三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
リメンバー酸棗の血盟、臧洪伝(5)
■張超のピンチ
袁紹は「臧洪殿って、青州を治めちゃった。ヤバくね?スゲくね?」と感嘆して、東郡太守として東武揚に転任させた。
前任者は誰かなあと探してみると、曹操だと思う。
曹操が青州黄巾を征圧し、兗州牧に成り上がって、空席になったんだろう。万が一、部下の曹操が敗れて黄巾が暴走したとしても、臧洪が止めてくれるという計算だ。

この時点ですでに、臧洪は「袁紹の持ち駒」になってる。
ただ正義を信じて青州を治めているうちに、袁紹は確固たる河北の巨人の地位を築いてしまったんだね。
ビジョンを描ける人間と、目先の正義に躍起になってしまう人間。優劣はなかろうが、対立したときに馬鹿を見るのは、後者だろう。

195年8月、雍丘で張超が包囲された。
これは、徐州侵攻している空隙をついて、兄の張邈が呂布と結んで曹操を攻めたからなんだが。張超は言った。
「臧洪だけが頼みだ。必ず救ってくれる。臧洪は、天下の義士だ。引き立てた人物を見捨てるはずがない。ただ、足止を食らって、来てくれないことが心配だ」と。

■袁紹の采配
臧洪は果たして、裸足で飛び出して号泣し、すぐに袁紹に「張超殿を救援したい。兵を貸してくれ」と願った。

袁紹の計算としては、曹操を活躍させておくのがお得だ。曹操は、袁紹派閥の急先鋒として、兗州を平らげ、徐州を攻めた。使い勝手は最高。
曹操が濮陽で疲弊したときは、「ご飯を食べに、帰っていらっしゃい」と手を差し伸べるほどの、重宝ぶり。なかなか、ここまでしてくれる袁紹さんではないですよ。

張邈と張超の兄弟は、言わば「袁紹を裏切った」のです。初めは張兄弟と同格以下だった袁紹も、すでに彼らよりずっと大きくなり、群将たちを左右に転がして、利用できる高みに上っていた。
袁紹にわざわざ許可を求め、兵を貸してくれと言っている時点で、臧洪の正義は、自前で実現できなくなったということです。巧妙なり!袁紹。

■臧洪の夢想
張超は、195年12月、曹操に殺された。
かつて自分を、広陵太守の代理のごとく重用してくれた人が、酸棗のとき無官だったチビに殺された。張邈もまた、始末された。あの5人の誓いに同席した人は、全員死んでしまった。
※孔伷の最期は分かりませんが、豫州刺史を二袁が争っているので、おそらく190年に死んだんだろうという推測に便乗します。

絶望の臧洪の目の前にあるのは、曹操を使って河南を切り取りにかかる袁紹と、袁紹からの独立も視野に入れて小ざかしく立ち回る曹操。天子は、長安で幽閉されたまま、小物どものお手玉状態。
これが怒らずにいられようか!
臧洪がMCをやった、山東の挙兵の主役達は、どこへ行ったのか。
その志は、どこへ行ったのか。
山東を結集した願いが、俗物どもの国土争奪ゲームに置き換えられてしまって、これでいいのか!

臧洪は、袁紹を怨恨し、絶交した。袁紹は臧洪を包囲した。

■陳琳の攻撃
曹操を官渡のときに、扱き下ろしたことで有名な陳琳ですが、臧洪にも同じことをやっています。陳琳の文言攻撃には、臧洪も参ったらしい。6通に渡って、長々と故事を語ったようです。

臧洪の返事は、こんな感じ。
「利害をご説明され、公私に渡って行き届いたお手紙を頂き、ありがとう。しかし、私がずっと返事をしなかったのは、何を言っても無駄だからです。陳琳さんは、故郷から離れて袁紹にへつらい、袁紹の言うがままに筆を走らせているだけでしょう。」と、個人攻撃なんてやり始める。まともに文章対決をしても、勝てないと思ったからだろう。
軽く、降伏宣言だ。
「損得も道理も、天下には議論が溢れていて、どんな風にでも言えてしまう。私が何か説明しようものなら、かえって(揚げ足を取られて)不明確になる。だったら、何も言わない方が、まだ無難というものだ」
ここまで開き直らせてしまう陳琳の筆才は、相当のもの!

