いつか読みたい晋書訳

晋書_帝紀第九巻_太宗簡文帝(昱)・孝武帝(曜)

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。

簡文帝

原文

簡文皇帝諱昱、字道萬、元帝之少子也。幼而岐嶷、為元帝所愛。郭璞見而謂人曰、「興晉祚者、必此人也」。及長、清虛寡欲、尤善玄言。
永昌元年、元帝詔曰、「先公武王・先考恭王君臨琅邪、繼世相承、國嗣未立、蒸嘗靡主、朕常悼心。子昱仁明有智度、可以虔奉宗廟、以慰罔極之恩。其封昱為琅邪王、食會稽・宣城如舊」。咸和元年、所生鄭夫人薨。帝時年七歲、號慕泣血、固請服重。1.(元帝)〔成帝〕哀而許之、故徙封會稽王、拜散騎常侍。九年、遷右將軍、加侍中。咸康六年、進撫軍將軍、領祕書監。

1.時代が合わないため、「元帝」を「成帝」に改める。

訓読

簡文皇帝 諱は昱、字は道萬、元帝の少子なり。幼くして岐嶷たり、元帝の愛する所と為る。郭璞 見て人に謂ひて曰く、「晉祚を興す者は、必ず此の人なり」と。長ずるに及び、清虛にして寡欲、尤も玄言を善とす。
永昌元年、元帝 詔して曰く、「先公の武王・先考の恭王 琅邪に君臨し、世を繼ぐこと相 承ぎ、國嗣 未だ立たざるに、蒸嘗に主靡く、朕 常に心を悼む。子の昱 仁明にして智度有り、以て虔みて宗廟を奉じて、以て罔極の恩を慰む可し。其れ昱を封じて琅邪王と為し、會稽・宣城を食むこと舊の如くせよ」と。咸和元年、生む所の鄭夫人 薨ず。帝 時に年七歲にして、號慕 泣血し、固く服重せんことを請ふ。成帝 哀みて之を許し、故に封を會稽王に徙し、散騎常侍を拜せしむ。九年、右將軍に遷り、侍中を加ふ。咸康六年、撫軍將軍に進み、祕書監を領す。

現代語訳

簡文皇帝は諱を昱、字を道萬といい、元帝の末子である。幼くして知恵が優れていた。元帝に寵愛された。郭璞は簡文帝に会ってから人に、「晋祚(晋帝国の命運)を興すものは、必ずこの人物である」と言った。成長すると、さっぱりとして欲が少なく、もっとも玄言(老荘の説)に親しんだ。
永昌元年、元帝(司馬睿)は詔して、「先公(元帝の祖父)の武王(司馬伷)と先考(元帝の父)の恭王(司馬覲)は琅邪に君臨し、世代を重ねて継承したが、(現在は)国の継嗣が立てられず、蒸嘗(宗廟の祭祀)の主催者がおらず、朕はつねに心を痛めている。わが子の司馬昱は仁明で智恵があるため、謹んで宗廟を奉じ、極まりない(祖先の)恩を慰めるように。司馬昱を封建して、琅邪王とし、会稽と宣城の食邑は現状どおりとする」と言った。咸和元年、生母の鄭夫人が薨去した。簡文帝はこのとき七歳であったが、号泣して血の涙を流し、正式に母の喪に服したいと願い出た。成帝は哀んでこれを許し、ゆえに封号を会稽王に移し、(定められた職務のない)散騎常侍を拝させた。咸和九年、右将軍に遷り、侍中を加えた。咸康六年、撫軍将軍に進み、秘書監を領した。

原文

建元元年夏五月癸丑、康帝詔曰、「太常職奉天地、兼掌宗廟、其為任也、可謂重矣。是以古今選建、未嘗不妙簡時望、兼之儒雅。會稽王叔履尚清虛、志道無倦、優游上列、諷議朝肆。其領太常本官如故」。永和元年、崇德太后臨朝、進位撫軍大將軍・錄尚書六條事。二年、驃騎何充卒、1.(康帝崩)。崇德太后詔帝專總萬機。八年、進位司徒、固讓不拜。穆帝始冠、帝稽首歸政、不許。廢帝即位、以琅邪王絕嗣、復徙封琅邪、而封王子昌明為會稽王。帝固讓、故雖封琅邪而不去會稽之號。太和元年、進位丞相・錄尚書事、入朝不趨、讚拜不名、劍履上殿、給羽葆鼓吹班劍六十人、又固讓。
及廢帝廢、皇太后詔曰、「丞相・錄尚書・會稽王體自中宗、明德劭令、英秀玄虛、神棲事外。以具瞻允塞、故阿衡三世。道化宣流、人望攸歸、為日已久。宜從天人之心、以統皇極。主者明依舊典、以時施行」。於是大司馬桓溫率百官進太極前殿、具乘輿法駕、奉迎帝於會稽邸、於朝堂變服、著平巾幘單衣、東向拜受璽綬。

1.中華書局本の校勘記に従い、時期が合わないため「康帝崩」を削る。

訓読

建元元年夏五月癸丑、康帝 詔して曰く、「太常 職は天地に奉じ、兼せて宗廟を掌り、其の任為るや、重しと謂ふ可し。是を以て古今 選び建つるに、未だ嘗て妙に時望を簡び、之に儒雅を兼せざるはなし。會稽王の叔は履尚 清虛にして、志道は倦む無く、上列に優游し、朝肆に諷議あり。其れ太常を領して本官は故の如くせよ」と。永和元年、崇德太后 臨朝するや、位を撫軍大將軍・錄尚書六條事に進む。二年、驃騎何充 卒し、崇德太后 詔して帝をして萬機を專總せしむ。八年、位を司徒に進むるも、固讓して拜せず。穆帝 始めて冠するや、帝 稽首して政を歸すも、許さず。廢帝 即位するや、琅邪王の絕嗣なるを以て、復た封を琅邪に徙し、而して王子の昌明を封じて會稽王と為す。帝 固讓し、故に琅邪に封ずと雖も會稽の號を去らず。太和元年、位を丞相・錄尚書事に進め、入朝不趨、讚拜不名、劍履上殿とし、羽葆鼓吹班劍六十人を給ふも、又 固讓す。
廢帝 廢せらるに及び、皇太后 詔して曰く、「丞相・錄尚書・會稽王 體は中宗よりし、明德にして劭令、英秀にして玄虛、神は事外に棲む。具瞻 允塞するを以て、故に阿衡とすること三世。道化 宣流し、人望 歸する攸にして、日々已に久しと為す。宜しく天人の心に從ひて、以て皇極を統ぶべし。主者は明らに舊典に依り、時を以て施行せよ」と。是に於て大司馬の桓溫 百官を率ゐて太極前殿に進み、乘輿法駕を具へ、帝を會稽邸に奉迎す。朝堂に於て服を變へ、平巾幘單衣を著け、東向して璽綬を拜受す。

現代語訳

建元元年夏五月癸丑、康帝が詔して、「太常の職務は天地を奉じ、あわせて宗廟を掌り、その任務は、重いと言えよう。ゆえに古来より選任する際は、すぐれて時望のあるものを選び、良心のある儒者に兼任させなかったことはない。会稽王のおじ(簡文帝)は礼義をそなえて清廉で、志の道に倦むことなく、高い位でゆったりと構え、朝野に高い声望がある。彼に太常を領させて本官は現状どおりとせよ」と言った。永和元年、崇徳太后が臨朝すると、位を撫軍大将軍・録尚書六条事に進めた。永和二年、驃騎の何充が亡くなると、崇徳太后が詔して簡文帝に万機を専任させた。永和八年、位を司徒に進めたが、固辞して拝さなかった。穆帝が元服すると、簡文帝は稽首して政務を返還したが、許されなかった。廃帝が即位すると、琅邪王の後嗣が絶えているため、改めて封号を琅邪に移し、王の子の司馬昌明を会稽王に封建した。簡文帝は固辞したので、琅邪に封建したが会稽王という封号を残した。太和元年、位を丞相・録尚書事に進め、入朝不趨、賛拝不名、剣履上殿とし、羽葆と鼓吹と班剣の六十人を支給されたが、これも固辞した。
廃帝が廃位されると、皇太后は詔し、「丞相・録尚書・会稽王はからだを中宗から受け(元帝の子で)、明徳にして善美であり、秀でているが奥ぶかく、心は世俗に染まっていない。衆人に仰がれて篤実であるから、三代にわたり阿衡(宰相)を務めさせた。道の教化を推し広め、人望を集めて、長い年月が経過している。天と人の心に従い、帝王の位に適任である。担当官は旧典に依拠し、当世に沿って実現させるように」と言った。ここにおいて大司馬の桓温が百官をひきいて太極前殿に進み、天子の車駕をそろえ、簡文帝を会稽王の邸宅に迎えにいった。朝堂で服を着替え、平巾幘と単衣をつけ、東をむいて璽綬を拝受した。

原文

咸安元年冬十一月己酉、即皇帝位。桓溫出次中堂、令兵屯衞。1.乙卯、溫奏廢太宰・武陵王晞及子2.總。詔魏郡太守毛安之帥所領宿衞殿內、改元為咸安。庚戌、使兼太尉周頤告于太廟。辛亥、桓溫遣弟祕逼新蔡王晃詣西堂、自列與太宰・武陵王晞等謀反。帝對之流涕、溫皆收付廷尉。癸丑、殺東海王二子及其母。初、帝以沖虛簡貴、歷宰三世、溫素所敬憚。及初即位、溫乃撰辭欲自陳述、帝引見、對之悲泣、溫懼不能言。至是、有司承其旨、奏誅武陵王晞、帝不許。溫固執至于再三、帝手詔報曰、「若晉祚靈長、公便宜奉行前詔。如其大運去矣、請避賢路」。溫覽之、流汗變色、不復敢言。乙卯、廢晞及其三子、徙于新安。丙辰、放新蔡王晃于衡陽。
戊午、詔曰、「王室多故、穆哀早世、皇胤夙遷、神器無主。東海王以母弟近屬、入纂大統、嗣位經年、昏闇亂常、人倫虧喪、大禍將及、則我祖宗之靈靡知所託。皇太后深懼皇基、時定大計。大司馬因順天人、協同神略、親帥羣后、恭承明命。雲霧既除、皇極載清、乃顧朕躬、仰承弘緒。雖伊尹之寧殷朝、博陸之安漢室、無以尚也。朕以寡德、猥居元首、實懼眇然、不克負荷、戰戰兢兢、罔知攸濟。思與兆庶更始、其大赦天下、大酺五日、增文武位二等、孝順忠貞鰥寡孤獨米人五斛」。己未、賜溫軍三萬人、人布一匹、米一斛。庚申、加大司馬桓溫為丞相、不受。辛酉、溫旋自白石、因鎮姑孰。以冠軍將軍毛武生都督荊州之沔中・揚州之義城諸軍事。十二月戊子、詔以京都有經年之儲、權停一年之運。庚寅、廢東海王奕為海西公、食邑四千戶。辛卯、初薦酃淥酒於太廟。

1.干支で52番目の「乙卯」が、50番目の「癸丑」より前にあるのは順序がおかしい。
2.「總」は、本伝(巻六十四 元四王伝)では「綜」につくる。

訓読

咸安元年冬十一月己酉、皇帝の位に即く。桓溫 出でて中堂に次し、兵をして屯衞せしむ。乙卯、溫 太宰・武陵王の晞及び子の總を廢せんことを奏す。詔して魏郡太守の毛安之をして領する所を帥ゐて殿內に宿衞せしめ、改元して咸安と為す。庚戌、兼太尉の周頤をして太廟に告げしむ。辛亥、桓溫 弟の祕を遣はして新蔡王の晃に逼りて西堂に詣り、太宰・武陵王の晞らと謀反すと自列せしむ。帝 之に對ひて流涕し、溫 皆 收めて廷尉に付す。癸丑、東海王の二子及び其の母を殺す。初め、帝 沖虛にして簡貴なるを以て、歷宰すること三世、溫 素より敬憚する所なり。初め即位するに及び、溫 乃ち辭を撰して自ら陳述せんと欲し、帝 引見するに、之に對ひて悲泣すれば、溫 懼れて言ふ能はず。是に至り、有司 其の旨を承け、武陵王晞を誅せんことを奏するも、帝 許さず。溫 固く執ること再三に至り、帝 手づから詔して報へて曰く、「若し晉祚 靈長たれば、公 便ち宜しく前詔を奉行すべし。如し其の大運 去られば、賢路に避けんことを請ふ」と。溫 之を覽じ、汗を流し色を變じ、復た敢て言はず。乙卯、晞及び其の三子を廢し、新安に徙す。丙辰、新蔡王の晃を衡陽に放つ。
戊午、詔して曰く、「王室 多故にして、穆哀 早世し、皇胤 夙に遷り、神器 主無し。東海王 母弟の近屬なるを以て、入りて大統を纂し、位を嗣ぎて年を經るに、昏闇にして常を亂し、人倫 虧喪し、大禍 將に及ばんとせば、則ち我が祖宗の靈 託する所を知る靡し。皇太后 深く皇基を懼れ、時に大計を定む。大司馬 天人に順ふに因り、神略に協同し、親ら羣后を帥ゐ、恭みて明命を承けしむ。雲霧 既に除き、皇極 載清し、乃ち朕が躬に顧み、仰ぎて弘緒を承く。伊尹の殷朝を寧んじ、博陸の漢室を安ずると雖も、以て尚(あた)ること無きなり。朕 寡德を以て、猥りに元首に居り、實に懼れて眇然たり、負荷に克せず、戰戰兢兢とし、濟ふ攸を知る罔し。兆庶と與に更始せんと思ひ、其れ天下を大赦し、大酺すること五日、文武の位二等を增し、孝順忠貞鰥寡孤獨に米を人ごとに五斛とす」と。己未、溫の軍三萬人を賜ふこと、人ごとに布一匹、米一斛なり。庚申、大司馬の桓溫に加へて丞相と為すも、受けず。辛酉、溫 旋して白石よりし、因りて姑孰に鎮す。冠軍將軍の毛武生を以て都督荊州之沔中・揚州之義城諸軍事とす。十二月戊子、詔して京都 經年の儲有るを以て、權に一年の運を停む。庚寅、東海王奕を廢して海西公と為し、食邑は四千戶なり。辛卯、初めて酃淥酒を太廟に薦む。

