司馬懿の次男、司馬昭には『晋書』からご登場を願います。
偽黒武堂の三国志探訪
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こちらのサイト様のお世話になりました。
なお、司馬師伝に続いて、司馬懿を「父」、司馬師を「兄」、司馬昭を「弟」と書きます。名前の日本語音がかぶってて、紛らわしいので。
■兄と同時に就職
司馬昭、あざなは子上。司馬師の同母弟。母は、例の張春華だ。
211年(潼関ノ戦)のとき生まれた。兄より3つ下。母体の負担がかからないように笑、司馬懿が手加減したんだろうか笑
238年、新城郷侯。弟は、28歳。
父が遼東に遠征し、兄が散騎常侍になったのと同じときだ。やはり司馬氏の未来のため、父は万一に備えて出発したんだ。「1年だ」なんて見栄を切っておきながら、適度に臆病なんだね。
曹芳に代わった正始年間の初め(240年)、父は太傅に祭り上げられた。弟は、典農中郎将。曹叡は奢侈ってたが、弟が農業振興に務めたので、農民たちは大いに喜んだ。弟が優れた役人だったいうよりは、曹叡がひど過ぎたんだ。みんなギャップに弱いから笑
転じて、散騎常侍。地味に安全に固めています。
■曹爽を失敗させる
244年、曹爽と夏侯玄が蜀を攻めた。総大将は曹爽で、征蜀将軍が弟、副将は夏侯玄。
薄っぺらく功を焦った曹爽の暴挙なんだが、弟も参加してる。面白いのは、父でも兄でもなく、弟が参加しているということ。
父子たちは、この蜀攻めが失敗することを見抜いていたと思う。だって、曹操も曹真もミスったんですよ。そのときと比べて、魏が大きく違っているとは思えない。もし成功させるつもりなら、兄を参加させるでしょう。
「いちおう従軍しましたよ。サボッてませんから。でも失敗したとしても、司馬氏のトガじゃありませんよ。まして、うちが出したのは、二軍である弟くんだ。司馬氏の真価は、別にある」というポーズなんだ。
奇跡で成功してしまっても、曹爽の次に大きな手柄を立てられるしね笑
弟の陣は、蜀将の王林に夜襲を受けたが、堅く守って乱れなかった。弟は、曹爽に言った。
「費禕が險に拠って、距み守っている。攻めても仕方ないよ。帰ろう」
こうやって撤退に導いて、曹爽を失敗させた。
結果は敗戦には違いないが、弟は「撤退の機会を掴んだ」という功を積んだんだ。うまいなあ。議郎となった。
後年、蜀滅亡のための経営判断を下すのは、弟なんだ。弟は、蜀の国力や人材について、かなり知悉していたのかも。多くの間者を、紛れ込ませていたんじゃないか。
249年正月、曹爽殺しのクーデターに「参加」して、千を増邑された。
■東西転戦
249年9月?に、姜維が攻めてきた。
何回も攻めてくるから、対姜維戦の記事があっても、いつのことなのか分からないよ。迷惑だなあ。
征西将軍・郭淮が長安から出て、姜維の別将・句安を攻めたが、勝てない。
弟は、安西将軍となり持節して、駱谷に移って姜維を陽動した。姜維は釣られて、南鄭を守りに行った。句安は「姜維はこっちを助けてくれないのか」と、降伏した。
251年、弟は安東将軍となり、王淩の乱を鎮めに、許昌に向った。対王淩の前線基地だからね。王淩に勝った後、督淮北諸軍事となり、都督を号した。父、ここで退場。ご冥福を祈る。
252年、孫権の死に漬け込んで、東興ノ戦。
「文帝紀」には、弟が征東将軍=胡遵、鎮東将軍=諸葛誕を率いた、とあるけれど、実質的な指揮権は委任していたんだろうね。
丁奉の、薄着特攻作戦を食らって、魏軍は敗れてしまった。
■姜維のウソを見抜く
253年4月か、254年6月。姜維再来。
前者だと、諸葛恪の合肥新城包囲と重なるから、とても悪質。兄は諸葛恪の対応をしてるから、兄弟が東西でバラけていることになる。後者だと、兄が夏侯玄・李豊を殺した後。いくらか、お日和がいい。
姜維は、隴右を寇して、「狄道を攻めちゃるぞ。覚悟せぃやあ」と声を上げた。異民族を味方に付けて、西方を脅かすよ!というアジテーションだ。
弟は、行征西将軍にさせられて長安に助けに行った。雍州刺史の陳泰が泣きついた。
陳泰「姜維が来る前に、狄道を押さえましょう」
弟「不可。姜維はまだ、穀を聚めて、邸閣を作っているだけだ。これは、のちのち兵糧として使うための備蓄をするのが狙いだ(まだ本気で攻めてこない)。本当に攻める気があるなら、どうしてアジってるんだ」
弟は姜維がせっかく作った営舎を焼いた。
新平の羌胡が背くと、たちまち平定した。クールだね!
■兄の裏方
254年、曹芳から曹髦に換えたとき、高都侯に進んだ。
「文帝紀」には、行動が何も書かれていなくて、不気味なほどに簡潔だ。かと言って「景帝紀」に弟の活躍が書かれているわけじゃない。というか、このときは兄の活躍すら、直接的に書かれていない。いくら読んでも「諸臣が」みたいな書き方。
おそらく、皇帝を換えるのは良くないと知っている編纂者が、あえてボカしたんだろう。平たく言えば、反曹芳の世論を形成し、宮廷で先頭立って「曹芳は不適格者だ!」と叫んだのは、兄弟なんだ。少なくとも最初の一石は兄弟のどちらかだ。
弟が姜維対応に手を取られていたなら、兄がやったんだね。
■お留守番
255年正月。毌丘倹・文欽ノ乱のとき、中領軍を兼ねて、洛陽でお留守番をした。すなわち、皇帝直属の軍隊を仕切り、万が一のときに備えたんだ。もし兄が負けて、洛陽VS寿春という大内乱になったら、洛陽側の筆頭将軍として戦うことになっていた!
父が遼東に出征したときと言い、周到な一家です。
次回、兄が死にます。