三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
「国民統合の象徴」劉璋伝(1)
劉焉伝を書いたので、続けて劉璋伝を書いてみます。
  ■蜀書の筆頭
ほとんどの人が、初めて陳寿『三国志』を見たときにびっくりすると思うんだよね。
まあ『三国志』を手に取ったら、最初に見るページは3パタンくらいに絞られると思う。

(1)まず曹操のページ。律儀に1巻から読もうと思ったらこうなる。本紀から読んで全体の流れを把握するのは基本だよ?というマナーがあるかも。少なくとも著述者はそれを意図してる。
(2)次は自分の好きな人物の拾い読み。「ああ虞翻伝が読みたかったんだ!」というノリですね。
(3)最後に、これがもっとも支持率が高いと思うんだけど、「蜀書から読もう」という決意表明。ひとえに『三国演義』を理由には挙げないけれど、蜀書が取っつき易そうじゃん。今日の日本では多くの人が、ちくま訳を読むと思う。全8巻のうち、魏書は4巻分もあるし、呉も大した人物がいなさそうなのに(失礼です)3巻分もある。一方で蜀書は、たったの1冊。これは、蜀書から入れと言っているようなモノでしょう。
※呉書の最終巻は索引とか年表とかで占められていて、やっぱりあんまり内容がない笑

勇んで蜀書をひもとくと、いきなりダメージを受けるんだよね。
劉備が登場するよ、諸葛亮の神算はどれほどか、いわゆる五虎将軍の活躍が始まるよ、という期待を全て裏切って登場するのが「劉二牧伝」です。
すなわち、劉焉と劉璋の伝。
がーん。
彼らのことを知らないわけじゃなくても、「誰それ?劉備の祖父や父って、そんなに活躍したっけ?お母さんなら(空想世界の住人として)知らなくもないが」と思うんだ。一瞬だけ思考が乱れるもので。

このように落胆を振りまき続ける、劉焉と劉璋。彼らに目鼻を付けることが目標です。一刻も早く劉備の「先主伝」を見たいからって、読み飛ばすのはもったいな過ぎると思うので。
ぼくの劉璋伝のテーマは、「国民の象徴」です。
前置きが長くなってしまいましたが、そろそろ始めます。

■三国志の効能
北方謙三氏が自分で書いた小説について、いろいろコメントしてるのを読みました。そこで彼が言ってることなんだけど、「日本で日本の皇統に口を出すような小説を書くことはタブー視されている。南北朝の小説を書いたときも、すごく窮屈だった。でも三国志を題材にすれば、心置きなく皇統の話ができる」だそうで。要旨だけを記憶を頼りに抜き出しているので、細かい言葉は違うと思いますが。
なるほど三国志のことなんて、もう時効だもんね。

彼の小説の中では、荀彧が曹操に対して「万世一系は優れたシステムだ。是非やろう」という提案をする。
白髪の増えた荀彧が繰り返し喋っていたことを、ぼくが勝手に抜き出してみる。あんなに男らしい文章はぼくには書けるわけがないので、すごく軽い感じになっちゃうけど笑
「武力で勝るものが皇帝になる。皇帝の血が腐ったら、別の姓が新しく武力で皇帝になる。この泥仕合をやってたら、命がいくつあっても足りない。だから、せっかく400年も続いた劉氏の王朝を大切にして、1000年くらい続かせてやろうよ。そしたら、易姓革命の概念がぶっとんで、劉氏の血が永久不可侵のものになり、人々は平和に暮せるんだよ」
平たく言えば「劉氏を日本の天皇にしよう、劉邦を神武天皇にしようぜ」という相談なんだ。北方氏は、おそらくそれが書きたかったんだ。

■象徴皇帝制に近かった人物
北方氏の荀彧は献帝に期待していたみたいだけど、残念ながら結果はご存知のとおり。
いくら小説と言っても、ある程度は史実に準拠しているのが『北方三国志』売りなので、曹丕が禅譲を迫って劉協を山陽公に片付けてしまう。

北方荀彧は「トップの皇帝は不動で、皇帝を誰が助けるか武力で競い合うくらいなら、許容範囲でしょう。そこまで国が疲弊することもなかろうし」 みたいな発言もしてる。
ここで講釈を垂れる準備はないけれど、これも日本の天皇制の特徴の1つとされているものかも。※大学で日本史を学んだだけに、いろいろ知ってしまって、趣味でやってる三国志と同じ温度で「決めつけ」ができない笑

蜀書の「劉璋伝」を読んでいたら、この話がフラッシュバックした。
劉璋がやっていたことって、北方荀彧が言ってたことに、まるまる当てはまるんじゃないのかなあ。トップは不動で、下々の者が権力争いをする。強くなりすぎた者に対しては、自浄作用みたいな感じで制裁が加わる。トップが有能で権力バランスを上手に操っているんじゃなくて、何となくの仕組みとしてそうなってしまう、という。 トップを奉戴する勢力と、それに対抗(反乱)する勢力が相殺しあって、国の豊かさがキープされるんだ。それが劉璋がやっていた益州の統治だ。これを13州規模でやってくれれば、劉氏の王朝はまだまだ続いたんじゃないか。五胡十六国の漢民族の後退は回避できたんじゃないか。

