三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
「国民統合の象徴」劉璋伝(3)
■荊州が鎧袖一触
劉璋がひそかに嫌って、ひそかに競ってきたのが、荊州牧の劉表。
かつては干戈を交えたこともあるものの、袁紹が曹操に滅ぼされてから、めっきりお腹の調子が悪い様子です。どうしたのかな。大事にしていた三輪車も、お庭で雨に濡れていた、状態です。

曹操なんて、なんぼのもんじゃい。
父・劉焉が存命中は、私兵5000でジタバタしていたチビじゃねえか。
まあ、劉璋の認識なんて、その程度か。

そんな208年の夏の日に伝令が走ってきて、
「曹操の接近を聞いた劉表殿が、びびって死にました」
「荊州は一戦も交えずに降伏しました」
「荊州を降伏させた曹操が、すでに漢中郡を平定しました」

「マジか!」

劉璋は陰溥を派遣して「曹操さん、ごめんなさい」と言った。
いちおう補足すると、漢中郡平定はデマだったんだが。
曹操は劉璋を振威将軍に任じて、劉璋のお兄さん(劉焉の三男)劉瑁を平寇将軍にした。
さて、劉璋よりもさらに乱世に不適応なのが、この兄貴。趙韙が年下の劉璋を推戴したんだから、よっぽど冴えなかったのでしょう。劉璋に劣るんだから、よっぽどだよ。っていうよりは、まともな神経をしていたのかも。
「げ!曹操がきた!」
ということで劉瑁は精神病で物故した。王朗が諸葛亮に罵倒されて落馬=憤死、というエピソードに代表されるとおり、この死に方はすごく三国志らしい。劉璋は劉備の引き立て役でしかないのかも知れないけれど、劉瑁はよくやった!
正史に「精神病で物故」って、なかなか書かれないよ。栄誉だよ。
これには、いろいろ裏があるかも知れなくて。劉棒は、自分の名前が「流行感冒」を省略したものだということに気づいて、さらに蔡瑁と同じ名前だということを発見して、悩みが祟ったのだ。知らんけどね!

■劉備を招きましょう
まあ紳士なおじいさんが金銀つづらをもらってきて、見栄えの悪いじいさんがお化けの入ったつづらを持ち帰って残酷な目にあう、というのが昔話の定番で。
最初に曹操のところに行った陰溥は厚遇されて、次に行った張粛も厚遇されて、次に張粛の弟でルックス最悪の張松が冷遇されて。
腹を立てた醜男の張松は「曹操は奢っているので絶交しましょう。劉備は劉氏の親類だから仲良くしましょう」と言った。

具体的には、張松は劉璋にどんなことを説いたのだろう。
想像して書き起こすと、
曹操は赤壁で負けて弱まったし、そもそも本拠地が遠いですよ。荊州は周瑜たちがブロックしちゃったし、関中からのルートは馬超や韓遂がブロックをしている。これじゃあ曹操を頼るにも頼れないし、敢えてへつらう必要もないです。
一方で劉備は公安に居座ってお隣さんだし、周瑜を牽制するためにも利用できますよ。周瑜は益州を乗っ取るつもりらしいです。稀有壮大なのは結構ですが、迷惑ですよね!
劉備が益州を併呑するようなことがあったら大変だけど、現時点で劉備は「充分に弱い」のでそこまで恐れる必要はないですわ。益州の外との接点という意味では、劉備を転がしておけば充分だろう!という打算は、いかがでしょう。
張松の真意はおそらく別にあるのだが(後述)このとき劉璋にこうやって喋ったとして、まるで矛盾がない。劉璋にはメリットになることばかり。

劉璋は「そうだね」と言って、法正と孟達に兵数千人をつけて劉備を助けに行かせた。
実質的に曹操を打ち破った周瑜と隣接するのは、何としても避けたい。「赤壁の戦果は我々の手柄ですよ」なんてうそぶいている天才軍師殿がいる劉備たちと手を組んでいるのが、遥かに平和なんだ。

■劉備の入蜀
劉備に会いに行った法正と孟達は、益州の人じゃない。中原を飢饉で締め出されて、益州にいるだけ。張松と仲が良かったりして、ときどきキナ臭い人たち。

張松は法正たちが帰ってくると、再び進言した。
「劉備はマシな人物だそうです。さて、漢中を討つために軍権を分け与えた龐羲さん、趙韙さんを破った手柄のある李異なんかが、国内で好き勝手しています。劉備を招き入れて、彼らを討たせましょう」と。
これが「劉璋伝」の記述です。吃驚!
『演義』を筆頭とした三国志の物語では、劉備を招き入れた理由が違う。曹操が近づいてきて怖いから、張魯を早めに討たねば本国が脅かされるから、劉備を呼びましょうと言っている。しかしそれは違う。劉備を招いたのも、就任以来15年、劉璋が繰り返してきたお家芸の延長なんだ。
これじゃあ物語が面白くないから、張松が曹操を訪問した時期をズラして、曹操の張魯征伐の号令に劉備招聘のタイミングを合わせるなどの工夫がされてるんだね。
ただし、当事者の劉璋の統治にはダイナミズムは必要なくて。劉璋の心を動かすのは、こういうチマい話が一番なんだ。よく響くんだ。

