いつか読みたい晋書訳

晋書_帝紀第三巻_世祖武帝(炎)

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。
『晋書』武帝紀は、アップロード時点(2023年10月11日)でインターネット上に複数の翻訳がありますが、ほかは訓読がないので、読み比べと検討の材料にして頂ければ幸いです。期間をおいて作業したので、順次修正するかも知れません。武帝が皇帝即位を天に告げた文(告類)と、巻末の制(太宗李世民の文)は、渡邉義浩先生による訓読を参照しています。

武帝

原文

武皇帝諱炎、字安世、文帝長子也。寬惠仁厚、沈深有度量。魏嘉平中、封北平亭侯、歷給事中・奉車都尉・中壘將軍、加散騎常侍、累遷中護軍・假節。迎常道鄉公於東武陽、遷中撫軍、進封新昌鄉侯。及晉國建、立為世子、拜撫軍大將軍、開府・副貳相國。
初、文帝以景帝既宣帝之嫡、早世無後、以帝弟攸為嗣、特加愛異、自謂攝居相位、百年之後、大業宜歸攸。每曰、「此景王之天下也、吾何與焉」。將議立世子、屬意於攸。何曾等固爭曰、「中撫軍聰明神武、有超世之才。髮委地、手過膝、此非人臣之相也」。由是遂定。咸熙二年五月、立為晉王太子。
八月辛卯、文帝崩、太子嗣相國・晉王位。下令寬刑宥罪、撫眾息役、國內行服三日。是月、長人見於襄武、長三丈、告縣人王始曰、「今當太平」。九月戊午、以魏司徒何曾為丞相、鎮南將軍王沈為御史大夫、中護軍賈充為衞將軍、議郎裴秀為尚書令・光祿大夫、皆開府。
十一月、初置四護軍、以統城外諸軍。乙未、令諸郡中正以六條舉淹滯、一曰忠恪匪躬、二曰孝敬盡禮、三曰友于兄弟、四曰潔身勞謙、五曰信義可復、六曰學以為己。
是時晉德既洽、四海宅心。於是天子知曆數有在、乃使太保鄭沖奉策曰、「咨爾晉王、我皇祖有虞氏誕膺靈運、受終于陶唐、亦以命于有夏。惟三后陟配于天、而咸用光敷聖德。自茲厥後、天又輯大命于漢。火德既衰、乃眷命我高祖。方軌虞夏、四代之明顯、我不敢知。惟王乃祖乃父、服膺明哲、輔亮我皇家、勳德光于四海。格爾上下神祇、罔不克順、地平天成、萬邦以乂。應受上帝之命、協皇極之中。肆予一人、祗承天序、以敬授爾位、曆數實在爾躬。允執其中、天祿永終。於戲。王其欽順天命。率循訓典、底綏四國、用保天休、無替我二皇之弘烈」。帝初以禮讓、魏朝公卿何曾・王沈等固請、乃從之。

訓読

武皇帝 諱は炎、字は安世、文帝の長子なり。寬惠にして仁厚、沈深にして度量有り。魏の嘉平中に、北平亭侯に封ぜられ、給事中・奉車都尉・中壘將軍を歷し、散騎常侍を加へられ、累りに中護軍・假節に遷る。常道鄉公を東武陽に迎へ、中撫軍に遷り、封を新昌鄉侯に進む。晉國 建つるに及び、立ちて世子と為り、撫軍大將軍を拜し、開府・副貳相國たり。
初め、文帝 景帝 既に宣帝の嫡なるも、早世して後無きを以て、帝の弟の攸を以て嗣と為し、特に愛異を加へ、自ら相位を攝居し、百年の後に、大業 宜しく攸に歸すべしと謂ふ。每に曰く、「此れは景王の天下なり、吾 何ぞ焉に與らん」と。將に世子を立つるを議するや、意を攸に屬す。何曾ら固く爭めて曰く、「中撫軍 聰明にして神武なり、超世の才有り。髮は地を委し、手は膝を過ぎ、此れ人臣の相に非ざるなり」と。是に由り遂に定まる。咸熙二年五月、立ちて晉王太子と為る。
八月辛卯、文帝 崩じ、太子 相國・晉王の位を嗣ぐ。令を下して刑を寬し罪を宥し、眾を撫して役を息め、國內 服を行ふこと三日なり。是月、長人 襄武に見はれ、長さ三丈、縣人の王始に告げて曰く、「今 當に太平なるべし」と。九月戊午、魏の司徒の何曾を以て丞相と為し、鎮南將軍の王沈もて御史大夫と為し、中護軍の賈充もて衞將軍と為し、議郎の裴秀もて尚書令・光祿大夫と為し、皆 開府なり。
十一月、初めて四護軍を置き、以て城外の諸軍を統べしむ。乙未、諸郡の中正に令して六條を以て淹滯を舉げしめ、一に曰く忠恪匪躬、二に曰く孝敬盡禮、三に曰く友于兄弟、四に曰く潔身勞謙、五に曰く信義可復、六に曰く學以為己と。
是の時 晉の德 既に洽く、四海 心を宅す。是に於て天子 曆數 有在するを知りて、乃ち太保の鄭沖をして策を奉ぜしめて曰く、「咨爾 晉王、我が皇祖の有虞氏 誕に靈運に膺たり、終を陶唐に受け、亦た以て有夏に命ず。惟の三后 天に陟配せられ、而して咸 用て聖德を光敷す。茲より厥の後、天 又 大命を漢に輯す。火德 既に衰へ、乃ち命を我が高祖に眷す。軌を虞夏に方ぶるに、四代の明顯、我 敢て知らず。惟れ王よ乃祖と乃父は、明哲を服膺し、我が皇家を輔亮し、勳德 四海を光す。爾の上下の神祇に格り、克順せざる罔く、地は平らぎ天は成り、萬邦は以て乂す。應に上帝の命に受じ、皇極の中に協ふべし。肆に予一人、祗に天序を承けて、以て爾に位を敬授し、曆數 實に爾が躬に在り。允に其の中を執れ、天祿 永く終らん。於戲。王 其れ欽みて天命に順へ。訓典を率循し、四國を底綏して、用て天休を保ち、我が二皇の弘烈に替る無かれ」と。帝 初めて以て禮讓するも、魏朝の公卿の何曾・王沈ら固く請へば、乃ち之に從ふ。

現代語訳

武皇帝は諱を炎といい、字は安世、文帝の長子である。寛大で恵みが深く仁にあつく、思慮が深くて度量があった。魏の嘉平年間、北平亭侯に封建され、給事中・奉車都尉・中塁将軍を歴任し、散騎常侍を加えられ、しきりに中護軍・仮節に遷った。常道郷公(曹奐)を東武陽に迎え、中撫軍に遷り、封号を新昌郷侯に進めた。晋国が建つと、世子に立てられ、撫軍大将軍を拝し、開府・副弐相国となった。
これよりさき、文帝(司馬昭)は景帝(司馬師)が宣帝(司馬懿)の嫡子であるにも拘わらず、早くに亡くなって後嗣がいなかったので、武帝の弟の司馬攸を後嗣とし、特別に寵愛を加え、自分は相位(大臣の位)に摂居し(かりに就い)ているが、百年の後(自らの死後)、大いなる事業は(司馬師の後嗣)司馬攸に帰属させるべきだと言っていた。つねに、「これは景王の天下である、私に裁量権があるものか」と言っていた。世子を立てる話し合いでは、司馬攸を選ぶつもりであった。何曾らが強く諫めて、「中撫軍(司馬炎)は聡明で神がかりの武をそなえ、超世の才です。髪は地にとどき、手は膝を過ぎ、人臣の相ではありません」と言った。このおかげで世子が(司馬炎に)決定された。咸熙二年五月、晋王太子に立てられた。
八月辛卯、文帝が崩御し、太子が相国・晋王の位を嗣いだ。王令を下して刑罰を緩和して罪をゆるし、兵士をいたわり労役をやめ、晋の国内で三日間の服喪をした。この月、背の高いひとが襄武県に出現し、身長は三丈で、県人の王始が、「いまこそ太平になるでしょう」と報告した。九月戊午、魏の司徒の何曾を丞相とし、鎮南将軍の王沈を御史大夫とし、中護軍の賈充を衛将軍とし、議郎の裴秀を尚書令・光禄大夫とし、みな開府した。
このとき晋国の徳は満ちあふれ、四海は心を寄せていた。ここにおいて天子(魏帝曹奐)は暦数のありかを悟り、太保の鄭沖に策書を奉じさせ、「ああなんじ晋王よ、わが祖先の有虞氏(舜)は天の命運に応え、陶唐(尭)から禅譲を受け、さらに有夏(禹)に禅譲した。この三后(尭舜禹)は天に祭られ、聖徳を行き渡らせた。これより以後、天は大いなる命令を漢帝国にも下した。(漢の)火徳が衰えると、天命をわが高祖(曹丕)に施した。業績を虞夏(舜と禹)と比較すれば、(魏帝の)四代の事績は、匹敵するものがない。晋王の祖父と父は、聡明さを抱き、わが皇室を補佐し、勲功と徳が四海を輝かせた。司馬氏の威光は上下に至り、従わないものがなく、地は平定され天は調和し、万国が服従した。上帝の命令に応じて、帝位に即くべきである。そこで予一人、天の期運を受け、慎んで位を授けよう。まことに暦数はきみの身にある、中正の道を守れ、天の恵みは永遠に続くであろう。ああ晋王は畏まって天命に従うように。経典に準拠し、四方の国を安定させ、天の祝福を維持し、祖父と父の功績を裏切ってはならない」と言った。武帝ははじめは辞退したが、魏朝の公卿の何曾と王沈らが強く要請したため、受け入れた。
十一月、初めて四護軍を置き、城外の諸軍を統率させた。乙未、諸郡の中正に通達して以下の六条に基づいて(賢者でありながら)下位に留まっている人材を挙げさせた。一に忠恪匪躬(つつしみ深くてわが身を顧みない)、二に孝敬尽礼(親や上官に仕えて礼を尽くす)、三に友于兄弟(兄弟を敬愛している)、四に潔身労謙(清廉であり大功があっても謙虚である)、五に信義可復(信義に報いることができる)、六に學以為己(自らのために学問をする)を要件とした。

原文

泰始元年冬十二月丙寅、設壇于南郊、百僚在位及匈奴南單于四夷會者數萬人、柴燎告類于上帝曰、「皇帝臣炎敢用玄牡明告于皇皇后帝、魏帝稽協皇運、紹天明命以命炎。昔者唐堯、熙隆大道、禪位虞舜、舜又以禪禹、邁德垂訓、多歷年載。暨漢德既衰、太祖武皇帝撥亂濟時、扶翼劉氏、又用受命于漢。粵在魏室、仍世多故、幾於顛墜、實賴有晉匡拯之德、用獲保厥肆祀、弘濟于艱難、此則晉之有大造于魏也。誕惟四方、罔不祗順、廓清梁岷、包懷揚越、八紘同軌、祥瑞屢臻、天人協應、無思不服。肆予憲章三后、用集大命于茲。炎維德不嗣、辭不獲命。於是羣公卿士、百辟庶僚、黎獻陪隸、暨于百蠻君長、僉曰、『皇天鑒下、求人之瘼、既有成命、固非克讓所得距違。天序不可以無統、人神不可以曠主。』炎虔奉皇運、寅畏天威、敬簡元辰、升壇受禪、告類上帝、永答眾望」。禮畢、即洛陽宮幸太極前殿、詔曰、「昔朕皇祖宣王、聖哲欽明、誕應期運、熙帝之載、肇啟洪基。伯考景王、履道宣猷、緝熙諸夏。至于皇考文王、叡哲光遠、允協靈祇、應天順時、受茲明命。仁濟于宇宙、功格于上下。肆魏氏弘鑒于古訓、儀刑于唐虞、疇咨羣后、爰輯大命于朕身。予一人畏天之命、用不敢違。惟朕寡德、負荷洪烈、託于王公之上、以君臨四海、惴惴惟懼、罔知所濟。惟爾股肱爪牙之佐、文武不貳之臣、乃祖乃父、實左右我先王、光隆我大業。思與萬國、共享休祚」。於是大赦、改元。賜天下爵、人五級。鰥寡孤獨不能自存者穀、人五斛。復天下租賦及關市之稅一年、逋債宿負皆勿收。除舊嫌、解禁錮、亡官失爵者悉復之。
丁卯、遣太僕劉原告于太廟。封魏帝為陳留王、邑萬戶、居於鄴宮。魏氏諸王皆為縣侯。追尊宣王為宣皇帝、景王為景皇帝、文王為文皇帝、宣王妃張氏為宣穆皇后。尊太妃王氏曰皇太后、宮曰崇化。封皇叔祖父孚為安平王、皇叔父幹為平原王、亮為扶風王、伷為東莞王、駿為汝陰王、肜為梁王、倫為琅邪王、皇弟攸為齊王、鑒為樂安王、幾為燕王、皇從伯父望為義陽王、皇從叔父輔為渤海王、晃為下邳王、瓌為太原王、珪為高陽王、衡為常山王、子文為沛王、泰為隴西王、權為彭城王、綏為范陽王、遂為濟南王、遜為譙王、睦為中山王、陵為北海王、斌為陳王、皇從父兄洪為河間王、皇從父弟楙為東平王。以驃騎將軍石苞為大司馬、封樂陵公、車騎將軍陳騫為高平公、衞將軍賈充為車騎將軍・魯公、尚書令裴秀為鉅鹿公、侍中荀勖為濟北公、太保鄭沖為太傅・壽光公、太尉王祥為太保・睢陵公、丞相何曾為太尉・朗陵公、御史大夫王沈為驃騎將軍・博陵公、司空荀顗為臨淮公、鎮北大將軍衞瓘為菑陽公。其餘增封進爵各有差、文武普增位二等。改景初曆為太始曆、臘以酉、社以丑。戊辰、下詔大弘儉約、出御府珠玉玩好之物、頒賜王公以下各有差。置中軍將軍、以統宿衞七軍。
己巳、詔陳留王載天子旌旗、備五時副車、行魏正朔、郊祀天地、禮樂制度皆如魏舊、上書不稱臣。賜山陽公劉康・安樂公劉禪子弟一人為駙馬都尉。乙亥、以安平王孚為太宰・假黃鉞・大都督中外諸軍事。詔曰、「昔王淩謀廢齊王、而王竟不足以守位。鄧艾雖矜功失節、然束手受罪。今大赦其家、還使立後。興滅繼絕、約法省刑。除魏氏宗室禁錮。諸將吏遭三年喪者、遣寧終喪。百姓復其傜役。罷部曲將長吏以下質任。省郡國御調、禁樂府靡麗百戲之伎及雕文游畋之具。開直言之路、置諫官以掌之」。是月、鳳皇六・青龍三・白龍二・麒麟各一見于郡國。

訓読

泰始元年冬十二月丙寅、壇を南郊に設く。百僚の在位し及び匈奴南單于・四夷の會する者は數萬人なり。柴燎して上帝に告類して曰く、「皇帝たる臣炎、敢て玄牡を用て皇皇后帝に明告す。魏帝 皇運に稽協し、天の明命を紹ぎて以て炎に命ず。昔者 唐堯、大道を熙隆し、虞舜に禪位し、舜 又 以て禹に禪る。德を邁め訓を垂れ、多く年載を歷たり。漢德 既に衰ふるに暨び、太祖武皇帝 亂を撥め時を濟ひ、劉氏を扶翼し、又 用て命を漢より受く。粵(ああ)魏室在るも、世を仍(かさ)ねて故多く、顛墜に幾(ちか)きも、實に有晉の匡拯の德に賴りて、用て厥の肆祀を獲保し、艱難を弘濟す。此れ則ち晉の魏に大造有るなり。誕(まこと)に惟れ四方、祗順せざる罔く、梁岷を廓清し、揚越を包懷す。八紘 軌を同じくし、祥瑞 屢々臻る。天人 協應して、服さざるを思ふ無し。肆(いま)予 三后に憲章して、用て大命を茲に集む。炎 維德 嗣がず、辭じて命を獲ず。是に於て羣公・卿士、百辟・庶僚、黎獻・陪隸より、百蠻の君長に暨ぶまで、僉曰ふ、『皇天 下を鑒て、人の瘼を求む、既に成命有れば、固より克讓して距違を得る所に非ず。天序は以て統無かる可からず、人神は以て主を曠しくす可からず』と。炎 皇運を虔奉し、天威を寅畏す。敬みて元辰を簡び、壇に升り禪を受け、上帝に告類して、永く眾望に答へん」と〔一〕。禮 畢はり、洛陽宮に即き太極前殿に幸き、詔して曰く、「昔 朕が皇祖の宣王、聖哲欽明にして、誕ひに期運に應じ、帝の載(こと)を熙(ひろ)めて、肇めて洪基を啟く。伯考の景王、道を履み猷を宣し、諸夏を緝熙す。皇考文王に至り、叡哲光遠にして、允に靈祇に協ひ、天に應じ時に順ひ、茲の明命を受く。仁は宇宙に濟しく、功は上下に格し。肆(いま)魏氏 古訓を弘鑒し、唐虞に儀刑し、羣后に疇咨し、爰に大命を朕が身に輯む。予一人 天の命を畏れ、用て敢て違はず。惟ふに朕は寡德にして、洪烈を負荷し、王公の上に託り、以て四海に君臨し、惴惴として惟だ懼れ、濟ふ所を知る罔し。惟だ爾 股肱爪牙の佐、文武不貳の臣、乃祖乃父、實に我の先王に左右たれば、我が大業を光隆せよ。萬國と與に、共に休祚を享けんことを思ふ」。是に於て大赦し、改元す。天下に爵を賜ひ、人ごとに五級なり。鰥寡孤獨にして自存する能はざる者は穀、人ごとに五斛なり。天下の租賦及び關市の稅一年を復し、逋債宿負は皆 收むる勿し。舊嫌を除き、禁錮を解き、官を亡ひ爵を失ふ者は悉く之を復す。
丁卯、太僕の劉原を遣はして太廟に告げしむ。魏帝を封じて陳留王と為し、邑は萬戶、鄴宮に居らしむ。魏氏の諸王は皆 縣侯と為す。宣王に追尊して宣皇帝と為し、景王を景皇帝と為し、文王を文皇帝と為し、宣王妃張氏を宣穆皇后と為す。太妃王氏を尊びて皇太后と曰ひ、宮を崇化と曰ふ。皇叔祖父孚を封じて安平王と為し、皇叔父幹を平原王と為し、亮を扶風王と為し、伷を東莞王と為し、駿を汝陰王と為し、肜を梁王と為し、倫を琅邪王と為し、皇弟攸を齊王と為し、鑒を樂安王と為し、幾を燕王と為し、皇從伯父望を義陽王と為し、皇從叔父輔を渤海王と為し、晃を下邳王と為し、瓌を太原王と為し、珪を高陽王と為し、衡を常山王と為し、子文を沛王と為し、泰を隴西王と為し、權を彭城王と為し、綏を范陽王と為し、遂を濟南王と為し、遜を譙王と為し、睦を中山王と為し、陵を北海王と為し、斌を陳王と為し、皇從父兄洪を河間王と為し、皇從父弟楙を東平王と為す。驃騎將軍の石苞を以て大司馬と為し、樂陵公に封じ、車騎將軍の陳騫を高平公と為し、衞將軍の賈充を車騎將軍・魯公と為し、尚書令の裴秀を鉅鹿公と為し、侍中の荀勖を濟北公と為し、太保の鄭沖を太傅・壽光公と為し、太尉の王祥を太保・睢陵公と為し、丞相の何曾を太尉・朗陵公と為し、御史大夫の王沈を驃騎將軍・博陵公と為し、司空の荀顗を臨淮公と為し、鎮北大將軍の衞瓘を菑陽公と為す。其の餘 增封進爵は各々差有り、文武は普く位二等と增す。景初曆を改めて太始曆と為し、臘は酉を以てし、社は丑を以てす。戊辰、詔を下して大いに儉約を弘め、御府の珠玉玩好の物を出だし、王公より以下に頒賜して各々差有り。中軍將軍を置き、以て宿衞七軍を統べしむ。
己巳、陳留王に詔して天子の旌旗を載し、五時の副車を備へ、魏の正朔を行ひ、天地を郊祀し、禮樂制度は皆 魏の舊が如くし、上書するに臣と稱せずと。山陽公の劉康・安樂公の劉禪の子弟一人に賜ひて駙馬都尉と為す。乙亥、安平王孚を以て太宰・假黃鉞・大都督中外諸軍事と為す。詔して曰く、「昔 王淩 齊王を廢せんと謀り、而れども王は竟に以て位を守るに足らず。鄧艾 功を矜り節を失ふと雖も、然れども手を束ね罪を受く。今 其の家を大赦し、還りて後を立てしめよ。滅を興し絕を繼ぎ、法を約して刑を省け。魏氏の宗室の禁錮を除け。諸々の將吏 三年喪に遭ふ者は、寧に喪を終へしめよ。百姓 其の傜役を復せ。部曲將の長吏より以下は質任を罷めよ。郡國の御調を省き、樂府の靡麗なる百戲の伎及び雕文游畋の具を禁ず。直言の路を開き、諫官を置きて以て之を掌れ」と。是の月、鳳皇六・青龍三・白龍二・麒麟 各々一 郡國に見る。

