたんだが、分け与えた恰好。蒋超に夏口を守らせ、江夏太守陶侃と、武陵太守苗光を付けた。

陶侃は、陳敏と同郷で、同年に官に登った。「陶侃と陳敏は、通じてるんじゃないですか」という人が居たが、劉弘は突っぱね、前鋒督護に任命した。
陶侃は「劉弘さまが疑われてはいけない」と気を回し、子と兄の子を人質として送ったが、劉弘は受け取らなかった。張昌ノ乱のときからの信頼関係が、眩しい。この人材の使いこなしぶりは、祖父の劉馥に通じるんだろう。
陳敏を討ち、306年に車騎将軍を加えられた。

■羅尚を応援
ちなみに、陳敏と呼応するのを怖れ、益州方面も防備していた。治中・何松に、建平・宜都・襄陽の三郡の兵を率いて、巴東を守らせていた。李特・李雄と戦う、羅尚の後援だ。揚州や益州から、国は分離していく。つい先日まで「三国時代」だったから、よく分かっている笑
■紙1枚が、使者10人分
劉弘は、太守・相を任命・解任するとき、自ら筆を執った。それがとても丁寧だったので、人々は「得劉公一紙書,賢於十部從事」と喜んだ。
陶侃の任用といい、このあたりの評判といい、単なる屁理屈ジジイじゃなかったのね、と思わせてくれます。劉馥の血は、ニセモノじゃない。

■司馬越の執政
司馬越が勝つと、参軍の劉盤を遣わして、恵帝を警護させた。
負けた成都王・司馬頴は、荊州を通って任国に帰ろうとした。だが劉弘は通してやらなかった。司馬顒派を、許さなかったようです。

劉盤が帰ってくると、八王ノ乱が終結したことを聞いて安心したのか、「老齢だから引退します。私が兼ねまくっている役職は、適宜分配して下さい」と使者を発した。
だが、使者が洛陽に着く前に死んだ。タイミングが良すぎる。というか、死の本当のギリギリまで、洛陽のご意見番として、重職から見張り続けるつもりだったようだ。

劉弘の死後、司馬頴を盟主に盛り立て、司馬越に対抗する動きがあった。司馬の郭勱だ。だが、劉弘の子・劉璠が喪章を着けて、これを討ったので、八王ノ乱は再発しなかった。
司馬越は、劉璠を賞した。劉弘を新城郡公に封じ、元公と諡した。

■その後の荊州
高密王・司馬略(司馬越の弟)が荊州刺史になったが、盗賊がはびこった。劉弘の子・劉璠を順陽内史に任命すると、治まるようになった。劉弘の威光は、死後も人々の心を照らしました、という後日談のようで笑
ずっと忘れてたけど、劉備の父の名も、「劉弘」と言われているんだね。同姓同名だったのに、気づかなかった。 最後になってしまいましたが、
今回も『解體晉書』http://jinshu.fc2web.com/さんのお世話になりました。ありがとうございました。080714
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