■三国志キャラ伝>孫策+周瑜+張昭≠諸葛恪伝(4)
政治家としての諸葛恪が始まります。   ■3年のお約束 「孫権さん、3年下さい。3年あれば、丹楊郡から武装した兵士4万を徴発してみせますわ」と諸葛恪は見得を切った。 この丹楊郡。呉郡に隣接していて、孫策時代から頻繁に名前を聞く地名です。でも山や渓谷が複雑に入り組んで、まるで支配が及んでいない。服従しない住民を総称して、山越なんて言う。孫呉が雄飛し損ねた理由、獅子身中の虫が、この山越。彼らは強い。強いゆえに孫呉政権の癌だ。それを諸葛恪さんは解決すると言う。   諸葛瑾が「この恪くんが家を滅ぼすんだ」と嘆くのは、本来はここなんだ。決して、驢馬事件の話ではない。大言壮語しちゃって、危ういよ?という親父の心配事なんだ。それくらいに、山越が手ごわいという認識は一致している。 山越はいくらでも逃げ場がある。後の時代に描かれた「桃源郷」。郡の役所があることすら知らずに、自給自足の生活を送る山の民。彼らとシンクロする人々が、丹楊郡にもいる。まるでイタチごっこだから、彼らを支配することなんて出来ない。中華のスケールのでかさだね。日本なら、適当に鐘でも叩いて山犬や鷹をけしかければ、山の民は出て来るしかないんだから笑   32歳の諸葛恪。遅めの実務開始。 結論から言えば、成功した。 隣接する四郡の太守に「境界をブロックして下さい」と通達。険阻な奥地に兵士を送り込んで、防御拠点をひたすら強化。田地には、被支配民を隙間なく配置。穀物を片っ端から刈り込んで、余らせず。 山越は、散々な目に合った。移住不可。攻撃至難。食糧不足。 彼らは仕方なく降りてきて、諸葛恪太守殿に「ごめんなさい」と言った。諸葛恪は大得意だね。 うっかり臼陽県の胡コウが、降伏してきた周遺を捕縛した。諸葛恪はキレた。「せっかく帰順してきたのに、捕えるとは何事か。胡コウの馬鹿野郎。斬刑だよ!」と。叔父の諸葛亮が孟獲を7回捕まえて、7回話した。根本的に価値観の違う連中と折り合うには、融和政策が手っ取り早い。諸葛恪の判断は吉と出た。   諸葛恪は1万の兵を私兵として、残りの3万をお裾分けした。   すげえ!と思う。でも、司馬懿が「1年下さいな」と言って公孫氏を潰したのと比べると、ちょっと地味なんだよね。イキリ具合で負けている気がするんだよね。 諸葛恪は威北将軍&都郷侯に封ぜられた。   諸葛恪は調子に乗った。地方官として、一級レベルや。問答の機微で目上を困らせる、ただの一休レベルは卒業や。そういう感じ。 志願して、廬江や皖口で屯田を行った。隙を見て、舒を襲撃して人口を奪取。地理の研究に余念がなく、寿春の攻略を計った。孫権に「やめとき」と怒られてしまった。 内政を固めるという意味で、支配の浸透を狙ったのは合格。でも、わざわざ川を遡って、遠く魏が支配する寿春を攻めるのはリスクが高すぎる。っていうか、孫権は守成の英雄だから、ガラじゃないだ。キャラじゃないんだ。   ■父親の死 諸葛瑾と諸葛恪は、不和だった。親子喧嘩の範疇を越えて、かなり険悪だったんじゃないか。ぼくはそんな気がする。 「諸葛恪伝」では、まるで触れられずにスルーされているが、241年に諸葛瑾が死んだ。諸葛恪が、地方官として腕を鳴らし始めた時期だ。すごくキナ臭いよね。 父親の死なんて、けっこうな一大事じゃん。まして、ここは孫呉だ。一族の間での私兵の相続は、かなり重要な意味を持つ。孫呉さんのところは、君主一元管理が徹底していない。有力武将たちは、自分の兵たちを持ち寄って仕官(というか期限付きでのご協力)をしているのが現実なんだ。諸葛瑾が死んだら、嫡流の諸葛恪が継ぐ。諸葛瑾が実直に蓄えた財産を継承して、権勢を高めるのがナチュラルなんだ。   「諸葛瑾伝」に言う。 諸葛瑾は孫権が皇帝になると、大将軍・左都護・豫州牧となった。すげえなあ。ほぼトップじゃん。でも諸葛瑾は、諸葛恪を嫌っていた。 享年68。諸葛恪じゃなくて、その弟の諸葛融が爵位と兵士を継承した。 「諸葛恪はオリジナルに集めた軍団を持っていた。