三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
リメンバー酸棗の血盟、臧洪伝(3)
■よく泣く
陳寿「臧洪伝」を読んでいて思うんだが、非常によく泣くんだよね。
自分が正しいと思ったことを貫こうとしたとき、思いが込み上げてきて、泣いちゃうんだろうね。感動癖があり、正義感が強すぎる。だから、正義を妨げる連中に対しては、とことん容赦なくて。

『演義』で劉備がよく泣くことは有名だが、あの歓心を買おうという涙とは、どうも種類が違う。自分のためだけに、涙を流し、ほおを水滴が伝う感覚そのものが好きなんだ。
「顎からポタリと雫が落ちるたびに、ああ、オレは正義に生きているな」と実感できるのです。
その涙を見て、最期には「臧洪サマに殉じよう」という人が8000人も出てしまう。涙の魔力は、涙腺の持ち主の動機は何であれ、魅力的ということか。仕方ないねえ。

■勘違い盟主さん
張超、張邈、劉岱、孔伷、橋瑁。
彼らの共通する思惑は「臧洪に喋らせておけば、互いの顔が立つ」という一点だったと思うのです。この、無官の男を「盟主」にして、酸棗の同盟が成り立っていた。
張超なんかは、マジに臧洪を信望していたんだろうが、それ以外の人は「現太守の誰かが盟主をやれば、バランスが崩れる」くらいの気持ちだろう。

だが!臧洪としてみれば、これが人生のピークです。
後半生は、この血盟を果たさせることだけに、執念を燃やしたと言っていい。はず。
人間は、自分が一番良かった時期のことを繰り返し思い出すものです。継続を望むし、もし状況が変わっていたら、元に戻したいと思う。

外野であるぼくからすれば、士大夫のサロンの、仲良しゲームでしかないんだけどね。
後の歴史が示すように、この5人は、誰も積極的に攻めるつもりはない。しかし「董卓討つべし」というのは、「心ある人」ならば「常識として」抱くべき志である。いっちょ、ポーズだけでも、見せておきますか、と。

おそらく、臧洪だけが気づいていなかった笑

■袁紹、格の違い
酸棗の同盟に、韓馥の掣肘を受けていて動けなかった、袁紹殿が加わった。
袁紹が加われたのは、橋瑁が三公の文書を偽造したから。おそらく橋玄からの繋がりとかで、書式やら文書の装飾やらを、それっぽくしたんだ笑

袁紹が加わることで、「挙兵」としての実態が整ったし、各地に散らばっていた諸侯との連絡も取れるようになった。
臧洪としては不本意ですが、やはり軍をドカンと動かせる指揮能力は、袁紹の方が格段に上だったと思わざるを得ない。
誓約文を読み上げて、一兵卒にまで涙を流させる臧洪だが、名俳優と名リーダーの資質は異なるのだ笑

袁紹は、劉虞の擁立というビジョンがあった。
董卓が立てた劉協はニセものだ。山西の奴らが勝手に祭っているに過ぎない。劉弁亡き後の、正しい皇帝を選びなおそう!という話。
これは諸侯のいろんな欲をくすぐっただろう。新帝が立てば、それを助けた手柄が手に入る。この時点では、やっと兵権を手に入れたばかりで、根拠地すらない袁紹が、リーダーたりえた理由は、このビジョンを描く発想があったからだろう。
※もちろん、袁氏という血筋はアドバンテイジだが。
同時に、「皇帝は劉協じゃなきゃいけない」という既成概念を打ち砕いてしまったがために、袁術のように「じゃあオレが皇帝でも良くなくないか?」と言い出す連中も出てきてしまうんだが。
袁紹は、パンドラの箱を開けましたね。

臧洪に目を向けてみます。
のちの陳琳への手紙で「親のための義、君のための忠」とひたすら喚いた。彼には、それ以上に具体的なビジョンなんて立てられない。董卓が劉協を皇帝というなら、その皇帝に尽すのが忠なんだ!という、思考パタン。
陳寿に「弱体な軍隊で強敵に挑むもんだから、せっかくの烈志も、果たせるわけないよ」と酷評されてしまう。確かに、臧洪の限界はそこだ。
リメンバー酸棗の血盟、臧洪伝(4)
■同盟の崩壊
阿呆なチビ(曹操)が戦いを挑み、徐栄に敗れた。
厭戦ムードが漂う中、劉岱が橋瑁を殺してしまった。袁紹が「盟主」として「挙兵」したのが、190年の正月。この仲間割れが起きたのは、190年の2月。たった1ヶ月後、すぐじゃないか。
臧洪にしてみれば、「あのとき5人は固く結束していたのに、袁紹がつまらん知恵を付けるもんだから、こうなってしまったんだ」と嘆いただろう。きっと泣いた笑

