三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』列伝9より、「荀顗・荀勖伝」を翻訳(3)
時議遣王公之國,帝以問勖,勖對曰:「諸王公已為都督,而使之國,則廢方任。又分割郡縣,人心戀本,必用嗷嗷。國皆置軍,官兵還當給國,而闕邊守。」帝重使勖思之,勖又陳曰:

王公を(洛陽におらせず)任国に行かせるか議論したとき、司馬炎は荀勖に問うた。荀勖は答えた。「諸王公は、都督として、国に行かせ、方任(地方官)を廃しましょう。また郡県を分割し、人心は本来のあり方を恋しく思い、必ずうるさい人を用いるでしょう。国にはみな軍を置き、官兵は任国に還して、辺境を守らせましょう」と。
司馬炎は、かさねて荀勖に検討させた。荀勖は、また答えた。


「如詔准古方伯選才,使軍國各隨方面為都督,誠如明旨。至於割正封疆。使親疏不同誠為佳矣。然分裂舊土,猶懼多所搖動,必使人心聰擾,思惟竊宜如前。若于事不得不時有所轉封,而不至分割土域,有所損奪者,可隨宜節度。其五等體國經遠,實不成制度。然但虛名,其於實事,略與舊郡縣鄉亭無異。若造次改奪,恐不能不以為恨。今方了其大者,以為五等可須後裁度。凡事雖有久而益善者,若臨時或有不解,亦不可忽。」帝以勖言為允,多從其意。

「(王公を国に行かせることが、正しいという理屈が、言葉を尽して書かれています。弟の司馬攸を、斉国に飛ばして、後継者争いから脱落させようという司馬炎の狙いがあったので、それに賛成したのでしょう。1度では足りず、『もっと言ってくれ』という司馬炎のニーズを読み取って、これ見よがしに難しいことを言っているのです。修辞がクドいので、訳しませんでした)」
司馬炎は、荀勖の発言を正しいと思い、大いに従った。

時又議省州郡縣半吏以赴農功,勖議以為:「省吏不如省官,省官不如省事,省事不如清心。昔蕭曹相漢,載其清靜,致畫一之歌,此清心之本也。漢文垂拱,幾致刑措,此省事也。光武併合吏員,縣官國邑裁置十一,此省官也。魏太和中,遣王人四出,減天下吏員,正始中亦併合郡縣,此省吏也。今必欲求之於本,則宜以省事為先。凡居位者,使務思蕭曹之心,以翼佐大化。篤義行,崇敦睦,使昧寵忘本者不得容,而偽行自息,浮華者懼矣。重敬讓,尚止足,令賤不妨貴,少不陵長,遠不間親,新不間舊,小不加大,淫不破義,則上下相安,遠近相信矣。位不可以進趣得,譽不可以朋黨求,則是非不妄而明,官人不惑於聽矣。去奇技,抑異說,好變舊以徼非常之利者必加其誅,則官業有常,人心不遷矣。事留則政稽,政稽則功廢。處位者而孜孜不怠,奉職司者而夙夜不懈,則雖在挈瓶而守不假器矣。使信若金石,小失不害大政,忍忿悁以容之。簡文案,略細苛,令之所施,必使人易視聽,願之如陽春,畏之如雷震。勿使微文煩撓,為百吏所黷,二三之命,為百姓所饜,則吏竭其誠,下悅上命矣。設官分職,委事責成。君子心競而不力爭,量能受任,思不出位,則官無異業,政典不奸矣。凡此皆愚心謂省事之本也。苟無此愆,雖不省吏,天下必謂之省矣。若欲省官,私謂九寺可並于尚書,蘭台宜省付三府。然施行歷代,世之所習,是以久抱愚懷而不敢言。至於省事,實以為善。若直作大例,皆減其半,恐文武眾官郡國職業,及事之興廢,不得皆同。凡發號施令,典而當則安,儻有駁者,或致壅否。凡職所臨履,先精其得失。使忠信之官,明察之長,各裁其中,先條上言之。然後混齊大體,詳宜所省,則令下必行,不可搖動。如其不爾,恐適惑人聽,比前行所省,皆須臾輒複,或激而滋繁,亦不可不重。」勖論議損益多此類。

州郡県の役人を半分に削減して、農耕に従事させることが議論されたとき、荀勖は発言した。
「(半分にするのがいいですよ、という意見が、豊かな教養に裏打ちされて表現されています)」
荀勖が論じることの損益は、多くがこんな感じ(に迎合したもの)だった。

