いつか読みたい晋書訳

晋書_帝紀第一巻_高祖宣帝(懿)

翻訳者:池田 雅典
訳者コメント:どうも、郭隗です。

宣帝

原文

帝紀第一
  宣帝
宣皇帝諱懿、字仲達、河內溫縣孝敬里人、姓司馬氏。其先出自帝高陽之子重黎、爲夏官祝融。歷唐・虞・夏・商、世序其職。及周、以夏官爲司馬。其後程伯休父、周宣王時、以世官克平徐方、錫以官族、因而爲氏。楚漢間、司馬卬爲趙將[一]、與諸侯伐秦。秦亡、立爲殷王、都河內。漢以其地爲郡、子孫遂家焉。自卬八世、生征西將軍鈞、字叔平[二]。鈞生豫章太守量、字公度。量生潁川太守儁、字元異[三]。儁生京兆尹防、字建公[四]。帝即防之第二子也。少有奇節、聰朗多大略、博學洽聞、伏膺儒教。漢末大亂、常慨然有憂天下心[五]。南郡太守同郡楊俊名知人[六]。見帝、未弱冠、以爲非常之器。尚書清河崔琰[七]與帝兄朗善。亦謂朗曰、君弟聰亮明允、剛斷英特。非子所及也[八]。

斠注

[一]史記序傳索隠司馬氏系本曰、蒯聵生昭豫、昭豫生憲、憲生卬。
[二]林寶元和姓纂二曰、卬孫楷、漢武都太守。孫釣、後漢征西將軍。案姓纂所言世次與本紀異。
[三]魏志司馬朗傳注司馬彪序傳曰、朗祖父儁、字元異。博學好古、倜儻有大度。長八尺三寸、腰帶十圍、儀狀魁岸、與眾有異。鄕黨宗族咸景附焉。位至潁川太守。
[四]魏志司馬朗傳注司馬彪序傳曰、父防、字建公。性質直公方、雖閒居宴處、威儀不忒。雅好漢書名臣列伝、所諷誦者數十萬言。少仕州郡、𢟍官洛陽令・京兆尹。以年老轉拜騎都尉。養志閭巷、闔門自守。諸子雖冠成人、不命曰進不敢進、不命曰坐不敢坐、不指有所問不敢言、父子之間肅如也。年七十一、建安二十四年終。又武帝紀注王隱晉書曰、趙王纂位、欲尊祖爲帝。博士馬平議稱京兆府君、昔舉魏武帝爲北部尉、賊不犯界。
[五]太平御覧九十五虞預晉書曰、上雖服膺文藝、以儒素立德、而雅有雄覇之量。值魏氏短祚、内外多難、謀而鮮過、擧必獨克、知人拔善、顯揚側陋。王基・鄧艾・周泰・賈越之徒、皆起自寒門而著績於朝。經略之才可謂遠矣。世説容止篇注晉陽秋曰、宣王天姿傑邁、有英雄之畧。
[六]魏志楊俊傳曰、字季才、河內獲嘉人也。銭大昕二十二史攷異十八曰、按魏志俊傳爲南陽太守、非南郡也。
[七]魏志崔琰傳曰、字季珪、清河東武城人也。魏國初建、拜尚書。
[八]魏志武帝紀曰、始琰與司馬朗善。晉宣王方壯、琰謂朗曰、子之弟、聰哲明允、剛斷英跱、殆非子之所及也。注松之按、跱或作特。竊謂英特爲是也。

訓読

帝紀第一
  宣帝
宣皇帝 諱は懿、字は仲達、河內溫縣孝敬里の人、姓は司馬氏。其の先は出づるに帝高陽の子の重黎よりし、夏官の祝融爲り。唐・虞・夏・商を歷(ふ)るに、世ゝ其の職に序せらる。周に及び、夏官を以て司馬と爲す。其の後の程伯休父、周の宣王の時、世官を以て徐方を克平し、錫(たま)はるに官族を以てせらるれば、因りて氏と爲す。楚漢の間、司馬卬 趙將と爲り[一]、諸侯と秦を伐つ。秦 亡ぶや、立てられて殷王と爲り、河內に都す。漢 其の地を以て郡と爲し、子孫 遂に家す。卬より八世、征西將軍鈞、字は叔平を生む[二]。鈞は豫章太守の量、字は公度を生む。量は潁川太守の儁、字は元異を生む[三]。儁は京兆尹の防、字は建公を生む[四]。帝は即ち防の第二子なり。少(わか)くして奇節有り、聰朗にして大略多く、博學洽聞にして、儒教に伏膺す。漢末 大いに亂れ、常に慨然として天下を憂へるの心有り[五]。南郡(一)太守・同郡の楊俊は知人に名たり[六]。帝を見、「未だ弱冠ならずして、以て非常の器爲り」と。尚書・清河の崔琰[七]帝の兄の朗と善し。亦た朗に謂ひて曰はく、「君の弟は聰亮明允、剛斷英特。子の及ぶ所に非ざるなり」と[八]。

