■三国志キャラ伝>不老不死を願う呉の大帝・孫権伝(1)
■本稿の目的
本稿の目的は、孫権を「不老不死を強く願うキャラ」と位置づけること。
そりゃ誰だって、多かれ少なかれ老いるのも病むのも好きじゃない。死ぬのも、基本的には好きじゃない。でも孫権は人一倍その気持ちが強かったんじゃないか。それを8つの根拠を並べて見てみようと思います。
 
◆タイトルについて 
三国志の『呉書』によれば、孫権の伝記は「呉主伝」です。
「伝」だから、皇帝として扱ってない。このサイトも「伝」表記で通します。特別な意味はありません。孫権を正統な皇帝と認めるなら「紀」が好ましいわけですが、まだその議論をする用意がないんです。
なあなあで陳寿に倣って「伝」にしときました。

 ■根拠(1)孫堅と孫策の早死
孫権は、父と兄を早くに亡くしています。
孫堅は流れ矢に当って37歳で死んだ。孫権が10歳のときだ。
孫策は刺客の傷が元で26歳で死んだ。孫権が19歳のときだ。
 
幼い孫権にとって、彼らの死はよほどショックだっただろう。孫権は思ったに違いない。オレは父と兄の分も生きてやる、と。
現代日本人にも共感を呼ぶ、自然なメンタリティだと思う。
 
「呉主伝」にある。劉琬は孫策への使者の任を果たした後に言った。「孫氏の兄弟はみな優れているが、寿命をまっとう出来ないだろう。しかし孫権だけは長寿に恵まれるはずだ」と。孫策にしてみたら、とんだ不吉なコメントを残してくれたもんだ。
だが孫権にしてみれば、後年、自分の誓いへの肯定材料になったね。
『蒼天航路』で張遼に殺されそうになった孫権が言う。「わしの天命は孫家まるごと三代分じゃ」だったかな。細かい言葉は忘れたけど、こんなニュアンス。これは孫権の本音に近いと思う。
 
◆孫権の皮算用
成人した人の平均寿命を、控えめに60歳とする。
※人間五十年みたいな常套句があるけど、それは乳児死亡率の高さが平均寿命を下げているだけだ。もっと古い孔子さまの教えだって、70歳までコメントしてるじゃないか笑 ※曹操が死んだのが66歳、劉備は63歳だ。
ぼくが孫権なら計算する。
まず自分の寿命が60年ある。孫堅からもらったのは、60-37=23年。孫策からもらったのは、60-26=34年。よって孫権が生きられるのは、ミニマムで60+23+34=117歳。
これは寿命を60歳とした場合だから、うまくやれば130歳くらいまでは生きても、天の理に反したことにはならないだろう。
 
勇気溢れる血縁者が、コロッと死んでしまった。自分だって、いつ死ぬか分からない。死の恐怖と隣り合わせで生きていれば、これぐらいの「計算」をぼくならしたくなる。しないと耐えられない。
ちなみに実際の孫権は71歳で死んだ。孫皓が晋に降伏したときに孫権は「99歳」だ。結果論で申し訳ないが、孫権は三国時代の終焉を見届けるだけの寿命を「本来は」有していた。

 ■根拠(2)生き残りを最優先する外交
孫権を評価するときに、優れた外交感覚をあげることが多い。例えば夷陵の戦いの前夜、孫権は曹丕に降服した。しかし夷陵で劉備を撃退するや否や、蜀と同盟を結んで魏の侵攻に対抗した。
王朝を支えるイデオロギーがないから、翩々と態度を変える。
関羽を騙し殺したのは孫権、というイメージがある。諸葛亮ファンには、この孫権の外交姿勢が大変に腹立たしい。もっと同盟を尊重して本腰を入れてくれれば、魏を押し返せたんじゃないかと悔やまれる。
北方『三国志』では、孫権は漢(おとこ)らしくないの君主として、作者にも読者にも憎まれた。
 
孫権(ひいては呉)の外交方針の根幹には何があったか。
難しいことは何もない。生き残ることだ。
後世の史官の筆は、孫権の実態を捉えることに失敗した。「よーわからん奴」で片付けられた。史官は往々にして、正閏論に持ち込んで歴史叙述をする。しかし漢朝との関係に基づく正統論で計っても、何も出てこない。そんなものは、当事者の孫権が第一に置いてはいないのだから。
 
赤壁開戦という、孫権らしからぬ?闘志を見せるが、あれは「このままじゃ、死ぬんちゃうか」と思ったからだ。第六感が感じ取ったからだ。
諸葛亮が必死に説得に使った、漢王朝を頂点とした思考パタンは関係ない。

