■曹操の寵愛
曹操は「わが家の千里ノ駒よ!」と喜ぶと、曹休・曹丕には起居をともにさせ、我が子同然に扱った。
曹休の年齢は分からない。
曹丕と親しく付き合うんだから、年齢は近いはずだが。曹丕は187年生まれ。184年の黄巾ノ乱のとき生まれておらず、曹操が190年に挙兵したときに4歳。曹休が黄巾ノ乱で一家離散したとすると、曹丕より5つくらい年上に設定すれば、すんなり行くかな。
曹操はいつも曹休を従軍させた。
210年、曹純(曹仁の同母弟)が死ぬと、曹休は虎豹騎を継いだ。
曹仁・曹純兄弟も、曹操とは少し血縁が遠く、挙兵後に合流してきた人たちだ。精鋭・虎豹騎は、曹操の直系が率いることなく、仕事を分けて、相互に牽制を効かせていたのかも知れない。
■お前が指揮官だ
218年、曹休が35歳くらいのとき、漢中戦。
劉備が呉蘭を下弁に遣ったとき、曹操は曹洪に討伐を命じた。
曹操「我が子、休を騎都尉にして、曹洪に付ける」
曹休「がんばります」
曹操「休よ、表向きは参軍(補佐)だが、実際は指揮官だぞ。曹洪に代わって、存分に劉備を討ってくるといい」
親バカな曹操と、曹洪の焦りぶりが浮かぶね。『蒼天航路』だと、このときの曹休・曹洪・夏侯淵のやりとりが面白おかしく描かれてる。厳しいだけの曹氏・夏侯氏のホームドラマが見られる笑
曹休は「張飛が固山で、我が軍の後方で騒いでますが、あれは陽動です。本当に糧道を断ち切るつもりなら、隠密にやるはずです。張飛を無視して、呉蘭を打ちましょう。そうすれば張飛も、自然と逃走します」と言い、見事にその通りになった。
曹操が漢中を捨てて長安に戻ると、曹休は中領軍。
■祖父との再会が迫る
220年、曹丕が即位して、曹休は領軍将軍。
曹操を追いかけて、同年に(名誉職)大将軍の夏侯惇が死ぬと、曹休は鎮南将軍・仮節・都督諸軍事に。
曹休が南(孫呉への備え)に発つときは、曹丕がわざわざ車から降り、手を握って送別した。実の兄弟じゃないからこそ、帝位をおびやかす位置にいないので、曹丕の兄弟愛が受けられるのです笑
221年、劉備が夷陵ノ戦を挑んできたので、孫権は曹丕に降伏した。
「曹休伝」で歴陽の呉将を破り、蕪湖の賊営を焼き払ったとあるが、この頃のことか。列伝では、戦の勝敗まで逆になってしまうから、詳しく分からない。きっと小競り合いがあったのでしょう。
この功で、征東将軍、揚州刺史。ついに、祖父が治めていた呉郡が射程圏内に入った!太守府には、まだ肖像はあるかなあ笑
222年、孫権が孫登を送ってこないので、3方向から呉を攻撃。孫権としてみれば、もう劉備を夷陵で追い返したから、魏に臣従するメリットがないんだ。
曹休は征東大将軍となり、黄金の鉞を与えられた。張遼・臧覇ら26軍を動員して、呂範を洞浦で破って、揚州牧になった。一気に孫権を討てば、揚州は曹休の任地だ。
まあ、大風で流されてきた呂範軍の船を手繰り寄せて、切りまくっただけなんだけどね笑
■順番に討ち取られる魏の皇族
洞浦の曹休はそれなりに健闘したが、他の2方面は無惨なのことに。
曹仁は濡須を囲んだが、翌年、朱桓に敗れて病死。不吉だ!
江陵を攻めた曹真・長江・夏侯尚も、侵攻が追いつかず、長江の水量増加に追われて撤退。
さらに悪いことに、曹丕までも孫呉の呪いに憑かれた。
224年、曹丕が江陵で、徐盛に欺かれて撤退。
225年、曹丕が江陵を攻めたが、長江が凍結して撤退。
226年、曹丕が悲嘆に暮れて、病没。がびん。享年40。
孫権は、歴戦の曹仁を片付け、皇帝の曹丕を片付けた。
次に孫権に討たれるのは、曹休なんだ。
次回最終回、曹休にストーカー並にお手紙が届きます。