斠注

[一]『史記』序傳の索隠の「司馬氏系本」に曰はく、「蒯聵は昭豫を生み、昭豫は憲を生み、憲は卬を生む」と。
[二]林寶『元和姓纂』二に曰はく、「卬の孫の楷、漢の武都太守たり。孫の釣、後漢の征西將軍たり」と。案ずるに『姓纂』言う所の世次 本紀と異なれり。
[三]魏志司馬朗傳の注の司馬彪「序傳」に曰はく、「朗の祖父は儁、字は元異。博學にして古を好み、倜儻にして大度有り。長八尺三寸、腰帶十圍、儀狀魁岸にして、眾と異なる有り。鄕黨・宗族 咸な景附す。位は潁川太守に至る」と。
[四]魏志司馬朗傳の注の司馬彪「序傳」に曰はく、「父は防、字は建公。性 質直公方、閒居宴處と雖も、威儀ありて忒(たが)はず。雅(もと)より漢書の名臣の列伝を好み、諷誦する所は數十萬言。少くして州郡に仕へ、洛陽令・京兆尹を𢟍官す。年老ゆるを以て轉じて騎都尉を拜す。志を閭巷に養い、門を闔(と)じて自ら守る。諸子 冠して成人すと雖も、命じて進めと曰はざれば敢へて進まず、命じて坐れと曰はざれば敢へて坐らず、指して問ふ所に有らざれば敢へて言はず、父子の間 肅如たり。年七十一、建安二十四年に終ゆ。又た武帝紀の注の王隱『晉書』に曰はく、「趙王纂位し、祖を尊んで帝と爲さんと欲す。博士の馬平の議に 京兆府君を稱へ、『昔 魏武帝を舉げて北部尉と爲すや、賊 界を犯さず』」と。
[五]『太平御覧』九十五 虞預『晉書』に曰はく、「上(しよう)は文藝を服膺す(二)と雖も、儒素を以て德を立て、而して雅より雄覇の量有り。魏氏の短祚に值(あ)ひ、内外多難なれど、謀れば過ち鮮なく、擧(うご)かば必ず獨り克ち、人を知り善を拔き、側陋を顯揚す。王基・鄧艾・周泰(三)・賈越の徒、皆な起こるに寒門よりして績を朝に著す。經略の才 遠と謂ふべし。『世説』容止篇の注の『晉陽秋』に曰はく、「宣王は天姿傑邁、英雄の畧有り」と。
[六]魏志楊俊傳に曰はく、字は季才、河內獲嘉の人なり。銭大昕『二十二史攷異』十八に曰はく、「按ずるに魏志俊傳は南陽太守に爲(つく)り、南郡に非ざるなり」と。
[七]魏志崔琰傳に曰はく、「字は季珪、清河東武城の人なり。魏國初めて建つに、尚書を拜す」と。
[八]魏志武帝紀(四)に曰はく、「始め琰 司馬朗と善し。晉の宣王 方(まさ)に壯ならんとするに、琰 朗に謂ひて曰はく、『子の弟は、聰哲明允、剛斷英跱。殆(ほとん)ど子の及ぶ所に非ざるなり』」と。注に「松之 按ずるに、跱は或いは特に作る。竊(ひそ)かに謂(おも)うに英特もて是(ぜ)と爲す」と。

(一)斠注[六]にあるように、「南陽」が正しい。なお本稿では、訓読はあくまで底本で読み、必要と判断した場合は現代語訳にて修正することにした。
(二)服膺は、胸にしまって片時も忘れないこと(『礼記』中庸)。本文の「伏膺」も意味は同じ。あるいは「服膺文藝」は、本来「服膺六藝」ではないかと思う。『三国志』管寧傳に「耽懷道德、服膺六藝」とあり、『後漢書』班固傳に「服膺六蓺」とある。また『晋書』では宣帝紀の「伏膺儒教」をはじめ、「曹志等服膺教義、方軌儒門(秦秀傳)」、「謝行言皆服膺儒教(顧榮傳)」、「服膺道素(賀盾傳)」、「世儒徒知服膺周孔、莫信神仙之書(葛洪傳)」、「服膺聖化哉(王廣傳)」とあり、同時代の用例としても、儒家の教義を体得していることを表す際に使われる場面が多いようである。もしこれが正しい場合、「上は雖(こ)れ六藝を服膺し」と読み、「宣帝は六藝を心に忘れず」と訳すことになる。こちらの方が素直な文章に思えるが、確証は無い。
(三)『御覧』引ける虞預の『晉書』が「周泰」に作る。たとえば『晉書』景帝紀には、「王基・州泰・鄧艾・石苞 典州郡」とある。司馬懿によって見い出され功のあった人物を挙げているのだから、「州泰」が正しい。
(四)当該記事があるのは武帝紀ではなく崔琰傳。