〔一〕告類の文の訓読は、渡邉義浩「西晋「儒教国家」の形成」(『西晋「儒教国家」と貴族制』汲古書院、二〇一〇年)による。

現代語訳

泰始元年冬十二月丙寅、壇を南郊に建設した。百僚の在位するものと匈奴南単于と四夷の(儀式に)集まったものは数万人であった。柴を焼いて上帝に告類して、「皇帝である臣(司馬)炎が、あえて玄牡を献上して皇皇后帝に報告します。魏帝は天の意向に応えて、天の明らかな命令を受けて私に(受禅を)命じました。むかし唐尭は、大いなる道を興隆させ、虞舜に禅譲し、舜もまた禹に禅譲しました。(古代の帝王が)徳に務めて教えを垂れてから、多くの年数が経過しました。漢帝国の徳が衰えると、太祖武皇帝(曹操)が乱を平定し時を救い、劉氏を補佐したので、同様に漢から禅譲の命を受けました。ところが魏帝国は、世代を重ねて失敗が多く、失墜も同然のところを、晋国の補佐に頼り、国家の祭祀を存続させ、滅亡から救われました。これが晋国の魏国に対する功績です。まことに天下四方は、晋国に恭順しないものがなく、梁岷(蜀地)を平定し、揚越(呉地)を懐柔しました。八紘が軌を同じくし、祥瑞がしばしば至りました。天と人が協調し、感服しないものがいません。いま私は三后(尭舜禹)に則って、大いなる命令を受けました。炎(わたくし)はすぐれた徳を嗣がず、辞退しました。ここにおいて羣公と卿士、百官と属僚、民の賢者や奴隷から、百蛮の君長に及ぶまで、みな、『皇天が地上を見て、人への施しを求めた。確固たる天命があるのだから、辞退して回避することはできない。帝位は空席であってなはらず、人も神も君主が不在ではいられない』と言いました。炎は大いなる命運を奉り、天の威光に畏怖しています。つつしんで吉日を選び、壇に登って禅譲を受け、上帝に告類して、永遠に万民からの期待に応えたいと思います」と言った。儀礼が終わり、洛陽宮の太極前殿に行幸し、詔して、「むかしわが祖父の宣王(司馬懿)は、知恵があって慎み深く、おおいに期運に応え、帝王の事業を広め、晋国の基盤を創設した。伯父の景王(司馬師)は、道義をおこない計略を駆使し、中原を繁栄させた。わが父の文王(司馬昭)に至り、叡智が遠くを照らし、まことに神秘的な力を受け、天の時に協調し、この輝かしい天命を受けた。仁は天下に宇宙にひとしく、功は上下にひとしく届いた。いま魏帝国は古代の教訓を参考にして、唐虞(尭舜)の前例を踏襲し、諸侯から人材を求め、ここに大いなる天命をわが身に帰属させた。予一人(わたし)は天命を畏れ、敢えて逆らうことはない。しかし朕は徳が少なく、帝業を担い、王公の上に身をおき、天下に君臨したが、びくびくと懼れ、なすすべを知らない。きみたち股肱や爪牙の補佐、文武の無二の臣は、きみたちの祖父や父が、わが司馬氏を助けてきたのだから、(父らと同様に)わが大業を盛り立ててほしい。万国とともに、天の祝福を受けよう」と言った。ここにおいて大赦し、(泰始と)改元した。天下に爵を賜わり、人ごとに五等級であった。配偶者や親や子がおらず自活できないものには穀物を、人ごとに五斛ずつ賜った。天下の租賦と関所や市場の税を一年間の免除とし、未納分の税や負債は回収しなかった。悪弊を除き、禁錮を解き、官位や爵位を失っているものはすべて回復させた。
丁卯、太僕の劉原を遣わして太廟に(革命を)報告させた。魏帝を陳留王に封建し、食邑は万戸とし、鄴宮に住まわせた。魏氏の諸王はすべて県侯とした。宣王に追尊して宣皇帝とし、景王を景皇帝とし、文王を文皇帝とし、宣王妃の張氏を宣穆皇后とした。太妃王氏を尊んで皇太后とし、宮を崇化とした。武帝の叔祖父の司馬孚を安平王に封建し、同じく叔父の司馬幹を平原王とし、司馬亮を扶風王とし、司馬伷を東莞王とし、司馬駿を汝陰王とし、司馬肜を梁王とし、司馬倫を琅邪王とし、武帝の弟の司馬攸を斉王と為し、司馬鑒を楽安王とし、司馬幾(司馬機)を燕王とし、武帝の従伯父の司馬望を義陽王とし、同じく従叔父の司馬輔を渤海王とし、司馬晃を下邳王とし、司馬瓌を太原王とし、司馬珪を高陽王とし、司馬衡を常山王とし、司馬子文を沛王とし、司馬泰を隴西王とし、司馬権を彭城王とし、司馬綏を范陽王とし、司馬遂を済南王とし、司馬遜を譙王とし、司馬睦を中山王とし、司馬陵を北海王とし、司馬斌を陳王とし、武帝の従父兄の司馬洪を河間王とし、同じく従父弟の司馬楙を東平王とした。驃騎將軍の石苞を大司馬とし、楽陵公に封建し、車騎将軍の陳騫を高平公とし、衛将軍の賈充を車騎将軍・魯公とし、尚書令の裴秀を鉅鹿公とし、侍中の荀勖を済北公とし、太保の鄭沖を太傅・寿光公とし、太尉の王祥を太保・睢陵公とし、丞相の何曾を太尉・朗陵公とし、御史大夫の王沈を驃騎将軍・博陵公とし、司空の荀顗を臨淮公とし、鎮北大将軍の衛瓘を菑陽公とした。それ以下も封戸と爵位を上げてそれぞれ差等があり、文武の官はすべて位二等と増した。景初暦を改めて太始暦とし、臘は酉に、社は丑に行うこととした。戊辰、詔を下して大いに倹約を広め、宮廷所蔵の珠玉や珍宝を放出し、王公より以下に配布して差等があった。中軍将軍を設置し、宿衛の七軍を統率させた。
己巳、陳留王に詔して天子の旌旗を掲げ、五時の副車を備え、魏の正朔を行い、天地を郊祀するものとし、礼楽制度はすべて魏代から変更せず、上書では臣と自称しないものとした。山陽公の劉康と安楽公の劉禅の子弟一人ずつに駙馬都尉を賜った。乙亥、安平王孚(司馬孚)を太宰・仮黄鉞・大都督中外諸軍事とした。詔して、「むかし王淩は斉王(曹芳)を廃位しようと計画したが、斉王は帝位を守る資格がなかった(不孝を理由に司馬氏に廃位された)。鄧艾は功績を誇って節義を失ったが、拘束され罰せられた(十分に罪を償った)。いまその家族を大赦し、爵位を返還して後嗣を立てるように。滅亡し断絶した家を復興して継承させ、法を簡約にして刑罰を省け。魏氏の宗室の禁錮を除くように。諸々の将吏で三年喪に遭った(親を失った)者は、ねんごろに服喪を完遂させよ。万民の徭役を軽減せよ。部曲将の長吏より以下は質任(人質)を取らない。郡国からの納付物を減らし、楽府の華美な曲芸と彫刻や田猟の付帯品を禁止する。直言の道を開き、諫官を設置して管轄させるように」と言った。この月、鳳皇六・青龍三・白龍二・麒麟一体ずつが郡国に現れた。

原文

二年春正月丙戌、遣兼侍中侯史光等持節四方、循省風俗、除禳祝之不在祀典者。丁亥、有司請建七廟、帝重其役、不許。庚寅、罷雞鳴歌。辛丑、尊景皇帝夫人羊氏曰景皇后、宮曰弘訓。丙午、立皇后楊氏。
二月、除漢宗室禁錮。己未、常山王衡薨。詔曰、「五等之封、皆錄舊勳。本為縣侯者傳封次子為亭侯、1.為鄉侯為關內侯、亭侯為關中侯、皆食本戶十分之一」。丁丑、郊祀宣皇帝以配天、宗祀文皇帝於明堂以配上帝。庚午、詔曰、「古者百官、官箴王闕。然保氏特以諫諍為職、今之侍中・常侍實處此位。擇其能正色弼違匡救不逮者、以兼此選」。三月戊戌、吳人來弔祭、有司奏為答詔。帝曰、「昔漢文・光武懷撫尉他・公孫述、皆未正君臣之儀、所以羈縻未賓也。晧遣使之始、未知國慶、但以書答之」。 夏五月戊辰、詔曰、「陳留王操尚謙沖、每事輒表、非所以優崇之也。主者喻意、非大事皆使王官表上之」。壬子、驃騎將軍博陵公王沈卒。六月壬申、濟南王遂薨。
秋七月辛巳、營太廟、致荊山之木、采華山之石。鑄銅柱十二、塗以黃金、鏤以百物、綴以明珠。戊戌、譙王遜薨。丙午晦、日有蝕之。八月丙辰、省右將軍官。
初、帝雖從漢魏之制、既葬除服、而深衣素冠、降席撤膳、哀敬如喪者。戊辰、有司奏改服進膳、不許、遂禮終而後復吉。及太后之喪、亦如之。九月乙未、散騎常侍皇甫陶・傅玄領諫官、上書諫諍、有司奏請寢之。詔曰、「凡關言人主、人臣所至難、而苦不能聽納、自古忠臣直士之所慷慨也。每陳事出付主者、多從深刻、乃云恩貸當由主上、是何言乎。其詳評議」。戊戌、有司奏、「大晉繼三皇之蹤、蹈舜禹之跡、應天順時、受禪有魏、宜一用前代正朔服色、皆如虞遵唐故事」。奏可。
冬十月丙午朔、日有蝕之。丁未、詔曰、「昔舜葬蒼梧、農不易畝。禹葬成紀、市不改肆。上惟祖考清簡之旨、所徙陵十里內居人、動為煩擾、一切停之」。十一月己卯、倭人來獻方物。并圜丘・方丘於南・北郊、二至之祀合於二郊。罷山陽公國督軍、除其禁制。己丑、追尊景帝夫人夏侯氏為景懷皇后。辛卯、遷祖禰神主于太廟。十二月、罷農官為郡縣。是歲、鳳皇六・青龍十・黃龍九・麒麟各一見于郡國。

1.校勘記に従い、「為」一字を削る。

訓読

二年春正月丙戌、兼侍中侯史光らをして持節し四方に遣はし、風俗を循省し、禳祝の祀典に在らざる者を除かしむ。丁亥、有司 七廟を建てんことを請ふも、帝 其の役を重しとし、許さず。庚寅、雞鳴歌を罷む。辛丑、景皇帝夫人の羊氏を尊びて景皇后と曰ひ、宮を弘訓と曰ふ。丙午、皇后楊氏を立つ。
二月、漢の宗室の禁錮を除く。己未、常山王衡 薨ず。詔して曰く、「五等の封は、皆 舊勳を錄すなり。本は縣侯為る者は封を傳へて次子もて亭侯と為し、鄉侯は關內侯と為し、亭侯は關中侯と為し、皆 本戶の十分の一を食め」と。丁丑、宣皇帝を郊祀して以て天に配し、文皇帝を明堂に宗祀して以て上帝に配す。庚午、詔して曰く、「古者は百官、官ごとに王の闕を箴む。然して保氏 特に諫諍を以て職と為し、今の侍中・常侍 實に此の位に處る。其の能く色を正し違を弼け逮ばざるを匡救する者を擇び、以て此の選を兼ねしめよ」と。三月戊戌、吳人 來たりて弔祭し、有司 答詔を為らんことを奏す。帝曰く、「昔漢文・光武 尉他・公孫述を懷撫するも、皆 未だ君臣の儀を正さざるは、羈縻して未だ賓せざる所以なり。晧の使を遣はすの始は、未だ國慶を知らず、但だ書を以て之に答へよ」。
夏五月戊辰、詔して曰く、「陳留王は操尚にして謙沖、事ごとに輒ち表せしむるは、之を優崇する所以に非ざるなり。主者は意を喻し、大事に非ざれば皆 王官をして之を表上せしめよ」と。壬子、驃騎將軍博陵公の王沈 卒す。六月壬申、濟南王遂 薨ず。
秋七月辛巳、太廟を營むに、荊山の木を致し、華山の石を采る。銅柱十二を鑄し、塗るに黃金を以てし、鏤するに百物を以てし、綴るに明珠を以てす。戊戌、譙王遜 薨ず。丙午晦、日の之を蝕する有り。八月丙辰、右將軍の官を省く。
初め、帝 漢魏の制に從ふと雖も、既に葬りて除服なるも、而れども深衣して素冠し、席を降し膳を撤し、哀敬 喪者が如し。戊辰、有司 服を改め膳を進むるを奏すも、許さず、遂に禮 終はりて後に吉に復す。太后の喪に及び、亦た之の如し。九月乙未、散騎常侍の皇甫陶・傅玄 諫官を領し、上書して諫諍し、有司 奏して之を寢むるを請ふ。詔して曰く、「凡そ人主に關言するは、人臣の至難とする所なり。而も聽納する能はざるに苦しむは、古より忠臣直士の慷慨する所なり。事を陳ぶる每に出でて主者に付するは、多く深刻に從り、乃ち恩貸は當に主上に由るべしと云ふは、是れ何の言なるか。其れ詳らかに評議せよ」と。戊戌、有司 奏すらく、「大晉 三皇の蹤を繼ぎ、舜禹の跡を蹈み、天に應じ時に順ひ、禪を有魏に受く。宜しく一に前代の正朔服色を用ひ、皆 虞の唐に遵ふ故事が如くせよ」と。奏 可とせらる。
冬十月丙午朔、日の之を蝕する有り。丁未、詔して曰く、「昔 舜は蒼梧に葬り、農は畝を易へず。禹は成紀に葬り、市は肆を改めず。上は祖考の清簡の旨を惟ふに、陵を徙す所の十里內の居人は、動かしむれば煩擾と為らん、一切に之を停めよ」と。十一月己卯、倭人 方物を來獻す。圜丘・方丘を南・北郊に并せ、二至の祀 二郊に合す。山陽公國の督軍を罷め、其の禁制を除く。己丑、景帝夫人夏侯氏を追尊して景懷皇后と為す。辛卯、祖禰の神主を太廟に遷す。十二月、農官を罷めて郡縣と為す。是の歲、鳳皇六・青龍十・黃龍九・麒麟 各々一 郡國に見る。

現代語訳

泰始二年春正月丙戌、兼侍中の侯史光らに持節して四方に派遣し、巡って風俗を視察し、祭祀のうち儒家経典にないものを中止させた。丁亥、担当官が七廟の建立を要請したが、武帝は工事の労役が重くなるとし、許さなかった。庚寅、鶏鳴歌を廃止した。辛丑、景皇帝夫人の羊氏を尊んで景皇后とし、宮を弘訓とした。丙午、皇后楊氏を立てた。
二月、漢の宗室の禁錮を除いた。己未、常山王衡(司馬衡)が薨じた。詔して、「五等の爵制は、みな旧来の(建国の)勲功に基づくものだ。当人が県侯であれば封爵を次子に及ぼして亭侯とし、当人が郷侯ならば(次子を)関内侯とし、当人が亭侯ならば(次子を)関中侯とし、みな本家の食邑の十分の一を受けさせよ」と言った。丁丑、宣皇帝を郊祀して天に配し、文皇帝を明堂に宗祀して上帝に配した。庚午、詔して、「むかし百官すべてが、官ごとに王の欠点を戒めた。なかでも保氏(『周礼』地官)がとくに諫争の役割を担ったが、今日の侍中と常侍がこの官位に対応する。正しい態度で誤りを指摘し(帝王が)及ばない点を補える人材を選び、侍中と常侍を(加官として)兼務させるように」と言った。三月戊戌、呉人が(文帝のために)弔問の使者をよこし、担当官が返答の詔を作るように上奏した。武帝は、「むかし漢の文帝と光武帝は(地方に割拠する)尉他や公孫述を懐柔したが、彼らが君臣の秩序を受け入れないことが、羈縻の(統御し牽制する)政策を取った理由である。孫晧が使者を出発した時点で、まだ国慶(魏晋革命)を知らなかった(晋への臣従を述べようがない)、ただ書によって返答せよ」と言った。
夏五月戊辰、詔して、「陳留王は節度があり謙虚であるが、事案があるごとに(陳留王自ら)上表させるのは、彼への敬意を欠いている。担当官は(陳留王の)意見を聞き、重大なことでなければ(配下の)王官に上表させるように」と言った。壬子、驃騎将軍・博陵公の王沈が亡くなった。六月壬申、済南王遂(司馬遂)が薨じた。
秋七月辛巳、太廟を造営するとき、荊山の木を伐採し、華山の石を採取した。十二の銅柱を鋳造し、黄金で塗って、さまざまな意匠を彫刻し、明珠で飾りつけた。戊戌、譙王遜(司馬遜)が薨じた。丙午晦、日蝕があった。八月丙辰、右将軍の官を廃止した。
これまで、武帝は漢魏の制を踏襲していたが、埋葬を終えて除服(喪服をぬぐ)時期になっても、深衣をつけて素冠をかぶり、席を降して膳を減らし、哀悼はまるで喪中のようであった。戊辰、担当官が喪服をぬいで食膳を戻すように上奏したが、武帝は許さず、葬礼が終わってはじめて通常に戻した。太后(実母)が亡くなると、同様にした。九月乙未、散騎常侍の皇甫陶と傅玄は諫官を兼務していたが、上書して諫止し、担当官も上奏して(漢魏の制を超えた服喪の)中止を求めた。詔して、「君主にものを申すのは、人臣にとって至難なことである。しかも聞き入れられない苦しみは、古代から忠臣直士が悲憤してきたことである。発言を担当官に託せば、ぞんざいに扱われ、(聞き届けられるか否かの)恩沢は君主次第だと言うのは、どういう事態であろう。つまびらかに議論するように」と言った。戊戌、担当官が上奏し、「大晋は三代の皇帝が継承し、舜禹の前例を受け、天の時に応じ、禅譲を魏国から受けました。もっぱら前代の正朔と服色を用い、すべて舜が尭に従った故事の通りとなさいませ」と言った。上奏は裁可された。
冬十月丙午朔、日蝕があった。丁未、詔して、「むかし舜は蒼梧に葬ったが、農地は(葬地確保のために)畝を変えることがなかった。禹は成紀に葬ったが、市場は棚を改めることがなかった。わが祖先のさっぱりとした簡素な方針も勘案すれば、陵墓を移す先の土地で十里以内の住民を、強制移住させれば煩雑となり騒がしい。移住を一切させないように」と言った。十一月己卯、倭人が名産品を献上した。圜丘と方丘を南北郊に統合し、二至の祀を二郊に統合した。山陽公国の督軍を廃止し、その禁制を除いた。己丑、景帝夫人の夏侯氏を追尊して景懐皇后とした。辛卯、祖先の神主を太廟に遷した。十二月、農官を廃止して郡県とした。この年、鳳皇六・青龍十・黄龍九・麒麟の一体ずつが郡国に現れた。

原文

三年春正月癸丑、白龍二見于弘農・澠池。丁卯、立皇子衷為皇太子。詔曰、「朕以不德、託于四海之上、兢兢祗畏、懼無以康濟㝢內、思與天下式明王度、正本清源、於置胤樹嫡、非所先務。又近世每建太子、寬宥施惠之事、間不獲已、順從王公卿士之議耳。方今世運垂平、將陳之以德義、示之以好惡、使百姓蠲多幸之慮、篤終始之行、曲惠小仁、故無取焉。咸使知聞」。三月戊寅、初令二千石得終三年喪。丁未、晝昏。罷武衞將軍官。以李憙為太子太傅。太山石崩。夏四月戊午、張掖太守焦勝上言、氐池縣大柳谷口有玄石一所、白畫成文、實大晉之休祥、圖之以獻。詔以制幣告于太廟、藏之天府。
秋八月、罷都護將軍、以其五署還光祿勳。九月甲申、詔曰、「古者以德詔爵、以庸制祿、雖下士猶食上農、外足以奉公忘私、內足以養親施惠。今在位者祿不代耕、非所以崇化之本也。其議增吏俸」。賜王公以下帛各有差。以太尉何曾為太保、義陽王望為太尉、司空荀顗為司徒。冬十月、聽士卒遭父母喪者、非在疆埸、皆得奔赴。十二月、徙宗聖侯孔震為奉聖亭侯。山陽公劉康來朝。禁星氣讖緯之學。

訓読

三年春正月癸丑、白龍二 弘農・澠池に見る。丁卯、皇子衷を立てて皇太子と為す。詔して曰く、「朕 不德を以て、四海の上に託り、兢兢として祗に畏れ、以て㝢內を康濟する無きを懼れ、天下と與に式て王度を明らかにし、本を正し源を清くせんと思ひ、胤を置き嫡を樹つるに於ては、先務とする所に非ず。又 近世は太子を建てる每に、寬宥施惠せし事は、間に已むを獲ず、王公卿士の議に順從するのみ。方今 世運は平に垂とせば、將に之を陳ぶるに德義を以てし、之を示すに好惡を以てし、百姓をして多幸の慮を蠲き、終始の行を篤くせんとす。曲惠小仁は、故に焉を取る無し。咸 知聞せしめよ」と。三月戊寅、初めて二千石をして三年喪を終ふるを得しむ。丁未、晝に昏し。武衞將軍の官を罷む。李憙を以て太子太傅と為す。太山の石 崩る。夏四月戊午、張掖太守の焦勝 上言すらく、氐池縣の大柳谷口に玄石一所有り、白く畫ありて文を成し、實に大晉の休祥にして、之を圖して以て獻ずと。詔して制幣を以て太廟に告げ、之を天府に藏す。
秋八月、都護將軍を罷め、其の五署を以て光祿勳に還す。九月甲申、詔して曰く、「古者は德を以て爵を詔し、庸を以て祿を制め、下士は猶ほ上農を食むと雖も、外は以て公を奉じ私を忘るるに足り、內は以て親を養ひ惠を施すに足る。今 位に在る者 祿の耕に代はらざるは、崇化の本なる所以に非ざるなり。其れ吏の俸を增すことを議せよ」。王公より以下に帛を賜まりて各々差有り。太尉の何曾を以て太保と為し、義陽王望もて太尉と為し、司空の荀顗もて司徒と為す。冬十月、士卒の父母の喪に遭ふ者にして、疆埸に在る非ざれば、皆 奔赴するを得るを聽す。十二月、宗聖侯の孔震を徙して奉聖亭侯と為す。山陽公の劉康 來朝す。星氣讖緯の學を禁ず。

