■諸葛亮の神の戦略を阻止せよ1
『孫資別伝』に曰く、
諸葛亮が南鄭に駐屯したとき、曹叡も群臣も「こっちから、討ちに行くべし」と言った。しかし、孫資は反対をした。
228年冬に陳倉城が囲まれた、第二次北伐のときか?
「漢中方面は、夏侯淵様が討たれ、曹操様が諦めた土地です。地理的にしんどいから、攻めてはいけません。諸葛亮を迎え撃てば、孫権まで攻め上ってきますから、全土で15、6万人の動員が必要です。国力の無駄です。魏が守って威圧してれば、勝てますよ」
という趣旨のことが、ちくま訳1ページ以上も述べられてる笑
一方を攻めたら、もう一方に攻められる。鼎立の牽制をうまく説いているのだが、諸葛亮ではなく、魏臣が説得材料に使っているのが面白い。
これも『孫資別伝』に曰く、
諸葛亮に呼応してか、呉の?陽郡で、彭綺(ホウキ)が蜂起した。群臣は「これを突破口にして、呉を一気に滅ぼすべし」と言った。しかし孫資は反対した。
「?陽で義兵を挙げても、孫権に征圧されるのが、いつものパタンです。曹丕様が呉について論じたとき、あそこは治世がうまいので崩れない、とのご見解でした。洞浦で万を討ち、江陵で1ヶ月以上包囲したのに、孫権が建業の東門に千足らずの兵を(出動に見せかけて)置くだけで、魏軍は押し返されたんだ、とのお話でした」
まあ、曹丕が戦闘に稚拙だっただけじゃないか?という気もするが笑、孫資の進言で彭綺との呼応は辞めた。予想どおり、彭綺はすぐに滅亡した。
■諸葛亮の神の戦略を阻止せよ2
陳寿「劉放伝」に曰く、
232年、孫権は遼東の公孫淵と結ぼうとした。魏を南北から、挟み撃ちにする大戦略ですね。孫権は海路で、将軍の周賀を北へ向わせた。
郡臣は「周賀を討つことは無理だ」と言った。しかし孫資は「周賀を討てる」と進言し、果たしてそのとおりとなった。
これにより、孫資は左郷侯。
陳寿「劉放伝」に曰く、
233年、諸葛亮は孫権と同盟し、一緒に魏を攻めた。
劉放は国境で孫権の文書を拾ってきて、字句を切り貼りした。ちなみにお手紙に登場する満寵は、国境を守る魏将です。
「諸葛亮へ。満寵を討つから、世話になりたい。孫権より」
という元の文章を、
「満寵へ。諸葛亮を討つから、世話になりたい。孫権より」
と改竄して封緘し、諸葛亮に送りつけた。
諸葛亮は色をなして、呉の歩?に「これはホンマか」と問いただした。孫権は「疑いはごもっともだ。だが、違うんだ。これは魏の謀略なんだ」とねんごろに説明した。
孫権は「疑われても仕方ない」と思うから、必死に諸葛亮に説明したんだね。もし金鎖の関係ならば、諸葛亮は問い返したりしないし、孫権もわざわざ弁明するまでもない。
劉放はその腕により、曹操・曹丕・曹叡の3代にわたって、降伏を促す文章を書いた。その劉放様が携わったにしてはセコい謀略だ。賈?の墨塗りの方がスゴい。ただ、呉蜀の結びつきの弱さを刺激した、という着眼は秀逸だったんじゃないか。
劉放と孫資は2人とも、侍中・光禄大夫になった。
■対呉、対蜀。内なる戦い。
またですが笑『孫資別伝』曰く、
諸葛亮と孫資は、毎年のように出兵してきた。曹叡の下、孫資が主に対応策を練った。ウソくさっ!
