三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
呉王孫権と呉帝孫権は、別の人だ(1)
呉王孫権と、呉帝孫権。区別して捉えられていないと思う。ところが、注意深く陳寿を読むと、全くの別人だ。
孫権が孫策を継いだのが、200年。赤壁で旗幟を明らかにしたのが、208年。このときから、ずっと江東に割拠していて、国の中心はずっと揚州にある。だから、221年8月に呉王になったこと、229年4月に呉帝になったことも、何となしに「ステップを登ったのかな」くらいに捉えられ、それほど重要視されていない。
そうじゃない!全然違う!と言いたいのが、今回の原稿です。

■皇帝シンドローム
たびたび書いてきましたが、ぼくの『三国志』のテーマは、神経症です。頭が「こうあるべき」というものを、理論先行で決めてしまう。身体は努力して、その「べき論」を叶えようとするんだが、どうにもうまく行かない。理論と現実のギャップが、徐々に心を蝕んでしまう、という。

じゃあ、孫権がどんな「べき論」に縛られていたかと言えば、「皇帝」という幻影です。
当たり前だが、「皇帝」というのは、人間が作った抽象的な存在だ。「全土を均一に支配しており、絶対的な権力を、永遠に持ち続けるべきなんだ」というポジションでしょう。漢帝国400年の歴史を経験したばかりの人たちは、この「べき論」に集団感染していた。
また、税を払う民のレベルから、役人として奉仕するという士大夫レベルまで含め、上下の全ての人が、「オレたちは、皇帝を頂くべきなんだ」とも考えている。

呉王であった孫権は、この「皇帝」シンドロームから自由だ。自由奔放な地方軍閥として、外交を楽しんでいた。しかし、呉帝になった瞬間に、感染を余儀なくされてしまう。かなり窮屈になり、「晩年の判断力低下」だの「老いては駄馬に劣る」だの、言われてしまった。
「呉主伝」を読みながら、順に見ていきましょう。上表や外交のやりとりは、びっくりするくらい簡素に切り取って引用します。
■魏帝の苦悩
220年冬、曹丕が禅譲を受けた。221年4月、劉備が帝を称した。
孫権は、魏の臣となった。于禁を送り返した。221年11月、魏から孫権に策命があった。
「江南を治めている功績はデカいので、呉王とする。九錫を授ける」

曹丕は漢から禅譲を受けたものの、実はものすごく不安定だ。
なぜなら、禅譲を受けてうまく行ったという実例が、歴史にないから。堯だの舜だのは、絵空事。「本に書いてあるから、マネればいい」というのは、無茶な発想だ。ありえないことだからこそ、敢えて書かれていたりする。例えば、人は空を飛べない笑
じつは漢から禅譲を受けた人は、1人いた。王莽である。
だが彼は、1代限りで終わった。王莽は、最終的には光武帝に負けた。皮肉なことに、「漢王朝は滅びない」という神話を作る手伝いをさせられたのだ。

ゆえに、曹丕は、国力が最大ながらも、今にも滅びるんじゃないかというジリ貧なのです。万が一に備えて、味方は1人でも多いほうがいい。「来るものは大歓迎、去るものはヒステリックに討伐せよ」というのが、国是だ。これは、全土を統一できていないにも関わらず、皇帝を名乗ってしまった者の宿命だ。魏王になってしまった曹操から渡された、炉の上で熱せられたバトンだった。
曹丕は、この段階から、あるべき皇帝像と現状とのギャップを意識し、人々から「皇帝にくせに、支配が全国に及んでいないのは、おかしいねえ」と言われるのを、恐れ続けねばならなかった。在位7年、40歳で死んでしまうほど、ストレスを溜めた。

■呉王の気楽
一方で孫権は、「領土を軍事的に保てれば、それ以外は自由」という立場だ。これ以上の「べき論」に縛られる必要がないから、身軽にカメレオン外交ができる。
「曹丕さんのとこは、禅譲なんて馬鹿なことをするから、しんどそうだね」と笑っていればいい。曹丕の焦りに漬け込めば、国力に劣る孫権だって、いくらでも生き残る余地があった。これが、孫権のしたたかな外交戦略となる。

孫権は、「魏に封じられた呉王」となることで、漢という魔物と距離を置くことができた。400年も続いた奇跡の王朝というのは、多くの「べき論」の集積である。そんな窮屈なものと正面から向き合おうとしたら、神経がもたない。人間の頭が作り出す理論なんて、現実と齟齬するところの方が多いのだから。
このしんどい役割を魏に押し付けて、自分は魏との関係性のみに、意を注げば良かった。目の前に実在する相手と、外交使節を取り交わし、時には干戈を交える。これくらいなら、お安い御用だもんね。

