■三国志キャラ伝>孫策+周瑜+張昭≠諸葛恪伝(3)
■諸葛恪語会話の続き ※テキストは大手書店でお求めを。郵送可。 蜀から費禕さんがやって来ることになりました。   孫権「おい、費禕が来ても無視しようぜ。宴会を続けよう」 孫呉の重臣たち「はあい」 費禕「こんにちは」 孫呉の重臣たち「・・・」 費禕「麒麟は、鳳凰が来たら食事をやめたと言う。ここにはロバやラバしか居ないようだ。俯いて食べ続けてるよ」 諸葛恪「鳳凰が来るかと思って待っていたら、燕雀のたぐいが来たよ。勝手に、自分が鳳凰とか言ってる。パチンコで撃って、故郷に追い返そう」 ※ロバという言葉にコンプレックスのある諸葛恪。「親父のことかー!オレのことかー!」プチン!という状態です。怒りで目覚めた超(スーパー)諸葛恪です。孫権は、費禕を無視しようと言った。君命だ。だけど諸葛恪は、勝手にルールを破ってしまったよ。今回も、プチ謀反だ。   その席にて。 孫権「諸葛恪は乗馬が好きだ。蜀に帰ったら諸葛亮に、良馬を送ってくれって伝言してね」 費禕「」※まだ何も言ってない。 諸葛恪「ありがとうございます!」 孫権「馬は来てないじゃん。お礼を言うの、早くない?」 諸葛恪「蜀は、呉が遠くに設置した厩なんです。ご主君が手配を命じたということは、必ず届くということ。だからお礼を申したまで」 ※これは座布団2枚!諸葛亮と諸葛恪は、血縁だ。孫権はそれを念頭に喋ってそう。この微妙な空気については、諸葛瑾伝でそのうち考えてみたいと思います。 ※小麦粉を蒸した餅(へい)を出された費禕は「麦の賦」を作った。諸葛恪は「磨(うす)の賦」を作った。両者とも立派な作品だと賞賛された。何のこっちゃ。『諸葛恪別伝』にはそれ以上書いてない。   ■諸葛恪語会話の最終回 ※再放送の時間帯はお間違えなく 孫権「太ったね。いいことあったの?」 諸葛恪「富は家を潤し、徳は身を潤す、と言います。徳を修めただけです」 ※面長で声の高い諸葛恪。彼が太ったら、ルックスがもっと酷くなる。麒麟から駄馬に成り下がった孫権も、びっくりですよ笑 ※「なんか最近キレイね」「始めたのよ、○○」というテレビCMの類だ。  ↑裴松之の注って、こんな語調で付いてるよね笑 真似てみた。   諸葛恪「ご主君、馬を献上しまっせ」 孫権「どうも」 范慎「おや?諸葛恪くんが連れてきた馬、耳に穴が開いてるよ。馬は家畜とは言いえ、天の気を稟けて生まれたもの。身体を傷つけるなんて、仁を損なう行為じゃないの?」 諸葛恪「母の情愛は最も深いもの。母親は愛娘の耳に穴を開けて、珠飾りを付けさせます。耳に穴を開けることが、どうしてダメなんでしょう」 ※ピアスホールが公認されていたんだね。 ※この一件を『范の犯罪』と言う。もちろん嘘ですが笑   諸葛恪は20歳前後で、太子・孫登に仕えた。 孫登「諸葛恪は馬の糞を食らうべし」 諸葛恪「太子さまは鶏卵を食べて下さい」 孫登「そのココロは?」 諸葛恪「出所は同じです」 孫権「あーっはっはは」 ※諸葛恪の返答なんか、どーでもいいでしょ。それより、孫登がなんでこんなことを言い出したのか、そっちの方が面白い。どういう文脈があったんだ?これを補うのが「小説家の役割」というやつだ。がんばろー。 ※孫登は、こんなことをしてるから死んじゃうんだ。二宮の変の遠因かも笑 ※孫権はいつから同席してたんだろう。   頭の白い鳥が前庭に飛んでいた。 孫権「あれ、何ていう鳥?」 諸葛恪「白頭翁です」 張昭「白頭翁とは、ワシのことか!ワシのことかー!」 諸葛恪「張昭さんも、ドラゴンボール見たんですね」 張昭「阿呆め。孫権さん、諸葛恪は嘘をついてます。白頭翁なんて鳥は、聞いたことがありません。もし白頭翁が野鳥の会公認の名称なら、白頭母という鳥もいるはずです。捜させてはいかがでしょう」 諸葛恪「ばーか。鸚母(おうむ)はいるけど、鸚父なんていないじゃん」   左輔都尉なんて辞めちゃえよ。M1に出ようよ。
  ■青い春から解き放たれる 諸葛恪伝にいう。 孫権は諸葛恪の才能を評価した。実務で役に立つのか、試そうとした。彼に節度の官を兼任させた。軍の兵糧を統括する仕事だ。 文書の処理が煩雑であるため、諸葛恪は仕事を嫌がった。 ダメじゃん笑     『江表伝』に言う。孫権は呉王になると、節度の官を置いた。諸葛恪は、死去した徐詳の後任として、節度の官に就いた。 諸葛亮は陸遜に手紙を送った。 「わが兄(諸葛瑾)は耄碌してまいました。わが甥(諸葛恪)はいい加減な性格ですから、穀糧の管理なんて出来ません。諸葛恪の役目を変えてやって下さい」 陸遜は孫権に、諸葛亮からの手紙を伝えた。諸葛恪はただちに部署異動。兵士を指揮する役目に就いた。   ■諸葛恪のタイムテーブル 1人の列伝だけ読んでると、意味が分からなくなるので、ちょっと巨視的に整理してみます。   222年、孫権は劉備に殴りこまれるのを恐れ、曹丕に降伏。見返りとして、孫権は呉王に任じられた。太子に孫登が立てられ、諸葛恪が「ご学友」に加わった。※諸葛恪は20歳前後。 222年、夷陵の戦いで劉備が敗北。呉と蜀が外交回復。   228年、諸葛亮が北伐を開始。北伐は、呉と蜀の共同作戦が前提。同盟国である呉の兵站が拙いと、諸葛亮の戦略が崩れる。 諸葛亮から陸遜への手紙は「甥の適性を思いやる心」じゃない。彼の北伐プランを成功させるために、諸葛恪をリコールしたんじゃないか。 ※徐詳の没年を確認できていません。諸葛亮の手紙が送られた時期を、北伐中と推測してみた。※諸葛恪は20代半ばで初就職、すぐに異動!   234年、諸葛亮が五丈原で病没。孫権は曹叡の親征の情報を得て撤退。蜀は北伐を中断。呉も呼応して中断。内政の充実に主眼が置かれる。 諸葛恪が「丹楊郡で3万人の兵士を徴発してきますよ」と大見得を切ったのは、魏への侵攻を中断したこのタイミング。※諸葛恪は32歳。
  やっと政治家としての諸葛恪が登場します。 これまでは座興だったんだ笑 次回をお楽しみに。
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