■気乗りせんお遣い
張超が、臧洪に言った。
「大司馬・燕王(劉虞)様のところに行き、天子に即かれるように、説得してきてくれないか」と。これは、臧洪が一番聞きたくなかった言葉なんじゃないか。
「袁紹が、別に天子を立てようなんて言うから、反董卓同盟の間で、変な牽制が始まってしまった。橋瑁殿も、死んだ。ただ劉協陛下をお救い申し上げるという一心で、一気に洛陽を攻めれば良いじゃないか」と、反論したかったんだろう。

しかし張超の頼みにNOとは言えない。出立。
劉虞を攻撃する公孫瓉に阻まれ、公孫瓉と袁紹の戦難にもブチあたり、劉虞に会うことは出来なかった。実際に、このとき戦争は起こっているものの、臧洪は全力で劉虞に会いに行こうとしなかったんじゃないか。
なんか、言い訳くさい。
ある程度の名望のある人間が、「戦闘が激しくて、道が塞がれていた」なんて理由で使命をミスる記事を、あんまり『三国志』で見たことがない。敵としてマークされていても、逃亡できちゃう記事の方が多いし。
大地が荒廃するのを見ながら、「董卓との戦いに正義はあったが、こんなのはただの利権争いじゃないか。醜いぜ」と思って、足取りも重くなったのが本当だろう。

■袁紹との会見
使命を果たせなかった臧洪は、袁紹と会う羽目になった。
袁紹は臧洪を評価したという。このとき、どんな会話があったんだろうね。
袁紹としては、公孫瓉との戦いがあるので、臧洪を抱き込みたい。自派閥の有力な将として、一州でも治めてもらうのが都合がいい。張超が見込んだ才能は本物だろうし、人脈も捨てたものじゃない。

うまく臧洪自身の正義とリンクさせて、好都合に協力を引き出したい。
「これはこれは!董卓討伐の真の盟主殿よ!お会いできて光栄です。董卓を取り逃がしてしまい、この袁紹はとても残念に思っているのです。私の無力が招いた、最悪の事態でございます。うっうっうっ泣」
と、会った瞬間に大袈裟に、先を制して感動して見せたとか笑

■青州を2年治める
このとき青州は、公孫瓉が派遣した田楷(劉備の上司)が入らんとしていた。これに対抗させて、袁紹は臧洪を使ってみようと思ったんだろう。
さらに感情を高ぶらせて、言ったはず。

「青州は、後先を省みない前刺史の焦和のせいで、ヒドい状態です。我らが董卓に局地戦で敗れたとき、ますます黄巾がのさばるようになりました。天子の敵のせいで、青州は、全て廃墟となりそうです」とかなんとか、適当に言ったんだろう。
焦和は、「臧洪伝」に引かれた裴注『九州春秋』に見えるが、本当に無能で、巫女に祈って計画性のない統治と戦闘を繰り返したようです。

思わず乗せられちゃった臧洪は、2年で青州を鎮圧。
191年~193年くらいかな。
他の資料との関連性をきちんと見たわけじゃないが、このときにアブレた青州黄巾が、渤海に侵入して公孫瓉と戦い、やがて兗州に乱入して劉岱を殺し、曹操に降伏するんじゃないのかなあ。

■張超との距離
あんなに蜜月だった張超とは離れて、青州を治めています。
張超を恩人として感じる部分では「張超殿は、劉虞様を推された。袁紹殿に同意しておられるに違いない。今は袁紹殿の意に沿うことが、張超殿へのご奉公だ」と思っただろう。
また、張超が劉虞を支持したことを苦々しく思うので、「しばらく距離を置き、互いに太守や刺史としての手腕を競うのも良かろう。張超殿だって、自己責任で治世に励まれるがいいんだ」と思っていたかも。

次回、張超が曹操に囲まれます。士大夫としての威厳を争っている以前に、プレ三国志のサバイバルレースに身を置いているという自覚が必要だったんですね。張超も、臧洪も。
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