三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』列伝9より、「荀顗・荀勖伝」を翻訳(1)
荀 顗
荀顗,字景倩,潁川人,魏太尉彧之第六子也。幼為姊婿陳群所賞。性至孝,總角知名,博學洽聞,理思周密。魏時以父勳除中郎。宣帝輔政,見顗奇之,曰:「荀令君之子也。」擢拜散騎侍郎,累遷侍中。為魏少帝執經,拜騎都尉,賜爵關內侯。難鐘會《易》無互體,又與扶風王駿論仁孝孰先,見稱於世。

荀顗は、あざなを景倩といい、頴川の人。魏の大尉、荀彧の第6子である。幼いとき、姉婿の陳羣に賞められた。性格は至孝で、総角知名、博学で洽聞、理思は周密だった。魏朝で、父の勲により、中郎となった。司馬懿が輔政すると、荀顗と会って奇だと感じ、言った。「荀令君(荀彧)の子なのだな」と。
抜擢されて、散騎侍郎となり、かさねて侍中に遷った。魏の少帝(曹芳)が政治を執ると、騎都尉となり、關內侯を賜った。鍾会が書いた『易』には「互体」がなことを非難した。扶風王の司馬駿と、仁と孝はどちらが先かを論じた。荀顗のディベートは、世に賞賛された。


時曹爽專權,何晏等欲害太常傅嘏,顗營救得免。及高貴鄉公立,顗言于景帝曰:「今上踐阼,權道非常,宜速遣使宣德四方,且察外志。」毌丘儉、文欽果不服,舉兵反。顗預討儉等有功,進爵萬歲亭侯,邑四百戶。文帝輔政,遷尚書。帝征諸葛誕,留顗鎮守。顗甥陳泰卒,顗代泰為僕射,領吏部,四辭而後就職。顗承泰後,加之淑慎,綜核名實,風俗澄正。咸熙中,遷司空,進爵鄉侯。

曹爽が権力を専らにすると、何晏らは太常の傅嘏を殺害したいと考えた。荀顗が傅嘏を救ったので、殺害を免れた。高貴鄉公(曹髦)が即位すると、荀顗は司馬師に言った。
「今上陛下は即位されましたが、権道は常ではありません。速やかに遣いを出して、四方に宣徳して下さい。かつ、外志(呉蜀)を偵察しましょう」と。
毌丘倹と文欽が不服を果たし、挙兵して叛いた。荀顗は、毌丘倹らの討伐を預かり、功があった。萬歲亭侯、邑四百戶に進んだ。
司馬昭が輔政すると、尚書に遷った。曹髦が諸葛誕の征圧にゆくと、荀顗は洛陽に留まって、鎮守した。
荀顗のおいの陳泰(陳羣の子)が死ぬと、荀顗は代わりに僕射となり、吏部を兼ねた。4回辞退して、その後で受けた。荀顗が陳泰を継いだ後、淑慎をこれに加え、名実は全て一致し、風俗は澄正となった。
咸熙年間(264-265)司空に移り、鄉侯に進んだ。

顗年逾耳順,孝養蒸蒸,以母憂去職,毀幾滅性,海內稱之。文帝奏,宜依漢太傅胡廣喪母故事,給司空吉凶導從。及蜀平,興複五等,命顗定禮儀。顗上請羊祜、任愷、庚峻、應貞、孔顥共刪改舊文,撰定晉禮。

荀顗は60歳になったが、孝養は蒸蒸とし、母の喪により職を去った。母の死を哀しんで、毀れて幾度も滅性したので、海内に賞賛された。司馬昭は奏上し、漢の太傅だった胡廣が母の喪に服した故事にならい、司空に復帰し、吉凶の導きに従った。
蜀を平定すると、五等の制度を復活させるため、荀顗に命じて礼儀を定めさせた。荀顗は司馬昭に請うて、羊祜、任愷、庚峻、應貞、孔顥とともに、旧文を推敲して「晋礼」を撰定した。


咸熙初,封臨淮侯。武帝踐阼,進爵為公,食邑一千八百戶。又詔曰:「昔禹命九官,契敷五教,所以弘崇王化,示人軌儀也。朕承洪業,昧于大道,思訓五品,以康四海。侍中、司空顗,明允篤誠,思心通遠,翼亮先皇,遂輔朕躬,實有佐命弼導之勳。宜掌教典,以隆時雍。其以顗為司徒。」尋加侍中,遷太尉、都督城外牙門諸軍事,置司馬親兵百人。頃之,又詔曰:「侍中、太尉顗,溫恭忠允,至行純備,博古洽聞,耆艾不殆。其以公行太子太傅,侍中、太尉如故。」