以下は孫資を持ち上げすぎの『別伝』の記述ですが、宮廷の湿度は伝わってくるので、ぼくがセリフを適当にくっつけてご紹介します。
孫資は自分ばかり活躍していると波風が立つので、作戦がヒットするたびに「実は、陛下が思いつかれたのです」ということにした。
呉蜀に攻められるたび「みんなの意見を聞きましょう」と言った。いい意見が議論で出されると、露骨に「私は賛成です」などと言わず、それとなく後押しして採用に導いた。
誰かが「あの作戦ミスは、孫資の責任ちゃうんか。おい、こら」と言うと、「私が悪かったです。ごめんなさい。どうかお気持ちをお鎮め下さいまし」と言って、自分を讒言する芽が出ないように配慮した。
司馬懿は前線で諸葛亮と戦いながら、
「蜀に負けないように、かつ、勝ち過ぎないように」という複雑な政治ゲームをやっていた。
同じように、孫資や劉放も、
「曹叡に認められるように、かつ、目立ち過ぎないように」というゲームをしなければならなかった。国がデカくなると、苦労が多いね。
■『別伝』のやりすぎ
『孫資別伝』曰く、
孫資が郷里にいたとき、名声が高かった。田豫は嫉妬し、孫資の悪口をでっち上げた。のちに孫資と田豫の家が、婚姻を結ぶことになった。
田豫「この機会に、宿怨は捨て去りましょう」
孫資「何をおっしゃいますか。私は怨恨なんて、初めから溜め込んでいません。田豫殿が捨て去りたいとおっしゃるなら、あなたのお心の中でそうして頂ければ、もう充分でしょう」
後年、田豫は烏丸校尉となったが、鮮卑の軻比能3万に囲まれた。孫資は軻比能の包囲を解く建策を行い、田豫を救ったのだった。
出来すぎた話で、気持ち悪いよ!
『孫資別伝』のせいで、逆に孫資の厭らしさが、不当に後世にアピられてしまったんじゃないのか。
中原をお騒がせした諸葛亮は、翌234年に死んでくれた。
諸葛亮を退けた凱旋将軍、司馬懿の台頭。孫資と劉放の政治家としての振る舞いも、新しい局面を迎えます。
■司馬懿と、孫資・劉放
238年、司馬懿が遼東の公孫淵を片付けた。
この作戦に加わったため、劉放は方城侯、孫資は中都侯。郷里の県を、領地としてもらったそうです。
公孫淵討伐は、司馬懿が「1年だ」とカッコよく宣言をして、遠征先では独断で仕切ったはず。孫資や劉放は戦場指揮官じゃないし。ということは、孫資と劉放は、司馬懿を起用することを曹叡に説得したって関わり方をしたのだろう。たぶん。
孫資・劉放にとっては、司馬懿はライバルじゃない。分野違いの、心強い味方だろう。一緒に曹叡を助けている、盟友だ。
司馬懿は、新城やら五丈原やら遼東やらで軍人として曹叡を支えた。戦術家として、緩急を使い分けることに巧みだ。反面、孫資・劉放が得意としている宮廷政治については、それほど腕前を発揮していない。
■孫資が司馬懿をなめたワケ
のちに曹爽が政権を牛耳ることになるけど、そのとき司馬懿は、一時的に「闘病生活」をしている。「計算の内だった」という、結果論からの解釈も成り立つが、リスクが大きすぎた。
単純に、曹爽との政争が煩わしくて(保身のため)引いた、もしくは曹爽に1回は負けてしまった、ということだろう。
司馬懿は実際に老齢で(だから仮病に李勝が騙された)いつ死んでもおかしくない。事実、クーデターで曹爽を倒した、たった2年後に司馬懿は本当に死んでしまった。人の命なんて不確かなものなのだ。
この一事をもっても、司馬懿は孫資・劉放の(同分野の)ライバルではなかったことが分かる。
「くみしやすい、合戦担当者」という位置づけだったんだろう。もし司馬懿が権力を握ったとしても、せいぜい軍事の分野のみだ。内臣にまで干渉はしてこないはずだ、と孫資・劉放は思っていた。かな。
次回最終回。曹叡が死にます。孫資伝のクライマックス。