現代語訳

咸安元年冬十一月己酉、皇帝の位に即いた。桓温が退出して中堂に留まり、兵に駐屯し護衛させた。乙卯、桓温は太宰・武陵王の司馬晞と子の司馬総(司馬綜)を廃位せよと上奏した。詔して魏郡太守の毛安之に配下の兵をひきいて殿内に宿衛させ、改元して咸安とした。庚戌、兼太尉の周頤に命じて(即位を)太廟に報告させた。辛亥、桓温は弟の桓秘を派遣して新蔡王晃(司馬晃)に逼って西堂に至らせ、太宰・武陵王の司馬晞らと謀反したことを自供させた。簡文帝は司馬晃と対面して涙を流し、桓温は関係者をすべて捕らえて廷尉に引き渡した。癸丑、東海王(廃帝)の二子とその母を殺した。これよりさき、簡文帝は心がさっぱりとして淡泊で、三世にわたり宰相を歴任したので、桓温はかねてより敬い憚っていた。即位した当初、桓温は(謀反を告発する)文を作って証言しようと思ったが、簡文帝に引見すると、面と向かって悲しんで泣かれたので、桓温は懼れて(謀反があったと)言えなかった。ここにいたり、担当官は桓温の意向をふまえ、武陵王晞(司馬晞)を誅殺するように上奏したが、簡文帝は許さなかった。桓温は再三にわたり強く要請したので、簡文帝は直筆の詔を書いて答え、「もし晋帝国の命運が長続きするなら、公(桓温)は前の詔に従って実行するように(誅殺してはならない)。もし大いなる命運が去っているならば、賢者に道を譲りたい(皇位から降りたい)と思う」と言った。桓温はこれを見て、汗を流して顔色を変え、もう二度と口に出さなかった。乙卯、司馬晞とその三人の子の爵位を剥奪し、新安に移した。丙辰、新蔡王の司馬晃を衡陽に放逐した。
戊午、詔して、「王室は多難で、穆帝と哀帝は早世し、皇帝の血統はつとに遷り、帝位は空席となった。東海王(廃帝)は(哀帝の)同母弟という血縁の近さから、入って皇統を継承し、位を嗣いで年数を経たが、暗愚さにより安定を乱し、人倫が喪失し、大きな禍いがせまり、わが祖先の霊は拠りどころを失った。皇太后は深く帝国の基礎が揺らぐことを懼れ、大いなる計画(皇帝の廃立)を定めた。大司馬(桓温)は天と人の思いに沿い、神々の意向と協調し、みずから諸侯や諸臣をひきい、(朕に)謹んで明らかな天命を授けた。(桓温のおかげで)雲や霧が除かれ、帝位を清め、朕の身を顧み、仰いで皇統を継承することができた。伊尹が殷朝を安定させ、博陸(霍光)が漢室を安泰にしたけれども、桓温ほどではない。朕は寡徳であるが、みだりに帝位におり、まことに懼れ縮こまっている。役割に堪えられず、戦々恐々とし、落ち着きどころを知らない。万人とともに(晋帝国を)再建しようと思う、天下を大赦し、五日間の酒盛りをし、文武の官の爵位を二等ずつ上げ、孝行や忠正なものや配偶者や子のいないものに一人あたり五斛を与えよ」と言った。己未、桓温の兵士の三万人に、一人あたり布一匹、米一斛を賜った。庚申、大司馬の桓温に丞相を加えようとしたが、受けなかった。辛酉、桓温は引き還して白石から(建康を)離れ、姑孰に出鎮した。冠軍将軍の毛武生を都督荊州之沔中・揚州之義城諸軍事とした。十二月戊子、詔して首都には数年の蓄えがあるので、かりに一年の納税を止めた。庚寅、東海王奕(廃帝の司馬奕)を廃して海西公とし、食邑は四千戸とした。辛卯、初めて酃淥酒を太廟に薦めた。

原文

二年春正月辛丑、百濟・林邑王各遣使貢方物。二月、苻堅伐慕容桓於遼東、滅之。三月丁酉、詔曰、「朕居阿衡三世、不能濟彼時雍、乃至海西失德、殆傾皇祚。賴祖宗靈祇之德、皇太后淑體應期、藩輔忠賢、百官勠力、用能蕩氛霧於昊蒼、耀晨輝於宇宙。遂以眇身、託于王公之上、思賴羣賢、以弼其闕。夫敦本息末、抑絕華競、使清濁異流、能否殊貫、官無秕政、士無謗讟、不有懲勸、則德禮焉施。且強寇未殄、勞役未息、自非軍國戎祀之要、其華飾煩費之用皆省之。夫肥遁窮谷之賢、滑泥揚波之士、雖抗志玄霄、潛默幽岫、貪屈高尚之道、以隆協贊之美、孰與自足山水、棲遲丘壑、徇匹夫之潔、而忘兼濟之大邪。古人不借賢於曩代、朕所以虛想於今日。內外百官、各勤所司、使善無不達、惡無不聞、令詩人無素餐之刺、而吾獲虛心之求焉」。
癸丑、詔曰、「吾承祖宗洪基、而昧于政道、懼不能允釐天工、克隆先業、夕惕惟憂、若涉泉水。賴宰輔忠德、道濟伊望、羣后竭誠、協契斷金、內外盡匡翼之規、文武致匪躬之節、冀因斯道、終克弘濟。每念干戈未戢、公私疲悴、藩鎮有疆理之務、征戍懷東山之勤、或白首戎陣、忠勞未敘、或行役彌久、儋石靡儲、何嘗不昧旦晨興、夜分忘寢。雖未能撫而巡之、且欲達其此心。可遣大使詣大司馬、并問方伯、逮于邊戍、宣詔大饗、求其所安。又籌量賜給、悉令周普」。乙卯、詔曰、「往事故之後、百度未充、羣僚常俸、並皆寡約、蓋隨時之義也。然退食在朝、而祿不代耕、非經通之制。今資儲漸豐、可籌量增俸」。騶虞見豫章。

訓読

二年春正月辛丑、百濟・林邑王 各々使を遣はして方物を貢す。二月、苻堅 慕容桓を遼東に伐ち、之を滅す。三月丁酉、詔して曰く、「朕 阿衡に居ること三世、彼の時雍を濟ふ能はず、乃ち海西 德を失ひ、殆ど皇祚を傾くに至る。賴ひに祖宗は靈祇の德あり、皇太后は淑體 期に應じ、藩輔 忠賢たりて、百官 力を勠し、用て能く氛霧を昊蒼に蕩ひ、晨輝を宇宙に耀かす。遂に眇身を以て、王公の上に託(つ)き、羣賢を賴りて、以て其の闕を弼けんことを思ふ。夫れ本を敦くし末を息め、華競を抑絕し、清濁をして流を異ならしめ、能否をして貫を殊ならしめ、官に秕政無く、士に謗讟無く、懲勸有らずんば、則ち德禮 焉に施す。且つ強寇 未だ殄ばず、勞役 未だ息まざれば、軍國の戎祀の要に非ざるより、其の華飾にして煩費の用なるは皆 之を省け。夫れ肥遁 窮谷の賢〔一〕、滑泥 揚波の士、志を玄霄に抗し、幽岫に潛默すと雖も、高尚の道に屈して、以て協贊の美を隆くするを貪ると、自ら山水に足り、丘壑に棲遲して、匹夫の潔に徇ひて、兼濟の大を忘するるとは孰れぞ。古人 賢を曩代に借りざるは、朕 想を今日に虛ふす所以なり。內外の百官、各々所司に勤め、善をして達せざる無く、惡をして聞せざる無からしめ、詩人をして素餐の刺無からしめんと、而して吾 虛心の求を獲ん」と。
癸丑、詔して曰く、「吾 祖宗の洪基を承け、而れども政道に昧く、允に天工を釐し、克く先業を隆くする能はざるを懼れ、夕に惕し惟れ憂ひ、泉水を涉るが若し。賴ひに宰輔 忠德にして、道は伊望に濟しく、羣后 誠を竭し、協して斷金を契り、內外 匡翼の規を盡し、文武 匪躬の節を致す。冀はくは斯の道に因り、終に克く弘濟せんことを。每に干戈 未だ戢まず、公私 疲悴するを念じ、藩鎮に疆理の務め有り、征戍 東山の勤を懷き〔二〕、或いは白首の戎陣、忠勞 未だ敘せず、或いは行役 彌々久しく、儋石の儲すら靡く、何ぞ嘗て昧旦に興晨し、夜分に寢ぬるを忘るるか。未だ能く撫して之を巡せざると雖も、且つ其れ此の心に達せんと欲す。大使を遣はして大司馬に詣らしめ、并せて方伯に問ひ、邊戍に逮びては、詔を宣して大饗し、其の安ずる所を求む可し。又 賜給を籌量し、悉く周普せしめよ」と。乙卯、詔して曰く、「往に事故の後、百度 未だ充たず、羣僚の常俸、並びに皆 寡約するは、蓋し隨時の義なり。然して退食して朝に在るに、而れども祿 耕に代へざるは、經通の制に非ず。今 資儲 漸く豐かなれば、籌量して俸を增す可し」。騶虞 豫章に見る。

〔一〕肥遁は、ゆったりとして世を逃れ隠れていること。『易経』遁卦にみえる。
〔二〕東山は、『毛詩』豳風の篇名。周公旦が東征から帰還して兵士をねぎらい、これを祝って作られた詩。

