■三国志キャラ伝>呂蒙の二枚舌遺言の真相は?朱然伝(1)
パレスチナ問題をややこしくしたのは、イギリスの二枚舌外交だと言われています。朱然の立場をややこしくしたのは、呂蒙の二枚舌遺言です。   ■呂蒙の2つの遺言 陳寿の陸遜伝曰く、 呂蒙は病気で荊州を離れ、建業に戻った。孫権は「キミの代理は、誰に務まるか」と聞いた。 呂蒙「陸遜は思慮が広く深く、才能も重任に堪えます。将来への計画の周到さも、評価できます。しかも陸遜は知名度がいまいちで、関羽に警戒されておりません。陸遜を起用すれば、きっと関羽を討つことが出来ます」 陳寿の朱然伝曰く、  孫権が危篤の呂蒙に聞いた。「キミがもし再起不能になったら、誰に後を継がせたらよいだろうか」と。 呂蒙「朱然は決断力、実行力ともに十二分です。私の後は、朱然が適任だと思われます」   さあて、どっちやねん!という話ですよ笑   時系列からすると、朱然に託した方が、時系列が後です。 陸遜の名前を出したのは、荊州から帰還した直後です。朱然の名前を出したのは、もう関羽を討った後、マジに呂蒙が死ぬときです。 呂蒙の真意はこうだろうか。 「陸遜には、対関羽戦の指揮を、私の代わりに任せてやって下さい」 「朱然には、私が魯粛殿から譲り受けた、孫呉軍の総指揮を託します」 陸遜を指名する発言の結論が、「関羽を倒すことができる」になってることからも、明らか。周瑜・魯粛・呂蒙と繋いできたバトンは、陸遜じゃなく朱然が受け取ったんだ。 朱然はすでに曹操と濡須で戦ってるから、それなりに名が遠くまで知れていた(と、呂蒙は判断した)。だから関羽を油断させる作戦のみ、呂蒙の全権から切り離して、陸遜に与えたんだろうか。   ■『演義』のマジック 呂蒙が入院した後で、陸遜は出陣した。朱然も潘璋とともに臨沮に進軍。ついに関羽を捕虜にしたのは、ご存知のとおりです。 朱然は、関羽のカタキになってしまった。 そんな武将にとって、『演義』が用意している運命なんて、残酷なものなんだ。夷陵の前哨戦で、趙雲に一突きされて、朱然は絶命させられた。本当は、249年に68歳で天寿を全うするんだが(若造キャラの陸遜より長生きだね)、ファンには知られないのね。   そんな朱然の「余生」において、彼は名族の陸遜とどのように張り合ったか。正史『三国志』を見ながら、呂蒙の真意を探ってみましょうか。
  ■関羽戦までの朱然 朱然、字は義封。朱治の姉の子で、13歳で朱治の養子になった。養子になったとき、孫策は羊肉と酒を供えて、鄭重にもてなして祝福した。 ちなみに、義父の朱治については、このサイト内の朱治伝をご覧下さい。   朱然と孫権とは同い年で、机を並べて勉強した。 孫権が家督を継ぐと、19歳の朱然を会稽郡余姚県の長にした。のちに山陰県令、折衝校尉として、5県を治めさせた。   丹楊郡を分割し、臨川郡を作ると、朱然が太守になって兵2000を与えられた。朱治の息子で兄弟同然の朱然を出世させるため、郡を分割したという意味もあるでしょう。ただ、丹楊郡は孫権の根拠地に隣接してるのに、山越が叛乱ばかりするから、キメ細かい統治を狙ったとも推測できる。 案の定、山越が蜂起したので、朱然が1ヶ月で平定。   212年、曹操が濡須を攻め、朱然は濡須塢と東興関を守って、偏将軍。 このとき三国志にデビューせず、山越の討伐のみに専心するローカル武将に徹していれば、もしかしたら関羽戦でも朱然が総大将に任命されて、すんなりとバトンをもらっていたはずなのに…   ■陸遜と朱然の背比べ 219年、関羽討伐戦のとき 朱然:濡須の功で昇格した、偏将軍のまま。 陸遜:呂蒙の後任として、偏将軍・右部督に任じられる。    関羽を討った侯により、右護軍・鎮西将軍に昇格。 おおっと!関羽を攻めたときは、2人は同列じゃないか。しかも、朱然は7年も先んじて偏将軍になっているから、陸遜より実質は上だよね。 でも陸遜のレター作戦が大当たりしたから、朱然は抜かれちゃった!   219年、呂蒙死去のとき 朱然:呂蒙の後継として、仮節を与えられ、江陵に駐屯した。 陸遜:変動なし。 呂蒙の死によって、朱然に新しく独立裁量権が預けられ、陸遜は変動なし。もう陸遜は充分に出世したというのもあるんだが、このことから「呂蒙の後継は朱然」はガチですね。孫権は、呂蒙の遺言を尊重したことになる。
  次回、陸遜と朱然の背比べが、もう少し続きます。
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