■突き抜けた刃
260年5月。
曹髦は、侍中=王沈、散騎常侍=王業、尚書=王経を召し出して「司馬昭を討ちましょう」と言った。皇帝に敬語を使わせたのは、そのほうが語呂がいいからだ笑
皇帝の密謀は、例によって漏れた。
司馬派に、賈充がいる。賈逵の子。
賈充が狂犬たちを集めて、叱り付けた。
「司馬公が、キサマらを畜養してきたのは、まさに今日のような日のためなんだ」と。すなわち、司馬氏の未来のために、凶行に及びなさい!と命じたんだ。
成済という男が曹髦の前から剣を突き立てると、背から剣が飛び出した。。
弟は百僚を集めて「何があったんだ。なぜなんだ」と狼狽して見せた。きっと演技なんだ。曹髦が死んで最も得したのは、弟だ。影で糸を引いていたのは、弟だ。
■陳泰VS司馬昭
1人だけ、欠席者がいた。陳泰(陳羣の子)だ。弟は、荀顗(荀彧の子)を遣って、呼び寄せた。
弟「天下がこのようになってしまった。さあて、どうしたものだろうか」
陳泰「ただ賈充の腰をカッさばき、微かながらも天下に示しを付ける」
弟「キミには、その次を思うべきだろう」
この弟の発言は、どういう意味だろうか。「賈充を腰斬にした次は、どうしようかなあ」ではあるまい。
すでに死んでしまった曹髦のことを忘れて、次の皇帝を迎える段取りをすべきだろう、という意味だと思う。飛躍させれば「曹氏の次は、どの家が皇帝になるべきか。誰を敬うべきか。それを考える時期なんじゃないのかね?」と圧迫したんだろう。
弟が召集をかけたとき、陳泰はボイコットした。すなわち「司馬昭の罪だ。今さら集まって詮議しても、仕方ないだろう」という暗黙の告発なんだ。
そういう態度は、キミの家のためにならないよ、という脅した。
陳泰も負けてはいない。
「私はただ上を見るだけだ。次を見ることはしない」
ここの「上」とは、陳泰の主君である曹王朝。「次」とは、暗に仄めかした司馬王朝だろう。
上とは曹髦、次とは次代皇帝(曹奐)ということでは、迫力がない。陳泰が、ここまで目を血走らせた意味がない。こんなでは、まだ成人したての曹髦への、陳泰の個人的感傷・追慕になってしまう笑
■皇帝殺害の始末
弟は、皇太后に上表した。
「実行犯の成済は、三族皆殺しが相当でしょう。これにて、一件落着で宜しいですね」と。こうして、弟はまんまと果実だけ手に入れた。
曹宇の子、曹奐が立った。
曹宇は曹操の子で、曹叡が死にかけているとき、大将軍を任せされそうになったね。「器ではございません」なんて辞退していたが笑
■お断り4
250年6月、曹奐が即位したとき、弟に相国・九錫を勧めた。
もちろん辞退です。
■お断り5
251年8月、相国と九錫を、弟はやはり辞退。
■お断り6
253年2月、以下同文(笑)
■蜀を討つ提案
これだけ、相国・九錫を繰り返し勧められたのは、不自然。
というより、勧めさせるようなプレッシャーを、発しまくっていたんだろう。このタイミングで、ついに弟が、蜀を討つ話を出してきた。
劉備の青雲の志とか、諸葛亮が命数を削った悲願とか、劉禅の平和主義とか、姜維の野望とか、そういうものは関係ないんだ。弟がどう魏朝で立ち振る舞うか。いつ「功績」を立てるのが、効果的か。そういう、洛陽の朝堂で完結する、パワー遊戯だけが大切だったんだ。
同じように、呉が亡ぶときだって、晋朝内でのシーソーゲームが、最もキーとなる要因だったし。
題して、逆天下三分ノ計。※平たく、天下統一の計ともいいます笑
出師ノ表をパクった文調で、弟さんに喋らせてみます。
■「出師ノ表」feat.司馬昭
「臣昭が、謹んで申し上げます。寿春で諸葛誕・文欽を討ってから、6年も経ちました。その間ずっと、武具を修復し、呉蜀を討つために力を蓄えて参りました。
国力は充満し、逆☆危急存亡の秋です。
さて。まず、孫呉を滅ぼすことを考えるに、水路を掘って船を建て、10万余人が半年がかり専従するような準備が必要です。無駄骨です。また、長江下流は疫病が発生しやすい土地柄です。(伯父の朗も、父の懿も、兄の師も、呉方面で命を落としました。私事でゴメン)
ですから、まず蜀を討つべきです。蜀を討った後に3年間の準備をして、水陸並行して長江を下れば、呉も手に入るでしょう。
蜀の総兵力は、私は9万だと見ています。成都や各地を守備するのは、せいぜい4万です。姜維は沓中に縛りつけ、漢中と分断しましょう。さすれば、首と尾が途切れたようなもの。天然の要塞である蜀ですが、こうすれば劍閣も使い物になりますまい。
劉禅は暗愚ですから、城壁を越えて逃げてきます。士女は臆病に震えているだけ。滅亡間違いなしです」
■成都陥落
弟に、反対する人もいた。男なら感動して泣いてろよ笑
征西将軍=鄧艾は、「まだ釁がないぜ」と反対した。
難しい漢字を使うから、何がないんだか、分からねえじゃないか。
どうやら「釁」とは、「ちぬる、ひま、すき」と読むらしい。ぼくの推測ですが、「まだ蜀には、こちらが漬け込めるような内紛がありませんよ。団結してます」と警告したに違いない。
しかしここは弟。鄧艾の発言の真意を見抜いた。鄧艾に主簿=師纂を遣わして、こう伝えた。
「もし、キミが征蜀戦に参加するとしたら、どうかね」
すると鄧艾は、「蜀を討ってみせます」となってしまう。すなわち鄧艾が訴えていたのは、蜀が手ごわいことじゃなくて、自分を参戦させないことへの不満だったんだ。
鄧艾は司馬(役名)として随行し、成都を奇襲で落とした。
鄧艾の他にも、蜀討ちに反対する人がいたが(鄧敦とか)斬られた。。
次回は、ついにお待ちかねの、アレです。