現代語訳

泰始三年春正月癸丑、二体の白龍が弘農と澠池に現れた。丁卯、皇子衷(司馬衷)を皇太子に立てた。詔して、「朕は不徳の身で、四海の上におり、戦々恐々として、天下を安寧にできないことを懼れ、天下(の諸侯と)王法を明らかにし、本源を正し清めようとし、後継者を置いて血統を整えることは、優先順位を下げてきた。また近年は太子を立てるごとに、寛治に傾けて賜与を濫発してきたが、さしたる方針もなく、王公卿士の議論に従うだけであった。今日では天下が安定に向かっているため、徳義を広げ、好悪の区別を示し、万民にばらまきを期待させず、前後一貫した行いを奨励したい。小手先の恵みを、施すべきではない。みなにこれを認識させよ」といった。三月戊寅、はじめて二千石に三年喪をやり遂げることを許した。丁未、昼に暗くなった。武衛将軍の官を廃止した。李憙を太子太傅とした。太山の石が崩れた。夏四月戊午、張掖太守の焦勝が上言し、氐池県の大柳谷口に玄石(黒い石)がひとつあり、白いもようが文字となり、まことに大晋帝国のめでたい兆しなので、これを写し取って献上しますと言った。詔して制幣をささげて(文字を)太廟に告げ、これを天府に収蔵した。
秋八月、都護将軍を廃止し、その五署を光禄勲の管轄に還した。九月甲申、詔して、「古代は徳によって爵を賜り、功績によって俸禄を定めたが、下士は(爵位が下の)上農夫と同じ収入でも、外は(職責として)公を奉じ私を忘れることができ、内は(収入を用い)親を養って恵みを施すことができた。(ところが)いま官位にいるが俸禄が(低すぎて)自ら生業を営んだ場合の収入に及ばず、これは教化の本来のすがたではない。吏の俸禄を増やすことについて議論せよ」と言った。王公より以下に帛を賜わって差等があった。太尉の何曾を太保とし、義陽王望(司馬望)を太尉とし、司空の荀顗を司徒とした。冬十月、士卒のうち父母が亡くなった者は、国境の任務に就いていなければ、(葬儀のため)持ち場を離れることを許した。十二月、宗聖侯の孔震を奉聖亭侯に移した。山陽公の劉康が来朝した。星気讖緯の学を禁じた。

原文

四年春正月辛未、以尚書令裴秀為司空。丙戌、律令成、封爵賜帛各有差。有星孛于軫。丁亥、帝耕於藉田。戊子、詔曰、「古設象刑而眾不犯、今雖參夷而姦不絕、何德刑相去之遠哉。先帝深愍黎元、哀矜庶獄、乃命羣后、考正典刑。朕守遺業、永惟保乂皇基、思與萬國以無為為政。方今陽春養物、東作始興、朕親率王公卿士耕藉田千畝。又律令既就、班之天下、將以簡法務本、惠育海內。宜寬有罪、使得自新、其大赦天下。長吏・郡丞・長史各賜馬一匹」。
二月庚子、增置山陽公國相・郎中令・陵令・雜工宰人・鼓吹車馬各有差。罷中軍將軍、置北軍中候官。甲寅、以東海劉儉有至行、拜為郎。以中軍將軍羊祜為尚書左僕射、東莞王伷為尚書右僕射。三月戊子、皇太后王氏崩。
夏四月戊戌、太保・睢陵公王祥薨。己亥、祔葬文明皇后王氏於崇陽陵。罷振威・揚威護軍官、置左右積弩將軍。六月甲申朔、詔曰、「郡國守相、三載一巡行屬縣、必以春、此古者所以述職宣風展義也。見長吏、觀風俗、協禮律、考度量、存問耆老、親見百年。錄囚徒、理寃枉、詳察政刑得失、知百姓所患苦。無有遠近、便若朕親臨之。敦喻五教、勸務農功、勉勵學者、思勤正典、無為百家庸末、致遠必泥。士庶有好學篤道、孝弟忠信、清白異行者、舉而進之。有不孝敬於父母、不長悌於族黨、悖禮棄常、不率法令者、糾而罪之。田疇闢、生業修、禮教設、禁令行、則長吏之能也。人窮匱、農事荒、姦盜起、刑獄煩、下陵上替、禮義不興、斯長吏之否也。若長吏在官公廉、慮不及私、正色直節、不飾名譽者、及身行貪穢、諂黷求容、公節不立、而私門日富者、並謹察之。揚清激濁、舉善彈違、此朕所以垂拱總綱、責成於良二千石也。於戲戒哉」。
秋七月、太山石崩、眾星西流。戊午、遣使者侯史光循行天下。己卯、謁崇陽陵。九月、青・徐・兗・豫四州大水、伊洛溢、合於河、開倉以振之。詔曰、「雖詔有所欲、及奏得可而於事不便者、皆不可隱情」。
冬十月、吳將施績入江夏、萬郁寇襄陽。遣太尉義陽王望屯龍陂。荊州刺史胡烈擊敗郁。吳將顧容寇鬱林、太守毛炅大破之、斬其交州刺史劉俊・將軍修則。十一月、吳將丁奉等出芍陂、安東將軍汝陰王駿與義陽王望擊走之。己未、詔王公卿尹及郡國守相、舉賢良方正直言之士。十二月、班五條詔書於郡國、一曰正身、二曰勤百姓、三曰撫孤寡、四曰敦本息末、五曰去人事。庚寅、帝臨聽訟觀、錄廷尉洛陽獄囚、親平決焉。扶南・林邑各遣使來獻。

訓読

四年春正月辛未、尚書令の裴秀を以て司空と為す。丙戌、律令 成り、爵に封じ帛を賜ふこと各々差有り。星孛 軫に有り。丁亥、帝 藉田を耕す。戊子、詔して曰く、「古は象刑を設けて眾 犯さず。今 參夷すと雖も而れども姦 絕えず。何ぞ德刑 相 之を去ること遠きか。先帝 深く黎元を愍み、庶獄を哀矜し、乃ち羣后に命じて、典刑を考正す。朕 遺業を守り、永く皇基を保乂せんと惟ひ、萬國と與に無為を以て為政せんことを思ふ。方今 陽春 物を養ひて、東作 始めて興る。朕 親ら王公卿士を率ゐて藉田千畝を耕さん。又 律令 既に就り、之を天下に班し、將に簡法を以て本と務し、海內を惠育せん。宜しく有罪を寬にし、自新するを得しむべし。其れ天下を大赦せよ。長吏・郡丞・長史は各々馬一匹を賜へ」と。
二月庚子、山陽公國の相・郎中令・陵令・雜工宰人・鼓吹車馬を增置して各々差有り。中軍將軍を罷め、北軍中候の官を置く。甲寅、東海の劉儉 至行有るを以て、拜して郎と為す。中軍將軍の羊祜を以て尚書左僕射と為し、東莞王伷もて尚書右僕射と為す。三月戊子、皇太后の王氏 崩ず。
夏四月戊戌、太保・睢陵公の王祥 薨ず。己亥、文明皇后王氏を崇陽陵に祔葬す。振威・揚威護軍の官を罷め、左右積弩將軍を置く。六月甲申朔、詔して曰く、「郡國の守相は、三載ごとに一たび屬縣を巡行するは、必ず春を以てす。此れ古者に職を述べ風を宣し義を展ぶる所以なり。長吏を見(まみ)えしめ、風俗を觀み、禮律を協へ、度量を考し、耆老を存問し、親ら百年に見え、囚徒を錄し、寃枉を理め、政刑の得失を詳察し、百姓の患苦する所を知れ。遠近有る無く、便ち朕が親ら之に臨むが若くせよ。敦く五教を喻し、農功を勸務し、學者を勉勵し、正典を思勤せば、百家 庸末と為りて、遠くに致るに必ず泥むを無からしむ。士庶 好學篤道、孝弟忠信、清白異行有る者は、舉げて之を進めよ。父母に孝敬ならず、族黨に長悌ならず、禮を悖て常を棄て、法令に率はざる者有らば、糾して之を罪せよ。田疇 闢け、生業 修め、禮教 設け、禁令 行はるるは、則ち長吏の能なり。人 窮匱し、農事 荒み、姦盜 起り、刑獄 煩たりて、下は陵ぎ上は替し、禮義 興らざるは、斯れ長吏の否なり。若し長吏 官に在りて公廉たりて、慮は私に及ばず、正色直節たりて、名譽を飾らざる者は、及び身ら貪穢を行ひ、諂黷として容れんことを求め、公節 立たず、而して私門 日々富める者は、並びに謹みて之を察せよ。清を揚げ濁を激し、善を舉げ違へるを彈す。此れ朕の垂拱して綱を總べ、成を良二千石に責る所以なり。於戲 戒めんや」と。
秋七月、太山の石 崩れ、眾星 西して流る。戊午、使者の侯史光を遣はして天下に循行せしむ。己卯、崇陽陵に謁す。九月、青・徐・兗・豫の四州 大水あり、伊洛 溢れ、河に合し、開倉して以て之を振す。詔して曰く、「詔 欲する所有りと雖も、奏を及ぼし可を得て而れども事に於て便ならざる者は、皆 情を隱す可からず」と。
冬十月、吳將の施績 江夏に入り、萬郁 襄陽を寇す。太尉の義陽王望を遣はして龍陂に屯せしむ。荊州刺史の胡烈 擊ちて郁を敗る。吳將の顧容 鬱林を寇するや、太守の毛炅 大いに之を破り、其の交州刺史の劉俊・將軍の修則を斬る。十一月、吳將の丁奉ら芍陂に出で、安東將軍の汝陰王駿 義陽王望と與に擊ちて之を走らす。己未、王公卿尹及び郡國守相に詔し、賢良方正直言の士を舉げしむ。十二月、五條の詔書を郡國に班し、一に曰く身を正し、二に曰く百姓に勤め、三に曰く孤寡を撫し、四に曰く本を敦くし末を息め、五に曰く人事を去れと。庚寅、帝 聽訟觀に臨み、廷尉洛陽の獄囚を錄し、親ら焉を平決す。扶南・林邑 各々使を遣はして來獻す。

現代語訳

泰始四年春正月辛未、尚書令の裴秀を司空とした。丙戌、律令が完成し、(功績があったものに)爵位を上げて帛を賜わりそれぞれ差等があった。星孛が軫にあった。丁亥、武帝が藉田を耕した。戊子、詔して、「古代は象刑(刑罰を示す、あるいは衣服の区別で罪人を示す)だけで万民は罪を犯さなくなった。いまは三族の誅殺(という重い刑罰)を実行しているが犯罪がなくならない。徳と刑のありかたが(古代から)なんと遠いことか。先帝は深く万民をあわれみ、もろもろの獄訟をあわれみ、諸侯に命じて、刑法を正した。朕は遺業を守り、長く帝国の土台を保持したいと思い、万国とともに無為を基本方針としたいと考える。いま温暖な春の気候が万物を養い、耕作が始まったところだ。朕はみずから王公卿士をひきいて藉田の千畝を耕そう。また律令がすでに完成したので、天下に広く通知し、簡素な法運用を原則とし、海内に恵みを及ぼして育もう。罪人の刑罰を緩やかにし、改心を促そう。天下を大赦する。長吏・郡丞・長史には馬一匹ずつを賜るように」と言った。
二月庚子、山陽公国の相・郎中令・陵令・雑工宰人・鼓吹車馬を増員してそれぞれ差等があった。中軍将軍を廃止し、北軍中候の官を置いた。甲寅、東海の劉倹のは行動が優れているため、拝して郎とした。中軍将軍の羊祜を尚書左僕射とし、東莞王伷(司馬伷)を尚書右僕射とした。三月戊子、皇太后の王氏が崩じた。
夏四月戊戌、太保・睢陵公の王祥が薨じた。己亥、文明皇后王氏を崇陽陵に祔葬(合葬)した。振威・揚威護軍の官を廃止し、左右積弩将軍を設置した。六月甲申朔、詔して、「郡国の守相が、三年ごとに一回ずつ属県を巡回するのは、春に行うものである。これは古代より職務を報告し風教を広げ義を実現する方法であった。長吏に謁見させ、風俗を観察し、礼の秩序を整え、度量衡を正し、高齢で徳のあるものの安否をたずね、百歳をこえたものをいたわり、囚人を取り調べ、冤罪を防ぎ、政治と刑罰の得失を精査し、万民の労苦を知るように。遠近の区別なく、あたかも朕が直接臨んでいるかのように(皇帝の代理として)努めよ。五教を諭し、勧農を奨励し、学問を勉励し、儒家経典に取り組み、すべての人々が些事に捕らわれ、(学問の)達成を妨げられることがないようにせよ。士庶のうち学問を好み道を体現し、孝弟忠信で、清廉で行動に秀でたものは、推挙し昇進させるように。父母に孝敬でなく、宗族のなかで年長に尽くさず年少を愛さず、正しい礼を捨て、法令に従わないものは、糾弾し罰するように。農耕地が開かれ、生業を成り立たせ、礼教が行き渡り、禁令が実行されるか否かは、長吏の得点である。人々が窮乏し、農耕地が荒み、盗賊が発生し、刑罰が煩雑となり、下位者が上位者を脅かし、礼義が振興しないならば、これは長吏の失点である。もし長吏が公職にあって公正で廉直であり、私欲を優先せず、態度と節義を正し、名声を取り繕わないか、(それと反対に)あるいは自分で汚職を行い、讒言の耳打ちを求め、公正な節義が経たず、私党が日々に富んでいるものは、厳正に詳らかにするように。清と善なる者を称揚し、濁と違反者を弾劾する。そうすれば朕は安心して玉座で天下を統率できる、これが大きな役割を良二千石(守相)に求める理由である。さあ怠ってはならぬぞ」と。
秋七月、太山の石が崩れ、衆星が西に流れた。戊午、使者の侯史光を派遣して天下を巡行させた。己卯、(武帝が)崇陽陵に謁した。九月、青・徐・兗・豫の四州で洪水があり、伊水と洛水が溢れ、黄河に合流し、開倉して被災地に振給した。詔して、「詔で実行しようとしたことでも、(あるいは)上奏が許可されたことでも不適切だと思うならば、みな遠慮なく伝えるように」と言った。
冬十月、呉将の施績が江夏に入り、萬郁(万彧、萬彧)が襄陽を侵略した。太尉の義陽王望(司馬望)に龍陂に駐屯させた。荊州刺史の胡烈が攻撃し萬郁を破った。呉将の顧容が鬱林を侵略すると、太守の毛炅が大いにこれを破り、呉の交州刺史の劉俊と将軍の修則を斬った。十一月、呉将の丁奉らが芍陂に侵出し、安東将軍の汝陰王駿(司馬駿)は義陽王望(司馬望)とともに攻撃し敗走させた。己未、王公卿尹及び郡国の守相に詔し、賢良方正直言の士を推挙させた。十二月、五條の詔書を郡国に配布し、一に身を正し、二に民政に勤め、三に親や配偶者を失った者を保護し、四に根本を重んじ枝葉を止め、五に人事(賄賂か)を辞めよと。庚寅、武帝は聴訟観に望み、廷尉や洛陽の獄の囚人を取り調べ、自ら判決を下した。扶南と林邑がそれぞれ使者を送って来献した。

原文

五年春正月癸巳、申戒郡國計吏守相令長、務盡地利、禁游食商販。丙申、帝臨聽訟觀錄囚徒、多所原遣。青龍二見於滎陽。二月、以雍州隴右五郡及涼州之金城・梁州之1.(陽平)〔陰平〕置秦州。辛巳、白龍二見於趙國。青・徐・兗三州水、遣使振恤之。壬寅、以尚書左僕射羊祜都督荊州諸軍事、征東大將軍衞瓘都督青州諸軍事、東莞王伷鎮東大將軍・都督徐州諸軍事。丁亥、詔曰、「古者歲書羣吏之能否、三年而誅賞之。諸令史前後、但簡遣疎劣、而無有勸進、非黜陟之謂也。其條勤能有稱尤異者、歲以為常。吾將議其功勞」。己未、詔蜀相諸葛亮孫京隨才署吏。 夏四月、地震。五月辛卯朔、鳳皇見于趙國。曲赦交趾・九真・日南五歲刑。六月、鄴奚官督郭廙上疏陳五事以諫、言甚切直、擢為屯留令。西平人麴路伐登聞鼓、言多祅謗、有司奏棄市。帝曰、「朕之過也」。捨而不問。罷鎮軍將軍、復置左右將軍官。
秋七月、延羣公、詢讜言。九月、有星孛于紫宮。冬十月丙子、以汲郡太守王宏有政績、賜穀千斛。十一月、追封諡皇弟兆為城陽哀王、以皇子景度嗣。十二月、詔州郡舉勇猛秀異之才。

1.「陽平」を「陰平」に改める。

訓読

五年春正月癸巳、郡國の計吏守相令長に申戒し、地利を盡すに務め、游食商販を禁ぜしむ。丙申、帝 聽訟觀に臨みて囚徒を錄し、多く原遣する所なり。青龍二 滎陽に見る。二月、雍州の隴右五郡及び涼州の金城・梁州の陰平を以て秦州を置く。辛巳、白龍二 趙國に見る。青・徐・兗の三州 水あり、使を遣はして之を振恤せしむ。壬寅、尚書左僕射の羊祜を以て都督荊州諸軍事とし、征東大將軍の衞瓘もて都督青州諸軍事とし、東莞王伷もて鎮東大將軍・都督徐州諸軍事とす。丁亥、詔して曰く、「古者は歲ごとに羣吏の能否を書し、三年にして之を誅賞す。諸々の令史は前後に、但だ簡遣は疎劣にして、而れども勸進すること有る無ければ、黜陟の謂ひ非ざるなり。其れ勤能にして稱有り尤異なる者を條して、歲ごとに以て常と為せ。吾 將に其の功勞を議せん」と。己未、蜀相の諸葛亮の孫の京に詔して才に隨ひ吏に署せしむ。
夏四月、地 震ふ。五月辛卯朔、鳳皇 趙國に見る。交趾・九真・日南に五歲刑を曲赦す。六月、鄴奚官督の郭廙 上疏して五事を陳べて以て諫し、言は甚だ切直たれば、擢して屯留令と為す。西平の人の麴路 登聞鼓を伐ち、言は祅謗多ければ、有司 棄市せよと奏す。帝曰く、「朕の過なり」と。捨てて問はず。鎮軍將軍を罷め、復た左右將軍の官を置く。
秋七月、羣公を延き、讜言を詢す。九月、星孛 紫宮に有り。冬十月丙子、汲郡太守の王宏 政績有るを以て、穀千斛を賜ふ。十一月、皇弟の兆に追封諡して城陽哀王と為し、皇子景度を以て嗣がしむ。十二月、州郡に詔して勇猛秀異の才を舉げしむ。

現代語訳

泰始五年春正月癸巳、郡国の計吏と守相や令長をかさねて戒め、当地の生産物の有効活用に努め、徒食や交易による利益追求を禁じた。丙申、武帝は聴訟観で裁判に立ち会い、多くを許し釈放した。二体の青龍が滎陽に現れた。二月、雍州の隴右五郡及び涼州の金城と梁州の陰平を領域として秦州を設置した。辛巳、二体の白龍が趙国に現れた。青・徐・兗の三州で洪水があり、使者を派遣して賑恤させた。壬寅、尚書左僕射の羊祜を都督荊州諸軍事とし、征東大将軍の衛瓘を都督青州諸軍事とし、東莞王伷(司馬伷)を鎮東大将軍・都督徐州諸軍事とした。丁亥、「いにしえは一年ごとに官吏の能力の有無を記し、三年が経過すれば賞罰をした。ところが令史は今日において、ただ選抜と派遣をいい加減におこない、しかし(良い人材を)推薦し昇進させることがないため、黜陟(功績の有無による昇進と降格)をしているとは言えない。そこで勤務能力が高いと評判が高く格別に優れたものを列挙し、毎年これを報告するように。私がその功労を判定するであろう」と言った。己未、蜀相の諸葛亮の孫の諸葛京に詔して(もと蜀臣を)才能に随って吏に任命させた。
夏四月、地震があった。五月辛卯朔、鳳皇が趙国に現れた。交趾・九真・日南で五歳刑を曲赦した。六月、鄴奚官督の郭廙が上疏して五つの事項を述べて諫め、文がとても切実で率直であったので、屯留令に抜擢した。西平の人の麴路が(諫言を告げる)登聞鼓を打ち、不吉な批判を口にすることから、担当官は麴路を棄市とするように上奏した。武帝は、「(諫言が提出されたのは)わが過失である」と言って、上奏を退けた。鎮軍将軍を廃止し、左右将軍の官を再設置した。
秋七月、群公をまねき、直言を求めた。九月、星孛が紫宮にあった。冬十月丙子、汲郡太守の王宏が政治の実績があるため、穀千斛を賜わった。十一月、皇弟の司馬兆に封諡を贈って、城陽哀王とし、皇子景度(司馬景度)に(城陽王を)嗣がせた。十二月、州郡に詔して勇猛で優秀な才の人材を推挙させた。

原文

六年春正月丁亥朔、帝臨軒、不設樂。吳將丁奉入渦口、揚州刺史牽弘擊走之。三月、赦五歲刑已下。夏四月、白龍二見於東莞。五月、立壽安亭侯承為南宮王。六月戊午、秦州刺史胡烈擊叛虜於萬斛堆、力戰、死之。詔遣尚書石鑒行安西將軍・都督秦州諸軍事、與奮威護軍田章討之。
秋七月丁酉、復隴右五郡遇寇害者租賦、不能自存者廩貸之。乙巳、城陽王景度薨。詔曰、「自泰始以來、大事皆撰錄、祕書寫副。後有其事、輒宜綴集以為常」。丁未、以汝陰王駿為鎮西大將軍・都督雍涼二州諸軍事。九月、大宛獻汗血馬、焉耆來貢方物。
冬十一月、幸辟雍、行鄉飲酒之禮、賜太常博士・學生帛牛酒各有差。立皇子柬為汝南王。十二月、吳夏口督・前將軍孫秀帥眾來奔、拜驃騎將軍・開府儀同三司、封會稽公。戊辰、復置鎮軍官。

訓読

六年春正月丁亥朔、帝 軒に臨むも、樂を設けず。吳將の丁奉 渦口に入り、揚州刺史の牽弘 擊ちて之を走らす。三月、五歲刑より已下を赦す。夏四月、白龍二 東莞に見る。五月、壽安亭侯承を立てて南宮王と為す。六月戊午、秦州刺史の胡烈 叛虜を萬斛堆に擊ち、力戰するも、之に死す。詔して尚書の石鑒を遣はして安西將軍・都督秦州諸軍事を行し、奮威護軍の田章と與に之を討たしむ。
秋七月丁酉、隴右五郡の寇害に遇ふ者に租賦を復し、自存する能はざる者は之に廩貸す。乙巳、城陽王景度 薨ず。詔して曰く、「泰始より以來、大事は皆 撰錄し、祕書 副を寫す。後に其の事有らば、輒ち宜しく綴集して以て常と為せ」。丁未、汝陰王駿を以て鎮西大將軍・都督雍涼二州諸軍事と為す。九月、大宛 汗血馬を獻じ、焉耆 方物を來貢す。
冬十一月、辟雍に幸し、鄉飲酒の禮を行ひ、太常博士・學生に帛牛酒を賜はること各々差有り。皇子柬を立てて汝南王と為す。十二月、吳の夏口督・前將軍の孫秀 眾を帥ゐて來奔し、驃騎將軍・開府儀同三司を拜し、會稽公に封ず。戊辰、復た鎮軍の官を置く。