現代語訳

咸安二年春正月辛丑、百済と林邑王がそれぞれ使者をよこして名産品を献上した。二月、苻堅が慕容桓を遼東にて討伐し、これを滅ぼした。三月丁酉、詔して曰く、「朕は阿衡(宰相)の任に居ること三代で、各時代の治世(三人の皇帝)を救えず、海西公(廃帝)は徳を失い、ほぼ帝国の基礎を傾けるに至った。さいわいに祖先に霊妙な徳があり、皇太后の清らかな態度が時局に適し、藩王たちは忠賢で、百官は力を尽くし、暗い霧(逆賊)を青天に洗い清め、朝日を天下に輝かせた。かくして微少な私(簡文帝)は、王公の上(帝位)に即位し、賢者たちを頼りにして、その欠点を補いたいと思っている。根本を重んじて末端を退け、贅沢の競争を排除し、清濁の流れに区別をつけ、有能と無能のあいだに位の上下をつけ、仕事をしない官僚がおらず、人士に誹謗中傷がなく、賞罰をなくせば(不要にすれば)、徳や礼が実現されるだろう。しかも国外の強敵がまだ滅びず、労役が軽減されていないから、国家の軍時と祭祀に係わる重要なこと以外で、華美で費用のかかることはすべてを中止せよ。隠棲して深い谷に暮らす賢者や、泥水を濁し波しぶきを立てる人士は、志を黒い雲に隠し、奥深い洞穴に潜んでいるとしても、果たして高尚な生き方に殉じ、国家を支えた美名を得ることと、かたや山水のなかで自足し、山岳地帯で隠棲して、自分だけの高潔さを守り、天下を救済する責務を忘れることとを比べてどちらが良いだろうか(隠遁をやめて出仕すべきである)。いにしえの人々が賢者を前代に借りなかった(同時代の賢者を求めた)ことは、朕が虚心に賢者を求める理由である。内外の百官は、それぞれ担当の業務につとめ、善行の報告もれがなく、悪行の報告もれもないようにし、詩人から素餐の刺(高位高官が怠慢であるという批判)が出ないようにするために、私は虚心に人材の獲得に努めるだろう」と言った。
癸丑、詔して、「吾は祖先から事業を継承したが、政治の道に疎いため、天子の職責を果たし、祖先の事業を興隆させられないことを懼れ、朝夕に憂悶し、湖面を歩くように不安である。さいわいに宰相(桓温)が忠正で徳があり、事績が伊尹や太公望に等しく、諸侯が誠意を尽くし、断金の誓いをして、内外の臣下は匡輔の道を守り、文武の官はわが身よりも王事を優先している。どうかこの方法を推し進め、帝業を広げて万民を救いたい。つねに戦役が収束せず、公私ともに疲弊していることを心配し、諸王には藩土を治める責務を果たし、征伐軍は(周公旦の凱旋を歌った)東山の詩を胸に抱き、あるものは白髪あたまで戦陣にいるが、忠誠と功労をまだ評価しておらず、あるものは従軍が長期化しているが、わずかな蓄えすらない。どうして(兵士たちが)早朝に起きて、夜中まで働いていることを忘れるだろうか。まだ慰撫し視察していないが、彼らの心に応えたいと思っている。使者を送って大司馬(桓温)のもとに行かせ、さらに地方長官を慰問し、国防の前線に到達したら、詔を伝えて大いに酒盛りし、彼らを望みに応じるように。また支給品を計量し、もれなく行き渡らせるように」と言った。乙卯、詔して、「かつて事変が起きた後、法整備は不十分であり、群僚の俸給を、一律に削減するのは、暫定的な措置に過ぎない。しかも(官僚が)食膳を削って朝廷にいるが、俸禄によって耕作の埋め合わせをしないのは、恒常的な制度ではない。いま財政が少しずつ回復しているので、計量して俸禄を増やすように」と言った。騶虞が豫章に現れた。

原文

夏四月、徙海西公於吳縣西柴里。追貶庾后曰夫人。六月、遣使拜百濟王餘句為鎮東將軍、領樂浪太守。戊子、前護軍將軍庾希舉兵反、自海陵入京口、晉陵太守卞1.(耽)〔眈〕奔于曲阿。秋七月壬辰、桓溫遣東海內史周少孫討希、擒之、斬于建康市。2.(乙未)〔己未〕、立會稽王昌明為皇太子、皇子道子為琅邪王、領會稽內史。是日、帝崩于東堂、時年五十三。葬高平陵、廟號太宗。遺詔以桓溫輔政、依諸葛亮・王導故事。
帝少有風儀、善容止、留心典籍、不以居處為意、凝塵滿席、湛如也。嘗與桓溫及武陵王晞同載遊版橋、溫遽令鳴鼓吹角、車馳卒奔、欲觀其所為。晞大恐、求下車、而帝安然無懼色、溫由此憚服。溫既仗文武之任、屢建大功、加以廢立、威振內外。帝雖處尊位、拱默守道而已、常懼廢黜。先是、熒惑入太微、尋而海西廢。及帝登阼、熒惑又入太微、帝甚惡焉。時中書郎郗超在直、帝乃引入、謂曰、「命之修短、本所不計、故當無復前日事邪」。超曰、「大司馬臣溫方內固社稷、外恢經略、非常之事、臣以百口保之」。及超請急省其父、帝謂之曰、「致意尊公、家國之事、遂至於此。由吾不能以道匡衞、愧歎之深、言何能喻」。因詠庾闡詩云「志士痛朝危、忠臣哀主辱」、遂泣下霑襟。帝雖神識恬暢、而無濟世大略、故謝安稱為惠帝之流、清談差勝耳。沙門支道林嘗言「會稽有遠體而無遠神」。謝靈運迹其行事、亦以為赧獻之輩云。

1.卞壼傳と『資治通鑑』巻一百三に従い、「耽」を「眈」に改める。中華書局本の校勘記によると、卞壼の四子は、眕・盱・瞻・眈といい、すべて「目」偏であるため、「眈」に作るべきである。
2.『資治通鑑』巻一百三に従い、「乙未」を「己未」に改める。『晋書』孝武帝紀、『太平御覧』巻九十九に引く『晋中興書』も「己未」につくる。

訓読

夏四月、海西公を吳縣の西柴里に徙す。庾后を追貶して夫人と曰ふ。六月、使を遣はして百濟王餘句を拜して鎮東將軍と為し、樂浪太守を領せしむ。戊子、前護軍將軍の庾希 兵を舉げて反し、海陵より京口に入り、晉陵太守の卞眈 曲阿に奔る。秋七月壬辰、桓溫 東海內史の周少孫を遣はして希を討ち、之を擒へ、建康市に斬る。己未、會稽王の昌明を立てて皇太子と為し、皇子の道子もて琅邪王と為し、會稽內史を領せしむ。是の日、帝 東堂に崩じ、時に年は五十三なり。高平陵に葬り、廟を太宗と號す。遺詔して桓溫を以て輔政せしめ、諸葛亮・王導の故事に依る。
帝 少くして風儀有り、容止に善く、心を典籍に留め、居處を以て意と為さず、凝塵 席に滿つるも、湛如たるなり。嘗て桓溫及び武陵王晞と與に同載して版橋に遊ぶに、溫 遽かに令して鳴鼓吹角るや、車馳 卒かに奔り、其の為す所を觀んと欲す。晞 大いに恐れ、車を下りんことを求め、而れども帝は安然として懼色無く、溫 此に由りて憚服す。溫 既に文武の任に仗り、屢々大功を建て、加ふるに廢立を以てし、威 內外に振ふ。帝 尊位に處ると雖も、拱默して道を守るのみ、常に廢黜せられんことを懼る。是より先、熒惑 太微に入り、尋いで海西 廢せらる。帝 登阼するに及び、熒惑 又 太微に入り、帝 甚だ焉を惡む。時に中書郎の郗超 直に在り、帝 乃ち引き入れ、謂ひて曰く、「命の修短は、本より計らざる所、故に當に復た前日の事無からんや」と。超曰く、「大司馬たる臣溫 方に內に社稷を固め、外に經略を恢く。非常の事、臣 百口を以て之を保(たす)けん」と。超 急に其の父に省せんと請ふに及びて、帝 之に謂ひて曰く、「意を尊公に致せ、家國の事は、遂に此に至る。吾 道を以て匡衞する能はざるに由り、愧歎の深きは、言は何ぞ能く喻へんやと」と。因りて庾闡の詩を詠して云く「志士 朝の危ふきを痛み」、忠臣 主の辱めらるを哀しむ」と。遂に泣下し襟を霑す。帝 神識 恬暢なると雖も、而れども濟世の大略無く、故に謝安 稱して惠帝の流と為し、清談のみ差や勝れるのみ。沙門の支道林 嘗て言ふ、「會稽に遠體有りて遠神無し」と。謝靈運 其の行事を迹て、亦た以て赧獻の輩と為すとしか云ふ。

現代語訳

夏四月、海西公を呉県の西柴里に移した。庾后を追貶して夫人とした。六月、使者を派遣して百済王の餘句を拝して鎮東将軍とし、楽浪太守を領させた。戊子、前護軍将軍の庾希が兵をあげて反乱し、海陵から京口に入り、晋陵太守の卞眈は曲阿に逃げた。秋七月壬辰、桓温が東海内史の周少孫を遣わして庾希を討伐し、これを捕らえ為、建康の市で斬った。己未、会稽王の司馬昌明を皇太子に立て、皇子の司馬道子を琅邪王とし、会稽内史を領させた。この日、簡文帝は東堂で崩御し、このとき五十三歳だった。高平陵に葬り、廟を太宗と号した。遺詔して桓温に輔政させ、諸葛亮や王導の故事に依ることとした。
簡文帝は若くして風采があり、振る舞いがすぐれ、専心して典籍を学び、身の回りのことに執心せず、座席(のまわり)にちりが積もっても、さっぱり気にしなかった。かつて桓温が武陵王の司馬晞と簡文帝を(馬車に)同乗させて版橋に出かけたが、桓温がいきなり鼓を鳴らし角笛を吹き、馬車を急加速させ、同乗者を観察しようとした。司馬晞は大いに恐れ、車を下りたいと言ったが、簡文帝は落ち着いて懼れる様子がなく、桓温はこれを見て簡文帝に憚り心服した。桓温が文武の全権を預かり、しばしば大きな功績を立て、廃立を企むようになり、威勢が内外を震わせた。簡文帝は帝位にいたが、何もせず黙って平常どおりで(桓温に反抗せず)、つねに廃位されるのを懼れていた。これより先、熒惑が太微に入り、すぐに海西公が廃位されたという前例があった。簡文帝が即位すると、熒惑がまたもや太微に入り、簡文帝はこれをひどく嫌がった。このとき中書郎の郗超が宿直であったが、簡文帝は郗超を招き入れ、彼に、「天命の長短は、もとより予測できないが、先日と同じこと(廃立)が起こらないだろうか」と言った。郗超は、「大司馬である臣下桓温は国内では社稷を安定させ、国外では戦略を成功させています。常ならぬこと(廃立)があれば、わが一族はきっと支持するでしょう」と言った。郗超が突如として父を訪れたいと(退席を)願い出ると、簡文帝は、「あなたの父上に伝えてくれ、国家のことは、ついにこのような状況(廃立が必至)となった。私が正しい道で(国家を)正し守るできなかった、恥と嘆きの深さは、言い尽くせるものではないと」と言った。こうして簡文帝は(東晋の)庾闡の詩を詠して、「志士ならば朝廷の危うさを痛切に感じ、忠臣ならば主君が辱められることを悲しむ(のだが)」と言った。こうして涙を流し襟をぬらした。簡文帝は精神と見識は落ちつきがあって温和であったが、時世を救う大きな見通しはなく、ゆえに謝安は簡文帝のことを(西晋の)恵帝の類いであり、清談だけが少し(恵帝より)優れているとした。沙門の支道林がかつて、「会稽(簡文帝)には格別の体があるが格別の心はない」と言った。謝霊運はその行跡を評価して、周の赧王や後漢の献帝と同類であると言ったという。

孝武帝

原文

孝武皇帝諱曜、字昌明、簡文帝第三子也。興寧三年七月甲申、初封會稽王。咸安二年秋七月己未、立為皇太子。是日、簡文帝崩、太子即皇帝位。詔曰、「朕以不造、奄丁閔凶、號天扣地、靡知所訴。藐然幼沖、眇若綴旒、深惟社稷之重、大懼不克負荷。仰憑祖宗之靈、積德之祀、先帝淳風玄化、遺詠在民。宰輔英賢、勳隆德盛。顧命之託、實賴匡訓。羣后率職、百僚勤政。冀孤弱之躬有寄、皇極之基不墜。先恩遺惠、播于四海、思弘餘潤、以康黎庶。其大赦天下、與民更始」。九月甲寅、追尊皇妣會稽王妃曰順皇后。冬十月丁卯、葬簡文皇帝于高平陵。十一月甲午、妖賊盧悚晨入殿庭、游擊將軍毛安之等討擒之。是歲、三吳大旱、人多餓死、詔所在振給。苻堅陷仇池、執秦州刺史楊世。
寧康元年春正月己丑朔、改元。二月、大司馬桓溫來朝。三月癸丑、詔除丹楊竹格等四桁稅。夏五月、旱。秋七月己亥、使持節・侍中・都督中外諸軍事・丞相・錄尚書・大司馬・揚州牧・平北將軍・徐兗二州刺史・南郡公桓溫薨。庚戌、進右將軍桓豁為征西將軍。以江州刺史桓沖為中軍將軍・都督揚豫江三州諸軍事・揚州刺史、鎮姑孰。八月1.壬子、崇德太后臨朝攝政。九月、苻堅將楊安寇成都。丙申、以尚書僕射王彪之為尚書令、吏部尚書謝安為尚書僕射、吳國內史刁彝為北中郎將・徐兗二州刺史、鎮廣陵。復置光祿勳・大司農・少府官。冬十月、西平公張天錫貢方物。十一月、苻堅將楊安陷梓潼及梁・益二州、刺史周仲孫帥騎五千南遁。

