■初めての主君は、劉備。
陳羣を世に出したのは、劉備だった。
劉備が陶謙の下で豫州刺史となると、陳羣を別駕として迎えた。おそらく、孔融さんの顔つなぎがあったのでしょう。それ以外に、たかが劉備が陳羣を召しだせる理由がない。
陶謙が病死すると、劉備が徐州牧になった。
袁術が攻めてきたので、劉備は「とりあえず攻めちゃえ」的なノリで、迎撃しようとした。
陳羣が袖を捕まえて、お待ちなさい、と呆れて言った。
陳羣「袁術は強大です。小沛には呂布を抱えています。いま下邳を出たら、袁術には勝てませんし、呂布にねぐらを奪われてしまいます。ご再考を」
劉備「あははのはー」
果たして、陳羣の言うとおりになった。
陳羣は茂才に推挙され、柘県ノ令に任命されたが就任しなかった。陳羣は、父・陳紀に従って徐州に避難した。
■私は、馬鹿は嫌いです。
さて、陳羣が誰に推挙されたのか、ちくま訳にはなぜか主語がありません。陳寿の原文を確認しなきゃいけないんだが。。
おそらく劉備が推挙したんだろうね。
劉備は袁譚を推挙することもしてるから、そのノリなんだ。「キミの進言を聞かずに、敗れてしまった。推挙で、ご機嫌を直してくれないか」というつもりだったんだろう。
しかし、小沛に閉じ込められた劉備は、あまりに魅力がなさ過ぎた。だって馬鹿だから。陳寔の孫には、あまりに似合わない就職先でした。
このとき、劉備の手元にいる文官(というより非武将)は、簡雍、孫乾、麋竺、麋芳。ああ、パッとしないよ。ここに陳羣が混ざっていたことが、むしろ不思議。
簡雍は古参を鼻にかけた無礼者、孫乾は人当たりがいいだけで学識なし、麋竺は劉備を慕う単なる富豪、麋芳は兄の投資に不満を持つ商人。一緒にいても、つまらん。
劉備のところから、陳羣が逃げていったのは、当たり前のことで。
陳羣は城門を出て、馬上で振り返って呟いたんじゃないだろうか。
「私は、馬鹿は嫌いです」と。ぼくの想像ですが笑
■水を得た魚
曹操が下邳で、呂布を縊り殺した。
陳羣は曹操に招かれ、司空ノ西曹掾属になった。
陳羣は人材起用について、しょっぱなから才を見せた。
王模と周逵が推薦されたので、曹操は取り立てた。陳羣は封緘して「王模も周逵も、道徳をけがす人です」と注意した。果たして、王模と周逵は、悪事で処刑された。曹操は、陳羣に謝った。
陳羣は、陳矯と戴乾を推薦した。陳矯は名臣となり、戴乾は孫呉に攻められたとき、国家に殉じた。ちなみに陳寿は、「陳羣伝」の次に「陳矯伝」を記した。
職務に優れたため、治書侍御史、さらに参丞相軍事、建国後は御史中丞。
陳羣が曹操に仕えて良かったなあ、と思うのは、学者官僚として意見を述べる機会があったことじゃないか。曹操は国家を創ろうと志していたから、そういう仕事があるんだ。劉備のところは、単に城や国を切り取ることしか考えてないから、ヒマだった。
■陳羣と肉刑
ある日のやりとり。陳寿もちくま訳も小難しいので、会話調に書き落としてみました。『演義』は戦闘シーンの華々しさが売りだが、こういう議論の記述がぼくは好きです。
曹操「陳羣よ。キミの父の陳紀殿は、死刑を軽々しく執行するな、仁愛恩情を加えよ、と主張したそうだ」
陳羣「そうです」
曹操「古代、肉刑(身体を傷つける刑。殺さない)が行われた。いま、死刑を減らし、肉刑を復活させることを検討している。陳紀殿に代わって、陳羣は肉刑について具申できるか」
陳羣「はい。漢代、肉刑が減らされ、ムチ打ちに変更されました。愛憫ノ情によるものです。しかし、ムチで死ぬ者が非常に多かった。刑の名前が優しくなっただけで、かえって刑は重くなりました」
曹操「うむ」
陳羣「むしろ刑の名前が優しくなったので、ほいほい罪を働く者が増えました。また、軽い罪の者まで(肉刑ではなく、ムチ打ちが執行され)重刑者と一緒くたに死んでいます。この現状は、よくありません」
曹操「そうだ」
陳羣「人を殺した者には、死刑が妥当です。しかし、人を傷つけただけの者まで、ムチ=事実上の死刑にしてしまうのは、道理に反します。姦淫した者は、宮刑とする。盗人は、足を切り落とす。それで充分なのです。二度と同じ罪を犯すことは出来ません。ゆえに、肉刑の復活が望まれます」
曹操「いい。オレが望んでいた答えだ。陳羣の論法を使って、漢の諸臣に諮ってみよう」
※特にこの曹操の最後のセリフは、ぼくの想像です笑
鍾繇は賛成したが、王朗が反対した。肉刑復活案は、保留になった。。
■曹丕の四友
曹丕が王太子のとき、陳羣に敬意を持って接した。
「この曹丕様には、ちゃんと顔回(優れた筆頭弟子)がいる。だから、オレの取り巻き連中は、日に日に良くなっていくのだ。くくくく」
もちろん顔回とは、陳羣のこと。
陳羣を孔子の弟子になぞらえるのは、まあ、いいとしましょう。でもこれによって、曹丕は自分自身を、孔子に例えていることになる。
すごく傲慢です。怖いねえ。
曹丕が即位すると、陳羣は尚書令、頴郷侯。
広陵まで孫権を討ちに行ったとき、陳羣は中護軍を兼任した。悲しくも撤退するときは、陳羣に節を与えて、水軍を率いさせ、鎮軍大将軍。
※「陳羣が鎮軍」とは、曹丕も捨てたものではない。
■曹丕の早すぎる死
曹丕が死ぬとき、曹真・司馬懿ともに後事を託された。曹真・司馬懿・陳羣は、たった3人だけが府を開設する事を、曹叡に許された。
陳羣は司空になったが、尚書の事務を続けた。九品官人法の運用が、始まったばかりだったかな。
次回、陳羣の名を高める+淋しい諫言生活が始まります。