現代語訳

泰始六年春正月丁亥朔、武帝は軒に臨んだが、(新年の)楽器演奏をしなかった。呉将の丁奉が渦口に侵入し、揚州刺史の牽弘が攻撃してこれを敗走させた。三月、五歳刑より以下を赦した。夏四月、二体の白龍が東莞に現れた。五月、寿安亭侯承(司馬承)を南宮王に立てた。六月戊午、秦州刺史の胡烈が叛虜を萬斛堆に攻撃し、奮戦したが、戦死した。詔して尚書の石鑒を派遣して安西将軍・都督秦州諸軍事を代行し、奮威護軍の田章とともに叛虜を討伐させた。
秋七月丁酉、隴右五郡で侵攻被害にあったものは租賦を免除し、自活できないものには穀物を貸し付けた。乙巳、城陽王景度(司馬景度)が薨じた。詔して、「泰始年間より以来、重要事項はすべて記録し、秘書府が副本を写してきた。今後も重要事項があれば、整理し編纂して残すことを定常業務とせよ」と言った。丁未、汝陰王駿(司馬駿)を鎮西大将軍・都督雍涼二州諸軍事とした。九月、大宛が汗血馬を献上し、焉耆が名産品をもって朝貢した。
冬十一月、辟雍に行幸し、郷飲酒の礼(『礼記』郷飲酒義、『周礼』地官 郷大夫、『儀礼』郷飲酒礼を参照)を行い、太常博士・学生に帛と牛酒を賜わって差等があった。皇子柬(司馬柬)を汝南王に立てた。十二月、呉の夏口督・前将軍の孫秀が兵士を連れて来奔し、驃騎将軍・開府儀同三司を拝し、会稽公に封じた。戊辰、鎮軍将軍の官を再設置した。

原文

七年春正月丙午、皇太子冠、賜王公以下帛各有差。匈奴帥劉猛叛出塞。三月、孫晧帥眾趨壽陽、遣大司馬望屯淮北以距之。1.(三月)丙戌、司空・鉅鹿公裴秀薨。癸巳、以中護軍王業為尚書左僕射、高陽王珪為尚書右僕射。孫秀部將何崇帥眾五千人來降。
夏四月、九真太守董元為吳將虞氾所攻、軍敗、死之。北地胡寇金城、涼州刺史牽弘討之。羣虜內叛、圍弘於青山、弘軍敗、死之。五月、立皇子憲為城陽王。雍・涼・秦三州饑、赦其境內殊死以下。閏月、大雩、太官減膳。詔交趾三郡・南中諸郡、無出今年戶調。六月、詔公卿以下舉將帥各一人。辛丑、大司馬義陽王望薨。大雨霖、伊・洛・河溢、流居人四千餘家、殺三百餘人、有詔振貸給棺。
秋七月癸酉、以車騎將軍賈充為都督秦・涼二州諸軍事。吳將陶璜等圍交趾、太守楊稷與鬱林太守毛炅及日南等三郡降於吳。八月丙戌、以征東大將軍衞瓘為征北大將軍・都督幽州諸軍事。丙申、城陽王憲薨。分益州之南中四郡置寧州、曲赦四郡殊死已下。冬十月丁丑、日有蝕之。十一月丁巳、衞公姬署薨。十二月、大雪。罷中領軍、并北軍中候。以光祿大夫鄭袤為司空。

1.重複した「三月」を削る。

訓読

七年春正月丙午、皇太子 冠し、王公より以下に帛を賜ふこと各々差有り。匈奴の帥の劉猛 叛して塞を出づ。三月、孫晧 眾を帥ゐて壽陽に趨るや、大司馬望を遣はして淮北に屯して以て之を距がしむ。丙戌、司空・鉅鹿公の裴秀 薨ず。癸巳、中護軍の王業を以て尚書左僕射と為し、高陽王珪もて尚書右僕射と為す。孫秀の部將の何崇 眾五千人を帥ゐて來降す。
夏四月、九真太守の董元 吳將の虞氾の攻むる所と為り、軍 敗れ、之に死す。北地胡 金城を寇し、涼州刺史の牽弘 之を討つ。羣虜 內叛し、弘を青山に圍み、弘の軍 敗れ、之に死す。五月、皇子憲を立てて城陽王と為す。雍・涼・秦の三州 饑え、其の境內の殊死より以下を赦す。閏月、大雩し、太官 膳を減ず。交趾の三郡・南中の諸郡に詔し、今年の戶調を出づるを無からしむ。六月、公卿より以下に詔して將帥各々一人を舉げしむ。辛丑、大司馬の義陽王望 薨ず。大いに雨霖あり、伊・洛・河 溢れ、居人四千餘家を流し、三百餘人を殺せば、詔有りて振貸し棺を給ふ。
秋七月癸酉、車騎將軍の賈充を以て都督秦・涼二州諸軍事と為す。吳將の陶璜ら交趾を圍み、太守の楊稷 鬱林太守の毛炅及び日南ら三郡と與に吳に降る。八月丙戌、征東大將軍の衞瓘を以て征北大將軍・都督幽州諸軍事と為す。丙申、城陽王憲 薨ず。益州の南中四郡を分けて寧州を置き、四郡の殊死より已下を曲赦す。冬十月丁丑、日の之を蝕する有り。十一月丁巳、衞公姬署 薨ず。十二月、大いに雪ふる。中領軍を罷め、北軍中候に并す。光祿大夫の鄭袤を以て司空と為す。

現代語訳

泰始七年春正月丙午、皇太子が冠し(成人し)、王公より以下に帛を賜わりそれぞれ差等があった。匈奴の帥の劉猛が叛いて長城から出た。三月、孫晧が兵を率いて寿陽に急行すると、大司馬の司馬望に淮北に駐屯してこれを防がせた。丙戌、司空・鉅鹿公の裴秀が薨じた。癸巳、中護軍の王業を尚書左僕射とし、高陽王珪(司馬珪)を尚書右僕射とした。孫秀の部將の何崇が兵五千人を連れて来降した。
夏四月、九真太守の董元が呉将の虞氾に攻められ、軍が敗れ、戦死した。北地胡が金城を侵略し、涼州刺史の牽弘がこれを討伐した。胡族らが内部で離叛し、牽弘を青山で包囲し、牽弘の軍が破れ、戦死した。五月、皇子憲(司馬憲)を城陽王に立てた。雍・涼・秦の三州で飢饉があり、被災地域で殊死より以下を赦した。閏月、大いに雨乞いし、太官は食膳を減らした。交趾の三郡と南中の諸郡に詔し、今年の戸調を供出させなかった。六月、公卿より以下に詔して将帥を一人ずつ推挙させた。辛丑、大司馬の義陽王望(司馬望)が薨じた。強い長雨が降り、伊水と洛水と黄河が溢れ、四千家あまりの住居を流し、三百人あまりを死なせたので、詔して振給と貸付をして棺を支給した。
秋七月癸酉、車騎將軍の賈充を都督秦・涼二州諸軍事とした。呉将の陶璜らが交趾を包囲し、太守の楊稷は鬱林太守の毛炅及び日南ら三郡とともに呉軍に降伏した。八月丙戌、征東大将軍の衛瓘を征北大将軍・都督幽州諸軍事とした。丙申、城陽王憲(司馬憲)が薨じた。益州の南中四郡を分けて寧州を置き、四郡の殊死より以下を曲赦した。冬十月丁丑、日蝕があった。十一月丁巳、衛公の姫署が薨じた。十二月、大雪が降った。中領軍を廃止し、北軍中候に統合した。光禄大夫の鄭袤を司空とした。

原文

八年春正月、監軍何楨討匈奴劉猛、累破之、左部帥李恪殺猛而降。癸亥、帝耕于藉田。二月乙亥、禁彫文綺組非法之物。壬辰、太宰・安平王孚薨。詔內外羣官舉任邊郡者各三人。帝與右將軍皇甫陶論事、陶與帝爭言、散騎常侍鄭徽表請罪之。帝曰、「讜言謇諤、所望於左右也。人主常以阿媚為患、豈以爭臣為損哉。徽越職妄奏、豈朕之意」。遂免徽官。夏四月、置後將軍、以備四軍。六月、益州牙門張弘誣其刺史皇甫晏反、殺之、傳首京師。弘坐伏誅、夷三族。壬辰、大赦。丙申、詔復隴右四郡遇寇害者田租。
秋七月、以車騎將軍賈充為司空。九月、吳西陵督步闡來降、拜衞將軍・開府儀同三司、封宜都公。吳將陸抗攻闡、遣車騎將軍羊祜帥眾出江陵、荊州刺史楊肇迎闡於西陵、巴東監軍徐胤擊建平以救闡。冬十月辛未朔、日有蝕之。十二月、肇攻抗、不克而還。闡城陷、為抗所禽。

訓読

八年春正月、監軍の何楨 匈奴の劉猛を討ち、累りに之を破り、左部帥の李恪 猛を殺して降る。癸亥、帝 藉田を耕す。二月乙亥、彫文綺組なる非法の物を禁ず。壬辰、太宰・安平王孚 薨ず。內外の羣官に詔して邊郡に任する者 各々三人を舉げしむ。帝 右將軍の皇甫陶と與に事を論じ、陶 帝と言を爭ひ、散騎常侍の鄭徽 表して之を罪せんと請ふ。帝曰く、「讜言 謇諤たるは、左右に望む所なり。人主 常に阿媚を以て患と為す。豈に爭臣を以て損と為すや。徽は職を越え奏を妄にす。豈に朕の意ならんや」と。遂に徽の官を免ず。夏四月、後將軍を置き、以て四軍を備ふ。六月、益州牙門の張弘 其の刺史の皇甫晏 反すと誣し、之を殺し、首を京師に傳ふ。弘 坐して誅に伏し、夷三族とせらる。壬辰、大赦す。丙申、詔して隴右四郡の寇害に遇ふ者の田租を復す。
秋七月、車騎將軍の賈充を以て司空と為す。九月、吳の西陵督の步闡 來降し、衞將軍・開府儀同三司を拜し、宜都公に封ぜらる。吳將の陸抗 闡を攻むれば、車騎將軍の羊祜を遣はして眾を帥ゐて江陵に出で、荊州刺史の楊肇 闡を西陵に迎へ、巴東監軍の徐胤 建平を擊ちて以て闡を救ふ。冬十月辛未朔、日の之を蝕する有り。十二月、肇 抗を攻むるも、克たずして還る。闡の城 陷ち、抗の禽ふる所と為る。

現代語訳

泰始八年春正月、監軍の何楨が匈奴の劉猛を討ち、連戦で撃破し、左部帥の李恪が劉猛を殺して降伏した。癸亥、武帝が藉田を耕した。二月乙亥、彫った飾りや文様のある紐で定めから外れたものを禁止した。壬辰、太宰・安平王孚(司馬孚)が薨じた。内外の群官に巫女して辺境の適任者を三人ずつ推挙させた。武帝は右将軍の皇甫陶と議論し、皇甫陶が武帝と言い争った。散騎常侍の鄭徽は上表して皇甫陶を有罪とするよう求めた。武帝は、「善言を堂々を述べることは、側近に望む態度である。君主はつねに阿諛追従を憂いとする。どうして直言した臣を問題とするだろうか。鄭徽は謁見してみだりに上奏した。どうして朕の意向にかなうものか」と言った。こうして鄭徽の官位を罷免した。夏四月、後将軍を設置し、(前後左右の)四軍が完備された。六月、益州牙門の張弘が当地の刺史の皇甫晏が反乱したと誣告して、これを殺し、首を京師に伝えた。張弘はその罪により誅殺され、夷三族となった。壬辰、大赦した。丙申、詔して隴右四郡で侵略の被害にあった者の田租を免除した。
秋七月、車騎将軍の賈充を司空とした。九月、呉の西陵督の歩闡が来降し、衛将軍・開府儀同三司を拝し、宜都公に封じれらた。呉将の陸抗が歩闡を攻撃したので、(晋軍は)車騎将軍の羊祜に軍をひきいて江陵に出て、荊州刺史の楊肇は歩闡を西陵で迎え、巴東監軍の徐胤が建平を攻撃して(呉軍を引きつけ)歩闡を救おうとした。冬十月辛未朔、日蝕があった。十二月、楊肇が陸抗を攻めたが、勝たずに帰還した。歩闡の城は陥落し、陸抗に捕らわれた。

原文

九年春正月辛酉、司空・密陵侯鄭袤薨。二月癸巳、司徒・樂陵公石苞薨。立安平亭侯隆為安平王。三月、立皇子祗為東海王。夏四月戊辰朔、日有蝕之。五月、旱。以太保何曾領司徒。六月乙未、東海王祗薨。
秋七月丁酉朔、日有蝕之。吳將魯淑圍弋陽、征虜將軍王渾擊敗之。罷五官左右中郎將・弘訓太僕・衞尉・大長秋等官。鮮卑寇廣寧、殺略五千人。詔聘公卿以下子女以備六宮、采擇未畢、權禁斷婚姻。冬十月辛巳、制女年十七父母不嫁者、使長吏配之。十一月丁酉、臨宣武觀大閱諸軍、甲辰乃罷。

訓読

九年春正月辛酉、司空・密陵侯の鄭袤 薨ず。二月癸巳、司徒・樂陵公の石苞 薨ず。安平亭侯隆を立てて安平王と為す。三月、皇子祗を立てて東海王と為す。夏四月戊辰朔、日の之を蝕する有り。五月、旱あり。太保の何曾を以て司徒を領せしむ。六月乙未、東海王祗 薨ず。
秋七月丁酉朔、日の之を蝕する有り。吳將の魯淑 弋陽を圍むや、征虜將軍の王渾 之を擊敗す。五官左右中郎將・弘訓太僕・衞尉・大長秋らの官を罷む。鮮卑 廣寧を寇し、五千人を殺略す。詔して公卿より以下の子女を聘して以て六宮に備へ、采擇 未だ畢らざらば、權に婚姻を禁斷す。冬十月辛巳、制して女の年十七にして父母 嫁せざる者は、長吏をして之に配せしむ。十一月丁酉、宣武觀に臨みて大いに諸軍に閱し、甲辰に乃ち罷む。

現代語訳

泰始九年春正月辛酉、司空・密陵侯の鄭袤が薨じた。二月癸巳、司徒・楽陵公の石苞が薨じた。安平亭侯隆(司馬隆)を安平王に立てた。三月、皇子祗(司馬祗)を東海王に立てた。夏四月戊辰朔、日蝕があった。五月、日照になった。太保の何曾に司徒を領させた。六月乙未、東海王祗(司馬祗)が薨じた。
秋七月丁酉朔、日蝕があった。呉將の魯淑が弋陽を包囲すると、征虜将軍の王渾がこれを撃ち破った。五官左右中郎将・弘訓太僕・衛尉・大長秋らの官を廃止した。鮮卑が広寧を侵略し、五千人を殺し略奪した。詔して公卿より以下の子女を召して六宮に詰めさせ、採択が終わるまで、一時的に婚姻を禁止した。冬十月辛巳、制書により十七歳(以上)の娘で父母が嫁がせていないものは、長吏に結婚の世話をさせた。十一月丁酉、宣武観に臨んで大いに諸軍に閱し、甲辰になって終えた。

原文

十年春正月辛亥、帝耕于藉田。閏月癸酉、太傅・壽光公鄭沖薨。己卯、高陽王珪薨。庚辰、太原王瓌薨。丁亥、詔曰、「嫡庶之別、所以辨上下、明貴賤。而近世以來、多皆內寵、登妃后之職、亂尊卑之序。自今以後、皆不得登用妾媵以為嫡正」。二月、分幽州五郡置平州。三月癸亥、日有蝕之。夏四月己未、太尉・臨淮公荀顗薨。六月癸巳、臨聽訟觀錄囚徒、多所原遣。是夏、大蝗。
秋七月丙寅、皇后楊氏崩。壬午、吳平虜將孟泰・偏將軍王嗣等帥眾降。八月、涼州虜寇金城諸郡、鎮西將軍・汝陰王駿討之、斬其帥乞文泥等。戊申、葬元皇后于峻陽陵。九月癸亥、以大將軍陳騫為太尉。攻拔吳枳里城、獲吳立信校尉莊祐。吳將孫遵・李承帥眾寇江夏、太守嵇喜擊破之。立河橋于富平津。冬十一月、立城東七里澗石橋。庚午、帝臨宣武觀、大閱諸軍。十二月、有星孛于軫。置藉田令。立太原王子緝為高陽王。吳威北將軍嚴聰・揚威將軍嚴整・偏將軍朱買來降。是歲、鑿陝南山、決河、東注洛、以通運漕。

訓読

十年春正月辛亥、帝 藉田を耕す。閏月癸酉、太傅・壽光公の鄭沖 薨ず。己卯、高陽王珪 薨ず。庚辰、太原王瓌 薨ず。丁亥、詔して曰く、「嫡庶の別は、上下を辨じ、貴賤を明らかにする所以なり。而れども近世より以來、多く皆 內寵もて、妃后の職に登し、尊卑の序を亂す。今より以後、皆 妾媵を登用して以て嫡正と為すを得ず」。二月、幽州五郡を分けて平州を置く。三月癸亥、日の之を蝕する有り。夏四月己未、太尉・臨淮公の荀顗 薨ず。六月癸巳、聽訟觀に臨みて囚徒を錄し、多く原遣する所なり。是の夏、大蝗あり。
秋七月丙寅、皇后楊氏 崩ず。壬午、吳の平虜將の孟泰・偏將軍の王嗣ら眾を帥ゐて降る。八月、涼州虜 金城諸郡を寇し、鎮西將軍・汝陰王駿 之を討ちて、其の帥の乞文泥らを斬る。戊申、元皇后を峻陽陵に葬る。九月癸亥、大將軍の陳騫を以て太尉と為す。吳の枳里城を攻拔し、吳の立信校尉の莊祐を獲たり。吳將の孫遵・李承 眾を帥ゐて江夏を寇するも、太守の嵇喜 之を擊破す。河橋を富平津に立つ。冬十一月、城東の七里澗に石橋を立つ。庚午、帝 宣武觀に臨み、大いに諸軍に閱す。十二月、星孛 軫に有り。藉田令を置く。太原王子緝を立てて高陽王と為す。吳の威北將軍の嚴聰・揚威將軍の嚴整・偏將軍の朱買 來降す。是の歲、南山を鑿陝し、河を決し、東して洛に注がしめ、以て運漕を通ず。

現代語訳

泰始十年春正月辛亥、帝が藉田を耕した。閏月癸酉、太傅・寿光公の鄭沖が薨じた。己卯、高陽王珪(司馬珪)が薨じた。庚辰、太原王瓌(司馬瓌)が薨じた。丁亥、詔して、「嫡庶の区別は、上下に差をつけ、貴賤を明らかにするものである。しかし近年では、多くの寵愛した女性を、(本来は就任できない)妃后の職に昇らせ、尊卑の序列を乱している。今より以後、地位の低いめかけを登用して正妻の地位につけてはならない」とした。二月、幽州の五郡を分けて平州を設置した。三月癸亥、日蝕があった。夏四月己未、太尉・臨淮公の荀顗が薨じた。六月癸巳、(武帝は)聴訟観に臨んで囚人を裁判し、多くを赦免し釈放した。この夏に、大いに蝗がおこった。
秋七月丙寅、皇后楊氏が崩じた。壬午、呉の平虜将の孟泰と偏将軍の王嗣らが兵士をひきいて降伏した。八月、涼州虜が金城などの諸郡を侵略し、鎮西将軍・汝陰王駿(司馬駿)が討伐し、首領の乞文泥らを斬った。戊申、元皇后(楊氏)を峻陽陵に葬った。九月癸亥、大将軍の陳騫を太尉とした。呉の枳里城を攻めて突破し、呉の立信校尉の荘祐を捕縛した。呉将の孫遵と李承が兵を率いて江夏を侵略したが、太守の嵇喜がこれを撃破した。河橋を富平津に建造した。冬十一月、城東の七里澗に石橋を建造した。庚午、武帝が宣武観に臨み、大いに諸軍に閱した。十二月、星孛が軫にあらわれた。藉田令を設置した。太原王子緝(司馬緝)を高陽王に立てた。呉の威北将軍の厳総と揚威将軍の厳整と偏将軍の朱買が来降した。この年、南山を削り取り、黄河の水を通し、東に流れて洛水に合流させ、運河を開設した。

原文

咸寧元年春正月戊午朔、大赦、改元。二月、以將士應已娶者多、家有五女者給復。辛酉、以故鄴令夏謖有清稱、賜穀百斛。以奉祿薄、賜公卿以下帛有差。叛虜樹機能送質請降。夏五月、下邳・廣陵大風、拔木、壞廬舍。六月、鮮卑力微遣子來獻。吳人寇江夏。西域戊己校尉馬循討叛鮮卑、破之、斬其渠帥。戊申、置太子詹事官。
秋七月甲申晦、日有蝕之。郡國螟。八月壬寅、沛王子文薨。以故太傅鄭沖・太尉荀顗・司徒石苞・司空裴秀・驃騎將軍王沈・安平獻王孚等及太保何曾・司空賈充・太尉陳騫・中書監荀勖・平南將軍羊祜・齊王攸等皆列於銘饗。九月甲子、青州螟、徐州大水。
冬十月乙酉、常山王殷薨。癸巳、彭城王權薨。十一月癸亥、大閱於宣武觀、至于己巳。十二月丁亥、追尊宣帝廟曰高祖、景帝曰世宗、文帝曰太祖。是月大疫、洛陽死者太半。封裴頠為鉅鹿公。

