パレスチナ問題をややこしくしたのは、イギリスの二枚舌外交だと言われています。朱然の立場をややこしくしたのは、呂蒙の二枚舌遺言です。
■呂蒙の2つの遺言
陳寿の陸遜伝曰く、
呂蒙は病気で荊州を離れ、建業に戻った。孫権は「キミの代理は、誰に務まるか」と聞いた。
呂蒙「陸遜は思慮が広く深く、才能も重任に堪えます。将来への計画の周到さも、評価できます。しかも陸遜は知名度がいまいちで、関羽に警戒されておりません。陸遜を起用すれば、きっと関羽を討つことが出来ます」
陳寿の朱然伝曰く、
孫権が危篤の呂蒙に聞いた。「キミがもし再起不能になったら、誰に後を継がせたらよいだろうか」と。
呂蒙「朱然は決断力、実行力ともに十二分です。私の後は、朱然が適任だと思われます」
さあて、どっちやねん!という話ですよ笑
時系列からすると、朱然に託した方が、時系列が後です。
陸遜の名前を出したのは、荊州から帰還した直後です。朱然の名前を出したのは、もう関羽を討った後、マジに呂蒙が死ぬときです。
呂蒙の真意はこうだろうか。
「陸遜には、対関羽戦の指揮を、私の代わりに任せてやって下さい」
「朱然には、私が魯粛殿から譲り受けた、孫呉軍の総指揮を託します」
陸遜を指名する発言の結論が、「関羽を倒すことができる」になってることからも、明らか。周瑜・魯粛・呂蒙と繋いできたバトンは、陸遜じゃなく朱然が受け取ったんだ。
朱然はすでに曹操と濡須で戦ってるから、それなりに名が遠くまで知れていた(と、呂蒙は判断した)。だから関羽を油断させる作戦のみ、呂蒙の全権から切り離して、陸遜に与えたんだろうか。
■『演義』のマジック
呂蒙が入院した後で、陸遜は出陣した。朱然も潘璋とともに臨沮に進軍。ついに関羽を捕虜にしたのは、ご存知のとおりです。
朱然は、関羽のカタキになってしまった。
そんな武将にとって、『演義』が用意している運命なんて、残酷なものなんだ。夷陵の前哨戦で、趙雲に一突きされて、朱然は絶命させられた。本当は、249年に68歳で天寿を全うするんだが(若造キャラの陸遜より長生きだね)、ファンには知られないのね。
そんな朱然の「余生」において、彼は名族の陸遜とどのように張り合ったか。正史『三国志』を見ながら、呂蒙の真意を探ってみましょうか。
■関羽戦までの朱然
朱然、字は義封。朱治の姉の子で、13歳で朱治の養子になった。養子になったとき、孫策は羊肉と酒を供えて、鄭重にもてなして祝福した。
ちなみに、義父の朱治については、このサイト内の朱治伝をご覧下さい。
朱然と孫権とは同い年で、机を並べて勉強した。
孫権が家督を継ぐと、19歳の朱然を会稽郡余姚県の長にした。のちに山陰県令、折衝校尉として、5県を治めさせた。
丹楊郡を分割し、臨川郡を作ると、朱然が太守になって兵2000を与えられた。朱治の息子で兄弟同然の朱然を出世させるため、郡を分割したという意味もあるでしょう。ただ、丹楊郡は孫権の根拠地に隣接してるのに、山越が叛乱ばかりするから、キメ細かい統治を狙ったとも推測できる。
案の定、山越が蜂起したので、朱然が1ヶ月で平定。
212年、曹操が濡須を攻め、朱然は濡須塢と東興関を守って、偏将軍。
このとき三国志にデビューせず、山越の討伐のみに専心するローカル武将に徹していれば、もしかしたら関羽戦でも朱然が総大将に任命されて、すんなりとバトンをもらっていたはずなのに…
■陸遜と朱然の背比べ
219年、関羽討伐戦のとき
朱然:濡須の功で昇格した、偏将軍のまま。
陸遜:呂蒙の後任として、偏将軍・右部督に任じられる。
関羽を討った侯により、右護軍・鎮西将軍に昇格。
おおっと!関羽を攻めたときは、2人は同列じゃないか。しかも、朱然は7年も先んじて偏将軍になっているから、陸遜より実質は上だよね。
でも陸遜のレター作戦が大当たりしたから、朱然は抜かれちゃった!
219年、呂蒙死去のとき
朱然:呂蒙の後継として、仮節を与えられ、江陵に駐屯した。
陸遜:変動なし。
呂蒙の死によって、朱然に新しく独立裁量権が預けられ、陸遜は変動なし。もう陸遜は充分に出世したというのもあるんだが、このことから「呂蒙の後継は朱然」はガチですね。孫権は、呂蒙の遺言を尊重したことになる。
次回、陸遜と朱然の背比べが、もう少し続きます。