劉璋は劉備を、使い終えたら追い出せばいい傭兵の感覚で招いた。劉備自身がそれまでそういう生き方をしてきた(そういう生き方しか出来なかった)んだから、無理ないよね。そして劉璋は誰に誰を攻めさせようが、自分だけは象徴として君臨し続けられると思ってる。
これまでそうだったことは、次もそう。なぜそうなるかと問われれば、これまでそうだったからだYO!と答える。劉璋の頭の中は、漫然とそんな感じだったんじゃないか。こういう人間って多いよね笑

■劉璋追放作戦
211年。これは、曹操が鍾繇に張魯を討てと命じて、馬超と韓遂が潼関で負けた年だね。ついに劉備が出動。
黄権は劉璋に「劉備を招くのはよくない」とストップをかけた。王累は州門に逆さ吊りになって、劉璋を行かせまいとした。(事件4)
でも劉璋は、ゆるい頭で彼らを頭から無視する。また配下の意見が割れちゃったよ、毎度のことだから、別にいっか、くらいのノリで受け止めたんじゃないか。
今までいろんな勇将たちが益州で競い合ってきたけど、大事に到らなかったんだから、劉璋的には問題なし。
「この劉璋は、益州の象徴であり、益州臣民統合の象徴であって、何ぴとたりとも侵すこと能わざる者なり」ということで、劉備を豪華絢爛に出迎えて、百余日の宴で歓待した。

張松の狙いは、言わずもがな益州牧を劉璋から劉備に代えること。
広漢の董扶が劉焉を招いたときと同じ理屈で、蜀郡の張松は動いているんだね。益州の平和のため。
劉璋に「劉備を読んで、龐羲や李異を討たせましょう」と言ったのは、彼の思考レベルに合わせたから。曹操や孫権が殴りこんできたら、龐羲や李異の問題が吹っ飛ぶんだが、劉璋にそういう視点はしない。だから敢えて言わないし、教化するつもりもない。
したたかなり、張松。
ちょっと弁護に入るんだけど、劉璋があんまり自己主張してリーダーシップを取らないことは、責められることじゃない。なぜなら、趙韙が劉璋を後継者に選ぶとき「温厚そうで操りやすいだろうな」という狙いがあったから。ぼけっとしてそうだから地位に就いた人間を「お前、ぼけっとしてるな!」と怒るのは可哀想だよね笑
ただ、時代が、すなわち曹操が劉璋政権の継続を許さなかったんだね。

次回、劉璋の象徴州牧制が崩れます。荀彧も泣いてるよ!
「国民統合の象徴」劉璋伝(4)
■劉備、張魯を攻めます
百余日の宴の後「劉璋伝」では、劉備が張魯を討つことになったと書いてあります。
あれ?いつの間に摩り替わったのだろうか。
劉備はもともと、龐羲や李異を討つために入ってきたのに。きっと劉備が劉璋の心を掴んで、幻惑する段取りになってたんだ。張松や法正たちが、龐統あたりとレールを敷いたんだね。
もしくは、曹操が再始動して益州に影響力を発揮し始めたから、劉璋も気づかずに導かれて心変わりしたんだね。

劉備は葭萌関に駐屯して、のらくらしていた。

劉備が劉璋に使者を出して曰く「曹操が孫権を攻めています。曹操は、張魯の1000倍くらい面倒くさい奴です。今あいつを防がないと、益州もヤバいことになります。1万人の兵士と軍需物資を下さい」と。
劉璋にしてみれば、何のことか!という話ですよ。
益州国内の問題解決に借り出してきた傭兵隊長が、国外の問題についてガタガタ騒いでいる。見当違いも甚だしいよ!劉璋のバランスゲームは益州で完結する仕組みだから(少なくともそのつもりだから)わざわざ国外のことに関わる義理はない。
ただし曹操が怖いというのは一理あるので、半分だけ要請に応えた。すなわち、5千人を寄越したんだろうね。

恐ろしいのは劉備。「先主伝」の注『魏書』によれば、劉備は自軍の兵たちを激怒させようと、こんなことを言っている。
「劉璋の野郎、駐屯地でこんなにオレたちが頑張ってるのに、自分だけはぬくぬくしてる。1万人を供給してくれないと足りないのに、5千人もケチりやがったよ。劉璋、討つべし」なんて暴論を展開していた笑