訓読

咸寧元年春正月戊午朔、大赦し、改元す。二月、將士の應に已に娶るべき者多きを以て、家に五女有る者は給復す。辛酉、故鄴令の夏謖清稱有るを以て、穀百斛を賜ふ。奉祿 薄きを以て、公卿より以下に帛を賜はること差有り。叛虜の樹機能 質を送り降を請ふ。夏五月、下邳・廣陵 大風あり、木を拔き、廬舍を壞す。六月、鮮卑の力微 子を遣はし來獻す。吳人 江夏を寇す。西域戊己校尉の馬循 叛鮮卑を討ち、之を破り、其の渠帥を斬る。戊申、太子詹事の官を置く。
秋七月甲申晦、日の之を蝕する有り。郡國 螟あり。八月壬寅、沛王子文 薨ず。故太傅の鄭沖・太尉の荀顗・司徒の石苞・司空の裴秀・驃騎將軍の王沈・安平獻王孚ら及び太保の何曾・司空の賈充・太尉の陳騫・中書監の荀勖・平南將軍の羊祜・齊王攸らを以て皆 銘饗に列す。九月甲子、青州 螟あり、徐州 大水あり。
冬十月乙酉、常山王殷 薨ず。癸巳、彭城王權 薨ず。十一月癸亥、大いに宣武觀に閱し、己巳に至る。十二月丁亥、宣帝廟を追尊して高祖と曰ひ、景帝を世宗と曰ひ、文帝を太祖と曰ふ。是の月 大疫あり、洛陽の死者 太半なり。裴頠を封じて鉅鹿公と為す。

現代語訳

咸寧元年春正月戊午朔、大赦し、改元した。二月、将士に結婚相手が必要なものが多いので、五人の娘がいる家は免税とした。辛酉、もと鄴令の夏謖は清廉と名高いので、穀百斛を賜わった。俸禄が少ないため、公卿より以下にそれぞれ帛を賜った。叛虜の樹機能が人質を送って降伏を申し出た。夏五月、下邳と広陵で強風が吹き、木が倒れ、家屋を壊した。六月、鮮卑の力微が子をよこして来献した。呉人が江夏を侵略した。西域戊己校尉の馬循が叛いた鮮卑を討伐し、これを破り、その渠帥を斬った。戊申、太子詹事の官を設置した。
秋七月甲申晦、日蝕があった。郡国でずいむしが発生した。八月壬寅、沛王子文(司馬子文)が薨じた。もと太傅の鄭沖・太尉の荀顗・司徒の石苞・司空の裴秀・驃騎将軍の王沈・安平献王孚(司馬孚)ら及び太保の何曾・司空の賈充・太尉の陳騫・中書監の荀勖・平南将軍の羊祜・斉王攸(司馬攸)らを建国の功臣として祭りの対象とした。九月甲子、青州でずいむしが発生し、徐州で洪水があった。
冬十月乙酉、常山王殷(司馬殷)が薨じた。癸巳、彭城王權(司馬権)が薨じた。十一月癸亥、大々的に宣武観で閲兵し、己巳の日まで続いた。十二月丁亥、宣帝廟を追尊して高祖とし、景帝を世宗とし、文帝を太祖とした。この月にひどい疫病があり、洛陽で死者が過半に及んだ。裴頠を鉅鹿公に封建した。

原文

二年春正月、以疾疫廢朝。賜諸散吏至于士卒絲各有差。二月丙戌、河間王洪薨。甲午、赦五歲刑以下。東夷八國歸化。并州虜犯塞、監并州諸軍事胡奮擊破之。初、燉煌太守尹璩卒、州以燉煌令梁澄領太守事、議郎令狐豐廢澄、自領郡事。豐死、弟宏代之。至是、涼州刺史楊欣斬宏、傳首洛陽。先是、帝不豫、及瘳、羣臣上壽。詔曰、「每念頃遇疫氣死亡、為之愴然。豈以一身之休息、忘百姓之艱邪。諸上禮者皆絕之」。
夏五月、鎮西大將軍・汝陰王駿討北胡、斬其渠帥吐敦。立國子學。庚午、大雩。六月癸丑、薦荔支于太廟。甲戌、有星孛于氐。自春旱、至于是月始雨。吳京下督孫楷帥眾來降、以為車騎將軍、封丹楊侯。白龍二見于新興井中。
秋七月、有星孛于大角。吳臨平湖自漢末壅塞、至是自開。父老相傳云、「此湖塞、天下亂。此湖開、天下平」癸丑、安平王隆薨。東夷十七國內附。河南・魏郡暴水、殺百餘人、詔給棺。鮮卑阿羅多等寇邊、西域戊己校尉馬循討之、斬首四千餘級、獲生九千餘人、於是來降。八月庚辰、河東・平陽地震。己亥、以太保何曾為太傅、太尉陳騫為大司馬、司空賈充為太尉、鎮軍大將軍齊王攸為司空。有星孛于太微、九月又孛于翼。丁未、起太倉於城東、常平倉於東西市。閏月、荊州五郡水、流四千餘家。
冬十月、以汝陰王駿為征西大將軍、平南將軍羊祜為征南大將軍。丁卯、立皇后楊氏、大赦、賜王公以下及于鰥寡各有差。十一月、白龍二見于梁國。十二月、徵處士安定皇甫謐為太子中庶子、封后父鎮軍將軍楊駿為臨晉侯。是月、以平州刺史傅詢・前廣平太守孟桓清白有聞、詢賜帛二百匹、桓百匹。

訓読

二年春正月、疾疫を以て朝を廢す。諸々の散吏より士卒に至るまで絲を賜はること各々差有り。二月丙戌、河間王洪 薨ず。甲午、五歲刑より以下を赦す。東夷の八國 歸化す。并州虜 塞を犯し、監并州諸軍事の胡奮 之を擊破す。初め、燉煌太守の尹璩 卒するや、州は燉煌令の梁澄を以て太守事を領せしめ、議郎の令狐豐 澄を廢し、自ら郡事を領す。豐 死し、弟の宏 之に代はる。是に至り、涼州刺史の楊欣 宏を斬り、首を洛陽に傳ふ。是より先、帝 不豫たりて、瘳ゆるに及び、羣臣 上壽す。詔して曰く、「每に頃 疫氣に遇ひて死亡するを念ひ、之が為に愴然たり。豈に一身の休息を以て、百姓の艱を忘るるや。諸々の禮を上ぐる者は皆 之を絕て」と。
夏五月、鎮西大將軍・汝陰王駿 北胡を討ち、其の渠帥の吐敦を斬る。國子學を立つ。庚午、大雩す。六月癸丑、荔支を太廟に薦む。甲戌、星孛 氐に有り。春より旱たりて、是の月に至りて始めて雨ふる。吳の京下督の孫楷 眾を帥ゐて來降し、以て車騎將軍と為し、丹楊侯に封ず。白龍二 新興井中に見る。
秋七月、星孛 大角に有り。吳の臨平湖 漢末より壅塞し、是に至りて自ら開く。父老 相 傳へて云はく、「此の湖 塞ぎ、天下 亂る。此の湖 開き、天下 平らぐ」と。癸丑、安平王隆 薨ず。東夷十七國 內附す。河南・魏郡 暴水あり、百餘人を殺し、詔して棺を給ふ。鮮卑の阿羅多ら邊を寇し、西域戊己校尉の馬循 之を討ち、斬首すること四千餘級、獲生するもの九千餘人、是に於て來降す。八月庚辰、河東・平陽 地 震ふ。己亥、太保の何曾を以て太傅と為し、太尉の陳騫もて大司馬と為し、司空の賈充もて太尉と為し、鎮軍大將軍の齊王攸もて司空と為す。星孛 太微に有り、九月 又 翼に孛あり。丁未、太倉を城東に、常平倉を東西市に起つ。閏月、荊州の五郡 水あり、四千餘家を流す。
冬十月、汝陰王駿を以て征西大將軍と為し、平南將軍の羊祜もて征南大將軍と為す。丁卯、皇后楊氏を立て、大赦し、王公より以下及び鰥寡に賜はること各々差有り。十一月、白龍二 梁國に見る。十二月、處士たる安定の皇甫謐を徵して太子中庶子と為し、后父の鎮軍將軍の楊駿を封じて臨晉侯と為す。是の月、平州刺史の傅詢・前廣平太守の孟桓 清白として聞有るを以て、詢に帛二百匹、桓に百匹を賜ふ。

現代語訳

咸寧二年春正月、疫病が流行しているので朝見を中止した。諸々の散吏から士卒に至るまでに生糸をそれぞれ賜った。二月丙戌、河間王洪(司馬洪)が薨じた。甲午、五歳刑より以下を赦した。東夷の八国が帰化した。并州虜が長城を侵犯し、監并州諸軍事の胡奮がこれを撃破した。これよりさき、燉煌太守の尹璩が卒すると、州は燉煌令の梁澄に太守の職務を執らせたが、議郎の令狐豊が梁澄を退け、自ら郡の政務を執った。令孤豊が死ぬと、弟の令孤宏がこれに代わった。このときに至り、涼州刺史の楊欣が令孤宏を斬り、首を洛陽に伝えた。これ以前、武帝は体調を損ねたが、回復すると、群臣が祝賀を奉った。詔して、「いつも疫病で死んだ者のことを思い、悲しみ傷んできた。どうして自分が回復したからといって、万民の苦難を忘れるだろうか。各人すべての祝賀を取り下げるように」と言った。
夏五月、鎮西大将軍・汝陰王駿(司馬駿)が北胡を討ち、その渠帥の吐敦を斬った。国子学を立てた。庚午、大規模に雨乞いをした。六月癸丑、荔支(果樹の名)を太廟に供えた。甲戌、星孛が氐にあった。春から日照で、この月に至ってはじめて雨が降った。呉の京下督の孫楷が兵を率いて来降し、孫楷を車騎將軍とし、丹楊侯に封建した。二体の白龍が新興の井戸のなかに現れた。
秋七月、星孛が大角に現れた。呉の臨平湖は漢末より閉塞したが、このときに至って自ずから開かれた。父老の伝承で、「この湖が塞がり、天下が乱れる。この湖が開かれ、天下が平らぐ」といった。癸丑、安平王隆(司馬隆)が薨じた。東夷十七国が内附した。河南と魏郡で川が荒れ狂い、百人あまりを殺したので、詔して棺を支給した。鮮卑の阿羅多らが国境を侵略し、西域戊己校尉の馬循がこれを討伐し、斬首すること四千級あまり、生け捕りすること九千人あまりで、このときになり降伏してきた。八月庚辰、河東と平陽で地震があった。己亥、太保の何曾を太傅とし、太尉の陳騫を大司馬とし、司空の賈充を太尉とし、鎮軍大将軍の斉王攸(司馬攸)を司空とした。星孛が太微にあり、九月にまた翼に星孛があった。丁未、太倉を城東に、常平倉を東西市に建てた。閏月、荊州の五郡で洪水があり、四千家あまりを流した。
冬十月、汝陰王駿(司馬駿)を征西大将軍とし、平南将軍の羊祜を征南大将軍とした。丁卯、皇后楊氏を立て、大赦し、王公より以下及び配偶者のいないものに賜与をした。十一月、二体の白龍が梁国に出現した。十二月、処士である安定の皇甫謐を徴召して太子中庶子とし、皇后の父の鎮軍将軍の楊駿を臨晋侯に封建した。この月、平州刺史の傅詢と前広平太守の孟桓が清廉という評判が高いので、傅詢に帛を二百匹、孟桓に百匹を賜わった。

原文

三年春正月丙子朔、日有蝕之。立皇子裕為始平王、安平穆王隆弟敦為安平王。詔曰、「宗室戚屬、國之枝葉、欲令奉率德義、為天下式。然處富貴而能慎行者寡、召穆公糾合兄弟而賦唐棣之詩、此姬氏所以本枝百世也。今以衞將軍・扶風王亮為宗師、所當施行、皆諮之於宗師也」。庚寅、始平王裕薨。有星孛於西方。使征北大將軍衞瓘討鮮卑力微。三月、平虜護軍1.文淑討叛虜樹機能等、並破之。有星孛于胃。乙未、帝將射雉、慮損麥苗而止。夏五月戊子、吳將2.邵凱・夏祥帥眾七千餘人來降。六月、益・梁八郡水、殺三百餘人、沒邸閣別倉。
秋七月、以都督豫州諸軍事王渾為都督揚州諸軍事。中山王睦以罪廢為丹水侯。八月癸亥、徙扶風王亮為汝南王、東莞王伷為琅邪王、汝陰王駿為扶風王、琅邪王倫為趙王、渤海王輔為太原王、太原王顒為河間王、北海王陵為任城王、陳王斌為西河王、汝南王柬為南陽王、濟南王耽為中山王、河間王威為章武王。立皇子瑋為始平王、允為濮陽王、該為新都王、遐為清河王、鉅平侯羊祜為南城侯。以汝南王亮為鎮南大將軍。大風拔樹、暴寒且冰、郡國五隕霜、傷穀。九月戊子、以左將軍胡奮為都督江北諸軍事。兗・豫・徐・青・荊・益・梁七州大水、傷秋稼、詔振給之。立齊王子蕤為遼東王、贊為廣漢王。
冬十一月丙戌、帝臨宣武觀大閱、至于壬辰。十二月、吳將孫慎入江夏・汝南、略千餘家而去。是歲、西北雜虜及鮮卑・匈奴・五溪蠻夷・東夷三國前後千餘輩、各帥種人部落內附。

1.「文淑」は、「文俶」ともあり、『三国志』諸葛誕伝では「文鴦」とする。
2.「邵凱」は、羊祜伝では「邵顗」に作る。

訓読

三年春正月丙子朔、日の之を蝕する有り。皇子裕を立てて始平王と為し、安平穆王隆の弟の敦もて安平王と為す。詔して曰く、「宗室の戚屬は、國の枝葉なり、德義を奉率して、天下の式と為らしめんと欲す。然れども富貴に處りて能く慎行する者は寡なし。召穆公 兄弟を糾合して唐棣の詩を賦すは、此れ姬氏の本枝 百世なりし所以なり。今 衞將軍・扶風王亮を以て宗師と為し、當に施行すべき所、皆 之を宗師に諮れ」と。庚寅、始平王裕 薨ず。星孛 西方に有り。征北大將軍の衞瓘をして鮮卑の力微を討たしむ。三月、平虜護軍の文淑 叛虜の樹機能らを討ち、並びに之を破る。星孛 胃に有り。乙未、帝 將に雉を射んとするに、麥苗を損ずるを慮りて止む。夏五月戊子、吳將の邵凱・夏祥 眾七千餘人を帥ゐて來降す。六月、益・梁の八郡 水あり、三百餘人を殺し、邸閣の別倉を沒す。
秋七月、都督豫州諸軍事の王渾を以て都督揚州諸軍事と為す。中山王睦 罪を以て廢して丹水侯と為す。八月癸亥、扶風王亮を徙して汝南王と為し、東莞王伷を琅邪王と為し、汝陰王駿を扶風王と為し、琅邪王倫を趙王と為し、渤海王輔を太原王と為し、太原王顒を河間王と為し、北海王陵を任城王と為し、陳王斌を西河王と為し、汝南王柬を南陽王と為し、濟南王耽を中山王と為し、河間王威を章武王と為す。皇子瑋を立てて始平王と為し、允を濮陽王と為し、該を新都王と為し、遐を清河王と為し、鉅平侯の羊祜を南城侯と為す。汝南王亮を以て鎮南大將軍と為す。大風ありて樹を拔き、暴寒ありて且つ冰り、郡國五 隕霜あり、穀を傷つく。九月戊子、左將軍の胡奮を以て都督江北諸軍事と為す。兗・豫・徐・青・荊・益・梁七州 大水あり、秋稼を傷つけ、詔して之を振給す。齊王子蕤を立てて遼東王と為し、贊を廣漢王と為す。
冬十一月丙戌、帝 宣武觀に臨みて大いに閱し、壬辰に至る。十二月、吳將の孫慎 江夏・汝南に入り、千餘家を略して去る。是の歲、西北雜虜及び鮮卑・匈奴・五溪蠻夷・東夷三國の前後千餘輩、各々種人の部落を帥ゐて內附す。

現代語訳

咸寧三年春正月丙子朔、日蝕があった。皇子裕(司馬裕)を始平王に立て、安平穆王隆(司馬隆)の弟の司馬敦を安平王とした。詔して、「宗室の親族は、国家の枝葉であり、徳義を率先し、天下の模範としたい。しかし富貴にあって行動を慎めるものは少ない。召穆公(周の召虎)が兄弟を集めて(結束を説いて)唐棣の詩を作り(『詩経』小雅 常棣)、これが姫氏の本枝(周の宗室)が百世にわたり存続した理由となった。いま衛将軍・扶風王亮(司馬亮)を宗師とし、取るべき行動について、すべて宗師に意見を求めるように」と言った。庚寅、始平王裕(司馬裕)が薨じた。星孛が西方にあった。征北大将軍の衛瓘に鮮卑の力微を討伐させた。三月、平虜護軍の文淑(文俶、文鴦)が叛虜の樹機能らを討伐し、いずれも撃破した。星孛が胃にあった。乙未、武帝が雉を射ようとしたが、麦の苗を傷つけることを嫌って中止した。夏五月戊子、呉将の邵凱と夏祥が七千あまりの兵をひきいて来降した。六月、益州と梁州の八郡で洪水があり、三百人あまりを殺し、邸閣の別倉が水没した。
秋七月、都督豫州諸軍事の王渾を都督揚州諸軍事とした。中山王睦(司馬睦)が罪により爵位を下げて丹水侯とした。八月癸亥、扶風王亮(司馬亮)を汝南王に徙し、東莞王伷(司馬伷)を琅邪王とし、汝陰王駿(司馬駿)を扶風王とし、琅邪王倫(司馬倫)を趙王とし、渤海王輔(司馬輔)を太原王とし、太原王顒(司馬鄴)を河間王とし、北海王陵(司馬陵)を任城王とし、陳王斌(司馬斌)を西河王とし、汝南王柬(司馬柬)を南陽王とし、済南王耽(司馬耽)を中山王とし、河間王威(司馬威)を章武王とした。皇子瑋(司馬瑋)を立てて始平王とし、司馬允を濮陽王とし、司馬該を新都王とし、司馬遐を清河王とし、鉅平侯の羊祜を南城侯とした。汝南王亮(司馬亮)を鎮南大将軍とした。強風で樹が倒れ、急激な低温で凍り、五つの郡国で霜が降り、穀物を傷つけた。九月戊子、左将軍の胡奮を都督江北諸軍事とした。兗・豫・徐・青・荊・益・梁の七州で洪水があり、秋の実りを傷つけ、詔して被災地を振給した。斉王子蕤(司馬蕤)を立てて遼東王とし、司馬賛を広漢王とした。
冬十一月丙戌、武帝が宣武観に臨んで大規模に閲兵し、壬辰まで続いた。十二月、呉将の孫慎が江夏と汝南に侵入し、千家あまりを略奪して去った。この年、西北の雑虜及び鮮卑・匈奴・五溪の蛮夷・東夷の三国が前後して千輩あまり、それぞれ民族の成員を連れて内付した。

原文

四年春正月庚午朔、日有蝕之。三月甲申、尚書左僕射盧欽卒。辛酉、以尚書右僕射山濤為尚書左僕射。東夷六國來獻。夏四月、蚩尤旗見於東井。六月丁未、陰平・廣武地震、甲子又震。涼州刺史楊欣與虜若羅拔能等戰于武威、敗績、死之。弘訓皇后羊氏崩。
秋七月己丑、祔葬景獻皇后羊氏于峻平陵。庚寅、高陽王緝薨。癸巳、范陽王綏薨。荊・揚郡國二十皆大水。九月、以太傅何曾為太宰。辛巳、以尚書令李胤為司徒。冬十月、以征北大將軍衞瓘為尚書令。揚州刺史應綽伐吳皖城、斬首五千級、焚穀米百八十萬斛。十一月辛巳、太醫司馬程據獻雉頭裘、帝以奇技異服典禮所禁、焚之於殿前。甲申、敕內外敢有犯者罪之。吳昭武將軍劉翻・厲武將軍祖始來降。辛卯、以尚書杜預都督荊州諸軍事。征南大將軍羊祜卒。十二月乙未、西河王斌薨。丁未、太宰朗陵公何曾薨。是歲、東夷九國內附。

訓読

四年春正月庚午朔、日の之を蝕する有り。三月甲申、尚書左僕射の盧欽 卒す。辛酉、尚書右僕射の山濤を以て尚書左僕射と為す。東夷六國 來獻す。夏四月、蚩尤旗 東井に見る。六月丁未、陰平・廣武 地 震へ、甲子 又 震ふ。涼州刺史の楊欣 虜の若羅拔能らと武威に戰ひ、敗績し、之に死す。弘訓皇后羊氏 崩ず。
秋七月己丑、景獻皇后羊氏を峻平陵に祔葬す。庚寅、高陽王緝 薨ず。癸巳、范陽王綏 薨ず。荊・揚の郡國二十 皆 大水あり。九月、太傅の何曾を以て太宰と為す。辛巳、尚書令の李胤を以て司徒と為す。冬十月、征北大將軍の衞瓘を以て尚書令と為す。揚州刺史の應綽 吳の皖城を伐ち、斬首すること五千級、穀米を焚くこと百八十萬斛。十一月辛巳、太醫司馬の程據 雉頭裘を獻じ、帝 奇技異服は典禮の禁ずる所なるを以て、之を殿前に焚く。甲申、內外に敕して敢て犯す者有らば之を罪とす。吳の昭武將軍の劉翻・厲武將軍の祖始 來降す。辛卯、尚書の杜預を以て荊州諸軍事を都督せしむ。征南大將軍の羊祜 卒す。十二月乙未、西河王斌 薨ず。丁未、太宰朗陵公の何曾 薨ず。是の歲、東夷九國 內附す。

