三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
呉王孫権と呉帝孫権は、別の人だ(3)
■帝位辞退
翌223年3月、3方面の魏軍を追い返した。
郡臣は、孫権に帝位に就くように勧めたが、孫権は辞退した。5月に甘露が降ったというが、こういう「瑞兆の報告」というのは、臣下から孫権への、遠回しな催促だろう。
家に帰ると、わざと目に付くところに『ゼクシィ』が置いてあるとか、それと同じタイプの催促である笑

「魏に叛き、魏を破ったんですから、帝位に就かない理由がありません」というのが、臣下たちの言い分だ。だが、そこは孫権。曹丕をいいように操る男は、臣下たちも、いいように操って見せますよ。

『江表伝』にいう。孫権は返答した。
「漢が滅びるのを救えなかった私が、どうして漢と対等の地位に就いていいのか。もし皇帝を名乗ろうものなら、魏と蜀を同時に敵に回して、とても防ぎきれない。魏の呉王であるという苦渋の決断の意味を、まだキミたちは理解していないようだ。だから、くどいが、わざわざ説明している」
文面だけ見れば、名分としては、漢を慕う心に訴えかけることで、道理がある。軍事としても、孫権の分析には(一面的に)ウソがないから、道理がある。反論できない。
けれど、本音は違う。「皇帝病に罹ってたまるかよ。漢朝400年という化け物と、オレ1人で対峙するのは、割に合わないんだよ」と。
■曹丕、第2次南征
224年9月、曹丕が広陵に自ら現れた。
蜀とは、鄧芝&張温を使って修好に努めていたから、そちらは心配なし。
徐盛は、ハリボテの城を作って、曹丕を追い返した。「呉には人材が多いから、すぐには攻め取れないな」と曹丕が嘆息したと、陳寿「呉主伝」には書かれている。
もし曹丕のこの言葉が、事実に近かったとしたら、ハリボテ作戦が見抜かれていたことになる。
「魏の大軍を目の前にしても、急ごしらえで対抗手段を思いつき、実行できてしまうほどの将軍が、呉にいたのか」という意味になるからだ。もし見抜かれていなかったら、「こんな堅固な城を、抜けっこないぜ」となるはずだもの。

北方『三国志』の描くように、曹丕の諜報のクオリティが落ちていたのではない。
曹丕は呉を、「要塞を築きやすい地形」ではなく、「人材を擁する我が国家の一部」として見ていた。この視点の高さは、皇帝病の症状なんだ。統一事業という側面からは、とても大きな障りですよ。
これに対して、「ハリボテ作戦がヒットしたぜ!知略に乾杯!」なんて騒いでいる呉の連中は、めでたい地方軍閥なのです。

■曹丕、第3次南征
225年冬、曹丕がまた攻めてきた。
裴注『呉録』では、長江に氷が張って「天は、長江で南北を分断するつもりだ」と曹丕が言ったと記す。
帰り道、曹丕は決死の500名に襲われ、副車と羽蓋を、呉に奪われてしまった。「呉主伝」には書いてないが、帰りに曹丕が許昌に入ろうとすると、門が崩れた。
いかにも天命が去ったとばかりの無惨に、ストレスはピークに達した。
■曹丕の死
曹丕は翌226年5月に死んだ。曹叡が、2代皇帝になった。
孫権は、曹丕の死を、7月に知った。8月、孫権は江夏を攻めたが、魏の文聘が守りきった。
蒼梧に、鳳凰が現れた。すなわち、孫権は「早く皇帝になりなさい。曹丕が横死した今こそ、チャンスですよ」と催促を受けた。

詭弁のようだが、孫権にとって、曹丕の死は痛手だった。
ただ1つの先例、1代で終わった王莽の失敗に引き比べれば、「魏が1代で終わるのか、終わらないのか」と静観することに、けっこう意味があった。郡臣を黙らせる、効力があった。
もし漢が復活したら、迂闊に帝位を名乗った人は、逆賊になってしまう。逆賊を推戴した人たちは、履歴書にキズがつく。これが、孫権の渋りを、郡臣が押し切れない要因だった。
それほどに、400年も続いた漢は、不滅の王朝として、人々の心に伝説になっていたと言えよう。献帝はまだ生きているわけだし、皇帝待遇で山陽で大切にされているのだから、いつカムバックしても、不自然ではない。

