司馬懿の長男、司馬師には『晋書』からご登場を願います。
偽黒武堂の三国志探訪
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こちらのサイト様のお世話になりました。
■遅い就職
司馬師、あざなは子元。龐統のあざなは士元だから、違います笑
並び称せられ、褒めあってたのが、夏侯玄・何晏です。いわゆる浮薄の徒と蔑称される、曹叡後期から曹芳の時期に活躍した準皇族たち。のちの司馬氏のライバルなんですが。
きっと、見え透いた世辞だったんだ笑
208年(赤壁ノ戦のとき)生まれた。景初年間(237~239)に散騎常侍、やがて中護軍。このとき、すでに30歳前か。
諸葛亮がとっくに力尽きており、燕王を名乗った公孫淵を司馬懿が征伐したのが、238年。司馬懿が名実ともに、魏臣のナンバーワンになったときに、司馬師は正式に就職したことになる。遅すぎるよ。このときまで、司馬懿の補助に回って、小さな仕事をしていたんだろう。
遼東に出征した、司馬懿のお留守番の意味で、散騎常侍になったか。
これ以降、司馬懿・司馬師・司馬昭が紛らわしいので、
順に「父」「兄」「弟」とします。司馬師を中心に、微妙に子音や母音がカブッていて、ぐちゃぐちゃだもん。
■「こやつめ、やりおった」
239年に曹叡が死に、曹芳が立った。
曹爽がのさばって、父は名誉職に繰り上げられた。雌伏10年。249年に、父が曹爽を滅ぼす計画を立てた。このとき父は71歳。もう芝居が必要ないくらい、耄碌してる。
父は、兄だけに、予め計画を打ち明けた。きっと一緒に練った。
3つ下の弟・司馬昭には、決起する前夜に伝えた。兄はいつもどおりグッスリで、弟はソワソワして落ち着かなかった。
弟には、暗黙の分担があったと、ぼくは思う。
このクーデターはトップシークレット。秘密が漏れたら、中止せねばならない。というか、殺されても仕方ない。敢えて次男坊には伏せて、弟を警報装置、もしくはサーモスタットにしていたんじゃないか。欺くなら、まず味方から。漏洩するなら、同じ屋敷内から伝播するはず。
「弟が気づいてない=まだ曹爽にはバレてない」という図式だったんじゃないか。
弟はこのとき、もう29歳。決して凡庸なんかじゃない弟が、なぜ蚊帳の外だったのか、これで説明が付いたね。弟に伝えないことが、作戦を成功させるための段取りだったんだ。
すごく策謀臭がプンプンするじゃないか。さすが司馬父子。
寝所を覗くのは、不自然だ。それなのに、弟の前夜が記録に残っているということは、誰かが監視してたんだ。きっと父と兄だ。ソワソワしている弟を見て、父と兄は「よし。クーデターを極秘裏に計画できたな」と、ほくそ笑んだに違いない。
■司馬師の計略
前夜、兄の肝が据わっていたのには、理由があって。
内緒で死士3000を養ってたんだ。死士たちは、巷間に紛れていたらしい。曹爽を締め出したとき、兄は内外を平定し、兵士をキレイに整列させていた。
父はクーデター成功後に「こやつめ、やりおった」と、口を歪めて笑ったのかも。もしかして、変装させてあった3000の存在は、父にも弟にも、内緒になってたんじゃないか。こいつら親子の間なら、やりそう。
前夜の弟がビビッて席を温められなかったのは、この3000を知らされていなかったからだ。兵力を概算しても足りないもんだから、失敗を恐れていたんじゃないか。
結果から手繰れば、弟の不安は、読みが的確だった。
父は、弟の狼狽ぶりを、くつくつと笑っている。しかし兄は、父が3000を計算に入れずに、成功すると思っている甘さを笑っている。弟を笑っている父を、兄は笑っているんだ。だから、クーデターが成った後に、父は兄の真意に気づいて、「やりおるわ」と唸ったんだ。
父は、兄と一緒に笑ってしまった自分を、苦々しく思った。
『晋書』のたった数行から、勘繰りすぎたかも。ただ弟はビビりで、ただ父は優れ、ただ兄は指揮が巧かっただけなのかも知れない。検証できない!
兄はこれにより、長平郷侯。
■父を継ぐ兄
2年後の251年、父が死んだ。
「伊尹が死んだら、子の伊陟が継いだ」という故事だかコジツケだか蛇足だか分からない理屈によって、父を兄が継いだ。兄は、撫軍大将軍。
252年に、大将軍・持節・都督中外諸軍・録尚書事です。兄45歳。
このときの魏朝の陣容が面白いので、引用させて頂きます。
(呉蜀への備え)諸葛誕、毌丘儉、王昶、陳泰、胡遵
(地方の行政)王基、州泰、鄧艾、石苞
(人事)盧毓、李豊 (計謀)傅嘏、虞松
(朝議)鍾会、夏侯玄、王肅、陳本、孟康、趙酆、張緝
ある人が、「制度を改革しましょう」と言ったが、兄は「曹操様・曹丕様・曹叡様の時代に決まったことを、そうそう変えるのは良くない」と言って退けた。それよりも、人材の顔ぶれが一触即発なのが気になるが笑
少なくとも上記の赤字は、司馬氏に牙を剥きますよー
■諸葛恪の狂人舞
252年、諸葛恪に魏が惨敗するが、「景王紀」に記載なし笑
253年5月、諸葛恪が合肥新城に進軍してきた。
朝議「諸葛恪が兵を分けて、淮水や泗水も攻めてきたら怖いよお」
兄「諸葛恪は、権力を握ったばっかだ。合肥新城に集中させるのがやっとなんだ。(いくら昨年、我らに勝ったからと言って)青州・徐州まで同時に攻める余力はないはず。また逆に、渡江地点はいくらでもあるんだ。兵を分散したら、各地が少数になって、守りようがない」
果たして、そのとおりになった。まあ、常道だわなあ笑
兄は、鎮東将軍の毌丘儉、揚州刺史の文欽を迎え撃たせた。
毌丘倹「攻めさせてくれ!」
兄「却下だ。ばーか。諸葛恪は覚悟を決めて、突っ込んできた。強いぞ。合肥新城は、小さいが堅い。塁を高くして守ってれば、やり過ごせる」
果たして、そのとおりとなった笑 まあ、これも常道でしょうね。
毌丘倹と文欽の中に、澱のようにストレスが蓄積したことまでは、兄は関知していない。むしろ、キレて暴走してくれたら、ライバルの力を削げるから、ラッキーだったのかも。
頭の悪い後世人にしてみれば、諸葛恪の事情を「呉書」から読み取って推測するんですが。
このとき諸葛恪の陣営は、ボロボロだった。出兵もそもそも反対されまくってたし、不衛生な駐屯環境だった。仮に毌丘倹たちが攻めたら、大いに勝っていたんじゃないか。
兄の情報網は、それを拾っていた。真実を見越した上で、兄は「待て」と言ったんだ。そして、追撃だけさせて、小粒の文欽の顔だけは立てた。大粒の毌丘倹は後詰として、手柄をやらなかったんだ。
毌丘倹たちが歯噛みをする、このあたりが兄には快感なんですが、これが後の叛乱へと繋がっていきます。良くないなあ。
次回は、再度クーデターを宮中でブチかまします。