現代語訳

咸寧四年春正月庚午朔、日蝕があった。三月甲申、尚書左僕射の盧欽が亡くなった。辛酉、尚書右僕射の山濤を尚書左僕射とした。東夷の六国が来献した。夏四月、蚩尤旗が東井に現れた。六月丁未、陰平と広武で地震があり、甲子にも地震があった。涼州刺史の楊欣が異民族の若羅抜能らと武威で戦い、敗北し、戦死した。弘訓皇后の羊氏が崩じた。
秋七月己丑、景献皇后羊氏を峻平陵に祔葬(合葬)した。庚寅、高陽王緝(司馬緝)が薨じた。癸巳、范陽王綏(司馬綏)が薨じた。荊州と揚州の二十の郡国で洪水があった。九月、太傅の何曾を太宰とした。辛巳、尚書令の李胤を司徒とした。冬十月、征北大将軍の衞瓘を尚書令とした。揚州刺史の応綽が呉の皖城を討伐し、斬首すること五千級、穀米を焼くこと百八十万斛であった。十一月辛巳、太医司馬の程拠が雉頭裘を献上したが、武帝は奇異な技術や身なりは典礼(儒家経典)が禁じているとして、これを殿前で焼いた。甲申、内外に敕して(典礼に)違反すれば有罪であるとした。呉の昭武将軍の劉翻と厲武将軍の祖始が来降した。辛卯、尚書の杜預に荊州諸軍事を都督させた。征南大将軍の羊祜が亡くなった。十二月乙未、西河王斌(司馬斌)が薨じた。丁未、太宰で朗陵公の何曾が薨じた。この年、東夷九国が内付した。

原文

五年春正月、虜帥樹機能攻陷涼州。乙丑、使討虜護軍・武威太守馬隆擊之。二月甲午、白麟見于平原。三月、匈奴都督拔弈虛帥部落歸化。乙亥、以百姓饑饉、減御膳之半。有星孛于柳。夏四月、又孛于女御。大赦、降除部曲督以下質任。丁亥、郡國八雨雹、傷秋稼、壞百姓廬舍。
秋七月、有星孛于紫宮。九月甲午、麟見于河南。冬十月戊寅、匈奴餘渠都督獨雍等帥部落歸化。汲郡人不準掘魏襄王冢、得竹簡小篆古書十餘萬言、藏于祕府。十一月、大舉伐吳、遣鎮軍將軍・琅邪王伷出涂中、安東將軍王渾出江西、建威將軍王戎出武昌、平南將軍胡奮出夏口、鎮南大將軍杜預出江陵、龍驤將軍王濬・廣武將軍唐彬率巴蜀之卒浮江而下、東西凡二十餘萬。以太尉賈充為大都督、行冠軍將軍楊濟為副、總統眾軍。十二月、馬隆擊叛虜樹機能、大破、斬之、涼州平。肅慎來獻楛矢石砮。

訓読

五年春正月、虜帥の樹機能 涼州を攻陷す。乙丑、討虜護軍・武威太守の馬隆をして之を擊たしむ。二月甲午、白麟 平原に見る。三月、匈奴都督の拔弈虛 部落を帥ゐて歸化す。乙亥、百姓 饑饉せるを以て、御膳の半を減ず。星孛 柳に有り。夏四月、又 孛 女御に于てす。大赦、部曲督より以下の質任を降除す。丁亥、郡國八 雨雹し、秋稼を傷け、百姓の廬舍を壞す。
秋七月、星孛 紫宮に有り。九月甲午、麟 河南に見る。冬十月戊寅、匈奴餘渠都督の獨雍ら部落を帥ゐて歸化す。汲郡の人たる不準 魏襄王の冢を掘り、竹簡小篆古書十餘萬言を得、祕府に藏す。十一月、大いに伐吳を舉げ、鎮軍將軍・琅邪王伷を遣はして涂中に出でしめ、安東將軍の王渾をして江西に出で、建威將軍の王戎を武昌に出で、平南將軍の胡奮を夏口に出で、鎮南大將軍の杜預を江陵に出で、龍驤將軍の王濬・廣武將軍の唐彬を巴蜀の卒を率ゐて江に浮かべて下らしめ、東西凡そ二十餘萬なり。太尉の賈充を以て大都督と為し、行冠軍將軍の楊濟もて副と為し、眾軍を總統せしむ。十二月、馬隆 叛虜の樹機能を擊ち、大いに破りて、之を斬り、涼州 平らぐ。肅慎 來たりて楛矢石砮を獻ず。

現代語訳

咸寧五年春正月、虜帥(胡族の首領)の樹機能が涼州を攻め落とした。乙丑、討虜護軍・武威太守の馬隆にこれを撃たせた。二月甲午、白麟が平原に現れた。三月、匈奴都督の抜弈虚が部族をひきいて帰化した。乙亥、百姓が飢餓に苦しんでいるため、武帝の御膳の半分を減らした。星孛が柳に現れた。夏四月、また星孛が女御に現れた。大赦し、部曲督より以下の質任を削減した。丁亥、八つの郡国で雹が降り、秋の穂を傷つけ、百姓の家屋を壊した。
秋七月、星孛が紫宮に現れた。九月甲午、麟が河南に現れた。冬十月戊寅、匈奴餘渠都督の独雍らが部族をひきいて帰化した。汲郡の人である不準が魏襄王の墓を掘り、竹簡小篆古書の十万言あまりを入手し、秘府に収蔵した。十一月、大いに伐呉の軍を挙げ、鎮軍将軍・琅邪王伷(司馬伷)に涂中に出撃させ、安東将軍の王渾を江西に、建威将軍の王戎を武昌に、平南将軍の胡奮を夏口に、鎮南大将軍の杜預を江陵に出撃させ、龍驤将軍の王濬と広武将軍の唐彬に巴蜀の兵を率いて長江を水軍で下らせ、東西の総員は二十万あまりであった。太尉の賈充を大都督とし、行冠軍将軍の楊済を副とし、全軍を総統させた。十二月、馬隆が叛虜の樹機能を攻撃し、大いに破って、これを斬り、涼州が平定された。粛慎が来て楛矢と石砮を献上した。

原文

太康元年春正月己丑朔、五色氣冠日。癸丑、王渾克吳尋陽賴鄉諸城、獲吳武威將軍周興。二月戊午、王濬・唐彬等克丹楊城。庚申、又克西陵、殺西陵都督・1.鎮軍將軍留憲、征南將軍成璩、西陵監鄭廣。壬戌、濬又克夷道樂鄉城、殺夷道監陸晏・水軍都督陸景。甲戌、杜預克江陵、斬吳江陵督2.王延。平南將軍胡奮克江安。於是諸軍並進、樂鄉・荊門諸戍相次來降。乙亥、以濬為都督益・梁二州諸軍事、復下詔曰、「濬・彬東下、掃除巴丘、與胡奮・王戎共平夏口・武昌、順流長騖、直造秣陵、與奮・戎審量其宜。杜預當鎮靜零・桂、懷輯衡陽。大兵既過、荊州南境固當傳檄而定、預當分萬人給濬、七千給彬。夏口既平、奮宜以七千人給濬。武昌既了、戎當以六千人增彬。太尉充移屯項、總督諸方」。濬進破夏口・武昌、遂泛舟東下、所至皆平。王渾・周浚與吳丞相張悌戰于版橋、大破之、斬悌及其將孫震・沈瑩、傳首洛陽。孫晧窮蹙請降、送璽綬於琅邪王伷。
三月壬寅、王濬以舟師至于建鄴之石頭、孫晧大懼、面縳輿櫬、降于軍門。濬杖節解縛焚櫬、送于京都。收其圖籍、克州四、郡四十三、縣三百一十三、戶五十二萬三千、吏三萬二千、兵二十三萬、男女口二百三十萬。其牧守已下皆因吳所置、除其苛政、示之簡易、吳人大悅。乙酉、大赦、改元、大酺五日、恤孤老困窮。 夏四月、河東・高平雨雹、傷秋稼。遣兼侍中張側・黃門侍郎朱震分使揚越、慰其初附。白麟見于頓丘。三河・魏郡・弘農雨雹、傷宿麥。五月辛亥、封孫晧為歸命侯、拜其太子為中郎、諸子為郎中。吳之舊望、隨才擢敘。孫氏大將戰亡之家徙於壽陽、將吏渡江復十年、百姓及百工復二十年。丙寅、帝臨軒大會、引晧升殿、羣臣咸稱萬歲。丁卯、薦酃淥酒于太廟。郡國六雹、傷秋稼。庚午、詔諸士卒年六十以上罷歸于家。庚辰、以王濬為輔國大將軍・襄陽侯、杜預當陽侯、王戎安豐侯、唐彬上庸侯、賈充・琅邪王伷以下增封。於是論功行封、賜公卿以下帛各有差。六月丁丑、初置翊軍校尉官。封丹水侯睦為高陽王。甲申、東夷十國歸化。
秋七月、虜軻成泥寇西平・浩亹、殺督將以下三百餘人。東夷二十國朝獻。庚寅、以尚書魏舒為尚書右僕射。八月、車師前部遣子入侍。己未、封皇弟延祚為樂平王。白龍三見于永昌。九月、羣臣以天下一統、屢請封襌、帝謙讓弗許。冬十月丁巳、除五女復。十二月戊辰、廣漢王贊薨。

1.『晋書』王濬伝では「鎮南」將軍に作る。『晋書』杜預伝では「劉憲」に作る。
2.『晋書』杜預伝、『三国志』孫晧伝では「伍延」に作る。

訓読

太康元年春正月己丑朔、五色の氣 日に冠す。癸丑、王渾 吳の尋陽賴鄉諸城を克ち、吳の武威將軍の周興を獲たり。二月戊午、王濬・唐彬ら丹楊城を克す。庚申、又 西陵に克ち、西陵都督・鎮軍將軍の留憲、征南將軍の成璩、西陵監の鄭廣を殺す。壬戌、濬 又 夷道樂鄉城に克ち、夷道監の陸晏・水軍都督の陸景を殺す。甲戌、杜預 江陵に克ち、吳の江陵督の王延を斬る。平南將軍の胡奮 江安に克つ。是に於て諸軍 並進し、樂鄉・荊門の諸戍 相 次いで來降す。乙亥、濬を以て都督益・梁二州諸軍事と為し、復た詔を下して曰く、「濬・彬は東下し、巴丘を掃除し、胡奮・王戎と與に共に夏口・武昌を平らげ、流に順ひて長騖し、直ちに秣陵に造り、奮・戎と與に其の宜を審量せよ。杜預 當に零・桂を鎮靜し、衡陽を懷輯すべし。大兵 既に過ぎ、荊州の南境 固に當に傳檄して定むれば、預 當に萬人を分けて濬に給し、七千を彬に給ふべし。夏口 既に平らげば、奮 宜しく七千人を以て濬に給ふべし。武昌 既に了はれば、戎 當に六千人を以て彬に增すべし。太尉の充 屯を項に移し、諸方を總督せよ」と。濬 進みて夏口・武昌を破り、遂に舟を泛して東下し、至る所は皆 平らぐ。王渾・周浚 吳の丞相の張悌と版橋に戰ひ、大いに之を破り、悌及び其の將の孫震・沈瑩を斬り、首を洛陽に傳ふ。孫晧 窮蹙して降らんことを請ひ、璽綬を琅邪王伷に送る。
三月壬寅、王濬 舟師を以て建鄴の石頭に至るや、孫晧 大いに懼れ、面縳し輿櫬し、軍門に降る。濬 杖節し縛を解き櫬を焚き、京都に送る。其の圖籍を收め、州四、郡四十三、縣三百一十三、戶五十二萬三千、吏三萬二千、兵二十三萬、男女口二百三十萬を克す。其の牧守より已下 皆 吳の置く所に因り、其の苛政を除き、之に簡易を示し、吳人 大いに悅ぶ。乙酉、大赦、改元し、大酺すること五日、孤老困窮なるを恤す。
夏四月、河東・高平 雨雹し、秋稼を傷つく。兼侍中張側・黃門侍郎朱震を遣はして揚越に分使し、其の初附を慰めしむ。白麟 頓丘に見る。三河・魏郡・弘農 雨雹し、宿麥を傷つく。五月辛亥、孫晧を封じて歸命侯と為し、其の太子を拜して中郎と為し、諸子もて郎中と為す。吳の舊望は、才に隨ひて擢敘す。孫氏の大將 戰亡する家は壽陽に徙し、將吏の渡江せしは十年を復し、百姓及び百工は二十年を復す。丙寅、帝 臨軒大會し、晧を引きて升殿せしめ、羣臣 咸 萬歲を稱す。丁卯、酃淥酒を太廟に薦む。郡國六 雹あり、秋稼を傷つく。庚午、詔して諸士卒の年六十以上は罷めて家に歸す。庚辰、王濬を以て輔國大將軍・襄陽侯と為し、杜預を當陽侯、王戎を安豐侯、唐彬を上庸侯とし、賈充・琅邪王伷より以下を增封す。是に於て論功行封し、公卿より以下に帛を賜はること各々差有り。六月丁丑、初めて翊軍校尉の官を置く。丹水侯睦を封じて高陽王と為す。甲申、東夷十國 歸化す。
秋七月、虜の軻成泥 西平・浩亹を寇し、督將より以下三百餘人を殺す。東夷二十國 朝獻す。庚寅、尚書の魏舒を以て尚書右僕射と為す。八月、車師前部 子を遣はし入侍せしむ。己未、皇弟延祚を封じて樂平王と為す。白龍三 永昌に見る。九月、羣臣 天下一統せるを以て、屢々封襌を請ふも、帝 謙讓して許さず。冬十月丁巳、五女復を除く。十二月戊辰、廣漢王贊 薨ず。

現代語訳

太康元年春正月己丑朔、五色の気が太陽をおおった。癸丑、王渾が呉の尋陽の賴郷の諸城を破り、呉の武威将軍の周興を捕獲した。二月戊午、王濬と唐彬らが丹楊城を破った。庚申、さらに西陵を破り、西陵都督・鎮軍(鎮南)将軍の留憲(劉憲)、征南将軍の成璩、西陵監の鄭広を殺した。壬戌、王濬はまた夷道の楽郷城を破り、夷道監の陸晏と水軍都督の陸景を殺した。甲戌、杜預が江陵を破り、呉の江陵督の王延(伍延)を斬った。平南将軍の胡奮が江安を破った。ここにおいて諸軍が並進し、楽郷と荊門の防衛拠点が相次いで来降した。乙亥、王濬を都督益・梁二州諸軍事とし、さらに詔を下して、「王濬と唐彬は東に長江を下り、巴丘を掃討し、胡奮と王戎とともに夏口と武昌を平らげ、流れに乗って長距離を進み、まっすぐ秣陵に到達し、胡奮と王戎と共同で最適行動をとれ。杜預は零陽や桂陽と鎮圧し、衡陽を懐柔せよ。大軍が通過し、荊州南部に文書を回付して平定が完了したら、杜預は一万人の兵を分けて王濬に分け与え、七千人を唐彬に分け与えよ。夏口が平定されたら、胡奮は七千人を王濬に分け与えよ。武昌鎮圧が完了すれば、王戎は六千人を唐彬に合流させよ。太尉の賈充は屯営を項に移し、各方面を総督するように」と言った。王濬は進んで夏口と武昌を破り、船を浮かべて東に下り、通過地点はすべて屈服した。王渾と周浚は呉の丞相の張悌と版橋で戦い、大いにこれを破り、張悌及び其の将の孫震と沈瑩を斬り、首を洛陽に伝えた。孫晧は追い詰められて降伏を願い出て、璽綬を琅邪王伷(司馬伷)に送った。
三月壬寅、王濬が水軍を率いて建鄴の石頭に到達すると、孫晧は大いに懼れ、面縛し棺を担いで、軍門に降った。王濬は節を杖ついて縛を解き棺を焼き、京都に護送した。国家の文書を回収し、州四、郡四十三、県三百一十三、戸五十二万三千、吏三万二千、兵二十三万、男女口二百三十万を掌握した。その牧守より以下はすべて呉の置いたままとし、その苛政を除き、簡約な施政方針を示したので、呉人は大いに悦んだ。乙酉、大赦して、改元し、大いに酒盛りすること五日、親や子がいないものや困窮したものを振給した。
夏四月、河東と高平で雹が降り、秋の穂を傷つけた。兼侍中の張側と黄門侍郎の朱震に使者として揚越地域を分担して巡らせ、帰順したばかりのものを慰撫した。白麟が頓丘に現れた。三河と魏郡と弘農で雹が降り、麦を傷つけた。五月辛亥、孫晧を帰命侯に封建し、その太子を中郎とし、(孫氏の)諸子を郎中とした。呉の旧来の名望家を、才能により抜擢した。孫氏の戦死した大将の家族を寿陽に移住させ、将吏で長江を渡ったものは十年間、百姓と百工は二十年間の免税とした。丙寅、武帝は軒先に出て群臣に面会し、孫晧を招いて宮殿に昇らせ、群臣はみな万歳を称した。丁卯、酃淥酒を太廟に供えた。六つの郡国で雹がふり、秋の穂を傷つけた。庚午、詔して諸々の士卒の六十歳以上のものを退役させて家に帰した。庚辰、王濬を輔国大将軍・襄陽侯とし、杜預を当陽侯、王戎を安豊侯、唐彬を上庸侯とし、賈充と琅邪王伷(司馬伷)より以下の封戸を増した。ここにおいて功績を論じて爵位を与え、公卿より以下に帛を賜わって差等があった。六月丁丑、はじめて翊軍校尉の官を設置した。丹水侯睦(司馬睦)を高陽王に封建した。甲申、東夷十国が帰化した。
秋七月、虜(胡族)の軻成泥が西平と浩亹を侵略し、督将より以下の三百人あまりを殺した。東夷の二十国が朝献した。庚寅、尚書の魏舒を尚書右僕射とした。八月、車師前部が子をよこして入侍させた。己未、皇弟の司馬延祚を楽平王に封建した。白龍の三体が永昌に出現した。九月、群臣は天下が一統されたので、しばしば封禅を要請したが、武帝は謙譲して許さなかった。冬十月丁巳、五女復(五人の娘がいる家の免税)を廃止した。十二月戊辰、広漢王賛(司馬賛)が薨じた。

原文

二年春二月、淮南・丹楊地震。三月丙申、安平王敦薨。賜王公以下吳生口各有差。詔選孫晧妓妾五千人入宮。東夷五國朝獻。夏六月、東夷五國內附。郡國十六雨雹、大風拔樹、壞百姓廬舍。江夏・泰山水、流居人三百餘家。
秋七月、上黨又暴風雨雹、傷秋稼。八月、有星孛于張。冬十月、鮮卑1.慕容廆寇昌黎。十一月壬寅、大司馬陳騫薨。有星孛于軒轅。鮮卑寇遼西、平州刺史鮮于嬰討破之。

1.『通鑑』巻八十一は「涉歸」に作る。

訓読

二年春二月、淮南・丹楊 地 震ふ。三月丙申、安平王敦 薨ず。王公より以下に吳の生口を賜はること各々差有り。詔して孫晧の妓妾五千人を選びて入宮せしむ。東夷の五國 朝獻す。夏六月、東夷の五國 內附す。郡國の十六 雨雹し、大風ありて樹を拔き、百姓の廬舍を壞す。江夏・泰山 水あり、居人三百餘家を流す。
秋七月、上黨 又 暴風あり雨雹ありて、秋稼を傷つく。八月、星孛 張に有り。冬十月、鮮卑の慕容廆 昌黎を寇す。十一月壬寅、大司馬の陳騫 薨ず。星孛 軒轅に有り。鮮卑 遼西を寇し、平州刺史の鮮于嬰 討ちて之を破る。

現代語訳

太康二年春二月、淮南と丹楊で地震があった。三月丙申、安平王敦(司馬敦)が薨じた。王公より以下に呉の生口を賜りそれぞれ差等があった。詔して孫晧の妓妾の五千人を選んで後宮に入れた。東夷の五国が朝献した。夏六月、東夷の五国が内附した。郡国の十六で雹が降り、大風が吹いて樹を倒し、百姓の家屋を破壊した。江夏と泰山で洪水があり、三百家あまりの住民を流した。
秋七月、上党でまた暴風が吹いて雹が降り、実った穂を傷つけた。八月、星孛が張にあった。冬十月、鮮卑の慕容廆(渉帰か)が昌黎を侵略した。十一月壬寅、大司馬の陳騫が薨去した。星孛が軒轅にあった。鮮卑が遼西を侵略し、平州刺史の鮮于嬰が討伐してこれを破った。

原文

三年春正月丁丑、罷秦州、并雍州。甲午、以尚書張華都督幽州諸軍事。三月、安北將軍嚴詢敗鮮卑慕容廆於昌黎、殺傷數萬人。夏四月庚午、太尉・魯公賈充薨。閏月丙子、司徒・廣陸侯李胤薨。癸丑、白龍二見于濟南。
秋八月、罷平州・寧州刺史三年一入奏事。九月、東夷二十九國歸化、獻其方物。吳故將莞恭・帛奉舉兵反、攻害建鄴令、遂圍揚州、徐州刺史嵇喜討平之。冬十二月甲申、以司空齊王攸為大司馬・督青州諸軍事、鎮東大將軍・琅邪王伷為1.撫軍大將軍、汝南王亮為太尉、光祿大夫山濤為司徒、尚書令衞瓘為司空。丙申、詔四方水旱甚者無出田租。

1.『晋書斠注』に引く周校は、「撫軍」を衍字とする。

訓読

三年春正月丁丑、秦州を罷め、雍州に并す。甲午、尚書の張華を以て都督幽州諸軍事とす。三月、安北將軍の嚴詢 鮮卑の慕容廆を昌黎に敗り、殺傷すること數萬人。夏四月庚午、太尉・魯公の賈充 薨ず。閏月丙子、司徒・廣陸侯の李胤 薨ず。癸丑、白龍二 濟南に見はる。
秋八月、平州・寧州刺史の三年一入奏事を罷む。九月、東夷二十九國 歸化し、其の方物を獻ず。吳の故將の莞恭・帛奉 兵を舉げて反し、攻めて建鄴令を害し、遂に揚州を圍むも、徐州刺史の嵇喜 討ちて之を平らぐ。冬十二月甲申、司空の齊王攸を以て大司馬・督青州諸軍事と為し、鎮東大將軍・琅邪王伷もて撫軍大將軍と為し、汝南王亮もて太尉と為し、光祿大夫の山濤もて司徒と為し、尚書令の衞瓘もて司空と為す。丙申、詔して四方の水旱 甚しき者は田租を出づるを無からしむ。