1.この月に「壬子」はない。

訓読

孝武皇帝 諱は曜、字は昌明、簡文帝の第三子なり。興寧三年七月甲申、初めて會稽王に封ぜらる。咸安二年秋七月己未、立ちて皇太子と為る。是の日、簡文帝 崩じ、太子 皇帝の位に即く。詔して曰く、「朕 不造なるを以て、奄に閔凶に丁し、天に號し地を扣き、訴ふる所知る靡し。藐然たる幼沖、眇として綴旒が若く、深く社稷の重を惟ふに、大いに負荷に克せざるを懼る。仰ぎて祖宗の靈に憑り、積德の祀、先帝の淳風玄化、遺詠 民に在り。宰輔の英賢、勳は隆く德は盛にして、顧命の託、實に匡訓に賴る。羣后 職を率し、百僚 政に勤む。冀はくは孤弱の躬もて寄る有らば、皇極の基 墜ちんことを。先恩遺惠、四海に播し、餘潤を弘めて、以て黎庶を康んぜんと思ふ。其れ天下を大赦し、民と與に更始せよ」と。九月甲寅、皇妣の會稽王妃に追尊して順皇后と曰ふ。冬十月丁卯、簡文皇帝を高平陵に葬る。十一月甲午、妖賊の盧悚 晨に殿庭に入り、游擊將軍の毛安之ら討ちて之を擒ふ。是の歲、三吳 大いに旱あり、人 多く餓死し、詔して所在に振給せしむ。苻堅 仇池を陷し、秦州刺史の楊世を執ふ。
寧康元年春正月己丑朔、改元す。二月、大司馬の桓溫 來朝す。三月癸丑、詔して丹楊竹格ら四桁の稅を除く〔一〕。夏五月、旱あり。秋七月己亥、使持節・侍中・都督中外諸軍事・丞相・錄尚書・大司馬・揚州牧・平北將軍・徐兗二州刺史・南郡公の桓溫 薨ず。庚戌、右將軍の桓豁を進めて征西將軍と為す。江州刺史の桓沖を以て中軍將軍・都督揚豫江三州諸軍事・揚州刺史と為し、姑孰に鎮せしむ。八月壬子、崇德太后 臨朝し攝政す。九月、苻堅の將の楊安 成都を寇す。丙申、尚書僕射の王彪之を以て尚書令と為し、吏部尚書の謝安もて尚書僕射と為し、吳國內史の刁彝もて北中郎將・徐兗二州刺史と為し、廣陵に鎮せしむ。復た光祿勳・大司農・少府の官を置く。冬十月、西平公の張天錫 方物を貢す。十一月、苻堅の將の楊安 梓潼及び梁・益二州を陷し、刺史の周仲孫 騎五千を帥ゐて南して遁す。

〔一〕要調査。

現代語訳

孝武皇帝は諱を曜、字を昌明といい、簡文帝の第三子である。興寧三年七月甲申、はじめて会稽王に封建された。咸安二年秋七月己未、皇太子に立てられた。同日に、簡文帝が崩御し、太子が皇帝の位に即いた。詔して、「朕は不幸にも、にわかに父(簡文帝)と死別し、天にむけて号泣し地を叩くが、訴える先が分からない。親のない幼弱の身で、はたあしのように頼りなく、社稷の重大さを考えると、任務に堪えられないことを懼れる。祖先の霊を仰いで頼り、(祖先は)歴代に徳を積み重ね、先帝(簡文帝)の淳朴な教化は、まだ民に余韻が残っている。すぐれて賢い宰相(桓温)は、勲功が高く徳が盛んで、(簡文帝の)遺命で(後事を)託されたので、その教導に頼ることとする。諸侯は責務を果たし、官僚は政務に励むように。幼くして親を失ったが(桓温に)身を寄せ、帝国の基礎を失墜させまいと願う。先代以来の恩恵は、四海に伝播したが、その名残りを広め、万民を安寧にしたい。天下に大赦し、万民とともに政治を刷新するように」と言った。九月甲寅、皇妣の会稽王妃にして順皇后とした。冬十月丁卯、簡文皇帝を高平陵に葬った。十一月甲午、妖賊の盧悚が朝に殿庭に進入し、游撃将軍の毛安之らが討伐しこれを捕らえた。この年、三呉の地域で大いに旱魃があり、多くの人々が餓死し、詔して各地で振給させた。苻堅が仇池を陥落させ、秦州刺史の楊世を捕らえた。
寧康元年春正月己丑朔、改元した。二月、大司馬の桓温が来朝した。三月癸丑、詔して丹楊の竹格ら四桁の税を除いた。夏五月、日照があった。秋七月己亥、使持節・侍中・都督中外諸軍事・丞相・録尚書・大司馬・揚州牧・平北将軍・徐兗二州刺史・南郡公の桓温が薨去した。庚戌、右将軍の桓豁を征西将軍に進めた。江州刺史の桓沖を中軍将軍・都督揚豫江三州諸軍事・揚州刺史とし、姑孰を鎮守させた。八月壬子、崇徳太后が臨朝し摂政した。九月、苻堅の将の楊安が成都に侵略した。丙申、尚書僕射の王彪之を尚書令とし、吏部尚書の謝安を尚書僕射とし、呉国内史の刁彝を北中郎将・徐兗二州刺史とし、広陵に出鎮させた。ふたたび光禄勲・大司農・少府の官を設置した。冬十月、西平公の張天錫が名産品を献上した。十一月、苻堅の将の楊安が梓潼及び梁・益二州を陥落させ、刺史の周仲孫が五千騎をひきいて南に逃走した。

原文

二年春正月癸未朔、大赦。追封諡故會稽世子郁為臨川獻王。己酉、北中郎將・徐兗二州刺史刁彝卒。二月癸丑、以丹楊尹王坦之為北中郎將・徐兗二州刺史。丁巳、有星孛于女虛。三月丙戌、彗星見於氐。夏四月壬戌、皇太后詔曰、「頃玄象或愆、上天表異、仰觀斯變、震懼于懷。夫因變致休、自古之道、朕敢不克意復心、以思厥中。又三吳奧壤、股肱望郡、而水旱併臻、百姓失業、夙夜惟憂、不能忘懷、宜時拯卹、救其彫困。三吳義興・晉陵及會稽遭水之縣尤甚者、全除一年租布、其次聽除半年、受振貸者即以賜之」。五月、蜀人張育自號蜀王、帥眾圍成都、遣使稱藩。秋七月、涼州地震、山崩。苻堅將鄧羌攻張育、滅之。八月、以長秋將建、權停婚姻。九月丁丑、有星孛于天市。冬十一月己酉、天門蜑賊攻郡、太守王匪死之、征西將軍桓豁遣師討平之。長城人錢步射・錢弘等作亂、吳興太守朱序討平之。癸酉、鎮遠將軍桓石虔破苻堅將姚萇於墊江。
三年春正月辛亥、大赦。夏五月丙午、北中郎將・徐兗二州刺史・藍田侯王坦之卒。甲寅、以中軍將軍・揚州刺史桓沖為鎮北將軍・徐州刺史、鎮丹徒、尚書僕射謝安領揚州刺史。秋八月癸巳、立皇后王氏、大赦、加文武位一等。九月、帝講孝經。冬十月癸酉朔、日有蝕之。十二月2.甲申、神獸門災。癸未、皇太后詔曰、「頃日蝕告變、水旱不適、雖克己思救、未盡其方。其賜百姓窮者米、人五斛」。癸巳、帝釋奠于中堂、祠孔子、以顏回配。

1.「甲申」が、「癸未」より前にあるのは干支の順序として誤りである。

訓読

二年春正月癸未朔、大赦す。追封して故會稽世子郁に諡して臨川獻王と為す。己酉、北中郎將・徐兗二州刺史の刁彝 卒す。二月癸丑、丹楊尹の王坦之を以て北中郎將・徐兗二州刺史と為す。丁巳、星孛 女虛に有り。三月丙戌、彗星 氐に見る。夏四月壬戌、皇太后 詔して曰く、「頃 玄象 或愆し、上天 異を表し、斯の變を仰觀し、懷に震懼す。夫れ變に因りて致休するは、古よりの道なり。朕 敢て意を克し心を復し、以て厥の中を思はざらんや。又 三吳 奧壤なるも、股肱の望郡なるに、而れども水旱 併せて臻り、百姓 業を失ひ、夙夜に惟れ憂ひ、懷を忘るる能はず。宜しく時に拯卹し、其の彫困を救へ。三吳の義興・晉陵及び會稽の水に遭ふの縣 尤も甚しき者は、全く一年の租布を除き、其の次は半年を除くを聽せ、振貸を受くる者は即ち以て之を賜ふ」と。五月、蜀人の張育 自ら蜀王を號し、眾を帥ゐて成都を圍み、使を遣はして稱藩す。秋七月、涼州 地 震へ、山 崩る。苻堅の將の鄧羌 張育を攻め、之を滅す。八月、長秋 將に建たんとするを以て、權に婚姻を停む。九月丁丑、星孛 天市に有り。冬十一月己酉、天門の蜑賊 郡を攻め、太守の王匪 之に死し、征西將軍の桓豁 師を遣はして之を討平す。長城の人の錢步射・錢弘ら亂を作し、吳興太守の朱序 之を討平す。癸酉、鎮遠將軍の桓石虔 苻堅の將の姚萇を墊江に破る。
三年春正月辛亥、大赦す。夏五月丙午、北中郎將・徐兗二州刺史・藍田侯の王坦之 卒す。甲寅、中軍將軍・揚州刺史の桓沖を以て鎮北將軍・徐州刺史と為し、丹徒に鎮し、尚書僕射の謝安をして揚州刺史を領せしむ。秋八月癸巳、皇后の王氏を立て、大赦し、文武に位一等を加ふ。九月、帝 孝經を講ず。冬十月癸酉朔、日の之を蝕する有り。十二月甲申、神獸門 災す。癸未、皇太后 詔して曰く、「頃 日蝕 變を告げ、水旱 適かず、克己し救を思ふと雖も、未だ其の方を盡さず。其れ百姓の窮する者に米を賜ひ、人ごとに五斛とせよ」と。癸巳、帝 中堂に釋奠し、孔子を祠り、顏回を以て配す。

現代語訳

寧康二年春正月癸未朔、大赦した。追封して故会稽世子の司馬郁に臨川献王と諡した。己酉、北中郎将・徐兗二州刺史の刁彝が亡くなった。二月癸丑、丹楊尹の王坦之を北中郎将・徐兗二州刺史とした。丁巳、星孛が女虚にあらわれた。三月丙戌、彗星が氐にあらわれた。夏四月壬戌、皇太后が詔して、「このごろ天体現象が不規則で、上天が異変を表している。これの事態を仰ぎ観て、心のなかで震え懼れている。異変をふまえて民を休ませるのは、古よりの方法である。朕はあえて反省をして、中正の道を考えないことがあろうか。また三呉の地は未開の辺境であるが、(東晋にとっては)首都を支える重要な郡であるにも拘わらず、水害や旱魃がどちらも発生し、百姓は生業を失っているため、これを朝夕に心配し、片時も忘れたことがない。遅れることなく賑恤し、この窮乏を救うように。三呉の義興と晋陵及び会稽(郡)のうち水害にあった県でもっとも被害が深刻な地域は、一年分の穀物と布の納付を免除し、それに次ぐ地域では半年分の免除を許可するように。貸付を受けたものは返済をしなくてよい」と言った。五月、蜀人の張育が自ら蜀王を号し、軍勢をひきいて成都を囲み、使者をよこして称藩した。秋七月、涼州で地震があり、山が崩れた。苻堅の将の鄧羌が張育を攻め、これを滅ぼした。八月、長秋(皇后宮)がすぐに建つので、かりに婚姻をとどめた。九月丁丑、星孛が天市にあらわれた。冬十一月己酉、天門の蜑族の賊が郡を攻め、太守の王匪が戦死し、征西将軍の桓豁が軍勢を派遣してこれを討伐し平定した。長城の人の銭歩射と銭弘ら乱をおこし、呉興太守の朱序がこれを討伐し平定した。癸酉、鎮遠将軍の桓石虔が苻堅の将の姚萇を墊江で破った。
寧康三年春正月辛亥、大赦した。夏五月丙午、北中郎将・徐兗二州刺史・藍田侯の王坦之が亡くなった。甲寅、中軍将軍・揚州刺史の桓沖を鎮北将軍・徐州刺史とし、丹徒を鎮守させ、尚書僕射の謝安に揚州刺史を領させた。秋八月癸巳、皇后の王氏を立て、大赦し、文武の官に爵位を一等ずつ加えた。九月、孝武帝が『孝経』を講じた。冬十月癸酉朔、日蝕があった。十二月甲申、神獣門が焼けた。癸未、皇太后が詔して、「近ごろ日蝕が変を告げ、水害と干害がおさまらず、救済に努めたけれども、まだ方策が万全でない。そこで百姓のうち困窮するものに米を賜わり、人ごとに五斛とするように」と言った。癸巳、孝武帝は中堂で釋奠し、孔子を祠り、顔回を配祀した。

