■三国志キャラ伝>末期蜀の小康状態、董和・董允、陳祗伝(2)
■出師の脅迫 董允、字は休昭。董和の子。 劉禅が皇太子になると、太子舎人、太子洗馬。 劉禅が即位したとき、黄門侍郎。   諸葛亮が漢中に行くときに、「出師の表」を発表して曰く、 「侍中の郭攸之・費禕、侍郎の董允は、先帝(劉備)が陛下(劉禅)のために遺した者たちです。政治規範と利害が分かり、忠言を尽すのは、彼らの役目です。私が留守の間は、ことの大小に関わらず、全て彼らに相談なさいますように。もし、ろく進言をしなければ、董允らを斬って、職務怠慢を明らかにして下さい」と。 諸葛亮から費禕たちへの強い信頼を表している。ただ同時に、董允に対して脅しをかけている。諸葛亮は、自分が仕事熱心なだけじゃなくて、他人にも同じレベルの熱心さを強要してしまうからね。 わざわざ董允の名前を出したのは、彼への期待の裏返しでもあるんだが、何とも生きにくい人ですよ笑   父の董和とすごく親しんだから、その子に過剰な期待をかけているだろう。劉禅といい董允といい、諸葛亮の期待は重たいから、人格形成には悪影響が出そうじゃないか。 名選手と名監督が違うように、諸葛亮は目下を教育するのが苦手なんだろうね。馬謖を例に出すまでもなく笑   ■費禕の後任 諸葛亮は費禕を参軍にしたいから、成都の留守は董允に任せた。むかしのロケットペンシルみたいに、前から順番に押し出されていくとき、費禕の次は董允なんだ。董允は、費禕が就いていた侍中に進んで、虎賁中郎将を兼ねた。 いちおう費禕と同格の郭攸之さんがいた。南陽の人で、大人しすぎて、官位に座っているだけだった。諸葛亮としては不満だっただろうね。その罰なのかどうか知らんが笑、「出師の表」でやたら名前が有名なのに、おそらく字(あざな)しか分かっていないし、何をした人かも不明なんだ。 董允がやや前倒しで抜擢されたのも、郭攸之が不足だったからだろう。   陳寿が董允の働きぶりを記すには、 天子の過ちを防止し、もしミスがあったら正しく救うという「侍臣の建前」に忠実だった。この当たりが、諸葛亮の堅苦しい指導の賜物というか。 劉禅と「丞相って、重たいっすよね」なんて話をできれば気楽だったんだが、清廉で通した父・董和の手前もあるし、董允は格式ばった杓子定規で、職務に邁進したんだろう。 父親は堅物なりにも、ざっくばらんに批判しあう柔軟性があった。しかし、董允までその「あそび」が遺伝してはいない。というか、諸葛亮が矯正してしまった。どよーん。   劉禅も人の子だから、というかあの劉備の子だから、色が大好きだ。しかし董允は「古代にあって天子の后妃の数は12人です。もう宮女は12人を越えていますから、増やしてはいけません」と頑張った。 劉禅は、きっと「まるで諸葛亮が、隣に居るようだ」なんてうんざりして、董允に気兼ねしていたんだろう。この諫言が諸葛亮の出征中なのでしょう。董允は諸葛亮の教えをよく守ったんですね。何事にもバランスが大切なんだけどねえ笑
  ■諸葛亮の死後 尚書令の蒋琬は、諸葛亮が死んで、益州刺史になった。 尚書の仕事を、費禕と董允に譲ろうとした。蒋琬は「董允は長年、陛下のお側で尽してきました。爵土を賜って、褒賞してあげて下さい」と上疏したが、董允は受けなかった。 このあたりの堅苦しさが、いかにも董和の子で、諸葛亮の教え子という感じだね。   費禕の真似をして、ダラダラと仕事をしたら、10日で未処理が山積してしまった。「人間の才能は、こんなにも違うのか」と驚いたらしい。 事務処理能力では叶わないなら、奔放な費禕と自分を差別化するためには、度を過ぎたまでの倫理観の権化になるしかなかったのかなあ。諸葛亮は、費禕と自分を並べて扱ってくれていたんだから、対抗できて然るべきだと思っていたのかも。 諸葛亮は、手が早い人だったし、高潔な人でもあった。その資質を、費禕と自分が2人で埋め合わせるんだ!という信念でもあったのでしょうか笑 それに付き合わされる劉禅は、たまったものじゃない。。    宦官の黄皓が劉禅の寵愛を受けるようになったが、董允が絞めていた。董允が生きているときは、黄皓は、黄門丞までしか上がれなかった。 243年、輔国将軍。244年、侍中守尚書令のまま、大将軍費禕の次官となった。 246年に死去。 諸葛亮が死んだのが234年だから、そこから12年間、国を支えたことになる。蒋琬が死んだのも、同じ246年。 ちなみに費禕が死んだ(殺された)のが253年だった。   ■董恢との親交 董允は、尚書令の費禕、中典軍の胡済と、お出かけの約束だった。 馬車の準備まで終わったとき、郎中の董恢(襄陽の人)があいさつに来た。董恢は「アポなしで来ちゃってすみません。またにします」と去ろうとしたが、董允は引き止めた。 「外出しようと思っていたのは、同好の士と楽しむためだ。せっかく貴方が来てくれたんだから、あなたとお話をしよう。あっち(費禕と胡済との宴会)に行くなんて考えられないことだ」と言って、車から馬を外させた。   いつものメンツよりは、新しい人と飲んでみたくなったんだろうか。「せっかく来てくれたので、礼儀を損なってはいけない」なんて言ってるが、建前の臭いがする。 おそらく董允は費禕にはコンプレックスを持っていたから、あんまり一緒に遊びたくなかったんじゃないか。 費禕は諸葛亮が蒋琬の次の後継者として指名した人で、胡済は諸葛亮を忌憚なく批判した友人だ。 諸葛亮に「潔癖を保って、劉禅を見張らないと、殺すからね」と脅されていた董允は、自分が格下だと思い、気後れしていたんだろう。このとき董恢は、年が若くて位が低かったという。董允だってたまには、先輩ヅラをしてみたくなったんだ笑 ましてや同姓だもんね。兄貴ヅラもできるよ!
  ■おまけの董恢 後日談。この董恢さんは、のちに費禕の副官として、孫権のところに外交の使者を務めた。 孫権「楊儀・魏延は、牧童くらいの小物だ。鶏や犬ほどには役立つかも知れないが、諸葛亮が突然死のうものなら、禍いを起こすだろう。蜀の国では、後々のことを、ろくに考えずに人を使っているのか」※大当たり。 費禕「(愕然として周囲を見回す)」 さすがに明晰な費禕さんは、諸葛亮の弱点まで見抜いている。あまりに図星だから、アドリブが利かなくなってしまった。   董恢「楊儀と魏延は私怨があるだけで、国に叛逆する気持ちがあるわけではありません。才能あるものを、災いを恐れて任用しないのは、国家統一の事業の後退です。風波を恐れ、はじめから舟の櫂を捨ててしまうのと同じ。秀れた計画とは言えませんね」   孫権は大笑いをして、喜んだ。 本当にこの碧眼児くんは、人を困らせることだけを楽しみに、外交をやってるよね。付き合わされる方は、たまったものじゃない。上手く言い返すことが出来ようが、出来まいが、それほど国の行く末には関係ないじゃないか。 こうやって内容のない面会ばかり重ねて、のらくらと主導権を握ってしまうんだから、イヤな人ですよ。 もし隣人だったら、絶対に引っ越す!
  次回は、董允の死後に侍臣になった、陳祗を扱います。
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