■三国志キャラ伝>孫権が絶対服従のオヤジ殿、朱治伝(1)
孫権が張昭と正面衝突して、門が開かないように土で固めたり、その門に火を放ったりするのは(そこそこ)有名な話です。
 
孫権は、幼くして父親を亡くしました。それゆえか、父親格の人間と上手に付き合う方法を、あんまり知らないんだよね。年長者と聞けば、何だかそれだけで、疎んじてしまう。
「父の厳しさがあるから、今日のオレがある」と弁えている男は、きっと謙虚でカッコいいのだけど、父が愚か過ぎたり、弱すぎたり、早くにいなくなったりすると、そういう性格は二度と手に入らないのかも知れません。

 ■孫堅軍団の膨張に貢献
朱治、字は君理。丹楊郡の人。孫堅の1つ年下。
県に仕え、孝廉で州の従事。海賊退治なんてやって名を挙げてた、荒々しい孫堅に比べると、順当に揚州で役人コースを歩んでいる。
184年には、きっと任地で(孫堅とは独立に)黄巾討伐なんてやってて。
 
188年、長沙太守、孫堅の司馬。
黄巾討伐や涼州牽制の功で長沙太守になってた、孫堅に合流したんだね。
下邳県以来の臣下である程普・韓当・祖茂よりは、孫堅軍団への参加が1テンポ遅い。でも、最古参と言ってもウソにはならないかな。
 
朱然は長沙、零陵、桂陽にて、不服従民を討つ。
このときの孫堅は、盛大に自己PRをするために、隣接の郡に手を出しているんだが、朱治もそれに付き合ったのでしょう。この功を孫堅が上表してくれて、朱治は都尉。
董卓討伐戦では、孫堅は荊州を南から北に縦断し、袁術に合流。陽人にて董卓軍を破って、入洛。このとき、朱治は大いに活躍したので、督軍校尉。別働隊を組織。
孫堅から離れて、徐州牧陶謙を助け、黄巾を攻めた。
 
■孫堅の死
朱治が徐州で転戦してる間に、孫堅はコロッと死ぬ。

 ■孫策の叔父役
孫堅軍団は、彼の甥の孫賁が持って行っちゃった。
孫堅の嫡子、孫策はオロオロ。孫策は、故郷のあたりで家族といて、じっくりじっくり成長していたのだが、途端に孤立してしまった。
迷子の孫策を導いたのは、朱治でした。徐州と揚州は隣り合ってるので、駆けつけやすかったのでしょうか。
まだ張昭も張紘も、孫策のところにはいない。周瑜もいない。華麗なバトンタッチをする孫呉の軍師たちは、1人もいない。
宿将たちは、遠く荊州戦線にいる。彼らは、孫堅の個人的武勇に惚れ込んで、乱世の運命を賭けただけ。孫家とか、どうでもいい。孫堅の死を見て、したたかに利害の再計算を始めている頃でしょう。
 
朱治「孫策くん、キミも孫賁みたいに、袁術を頼るんだ」
しばらくして…
朱治「孫策くん、やっぱり袁術はダメだ。自立の動きを始めたらどうか。ほぼゼロからのスタートだが、おじさんが味方だから、怖がるなよ」
朱治が袁術の批判に転じたのは、なぜかなあ。
まあ袁術は袁術なので笑、自然と言えば自然ですが、、トリガーは袁術が馬日テイを拘束したことでしょう。馬日テイは朝廷からの正式な使者で、朱治を呉郡都尉にしてくれた人だからね笑
 
朱治「まず劉繇を乗っ取って、袁術と同じ目線まで登ろうか。袁術を叩き潰すのは、その次ね。袁術を倒したら、天下が狙える」
この王佐ぶりは「朱治、お前は諸葛亮か!」と突っ込みたくなる笑
 
孫策「朱治の叔父貴は賢けえなあ。ぶわーっと、攻めようぜぃ!」
朱治「待て。孫策くんの一族は劉繇領内の曲阿に、まだ残ってるだろう。これじゃあ、人質に取られる怖れがある」
縁の薄い土地に、ポツンと残された家族の心細さは、誰よりも孫策が知っているんだろうね。孫堅が死んだとき、軽く孤児になったから。
朱治の提案で連れられてきた家族の中には、当たり前だけど、孫権・孫翊少年も混ざってる。
 
■始まりの地
朱治は、呉郡太守の許貢を追放した。
勝った朱治は、呉郡太守の職務に当たった。前に馬日テイに呉郡都尉にしてもらってるから、実力行使という経緯は別にして笑、順当な出世に見える。
 
のちの国家が「呉」と呼ばれるのは、本拠地が呉郡だったから。スタートしたばかりの孫策に、最初の足がかりを与えたのが朱治。
孫呉100年にとって、朱治は建国の英雄ですよ。
孫堅が初代ということになってて、それは事実なんだが、孫策の父代わりをした朱治は、それに準ずるでしょう。将軍も軍師もろくにいない段階で、独立のプラニングと戦闘を仕切ったんだもんね。
孫策はついに最初の階梯である、劉繇を撃破して、会稽太守を名乗った。孫氏の親族たちを次々に任官して、孫堅以来の軍団を再編成しました。

 ■孫権が絶対服従の理由
劉備が曹操に敗れて徐州を失ったとき、青州の袁譚を頼った。袁譚は、敗残のバカを見捨てるかと思いきや、礼を尽くして自陣営に迎え入れた。
その理由が、「劉備さんが、オレを推挙してくれたから」です。
父子とか君臣とかの関係も大切だけど、初めて孝廉にあげてくれた人を、三国志では重視するんだよね。かなり大きな恩を感じちゃう。
  
朱治は、十五歳の孫権を、孝廉に推挙した。
初めては一回しかないんだから(当たり前)孫権にとっての、生涯の恩人は、朱治に決定したのです。ただでさえ、一家離散の悲劇から救ってくれた父代わりだったのに、推挙までしてもらって。これで、孫権にとって朱治は、付き合い方が分からないオヤジ殿としての地位を確立。
 
陳寿は「孫策の死後、朱治は張昭とセットで孫権を守り立てた」とある。張昭と同列にされてるあたりが、まあこれが朱治伝本文であるということを差し引いても、朱治がブレインとして機能してたことを推測させてくれます。
 
■「呉」は朱治のもの
202年、孫権は朝廷(官渡に勝った曹操)に申し出て、朱治を呉郡太守にした。許貢を追い出したときは、私称だったことが、ここで暴露されるわけですが笑
このあと、223年まで朱治は呉郡太守をしてた。
223年というと、劉備が死ぬ年です。そして、朱治の死の前年でもある。朱治は70歳くらいまで、31年間ずっと「呉郡太守」をしていたことになる。
朱治がずっと聖地「呉」の地に居座っていたのは、朱治が孫権にとって、孫堅以上にオヤジ殿だったからだと思います。
「どけ!」とは、言えなかったんだろうねえ。
劉備の即位より、孫権の即位が8年も遅いのは、「全土統一の野望が薄かったから」だけではなさそうです。朱治が、許貢追放以来、ずっと居座っていたからなんだね。
※曹丕との外交の駆け引きに使ったのが、メインの理由でしょうが。
 
朱治の死後、孫権は「呉王」に進んでいく。
ついに「呉」の地が空いたぜ!と、雀躍しているさまが思い浮かびます笑


 次回、孫権が朱治にムカついて、ストレスをためます。
やっぱり、孫権はオヤジ殿と円満にやっていくことはできないのか…

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