だから諸葛融が兵士を継がせてもらった」なんてことが、どこかに書いてあった。嘘だ。諸葛恪をフォロウするための方便だ。諸葛恪は継げなかったんだ。そういう不恰好があったから、「諸葛瑾伝」ではスルーされたんだ。   241年5月、司馬懿が諸葛恪を攻めようとした。孫権は諸葛恪を柴桑に下げた。戦線から遠ざけられた諸葛恪は、陸遜に手紙を書いた。 「陸遜さんは日頃から、能力がある者を活躍させるべきだと言ってますね。私も賛成です。ただ、私は思うんです。陸遜さんの意見を発展させたら(拡大解釈したら)素行にいくらか問題があっても、能力がある者は用いろって理屈になりますよね」 あんたは曹操か?という気がするが、曹操ほどの主義主張は貫かれてない。行動や政策にも結びついてない。諸葛恪が言いたいのは「親父の遺産相続がしたかったぜ。前線で司馬懿と戦いたかったぜ」です。諸葛瑾と孫権の判断に文句が言いたいだけです。陸遜の意見に賛同している手紙が、ちくま訳で2ページくらい長々と続く。でも言いたいのは、ただのワガママだけだ。   ■孫権は諸葛恪を殺せと遺言した? 245年、陸遜が死んだ。諸葛恪は陸遜に代わって大将軍、武昌に駐屯して荊州方面の司令官になった。 252年、孫権が死んだ。諸葛恪は武昌から召還され、太傅も兼任。   このあたり「諸葛恪伝」がやたらと駆け足です。陸遜への手紙をちくま訳2ページも書いてたのに、たった4行くらいで11年も経ってしまった。孫権が老害を撒き散らしている時期、諸葛恪は朝廷の中央に居なかったんだね。孫権は、諸葛恪を嫌っていたようだ。  所注『呉書』で、病気の孫権は後事を誰に託せばいいか聞いた。孫峻を筆頭に群臣が「諸葛恪さんが適任じゃね?」と言った。孫権は「あいつは自分の意見を押し通す性格だ。いまいちねえ」と言ったが、孫峻が「いいえ。諸葛恪さんなら大丈夫です」と一押しするものだから、OKした。 諸葛恪がトップになるプロセスで、孫峻が結論を出させた功労者であることは意味深だ。だって諸葛恪は、最期は孫峻に殺されるんだもん。 あ、言っちゃった笑   孫権は死の床に就いた。「もし太子がショボければ、諸葛さんが代わりに皇帝になれ」というのは別の人でした笑 孫権は言った。「全てのことは諸葛さんに任せる。ただし、死刑などの重要なことは事後に上聞するように」と。死の間際になっても、わざわざ諸葛恪に釘を刺す孫権さんでした。諸葛恪の権力をチェックする仕組みを、遺言したんだね。   孫権の死後のフォーメーション。 大将軍&太傅=諸葛恪 中書令&少傅=孫弘 太常=滕胤、将軍=呂拠、侍中=孫峻   諸葛恪の一番のライバルは、孫弘ということになる。2人は仲が悪い。 孫弘は中書令であることを利用して、諸葛恪を殺そうとした。(死んだはずの)孫権からの勅命を「捏造」した。「諸葛恪を殺せ」という孫権の指示文書を作った。しかし孫峻に感づかれて、逆に討たれた。 …これって、孫弘が能力もないのに謀略をやろうとしてドジった、というだけの事件なんだろうか。ぼくには、臨終前の孫権の意思が反映されてるような気がする。 死にそうな孫権は孫呉の未来を案じて、諸葛恪を誅殺する段取りを整えておいた。それを孫弘に託した。穿った見方をしすぎか。 勉強不足だから分からんけど、孫弘が付いた「少傅」というのをあまり聞かない。セットの太傅と同じように「皇帝の教育係」という位置づけなんだろうけどさ、実質上は閑職というイメージがある。閑職を2つも作って、諸葛恪と孫弘を並べた。 その真意はいかに。2世皇帝の孫亮がそれほど頼りなかった、という読み方もできるんだけど笑、もともと諸葛恪を除いて孫弘をトップに付ける段取りが(孫権主導で)決まっていたんじゃないか。まあ、ミスった計画について、後からゴタゴタ言っても仕方ないんだけどね。 孫弘のことは、孫権政権末期(諸葛恪が活躍してない時期)のことを調べてみないと何とも言えないです。また後日。
  次回からは諸葛恪が最高権力者として、孫権をつぶします。
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