太康中詔曰:「勖明哲聰達,經識天序,有佐命之功,兼博洽之才。久典內任,著勳弘茂,詢事考言,謀猷允誠。宜登大位,毗贊朝政。今以勖為光祿大夫、儀同三司、開府辟召,守中書監、侍中、侯如故。」時太尉賈充、司徒李胤並薨,太子太傅又缺,勖表陳:「三公保傅,宜得其人。若使楊珧參輔東宮,必當仰稱聖意。尚書令衛瓘、吏部尚書山濤皆可為司徒。若以瓘新為令未出者,濤即其人。」帝並從之。

太康年間(280-289)詔があった。「荀勖は、賢くて王朝に貢献した。三公待遇として、開府をゆるせ」と。
大尉の賈充と、司徒の李胤が2人とも死に、太子太傅も欠員した。荀勖は上表した。「楊珧を太子に仕えさせなさい。尚書令の衛瓘と、吏部尚書の山濤は、司徒に適任です。衛瓘の後任の尚書令にふさわしい人がいなければ、山濤を選びなさい」と。司馬炎は、それに従った。


明年秋,諸州郡大水,兗土尤甚。勖陳宜立都水使者。其後門下啟通事令史伊羨、趙鹹為舍人,對掌文法。詔以問勖,勖曰:今天下幸賴陛下聖德,六合為一,望道化隆洽,垂之將來。而門下上稱程咸、張惲,下稱此等,欲以文法為政,皆愚臣所未達者。昔張釋之諫漢文,謂獸圈嗇夫不宜見用;邴吉住車,明調和陰陽之本。此二人豈不知小吏之惠,誠重惜大化也。昔魏武帝使中軍司荀攸典刑獄,明帝時猶以付內常侍。以臣所聞,明帝時唯有通事劉泰等官,不過與殿中同號耳。又頃言論者皆雲省官減事,而求益吏者相尋矣。多雲尚書郎太令史不親文書,乃委付書令史及幹,誠吏多則相倚也。增置文法之職,適恐更耗擾台閣,臣竊謂不可。」

翌年秋、諸州郡で大水があり、兗州がもっとも被害した。荀勖は、見舞いの使者を立てるよう上表した。
のちに門下の伊羨と趙鹹を、舎人として、法律学の修得について教えた。詔が荀勖に問うたので、答えた。
「天下は統一して、よく治まっています。私の門下生は、法家の発想で政治をしたいと考えていますが、まちがいです。むかし曹操は、荀攸に刑罰を任せ、曹叡は内常侍を置きました。しかし曹叡のときは、劉泰らが内常侍におりましたが、刑罰の機能はなかったと聞きます。法治をおこなう官職は、治世の不要ですから、設けない方がよいでしょう」   
『晋書』列伝9より、「荀顗・荀勖伝」を翻訳(4)
時帝素知太子暗弱,恐後亂國,遣勖及和嶠往觀之。勖還盛稱太子之德,而嶠雲太子如初。於是天下貴嶠而賤勖。帝將廢賈妃,勖與馮紞等諫請,故得不廢。時議以勖傾國害時,孫資、劉放之匹。然性慎密,每有詔令大事,雖已宣布,然終不言,不欲使人知己豫聞也。族弟良曾勸勖曰:「公大失物情,有所進益者自可語之,則懷恩多矣。」其婿武統亦說勖「宜有所營置,令有歸戴者」。勖並默然不應,退而語諸子曰:「人臣不密則失身,樹私則背公,是大戒也。汝等亦當宦達人間,宜識吾此意。」久之,以勖守尚書令。

司馬炎は、太子(司馬衷)が暗弱であることを知っていたから、死後に国が乱れることを恐れた。荀勖と和嶠を遣わして、太子を見に行かせた。荀勖は還ると、さかんに太子の徳をたたえ、和嶠は「以前と変わっておりません(暗弱です)」と述べた。これにより、天下で身分の高い人は、和嶠を貴いと言い、荀勖を賎しいと言った。
司馬炎は、賈妃を廃そうと考えた。(賈妃を推薦した)荀勖と馮紞が諌めたため、廃することは出来なかった。
荀勖は、国を傾けるほどの害について議論し、「孫資や劉放のような匹夫のことだ」と言った。荀勖の性質は、慎重で秘密主義で、宣布されなかった重要な詔のことは、絶対に口外しなかった。荀勖は、自分が詔の内容を予め聞いていることを、知られるのを嫌った。
族弟の荀良は、かつて荀勖に勧めて言った。
「あなたは物情を大いに失っています。利益を提供してもらったなら、自分からこのことを語って下さい。そうすれば、(荀勖のために尽した人は、心が報いられて)恩を感じるでしょう」と。荀勖の婿の武統も荀勖に説いた。「あなたの役所に、書記を置いて下さい」と。
荀勖は黙ったまま、このアドバイスに応じず、退いて諸子に語った。
人臣は、秘密を守らなければ、身を失うぞ。私事を充実させれば、公事に背くことになる。これは厳重な戒めである。おまえらも世間で宮仕えするのだから、私のこの考えを肝に銘じるように」と。
荀勖は、尚書令の仕事をするようになった。