現代語訳

帝紀第一
  宣帝
宣皇帝は諱は懿、字は仲達、河內郡溫縣の孝敬里の人、姓は司馬氏である。その先祖は帝高陽の子孫の重黎に出自し、夏官の祝融であった。帝堯陶唐氏・帝舜有虞氏・夏・殷と治世を経るうち、代々その職を継いだ。周に及んで、夏官を司馬と改称した。その後裔の程伯休父が、周の宣王の時、世襲の官の役目により徐方を平定し、官名を族に名付ける栄誉を賜り、これにより司馬を氏とした。楚漢戦争の時代には、司馬卬が趙の将軍となり、諸侯とともに秦を討った。秦が亡ぶと、殷王に立てられ、河內に治所を置いた。漢ではその地を郡とし、子孫はそこに居をかまえた。司馬卬より八世の某が、征西將軍の司馬鈞、字は叔平を生んだ。司馬鈞は豫章太守の司馬量、字は公度を生んだ。量は潁川太守の司馬儁、字は元異を生んだ。儁は京兆尹の司馬防、字は建公を生んだ。帝は防の第二子である。若くして並外れた節度を持ち、聡明でよく先々を見通し、博学にして見聞広く、儒教を心に忘れることがなかった。漢末に世は大いに乱れたため、常に憤って天下を憂えていた。(南郡)[南陽]太守で同郡の楊俊は人物眼で知られた。帝を見ると、「まだ二十歳にもならないのに、尋常の器ではない」と言った。尚書で清河郡の人である崔琰は帝の兄の司馬朗と親しかった。この人もまた司馬朗に、「君の弟は『ものごとに聡くて洞察に長け、果断にして才知は人をしのぐ』といったところかな。君では及びもつかんね」と言った。

斠注

[一]『史記』太史公自序の索隠に引かれる『司馬氏系本』には、「司馬蒯聵は昭豫を生み、司馬昭豫は憲を生み、司馬憲は卬を生んだ」とある。
[二]林寶の『元和姓纂』二には、「司馬卬の子孫の司馬楷は、前漢の武都太守である。その子孫の司馬釣は、後漢の征西將軍である」とある。思うに、『元和姓纂』に記される系譜は本紀と異なるようだ。
[三]『三国志』魏書 司馬朗傳の裴松之の注引ける司馬彪の(『續漢書』)序傳には、「司馬朗の祖父は司馬儁、字は元異。博学にして古を好み、人望が厚く度量が大きかった。身長八尺三寸、腰まわりは十圍、容貌は極めて優れ、余人とは異なっていた。郷里の宗族はみなこれを敬慕した。位は潁川太守に至った」とある。
[四]『三国志』魏書 司馬朗傳の裴注引ける司馬彪の(『續漢書』)序傳には、「父は司馬防、字は建公。ひととなりは実直で折り目正しく、自室やくつろいだ場であっても、威儀を備えて変わることがなかった。平素から『漢書』の名臣の列伝を愛好し、数十万言をそらんじることができた。若くして州郡に仕え、洛陽令・京兆尹を歴任した。老齢のため転任して騎都尉を受けた。郷里にあっても質直公方の精神を守り、家の門を閉じ(私的な交流を絶って)自衛した。子供達は冠をつけ成人したのちであっても、防が来いと命じなければあえて近寄らず、座れと命じなければあえて座らず、名指しで問われなければあえて口を開かず、父子の間柄であっても粛然としていた。七十一歳、建安二十四年に死んだ」とある。また武帝紀の裴注引ける王隱の『晉書』に、「趙王(司馬倫)が纂位すると、先祖を追尊して帝号を付そうとした。博士の馬平の議事には京兆府君を称えて、『そのむかし(司馬防が)魏の武帝を推挙して北部尉としたことで、賊が境界を犯さなくなった』」とある。
[五]『太平御覧』九十五引ける虞預の『晉書』には、「上は文藝を心に忘れることはなかったが、儒者の行いでもって世に範を示し、もとより優れた指導者としての器量を備えていた。魏帝が早死にすると、朝廷の内外となく多事多難であったが、上が方策を立てれば誤りは少なく、事を行えば必ず勝ち、人を知り能ある者を抜擢し、身分の低い者を顕彰した。王基・鄧艾・(周)[州]泰・賈越といったともがらは、みな寒門より身を起こして功業を朝廷に立てた。上の天下平定の才はきわまりないものであったと言えよう」とある。『世説新語』容止篇の注に引ける『晉陽秋』には、「宣王は生まれながらの優れた容姿を持ち、英雄の知略を備えていた」とある。
[六]『三国志』魏書 楊俊傳には、「字は季才、河內獲嘉の人である」とある。銭大昕『二十二史攷異』十八には、「思うに『三国志』楊俊傳は南陽太守としており、南郡ではない」とある。
[七]『三国志』魏書 崔琰傳には、「字は季珪、清河東武城の人である。魏の建国時に、尚書に任じられた」とある。
[八]『三国志』魏書 (武帝紀)[崔琰傳]に、「そのころ崔琰は司馬朗と仲が良かった。晉の宣王が成人しようという時分に、崔琰は司馬朗に、『君の弟は、聰哲明允、剛斷英跱。およそ君では及びもつかんね』と言った」とある。裴注には、「臣松之が按ずるに、『跱』字は『特』字に作る本もある。私見では英特が正しい」とある。