■生年はいつ?
いつ生まれたのか、分かりません!
でも、大体の年齢を知っておくと、人生について追いかけるとき、イメージしやすいので、試算します。
無理に推測してみると、朱治は69歳まで生き、朱然は68歳まで生きた。朱績も最期は病死で、特に健康問題について記述がないから、70歳くらいまで生きたと仮定します。強引ですが。
270年に死んでいるから、朱績の生年は、西暦200年くらい。実父の朱然が20歳前後のとき。まあ、大きなズレはないと思われます。
■朱才の無念
朱治・朱然の七光りで、郎に任ぜられた。
張魯が降伏して、曹操と劉備が直接対峙。孫権と劉備が、荊州を巡って決裂し、分割ゲームに励んでいるころに、官界デビューをしたようです。
のち、建忠都尉。
朱才の死後、朱績は私兵を継いだ。
朱才とは、朱治の実子。
「朱治は子供ができず、朱然を養子にした」とあるから、生年は194年以降でしょう。朱才は朱績には1世代上の叔父に当たるものの、5歳も離れてなかったはずです。
朱治伝所注『呉書』曰く、
朱才は字を君業という。聡くて騎射に巧みだったので、孫権は朱才を可愛がった。遊楽には、いつも朱才を連れ回した。武衛校尉として、朱才は戦功を積んだ。
朱才を妬んだ郷里の人物らは、「朱才は若くして出世したから、故郷にろくに還元をしない。あいつは何も知らん。ダメだ」と言った。
したたかなり、古老たち。。
朱才は、自分への批判を聞いて、残念がった。
「私は、馬上で敵を踏みしだき、進んで白刃を犯せば、名声を得られるものと思っていた。郷里の者が、私の一挙一動にまでケチをつけることなど、思いも到らなかった」と。
朱才は行動を改め、郷里の者にへりくだり、食客を手厚くもてなし、財貨を正しく使った。
朱才の名声が響くようになった頃、病死した。。
打てば響くような、爽やかな若者だったんだろうね。孫権も、彼を義理の弟として寵愛して。しかし、あまりに早い他界!残念だねえ。
ただ、朱然(養子)と朱才(実子)の間で、醜い争いが起きなかったので、ヨシとしましょうか。劉備と劉封・劉禅と全く同じシチュエイションだから、心配しました笑
231年。朱績は、朱才から引き継いだ部曲を率いて、潘濬の部下として五谿蛮の討伐を行った。30歳ぐらいで、朱績の胆力は評判を得た。偏将軍府で盗賊を取り締まり、朱績は法を遵守して公正だった。
最も頼りになる将軍として、孫呉に長年貢献した父・朱然も、朱績のことは鼻が高かったでしょう。
■孫呉の醜態
朱績の人生が良かったのは、30代まで。241年、太子孫登が死に、太子孫和と魯王孫覇の対立が始まる。二宮ノ変です。
ある日、朱績の役所に、孫覇が訪ねてきた。以下は想像ですが…
孫覇は、いきなり朱績の真横に座って、親しげに背中に腕を回し、肩を抱いた。軽く頬を寄せ、耳打ちするように言った。
「朱績さん、あなたのことを尊敬している。ぼくはあなたの良き友人にしてもらいたくて、今日はやって来た。親父(孫権)に、話は通してある。今日はもう勤めはいいから、一緒に飲まないか。お願いだ」
朱績は立ち上がり、「畏れ多いことでございます」言って辞した。退席した後、朱績は「馴れ馴れしい。何者のつもりか。付け上がるなよ、豎子め」と呟いたに違いない。
20歳も下の(正統性に欠く)皇子が、自派を増やそうとベタベタと擦り寄ってきたら、そら、気分も悪くなるよね。「この王朝は、どうなってしまったか」と思うさ。警戒したくもなる。愛想も尽きる。
250年に孫覇が自殺させられるまで、孫権は耄碌して、功臣をとことん犠牲にしてしまった。父・朱然と呂蒙の後継者として張り合った(このサイト内の「朱然伝」参照)陸遜も、血をぶちまけて死んだ。
■絶望の火種
朱然の晩年は、諸葛融(諸葛瑾の子、諸葛恪の弟)や歩協(歩騭の子)を率いた。唯一生き残った歴戦の部将として、教育に当たっていたのでしょう。
これは想像だけど、朱然が出陣すれば、きっと朱績と諸葛融が、くつわを並べることもあった。そして、どうもしっくり行ってなかったらしい。
朱然は249年に死んだ。朱績は父を継ぎ、平魏将軍・楽郷督。
どうでもいいけど、平魏将軍って厳めしい名前だよね。どうせ雑号将軍なんだろうけど、全土統一をするぞ!という覇気が見え隠れする。
■王昶討ちもらし事件
250年、魏の征南将軍・王昶が江陵城を攻めた。攻めあぐねて、撤退を開始。それを見た朱績は、諸葛融に手紙を書いた。
「王昶は糧秣が尽き、衰えて逃げ出しました。天のお力添えです。
しかし、私だけでは、追撃の兵力が不足します。先に私が攻めるので、諸葛将軍には、ご加勢をお願います。王昶に止めを刺して下さい。一人で立てられる手柄ではなく、二人で心を合わせれば成し遂げられる好機です」
諸葛融は、お返事を書いた。
「朱績殿のお考え、ごもっともです。必ず助けに参りますから、軍事行動を開始して下さい」
朱績は王昶を追いかけ、紀南城から30里にて追いついた。しかし、当初の予定通り、殲滅するには兵力が足りない。
「諸葛融はまだか。まだ来ないのか。約を違うつもりか!」
と朱績は怒った(のでしょう)が、諸葛融の軍影は見えず。王昶を討ちもらした。
孫権は「朱績は立派だ。諸葛融はダメだ、愚か者だ。だが、諸葛融の兄の諸葛恪には、大将軍を任せている。彼を失脚させるのは、忍びない。朱績よ、諸葛融を許せ」と判決した。
朱績にしてみれば、何とも無念なことか。この王朝は、腐ってる。そう確信を強めたに違いない。
次回は、諸葛恪が暴走して、朱績の顔に泥を塗ります。まあ、諸葛恪は万人に対して無礼者だから、いつものことなのかもだけど笑