咸熙初(264年)、臨淮侯に封じられた。司馬炎が晋王になると、公に爵位が進み、食邑は1800戶を与えられた。詔があった。
「むかし禹は九官に命じて、五教を契敷し、弘崇をもって王化され、人に軌儀を示した。朕は洪業を継承し、」 荀顗を司徒とせよ」と。
侍中を加えられ、大尉に遷り、城外牙門諸軍事を都督し、司馬に親兵100人を設置した。
このころ、また詔があった。
「侍中で大尉の荀勖は、溫恭で忠允、行いは純備に到り、博古は洽聞、耆艾(60歳と50歳)のように老いていない。彼を公として、太子太傅を兼ねさせ、侍中と大尉はもとのままとせよ」と。


時以《正德》、《大豫》雅頌未合,命顗定樂。事未終,以泰始十年薨。帝為舉哀,皇太子臨喪,二宮賻贈,禮秩有加。詔曰:「侍中、太尉、行太子太傅、臨淮公顗,清純體道,忠允立朝,曆司外內,茂績既崇,訓傅東宮,徽猷弘著,可謂行歸於周,有始有卒者矣。不幸薨殂,朕甚痛之。其賜溫明秘器、朝服一具,衣一襲。諡曰康。」又詔曰:「太尉不恤私門,居無館宇,素絲之志,沒而彌顯。其賜家錢二百萬,使立宅舍。」咸甯初,詔論次功臣,將配饗宗廟。所司奏顗等十二人銘功太常,配饗清廟。


『正徳』と『大豫』は、日頃から褒め称えられていたが、矛盾があった。荀顗に命じて、整合性を取らせようとした。この仕事が終了する前に、荀顗は泰始十(274)年、亡くなった。武帝は哀しみ、皇太子は喪に臨み、二宮は賻贈し、礼秩を加えた。詔があった。
「侍中で大尉で、太子太傅を兼ねていた臨淮公荀顗よ。體道を清純とし、忠允にして朝を立て、内外の職務を歴任し、茂績は崇く、東宮を訓傅し、徽猷は弘く著らかである。彼の行いは、周代の再来とも言える。不幸にして薨殂し、朕はとてもつらい。溫明秘器、朝服一具、衣一襲を賜え。康とおくりなする」と。また詔があり、
「大尉の荀顗は、一門に利益を誘導せず、屋敷を構えず、素絲之志を持っており、死んでそれが彌顯となった。荀顗の家に、200万銭を賜い、宅舎を立ててやれ」と。
咸甯初(275年)、詔して建国の功臣について論じ、宗廟に饗を配した。荀顗ら12名の功について上奏され、太常は清廟に配饗した。


顗明《三禮》,知朝廷大儀,而無質直之操,唯阿意苟合于荀勖、賈充之間。初,皇太子將納妃,顗上言賈充女姿德淑茂,可以參選,以此獲譏於世。
顗無子,以從孫徽嗣。中興初,以顗兄玄孫序為顗後,封臨淮公。序卒,又絕,孝武帝又封序子恆繼顗後。恆卒,子龍符嗣。宋受禪,國除。

荀顗は『三礼』を明らかにし、朝廷の大儀を知っていた。しかし、質実で実直な節操はなく、ただただ荀勖とともに、賈充の意見におもねった。はじめ、皇太子が妃を納めようとしたとき、荀顗は「賈充の娘は、姿も徳も淑茂です。お選び下さい」と上言した。これによって、世論のそしりを受けた。
荀顗には子がなく、従孫の荀徽が継いだ。中興初(386年)、荀顗の兄の玄孫の荀序を、荀顗の後継として、臨淮公に封じた。荀序が死ぬとまた家が絶えた。孝武帝(在位372-396)はまた、荀序の子の荀恆を荀顗の後継とした。荀恆が死ぬと、子の荀龍符が継いだ。宋が受禅すると(420年)、国は除かれた。

荀 勖
荀勖,字公曾,潁川潁陰人,漢司空爽曾孫也。祖棐,射聲校尉。父肸,早亡。勖依于舅氏。岐嶷夙成,年十餘歲能屬文。從外祖魏太傅鐘繇曰:「此兒當及其曾祖。」

荀勖は、あざなが公曾、頴川郡潁陰県の人で、漢の司空・荀爽の曾孫である。
祖父の荀棐は、射声校尉だった。父の荀肸は、早くに死んだ。荀勖は、母方に育てられた。風貌は岐嶷に成長し、10余歳でうまく文章を書いた。従外祖父で、魏の太傅・鍾繇が言った。「この子は、曽祖父(荀爽)に並ぶ人材だ」と。
『晋書』列伝9より、「荀顗・荀勖伝」を翻訳(2)
既長,遂博學,達于從政。仕魏,辟大將軍曹爽掾,遷中書通事郎。爽誅,門生故吏無敢往者,勖獨臨赴,眾乃從之。為安陽令,轉驃騎從事中郎。勖有遺愛,安陽生為立祠。遷廷尉正,參文帝大將軍軍事,賜爵關內侯,轉從事中郎,領記室。