勖久在中書,專管機事。及失之,甚罔罔悵恨。或有賀之者,勖曰:「奪我鳳皇池,諸君賀我邪!」及在尚書,課試令史以下,核其才能,有暗于文法,不能決疑處事者,即時遣出。帝嘗謂曰:「魏武帝言'荀文若之進善,不進不止;荀公達之退惡,不退不休'。二令君之美,亦望於君也。」居職月餘,以母憂上還印綬,帝不許。遣常侍周恢喻旨,勖乃奉詔視職。

荀勖は久しく中書にあり、もっぱら機密事項を管理した。過失があると、ひどくひどく落ち込んだ。荀勖を慰めて「あなたは立派ですよ」という人がいると、荀勖は「私の鳳凰の池を奪っておいて、諸君は私を祝うのか」と言った。
尚書にあり、令史以下に試験を課し、才能の本質を調べた。法の知識が足らず、疑いのあることを決裁できない人がいると、すぐに免職にした。かつて司馬炎は言った。
「曹操は、『荀彧が善を勧めたなら、そのまま任せよ。荀攸が悪を退けたなら、そのまま任せよ』と言った。2人の荀氏の美徳は、キミ(荀勖)の中に期待できるぞ」と。
職にあること、1ヶ月あまり。母の病のために印綬を返還したが、司馬炎は許さなかった。常侍の周恢を遣わして、司馬炎の考えを伝えさせた。荀勖はそれを受け取り、職に勤め続けた。


勖久管機密,有才思,探得人主微旨,不犯顏忤爭,故得始終全其寵祿。太康十年卒,詔贈司徒,賜東園秘器、朝服一具、錢五十萬、布百匹。遣兼禦史持節護喪,諡曰成。勖有十子,其達者輯、籓、組。

荀勖は久しく機密を管理した。才能と思慮があり、主人のかすかな意思を察した。主人の面目を潰して、争いを招くことをしなかったので、ずっと寵愛を受け続けることができた。
太康10(289)年、死んだ。詔で、司徒を贈られた。東園秘器、朝服一具、錢50万、布100匹を賜った。禦史持節が喪を警護し、「成」とおくりなされた。荀勖には10人の子がいて、そのうち闊達なのは、荀輯、荀籓、荀組だった。

■翻訳後の感想
荀顗も荀勖も、賈充にベタ付いたという印象が、先に立ってしまう。
「荀彧と荀攸が輝かせた家門なのに、なぜスポイルしてしまうかなあ」と、三国志ファンをがっかりさせるには、充分でしょう。

でも、豪族が名士に化けて、やがて貴族として定着していく時代に生きたんだ考えれば、評価が変わるかも。
司馬氏の晋は、宦官出身の曹氏が、苛烈なやり方で天下を盗んだことを反面教師にして、「名士による品格のある、賢い王朝を作ろう」というのがスローガンだ。だから、司馬昭あたりは、特に力を入れて古代からの文書を整理して、学術的な議論を為政に取り込んだ。西晋の建国を助けた人たちは、必ず専攻分野を持った、学者みたいな人たちだからね。
後漢末に荒廃してしまって、文化レベルが落ちて乱世や分裂期に突入してしまったが、リセットして中華の文明を立て直そう!と思っていた。

名士が合意形成して政権を運営するのが、西晋の国是。そのオピニオン・リーダーたる司馬氏に「高いレベルで合意した」のが、荀氏だったのではなかろうか。
こう捉えれば、ただの「へつらい」ではなく、積極的な支持や適応だと評することもできるじゃん。

荀勖の秘密主義の徹底は、狭い洛陽の中で、有利な立場で生き抜くための智恵なんだね。飲み屋で会社のグチを言ったり、ブログに上司批判を書いてしまうような若い社会人は、是非とも荀勖に説教をされるべきだね。反省しました。080913
前頁 表紙 次頁
(C)2007-2008 ひろお All rights reserved. since 070331xingqi6