 ■根拠(3)荊州方面は他人に任せた
荊州は「用武の地」だ。漢王朝の国土の、ド真ん中に位置している。交通の要衝だし、広いし、豊かだ。だから必ず取り合いになる。
曹操・劉備・孫権という後に三国を築く英雄たちが、初めて三つ巴になって争ったのは、この荊州だった。
 
孫権は誰にも打ち明けずに、考えただろう。
「荊州は最前線でキツい場所だ。荊州を自分で何とかしようとしたら、合戦かストレスで死ぬんちゃうか」と。
 
孫権は、曹操と劉備をひどく怖れていたと思う。
曹操と劉備は、孫権の父の世代の人物だ。孫権は孫堅を、自己の中で崇高な存在に感じていただろう。孫堅は転戦していたから、孫権は父を見ていない可能性もあると「呉書見聞」さん(リンク集参照)が書かれていた。顔を知らぬ父。欠点を知らぬ父。神格化する条件が整っている!
それほどに尊い父と、くつわを並べた連中と張り合うなんて、恐ろし過ぎる。孫権は二人より、30ほど若い。彼らより後世に生き残れるというアドバンテイジはあるものの、赤壁合戦の後=荊州争奪戦の時点では、曹操も劉備も健在なのだ。怖いんだ!
 
そこで周瑜に一任した。周瑜に任せることに、後ろ暗さはない。孫策が死に際に「外のことは周瑜に任しとき」と言った。周瑜は実際に強かった。孫呉の根拠地は楊州だから、君主がそこを動かないことの妥当性はある。だから、周瑜にお任せした。
周瑜は案の定、合戦とストレスで死んだ。「益州攻略による天下二分」というオリジナルプランで、彼自身のモチベーションを維持して戦ったが、死んだ。それを継いだ魯粛も呂蒙も陸遜も、曹操(曹丕)と劉備の鋭鋒にさらされて、ものすんごく苦労した。
無数の屍骸の山を築いて、荊州を安定的にキープ。
あげく、陸遜の憤死である。陸遜は荊州管轄と呉の帝室という2つのテーマを同時に気遣ったばかりに、怒りとストレスで死んだ。
孫権は思ったに違いない。「有能で名族の陸遜ですら、ああなっちゃうんだもん。荊州を他人に任せてなかったら、オレもああなるところだったぜ。危なかったよなあ。ふぅ」。
孫権のテーマは、あくまで生きることなんだ。

 ■根拠(4)危険な合戦には極力参加しない
父や兄の教訓を得て、孫権は陣頭指揮で突っ込むことを好まない。
虎に鞍を傷つけられたりする暴挙はあるものの、基本的には後方にいる。
※安定期に入った勢力の君主なら、普通かも知れないけど。
  
孫権は、三国志読者が飽きるくらいに合肥方面に行く。
赤壁のときも合肥に行っていた。諸葛亮の北伐に呼応するときも、あっちへ行く。曹操(曹丕)と孫権の戦いは多すぎて、ファンにはどの戦のときにどのエピソードがあったのか、よく分からない。苦情に値する!
曹操の存命中だけでも、208年、209年、212年、214年、215年、217年、と長江下流で戦っている。
また悪いことに、目立った戦果(勢力範囲の変更)がない。孫権はお約束のように、撤退する。後には合肥新城なんてのも出てきて、もう一進一退がどうでもよく思えてくる。
 
孫権は何をしていたのか。
 
守るための攻めをしていたんじゃないか。諸葛亮の北伐の目的として、よく語られる考え方だ。
ただ兵を固めているだけでは、大国の魏に敵わない。士気もゆるむ。そこで自ら出撃することで、均衡状態を作り出す。ただし目的は領土の切り取りではないから、派手な戦果は必要ない。ほどよく撤退する。
諸葛亮の北伐よりも、孫権はずっと上手に「守り攻め」をやった。地理的な条件がいい。合肥方面は孫権の本拠地と近いから、補給線は短い。長江という天険があるから、簡単には破られない。基本的には、命の遣り取りをするような大会戦にはならない。
もっとも、215年に張遼にニアミスを食らって死にかけたが笑
孫権は張遼のことを、ものすごく憎んだんじゃなかろうか。張遼に追いかけられたときのことを、何度も夢に見てうなされたに違いない。小心者みたいでダサいが、生き残ることが至上命題の孫権らしいじゃないか。

 次回、年老いていく孫権を考えます。根拠(5)~(8)です。

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