■三国志キャラ伝>呂蒙の二枚舌遺言の真相は?朱然伝(2)
■陸遜と朱然の背比べ2 222年、夷陵の戦いのとき 朱然:陸遜と協力して劉備を撃退し、征北将軍となる。江陵を曹真・夏侯尚・張郃に囲まれたが、必死の籠城城に勝利して、当陽侯に。 陸遜:大都督に任じられ、仮節を与えられる。戦勝により、輔国将軍を加えられて荊州牧となる。   陸遜が加えられた「輔国将軍」は雑号将軍です。つまり、定員があるわけじゃなく、主君が適当に名づけて任命し放題の、軽めの将軍号ですね。 雑号将軍 < 前後左右 < 四平将軍 < 四安将軍 < 四鎮将軍 < 四征将軍 という席順で、ちくま訳の官職表が作られていたので、「征北将軍」の朱然と「鎮西将軍+輔国将軍」の陸遜を比べたとき、どっちが上なのか分かりません。 この曖昧さが孫権の配慮なんでしょうか。    なお、このとき四征将軍のポストがすでに埋まっていた可能性があります。陸遜が上がれなかった原因は、そこまも知れませんが、、確認してません。ごめんなさい。   ■陸遜と朱然の背比べ3  229年、孫権の即位のとき 朱然:車騎将軍に任ぜられ、右護軍・兗州牧。 陸遜:上大将軍に任ぜられ、右都護。任地の西陵から武昌に呼び戻され、太子孫登の後見役。荊州と豫章三郡を統治した。   ついに朱然も牧をもらいましたよ。まあ、いま兗州は魏領です。 陸遜の荊州牧と対比すると、顔を立てるためだけの任官であることは明白。その上、蜀漢と「天下を二分しましょうぜ」という大言壮語でしかない同盟を結んだとき、孫権は兗州を「放棄」したので、朱然は牧を解かれてしまったのでございます笑 朱然と陸遜の将軍号は、ともに二品で同格です。 この出世は、2年間に孫権が石陽を攻めて退却したとき、混乱した潘璋に代わって、朱然が殿軍を務めたことが、効いたのでしょう。   まだ2人は昇進するのですが、対称性が失われてきたので、ここで休止。
  ■朱然の得意戦法はゴリ押し 朱然は七尺(169センチ)に満たなかったが、軍器以外は質素で、からっとした性格だった。いつも陣頭に立ち、ピンチのときも心を乱さなかった。平時でも非常召集の太鼓を鳴らし、兵士に整列させていたため、敵はいつ隙を突いてよいのやら分からず、朱然に手間取った。 とまあ、 こんな感じで書かれてますが、朱然の戦は力押しで、不器用が目立つ。プラスの評価っぽく書かれている「からっとした性格」というのも、大した思慮がなかっただけじゃないか、という気がしてくる。   234年の合肥戦では全琮とともに両翼を担ったが、退却。 242年、柤中を攻めたが、退路を絶たれた。部将も兵士も四方に出払わせていて、数千をたったの八百で迎え撃つ羽目になった。追い払えたからいいんだけど、九死に一生。 246年、魏から偽って投降してきた馬茂が、一触即発の事態を起こした。馬茂を見抜けなかった朱然は「次の戦でがんばるから、チャラにして下さい」と上表して、再び柤中をガムシャラに攻め、勝利した。これで孫呉の領地が増えたというわけじゃないんだが。。 「約束どおり、失点を取り返したな。やっぱり朱然はスゴい」と孫権は感心し、朱然は左大司馬・右軍師となった。   しかし、手放しで浮かれていられない。 2年前から、すでに陸遜は丞相なんだから!がーん。   ■いつから食い違った? 朱然が気合と努力だけで戦をしてるとき、陸遜は何をしてたんだろう。対蜀外交の印璽を任され、石亭で曹休を騙し討ち、荊州方面を治め、公孫淵征伐を諌め、呂壱を咎め、二宮の変で孫権を諭した。 国家の補佐としては、朱然は到底、陸遜に叶わないわけで。朱然は、孫権や陸遜が軍事行動を起こすときに、安心して指揮を任せられる一将軍というレベルです。   改めて呂蒙の2人への評価を思い出してみると、 朱然:決断力と実行力に長けて、心強い。 陸遜:思慮が広く深く、周到に計画を練ることができる。 まさに、呂蒙が指摘したとおりに2人は活躍したことが分かります。   なぜ、バトンを受け継いだ朱然が単なる将軍で、関羽作戦のときの非常勤指揮官の陸遜が、丞相にまで上り詰めたのでしょうか。 「孫権を援ける軍師」「名実ともにナンバー2」「天下大計を描く人」というバトン本来の趣旨+イメージが、失われているようではありませんか?   この違和感は、バトンの意味を、ぼくが間違って定義してたことによります。その間違いに、こうして「朱然伝」を書くために陳寿を熟読していて、初めて気づきました。無計画…
  次回、最終回。 孫呉の華麗なるバトンタッチの隠れた意味について、好き勝手に考察を加えます。思いつきで、話が脱線を始めていることは、自覚してます…
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