■三国志キャラ伝>呂布・劉備と同じ穴の梟、太史慈(1)呂布と劉備と太史慈。
この3人は同じ種類の人間で、太史慈だけが仲間はずれです。
同じなのは、群雄になる器量はないが、群雄が無視できない風格は備えていること。あちこちを偉そうに渡り歩くんだ。違うのは、呂布と劉備はついに建国したが、太史慈はスベッたこと。
呂布は、丁原、董卓、王允、袁術、袁紹、張楊、張邈、そして独立、最期は曹操に臣従を申し出た。
劉備が居候を決め込んだのは、公孫瓉、陶謙、呂布、曹操、袁紹、劉表、孫権、劉璋で、ついに独立。
太史慈となると、東莱郡、孔融、劉繇、ここで独立を狙うが、孫策に破れ、孫権にも従い続ける。ラブコールだけなら曹操から受けた。太史慈は劉備より人生が20年短かったから、これだけだった。でも長生きしたなら、劉備以上にウロウロしたのかも笑
陳寿もこの外様武将を評価していて、『三国志』では、本紀の孫皓伝の次が劉繇、その次がもう太史慈です。劉繇は、孫策が伸し上がっていく中で併呑した、対等以上の勢力。太史慈は、孫呉の一武将というよりは、名声があって合流した(=そのうち離反の可能性もある)群雄もどきとして扱われているのでしょう。
■信頼できないぞ
同病は哀れみあい、類は友を呼ぶらしく、太史慈は孔融救出戦で、英雄なみの武力と知力を振り絞り、劉備を呼びに行く。劉備は大感激して、太史慈に協力を誓った。
行き場を失った呂布は、何も持たずに劉備のところに転がり込み、歓迎された。呂布に追放されても、心得ている劉備は、しれっと呂布に居候する。常人の神経じゃ、戻らんだろう。
ついに終末のとき、捕縛された呂布が、劉備を指して「このウサギ耳の野郎が、一番信頼できないんだ!」と叫ぶ。この言葉は、よく太史慈にも宛がわれてきた評価だ。「太史慈は信用できない」という人は、許劭を筆頭に、同時代にとても多かった。
無能じゃない。むしろ、文武に優れた傑物の匂いがする。しかし大略を練れる頭脳は持たない。天下の軍師との邂逅&権限委譲をやらないと、この手の人物は、乱世を掻き乱すだけなんだ。
「真・三國無双」ではウルトラマンみたいになってるが、「太史慈伝」を読むと、忠や義に従うように見えつつ、智勇とセコさを備えた中国的な人物だったようです。
■東莱郡の詐欺師
青州は東莱郡の黄県の人。字は子義。
166年生まれだから、曹操・孫堅より11コ下。劉備より5コ下。孫策より9コ上、孫権より16コ上。黄巾で活躍し、さらに『三国演義』が死期を操作しちゃったから、どうも年齢不詳de武将なんだが、張遼の1コ下だと確認できたら安心できた笑
21歳のとき(186年)青州と東莱郡がモメた。大阪府と大阪市がモメるのと同じ構図だ。決着が付かず、先に洛陽に上聞した方が有利という状況になった。太史慈は郡の奏曹史だったので、郡の味方だ。
郡は後れを取ったので、太史慈を昼夜兼行で遣わした。太史慈はタッチの差で間に合い、公車ノ役所で取次ぎを待っている州の役人に言った。「上章の表書きに誤りはないか。一緒に確認しないか」と、間抜けな昔話みたいに誘って取り出させ、目の前でビリビリにした。
そして言いがかりでトドメを指す。「あんたの過失は、オレに上章を渡したことだ。あんたが渡さなければ、オレは上表を破れなかったんだ」と。これはヤカラでしょ。最悪じゃないか。
開き直って「オレにも過失がある。オレの役目は、あんたが洛陽に上章を届けたか、確認することだった。しかし、やり過ぎてしまった。2人とも処刑されるぞ。もう一緒に逃げちゃおう」
2人で逃げ出したが、太史慈は途中で州の役人をマイて、自分だけ上章を提出した。郡側が先手を取り、有利な判決を獲得した。
ところで、州vs郡で早い者勝ちって、どんな状況だろう。
このとき州を統べていたのは刺史で、太守より俸禄が安いから、対等に争うのは納得できる。
どうせ、黄巾討伐戦の主観交じりの評価とか、売位売官がらみの工作とか、淫らな邪教に加担してますという讒言とか、そんなだろう。言ったもんがちの世の中なんて、ろくなことはない。
■一発芸採用
企業や大学が、学歴や筆記試験の結果ではなく、ひとつでも秀でた能力がある人を選ぼうと言って久しい。
よく「一芸採用」と言うんだが、あまり巧くいったという話は聞かない。入学・入社しても「一発芸採用」とか言って蔑まれる。まだ「親の七光で入りました」の方が、周囲の同期から理解を得やすいんだ。
後漢末にこの「一発芸採用」をやっていたのが、孔融だ。
太史慈のことを聞いて評価した。
っていうか、陳寿を筆頭とする後世人とか、孔融ら名士が太史慈の評判を知っているということは、太史慈は上章ビリビリ事件を口外してたんだね。「たいそう機転が利いただろう」と、自慢に思っていたんだろう。ロクな奴じゃないね。だから青州に居られなくなったんだ笑
孔融は、太史慈の母に贈り物をして、彼を囲い込もうとした。むしろ孔融が、黄巾の管亥に囲い込まれた笑
遼東から、現実逃避を終えて帰ってきた太史慈は、母に命じられて、孔融救出に向った。「老母に恩賜を頂いたお返しですから」なんて言って、奮闘した。悪いことに、太史慈は実際に強いから、孝だの忠だの義だのという評価が、確信を持って広まる。
太史慈は、大局はまるで眼中に入れられないが、目の前に高いハードルがあれば、非凡な対処ができるんだ。
いよいよ城内の兵だけでは管亥に勝てないと思ったから、孔融は再び一発芸採用のリストをめくる。「劉平原を呼ぼう」なんて言い出した。
太史慈は目の前の壁を壊すのが大好きだから、役を買って出る。長篠の戦いでも同じだが、籠城側が急援を求めるのは、非常にリスキーだ。
■太史慈の計略
城門から騎馬で出て、包囲軍に「すわ、攻撃か?脱出か?」と思わせておく。これ見よがしに的を立てて、塹の中から命中させて、城門に帰って行く。「ただのお稽古でしたー」と言いながら、自分の腕前をさんざん見せ付けるという、イヤミぶり。
なまじっか、弓術が上手だから、いけないんだ笑
3日ほど「お稽古でした」を続けた。包囲する側は弛緩して、太史慈が出てきても相手にしない。寝そべっている人が多かった。
それを確認した太史慈は、一気に脱出した。
太史慈は数人をドドドと射殺し(腕は良い)平原国に向った。せこっ!
次回、同類の太史慈と劉備が、出会います。
いかがわしい連中は、妙に気が合うから不思議だよね。
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