さらに、袁紹への呪いの言霊を発する。
「袁紹殿には、とても良くして頂いた。青州を治めさせてくれたし、これは並以上のお計らいだ。包囲する『袁』の旗を見るにつけ、同郷の陳琳さんの心のこもったお手紙をもらうにつけ、逆らう気持ちなんて、さらさらなかったと思えてくる」
「しかし、張邈殿を曹操に殺させ、張超殿への救援を拒否られたことは、許せない。張導(景明)、劉勲(子璜)、呂布(奉先)のやったことは、袁紹殿には不愉快かも知れないが、山東を統一して、天子を助けるにはプラスでした。自己都合ではなく、もっと山東全体のメリットに報じるべきだ」
これが、臧洪の真骨頂。この調整が、ライフワーク。
リメンバー酸棗の血盟、臧洪伝(6)
■臧洪の反撃?
「袁紹殿、そろそろ、張楊と張燕が動き出しますよ。公孫瓉も、黙っていませんよ。私の包囲を解いて、鄴の守備を固めたほうがいいんじゃないですか」
「陳琳は袁紹に仕えるつもりらしいが、臧洪は天子に仕えるのだ。陳琳は、私が死んだら、人々は臧洪の名を忘れると思っているだろう。そうかも知れんな。だが私は、陳琳の名前が残ることもまた、怪しいもんだと思っている。せいぜい頑張りたまえ」
最後の捨て台詞は、陳琳に対する当てこすりだったようですが、歴史とは残酷ですねえ。陳寿の名は「ゼーエンのイシュー」と曹操を非難した文筆家として記憶され、臧洪の名は『演義』から消されてしまった。

歴史の皮肉はさて置き、あくまで臧洪は「山東が連合し、漢を復興する」という、特段、現状を分析したでもない理想論に終わって行くのです。
あくまで漢の地方官として無名に終わって行くのは、はじめ一緒に県長に任命された、趙昱・劉繇・王朗と似ています。

■つらい籠城戦
袁紹は臧洪の亀レスを読み、降伏するつもりがないことを知った。兵を増やして囲んだ。
臧洪は城内で「キミらは逃げよ」と言ったが、将軍・官吏・兵士・人民は、涙を流して「逃げません」と言った。同質の人が集るものなのかねえ。
「臧洪殿は、袁紹に怨恨があるわけではないのに、張超殿や張邈殿の都合で、こんなことになってしまいました。殉じる覚悟はできています」

ネズミを掘り出し、獣のツノを煮て食べた。臧洪も一緒に、うすいうすい粥を分け合った。臧洪は愛妾を殺して、人々に振る舞った。この辺りが、よく泣く劉備と、微妙にシンクロするんだよなあ。
ついに、8000人が討ち死にした。

■袁紹、意味不明
袁紹は臧洪を引っ張り出し、親しみを込めて「やっとこさ、屈服したか」と大勢の前で聞いた。
しかし臧洪は、目じりを裂いた。
「袁紹。私はあなたが、張邈殿を、兄と呼ぶのを目の前で見たぞ。ということは、張超殿は弟に当たるではないか。それなのに、曹操が彼らを滅ぼすのを見過ごした。どういう料簡か」
「張超殿を救えなかったのは、私の無力さのためだ。残念だ、残念だ」
「ところで袁紹。どこで、どういう理屈を辿れば、屈服という話になるのか、むしろ教えて欲しいものだ」
袁紹はこれらのセリフを聞き、臧洪が役に立たないと思い、殺した。

ここの「臧洪伝」のサラッと流してしまいそうな記述が、とても面白い。袁紹はあくまで臧洪を、自軍閥の拡大に有用かどうかで見ていた。
士としての友情を示すものの、すでに目は、領土の切り取りに向っていたのであって。だから、「屈服したか」というのが、臧洪に聞きたかった唯一のこと。
しかし臧洪は、そんな袁紹の変化(もしくは時代の潮流)を見ずに、あくまでサロン内のお付き合い&義理立てに拘っていた。天子とか先祖とかを敬うという議論以上には、興味がなかった。

袁紹が「屈服したか」と聞いた意味すら理解せず、臧洪は死んだんだろう。「ニセ山東の盟主」は、何を寝ぼけたことを、いきなり言い出すのか。そういう新鮮な驚きに支配されて、首が宙を舞ったんだろうね。

■エピローグ
陳寿は「臧洪伝」にくっ付けて、「陳容伝」を書いた。
臧洪と同郷で、臧洪に従って東郡の丞。臧洪が殺されそうなのを見て、「臧洪殿は、郡将のために酸棗で兵を起こしたのです。どうして討つんですか」と抗議した。
袁紹が「どうして、臧洪の仲間でもなく、落城前に脱出したキミが、臧洪を庇うのか」と詰問した。それに対して陳容は、「臧洪と一緒に死んでも、袁紹と共には生きまい」と言った。袁紹は陳容も殺した。
袁紹の周囲は、こっそり「ああ、今日は2人も烈士を殺してしまった」と囁きあったという。

臧洪は2人の司馬を呂布に遣り、救援を求めていた。2人が帰ってきたとき、すでに落城していた。2人は袁紹の陣に突入して死んだ。
五原郡で出会った二人のコラボは成らず。。

やたらと死に急ぐよね。
打算とかが特にあるわけじゃなく、群雄割拠の時代に転換して行くことに、心が追いつかない人たちが、後漢の安定期の道徳観を追いかけて、一見「理不尽で馬鹿な行動」に走ったのでしょうか。
「天子のために、尊敬し合う仲間同士が血をすすり、私欲の権化を滅ぼすのだ」という酸棗の感涙は、どんどん過去のものになっていくのでした。酸棗だけに、しょっぱいねえ。080323
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