大人になると、博学で、政治に従事できるレベルだった。魏に仕え、辟召されて、大将軍・曹爽の掾となり、中書通事郎に遷った。曹爽が誅されても、門生故吏は曹爽の葬儀に行かなかったが、ひとり荀勖だけが葬儀に出席したので、他の人も出席することにした。
安陽県令となり、驃騎從事中郎に転じた。荀勖は、赴任地で愛されて惜しまれ、安陽県では荀勖の祠が立てられた。廷尉正に遷り、司馬昭の下で、大将軍府の軍事に参加した。関內侯の爵位を賜り、從事中郎に転じ、記室をかねた。


高貴鄉公欲為變時,大將軍掾孫佑等守閶闔門。帝弟安陽侯幹聞難欲入,佑謂幹曰:「未有入者,可從東掖門。」及幹至,帝遲之,幹以狀白,帝欲族誅佑。勖諫曰:「孫佑不納安陽,誠宜深責。然事有逆順,用刑不可以喜怒為輕重。今成倅刑止其身,佑乃族誅,恐義士私議。」乃免佑為庶人。時官騎路遺求為刺客入蜀,勖言於帝曰:「明公以至公宰天下,宜杖正義以伐違貳。而名以刺客除賊,非所謂刑于四海,以德服遠也。」帝稱善。

曹髦がクーデタしたとき、大将軍掾の孫佑らは、閶闔門を守った。司馬昭の弟で、安陽侯の司馬幹は、クーデタを聞いて、門から入ろうとした。孫佑は司馬幹に言った。「どなたもお通ししておりません。東掖門にお回り下さい」と。司馬幹はクーデタの現場に到ると、司馬昭が遅刻を咎めたため、司馬幹は理由を話した。
司馬昭は、孫佑を族誅にしたいと考えたが、荀勖が諌めた。
「孫佑は、司馬幹さまを門内に入れませんでした。深く責めてよいでしょう。しかし物事には、逆と順がございます。刑の軽重を、喜怒の感情で決めてはいけません。いま(曹髦を殺した)成倅は、彼1人を死刑にしました。孫佑を族誅にすれば、おそらく義士たちはヒソヒソとあなたの判断ミスを非難するでしょう」と。孫佑を免官し、庶人に落とすにとどまった。
魏軍の騎兵の路遺という人が、劉禅の刺客として蜀に行きたいと願い出た。荀勖は、司馬昭に言った。「あなたは、公の位にいて、天下を治めています。杖(軍事決裁権)で義を正し、義にもとる人を伐つべきです。刺客をつかって賊を除くことは、四海において、刑と呼べるものではありません。徳によって遠方を服属させるのが良いでしょう」
司馬昭は、この発言をほめた。

及鐘會謀反,審問未至,而外人先告之。帝待會素厚,未之信也。勖曰:「會雖受恩,然其性未可許以見得思義,不可不速為之備。」帝即出鎮長安,主簿郭奕、參軍王深以勖是會從甥,少長舅氏,勸帝斥出之。帝不納,而使勖陪乘,待之如初。先是,勖啟「伐蜀,宜以衛瓘為監軍」。及蜀中亂,賴瓘以濟。會平,還洛,與裴秀、羊祜共管機密。

鍾会が謀反すると、荀勖はまだ届いていない詳細な情報を集め、人に報告した。司馬昭は、鍾会がいつも厚かましいため、信用していなかった。荀勖は「鍾会は、あなたに恩を受けたのに、性格はまだ心を許せるものではないため、彼の思考を見極める必要があります。速く備えておくべきです」
司馬昭は長安に出鎮した。主簿の郭奕と、参軍の王深は、荀勖が鍾会の従甥であり、鍾氏に育てられたことから、司馬昭に「荀勖を長安から追い出しましょう」と勧めた。だが、司馬昭は認めず、荀勖を車に同乗させ、鍾会が謀反する前と同じように待遇した。
これより先、荀勖は司馬昭に「蜀を伐つなら、衛瓘を監軍(目付)として下さい」と伝えていた。蜀で乱が起きると、衛瓘がこれを鎮めた。
鍾会が平定されると、洛陽に戻った。荀勖は、裴秀や羊祜とともに、機密をあずかった。


時將發使聘吳,並遣當時文士作書與孫皓,帝用勖所作。皓既報命和親,帝謂勖曰:「君前作書,使吳思順,勝十萬之眾也。」帝即晉王位,以勖為侍中,封安陽子,邑千戶。武帝受禪,改封濟北郡公。勖以羊祜讓,乃固辭為侯。拜中書監,加侍中,領著作,與賈充共定律令。