■禁じられたIF物語
もう1回だけ同じことを言うと劉璋が帝位を継いでいれば、漢はもっと続いたかも。

1つ前に書いた劉焉の話のラストで、劉焉の息子の劉範・劉誕が馬騰と呼応して、李カクを攻めています。すなわち、董卓が立てた献帝を「うっかり」殺してしまって、その後を劉焉が襲おうという話です。やってることはほぼ帝位簒奪ですが、劉氏の中での帝位の受け渡しなので、もし成功しても歴史の中では大騒ぎされなかったのかも知れない。
計画は失敗に終わって、李カクたちが勝利。劉範・劉誕は殺されて、馬騰は逃亡。首謀者の劉焉は背中に腫瘍が発症して1年以内に死んでしまったという悲劇の結末でした。

もしこのとき劉焉が勝っていたら、劉璋が皇帝になっていたかも知れない。
そしたら「国民統合の象徴」みたいに振舞ってくれたんじゃないか。
当然ながら曹丕の出る幕はないし、ましては劉備なんて傭兵隊長のまま片付いていたよ。
ただし、劉璋即位のためには劉璋の兄貴たち(劉範と劉誕)に退場してもらわなければならないけれど。兄貴たちは李カク撃破の功労者なわけだから、簡単には消えてくれそうにないけれど。
自分からIFを持ち出しといて、破綻してしまった笑

ぶっ飛んだ仮定の話は捨て置いて、次回、もう少し丁寧に劉璋の統治スタイルを見直してみます。
せっかくの「劉二牧伝」を読みながら書きます!
「国民統合の象徴」劉璋伝(2)
■長安から益州へ
父親の劉焉が「天子の気」につられて益州に入ったのが、188年。おそらく劉焉は洛陽に仕えていて、そこから荊州経由で東から益州に入ったのでしょう。「劉焉伝」注『漢霊帝紀』には、益州への道路が通じてなかったから荊州に留まったって書いてあるし。
このとき劉焉の4人の息子のうち、三男の劉瑁だけが付いていった。

189年に董卓が権力の空白に乗り込み、190年に長安遷都。献帝の長安の朝廷で、長男の劉範は左中郎将、次男の劉誕は治書御史、末っ子の劉璋は奉車都尉になった。
董卓と劉焉が対立した。対立というよりは、劉焉が閉じこもって無視しただけかな。そんなとき、劉璋が献帝に上表した。
「私の父(劉焉)は病でございます。赴任地の益州へ見舞いに行かせて下さい。陛下の元の出仕するよう、父に伝えてまいりますから」
すげー!董卓政権にお願いごとをしてる!
ぼくの勝手なイメージでは、董卓とそのおっかない仲間たちに何かをお願いしようものなら、その場で死罪なんだが笑。まあそれは冗談として、名士層を優遇している董卓にとって、皇族でなおかつ益州で安定勢力を気づきつつある劉焉親子を軽視できなかったんだね。函谷関の東の諸侯を、次々と太守に任命してるわけだし。

■軟禁された劉璋
劉焉は、劉璋をからめ取って長安に返さなかった。
このとき劉焉は、隙を見て献帝を殺そう計画を進行中なのです。劉璋はにぶい。足手まといを長安に戻すわけにはいかない。もしドジを踏んで人質になろうものなら、軍事行動のフットワークが格段に落ちてしまうからね。
覇気に富んで腕っ節の強い長男の劉範。粗忽な兄を補うために頭脳を巡らす次男の劉誕。そのメンバーがいれば、劉焉パパの野望実現には充分で。劉璋は本当に邪魔で。
劉範は長安を攻める兵を率いた勇者だし、馬騰との同盟交渉でたびたび渡り合っている。でも劉範から計略が洩れてしまったという、穴もあって。劉誕は献帝に文書管理の役目をもらってる。
無理やり分かりやすくしようとすれば、劉範と劉誕は、ミニ曹彰とミニ曹植ですね。「劉焉伝」の少ない記述から、ありがちな薄っぺらい設定で申し訳ないけど、劉璋の兄たちのキャラを推測してみた。

でもまあ、曹彰と曹植が手を組んでも、きっと天下を取れないのと同じレベルで、劉範と劉誕は敗北してしまった。
劉焉には4人の男子がいたものの、片時も手を離せないくらい心配な三男の劉瑁と、鈍くて立ち回りが苦手そうな末っ子の劉璋だけが残った。劉焉はその事態にショックを受けて、その年のうちに死去!