ところが、曹丕が死に、魏は動揺せず、子の曹叡が帝位を継いだとなれば、「どうやら、禅譲というものは、本当にあるらしい」という気持ちになってくる。歴史の法則は変わるかも知れないと、やっと事実ベースで万民が気づき始める。
これは、皇帝になりたくない孫権にとっては、避けたいことだった。

■実は呉の危機
227年12月、孟達が挙兵した。これが、諸葛亮の北伐がスタートする合図だ。
228年春、諸葛亮は祁山を包囲。だが、馬謖が街亭で敗戦。12月に諸葛亮は再出発し、陳倉を攻めたが、郝昭が守りきった。

同じ228年の5月、周魴が投降して曹休を招き寄せ、8月に石亭で大勝した。
この勝利を、素直に喜んではいけない。投降が真実味を帯びたからこそ、作戦が成功したのだ。事実として、前年の閏12月に、あの韓当の子が、配下を伴って魏に投降している。

投降の偽装が成功した事例と言えば、赤壁の黄蓋だ。すなわち、このときの孫呉は、赤壁のときと同じくらい、自壊しそうだったということが、指摘できるだろう。
曹休は、曹操に「我が家の千里ノ駒」と、頼りにされた武将だ。漢中では、曹洪の下に付けられ、実質的な指揮官として振る舞った人だ。彼が、安易に騙されるわけがない。
腐敗した大木の漢に代わり、新しく生まれた帝国・魏を支持して、投降する人が頻繁だったのだ。だから曹休は信じた。
周魴が書いた呉のグチは、本当のことだった。
※周魴の手紙は、このサイト内でも考察しています。
■孫権の即位
諸葛亮が陳倉を攻めあぐねていたころ、孫権の皇帝即位の準備が進められていた。
諸葛亮中心の視点で描かれる物語だと、「なぜ魏蜀と同時期に皇帝にならなかった孫権が、中途半端なタイミングで皇帝になったのかなあ」という印象を受ける。だが、曹丕の死で放たれた矢は、揚州と荊州を激震させていた。
孫権の求心力が、急激に低下していた。

翌229年正月、孫権への即位要請。
4月、夏口と武昌で、黄龍と鳳凰が出現した。4月7日、孫権が即位!

■孫権を社長に例える
下世話な例えかも知れないが、このときの即位は、企業の上場に似ていると思う。
経営者としては、身内で取締役を固めて、「会社の利益=私の懐の潤い」としておいた方が、心地いい。しかし、社員たちが騒ぎ始める。「会社は充分に大きくなったから、新興市場を目指したい。上場企業の社員になりたいなあ」と。
株式上場するには、経営者の直接的な得にならない手続きが、かなり必要だ。社内の書類を整備したり、従業員の待遇をルールを作って保障したり、正確な情報を適時に開示したり、経営者を牽制するしくみを作ったり。社会の公器になるんだから。

だが、上場を渋っていると、社員が文句を言い始める。「将来性のない会社はイヤだ」「私はあなたの下僕じゃない。族企業はイヤだ」などとね。求心力が低下するのを恐れて、経営者は仕方なく、証券会社や監査法人に小言をぶつけられながら、その不愉快に耐えて、株式を上場させる。
上場企業の社長として振る舞うのが好きな人はいるが、いわゆる「商店のオヤジ」は、そんな役割は好きじゃない。行動や発言にいちいちケチを付けられ、不適切な言動があれば、社員の心が離れていく。「儲かればいい」という、商売で当たり前のことを口にしても、叩かれる。
孫権は、上場など望んでいなかった「商店のオヤジ」だ。
呉王孫権と呉帝孫権は、別の人だ(4)
■皇帝孫権の政策
今まで「魏の呉王」だった孫権さん。言を左右に振って、敵と味方をごちゃ混ぜにして、小難しい理屈は後回しにして。
しかし、即位してしまった途端に、皇帝としての政策を打ち出していく。皇帝を名乗ったからには、皇帝らしい政治をしないと、名目だけではなく本当に魏の属国になってしまうからだ。