呉に将を使者を出して友好を求めたり、文士に書を作らせて孫皓に与えたりするとき、司馬昭は荀勖の文章を用いた。孫皓が、天命を奉じて晋に和親したとき、司馬昭は荀勖に言った。 「きみが以前に作った文章が、呉人を帰順させた。10万の兵にも勝る効果だ」と。
司馬昭が晋王になると、荀勖は侍中となり、安陽の子爵に封じられ、邑1000戸を賜った。司馬炎が禅譲を受けると、濟北郡公に改められた。荀勖は、羊祜に濟北郡公を譲り、侯となることを固辞した。中書監を拝し、侍中を加えられ、著作をかね、賈充とともに律令を定めた。

充將鎮關右也,勖謂馮紞曰:「賈公遠放,吾等失勢。太子婚尚未定,若使充女得為妃,則不留而自停矣。」勖與紞伺帝間並稱「充女才色絕世,若納東宮,必能輔佐君子,有《關雎》後妃之德。」遂成婚。當時甚為正直者所疾,而獲佞媚之譏焉。久之,進位光祿大夫。

賈充が関中に出鎮させられようとしたとき、荀勖は馮紞に言った。
「賈充を遠くに放っては、我らは勢いを失う。太子(司馬衷)はまだ妃が決まっていない。もし賈充の娘を妃にできたら、引きとめをしなくても、自然と関中行きの話はなくなるだろう」と。
荀勖は馮紞ととともに、帝の部屋を訪れ、並んで言った。「賈充の娘は、才色絶世です。もし太子の妃にすれば、必ずよく補佐します。『関雎』に書いてあるような后妃ノ徳を持っている人です」と。結婚が決まった。
このとき、正直にものを言う人は、「荀勖は王朝の疾病だ。媚びへつらいやがって」と批判した。
中書監と著作を長く務め、光祿大夫に進んだ。


既掌樂事,又修律呂,並行於世。初,勖于路逢趙賈人牛鐸,識其聲。及掌樂,音韻未調,乃曰:「得趙之牛鐸則諧矣。」遂下郡國,悉送牛鐸,果得諧者。又嘗在帝坐進飯,謂在坐人曰:「此是勞薪所炊。」鹹未之信。帝遣問膳夫,乃雲:「實用故車腳。」舉世伏其明識。俄領秘書監,與中書令張華依劉向《別錄》,整理記籍。又立書博士,置弟子教習,以鐘、胡為法。

荀勖は、楽事(演奏)と律呂(音律)を修得し、どちらの技能の発揮した。 かつて荀勖は道で、趙の商人が牛鐸を鳴らすところに会ったが、その音色を知っていた。音楽の理論は組み立てたが、音韻についてはまだだった。荀勖は「趙国の牛鐸を手に入れて、音諧の基準とせよ」と命じた。
郡国に下り、ことごとく牛鐸を送らせ、音諧についての理論も組み立てた。
またかつて、司馬昭が座って食事を勧めると、荀勖は座ったまま、人に言った。「これは、薪を担いで(人々が苦労して)炊いたものなんだなあ」と。司馬昭は荀勖の話を信じられず、膳夫に問わせた。答えは「たしかに車と脚(人の苦労)の産物です」と。
世を挙げて、荀勖の明識に感心した。にわかに、秘書監をかね、中書令・張華とともに、劉向の《別錄》を参考にして、記録文書を整理した。
また、書博士を立て、弟子を置いて、習わせた。鐘によって、胡は法を為した(荀勖が体系づけたおかげで、異民族まで教化が行き渡った)。


咸甯初,與石苞等並為佐命功臣,列于銘饗。及王浚表請伐吳,勖與賈充固諫不可,帝不從,而吳果滅。以專典詔命,論功封子一人為亭侯,邑一千戶,賜絹千匹。又封孫顯為潁陽亭侯。
及得汲郡塚中古文竹書,詔勖撰次之,以為《中經》,列在秘書。

咸甯のはじめ(275年)、石苞らとともに、佐命の功臣だと認められ、銘饗に列した。王浚が呉を伐ちたいと上表したとき、荀勖は賈充とともに固く「呉を討ってはいけません」と諌めた。だが司馬炎は従わず、果たして呉を滅した。
専ら典詔命により、論功して、子一人を封じて亭侯とし、邑1000戶と絹1000匹を賜った。孫の荀顕を、潁陽亭侯に封じられた。
汲郡塚から、竹の古い文書が出土した。詔により、荀勖はこれを編集し、『中経』を書いた。秘蔵の書物とされた。
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