■お目出たくない
255年、毌丘倹を討った兄が、目の病で退場。
弟が許昌まで出てきて守り、尚書=傅嘏が六軍(兄が連れてきた軍勢)を洛陽に連れ戻した。
許昌で弟は、傅嘏&鍾会(鄧艾?)の策を用いると、洛陽に帰った。曹髦から、劍履上殿を進められたが、固辞した。兄はもういないから、これを断るのは弟の順番なんだ笑
ところで、傅嘏&鍾会(鄧艾?)の策って何だろう。分からないから、後日の課題。おそらく殿軍として、毌丘倹の後始末をやったのでしょうね。
もしくは、曹髦が司馬昭から六軍を切り離そうとしたので、思惑を見破ったんかな。「もう許昌なんてどうでもいいから、早く洛陽にお戻りなさい。軍権を取り戻しなさい」的な。
■お断り2
256年正月、九錫を与えると言われたが、却下!
■諸葛誕は鈍くなる
257年5月、諸葛誕が叛乱した。
議者「早く討ちましょう」
弟「諸葛誕は、毌丘倹の失敗を活かすだろう」
議者「(じゃあ、なお怖いじゃん。早く討たなきゃ)」
弟が言うには、
「倹は、軽疾して傾覆した。誕は慎重かつ大規模に、呉と連合して乱を為すだろう。多人数で大きな事を成そうとすると、動きが鈍くなるものだ。こっちもじっくり協力体制を練り、それから撃破しよう」
すごく勉強になりますね。司馬子上、ビジネス講師になれる笑
■曹髦連れ出し
弟は、こうも言った。
「劉邦さまは、鯨布の叛乱を親征しました。曹叡さまも、輿に乗って外に出ました。陛下(曹髦)も、来るのが筋じゃなくなくなか」
きっと、司馬氏の留守番がいなかったから、皇帝を連れ出そうとしたんだ。長男の司馬炎はこのとき、22歳。洛陽で皇帝を見張らせるには、まだ心もとないよね。
諸葛誕としては、淮南で勝利を収められたら、それがよし。
もし敗れても、洛陽の空隙を突いて、弟を失脚させる「忠臣」が現れても、またよし。
そんな覚悟で、三国鼎立の宿敵であるはずの、呉と結んだんだ。
呉&淮南&曹髦&洛陽の魏臣 VS 司馬昭
という、「三国志」がひっくり返るようなパラダイムシフトをやってくれたんだもんね。
それを弟は、皇帝を連れ出すことで阻止した。つまり、
呉&淮南 VS 司馬昭&曹髦&洛陽の魏臣
という、いかにも「三国志」な図式に戻したんだ。そうか、弟は「三国志」の擁護者だったわけね。妙に納得してしまったり笑
257年7月、曹髦も皇太后も出陣。皇太后は、偽勅の名目によく担がれる危険人物。司馬氏にも反司馬にも、とても便利な秘密兵器だね。
■これを勝計というのだ
8月。呉の朱異が、寿春に入って諸葛誕と連携しようとした。
魏の石苞・州泰が防ぎ、胡烈が兵糧を焼き払ったため、朱異はミスった。呉に戻ったら「この根性無しめ!」と、殺されてしまった。
弟のコメントが入ります。
「朱異が寿春に入れなかったのは、罪じゃない。しゃあない。呉が朱異を殺したのは、諸葛誕の意を堅めさせるためだ。諸葛誕の闘争心が消えなければ、味方が欲しくて仕方なくなるだろう。もっと諸葛誕が呉を依存するように仕向けたんだ」
朱異の作戦ミスが「しゃあない」のは、弟が自分の軍の優秀さを誇っているんだろうか笑
もし呉が朱異を斬った思惑がこのとおりなら、そうとう汚いね。弟と諸葛誕を戦わせておいて、魏全体として弱くなるのを狙っているんだ。でも、もし単純に「命令不履行!」とかで朱異が斬られていたとしたら、ここまで勘繰った弟の方が、数十倍は汚い!
