■孫権政策の否定
諸葛恪は政権のトップになった。2世の孫亮は、まだチビだから。
諸葛恪は、孫呉の歴史を思い返したに違いない。袁術の部将として犬死した孫堅。鋭い侵攻作戦で江東に勢力を拡大した孫策。孫策は暴走が祟って、若くして瀕死。枕元で言った。
「オレは優秀な君主だぜ。でも守ることにおいて、孫権には敵わない。孫権は外征を控えて、内政に集中しろ。外のことは周瑜、内のことは張昭に任せていれば間違いない。ポクッ」という具合だ。
政権にもバイオリズムがあるんだ。
二大政党制という仕組みがある。ただの茶番だ。A党がミスったら、B党が政権に就く。B党がミスったら、A党が再び政権を取る。そこには、国民の要望が叶えられているという幻想がモクモクと湧き上がる。だが、持ち回りの目くらましなんだ。不満のガス抜きをするだけの仕組みなんだ。そもそも二者択一というのは、考え方を単純化して極端にして、何も見えなくしてしまうトリックなんだ。
孫策は攻める党だった。孫権は守る党だった。守る党の政権が長く続いたから、孫呉は守りの国という印象がついてしまった。でも、順番から行けば孫権の死後は、攻める党が旗を振っても不自然じゃない。
諸葛恪は攻める党の党首として自分を位置づけた。っていうか、孫権路線の否定が、諸葛恪政権のアイデンティティだ。孫権には、嫌われてた&殺されかけたんだもんね!
諸葛恪は自分の素晴らしさを曹魏にもアピールしたくて、攻めたかった。アイドルに昇りつめた叔父・諸葛亮を横目で意識しながら、攻めることに熱心になった。三国統一には関心が低いとされる孫呉ですが、この時点では統一熱がどこよりもホットなんだ。
諸葛恪は、孫策・孫権の君主権力を太傅として代行した。陸遜から継承した周瑜のDNAには、外征の意気込みと荊州方面への戦略眼が含まれていた。張昭の名士パワーは、諸葛恪自らが張昭を(屁理屈を振りかざして)論破することで吸収を完了した。
孫策の臨終に立ち会った、孫呉政権の君主および元勲の器量は、ただ1人の諸葛恪に結集した。のかも知れない笑
■曹魏相手に奇襲が炸裂
252年10月に諸葛恪は戦いを魏に仕掛けた。孫権が死んだのは、同じ年の4月だよ。まだ守成の名君・孫権の死体が充分に冷たくなってないのに、諸葛恪は半年も待ちきれずに攻めている。
東興に2城を築いた。魏から胡遵や諸葛誕が7万で「勝手にやってんじゃねえよ」と2城を破壊しにきた。浮き橋を作って攻めた。対して諸葛恪は、留賛・呂拠・唐咨・丁奉を先鋒にして迎撃。
12月、雪が降ってきた。
魏兵は「今年のクリスマスはどうしようか」なんて言いながら、寄り添って酒を飲んでいた。留賛隊は兜と刀と盾だけ持って、半裸で魏の陣によじ登った。魏兵は「寒いのに馬鹿じゃねえの」と笑っていた。身軽で神速を貴ぶ留賛隊は、一気に切り込んだ。魏兵は慌てて退却しようとしたが、浮橋が壊れてしまい、互いに踏みつけあって死者数万。
この戦いの模様は、柴田錬三郎氏の小説を読むと心が躍ります。ぼくが正史を要約すると、何だか間抜けなだけだ笑
253年1月、諸葛恪はもう一回攻めましょう、と提案した。
「先月勝ったばっかじゃん。急ぎすぎじゃね?っていうか、正月くらいはゆっくりしようよ」と群臣の反対を食らった。
■姜維との共謀
諸葛恪は蜀の姜維に使者を送った。「姜維さん、蜀漢と孫呉で共同して魏を攻めましょう」と。正史のどこにも書かれてないけど、ぼくだけじゃなく誰もが思うでしょう。諸葛亮の北伐が、彼の弟子(姜維)と甥(諸葛恪)によってリベンジされようとしている!と。
253年1月、蜀では費禕が魏の降将に殺された。詳しくはこのサイト内「姜維伝」に書いてます。北伐をやりたい姜維が裏で糸を引いて、北伐慎重派の費禕を始末したんじゃないか、という話です。他では読んだことのない、馬鹿げた話です。
ただこれで、諸葛恪も費禕殺害に関わっていた可能性が浮かんできたよ。諸葛恪が戦勝に酔って北伐を催促したタイミングと、費禕が殺されたタイミングが一致してるのは偶然じゃない。
きっともうお忘れだと思うんですが、諸葛恪と費禕は外交の場で会ったことがあるんだよね。孫権の悪ふざけで無視をされた使者が、他ならぬ費禕でしたよ。蜀は呉の厩ですから、というやつ。
諸葛亮は臨終の床で「私が死んだら蒋琬に、蒋琬の次は費禕に」と指名したんだが、その費禕さんは「北伐の夢を継ぐもの」がグルになって消した。
諸葛亮をただの北伐屋としか評価していないファンなら、姜維と諸葛恪の連携は嬉しい限り。しかし諸葛亮を大局を把握できる政治家として評価するなら、姜維と諸葛恪の暴走は嘆かわしいことだ。そういう感想になる。
少なくとも諸葛恪と姜維の間では「あの偉大な諸葛亮を越える戦果を叩き出してやるぜ」という共通の目標があったのでしょう。顔を合わせずに意気投合するには、よほど派手で単純なスローガンが必要だもんね。
幸運にも諸葛亮を苦しめた司馬懿は死んでいる。司馬氏は年端も行かぬガキが仕切っていて、漬け込むチャンスがあるはずだ。ただし、諸葛恪がガキ呼ばわりした司馬師は、諸葛恪より5つ下の46歳なんだが笑
諸葛恪はちくま訳4ページ半で「魏を攻めましょ」という議論を展開してる。きっと諸葛恪の才能ならば「魏と仲良くしましょう」という意見書だって、ちくま訳10ページくらいスラスラと書いただろう。
何とでも言えてしまうんだ。ここで諸葛恪の議論の内容を吟味することは、あまり意味がないんじゃないか笑。よってスルーします。
次回最終回、諸葛恪の遠征は成功するのやら?