■天下二分の青写真
229年、蜀と協議して、天下を二分する約束をした。
「魏を滅ぼしたら、豫州・青州・徐州・幽州は、呉がもらう。それから、司州は、函谷関から東は呉がもらう」と。
抱腹ものの空論だと、批判するのは簡単だろう。だが、皇帝であるからには、たとえ実現可能性が低くても、このように全土統一を前提にして、国を運営しなければならない。
稀有壮大な物言いが、「呉主伝」に、この頃からよく出てくる。魏を扱き下ろすとか、周の故事を引くとか、これまで熱心でなかったことに、火が点いたように注力し始める。
外交文書などは臣下が書いているんだが、「仕えるからには、皇帝がいい」という臣下たちは、スケールのでかい話を呉から発信できるようになって、帰属意識を高めたんだろう。みんな、皇帝病なんだ。

■海に出た真意
夷州とタン州に人狩りに行ったのが、翌230年春。
これは、既存の呉領を守るために、兵士を増員したかったのではない。確かに人口不足はテーマだったが、そんなのは二の次だ。
皇帝であるからには、地上で人々に存在を知られている、ありとあらゆる土地を、支配下に治めなければならないのだ。
だから、未熟な航海技術を顧みず、こんな馬鹿なことを始めた。いや、始めるしかなかった。
「魏も蜀も支配していないフロンティアがあるはずなのに、行動を起こさない」というのは、皇帝らしからぬ行動だ。たちまち、皇帝の要件を満たさなくなってしまう。

結果は大失敗で、むしろ人口が減りまくり、責任者を斬るということに。だが、これでいいのだ。成否というよりは、領土拡張を志したということが、皇帝らしいのだ。

■遼東外交
皇帝であるからには、功臣を王を封じるべきだ。
そういうわけで、232年3月、遼東に使者を出して、公孫淵を燕王にしてあげた。だが公孫淵が叛いて、呉から行った遣いは、首を魏に送られた。公孫淵は、地方軍閥として(かつての孫権のように)自在に外交しているわけです。
海を隔てて遼東を服属させるなんて、まるで現実的ではないのだが、理論先行の皇帝病は、そんな言い訳は聞きたがらない。
馬鹿な理由で人が死のうが、地勢を読み誤ろうが、「皇帝とは、こうあるべきなんだ」というルールを、狂信的に墨守しなければならない。神経症の特徴ですね。

233年3月、顧雍らが諌めるのも聞かず、公孫淵に九錫を送る。
「誠意がなく、ろくでもない軍閥に、そのような恩をかけるのを辞めなさい」と諌められたが、孫権自身が自己暗示をかけたのか、皇帝病の感染力が強すぎるのか、もう何も耳には入らない。
皇帝・孫権は、かつての曹丕と同じく、「非合理的な」行動を取る。わずかでも可愛げを見せた奴には、最大限の恩寵を施してやるのが、皇帝の役割なのだ。

■晩年の2失策
君主権を強化しようとして、歪んだ法家の運用者である、校尉・呂壱を取り立てた。
孫呉は、豪族の連合で成り立っていた。孫権を皇帝に押し上げたのも、彼ら豪族だ。だが、いちど皇帝になってしまうと、バランスを取るのがうまかった孫権が、これまでに反して集権を志す。
年老いたこともあるんだろうが、凝り固まって行くのです。

そして、二宮事件。サイト内で考察していますが、孫権は自分が永遠に生きるつもりだから(皇帝病の典型)、後継者問題の重要性を、あまり認識していない。
だから、2人の子を同じ待遇にするというトラブルの種を、軽い気持ちで「出題」し、郡臣に潰しあいを演じさせ、両成敗にして、相対的に孫権自身の影響力を強化しようとした。

以上、見てきたように、呉王孫権と、呉帝孫権は、まるで別人なんです。
皇帝病、おそるべし!080910
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