■益州牧、劉璋の誕生
「劉焉伝」に曰く「大官の趙韙らは、劉璋の人柄が温厚なのをみずからの利益と考え、共同して劉璋を益州刺史とするように上書した」と。
この趙韙というのは、董扶が劉焉を益州に招いたときに随行してきた人物。おそらく董扶さんはすでに死んでいるから、劉焉父子に益州を治めさせようという考え方の筆頭にいたんだろう。

劉焉が死んだとき『英雄記』によれば、長安の朝廷(李カク・郭氾)は、頴川出身の扈瑁を益州刺史に任命して、漢中に入らせた。
これは自然なことでしょう。益州刺史や牧が血縁で引き継がれるなんてルールはない。皇帝が1代限りで役目を与えるのが、地方官の決まり方としてデフォルトなんだ。ただし献帝の正当性が微妙なので、すごく胡散臭く聞こえるんだけどね。
194年、赴任してきた扈瑁に呼応して、荊州別駕の劉闔、劉焉の下にいた沈弥・甘寧らは劉璋に反乱した。(事件1)
以前に書いたこともあるけど、ここで劉璋の継承に非を打ち鳴らした甘寧は、後に孫権の部将として活躍する甘寧ですよ。孫策がまだ袁術の下で埋まっているとき、こんなところで反乱を起こしてるからカッコいいよね。
そして、荊州からも横槍が入ってきてる。劉表さんの干渉だね!荊州の中だけに逼塞していたというイメージが語られるけど、まだまだ野心旺盛なんだ。※このサイトの「劉表伝」でも書いてみました。

劉璋は甘寧たちを撃破。甘寧は荊州に逃亡。
荊州からの干渉に対しては、趙韙が防いだ。
この1回目の混乱なんて、まだまだ序の口だった。これから、劉璋という王を衰退した「群雄」たちの壮絶なバトルが始まる。目まぐるしすぎて酔いそうになるんだが、劉璋はおそらく危機への不感症というスキルを発動し続けて、「国民の象徴」として立場を上手く保つんだ。

■鹿を逐ってない内乱
194年か195年、まず張魯が背いた。(事件2)
張魯はもともと、劉焉が漢中に向かわせた人物だね。
張魯は宗教界の人みたくなってるけど、鶴鳴山で修行して原始道教に目覚めた張陵とは血縁がないんじゃないか。張陵は張魯の祖父とか書いてあるのも見かけるけれど、根拠がちゃんと確認できない。張魯の出身地は、曹操と同じ沛国のようだし。
張魯の正体は、劉焉が益州統治のために配置した1人の部将だと思う。そいつが背いた。それだけのこと。※また後日検討します。

195年、劉璋は龐羲を巴西太守にして防がせた。
「劉焉伝」曰く、龐羲は劉焉と先祖以来の交際があって、長安で大惨事を食らった劉焉の孫たち(劉璋の子供・甥たち)を益州に連れ帰ってきた人物。かなり信頼ができる!という臣下だね。『英雄記』に龐羲と劉璋が昔馴染みだと書いてある。兄2人を失って、孤独な大任に就いた劉璋にとって、龐羲は心理的に兄代わりかも。
しかし龐羲は劉璋の器量のなさに落胆して、独立勢力を形成。
ちなみに、侵略者の劉備を1年間足踏みさせた勇ましい劉循(劉璋の長男)の母親は、龐羲の娘みたい。

200年、劉璋の益州牧の立役者の趙韙が反旗を翻した。(事件3)
劉焉・劉璋直属の東州兵が、地元益州で好き勝手に振舞うので恨みに思われていた。董扶・趙韙が劉焉・劉璋に益州を任せたのは、彼らの地盤である益州を治めてもらいたいから。そういうわけで、東州兵が益州の民を虐げては本末転倒なわけです。
劉璋は成都に閉じこもって貝になった。趙韙は配下の部将の裏切りをくらって、死んでしまった。劉璋が益州で絶対的な権力を握るプロセスには違いないんだが、棚ボタ的な戦果だよね笑

『漢献帝春秋』曰く、献帝すなわち曹操は、五官中郎将の牛亶(ギュウタン笑)を益州刺史として差し向け、治世のできない劉璋を朝廷に召し出して卿にしちゃおうとした。飼い殺しの提案ですね。
でも劉璋は断った。
どこからそんなパワーが湧いてくるんだ!袁紹を官渡で破ったころの曹操の提案を、突っぱねるなんて。
おそらく、中原の情勢を把握していない、把握していたとしても理解していない、という程度のものだと思うけれど。それが劉璋くんの強みだから、批判してはダメなんだ。

順調に有力な勢力が離反して、自滅もしくは不干渉。ラッキー!
しかし劉璋のところに恐ろしいニュースが届きます。天府で安穏としていた益州陣営には、寝耳に水どころか火星人の来襲みたいなもんだよ。

次回、曹操が南下を開始。WAY TO SEKIHEKIです。
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