「曹操よ、即位せよ」「ぬぅ、孫権め。オレを炉の上に座らそうと言うのか」という応酬があった。
すなわち孫権は、400年も続いた漢をつぶし、その次の皇帝となることが、いかに生きた心地のしないことか、想像できていた。だから、曹丕の苦悩も、手に取るように分かった。だから、手玉にとった笑

■かわすべき相手
曹丕から「呉王にしてやる」と言われたときの、孫権の周りの反応について、裴注が付いている。
『魏略』では「将来に皇帝になるなら、今は耐え忍ぶのが得策だ」という占い結果に、孫権が従ったと書いてある。
『江表伝』では、「最後に天下を取った劉邦ですら、項羽に漢王に封じられただろう」と孫権が言ったことになってる。
ぼくが思うに、『魏略』は孫権がついに皇帝になった結果からたぐり寄せて、言葉を捏造しただけだろう。歴史家が「ありそうな」言葉を作っただけだ。『江表伝』が本当だったら、とても面白い。

孫権が「魏の呉王」になったのは、臣下の矛先をかわすためだ。
「わざわざ、1度きりの人生で、他の誰でもない私が仕えるのだから、その主君は皇帝がいい」という、皇帝病にかかった臣下たちの要請を、のらくらと逸らす作戦だったと思う。
「皇帝になんか、なってたまるか。やることが増えるだけ、悩むことが増えるだけ。オレにとっての得なんて、ないじゃないか」と、分かっていた。
呉王孫権と呉帝孫権は、別の人だ(2)
■実は、夷陵よりも激戦
劉備が、狂って荊州に攻めてきた。陸遜が防いだ。

趙咨が外交して、曹丕の前で孫権を褒めた。
「陛下に従っている呉王というのは、こんなに立派な人物ですよ。(陛下自身のために)ご安心下さい」というのが、隠れたメッセージか。
三国が、対等に対立している勢力図を念頭に史料を読むと、「自国の君主を、敵国で褒めるとは、アッパレな度胸の持ち主だ。弁も立ち、愛すべき才能だな」という解釈に留まるだろうが、それは浅い。
曹丕は、友好を確認した。

曹丕は、孫権の子の孫登を人質に求めた。
沈珩が、魏に行って断った。
「私は、呉王の重要な会議には参加しておりませんので、孫登さまの行方なんて、知らんのです」と開き直った。そんな人を、わざわざ外交に立てるなよ、というのは、趣きのないツッコミです笑
われわれ呉は、このように開き直っている(心理的)余裕があります。陛下は、充分にご理解しているでしょうが。ほら、今日も胃が痛いでしょう。ここで、私を脅してご覧なさい。われわれが叛けば、帝国の体裁は、保ちにくくなりますよ。明日は、もっと胃が痛いですよ。くっくっく」と、沈珩は言外に伝えていると思う。

ちなみに沈珩が帰国すると、「曹丕はチョロいですが、劉曄には企みがあります。富国強兵しといて、損はないですよ」と報告している。
劉曄は、孫権が臣従を申し出たときに、「受け容れる必要なし。今のうちに、孫権を潰してしまいなさい」と発言した人物だ。対して曹丕は、「来る者を拒んだら、もう他の者が来なくなる」と言った。
劉備に荊州を攻められて、軍事的には虫の息の孫権だったが、曹丕の皇帝病のおかげで、命を永らえた。
曹丕とは対照的に、皇帝病から自由な劉曄は、警戒すべき相手です。彼自身が、漢の皇族だったからか、ドライに分析する見識があったのかも知れない。呉には、最も恐ろしい相手だ。

■かぐや姫
『江表伝』にいう。曹丕は、珍品ばかりリストアップして、献上を要請してきた。孫権は「そんなもの、くれてやれ」と、応えてやった。
ここで、「魏が国力にものを言わせて、圧力をかけてきたか。うーん、悔しいぞ」と憤ってしまっては、ダメなんだ。

