朱治・朱然・朱績と続く、丹楊郡の朱氏3代目。せっかく乗りかかった舟なので、3人とも伝を一気に書いてみました笑
朱績は朱然の実子。しかし朱然は朱治の姉の子で、叔父の朱治の養子になりました。朱然の父方の姓は施氏。朱績は、生まれたときから朱氏ですが、あえて元の姓に戻して呼ぶなら、施績ですね。
日本語にしたら「シュセキ」でも「シセキ」でも同じようなもんですが笑、現代中国語では「zhu1ji1(チューチー)」と「shi1ji1(シーチー)」です。子音は隣どおしで、母音も声調もそっくり。
■とことん、復姓祈願
他人の名前のこだわりを取り上げて「どっちでもええやん」と言うのは、失礼承知ですが、施績は姓に対するこだわりが少し病的なのです。
陳寿の「朱績伝」に曰く、
「朱然の喪が明けたとき(朱然の死は249年)、朱績は元の姓に戻りたいと願い出た。しかし、孫権はそれを許さなかった。(孫権は252年に死に、孫亮が即位した)五鳳年間(254年~255年)に、朱績は再び上表して、ついに施姓に戻ることが許された」
どれだけ、朱姓がイヤだったの?という話ですよ。
父が死んで、すぐさま起こした行動が「朱姓を捨てたい」で、皇帝が代わっても温めていた願い事が「朱姓を捨てたい」ですよ。
年端も行かぬ皇帝を捕まえて、「先代はウンと言わなかったけど、あなたなら認めてくれるよね」と、せっついてるんだ。孫権は「呉大帝」なんて贈名されて、ほぼ神の領域の人物なのに、彼の意向を覆すような上表を通してしまうなんて、病的と言われても仕方ないと思う。
■復姓の理由は?
2つくらい、理由があると思うのです。あくまで、どちらもぼくの推測なんですが。どっかに参考や根拠があるわけじゃなく…
(1)姓がカブるのを、嫌った。
呉郡四姓のうちの1つに、朱氏がいた。朱桓・朱異の父子とか、孫権の娘の魯育を娶った朱拠とかを輩出した家柄です。施績が名乗っている朱氏は、丹楊郡の朱治に由来するから、名門じゃないんだ。
隣郡に政権の中核を担った同姓の名族がいたら、気分的にも実務的にも、いたたまれなくなるよね。「名高き祖先、優れたご血脈をお持ちになり、大変に羨ましい」「違いますが」「あ、いやいや、謙遜などされずとも宜しい」なんて言われたら、カチンと来ていたんだろう。
(2)孫呉政権の建国者としての、朱姓を嫌った。
施績が頂いている朱姓は、大叔父の朱治に由来します。
朱治は、孫堅の死で孤児になった孫策・孫権を助け、呉郡を初めて孫策に獲らせ、孫権に「オヤジ殿」として敬われた人物です。彼については、このサイト内の「朱治伝」をご覧下さい。まあ、建国の英雄なのです。
朱治から受け継がれた朱姓は「孫呉の支柱の証明」です。「孫呉と運命共同体」という意味でもあるはずで。
だから孫権は、朱績に復姓させたくなかった。「その姓を、もっと大切に思ってくれよ。キミが、孫呉を大切に思うのと同じように」と、孫権は朱績に言いたかったんだ。
「無神経な、権力ボケの老害め」という言葉を、朱績は飲み込んだ笑
朱績にしてみれば、「孫呉?そんなもの、ペッ!」という気持ちだった。
愛国心とか忠誠心を、いまいち持てずにいたのです。だから「義祖父の朱治の因縁を捨てて、腐った孫呉帝国に見切りを付けたい」という気持ちで、「朱姓を辞めたいです」と言っていた。孫権は、きっとそんなことに気づいてなかったのでしょうね。
朱績=施績の人生は、義祖父の朱治&孫呉帝国との、決別の歩みだったと思うのです。身もだえするような、葛藤の連続で笑
次回から、順を追って見てみます。