魏晋南北朝を特徴づける、お役所の人事システムは「九品官人法」だ。高校世界史の無味乾燥な教科書で、暗記事項として頭に叩き込んだことがある。
これを作ったのは、今回取り上げる陳羣だ。
漢の「郷挙里選」は、地元で評判の高い人物が出世していくシステムだったが、これじゃあ癒着が起きて、ガラクタばかり集まった。
220年、魏帝国の職位を9段階に分けた。そして、中正官という「公平無私な」評価者を各郡においた。
中正官は若者を連れてきて、「こいつの素質なら、もし最も忠勤に励んだとしたら、MAXでここまで出世させてもいいだろう」と見定める。
若者は、想定された上限の位より4段階低いところからスタートし、あとは実力次第で登っていく。ちゃんと上限に達する人もあれば、そうじゃない人もいる。実力主義、っぽいじゃん。
ただし、中正官が決めた上限を突き抜けることは出来ない。だから、初めにどれだけ高い評価を得るかが、出世のキーになる。やがて評価の枠が(中正官と結びつく)特定の一族に独占され、貴族社会に移行していく。
249年、司馬懿が「州大中正」をおいて州単位での評価権限者を置いたから、貴族化は加速。隋の煬帝が「科挙」を採用するまで、すなわち全土が再統一されるまで、陳羣の作ったシステムが生き続けたのですね。
■華々しすぎる祖父
陳羣、頴川郡許昌県の人。あざなは長文という。
のちに「上表の天才」みたいな異名を取るのだが笑、その素質はすでに、あざなを決めた時点で運命付けられていたんだね。
祖父は陳寔で、後漢の大儒。頴川郡というと、後に曹操が好んで味方につけた学者官僚たちのメッカだが、陳寔がボス的な存在。党錮ノ禁を食らって、故郷にこもった。
盗人を「梁上の君子」だと言った逸話が有名だけど、それだけ聞くと安っぽい人みたいだね笑
「梁の上に隠れている御仁も、やむにやまれず、泥棒してるんだ。もともと悪い人間なんていないんだよ」と。この一言で、附近一帯から泥棒がいなくなったというんだから、すごい皮肉の切れ味。皮肉じゃないのか、こういうのを儒教的な教化と言うんだろうね。ぼくには分からん笑
「法に罰せられるより、陳寔さまに『あなたの行動は、良くないね』と言われる方が、恥ずかしい」とまで慕われた人物です。
陳寔の皮肉は、どれだけキツいのか!と言いたくなるが、それは間違い笑
陳寔は、孫の陳羣の頭を撫でながら「この子が、我が一族を盛んにするだろう」と言っていた。ありがちな話ですが笑
陳羣は曹操に仕えた後、刑罰についての議論をブチ上げたり、儒教官僚のベタベタした褒め合い体制を潰したりする。
幼い陳羣から見て、祖父は「正しい儒教の使い方」を実践する、聖人のような人物だった。だから成人した陳羣は、儒学の教えが「建前」に成り下がった漢末の醜態を、ひと一倍に嫌悪した。この嫌悪感が、いろんな上表のモチベーションになったのだろう。
何進は陳寔を招いたが、断って節操を保った。
陳寔が死ぬと、3万人が葬儀に駆けつけ、3桁の人が3年の喪に服した。
■孔融の乗り換え
陳羣の父は、陳紀という。
『世説新語』曰く、陳紀は弟(陳諶)と言い争った。「どっちが上手く、父・陳寔を讃えることができるか」が決まらない。ジャッジを陳寔に求めたら「キミほどの兄はいないし、あいつほどの弟はいないよ」と言われた。
うわー!気持ち悪い。
兄弟喧嘩のテーマが気持ち悪い。そして陳寔の答えも、気持ち悪い。けっきょく、親子3人で褒めあっただけじゃないか。なんだ、このベタ付きは。こういうのが、儒教の名門たる所以なんだろうねえ。
『先賢行状』曰く、豫州の人民は、陳羣・陳紀・陳諶の肖像を、家に掲げていた。うへえ。そういう国なんだろうねえ。
陳紀は数十の書物を編んで、人々は彼の本を「陳子」と呼んだ。
かの孔融は、陳紀と陳羣の中間の年輩だった。
はじめは陳紀の方と仲良くやっていたが、子の陳羣の才能を知るようになると(やっぱり陳羣と交流したいので)陳紀に改めて挨拶をした。このことから、陳羣は有名になった。
さすがに孔融さんで、陳紀の顔をつぶしてくれました。
陳紀は、儒教官僚の歓心を得ようとした董卓により、官界デビュー。
ちなみに、袁術に九江太守に任命された陳紀は、別人でした。
次回、やっと陳羣が登場します!劉備に召し出されます。