現代語訳

太康三年春正月丁丑、秦州を廃止して、雍州に併合した。甲午、尚書の張華を都督幽州諸軍事とした。三月、安北将軍の厳詢が鮮卑の慕容廆を昌黎で破り、数万人を殺傷した。夏四月庚午、太尉・魯公の賈充が薨去した。閏月丙子、司徒・広陸侯の李胤が薨去した。癸丑、白龍の二体が済南に出現した。
秋八月、平州・寧州刺史が三年ごとに都にきて報告することを中止した。九月、東夷の二十九国が帰化し、各地の名産品を献上した。呉のもと将の莞恭と帛奉が兵を挙げて反乱し、建鄴令を攻め殺し、揚州を包囲したが、徐州刺史の嵇喜が討伐して平定した。冬十二月甲申、司空の斉王攸(司馬攸)を大司馬・督青州諸軍事とし、鎮東大将軍・琅邪王伷(司馬伷)を撫軍大将軍とし、汝南王亮(司馬亮)を太尉とし、光禄大夫の山濤を司徒とし、尚書令の衞瓘を司空とした。丙申、詔して四方の水害や干害がひどい地域では田租を納めさせるのを中止した。

原文

四年春正月甲申、以尚書右僕射魏舒為尚書左僕射、下邳王晃為尚書右僕射。戊午、司徒山濤薨。二月己丑、立長樂亭侯寔為北海王。三月辛丑朔、日有蝕之。癸丑、大司馬齊王攸薨。夏四月、任城王陵薨。五月己亥、大將軍・琅邪王伷薨。徙遼東王蕤為東萊王。六月、增九卿禮秩。牂柯獠二千餘落內屬。
秋七月壬子、以尚書右僕射・下邳王晃為都督青州諸軍事。丙寅、兗州大水、復其田租。八月、鄯善國遣子入侍、假其歸義侯。以隴西王泰為尚書右僕射。冬十一月戊午、新都王該薨。以尚書左僕射魏舒為司徒。十二月庚午、大閱于宣武觀。是歲、河內及荊州・揚州大水。

訓読

四年春正月甲申、尚書右僕射の魏舒を以て尚書左僕射と為し、下邳王晃もて尚書右僕射と為す。戊午、司徒の山濤 薨ず。二月己丑、長樂亭侯寔を立てて北海王と為す。三月辛丑朔、日の之を蝕する有り。癸丑、大司馬の齊王攸 薨ず。夏四月、任城王陵 薨ず。五月己亥、大將軍・琅邪王伷 薨ず。遼東王蕤を徙して東萊王と為す。六月、九卿の禮秩を增す。牂柯獠の二千餘落 內屬す。
秋七月壬子、尚書右僕射・下邳王晃を以て都督青州諸軍事と為す。丙寅、兗州 大水あり、其の田租を復す。八月、鄯善國 子を遣はして入侍し、其に歸義侯を假す。隴西王泰を以て尚書右僕射と為す。冬十一月戊午、新都王該 薨ず。尚書左僕射の魏舒を以て司徒と為す。十二月庚午、大いに宣武觀に閱す。是の歲、河內及び荊州・揚州 大水あり。

現代語訳

太康四年春正月甲申、尚書右僕射の魏舒を尚書左僕射とし、下邳王晃(司馬晃)を尚書右僕射とした。戊午、司徒の山濤が薨じた。二月己丑、長楽亭侯の司馬寔を北海王に立てた。三月辛丑朔、日蝕があった。癸丑、大司馬の斉王攸(司馬攸)が薨去した。夏四月、任城王陵(司馬陵)が薨去した。五月己亥、大将軍・琅邪王伷(司馬伷)が薨去した。遼東王蕤(司馬蕤)を東萊王に徙した。六月、九卿の礼秩を増やした。牂柯獠の二千落あまりが内属した。
秋七月壬子、尚書右僕射・下邳王晃(司馬晃)を都督青州諸軍事とした。丙寅、兗州で洪水があり、当地の田租を免除した。八月、鄯善国が子を派遣して入侍させ、それに帰義侯を仮した。隴西王泰(司馬泰)を尚書右僕射とした。冬十一月戊午、新都王該(司馬該)が薨じた。尚書左僕射の魏舒を司徒とした。十二月庚午、大規模に宣武観で閲兵した。この年、河内及び荊州と揚州で洪水があった。

原文

五年春正月己亥、青龍二見于武庫井中。二月丙寅、立南宮王子1.玷為長樂王。壬辰、地震。夏四月、任城・魯國池水赤如血。五月丙午、宣帝廟梁折。六月、初置黃沙獄。
秋七月戊申、皇子恢薨。任城・梁國・中山雨雹、傷秋稼。減天下戶課三分之一。九月、南安大風折木、郡國五大水、隕霜、傷秋稼。冬十一月甲辰、太原王輔薨。十二月庚午、大赦。林邑・大秦國各遣使來獻。閏月、鎮南大將軍・當陽侯杜預卒。

1.安平献王孚伝では「祐」に作り、『太平寰宇記』巻六十三も「祐」に作る。

訓読

五年春正月己亥、青龍二 武庫井中に見はる。二月丙寅、南宮王子玷を立てて長樂王と為す。壬辰、地 震ふ。夏四月、任城・魯國の池水 赤きこと血の如し。五月丙午、宣帝廟の梁 折る。六月、初めて黃沙獄を置く。
秋七月戊申、皇子恢 薨ず。任城・梁國・中山 雨雹し、秋稼を傷つく。天下の戶課三分の一を減ず。九月、南安 大風ありて木を折り、郡國五 大水ありて、隕霜あり、秋稼を傷つく。冬十一月甲辰、太原王輔 薨ず。十二月庚午、大赦す。林邑・大秦國 各々使を遣はして來獻す。閏月、鎮南大將軍・當陽侯の杜預 卒す。

現代語訳

太康五年春正月己亥、青龍の二体が武庫の井戸のなかに現れた。二月丙寅、南宮王子の司馬玷(司馬祐)長楽王に立てた。壬辰、地震があった。夏四月、任城・魯国で池の水が地のように赤くなった。五月丙午、宣帝廟の梁が折れた。六月、初めて黄沙獄を置いた。
秋七月戊申、皇子の司馬恢が薨去した。任城・梁国・中山で雹が降り、実った穂を傷つけた。天下の戸ごとに三分の一を減税した。九月、南安で強風が吹いて木を折り、五つの郡国で洪水があり、霜が降って、実った穂を傷つけた。冬十一月甲辰、太原王の司馬輔が薨去した。十二月庚午、大赦した。林邑・大秦国がそれぞれ使者を派遣して名産品を献上した。閏月、鎮南大将軍・当陽侯の杜預が亡くなった。

原文

六年春正月甲申朔、以比歲不登、免租貸宿負。戊辰、以征南大將軍王渾為尚書左僕射、尚書褚䂮都督揚州諸軍事、楊濟都督荊州諸軍事。三月、郡國六隕霜、傷桑麥。夏四月、扶南等十國來獻、參離四千餘落內附。郡國四旱、十大水、壞百姓廬舍。
秋七月、巴西地震。八月丙戌朔、日有蝕之。減百姓緜絹三分之一。白龍見于京兆。以鎮軍大將軍王濬為撫軍大將軍。九月丙子、山陽公劉康薨。冬十月、南安山崩、水出。南陽郡獲兩足獸。龜茲・焉耆國遣子入侍。十二月甲申、大閱于宣武觀、旬日而罷。庚子、撫軍大將軍・襄陽侯王濬卒。

訓読

六年春正月甲申朔、比歲 不登なるを以て、租貸宿負を免ず。戊辰、征南大將軍の王渾を以て尚書左僕射と為し、尚書の褚䂮もて都督揚州諸軍事とし、楊濟もて都督荊州諸軍事とす。三月、郡國六 隕霜あり、桑麥を傷つく。夏四月、扶南ら十國 來獻し、參離の四千餘落 內附す。郡國四 旱あり、十 大水あり、百姓の廬舍を壞す。
秋七月、巴西 地 震ふ。八月丙戌朔、日の之を蝕する有り。百姓の緜絹三分の一を減ず。白龍 京兆に見はる。鎮軍大將軍の王濬を以て撫軍大將軍と為す。九月丙子、山陽公の劉康 薨ず。冬十月、南安山 崩じ、水 出づ。南陽郡 兩足の獸を獲たり。龜茲・焉耆國 子を遣はして入侍す。十二月甲申、大いに宣武觀に閱し、旬日にして罷む。庚子、撫軍大將軍・襄陽侯の王濬 卒す。

現代語訳

太康六年春正月甲申朔、連年にわたり不作なので、租貸宿負(租税の未納分や古くからの借金)を免除した。戊辰、征南大将軍の王渾を尚書左僕射とし、尚書の褚䂮を都督揚州諸軍事とし、楊済を都督荊州諸軍事とした。三月、六つの郡国で霜が降り、桑や麦を損なった。夏四月、扶南ら十国の使者が献上品を奉り、離散していた四千落あまりが国家に服従した。四つの郡国で日照があり、十の郡国で洪水があり、百姓の家屋を破壊した。
秋七月、巴西で地震があった。八月丙戌朔、日蝕があった。百姓の綿や絹の三分の一を減税した。白龍が京兆に出現した。鎮軍大将軍の王濬を撫軍大将軍とした。九月丙子、山陽公の劉康が薨去した。冬十月、南安山が崩れ、水が出た。南陽郡で二本足の虎を捕獲した。亀茲と焉耆国が任子を送り入侍させた。十二月甲申、大規模に宣武観で閲兵し、十日ほどで終えた。庚子、撫軍大将軍・襄陽侯の王濬が亡くなった。

原文

七年春正月甲寅朔、日有蝕之。乙卯、詔曰、「比年災異屢發、日蝕三朝、地震山崩。邦之不臧、實在朕躬。公卿大臣各上封事、極言其故、勿有所諱」。夏五月、郡國十三旱。鮮卑慕容廆寇遼東。
秋七月、朱提山崩、犍為地震。八月、東夷十一國內附。京兆地震。九月戊寅、驃騎將軍・扶風王駿薨。郡國八大水。冬十一月壬子、以隴西王泰都督關中諸軍事。十二月、遣侍御史巡遭水諸郡。出後宮才人・妓女以下二百七十人歸于家。始制大臣聽終喪三年。己亥、河陰雨赤雪二頃。是歲、扶南等二十一國・馬韓等十一國遣使來獻。

訓読

七年春正月甲寅朔、日の之を蝕する有り。乙卯、詔して曰く、「比年 災異 屢々發し、三朝に日 蝕し、地は震へ山は崩る。邦の臧(よ)からざるは、實に朕の躬に在り。公卿大臣 各々封事を上り、其の故を極言し、諱む所有る勿れ」と。夏五月、郡國十三 旱あり。鮮卑の慕容廆 遼東を寇す。
秋七月、朱提山 崩れ、犍為 地 震ふ。八月、東夷十一國 內附す。京兆 地 震ふ。九月戊寅、驃騎將軍・扶風王駿 薨ず。郡國八 大水あり。冬十一月壬子、隴西王泰を以て都督關中諸軍事とす。十二月、侍御史を遣はして水に遭ふ諸郡を巡らしむ。後宮の才人・妓女より以下二百七十人を出だして家に歸らしむ。始めて大臣に制して喪を終ふること三年なるを聽す。己亥、河陰に赤雪雨(ふ)ること二頃なり。是の歲、扶南ら二十一國・馬韓ら十一國 使を遣はして來獻す。

現代語訳

太康七年春正月甲寅朔、日蝕があった。乙卯、詔して、「近年に災異がしばしば発生し、三朝に日蝕がおこり、地は震えて山は崩れた。国に不吉なことがあるのは、まことにわが責任である。公卿や大臣はそれぞれ意見書を密封して提出し、この理由を率直に述べ、包み隠すことがないように」と言った。夏五月、郡国の十三で日照があった。鮮卑の慕容廆が遼東を侵略した。
秋七月、朱提山が崩れ、犍為で地震があった。八月、東夷の十一国が内付した。京兆で地震があった。九月戊寅、驃騎将軍・扶風王駿(司馬駿)が薨じた。八つの郡国で洪水があった。冬十一月壬子、隴西王泰(司馬泰)を都督関中諸軍事とした。十二月、侍御史を派遣して水害にあった諸郡を巡らせた。後宮の才人や妓女より以下の二百七十人を出して家に帰した。はじめて大臣に制書をあたえ三年の喪に服することを許した。己亥、河陰に赤い雪が二頃(の広さ)にわたり降った。この年、扶南ら二十一国と馬韓ら十一国が使者をよこして来献した。

原文

八年春正月戊申朔、日有蝕之。太廟殿陷。三月乙丑、臨商觀震。夏四月、齊國・1.(大水)〔天水〕隕霜、傷麥。六月、魯國大風、拔樹木、壞百姓廬舍。郡國八大水。
秋七月、前殿地陷、深數丈、中有破船。八月、東夷二國內附。九月、改營太廟。冬十月、南康平固縣吏李豐反、聚眾攻郡縣、自號將軍。十一月、海安令蕭輔聚眾反。十二月、吳興人蔣迪聚黨反、圍陽羨縣、州郡捕討、皆伏誅。南夷扶南・西域康居國各遣使來獻。是歲、郡國五地震。

1.五行志下に従い、「大水」を「天水」に改める。

訓読

八年春正月戊申朔、日の之を蝕する有り。太廟殿 陷る。三月乙丑、臨商觀 震ふ。夏四月、齊國・天水 隕霜あり、麥を傷つく。六月、魯國 大風あり、樹木を拔き、百姓の廬舍を壞す。郡國八 大水あり。
秋七月、前殿の地 陷ち、深さ數丈にして、中に破船有り。八月、東夷の二國 內附す。九月、太廟を改營す。冬十月、南康の平固縣の吏たる李豐 反し、眾を聚めて郡縣を攻め、自ら將軍を號す。十一月、海安令の蕭輔 眾を聚めて反す。十二月、吳興の人の蔣迪 黨を聚めて反し、陽羨縣を圍む。州郡 捕討して、皆 誅に伏す。南夷の扶南・西域の康居國 各々使を遣はして來獻す。是の歲、郡國五 地 震ふ。

現代語訳

太康八年春正月戊申朔、日蝕があった。太廟殿が陥没した。三月乙丑、臨商観が震えた。夏四月、斉国と天水で霜がおり、麦を傷つけた。六月、魯国で強風がふき、樹木を抜き、百姓の家屋を壊した。八つの郡国で洪水があった。
秋七月、前殿の地が陥没し、深さが数丈で、なかに壊れた船があった。八月、東夷の二国が内付した。九月、太廟を改築した。冬十月、南康の平固県の吏である李豊が反乱し、兵を集めて軍県を攻め、自ら将軍を号した。十一月、海安令の蕭輔が兵を集めて反乱した。十二月、呉興の人の蒋迪が仲間を集めて反乱し、陽羨県を包囲した。州郡が追討し、全員が誅に伏した。南夷の扶南と西域の康居国がそれぞれ使者をよこして来献した。この年、五つの郡国で地震があった。

原文

九年春正月壬申朔、日有蝕之。詔曰、「興化之本、由政平訟理也。二千石長吏不能勤恤人隱、而輕挾私故、興長刑獄、又多貪濁、煩撓百姓。其敕刺史二千石糾其穢濁、舉其公清、有司議其黜陟。令內外羣官舉清能、拔寒素」。江東四郡地震。二月、尚書右僕射・陽夏侯胡奮卒、以尚書朱整為尚書右僕射。三月丁丑、皇后親桑于西郊、賜帛各有差。壬辰、初并二社為一。
夏四月、江南郡國八地震。隴西隕霜、傷宿麥。五月、義陽王奇有罪、黜為三縱亭侯。詔內外羣官舉守令之才。六月庚子朔、日有蝕之。徙章武王威為義陽王。郡國三十二大旱、傷麥。
秋八月壬子、星隕如雨。詔郡國五歲刑以下決遣、無留庶獄。九月、東夷七國詣校尉內附。郡國二十四螟。冬十二月癸卯、立河間平王洪子英為章武王。戊申、青龍・黃龍各一見于魯國。

訓読

九年春正月壬申朔、日の之を蝕する有り。詔して曰く、「興化の本は、政 平にして訟 理むるに由るなり。二千石・長吏 勤めて人の隱(くる)しみを恤む能はず、而れども輕々しく私故に挾み、刑獄を興長し、又 貪濁を多くし、百姓を煩撓せしむ。其れ刺史二千石に敕して其の穢濁を糾し、其の公清を舉げしめ、有司 其の黜陟を議せ。內外の羣官をして清能を舉げ、寒素を拔せしめよ」と。江東の四郡 地 震ふ。二月、尚書右僕射・陽夏侯の胡奮 卒し、尚書の朱整を以て尚書右僕射と為す。三月丁丑、皇后 親ら西郊に桑し、帛を賜はること各々差有り。壬辰、初めて二社を并せて一と為す。
夏四月、江南の郡國八 地 震ふ。隴西に隕霜し、宿麥を傷つく。五月、義陽王奇 罪有り、黜めて三縱亭侯と為す。內外の羣官に詔して守令の才を舉げしむ。六月庚子朔、日の之を蝕する有り。章武王威を徙して義陽王と為す。郡國三十二 大いに旱あり、麥を傷つく。
秋八月壬子、星 隕つること雨の如し。郡國に詔して五歲刑より以下 決遣せしめ、庶獄に留むる無からしむ。九月、東夷の七國 校尉に詣りて內附す。郡國二十四 螟あり。冬十二月癸卯、河間平王洪の子の英を立てて章武王と為す。戊申、青龍・黃龍 各々一 魯國に見はる。

現代語訳

太康九年春正月壬申朔、日蝕があった。詔して、「国家を興隆させ民を教化する根本は、政治が広平であり訴訟に筋が通ることである。二千石(太守)と長吏(令長)たちは人民の苦しみを憐れむことに努められず、しかしながら軽々しく私情をさしはさみ、刑罰を重く長くして、さらに貪婪な利権をむさぼり、万民を煩わせ苦しめている。ついては刺史や二千石に命令してその汚職を糾弾し、公正で清廉なものを挙げさせ、担当官はその人事査定について議論せよ。内外の官僚には清廉で有能なものを挙げさせ、寒素(の科)で登用するように」と言った。江東の四郡で地震があった。二月、尚書右僕射・陽夏侯の胡奮が亡くなり、尚書の朱整を尚書右僕射とした。三月丁丑、皇后がみずから西の郊外で桑を育て(蚕の餌とし)、帛を賜わって差等があった。壬辰、初めて二社を一つにあわせた。
夏四月、江南の八つの郡国で地震があった。隴西に霜がおり、むぎを傷つけた。五月、義陽王奇(司馬奇)が罪を犯し、黜めて三縦亭侯とした。内外の群官に詔して守令(地方長官)の才覚がある人物を挙げさせた。六月庚子朔、日蝕があった。章武王威を義陽王に移した。郡国の三十二で大いに日照があり、むぎを傷つけた。
秋八月壬子、隕石が雨のように降った。郡国に詔して五歳刑より以下は判決を出し、獄訟の案件を滞留させなかった。九月、東夷の七国が校尉をたずねて内府した。二十四の郡国で螟の害があった。冬十二月癸卯、河間平王洪(司馬洪)の子の司馬英を章武王に立てた。戊申、青龍と黄龍が一頭ずつ魯国に出現した。

原文

十年夏四月、以京兆太守劉霄・陽平太守梁柳有政績、各賜穀千斛。郡國八隕霜。太廟成。乙巳、遷神主于新廟、帝迎于道左、遂祫祭。大赦、文武增位一等、作廟者二等。丁未、尚書右僕射・廣興侯朱整卒。癸丑、崇賢殿災。五月、鮮卑慕容廆來降、東夷十一國內附。六月庚子、山陽公劉瑾薨。復置二社。
冬十月壬子、徙南宮王承為武邑王。十一月丙辰、守尚書令・左光祿大夫荀勖卒。帝疾瘳、賜王公以下帛有差。含章殿鞠室火。甲申、以汝南王亮為大司馬・大都督・假黃鉞。改封南陽王柬為秦王、始平王瑋為楚王、濮陽王允為淮南王、並假節之國、各統方州軍事。立皇子乂為長沙王、穎為成都王、晏為吳王、熾為豫章王、演為代王、皇孫遹為廣陵王。立濮陽王子迪為漢王、始平王子儀為毗陵王、汝南王次子羕為西陽公。徙扶風王暢為順陽王、暢弟歆為新野公、琅邪王覲弟澹為東武公、繇為東安公、漼為廣陵公、卷為東莞公。改諸王國相為內史。十二月庚寅、太廟梁折。
是歲、東夷絕遠三十餘國・西南夷二十餘國來獻。虜奚軻男女十萬口來降。

訓読

十年夏四月、京兆太守の劉霄・陽平太守の梁柳 政績有るを以て、各々穀千斛を賜ふ。郡國八に隕霜す。太廟 成る。乙巳、神主を新廟に遷し、帝 道左に迎へ、遂に祫祭す。大赦し、文武に位を增すこと一等、廟を作る者は二等なり。丁未、尚書右僕射・廣興侯の朱整 卒す。癸丑、崇賢殿 災す。五月、鮮卑の慕容廆 來降し、東夷の十一國 內附す。六月庚子、山陽公の劉瑾 薨ず。復た二社を置く。
冬十月壬子、南宮王承を徙して武邑王と為す。十一月丙辰、守尚書令・左光祿大夫の荀勖 卒す。帝 疾 瘳え、王公より以下に帛を賜はりて差有り。含章殿の鞠室 火あり。甲申、汝南王亮を以て大司馬・大都督・假黃鉞と為す。封を改めて南陽王柬もて秦王と為し、始平王瑋もて楚王と為し、濮陽王允もて淮南王と為し、並びに假節の國とし、各々方州の軍事を統べしむ。皇子乂を立てて長沙王と為し、穎を成都王と為し、晏を吳王と為し、熾を豫章王と為し、演を代王と為し、皇孫遹もて廣陵王と為す。濮陽王子迪を立て漢王と為し、始平王子の儀を毗陵王と為し、汝南王次子羕を西陽公と為す。扶風王暢を徙して順陽王と為し、暢の弟の歆を新野公と為し、琅邪王覲の弟の澹を東武公と為し、繇を東安公と為し、漼を廣陵公と為し、卷を東莞公と為す。諸々の王國の相を改めて內史と為す。十二月庚寅、太廟の梁 折る。
是の歲、東夷の絕遠なる三十餘國・西南夷の二十餘國 來獻す。虜の奚軻 男女十萬口もて來降す。

