■実力と主義を問う
252年、東関の役。
早くも諸葛誕の腕が試された。諸葛恪が「孫権が死んだ、俺の時代だぜ」ということで、魏に攻め込んできた。結果は諸葛恪の大勝。諸葛誕は実力があるからというよりは、夏侯玄や曹爽とのご縁で揚州を任されているからね、この敗北は止むを得ないことかも知れない。
王朝は諸葛誕と毌丘倹の役割を総入れ替えして、諸葛誕は鎮南将軍、都督豫州諸軍事となった。
毌丘倹は曹叡とべったりだった人物だからね、諸葛誕よりは1周りくらい上で、人物もしっかりしてるんだ。最前線は毌丘倹先生に任せておいて、1度ドジった犬コロは後方支援をやっとけ!という司馬師の人事だと思う。
253年、諸葛恪の再侵攻。
毌丘倹先生が見事に撃退した。
諸葛誕が勝てなかった相手に、毌丘倹が勝ったのだから、優劣は明白だと言われても反論できないよ。自分を飾り立てるのが得意な諸葛誕だが、このときは立場なし、言い訳もなし。
254年2月、夏侯玄が司馬師に殺される。
ああ、一緒に遊んだお友達が!
諸葛誕としては「気合を入れなおして、うまく立ち振る舞わないと、ボクもやばいかも」という感想なんだろう。今は豫州に出されているから、宮廷争いの寝技に巻き込まれることはなくて。もし洛陽にいたら、諸葛誕も討たれていたかも知れない。いや、マジです。
もう10年弱くらい洛陽を離れているから、ちょっとずつ心細くなってきた。この心細さが、後年の叛乱への伏線です。
■ふたたび、楊州に君臨
255年、毌丘倹が叛乱。
毌丘倹から「豫州を率いて味方してくれ」と使者が到着。
諸葛誕はおそらく、毌丘倹が嫌いなんだ。毌丘倹が何をしたというわけじゃなく「ボクの顔に泥を塗りやがって。この償いは高くつくよ」という一方的で身勝手な怨嗟なんだが。
諸葛誕は倹の使者を斬り、「ほら御覧なさい。毌丘倹は逆賊だったのです。諸葛恪を撃退したのも、謀反への布石です。どこが凄いものですか」と天下に公表した。毌丘倹の非道さを衆知せしめた、と。※さすがに後半のやっかみは、ぼくが陳寿に勝手に加筆したんだけどね笑
諸葛誕は司馬師の指揮の下、豫州を率いて寿春に向かった。毌丘倹には天命が味方せず(っていうか戦術が拙く)水草の中で農兵に殺された。
諸葛誕は寿春に一番乗りした。諸葛誕はかつて5年くらい、揚州刺史をやってる。他のどこでもない寿春で政務を執っている。だから、敵の本拠といっても勝手知ったる土地で。
しかし寿春の民たちは、処刑を恐れるあまり、門を壊して離散。山や沼沢に逃げ込んだ民もいたそうで。これは本人には内緒だけど、諸葛誕の治世にそれほど心が籠もってなかったことがバレちゃったね。もし諸葛誕が名刺史として名を馳せていたら「諸葛様がいらっしゃったのなら安心だべ」的な空気が広がって、農民が自ら寄って来そうなものなんだ。
司馬師は死にかけながら、「やっぱり揚州を任せるべきは、キミだったか」と詫びつつ(詫びたかどうかは知らん)諸葛誕を鎮東大将軍、儀同三司、都督揚州諸軍事とした。諸葛誕って、1度は任ぜられ、落ち度があって免職になり、また復帰することが多いよね。
敗北して逃げ出した文欽 is back。
文欽は毌丘倹と一緒に挙兵した人物で、実戦闘は彼がやってた。とても厄介で余計なことに、文欽は孫峻と愉快な仲間たちを引き連れてきた。孫峻というのは諸葛誕の後釜で、呉を牛耳っている偉い人で。
諸葛誕は「寿春の守り方は任せろよ」とばかりに、文欽と孫呉の介入を阻止した。蒋班に迎撃させ、呉の留賛の首を洛陽に送った。孫亮の与えた官印・節を奪った功により、高平侯、征東大将軍。
そろそろ、諸葛誕の乱が秒読み。
■叛乱の動機
何のカッコ良さもないんだが、保身が動機じゃないか。
ここまで諸葛誕が何をしたか見てきたけど、大したことしてないでしょ。諸葛氏という血筋が持つ声望を頼りに、何となく波乗りをしてきただけに見える。ぬくぬくして、ほわほわっとして、そのまま暖衣飽食コースが彼の望みじゃないのか。
陳寿評で「剛毅にして威厳があり」と言われているが、安定期に入った王朝には、そういう人物が必要で。都会育ちで権臣と馬が合い、血筋にバリューがあり、黙っていれば立派に見える人物は、州府のトップに重しとして有用なんだ。
例えば曹操を天下人に押し上げた文官たち(三国志の登場人物らしい人たち)とは、求められる素質が違うんだね。
「たかが数十年でバカな」という気持ちにもなるけどさ、太平洋戦争の戦後10年も経たずに生まれたぼくの親の世代は、当たり前だけど戦争の空気を全く知らないで、根っからの平和育ちだからね。曹叡や、もうちょい下の曹爽の取り巻きになれば、平和ボケしていても不自然じゃないんだ。かたや諸葛亮が辺境で無茶していても、すごく遠くの話でしかなくて。
唯一の戦績っぽい毌丘倹の乱の鎮圧だが、司馬師が立てたプランに乗って動いただけで。多方面軍の一翼に加えられただけで。それに、文欽を追い返したのは部下の将軍だし。
■保身の準備
クマの冬篭りではありませんが、諸葛誕は司馬師から自分を守るために、養分を蓄え始めました。すなわち、金蔵を傾けて施し、身辺の従属者と揚州の遊侠徒を数千人養い、命知らずの子分とした。誤解が前提で言えば、『演義』で劉焉が高札を立てて「有志募集」とやったのと同じだ。相応のお金を払えば、無敵の武力と無類の精神的紐帯で尽くしてくれる、独特の義理を持った連中を囲い込んだんだ。
裴注『魏書』曰く、死罪を犯した者も諸葛誕は許して配下としたという。任侠の連中は、自分の命の恩人に弱いからね。扱いは心得たものみたいです。
256年冬、呉が侵攻の気配。
諸葛誕は「今の兵力じゃ足りません。もっと送って下さい」と司馬昭にせっついた。諸葛誕の意図ばバレバレで、さすがに却下。わざわざクマに食料を与えるようなものだから。
ただ諸葛誕が先々代からの旧臣であることから、すぐに「あなたは謀反する気ですね?分かっていますよ。さあ、処分してあげましょう」とは司馬昭さんも言えず。っていうか、司馬さんが皇帝を殺しちゃうからさ、いつの間にか曹叡が「先々代」になっているんだ笑
257年5月、諸葛誕を司空とする。
大好きな出世だよ!という平和な話じゃない。司空になれば、地方官は卒業。淮南に養った兵を置いて、洛陽に戻らなければならない。裴松之によれば、賈充の入れ知恵みたいで。ほんまに、賈充は悪い奴だよね。
「私が三公になるのは、順番からすれば王昶殿の次なのに。この人事は、絶対におかしい」と諸葛誕。
さすが、権力抗争への嗅覚は敏感なんですね。
諸葛誕はライフカードを突き出され、「どうする?オレ!」と絶叫した。
示されたのは「挙兵」「服従」「自殺」の3枚。
続きはWEBで!ですね笑