原文

太元元年春正月壬寅朔、帝加元服、見于太廟。皇太后歸政。甲辰、大赦、改元。丙午、帝始臨朝。以征西將軍桓豁為征西大將軍、領軍將軍郗愔為鎮軍大將軍、中軍將軍桓沖為車騎將軍、加尚書僕射謝安中書監・錄尚書事。甲子、謁建平等四陵。夏五月癸丑、地震。甲寅、詔曰、「頃者上天垂監、譴告屢彰、朕有懼焉、震惕于心。思所以議獄緩死、赦過宥罪、庶因大變、與之更始」。於是大赦、增文武位各一等。六月、封河間王欽子範之為章武王。秋七月、苻堅將苟萇陷涼州、虜刺史張天錫、盡有其地。乙巳、除度田收租之制、公王以下口稅米三斛、蠲在役之身。冬十月、移淮北流人於淮南。十一月1.己巳朔、日有蝕之。詔太官徹膳。十二月、苻堅使其將苻洛攻代、執代王涉翼犍。
二年春正月、繼絕世、紹功臣。三月、以兗州刺史朱序為南中郎將・梁州刺史・監沔中諸軍、鎮襄陽。閏月壬午、地震。甲申、暴風、折木發屋。夏四月己酉、雨雹。五月丁丑、地震。六月2.己巳、暴風、揚沙石。林邑貢方物。秋七月3.乙卯、老人星見。八月壬辰、車騎將軍桓沖來朝。丁未、以尚書僕射謝安為司徒。丙辰、使持節・都督荊梁寧益交廣六州諸軍事・荊州刺史・征西大將軍桓豁卒。冬十月辛丑、以車騎將軍桓沖都督荊江梁益寧交廣七州諸軍事・領護南蠻校尉・荊州刺史、尚書王蘊為徐州刺史・督江南晉陵諸軍、征西司馬謝玄為兗州刺史・廣陵相・監江北諸軍。壬寅、散騎常侍・左光祿大夫・尚書令王彪之卒。十二月庚寅、以尚書王劭為尚書僕射。

1.この年は、十一月丁酉朔である。
2.六月は癸巳朔なので、同月に己巳は収まらない。
3.七月は癸亥朔なので、同月に乙卯は収まらない。

訓読

太元元年春正月壬寅朔、帝 元服を加へ、太廟に見ゆ。皇太后 政を歸す。甲辰、大赦し、改元す。丙午、帝 始めて臨朝す。征西將軍の桓豁を以て征西大將軍と為し、領軍將軍の郗愔もて鎮軍大將軍と為し、中軍將軍の桓沖もて車騎將軍と為し、尚書僕射の謝安に中書監・錄尚書事を加ふ。甲子、建平ら四陵に謁す。夏五月癸丑、地 震ふ。甲寅、詔して曰く、「頃者 上天は監を垂れ、譴告 屢々彰はれ、朕 懼るる有り、心に震惕す。獄を議して死を緩め、過を赦し罪を宥す所以を思ひ、庶はくは大變に因り、之と與に更始せよ」と。是に於て大赦し、文武の位を增すこと各々一等なり。六月、河間王の欽の子たる範之を封じて章武王と為す。秋七月、苻堅の將の苟萇 涼州を陷し、刺史の張天錫を虜へ、盡く其の地を有つ。乙巳、度田收租の制を除き、公王より以下に口ごとに稅米三斛とし、役に在るの身を蠲く。冬十月、淮北の流人を淮南に移す。十一月己巳朔、日の之を蝕する有り。太官に詔して徹膳せしむ。十二月、苻堅 其の將の苻洛をして代を攻めしめ、代王の涉翼犍を執ふ。
二年春正月、絕世を繼ぎ、功臣を紹がしむ。三月、兗州刺史の朱序を以て南中郎將・梁州刺史・監沔中諸軍と為し、襄陽に鎮せしむ。閏月壬午、地 震ふ。甲申、暴風あり、木を折り屋を發す。夏四月己酉、雨雹る。五月丁丑、地 震ふ。六月己巳、暴風あり、沙石を揚ぐ。林邑 方物を貢す。秋七月乙卯、老人星 見る。八月壬辰、車騎將軍の桓沖 來朝す。丁未、尚書僕射の謝安を以て司徒と為す。丙辰、使持節・都督荊梁寧益交廣六州諸軍事・荊州刺史・征西大將軍の桓豁 卒す。冬十月辛丑、車騎將軍の桓沖を以て都督荊江梁益寧交廣七州諸軍事・領護南蠻校尉・荊州刺史とし、尚書の王蘊もて徐州刺史・督江南晉陵諸軍と為し、征西司馬の謝玄もて兗州刺史・廣陵相・監江北諸軍と為す。壬寅、散騎常侍・左光祿大夫・尚書令の王彪之 卒す。十二月庚寅、尚書の王劭を以て尚書僕射と為す。

現代語訳

太元元年春正月壬寅朔、孝武帝は元服を加え、太廟に謁見した。皇太后が政治を返還した。甲辰、大赦し、改元した。丙午、孝武帝ははじめて臨朝した。征西将軍の桓豁を征西大将軍とし、領軍将軍の郗愔を鎮軍大将軍とし、中軍将軍の桓沖を車騎将軍とし、尚書僕射の謝安に中書監・録尚書事を加えた。甲子、建平ら四陵に拝謁した。夏五月癸丑、地震があった。甲寅、詔して、「近年は上天が勧戒を垂れて、譴責がしばしば現れ、朕はこれを懼れ、心に震え恐れている。刑罰について議論して死刑を緩め、罪過を許すことを検討し、大きな変化(ここでは¥)をきっかけに、政治を刷新するように」と言った。ここにおいて大赦し、文武の官の爵位を一等ずつ増した。六月、河間王の司馬欽の子である司馬範之を章武王に封建した。秋七月、苻堅の将の苟萇が涼州を陥落させ、刺史の張天錫を捕らえ、その領地をすべて獲得した。乙巳、度田收租の制を除き、公王より以下は一人あたり税米三斛とし、労役中のものは免除した。冬十月、淮北の流人を淮南に移した。十一月己巳朔、日蝕があった。太官に詔して天子の食膳を減少させた。十二月、苻堅がその将の苻洛に代を攻撃させ、代王の渉翼犍を捕らえた。
太元二年春正月、あとつぎが絶えた家を嗣がせ、功臣の爵位を存続させた。三月、兗州刺史の朱序を南中郎将・梁州刺史・監沔中諸軍とし、襄陽に出鎮させた。閏月壬午、地震があった。甲申、暴風があり、木を折り家屋を飛ばした。夏四月己酉、雹がふった。五月丁丑、地震があった。六月己巳、暴風があり、砂礫を巻きあげた。林邑が名産品を献上した。秋七月乙卯、老人星があらわれた。八月壬辰、車騎将軍の桓沖が来朝した。丁未、尚書僕射の謝安を司徒とした。丙辰、使持節・都督荊梁寧益交広六州諸軍事・荊州刺史・征西大将軍の桓豁が亡くなった。冬十月辛丑、車騎将軍の桓沖を都督荊江梁益寧交広七州諸軍事・領護南蛮校尉・荊州刺史とし、尚書の王蘊を徐州刺史・督江南晋陵諸軍とし、征西司馬の謝玄を兗州刺史・広陵相・監江北諸軍とした。壬寅、散騎常侍・左光禄大夫・尚書令の王彪之が亡くなった。十二月庚寅、尚書の王劭を尚書僕射とした。

原文

三年春二月乙巳、作新宮、帝移居會稽王邸。三月乙丑、雷雨、暴風、發屋折木。夏五月庚午、陳留王曹恢薨。六月、大水。秋七月辛巳、帝入新宮。乙酉、老人星見南方。
四年春正月辛酉、大赦、郡縣遭水旱者減租稅。丙子、謁建平等七陵。二月戊午、苻堅使其子丕攻陷襄陽、執南中郎將朱序。又陷順陽。三月、大疫。壬戌、詔曰、「狡寇縱逸、藩守傾沒、疆埸之虞、事兼平日。其內外眾官、各悉心勠力、以康庶事。又年穀不登、百姓多匱。其詔御所供、事從儉約、九親供給、眾官廩俸、權可減半。凡諸役費、自非軍國事要、皆宜停省、以周時務」。癸未、使右將軍毛武生帥師伐蜀。夏四月、苻堅將韋鍾陷魏興、太守吉挹死之。五月、苻堅將1.句難・彭超陷盱眙、高密內史毛璪之為賊所執。六月、大旱。戊子、征虜將軍謝玄及超・難戰于君川、大破之。秋八月丁亥、以左將軍王蘊為尚書僕射。乙未、暴風、揚沙石。九月、盜殺建安太守傅湛。冬2.十二月己酉朔、日有蝕之。
五年春正月乙巳、謁崇平陵。夏四月、大旱。癸酉、3.大赦五歲刑以下。五月、大水。以司徒謝安為衞將軍・儀同三司。六月甲寅、震含章殿四柱、并殺內侍二人。甲子、以比歲荒儉、大赦、自太元三年以前逋租宿債皆蠲除之、其鰥寡窮獨孤老不能自存者、人賜米五斛。丁卯、以驃騎將軍・琅邪王道子為司徒。秋九月癸未、皇后王氏崩。冬十月、九真太守李遜據交州反。十一月乙酉、葬定皇后于隆平陵。

1.「句難」は、苻堅載記と『資治通鑑』巻一百四は「俱難」につくる。
2.天文志中は、この日蝕を「閏月己酉朔」につくり、干支に照らせば閏月が正しい。
3.「大赦」とあるが、「大」は衍字が疑われる。

訓読

三年春二月乙巳、新宮を作り、帝 移りて會稽王邸に居す。三月乙丑、雷雨、暴風あり、屋を發し木を折る。夏五月庚午、陳留王の曹恢 薨ず。六月、大水。秋七月辛巳、帝 新宮に入る。乙酉、老人星 南方に見る。
四年春正月辛酉、大赦し、郡縣の水旱に遭ふ者は租稅を減ず。丙子、建平ら七陵に謁す。二月戊午、苻堅 其の子の丕を使はして襄陽を攻陷せしめ、南中郎將の朱序を執ふ。又 順陽を陷す。三月、大疫あり。壬戌、詔して曰く、「狡寇 縱逸たりて、藩守 傾沒し、疆埸の虞、事は平日に兼す。其れ內外の眾官、各々心を悉し力を勠し、以て庶事を康んぜよ。又 年穀 登らざれば、百姓 多く匱(とぼ)し。其れ詔して供する所を御し、事は儉約に從ひ、九親の供給、眾官の廩俸、權(かり)に減半す可し。凡そ諸々の役費、軍國の事要に非ざるよりは、皆 宜しく停省して、以て時務に周すべし」と。癸未、右將軍の毛武生をして師を帥ゐて蜀を伐たしむ。夏四月、苻堅の將の韋鍾 魏興を陷し、太守の吉挹 之に死す。五月、苻堅の將の句難・彭超 盱眙を陷し、高密內史の毛璪之 賊の執ふる所と為る。六月、大旱あり。戊子、征虜將軍の謝玄 超・難と君川に于て戰ひ、大いに之を破る。秋八月丁亥、左將軍の王蘊を以て尚書僕射と為す。乙未、暴風あり、沙石を揚ぐ。九月、盜 建安太守の傅湛を殺す。冬十二月己酉朔、日の之を蝕する有り。
五年春正月乙巳、崇平陵に謁す。夏四月、大旱あり。癸酉、五歲刑より以下を大赦す。五月、大水あり。司徒の謝安を以て衞將軍・儀同三司と為す。六月甲寅、含章殿の四柱を震はし、并せて內侍二人を殺す。甲子、比歲 荒儉なるを以て、大赦し、太元三年より以前の逋租宿債 皆 之を蠲除し、其の鰥寡窮獨孤老にして自存する能はざる者は、人ごとに米五斛を賜ふ。丁卯、驃騎將軍・琅邪王の道子を以て司徒と為す。秋九月癸未、皇后の王氏 崩ず。冬十月、九真太守の李遜 交州に據りて反す。十一月乙酉、定皇后を隆平陵に葬る。

