■三国志キャラ伝>三国一、空気読める孫資伝/附劉放伝(2)
孫資の相棒である、劉放の話を少しします。

■皇族の登場
劉放、字は子棄。幽州涿郡の人。
姓と出身郡が劉備と同じなのだが、やはり皇族。
広陽順王の子、西郷侯劉宏の子孫。劉備は怪しいけれど、劉放の血筋について、陳寿はボカした書き方はしていない。前漢には、幽州にたくさん皇族が封じられたんだなあ、と思います。

■曹操のスカウト
劉放は、漁陽の王松に仕えた。
曹操が官渡で袁紹を破ると、劉放は王松に進言した。
「董卓が世を乱しましたが、曹操は天子を迎えました。曹操は、袁術を淮南で氷の如く消し、袁紹を河朔で掃討しようとしております。早々に駆けつけるものは優遇され、後から服従するものは滅亡します。去就を定め、曹操に身を寄せましょう」
王松は、賛成した。
南皮で袁譚と戦う曹操は、文書で「王松とやら、帰順をOKしてやる」と寄越してきた。お礼の返書を劉放が代筆したら、大変に流麗な文面だった。曹操はとても感心した。

205年、王松と劉放は、曹操に合流した。
親分の王松は、この後は名前が出てこない。曹操は小豪族の王松に興味はなくて、劉放の作文能力が手元に欲しかったんだ。彼は、いつだってそうなんだ笑
曹操の喜び方は、たいそうなものだった。
「後漢初、かの『漢書』を著した班彪は、ときの主人である竇融を説得して、2人して後漢に帰順してきた。そのときと、なんと似ていることか」
という具合だ。曹操は曹操でしかない、とはこのことらしい笑

■文官として重宝される
劉放は参司空軍事(農政をするのか?軍事をするのか?)になり、のち主簿記室を経て、3つの県令を歴任した。

■孫資と劉放の出会い2人の歴史的な邂逅については、陳寿は書いてない。曹操後期に、孫資が県令をして(どこの県かは不明)参丞相軍事になっていたことしか分からない。
おそらく2人とも、お互いの存在くらいは認識していただろうが、一緒に仕事をしたのは魏の建国のとき、ともに秘書郎となってからだろう。曹操が魏王になったのが216年だから、劉放が曹操にスカウトされてから、10年くらい経ってる。

孫資と劉放の人生観は、シンクロしたのかも。
単なる妄想ですが、劉放も悲しい家族体験があった。故郷が幽州だから、公孫瓉が烏桓とガタガタやってた地域だ。
孫資「劉子棄よ、聞いてもいいか」
劉放「なんだ」
孫資「そのあざなは、誰が付けた。棄てるなんていう文字を、名に入れている人物を見たことがない」
劉放「自分で付けた。オレは賊徒に両親を殺された。オレに力があれば、両親は死なずに済んだ。子ガ親ヲ棄テタ、という名乗りなのだ」
孫資「(境遇がオレとそっくりだ)」よく似た家庭環境の2人は、兄弟のように意気投合した、みたいな笑

■孫資の人生
目標またあるとき、
劉放「孫彦龍、どうしてキミは、職務に消極的なんだ」
孫資「国家など、いたずらに人の命を奪うだけのものだ」
劉放「うむ」
孫資「職務を励行しても、死者は戻ってこない」
劉放「キミは1つ、とても大切なことを見落としている」
孫資「なんだ」
劉放「古人曰く。修身、斉家、治国、平天下」
自分を律し、家庭を導き、国を治めれば、天下を支配できる。まず足元から固めていって、大事業を成し遂げなさい、という教え(でいいのか?)
孫資「それがどうした」
劉放「オレは、古人の教えの順序を、律儀に守る必要はないと思う。手始めに、天下を一統するのを輔け、国を治めるのに参加してはどうか。この国が強くなれば、キミが愛する家族の平穏も、親しい友人たちの将来も、誰にも侵されることがない。さいわい曹王の魏は、中原で一番強い。みなが幸せになれるぞ」

この会話も全く根拠も出典もない話なのですが。
個人の幸せ目標と、公人としての目標が一致したとき、人はとても高いパフォーマンスを発揮すると、ぼくが教わったことがありまして。
こうして、心配りができる孫資と、文筆に優れた劉放のペアが成立した。2人して、魏朝の官位を駆け上って行くのです。


■2人の出世街道
220年、曹丕が即位すると、孫資・劉放は尚書省の左右丞になった。劉放が数ヶ月で県令に移ったようだが、またすぐに戻ったようです。
曹丕は、「秘書」を改めて「中書」とした。劉放が中書監、孫資が中書令。劉放が関内侯、孫資が関中侯。

  【追記】一官職マニアさんから、ご指摘をいただきました。
(引用はじめ)
孫資・劉放の昇進について一言
>220年、曹丕が即位すると、孫資・劉放は尚書省の左右丞になった。
とされていますが、ここに少々疑問が
ちくまの三国志でも、(尚書省)の左右丞と訳してありますが、
どうも秘書左右丞だったらしいです。
「中国政治制度の研究」山本隆義著:同朋舎と言う、
中書とか翰林学士とか内閣とか、そう言った草制を担当した官について、
秦から明までの歴朝について逐一検討してある本がありまして、
その三国魏の部分に書かれていたんですが、
「通典21、中書令」の条に以下のようにあるそうです。
文帝黄初、中書令に改め、又監を置く。
秘書左丞劉放を中書監となし、右丞孫資を中書令となす。後略

つまり、二人の前官は尚書左右丞ではなく、秘書左右丞ではないかと。 細かいことですが一言。
(引用おわり)


222年、劉放が魏寿亭侯、孫資が関内侯。
劉放は曹操に才能を買われていて、孫資は荀彧の抜擢を断ってしまったことがある。だから、劉放が微妙に先を行きつつ、ほぼ同じタイミングで出世していることが分かる。

■若死の君主
226年、曹丕は40歳で死んだ。2世皇帝に曹叡が即位した。
曹叡と孫資・劉放の年齢差は、いかほどか。
孫資が并州政権のとき15歳くらいで勉強に来ていたとすると、このときに50歳前後。劉放の年齢は、孫資との対等な付き合いや同年の死から考えて、ほぼ同じでしょう。
曹叡が即位したとき20歳前後だから、孫資・劉放にとっては、30歳も年下の(生まれたのが遅い)息子ぐらいの年齢差ということになる。そりゃ、呂布や董卓が洛陽を乱してたときをリアルタイムで知っているのだから、それくらい年配でもおかしくないよね。

この曹叡の側近として、孫資と劉放は名を馳せる。ゆくゆくは曹叡の遺言を、2人で預かることになる。
死ぬ順序がおかしい気がするが、曹叡の享年は35くらい。そのとき孫資・劉放は65歳だから、特筆すべきほど長命とは思わない笑


次回は、諸葛亮の全土を巻き込んだ神算鬼謀に、孫資と劉放が宮廷内から対抗します。もちろん戦場になんか出ませんが!
トップ>三国志キャラ伝>三国一、空気読める孫資伝/附劉放伝(2) (3)へ