曹丕は、このような無理な要求を通して、「ほら、呉王の臣従は、本当のことだ。私の政治的判断は、ミスではなかった。さらに言えば、呉が臣従したのだから、残りの蜀だけを潰せば、天下統一だ。蜀は、夷陵で兵法を知らぬ布陣をしている。蜀が、オレの手下の呉王に負けるのは、時間の問題だ。オレは、名実ともに、立派な統一王朝の皇帝だぞ。もう文句は受け付けない」と、内外に示したかった。

「曹丕を安心させてやれ。そして、曹丕をもっと重篤な皇帝病にかからせてやるのだ」というのが、孫権の手の内だと思う。
実現の可能性が高まれば、人は期待に期待を重ねて、その気になっていくものだからね。曹丕は、懸案が一気に解決するのを喜んだ。孫権と劉備に酒を注がせている絵を、暗示をかけるように夢想したに違いない。罠とも知らずに笑

■曹丕の人生最高の瞬間
『呉歴』にいう。陸遜が夷陵で勝つと、孫権は、劉備から奪った印綬・首級・土地を、曹丕に献上した。曹丕は、自分の著作『典論』を、白絹に書いて、詩賦とともに孫権に与えた。

自分の作品をプレゼントするというのは、親愛の絶頂ですよ。
「あなたなら、私を理解してくれるはずだ」と、胸襟を開きまくっているに等しい。少年のハートだ。もちろん形式としては、「皇帝さまから、藩屏の王に、ありがたきものを下賜してやるぞ」という、威厳ある手続きを踏んだんだろうが。
浮かれずにはいられない。これで、ほぼ天下は統一されたのだから。だが曹丕の心境を、見透かしてる奴がいた。他ならぬ、孫権だ。
■孫権の「謀反」
だが魏の連中も、ただの間抜けばかりではない。
「孫権よ、本当に従う意志があるなら、先日命じたとおり、子を送ってこないか」と催促した。
孫権は、「そのような資格が、私にはありません」と言った。意味がよく分からん返答だね。だって、意味などないのだから笑

魏はついに痺れを切らし、222年9月、3方面から呉を攻めた。
洞口には、曹休・張遼・臧覇。濡須には、曹仁。南郡には、曹真・夏侯尚・張郃・徐晃。『演義』みたいに武将の名前が羅列されているが、ちゃんと陳寿が書いてます。
孫権は、背後の異民族に脅かされたので、「ご無礼をお詫びします。私は交州で余生を送ります」と、極端に腰を低くした。
曹丕は、コロッと許してしまった。
「出兵したのは、本意ではないのだよ。私の臣下たちが、孫権は逆らうつもりだと言うから、仕方なく真心を確認しようと思っただけだ。早く子を差し出しなさい。攻めずにおいてあげるから」と。

曹丕がお人よしなのではない。むしろ、酷薄な種類の人間だ。
曹丕のこの甘さは、「皇帝であることが、それほどにしんどい」ということを表しているのだろう。天下統一へのプレッシャーが、四六時中つき上げる。
合戦で勝利する可能性は、5割。大軍を投入したから勝てる、という道理はない。おまけに、国力を疲弊する。しかし、首脳である孫権が従順になれば、呉を従えられる可能性は10割。しかも、コストがかからない。そっちに賭けてみたくなる。
孫権は、「皇帝だけは御免だ」と、再確認したに違いない。そして、「曹丕の弱みを、使い倒さない手はないな」と、ほくそ笑んだはずだ。

■劉備との国交回復
222年10月、孫権は年号「黄武」を立てた。
孫権は、同じ222年12月、劉備と和睦した。
きっと劉備は、「蜀が独力で立つための兵力も支持も、夷陵で焼き尽くしてしまった。孫権の使者は、耳当たりのいいことを言ってくれるし、まあ、いいや」くらいにしか、考えていないはずだ。
劉備も皇帝を自称していたから、敗北のダメージは、傭兵隊長の時代に比べると、考えられないほどに大きかっただろう。皇帝とは、「いつも勝ち続けるべき」ものなのに、己の醜態はどういうことか!という自責が、劉備を5年分ほど老けさせた。

ここで、思考実験。もしここで劉備が奮起して、呉を攻めていたら、孫権は滅んでいたか。
軍事的には、そうだろう。だが、そうはならないと、ぼくは思う。孫権は孫登を洛陽に送って、魏とともに劉備にトドメを刺しにかかったんじゃないか。曹丕は悲願成就、孫権は王待遇、ひとり劉備のみ晒し首。
諸葛亮あたりは、国力の低下と、孫権の奔放な外交姿勢を考慮して、劉備の志の生命維持装置の電源を、切ったんだ。
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