現代語訳

太元三年春二月乙巳、新宮を作り、孝武帝は会稽王邸に移った。三月乙丑、雷雨と、暴風があり、家屋を飛ばして木を折った。夏五月庚午、陳留王の曹恢が薨去した。六月、洪水があった。秋七月辛巳、孝武帝が新宮に入った。乙酉、老人星が南方にあらわれた。
太元四年春正月辛酉、大赦し、郡県の洪水や旱魃にあったところは租税を減らした。丙子、建平ら七陵に拝謁した。二月戊午、苻堅はその子の苻丕に襄陽を攻撃し陥落させ、南中郎将の朱序を捕らえた。さらに順陽を陥落させた。三月、大いに疫病がはやった。壬戌、詔して、「狡猾な寇賊が好きなように暴れ、藩屏の守りが傾いて陥落し、国境の脅威は、平時より倍増している。そこで内外の官僚は、おのおの心と力をつくし、政務を安定させるように。しかも秋の実りが少ないため、百姓は多くが欠乏している。詔して支出を管理し、倹約をむねとし、皇族への供給、官僚への俸禄は、一時的に半減させよ。さまざまな役務や経費のうち、軍時の優先事項でないものは、すべて停止や削減をして、時局に備えるように」と言った。癸未、右将軍の毛武生に軍勢をひきいて蜀を討伐させた。夏四月、苻堅の将の韋鍾が魏興を陥落させ、太守の吉挹が戦死した。五月、苻堅の将の句難(俱難)と彭超が盱眙を陥落させ、高密内史の毛璪之が賊に捕らえられた。六月、大いに日照があった。戊子、征虜将軍の謝玄が彭超や句難と君川で戦い、大いにこれを破った。秋八月丁亥、左将軍の王蘊を尚書僕射とした。乙未、暴風があり、砂礫を巻きあげた。九月、盗賊が建安太守の傅湛を殺した。冬十二月(正しくは閏月か)己酉朔、日蝕があった。
太元五年春正月乙巳、崇平陵に拝謁した。夏四月、大いに日照があった。癸酉、五歳刑より以下を赦した。五月、洪水があった。司徒の謝安を衛将軍・儀同三司とした。六月甲寅、含章殿の四柱が揺れて、内侍二人が死んだ。甲子、近年は収穫が少なく経済が悪化しているため、大赦し、太元三年より以前の未納分の租税と以前からの負債はすべて免除とし、配偶者や親または子がおらず窮迫して自活できないものに、一人あたり米五斛を賜った。丁卯、驃騎将軍・琅邪王の司馬道子を司徒とした。秋九月癸未、皇后の王氏が崩御した。冬十月、九真太守の李遜が交州を拠点に反乱した。十一月乙酉、定皇后を隆平陵に葬った。

原文

六年春正月、帝初奉佛法、立精舍於殿內、引諸沙門以居之。丁酉、以尚書謝石為尚書僕射。初置督運御史官。夏六月庚子朔、日有蝕之。揚・荊・江三州大水。己巳、改制度、減煩費、損吏士員七百人。秋七月丙子、赦五歲刑已下。甲午、交阯太守杜瑗斬李遜、交州平。大饑。冬十一月1.己亥、以鎮軍大將軍郗愔為司空。會稽人檀元之反、自號安東將軍、鎮軍參軍謝藹之討平之。十二月甲辰、苻堅遣其2.襄陽太守閻震寇竟陵、3.襄陽太守桓石虔討擒之。
七年春三月、林邑4.范熊遣使獻方物。秋八月癸卯、大赦。九月、東夷五國遣使來貢方物。5.苻堅將都貴焚燒沔北田穀、略襄陽百姓而去。冬十月丙子、雷。

1.十一月は戊辰朔なので、この月に己亥はない。
2.「襄陽太守閻震」は、苻堅載記と『資治通鑑』巻一百四では、「司馬閻振」につくる。
3.「襄陽太守桓石虔」とあるが、桓石虔伝によると、彼は南平太守であり、襄陽太守ではない。苻堅載記もまた「南平太守」とし、『資治通鑑』巻一百四もまた「南平」とする。本紀の直前の文にある「襄陽太守閻震」から連鎖した誤りか。
4.「范熊」は、四夷傳では「范佛」とする。
5.『資治通鑑』巻一百四は、桓沖伝・苻堅載記に依って、「桓沖 揚威將軍の朱綽をして秦の荊州刺史の都貴を襄陽に于て擊たしめ、沔北の屯田を焚踐し、六百餘戶を掠めて還る(桓沖使揚威將軍朱綽擊秦荊州刺史都貴于襄陽、焚踐沔北屯田、掠六百餘戶而還)」としている。この本紀に誤りが疑われる。

訓読

六年春正月、帝 初めて佛法を奉り、精舍を殿內に立て、諸々の沙門を引きて以て之に居らしむ。丁酉、尚書の謝石を以て尚書僕射と為す。初めて督運御史官を置く。夏六月庚子朔、日の之を蝕する有り。揚・荊・江の三州に大水あり。己巳、制度を改め、煩費を減じ、吏士の員七百人を損ず。秋七月丙子、五歲刑より已下を赦す。甲午、交阯太守の杜瑗 李遜を斬り、交州 平らぐ。大いに饑あり。冬十一月己亥、鎮軍大將軍の郗愔を以て司空と為す。會稽の人の檀元之 反し、自ら安東將軍を號し、鎮軍參軍の謝藹之 討ちて之を平らぐ。十二月甲辰、苻堅 其の襄陽太守の閻震を遣はして竟陵を寇せしめ、襄陽太守の桓石虔 討ちて之を擒ふ。
七年春三月、林邑の范熊 使を遣はして方物を獻ず。秋八月癸卯、大赦す。九月、東夷の五國 使を遣はし來たりて方物を貢ず。苻堅の將の都貴 沔北の田穀を焚燒し、襄陽の百姓を略して去る。冬十月丙子、雷あり。

現代語訳

太元六年春正月、孝武帝は初めて仏法を奉り、精舎を殿内に立て、沙門たちを招いてそこに居らせた。丁酉、尚書の謝石を尚書僕射とした。初めて督運御史官を設置した。夏六月庚子朔、日蝕があった。揚・荊・江の三州で洪水があった。己巳、制度を改め、むだな費用を削り、吏士の定員を七百人減らした。秋七月丙子、五歳刑より以下を赦した。甲午、交阯太守の杜瑗が李遜を斬り、交州が平定された。大いに飢饉があった。冬十一月己亥、鎮軍大将軍の郗愔を司空とした。会稽の人の檀元之が反乱し、自ら安東将軍を号し、鎮軍参軍の謝藹之が討伐しこれ討伐しこれを平定した。十二月甲辰、苻堅はその襄陽太守の閻震(司馬の閻振か)に竟陵を侵略させ、襄陽太守(南平太守か)の桓石虔が討伐してこれを捕らえた。
太元七年春三月、林邑の范熊(范仏か)が使者をよこして名産品を献上した。秋八月癸卯、大赦した。九月、東夷の五国が使者をよこして名産品を献上した。苻堅の将の都貴が沔北の田の穀物を焼き捨て、襄陽の百姓から略奪して去った(あるいは、桓沖が揚威将軍の朱綽に命じて前秦の荊州刺史の都貴を襄陽で攻撃し、沔水の北の屯田を焼いて荒し、前秦の六百戸あまりを拉致して還った)。冬十月丙子、雷があった。

原文

八年春二月癸未、黃霧四塞。三月、始興・南康・廬陵大水、平地五丈。丁巳、大赦。夏五月、輔國將軍楊亮伐蜀、拔五城、擒苻堅將魏光。秋七月、鷹揚將軍1.郭洽及苻堅將張崇戰于武當、大敗之。八月、苻堅帥眾渡淮、遣征討都督謝石・冠軍將軍謝玄・輔國將軍謝琰・西中郎將桓伊等距之。九月、詔司徒・琅邪王道子錄尚書六條事。
冬十月、苻堅弟融陷壽春。2.乙亥、諸將及苻堅戰于肥水、大破之、俘斬數萬計、獲堅輿輦及雲母車。十一月3.庚申、詔衞將軍謝安勞旋師于金城。壬子、立陳留王世子靈誕為陳留王。十二月庚午、以寇難初平、大赦。以中軍將軍謝石為尚書令。開酒禁。始增百姓稅米、口五石。前句町王4.翟遼背苻堅、舉兵於河南、慕容垂自鄴與遼合、遂攻堅子暉於洛陽。5.仇池公楊世奔還隴右、遣使稱藩。

1.「郭洽」は、苻堅載記では「郭銓」につくる。『資治通鑑』巻一百五もまた「郭銓」につくる。「郭銓」は、五行志中・毛璩傳・桓石民傳・桓玄傳にも見える。
2.『資治通鑑』巻一百五は、淝水の勝利を十一月とする。中華書局本の校勘記によると、『資治通鑑』のほうが実情に近いか。
3.十一月は丙戌朔なので、同月に庚申はない。
4.苻堅載記に依るならば、「翟遼」は「翟斌」に作るべきである。『資治通鑑』巻一百五は、「翟斌」につくる。
5.『宋書』氐胡傳では、隴右に還ったのを「楊世」でなく「楊定」とする。楊世はすでに太和五年(三年前)に死んでおり、ここに登場するのは誤りが疑われる。『魏書』『北史』『宋書』氐胡傳と『資治通鑑』一百六では、これを太元十年(二年後)のこととし、本紀に誤りが疑われる。

訓読

八年春二月癸未、黃霧 四塞す。三月、始興・南康・廬陵 大水あり、平地に五丈なり。丁巳、大赦す。夏五月、輔國將軍の楊亮 蜀を伐ち、五城を拔き、苻堅の將の魏光を擒ふ。秋七月、鷹揚將軍の郭洽 苻堅の將の張崇と武當に戰ひ、大いに之を敗る。八月、苻堅 眾を帥ゐて淮を渡り、征討都督の謝石・冠軍將軍の謝玄・輔國將軍の謝琰・西中郎將の桓伊らを遣りて之を距ましむ。九月、司徒・琅邪王の道子に詔して尚書六條事を錄せしむ。
冬十月、苻堅の弟の融 壽春を陷す。乙亥、諸將 苻堅と肥水に戰ひ、大いに之を破り、俘斬すること數萬計、堅の輿輦及び雲母車を獲たり。十一月庚申、衞將軍の謝安に詔して旋師を金城に勞ふ。壬子、陳留王世子の靈誕を立てて陳留王と為す。十二月庚午、寇難 初めて平らぐを以て、大赦す。中軍將軍の謝石を以て尚書令と為す。酒禁を開く。始めて百姓の稅米を增し、口ごとに五石なり。前句町王の翟遼 苻堅に背き、兵を河南に舉ぐ。慕容垂 鄴より遼と合し、遂に堅が子の暉を洛陽に攻む。仇池公の楊世 奔りて隴右に還り、使を遣はして稱藩す。

現代語訳

太元八年春二月癸未、黄霧が(充満し)四方をふさいだ。三月、始興・南康・廬陵で洪水があり、平地の浸水は五丈であった。丁巳、大赦した。夏五月、輔国将軍の楊亮が蜀を討伐し、五城を抜き、苻堅の将の魏光を捕らえた。秋七月、鷹揚将軍の郭洽(郭銓)が苻堅の将の張崇と武当で戦い、大いにこれを破った。八月、苻堅が軍勢をひきいて淮水を渡り、征討都督の謝石と冠軍将軍の謝玄と輔国将軍の謝琰と西中郎将の桓伊らを送り出して苻堅軍を防がせた。九月、司徒・琅邪王の司馬道子に詔して尚書六條事を録させた。
冬十月、苻堅の弟の苻融が寿春を陥落させた。乙亥、諸将が苻堅と肥水で戦い、大いに之を破り、捕虜にし斬ったものが数万をかぞえ、苻堅の輿輦と雲母車を獲得した。十一月庚申、衛将軍の謝安に詔して凱旋軍を金城でねぎらった。壬子、陳留王世子の司馬霊誕を立てて陳留王とした。十二月庚午、(前秦による)兵難がようやく鎮圧されたので、大赦した。中軍将軍の謝石を尚書令とした。禁酒令を解除した。はじめて百姓の税米を増し、一人あたり五石とした。前句町王の翟遼(正しくは翟斌か、以下同じ)が苻堅に背き、兵を河南で挙げた。慕容垂が鄴から(出撃して)翟遼と合流し、苻堅の子の苻暉を洛陽において攻撃した。(正しくは太元十年か)仇池公の楊世(正しくは楊定)が逃げて隴右に帰還し、使者をよこして称藩した。

