■三国志キャラ伝>三国一、空気読める孫資伝/附劉放伝(1)
明帝曹叡が死ぬとき、「燕王曹宇を大将軍にせよ」と遺言した。
曹宇は曹操の子で、曹丕の年の離れた弟。「曹氏にも、まだ人材がいたのか。しかも、曹操の血にかなり近い逸材が。まだ魏朝は生き永らえるぞ」と思った三国志ファンは、少なくないはず。
 
しかし、あろうことか、曹叡は前言撤回した。
「やっぱり司馬懿に、政事を任せよ」と。
この2回目の遺言を聞いたとき、「あ、魏朝は終わった。。」と直感した人が多いはずです。このとき、曹叡の遺言を取り返させた張本人が、今回紹介する、孫資と劉放です。
 

■劉放より孫資に注目!
陳寿は「劉放伝」を立て、おまけで「孫資伝」を附している。でも、ぼくは敢えてひっくり返してみました。彼ら2人はコンビで活躍するのだが、劉放・孫資が活躍できた(悪く言えば、長年のさばった)のは、孫資の力量に拠るんじゃないかと思うからです。
劉放は、陳寿のような知識人が好む、卓越した文筆家。孫資は、政治の世界で上手に立ち回る、器用者。そんな印象なんだ。
 

今回ぼくは孫資を、誰よりも身内・同胞を愛する人間だと位置づけたい。
孫資にかかれば、魏の皇帝だって国を同じくする同胞だ。洛陽で働く官人たちも、地方で働く官人たちも、もしかしたら魏領の民草だって、彼にとっては愛情の対象だったかも知れない。
愛を感じるがゆえに、心を汲もうとする。だから、心をつかむことが出来る。けっこう純粋な理屈なんだ。陳寿の史伝だけ見ると、孫資は阿諛追従の腰巾着にしか見えない。しかし、そんな下らん人物が生き延びられるほど、洛陽は甘いところじゃないだろう。

  ■悲しい家族体験
孫資、字は彦龍(ゲンリュウ)、并州太原郡の人。
陳寿が劉放メインで立伝してしまったもんだから、孫資のことは裴注『孫資別伝』で追っていくしかない。
「別伝」と称する書物は、大抵は美化されて書かれているから、慎重に読まないとダメだ。一番の有名どころでは、『演義』で賞賛されている趙雲像の全ては、『趙雲別伝』が出典だったりする。陳寿の「趙雲伝」は、かなありパッとしない。
 
孫資は3歳で両親を失い、兄夫婦に育てられた。
人生のスタートからして、不幸じゃないか。兄のことも兄の子のことも歴史書に書いてないから、推測するしかないが、幼い孫資は微妙に居心地が悪かったんだろうねえ。「ぼくは父も母も、自分の家も知らない」という子供になってしまった。
 
■王允との別れ
幼少から聡明だった。
洛陽の太学で経書を学び、同郡の司徒王允に評価された。
本当に王允に可愛がられたかどうかは、「別伝」の性質上、怪しい笑。孫資と王允が同郡出身&同時期に洛陽にいたことから、でっち上げられたかも。ただし本当に交流があったのなら、王允が董卓を倒した後の并州政権で、孫資が次代のホープとして期待をかけられていたはずだ。あのときは、并州なら誰でもいいから笑
ときの最高権力者のそばにいた。思わず訪れた孫資の絶頂期です。
 
しかし董卓の残党、李傕郭氾の輩が西から攻め込んできて、虚しくも并州政権は瓦解した。王允は殺された。孫資は、またしても寄る辺を失った。家もなく、官界の大親分も失った。 これは、普通だったら性格が歪むよ!
 
■兄の敵討ち
のちに、育ての親である兄が、郷里の人に殺された。
どれだけ不幸なんだ…
孫資は手ずから刀を執って復讐を果たした。もともと孫資は文官系の青年で、その後の働きを見ても、根っからの文官だ。孫資が復讐をしたときの決意や恐怖は、現代人のぼくたちと同じじゃないか。「裁判所が裁かないなら、ぼくの手で」と念じてナイフを取り出した、くらいの壊れ方をしないと、そんなことは出来ない。
 
孫資は、家族を連れて河東に避難した。父が死に、兄が殺された并州から逃げたんだ。

  ■賈逵の巧い舌戦
196年に曹操は、袁紹と官職のトレードをやる。
曹操「ぼく、大将軍。きみ、大尉」
袁紹「イヤだ。大将軍は、ぼく」
曹操「仕方ないな。じゃあぼく、司空で我慢」
こんなことをしてるんだから、曹操が献帝を迎えて、袁紹に対抗していこうという時期です。このときの曹操が、孫資を招いた。
孫資は、故郷(并州太原郡)から任命を受けたが、「病気なんで、遠慮します」と言った。并州には、トラウマがあるからね。
  
賈逵「友よ、キミは抜群の才能を持っている。漢の危機に際して、どうして故郷のために尽くさないのか。趙の藺相如と同じだぞ。良くない」
孫資「ああ、賈逵くんの言うとおりか。曹操殿に従おう」
シミュレーションゲームの「三國志」で、仕官を誘ったときに断られ、舌戦モードに突入。強力な故事を持ち出したら、ついに孫資が負けを認めた。そんなところでしょうか笑
 
■荀彧の拙い舌戦
孫資は太原郡功曹、次に河東郡計吏に推挙されて、許に行った。どのみち、避難先に転勤できたんだね笑
荀彧「北方は長らく動乱だ。目ぼしい人物は、死に絶えたと思ったがね。孫資くんのような優れた人物が、まだ残っていたとは。私は嬉しいよ」
孫資「(そうだ、父も兄も王司徒も死んだ)」
荀彧「孫資くんには、許の都で、尚書郎をやってほしい。キミだから頼める、大任だ。どうだろうか」
孫資「(人の心の傷をえぐっといて。荀文若、なんて人なんだ)」
荀彧「どう?もちろん、やってくれるよね」
孫資「いいえ、家族が危難に瀕しておりますので、河東に戻らせて下さい」 荀彧「そうか、残念だなあ。(なぜ受けてくれないんだ)」
 
『孫資別伝』には、赤字にした部分しか書かれていない。
あの荀彧が、孫資のことを高く評価した。孫資は慎み深くて、当たり障りのない言い訳を作って、辞退した。そういう美談として、収録したのでしょう。でも、そんな華やかなものでも、ドライな社交辞令でもないと思うんだよね。
孫資が口にした「家族が難儀に遭っており」というのは、今この瞬間のことでもあり、心の中で終わることのない過去のことでもあり。搾り出されたような、精神の軋みなんだ。

  次回、孫資は劉放と出会います。
失われた家族への愛情を、国に傾けるようにシフトします。
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