■三国志キャラ伝>ひそかに献帝討伐、劉焉伝(1)■世間での劉焉
一般的に劉焉はどう記憶されているか、3つ書き出してみる。
っていうか、
一般的には「リュウエンなんて知らない」が相場なんだろうけど、それは言いっこなしで。
1)「幽州太守」として黄巾討伐の義勇兵募集の高札を出した。劉焉の出した高札の前で劉備が嘆息し、張飛が怒鳴りつけたのが運命の出会い!
2)劉璋の父親。劉備の入蜀の陰の功労者?皮肉だね。
3)「牧」の設置を建言した人物。群雄割拠を作り出した張本人。
これくらいかな。
まあご存知の通り、1)については『三国演義』の作り出した虚構です。
虚構だから意味がないと言うんじゃなくて、とてもよく出来た話なので、ぼくは好きです。
劉焉が高札を出さなければ、あの「桃園結義」のイベントが発生しないんだから、ストーリ的には絶対に欠かせませんよ。
あちこちで言われていることだけど、後に劉焉の四男の劉璋が劉備に益州を乗っ取られるから、その伏線として劉焉が劉備の引き立て役に配されたようで。劉焉はきっと、劉備なんて奴のことを知らずに死んだんだろうが。
そして、劉焉が出てきてくれるからこそ、『三国演義』の序盤にして「劉備っていう主人公らしき男は、どうやら皇族らしいぞ」ということが客観的に証言される。
場末の酒場で「オレは中山靖王の後胤じゃ」と言っても説得力に欠くが、募兵をした劉焉が出てきて「おお、あんたは確かに身内ぞよ」なんて言ってくれれば、箔が付くんだ。説明が省けて、テンポが保たれるんだ笑
しかしフィクションを1つ挿入すると、あとは鼠算式に突っ込みどころが増えるので、対応が膨大になっちゃう。羅貫中さんは、さすがにそこまでは手が回らなかったらしく。
張魯討伐のために劉備を向かい入れた劉璋さんだけど、このとき2人は初対面のような付き合い方をしてたと思う。黄巾の乱のとき劉璋は20歳を越えたくらいみたいなので、「ここで会ったが30年目」的な演出が欲しかったかなあ。
『演義』でしばしば見られる間違いだけど、「州」に「太守」はいないよね。「郡」に「太守」が正解だよね。
これも言い尽くされていることなんだが、この間違いのおかげで「今から言う役職と就任者はフィクションだからね!」と宣言してもらってるようで、安心して読めるという気もする笑
「幽州太守」の劉焉は、なんて言われたら、はいはい、と受け流す!
■州牧設置の提案
劉焉の血筋を『蜀書』に求めれば、漢の魯の恭王の後裔なんだって。
洛陽令、冀州刺史、南陽太守、宗正、太常を歴任したから、エリートです。
そんな劉焉の最大のおねだりは、各州への牧の設置と、交州(後に翻して益州)への赴任です。さすが皇族のホープは、頼むことがでかい。
それまで州の(形式上の)トップは「刺史」だったんだが、これは太守や相のチェック係ないしは調整役くらいな感じで、太守や相よりも俸禄が低かったから舐められていた。だから、もっと高ランクの州の執政官(牧と名付く)を中央から派遣して、地方の乱れを引き締めましょう!という話です。
この主張だけを聞けば「幽州太守ではないにしろ、優秀な学者肌の政治家じゃん」と思う。しかし、その牧に自分を任じてくれと言っている時点で、かなりしたたかなんだ。
わざわざ洛陽に「国を切り取って、独立したいんだけど」と申し入れてるようなもんだよね。居直り強盗だよね。
なぜ許されたんだろう?