原文

九年春正月庚子、封武陵王孫寶為臨川王。1.戊午、立新寧王晞子遵為新寧王。辛亥、謁建平等四陵。龍驤將軍劉牢之克譙城。車騎將軍桓沖部將郭寶伐新城・魏興・上庸三郡、降之。二月辛巳、使持節・都督荊江梁寧益交廣七州諸軍事・車騎將軍・荊州刺史桓沖卒。慕容垂自洛陽與翟遼攻苻堅子丕於鄴。三月、以衞將軍謝安為太保。苻堅北地長史慕容泓・平陽太守慕容沖並起兵背堅。夏四月己卯、增置太學生百人。封張天錫為西平公。使竟陵太守趙統伐襄陽、克之。苻堅將姚萇背堅、起兵於北地、自立為王、國號秦。六月癸丑朔、崇德皇太后褚氏崩。慕容泓為其叔父沖所殺、沖自稱皇太弟。
秋七月戊戌、遣兼司空・高密王純之修謁洛陽五陵。己酉、葬康獻皇后于崇平陵。百濟遣使來貢方物。苻堅及慕容沖戰于鄭西、堅師敗績。八月戊寅、司空郗愔薨。九月辛卯、前鋒都督謝玄攻苻堅將兗州刺史張崇于鄄城、克之。甲午、加太保謝安大都督揚・江・荊・司・豫・徐・兗・青・冀・幽・并・梁・益・雍・涼十五州諸軍事。冬十月辛亥朔、日有蝕之。丁巳、河間王曇之薨。乙丑、以玄象乖度、大赦。庚午、立前新蔡王晃弟崇為新蔡王。苻堅青州刺史苻朗帥眾來降。十二月、苻堅將呂光稱制于河右、自號酒泉公。慕容沖僭即皇帝位于阿房。

1.「戊午」(干支の55番目)は、二月四日である。「辛亥」(48番目)より前にあるのは正しくない。封爵のことをまとめて置いたために逆転したか。

訓読

九年春正月庚子、武陵王の孫寶を封じて臨川王と為す。戊午、新寧王の晞の子たる遵を立てて新寧王と為す。辛亥、建平ら四陵に謁す。龍驤將軍の劉牢之 譙城を克つ。車騎將軍の桓沖の部將の郭寶 新城・魏興・上庸の三郡を伐ち、之を降す。二月辛巳、使持節・都督荊江梁寧益交廣七州諸軍事・車騎將軍・荊州刺史の桓沖 卒す。慕容垂 洛陽より翟遼と與に苻堅の子の丕を鄴に攻む。三月、衞將軍の謝安を以て太保と為す。苻堅の北地長史の慕容泓・平陽太守の慕容沖 並びに起兵して堅に背く。夏四月己卯、太學生百人を增置す。張天錫を封じて西平公と為す。竟陵太守の趙統をして襄陽を伐たしめ、之に克つ。苻堅の將の姚萇 堅に背き、兵を北地に起し、自立して王と為り、國を秦と號す。六月癸丑朔、崇德皇太后の褚氏 崩ず。慕容泓 其の叔父の沖の殺す所と為り、沖 自ら皇太弟を稱す。
秋七月戊戌、兼司空・高密王の純之を遣はして洛陽の五陵を修謁せしむ。己酉、康獻皇后を崇平陵に葬る。百濟 使を遣はして來たりて方物を貢す。苻堅 慕容沖と鄭西に戰ひ、堅の師 敗績す。八月戊寅、司空の郗愔 薨ず。九月辛卯、前鋒都督の謝玄 苻堅の將たる兗州刺史の張崇を鄄城に攻め、之に克つ。甲午、太保の謝安に大都督揚・江・荊・司・豫・徐・兗・青・冀・幽・并・梁・益・雍・涼十五州諸軍事を加ふ。冬十月辛亥朔、日の之を蝕する有り。丁巳、河間王の曇之 薨ず。乙丑、玄象 乖度するを以て、大赦す。庚午、前新蔡王の晃が弟の崇を立てて新蔡王と為す。苻堅の青州刺史の苻朗 眾を帥ゐて來降す。十二月、苻堅の將の呂光 河右に稱制し、自ら酒泉公を號す。慕容沖 僭して皇帝の位に阿房に于て即く。

現代語訳

太元九年春正月庚子、武陵王の司馬孫宝を臨川王に封建した。戊午、新寧王の司馬晞の子である司馬遵を新寧王に立てた。辛亥、建平ら四陵に謁した。龍驤将軍の劉牢之が譙城を破った。車騎将軍の桓沖の部将の郭宝が新城・魏興・上庸の三郡を討伐し、これを降した。二月辛巳、使持節・都督荊江梁寧益交広七州諸軍事・車騎将軍・荊州刺史の桓沖が亡くなった。慕容垂が洛陽から翟遼とともに苻堅の子の苻丕を鄴において攻めた。三月、衛将軍の謝安を太保とした。苻堅の北地長史の慕容泓と平陽太守の慕容沖が二人とも起兵して苻堅に背いた。夏四月己卯、太学生の定員を百人増やした。張天錫を西平公に封建した。竟陵太守の趙統に襄陽を討伐させ、これを破った。苻堅の将の姚萇が苻堅に背き、兵を北地で起こし、自立して王となり、国を秦と号した(後秦)。六月癸丑朔、崇徳皇太后の褚氏が崩御した。慕容泓が叔父の慕容沖に殺され、慕容沖は自ら皇太弟を称した。
秋七月戊戌、兼司空・高密王の司馬純之を派遣して洛陽の五陵を修繕し拝謁させた。己酉、康献皇后を崇平陵に葬った。百済が使者をよこして名産品を献上した。苻堅が慕容沖と鄭西で戦い、苻堅の軍が敗北した。八月戊寅、司空の郗愔が薨去した。九月辛卯、前鋒都督の謝玄が苻堅の将である兗州刺史の張崇を鄄城で攻撃し、これを破った。甲午、太保の謝安に大都督揚・江・荊・司・豫・徐・兗・青・冀・幽・并・梁・益・雍・涼十五州諸軍事を加えた。冬十月辛亥朔、日蝕があった。丁巳、河間王の司馬曇之が薨去した。乙丑、玄象(天体の運行)が不規則なので、大赦した。庚午、前新蔡王の司馬晃が弟の司馬崇を新蔡王に立てた。苻堅の青州刺史の苻朗が軍勢をひきいて来降した。十二月、苻堅の将の呂光が河右で称制し、自ら酒泉公を号した。慕容沖が僭上して皇帝の位に阿房で即いた。

原文

十年春正月甲午、謁諸陵。二月、立國學。蜀郡太守任權斬苻堅益州刺史李平、益州平。三月、滎陽人鄭燮以郡來降。苻堅國亂、使使奉表請迎。龍驤將軍劉牢之及慕容垂戰于黎陽、王師敗績。夏四月丙辰、劉牢之與沛郡太守1.周次及垂戰于五橋澤、王師又敗績。壬戌、太保謝安帥眾救苻堅。五月、大水。苻堅留太子宏守長安、奔于五將山。六月、宏來降、慕容沖入長安。
秋七月、苻丕自枋頭西走、龍驤將軍檀玄追之、為丕所敗。旱、饑。丁巳、老人星見。八月甲午、大赦。丁酉、使持節・侍中・中書監・大都督十五州諸軍事・衞將軍・太保謝安薨。庚子、以琅邪王道子為都督中外諸軍事。是月、姚萇殺苻堅而僭即皇帝位。九月、呂光據姑臧、自稱涼州刺史。苻丕僭即皇帝位于晉陽。冬十月丁亥、論淮肥之功、追封謝安廬陵郡公、封謝石南康公、謝玄康樂公、謝琰望蔡公、桓伊永脩公、自餘封拜各有差。是歲、乞伏國仁自稱大單于・秦河二州牧。
十一年春正月辛未、慕容垂僭即皇帝位于中山。2.壬午、翟遼襲黎陽、執太守滕恬之。3.乙酉、謁諸陵。慕容沖將許木末殺慕容沖於長安。三月、大赦。太山太守張願以郡叛、降於翟遼。夏四月、以百濟王世子餘暉為使持節・都督・鎮東將軍・百濟王。代王4.(拓拔圭)〔拓拔珪〕始改稱魏。癸巳、以尚書僕射陸納為尚書左僕射、譙王恬為尚書右僕射。六月己卯、地震。庚寅、以前輔國將軍楊亮為西戎校尉・雍州刺史、鎮衞山陵。
秋八月庚午、封孔靖之為奉聖亭侯、奉宣尼祀。丁亥、安平王邃之薨。翟遼寇譙、龍驤將軍朱序擊走之。冬十月、5.慕容垂破苻丕於河東、丕走東垣、揚威將軍馮該擊斬之、傳首京都。甲申、海西公奕薨。十一月、苻丕將苻登僭即皇帝位於隴東。

1.「周次」は、劉牢之傳では「田次之」につくる。「田次之」は毛璩傳にも見える。
2.正月は癸卯朔なので、この月に壬午はない。
3.正月に乙酉はなく、二月は癸酉朔なので、乙酉は二月十三日である。『資治通鑑』巻一百六では、下分の慕容沖の殺害に繋いで二月としており、月の処理が適切である。
4.『魏書』本紀に従い、「拓拔圭」を「拓拔珪」に改める。以下すべて同じ。
5.苻丕載記と『魏書』慕容永伝、『資治通鑑』巻一〇六では、苻丕を破ったのを(慕容垂でなく)慕容永としている。

訓読

十年春正月甲午、諸陵に謁す。二月、國學を立つ。蜀郡太守の任權 苻堅の益州刺史の李平を斬り、益州 平らぐ。三月、滎陽の人の鄭燮 郡を以て來降す。苻堅の國 亂れ、使を使はして表を奉して迎へんことを請ふ。龍驤將軍の劉牢之 慕容垂と黎陽に戰ひ、王師 敗績す。夏四月丙辰、劉牢之 沛郡太守の周次と與に垂と五橋澤に戰ひ、王師 又 敗績す。壬戌、太保の謝安 眾を帥ゐて苻堅を救ふ。五月、大水あり。苻堅 太子宏を留めて長安を守らしめ、五將山に奔る。六月、宏 來降し、慕容沖 長安に入る。
秋七月、苻丕 枋頭より西して走り、龍驤將軍の檀玄 之を追ふも、丕の敗る所と為る。旱あり、饑あり。丁巳、老人星 見はる。八月甲午、大赦す。丁酉、使持節・侍中・中書監・大都督十五州諸軍事・衞將軍・太保の謝安 薨ず。庚子、琅邪王の道子を以て都督中外諸軍事と為す。是の月、姚萇 苻堅を殺して僭して皇帝の位に即く。九月、呂光 姑臧に據り、涼州刺史を自稱す。苻丕 僭して皇帝の位に晉陽に于て即く。冬十月丁亥、淮肥の功を論じ、謝安に廬陵郡公を追封し、謝石を南康公に封じ、謝玄もて康樂公とし、謝琰もて望蔡公とし、桓伊もて永脩公とし、自餘の封拜 各々差有り。是の歲、乞伏國仁 大單于・秦河二州牧を自稱す。
十一年春正月辛未、慕容垂 僭して皇帝の位に中山に于て即く。壬午、翟遼 黎陽を襲ひ、太守の滕恬之を執ふ。乙酉、諸陵に謁す。慕容沖の將たる許木末 慕容沖を長安に殺す。三月、大赦す。太山太守の張願 郡を以て叛し、翟遼に降る。夏四月、百濟王世子の餘暉を以て使持節・都督・鎮東將軍・百濟王と為す。代王の拓拔珪 始めて稱を魏に改む。癸巳、尚書僕射の陸納を以て尚書左僕射と為し、譙王の恬もて尚書右僕射と為す。六月己卯、地 震ふ。庚寅、前輔國將軍の楊亮を以て西戎校尉・雍州刺史と為し、山陵を鎮衞せしむ。
秋八月庚午、孔靖之を封じて奉聖亭侯と為し、宣尼の祀を奉せしむ。丁亥、安平王の邃之 薨ず。翟遼 譙を寇し、龍驤將軍の朱序 擊ちて之を走らす。冬十月、慕容垂 苻丕を河東に於て破り、丕 東垣に走り、揚威將軍の馮該 擊ちて之を斬り、首を京都に傳ふ。甲申、海西公の奕 薨ず。十一月、苻丕の將の苻登 僭して皇帝の位に隴東に於て即く。