現代語訳

太康十年夏四月、京兆太守の劉霄と陽平太守の梁柳に治績があるため、それぞれ穀千斛を賜わった。八つの郡国で霜がおりた。太廟が完成した。乙巳、神主を新廟に遷し、武帝は道の左で迎え、祫祭をおこなった。大赦し、文武の官に位を増すこと一等で、廟を作ったものは二等とした。丁未、尚書右僕射・廣興侯の朱整が亡くなった。癸丑、崇賢殿が焼けた。五月、鮮卑の慕容廆が来降し、東夷の十一国が内付した。六月庚子、山陽公の劉瑾が薨じた。また二社を置いた。
冬十月壬子、南宮王承(司馬承)を武邑王に移した。十一月丙辰、守尚書令・左光禄大夫の荀勖が亡くなった。武帝の病気が治り、王公より以下に帛を賜わり差等があった。含章殿の鞠室で出火した。甲申、汝南王亮(司馬亮)を大司馬・大都督・仮黄鉞とした。封号を改めて南陽王柬(司馬柬)を秦王とし、始平王瑋(司馬瑋)を楚王とし、濮陽王允(司馬允)を淮南王とし、いずれも仮節の国として、各方面で州の軍事を統括させた。皇子乂(司馬乂)を立てて長沙王とし、司馬穎を成都王とし、司馬晏を呉王とし、司馬熾を豫章王とし、司馬演を代王とし、皇孫遹(司馬遹)を広陵王とした。濮陽王の子の司馬迪を立てて漢王とし、始平王の子の司馬儀を毗陵王とし、汝南王の次子の司馬羕を西陽公とした。扶風王暢(司馬暢)を移して順陽王とし、司馬暢の弟の司馬歆を新野公とし、琅邪王覲(司馬覲)の弟の司馬澹を東武公とし、司馬繇を東安公とし、司馬漼を広陵公とし、司馬巻を東莞公とした。諸々の王国の相を改めて内史(だいし)とした。十二月庚寅、太廟の梁が折れた。
この年、東夷の絶遠である三十国あまりと西南夷の二十国あまりが来献した。虜の奚軻が男女十万口で来降した。

原文

太熙元年春正月辛酉朔、改元。己巳、以尚書左僕射王渾為司徒、司空衞瓘為太保。二月辛丑、東夷七國朝貢。琅邪王覲薨。三月甲子、以右光祿大夫石鑒為司空。夏四月辛丑、以侍中・車騎將軍楊駿為太尉・都督中外諸軍・錄尚書事。己酉、帝崩于含章殿、時年五十五、葬峻陽陵、廟號世祖。
帝宇量弘厚、造次必於仁恕。容納讜正、未嘗失色於人。明達善謀、能斷大事、故得撫寧萬國、綏靜四方。承魏氏奢侈刻弊之後、百姓思古之遺風、乃厲以恭儉、敦以寡慾。有司嘗奏御牛青絲紖斷、詔以青麻代之。臨朝寬裕、法度有恆。高陽許允既為文帝所殺、允子奇為太常丞。帝將有事於太廟、朝議以奇受害之門、不欲接近左右、請出為長史。帝乃追述允夙望、稱奇之才、擢為祠部郎、時論稱其夷曠。平吳之後、天下乂安、遂怠於政術、耽於遊宴、寵愛后黨、親貴當權、舊臣不得專任、彝章紊廢、請謁行矣。爰至末年、知惠帝弗克負荷、然恃皇孫聰睿、故無廢立之心。復慮非賈后所生、終致危敗、遂與腹心共圖後事。說者紛然、久而不定、竟用王佑之謀、遣太子母弟秦王柬都督關中、楚王瑋・淮南王允並鎮守要害、以強帝室。又恐楊氏之偪、復以佑為北軍中候、以典禁兵。既而寢疾彌留、至於大漸、佐命元勳、皆已先沒、羣臣惶惑、計無所從。會帝小差、有詔以汝南王亮輔政、又欲令朝士之有名望年少者數人佐之、楊駿祕而不宣。帝復尋至迷亂、楊后輒為詔以駿輔政、促亮進發。帝尋小間、問汝南王來未、意欲見之、有所付託。左右答言未至、帝遂困篤。中朝之亂、實始於斯矣。

訓読

太熙元年春正月辛酉朔、改元す。己巳、尚書左僕射の王渾を以て司徒と為し、司空の衞瓘もて太保と為す。二月辛丑、東夷の七國 朝貢す。琅邪王覲 薨ず。三月甲子、右光祿大夫の石鑒を以て司空と為す。夏四月辛丑、侍中・車騎將軍の楊駿を以て太尉・都督中外諸軍・錄尚書事と為す。己酉、帝 含章殿に崩じ、時に年五十五。峻陽陵に葬り、廟を世祖と號す。
帝 宇量は弘厚にして、造次にも必ず仁恕に於てす。讜正を容納し、未だ嘗て色を人に失はず。明達にして善謀し、能く大事を斷じ、故に萬國を撫寧し、四方を綏靜するを得たり。魏氏 奢侈にして刻弊するの後を承け、百姓 古の遺風を思へば、乃ち厲すに恭儉を以てし、敦くするに寡慾を以てす。有司 嘗て御牛の青絲 紖斷すと奏すれば、詔して青麻を以て之に代ふ。朝に臨みて寬裕にして、法度 恆有り。高陽の許允 既に文帝の殺す所と為るも、允の子の奇 太常丞と為す。帝 將に太廟に事ふること有らんとすれば、朝議 奇 害を受くるの門なりと以ひ、左右に接近せんことを欲せず、出だして長史と為すことを請ふ。帝 乃ち允の夙望を追述し、奇の才を稱し、擢でて祠部郎と為し、時論 其の夷曠なるを稱す。平吳の後に、天下 乂安たるや、遂に政術に怠り、遊宴に耽る。后黨を寵愛し、親貴 權に當たり、舊臣 任を專らにするを得ず、彝章 紊れ廢れ、請謁 行はる。爰に末年に至り、惠帝 負荷に克(た)へざる知るに、然れども皇孫 聰睿なるに恃み、故に廢立の心無し。復た賈后 生む所に非ざれば、終に危敗を致さんことを慮り、遂に腹心と與に共に後事を圖る。說く者 紛然とし、久しくして定まらず、竟に王佑の謀を用て、太子の母弟の秦王柬を遣はして關中に都督たらしめ、楚王瑋・淮南王允もて並びに要害を鎮守して、以て帝室を強からしむ。又 楊氏の偪らんことを恐れ、復た佑を以て北軍中候と為し、以て禁兵を典らしむ。既にして寢疾して彌々留め、大漸に至り、佐命の元勳、皆 已に先に沒し、羣臣 惶惑し、計 從ふ所無し。會々帝 小しく差え、詔有りて汝南王亮を以て輔政せしめ、又 朝士の名望有る年少なる者數人をして之を佐けしめんと欲するも、楊駿 祕して宣せず。帝 復た尋いで迷亂に至り、楊后 輒ち詔を為りて駿を以て輔政とし、亮に促りて進發せしむ。帝 尋いで小間に、汝南王 來たるや未しやを問ひ、意として之に見え、付託する所有らんと欲す。左右の答言 未だ至らざるに、帝 遂に困篤す。中朝の亂、實に斯より始まる。

現代語訳

太熙元年春正月辛酉朔、改元した。己巳、尚書左僕射の王渾を司徒とし、司空の衛瓘を太保とした。二月辛丑、東夷の七国が朝貢した。琅邪王覲(司馬覲)が薨去した。三月甲子、右光禄大夫の石鑒を司空とした。夏四月辛丑、侍中・車騎将軍の楊駿を太尉・都督中外諸軍・録尚書事とした。己酉、武帝は含章殿で崩御し、このとき五十五歳だった。峻陽陵に葬り、廟を世祖と号した。
武帝は度量が広く厚く、危急のことにも必ず仁恕の態度で対処した。正しい言葉を聞き入れ、人(の発言)に(怒って)顔色を変えることがなかった。事理に通じて謀を善くし、重大な決断ができたので、万国を平定し、四方を安寧にすることができた。魏帝国が奢侈によって衰亡した後をうけ、百姓はいにしえの素朴な風潮を望んでいたので、倹約を推奨し、寡欲を尊重した。担当官が牛を引くための青い絹の組紐がちぎれたことを上奏したら、詔して(絹を用いずに)青い麻で代用させた。朝廷の政治は寛容であり、刑法の運用には常則があった。高陽の許允が文帝(司馬昭)に殺されたが、許允の子の許奇を太常丞とした。武帝が太廟に謁見しようとすると、朝臣らは(太常丞として宗廟に供をする)許奇が(司馬氏に)殺害された家柄であるから、左右に接近させるべきでなく、身から遠ざけて長史にして下さいと願い出た。武帝は許允の生前の声望を述べ、許奇の才能を褒め称えて、(許奇を)抜擢して祠部郎としたので、当時の世論は武帝の警戒心のなさを称した。呉を平定した後、天下が平穏になると、政治を怠り、遊宴に耽るようになった。皇后の一族を寵愛し、近臣が権力を握り、旧臣が要職を占められず、常道が乱れて損なわれ、請託(口利き)が行われた。武帝の末年に至り、恵帝が(二世皇帝の)任務に堪えられないことを知ったが、皇孫(恵帝の子の司馬遹)が聡明であることを頼みに、太子を交替させるつもりがなかった。また(司馬遹が)賈后(賈南風)の産んだ子でないので、(賈后が司馬遹に)危害を加えることを心配し、腹心とともに死後のことを話し合った。議論は紛糾し、長く結論が出なかったが、王佑の意見を採用し、太子の同母弟の秦王柬(司馬柬)に関中を都督させ、楚王瑋(司馬瑋)と淮南王允(司馬允)に要害を鎮守させて、(恵帝の時代の)帝室を補強しようとした。さらに(外戚の)楊氏が強くなりすぎることを恐れ、(対策として)王佑を北軍中候とし、禁兵を管掌させた。病気になったが持ちこたえ、やがて危篤になると、佐命の元勲が、みな先に亡くなっているから、群臣は恐れ惑い、従うべき指針がなかった。たまたま武帝が少し回復し、詔して汝南王亮(司馬亮)に輔政させ、朝臣のなかで名望がある若い数人に司馬亮を補佐させようとしたが、(その詔を)楊駿が秘して公開しなかった。武帝の意識がふたたび混濁すると、すぐに楊后は詔を作って楊駿を輔政とし、司馬亮に(封国への)出発を急かした。わずかに意識が戻ったとき、汝南王が到着したかを聞き、彼に会って、言い遺したいことがあった。左右のものが答えるより前に、武帝は意識を失った。中朝の乱は、まことにこれより始まった。

原文

制曰、武皇承基、誕膺天命、握圖御宇、敷化導民、以佚代勞、以治易亂。絕縑綸之貢、去雕琢之飾、制奢俗以變儉約、止澆風而反淳朴。雅好直言、留心采擢、劉毅・裴楷以質直見容、嵇紹・許奇雖仇讐不棄。仁以御物、寬而得眾、宏略大度、有帝王之量焉。於時民和俗靜、家給人足、聿修武用、思啟封疆。決神算於深衷、斷雄圖於議表。馬隆西伐、王濬南征、師不延時、獯虜削迹、兵無血刃、揚越為墟。通上代之不通、服前王之未服。禎祥顯應、風教肅清、天人之功成矣、霸王之業大矣。
雖登封之禮、讓而不為、驕泰之心、因斯以起。見土地之廣、謂萬葉而無虞、覩天下之安、謂千年而永治。不知處廣以思狹、則廣可長廣、居治而忘危、則治無常治。加之建立非所、委寄失才、志欲就於升平、行先迎於禍亂。是猶將適越者、指沙漠以遵途、欲登山者涉舟航而覓路、所趣逾遠、所尚轉難。南北倍殊、高下相反、求其至也、不亦難乎。況以新集易動之基、而無久安難拔之慮。故賈充凶豎、懷姦志以擁權。楊駿豺狼、苞禍心以專輔。及乎宮車晚出、諒闇未周、藩翰變親以成疎、連兵競滅其本。棟梁回忠而起偽、擁眾各舉其威。曾未數年、綱紀大亂、海內版蕩、宗廟播遷。帝道王猷、反居文身之俗。神州赤縣、翻成被髮之鄉。棄所大以資人、掩其小而自託、為天下笑、其故何哉。
良由失慎於前、所以貽患於後。且知子者賢父、知臣者明君。子不肖則家亡、臣不忠則國亂。國亂不可以安也、家亡不可以全也。是以君子防其始、聖人閑其端。而世祖惑荀勖之姦謀、迷王渾之偽策、心屢移於眾口、事不定於己圖。元海當除而不除、卒令擾亂區夏。惠帝可廢而不廢、終使傾覆洪基。夫全一人者德之輕、拯天下者功之重、棄一子者忍之小、安社稷者孝之大。況乎資三世而成業、延二孽以喪之。所謂取輕德而捨重功、畏小忍而忘大孝。聖賢之道、豈若斯乎。雖則善始於初、而乖令終於末、所以殷勤史策、不能無慷慨焉。

訓読

制に曰く、「武皇 基を承け、誕(おほひ)に天命を膺け、圖を握り宇を御し、化を敷き民を導きて、佚を以て勞に代へ、治を以て亂に易ふ。縑綸の貢を絶ち、雕琢の飾を去り、奢俗を制して以て儉約に變じ、澆風を止めて而(もっ)て淳朴に反す。雅に直言を好み、心に采擢を留めれば、劉毅・裴楷は質直を以て容れられ、嵇紹・許奇は仇讐と雖も棄てられず。仁 以て物を御し、寬 而て衆を得、宏略大度、帝王の量有り。時に於て民 和し 俗 靜にして、家 給り 人 足り、聿(ここ)に武用を修めて、封疆を啓くを思ふ。神算を深衷に決し、雄圖を議表に斷ず。馬隆は西伐し、王濬は南征す、師 時を延さず、獯虜 迹を削り、兵に血刃無く、揚越 墟と為る。上代の不通を通じ、前王の未服を服せしむ。禎祥 顯應し、風教 肅清し、天人の功 成り、霸王の業 大いなり。
登封の禮、讓りて為さずと雖も、驕泰の心、斯に因りて以て起こる。土地の廣きを見て、萬葉にして虞れ無しと謂ひ、天下の安きを覩て、千年にして永く治まると謂ふ。廣きに處りて以て狹きを思へば、則ち廣きは長く廣くす可く、治に居りて危を忘るれば、則ち治は常の治無きを知らず。之に加ふるに建立 所に非ざれば、委寄 才を失ひ、志 升平に就かんと欲するも、行は先づ禍亂を迎ふ。是れ猶ほ將に越に適かんとする者、沙漠を指して以て途に遵ひ、山に登らんと欲する者、舟航に渉りて路を覓むがごとく、趣く所 逾々遠く、尚ぶ所 轉た難し。南北 倍々殊なり、高下 相 反するも、其の至るを求むるや、亦た難からざるや。況んや新たに集(ととの)へし易動の基を以て、久安難拔の慮無きをや。故に賈充 凶豎たりて、姦志を懷きて以て權を擁す。楊駿 豺狼たりて、禍心を苞みて以て輔を專らにす。宮車 晩出し、諒闇 未だ周ねらかずに及ぶや、藩翰 親を變じて以て疎と成り、兵を連ね競ひて其の本を滅ぼす。棟梁 忠を回して偽を起し、衆を擁して各々其の威を挙ぐ。曾て未だ數年ならずして、綱紀 大いに亂れ、海内 版蕩し、宗廟 播遷す。帝道王猷、反りて文身の俗に居る。神州赤縣〔一〕、翻りて被髮の鄕と成る。大なる所を棄てて以て人を資け、其の小を掩ひて自ら託し、天下の笑と為る、其の故は何ぞや。
良(まこと)に慎を前に失ふに由り、患ひを後に貽す所以なり。且つ子を知る者は賢父なり、臣を知る者は明君なり。子 不肖なれば則ち家 亡び、臣 不忠なれば則ち國 亂る。國 亂るれば以て安んず可からず、家 亡ぶれば以て全くす可からず。是を以て君子は其の始を防ぎ、聖人は其の端を閑(はば)む。而るに世祖 荀勖の姦謀に惑ひ、王渾の偽策に迷ひ、心は屢々衆口に移され、事は己の圖に定まらず。元海の當に除くべくして除かず、卒に區夏を擾亂せしむ。惠帝の廢す可くして廢せず、終に洪基をして傾覆せしむ。夫れ一人を全くする者は德の輕きものなり、天下を拯ふ者は功の重きものなり、一子を棄つる者は忍の小さきものなり、社稷を安んずる者は孝の大なるものなり。況んや三世に資して業を成し、二孽に延きて以て之を喪ふをや。所謂る輕德を取りて重功を捨て、小忍を畏れて大孝を忘るるなり。聖賢の道、豈に斯の若きや。始を善くするに初に則ると雖も、而るに終りを令するに末に乖く、史策に殷勤して、慷慨すること無き能はざる所以なり」と〔二〕。

〔一〕『史記』巻七十四に、鄒衍の言葉として「中國名曰赤縣神州」とある。
〔二〕武帝紀の巻末に採録された制(制書)の訓読は、渡邉義浩「『晋書』の御撰と正史の成立」(『「古典中国」における史学と儒教』汲古書院、二〇二二年)を参照した。

現代語訳

唐の太宗(李世民)の制書に、「武皇帝は事業を承継し、おおいに天命を受け、良識を持って一家を統御し、教化を布いて民を導き、(味方を)休息させ(敵の)疲弊を誘い、乱世を治世へと変えた。贅沢な織物の献上を辞めさせ、玉石の彫刻を取り除き、奢侈な風潮を倹約重視へと変え、軽佻浮薄を改めて惇朴へと変えた。まことに率直な発言を好み、(人材の)選抜に心をくだいたので、劉毅・裴楷は質直さを評価されて登用され、嵇紹・許奇は仇敵であったが排除されなかった。仁徳は万物を統御し、寛大さは多数の支持を得、広大な度量をもち、帝王の器質を備えていた。ときに民が調和して風俗は静謐となり、家産が成り立ち人民が充足し、こうして武力行使することなく、領土が開拓されることを願った。神のような考えを抱き、雄々しい戦略を朝廷にて決断した。馬隆は西を討伐し、王濬は南を征伐し、軍事はいたずらに先延ばしにせず、獯虜(西北の異民族)は行動範囲が狭まり、兵の刀に血が付くことはなく、揚越(呉帝の宮都)は廃墟となった。上の世代では通じていなかったところを開通させ、前代の王には服していなかったものを服従させた。瑞祥は明らかに感応し、風俗と教化は清らかに広まり、天と人が呼応して功績を達成し、霸王の事業は偉大であった。
封禅の儀礼を、辞退して行わなかったが、驕慢な心は、ここから生じた。領土の広さを見て、万世の先まで脅威がないと思いこみ、天下の安らかさを見て、千年先まで長く治まるだろうと考えた。(領土が)広くても狭かったことを忘れなければ、その広さは長続きするものであるし、(天下が)治まっていても危うさを忘れれば、つねに治まっているわけではないことが分からなくなる。これに加えて(太子の)選出が不適切だったので、才能があるひとに(後事を)委託せず、志は太平を望んでいるにも拘わらず、行いは真っ先に禍乱を招いてしまった。これはまるで越(南)に行こうとするのに、砂漠(北)を目指して道を進むようなもので、山に登ろうとするのに、船で水路を進むようなものであり、進むほどにますます遠ざかり、意図の実現はますます難しくなるのである。(逆に進むので)南北はますます距離が隔たり、標高の高低は逆行しているので、到達を求めても、なんと難しいことであろう。ましてや新たに(天下を)集約したばかりで移ろいやすい基礎しかないのに、熟慮した万全の考えがなければどうであろうか。ゆえに賈充は凶悪な小人であり、姦悪な志を抱いて権力を握った。楊駿は豺狼のような人物で、禍心を胸に隠して輔政を牛耳った。宮車が出るのは遅く、諒闇がまだ終わっていないのに、藩王たちは親しさをすてて疎となり(対立し)、兵を連ねて競ってその宗家を滅ぼした。執政者は忠にそむいて偽りを始め、軍勢を擁してそれぞれの勢威を高めた。こうして(武帝の崩御から)たった数年のうちに、綱紀が大いに乱れ、海内は動乱し、宗廟は流離してしまった。帝王の実践すべき道は、かえって文身(いれずみをした異民族)によって行われた。神州赤縣(中華の地)は、ひるがえって被髮(髪を束ねない異民族)の領土となった。優先すべきことを捨てて人を助け、短所を見ぬふるをして後嗣に選び、天下の笑いものになったが、その理由は何であろうか。
まことに慎しみを先に失い、憂患を後に遺したからである。子(の適性)を知るのが賢父であり、臣を知るのが明君である。子が不肖であれば家が亡び、臣が不忠であれば国が乱れる。国が乱れれば安泰でいられず、家が滅びれば(血統を)保全できない。だから君子はその開始を防ぎ、聖人はその端緒をはばむのである。しかし世祖(武帝)は荀勖の姦悪な謀に惑わされ、王渾の偽策に迷わされ、本心がしばしば群臣の話題となり、結論は自身の考えどおりとならなかった。元海(劉淵)はまさに除くべきであるのに除かず、結局は區夏(中原)を騒乱させた。恵帝は廃するべきであるのに廃さず、最後は王朝を傾覆させてしまった。そもそも自分一人を全うするのは仁の軽い者のやることで、天下全体を救うのが功の重いことであり、一子を棄てるのは忍従の小さいことであり、社稷を安んずるのは孝の大きなことである。まして三世代をたすけて帝業を成し、二つの悪事(劉淵と恵帝のこと)によって帝業を失うのはいかがなものか。軽い徳を選んで重い功を捨て、小さな忍従を畏れて大きな孝を忘れると言うことである。聖賢の道は、どうしてこのようなものであろうか。当初は適切に(王朝を)始めたにも拘わらず、最期には誤った判断をした、(これが)史料を熱心に読み、慷慨せずにはいられない理由である」とある。