■劉焉のイメージは甘え上手
劉焉のプレゼンにOKが出たのは、188年。霊帝の没年の前年です。
もう霊帝はヤケクソだった。もしくは霊帝にはすでに判断能力がなく、宦官や外戚(このときは何進だね)がヤケクソになっていた。ぼくは残念ながらまだ行ったことがないけど、洛陽の都城内にいれば、世界の中心にいるつもりになるよね。
このときは、中原内では黄巾、周辺地域では数え切れないくらいの異民族の反乱や侵入があった。
洛陽にいる人たちは、行ったこともない遠隔地の反乱は、行きたい奴に任せて洛陽だけで小さくまとまろうとしたんじゃないか。400年の歴史を持つ漢朝の屋台骨の皇帝にさえ侍っとけば、枝葉末節はどう切り捨てようと、大した問題じゃなかったんだろう。ずっと豪奢な屋敷にいる宦官にしてみれば、交州とか益州とか、興味のまるでない未踏の地でしかない。そこにどんな権力争いがあるとか、そこを基盤にどういう伸し上がり方を画策する人物が出てくるとか、対岸の火事なんだ。
ぼくが思うに劉焉は、小柄で目が大きくて、上目遣いの可愛いおじさんなんだ。彼が何を言っても「別にいいんじゃないの?」という気にさせる人。油断させるのが得手でさあ。
彼が(先祖の名前にもちなんで)恭しく階下でお願いをして、洛陽にまとまってる奴らの自尊心とか、異常事態を面倒くさがる心とかをくすぐって、ちゃっかりOKを引き出しちゃったんじゃないか。すごく重大なこと(群雄割拠の事始)ですら、せいぜい買ってくるアイスクリームをチョコレート味にするかカプチーノ味にするか迷うくらいの軽さに思わせたんじゃないか。
※例えが悪いですが。
冀州に劉虞、益州に劉焉、荊州に劉表。
もうちょい想像力と良識のある人にしてみても、劉邦が劉氏を各地の王に任命して王朝を強化したくらいのイメージで、GOサインを提示したのでしょう。異姓(非劉姓)の曹操が王になったときはパワーが必要だったけど、異姓が州牧になることには、まるで抵抗が少なかったという現実があったんだが、読み違えたんだね笑
劉氏であることって、ほんまに得だなあ。
■董扶の「天子の気」のトリック
劉焉が第一希望を交州から益州に変更したのは、侍中の董扶が「益州には天子の気があります」と劉焉に言ったから。
董扶の「気が見えます」発言の種明かしはとっくに終わっていて、他ならぬ董扶が益州の広漢出身だから。権力抗争に乱れる地元を憂いて、有力者に治めてもらおう魂胆。そのための同盟者として、劉焉を選んだ。
劉焉が連れ込んだ東州兵や青羌兵を動員して益州を席捲したことも、その証明になるよね。董扶と同じ流れで、趙韙ってのもいたりして。
洛陽が腐ってるから、洛陽との関係性に心を配るよりも、益州の問題は益州で解決しようという心意気のようです。董扶は『益部耆旧伝』によれば、かなりの人格者にして、中央からの招聘を断りまくっていたみたいです。
さて董扶さんの舌鋒を想像してみる。
劉焉にしてみれば、益州なんてまるで関係ない。これまでの赴任地から見ても、中原にしか縁がない人物なのです。欧州に旅行したいとも思っていない日本人に「ドイツ郊外の××市の治安が乱れているから、夜間警備を手伝ってくれないか」と言っても、まるでモチベーションが上がらない。劉焉を益州に招くということは、それくらい難しいのです笑!
いくら迷信深い人たちとは言え、「星が告げていますわ」だけじゃ突き動かされない。槍がずぶずぶと腹の皮を引き裂いて、腸を掻き出しているような場所には、たとえ星の導きがあっても、普通は行きたくはないのです。
諸葛亮が孫権たちを説得して「曹操に降伏したらダメだ。迎え撃とう」と決心させたことが、三国志の名場面とされています。それに匹敵するレベルで、董扶の劉焉の説得を扱ってほしいくらいだよ笑
董扶がくすぐったのは、口許でもなく腹でもなく左足でもなく(エルモとはポイントが異なり)他でもない劉焉の即位願望でした。
劉焉だって人徳や頭脳を備えたまともな人間で、しかも後漢の皇帝は傍流から連れてくることが流行っていたことを知っている。霊帝だって、前の桓帝の息子じゃないしね。
霊帝は今にも死にそうだし(けっきょく翌年死ぬ)霊帝の息子はガキで乱世には不向き。兄の劉弁は暗愚で、弟の劉協は小便臭い幼児なんだ。ひょっとして?という気持ちはあったかも知れない。
劉焉は「交州に行きたい」と思っているんだけど、それは「オーストラリアに行きたい」と同じことなんだ。洛陽から遠くてバカンスが楽しめそうなら、どこでもいいんだ。後に劉備が荊州を逃亡するときに「日南に行ってやらあ」なんて放言するけど、あれと同じだ。もっと言えば、劉焉は洛陽をなんとかするのが本望なんだ。劉備だって、本当は曹操を倒すのが本望だったのと同じように。
劉焉にしてみれば、自分の思い通りにならんなら、もー知らねえ!という次元の話だ。だから、劉焉からに赴任したい願望を取り去ることは、難しくない。「交州じゃなきゃイヤ」なんてことは、微塵もないので。
次回は、ミスター董扶の弁「天子の気」をライブでお届け!
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