■象徴州牧制の最後の自浄作用
張松が痺れを切らした。
「劉備殿、法正さん、どうしてさっさと成都を攻めないんですか。チャンスじゃないですか」と手紙を書いてしまった。それが兄の張粛(曹操に官位をもらった方)に発見されて、斬られた。(事件5)
張松は進言が積極的に受け容れるような重臣だったのに、付け上がって自分勝手なことをしたばかりに、制裁を受けた。劉璋政権に何回も見てきたパタンじゃないか。

白水関で劉備は本性を表し、あとは益州を挙げての全面戦争!
けっこう気骨のある武将もたくさんいて、張任とかカッコいいし、ここでもし劉備が成都攻略に失敗していたら、「事件6」くらいにで片付けても良かったのかも知れない。
傭兵隊長の暴走を平定しました、くらいの重要度だ。
劉循が雒城で1年間も持ち堪えたりと、けっこう善戦した。1年もかかった城攻めなんて、三国志で他にあんまり例がなさそう。成都を包囲されたけれど、まだ余力はたっぷりあった。1年は保てた。成都で防衛戦をやるにしろ、趙韙を相手に経験があるわけだし、それほど大騒ぎすることじゃない。劉璋政権の存続は決して絶望的じゃないくて。

■劉璋の降伏
劉璋は成都の城門を開いた。
「父(劉焉)と私(劉璋)は二十年以上も州を統治してきましたが、人々に恩徳を施したことがなかった。人々が三年も殺しあって、草野に肌を晒し、あぶらを流して屍になったのは、私のせいだ。もう、こらえきれない。ごめんなさい。降伏します」

■劉璋の評価
なぜ劉璋は降伏したのか。
劉備があまりに節操なく容赦なく戦うからでしょう。

これまで劉璋が見てきた戦いは、あくまで益州の中での権力をどうするかという争いでした。
天険に囲まれたという地理的な条件もあって「これ以上やったら、俺たちの国がヤバい。適当に停戦しよう」という暗黙の了解があった。だから劉璋は統合の象徴として、機能してきた。
でも劉備は、天下三分の計だか何だか知らないけれど、益州を益州という固有名詞じゃなくて、「曹操と対抗するための拠点候補地」という一般名詞でのみ捉えていた。だから、どれだけ益州の山野をどれだけ荒らしても意に関しないし、人がどれだけ死んでも何とも思わない。

皇帝でも天皇でもいいんだけど、その統治範囲は宇宙全部という前提で、その立場が規定されている。だから発動できる権力もあり、尊敬される威厳もある。国が成り立つ。
反面、
外部からきた全く違う価値観に対してはすごくもろいし、もし武力で劣ってしまったら屈服するしかないんだね。異民族に追い出されるたびに複雑な気持ちになってた漢民族の歴史が、皇帝の存在理由が持っているどうしようもない弱点を証明してるね。

劉璋は降伏してしまったんだけど、本人は何もしないくせに、周囲が動いて国が保たれる」というのは、1つの完成された理想君主の姿なんじゃないのか?劉璋はそれに当てはまっていたんじゃないのか?
劉璋は無為の君主という点では、劉備よりよほど劉邦に似ていたんじゃないか?と言ってみる。
暖衣飽食をむさぼって、乱世を横目にダラダラしていた無能な君主、という位置づけで片付けてしまってはダメな気がする。

■その後の劉璋
成都の朝廷には、劉璋の降伏で涙を流さない者は1人もいなかった。
孫権が関羽を破って荊州を手に入れたとき、劉璋を益州牧に任じて秭帰に駐屯させた。やがて死んだ。

劉璋の長男の劉循(雒城で粘った龐羲の孫)は、劉備の国で奉車中郎将に任じられて成都に住んだ。龐羲は左将軍司馬となった。
孫権の国に留めおかれた劉璋の後は、劉循の弟の劉センが継いで益州刺史とされ、交州と益州の境に留まった。諸葛亮の南征で劉センは赴任地に居られなくなり、呉に入った。

ある人は言う。董扶が劉焉に伝えた「天子の気」は、劉璋を滅ぼした劉備に恩恵をもたらした。皮肉なことだなあ、と。
ぼくは違うと思う。きっと劉備の即位と董扶の「天子の気」は、ほっとんど関係ないよね。益州に楽土をもたらしてくれるはずの「天子の気」を受けたものが、あそこまで益州を食い物にするわけないからね。
劉焉と劉璋父子の国は、こうして滅びたのでした!おしまい。
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