弟はこの乱で、よく喋る。
「大軍を持ちこたえるのは、しんどい。諸葛誕たちは、3つのことしか考えられないはずだ。ひとつ、食料の節約。ふたつ、口減らし。みっつ、事態が好転するラッキーなアクシデント。これをよく踏まえよ。それが勝計というものだ」かっこいい!
■司馬昭は神か?
弟は、羸疾あるもの(病気か?)を後方に下がらせ、補給線を強化した(のかな)。軍士に、1人3升の大豆を分け与えた。城内には裏切るように活発に仕向け、また「今に呉が助けに来るぞ」と誤報を流した。
文欽は喜んだ。
「包囲の数も減っているし、包囲軍は美味そうな食料をたくさん持ってる。まして、呉が助けに来るってじゃねえか」と喜び、籠城用の食料を食べまくってしまった。馬鹿じゃねえの笑
決戦の前の腹ごしらえというニュアンスなんだろうが。
石苞と王基が、「今がチャンスです。是非とも攻めさせて下さい」と、せっついた。こういう役回りの将軍は、どこにも必ずいるんだ。気持ちは分かるが、脇役キャラのセリフだ。
弟が、待て、と言う。
「言うても、諸葛誕・文欽は強い。游軍之力を損なってしまう。いまバカ正直に攻めたら、呉に漬け込まれるぞ。食料補給だけは遮断して、あとは城内が干上がるのを待てばよい。そしたら、自然と呉も諦めるはずだ」
天下を取った成功者だから、いちいち発言が的確なのか。それとも、司馬昭を讃える目的もある『晋書』の記述だから、ここまで神がかっているのか。判定が難しいね。
『演義』の諸葛亮しかり。執筆者と心を通わせているキャラは、どんなことをやっても成功するんだ。
司馬昭は(過去の事実として)天と通じ合ったから成功した。諸葛誕に勝ったのは本当なんだ。それが『晋書』という書物に場を移して、筆者という「擬似的な天」と思惑を一にしているのは、あながち荒唐無稽な演出とは言えない。歴史書・歴史物語の永遠のテーマだ。
■敵認定は、順序良く
258年正月、諸葛誕は文欽を殺した。仲間割れだ。
文欽の子で、兄を驚き殺した文鴦が、下ってきた。弟は文鴦に「ボクは降伏して、厚遇されました」と、ビフォアアフターを宣伝させた。それを見て、ごくっと生唾を飲む城壁兵たち。弓を構える者はいない。
・・・司馬昭、諸将に曰く「攻めるべし!」
弟は諸葛誕を斬り、呉から援軍に来てた連中を殺さなかった。「之を坑(あなうめ)すべし)」という意見があったが、弟は撥ね退けた。
同時に2方面に敵を作ることは、得策ではないんだろう。あくまで今の敵は諸葛誕。呉は敵じゃない。曹髦も敵じゃない。彼らは、順序良く始末していけばいいんだ笑
ああ、すごく実生活に役立ちそうな知恵ですねえ。
■お断りその3
258年5月、相国・九錫を辞退。
相国になってしまうと、もう上がない。諸葛誕を平らげただけじゃ、まだそこに昇るには早いんだろう。
まだ、呉も蜀も健在だ。階梯は残しておかないと。
■地方官再編
259年6月、荊州を分けて都督を2つ置く。
王基が新野を鎮め、州泰が襄陽を鎮めた。石苞を都督揚州とし、陳騫を都督豫州とし、鍾毓(鍾会兄)を都督徐州とし、宋鈞を監青州諸軍事とした。
「文帝紀」は、文字どおり本紀だから、こういう年表的な出来事まで載っている。弟に直接関係ないけど、司馬氏の与党の動きとか、魏末の人事を見ておきたいので、載せてます。
次回、皇帝の曹髦を殺します!