現代語訳

太元十年春正月甲午、諸陵に謁した。二月、国学を立てた。蜀郡太守の任権が苻堅の益州刺史の李平を斬り、益州が平定された。三月、滎陽の人の鄭燮が郡をあげて来降した。苻堅の国が乱れ、使者をよこして上表し(東晋の)使者を迎えたいと求めた。龍驤将軍の劉牢之が慕容垂と黎陽で戦い、王師(晋軍)が敗北した。夏四月丙辰、劉牢之は沛郡太守の周次(田次之)とともに慕容垂と五橋沢で戦い、王師はまた敗北した。壬戌、太保の謝安が軍勢をひきいて苻堅を救った。五月、洪水がおきた。苻堅は太子の苻宏を留めて長安を守らせ、五将山に逃げた。六月、苻宏は(東晋に)来降し、慕容沖が長安に入った。
秋七月、苻丕は枋頭から西に逃れ、龍驤将軍の檀玄がこれを追ったが、苻丕に敗れた。日照と、飢饉がおきた。丁巳、老人星が現れた。八月甲午、大赦した。丁酉、使持節・侍中・中書監・大都督十五州諸軍事・衛将軍・太保の謝安が薨去した。庚子、琅邪王の司馬道子を都督中外諸軍事とした。この月、姚萇が苻堅を殺して僭上して皇帝の位に即いた。九月、呂光が姑臧を拠点とし、涼州刺史を自称した。苻丕が僭上して皇帝の位に晋陽で即いた。冬十月丁亥、淮肥の功(淝水の戦いの功績)を論じ、謝安に廬陵郡公を追封し、謝石を南康公に封建し、謝玄を康楽公とし、謝琰を望蔡公とし、桓伊を永脩公とし、その他の封拝はそれぞれ差等があった。この年、乞伏国仁が大単于・秦河二州牧を自称した。
太元十一年春正月辛未、慕容垂が僭上して皇帝の位に中山で即いた。壬午、翟遼が黎陽を襲い、太守の滕恬之を捕らえた。乙酉、諸陵に謁す。慕容沖の将である許木末が慕容沖を長安で殺した。三月、大赦した。太山太守の張願が郡をあげて叛き、翟遼に降伏した。夏四月、百済王世子の餘暉を使持節・都督・鎮東将軍・百済王とした。代王の拓抜珪がはじめて国の称号を魏に改めた。癸巳、尚書僕射の陸納を尚書左僕射とし、譙王の司馬恬を尚書右僕射とした。六月己卯、地震があった。庚寅、前輔国将軍の楊亮を西戎校尉・雍州刺史とし、山陵に鎮して護衛させた。
秋八月庚午、孔靖之を奉聖亭侯に封建し、宣尼(孔子廟)の祭祀を奉じさせた。丁亥、安平王の司馬邃之が薨去した。翟遼が譙を寇侵略したが、龍驤将軍の朱序が攻撃し敗走させた。冬十月、慕容垂(慕容永か)が苻丕を河東で破り、苻丕は東垣に逃げたが、揚威将軍の馮該が攻撃してこれを斬り、首を京都に送った。甲申、海西公の司馬奕が薨去した。十一月、苻丕の将の苻登が僭上して皇帝の位に隴東で即いた。

原文

十二年春正月乙巳、以豫州刺史朱序為青・兗二州刺史、鎮淮陰。丁未、大赦。壬子、暴風、發屋折木。戊午、慕容垂寇河東、濟北太守溫詳奔彭城。翟遼遣子釗寇陳・潁、朱序擊走之。夏四月戊辰、尊夫人李氏為皇太妃。己丑、雨雹。高平人翟暢執太守徐含遠、以郡降于翟遼。六月1.癸卯、束帛聘處士戴逵・龔玄之。秋八月辛巳、立皇子德宗為皇太子、大赦、增文武位二等、大酺五日、賜百官布帛各有差。九月戊午、復新寧王遵為武陵王、立梁王㻱子龢為梁王。冬十一月、松滋太守王遐之討翟遼于洛口、敗之。
十三年夏四月戊午、以青兗二州刺史朱序為持節・都督雍梁沔中九郡諸軍事・雍州刺史、譙王2.恬之為鎮北將軍・青兗二州刺史。夏六月、旱。乞伏國仁死、弟乾歸嗣偽位、僭號河南王。秋3.(七)〔九〕月、翟遼將翟發寇洛陽、河南太守郭給距破之。冬十二月戊子、濤水入石頭、毀大桁、殺人。乙未、大風、晝晦、延賢堂災。丙申、螽斯4.〔則〕百堂・客館・驃騎庫皆災。己亥、加尚書令謝石衞將軍・開府儀同三司。庚子、尚書令・衞將軍・開府儀同三司謝石薨。

1.六月は乙丑朔なので、同月内に癸卯はない。
2.「恬之」は、本紀の上文と本人の列伝、『宋書』礼志一、『資治通鑑』巻一一〇七では「恬」につくる。
3.中華書局本の校勘記に従い、「七」を「九」に改める。
4.『晋書』五行志、『後漢書』皇后紀に基づき、「則」一字を補う。

訓読

十二年春正月乙巳、豫州刺史の朱序を以て青・兗二州刺史と為し、淮陰に鎮せしむ。丁未、大赦す。壬子、暴風あり、屋を發し木を折る。戊午、慕容垂 河東を寇し、濟北太守の溫詳 彭城に奔る。翟遼 子の釗を遣はして陳・潁を寇せしめ、朱序 擊ちて之を走らす。夏四月戊辰、夫人の李氏を尊びて皇太妃と為す。己丑、雨雹あり。高平の人たる翟暢 太守の徐含遠を執へ、郡を以て翟遼に降る。六月癸卯、束帛もて處士の戴逵・龔玄之を聘す。秋八月辛巳、皇子の德宗を立てて皇太子と為し、大赦し、文武ごとに位二等を增し、大酺すること五日、百官に布帛を賜ひて各々差有り。九月戊午、新寧王の遵を復して武陵王と為し、梁王の㻱が子の龢を立てて梁王と為す。冬十一月、松滋太守の王遐之 翟遼を洛口に討ち、之を敗る。
十三年夏四月戊午、青兗二州刺史の朱序を以て持節・都督雍梁沔中九郡諸軍事・雍州刺史と為し、譙王の2.恬之もて鎮北將軍・青兗二州刺史と為す。夏六月、旱あり。乞伏國仁 死し、弟の乾歸 偽位を嗣ぎ、河南王を僭號す。秋九月、翟遼の將の翟發 洛陽を寇し、河南太守の郭給 距みて之を破る。冬十二月戊子、濤水 石頭に入り、大桁を毀ち、人を殺す。乙未、大風あり、晝に晦く、延賢堂 災す。丙申、螽斯則百堂〔一〕・客館・驃騎庫 皆 災す。己亥、尚書令の謝石に衞將軍・開府儀同三司を加ふ。庚子、尚書令・衞將軍・開府儀同三司の謝石 薨ず。

〔一〕『後漢書』梁皇后紀に、「螽斯は、則ち百福の由りて興る所なり(螽斯、則百福之所由興也)」とあり、后妃が嫉妬ぶかくなければ、子孫が多く反映するという文。『毛詩』螽斯序が出典。ここでは、「螽斯則百堂」という建物の名前と捉える。

現代語訳

太元十二年春正月乙巳、豫州刺史の朱序を青・兗二州刺史とし、淮陰に出鎮させた。丁未、大赦した。壬子、暴風がふき、屋根を飛ばし木を折った。戊午、慕容垂が河東を侵略し、済北太守の温詳が彭城に逃げた。翟遼は子の翟釗を派遣して陳や潁の一帯を侵略させたが、朱序は攻撃しこれを走らせた。夏四月戊辰、夫人の李氏を尊んで皇太妃とした。己丑、雹がふった。高平の人である翟暢が太守の徐含遠を捕らえ、郡をあげて翟遼に降った。六月癸卯、束帛を贈って処士の戴逵と龔玄之を招聘した。秋八月辛巳、皇子の司馬徳宗を立てて皇太子として、大赦し、文武の官は爵位を二等ずつ上げた。大いに酒盛りすること五日間で、百官に布帛を賜ってそれぞれ差等があった。九月戊午、新寧王の司馬遵の地位を回復して武陵王とし、梁王の司馬㻱の子の司馬龢を立てて梁王とした。冬十一月、松滋太守の王遐之が翟遼を洛口で討伐し、これを破った。
太元十三年夏四月戊午、青兗二州刺史の朱序を持節・都督雍梁沔中九郡諸軍事・雍州刺史とし、譙王の司馬恬之(司馬恬)を鎮北将軍・青兗二州刺史とした。夏六月、日照があった。乞伏国仁が死に、弟の乞伏乾帰が偽位を嗣ぎ、河南王を僭号した。秋九月、翟遼の将の翟発が洛陽を侵略したが、河南太守の郭給が防いでこれを破った。冬十二月戊子、濤水が石頭に入り、大きな橋桁を壊し、死者が出た。乙未、強風がふき、昼に暗くなり、延賢堂が焼けた。丙申、螽斯則百堂・客館・驃騎庫がすべて焼けた。己亥、尚書令の謝石に衛将軍・開府儀同三司を加えた。庚子、尚書令・衛将軍・開府儀同三司の謝石が薨去した。

原文

十四年春正月癸亥、詔淮南所獲俘虜付諸作部者一皆散遣、男女自相配匹、賜百日廩、其沒為軍賞者悉贖出之、以襄陽・淮南饒沃地各立一縣以居之。彭城妖賊劉黎僭稱皇帝於皇丘、龍驤將軍劉牢之討平之。二月、扶南獻方物。呂光僭號三河王。夏四月甲辰、彭城王弘之薨。翟遼寇滎陽、執太守張卓。六月壬寅、使持節・都督荊益寧三州諸軍事・荊州刺史桓石虔卒。秋七月甲寅、宣陽門四柱災。八月、姚萇襲破苻登、獲其偽后毛氏。丁亥、汝南王1.羲薨。九月庚午、以尚書左僕射陸納為尚書令。冬十二月乙巳、雨、木冰。
十五年春正月乙亥、鎮北將軍・譙王恬之薨。龍驤將軍劉牢之及1.翟遼2.張願戰于太山、王師敗績。征虜將軍朱序破慕容永於太行。二月辛巳、以中書令王恭為都督青兗幽并冀五州諸軍事・前將軍・青兗二州刺史。三月己酉朔、地震。戊辰、大赦。秋七月丁巳、有星孛于北河。八月、永嘉人李耽舉兵反、太守劉懷之討平之。己丑、京師地震。有星孛于北斗、犯紫微。沔中諸郡及兗州大水。龍驤將軍朱序攻翟遼于滑臺、大敗之、張願來降。九月丁未、以吳郡太守王珣為尚書僕射。冬十二月己未、地震。

1.司馬亮伝は、「羲」を「義」につくる。
2.劉牢之伝は「翟遼」を「翟釗」に作り、翟釗は翟遼の子か。
3.劉牢之伝は、「張願」を「張遇」につくる。

訓読

十四年春正月癸亥、詔して淮南 獲る所の俘虜 諸々の作部に付する者は一に皆 散遣せしめ、男女 自ら相 配匹し、百日の廩を賜はり、其の沒して軍賞と為る者は悉く贖して之を出だし、襄陽・淮南の饒沃なる地を以て各々一縣を立てて以て之に居らしむ。彭城の妖賊たる劉黎 皇帝を皇丘に僭稱し、龍驤將軍の劉牢之 討ちて之を平らぐ。二月、扶南 方物を獻ず。呂光 三河王を僭號す。夏四月甲辰、彭城王の弘之 薨ず。翟遼 滎陽を寇し、太守の張卓を執ふ。六月壬寅、使持節・都督荊益寧三州諸軍事・荊州刺史の桓石虔 卒す。秋七月甲寅、宣陽門の四柱 災す。八月、姚萇 襲ひて苻登を破り、其の偽后の毛氏を獲ふ。丁亥、汝南王の羲 薨ず。九月庚午、尚書左僕射の陸納を以て尚書令と為す。冬十二月乙巳、雨ふり、木 冰る。
十五年春正月乙亥、鎮北將軍・譙王の恬之 薨ず。龍驤將軍の劉牢之 翟遼・張願と太山に戰ひ、王師 敗績す。征虜將軍の朱序 慕容永を太行に破る。二月辛巳、中書令の王恭を以て都督青兗幽并冀五州諸軍事・前將軍・青兗二州刺史と為す。三月己酉朔、地 震ふ。戊辰、大赦す。秋七月丁巳、星孛 北河に有り。八月、永嘉の人たる李耽 兵を舉げて反し、太守の劉懷之 討ちて之を平らぐ。己丑、京師に地 震ふ。星孛 北斗に有り、紫微を犯す。沔中の諸郡及び兗州 大水あり。龍驤將軍の朱序 翟遼を滑臺に攻め、大いに之を敗り、張願 來降す。九月丁未、吳郡太守の王珣を以て尚書僕射と為す。冬十二月己未、地 震ふ。

現代語訳

太元十四年春正月癸亥、詔して淮南で捕獲された人員で諸々の生産部署に割り当てられたものはすべてを解散して放ち、男女は自発的に結婚させ、百日分の食物を賜り、戦利品として扱われた人員はすべて買い戻して解放し、襄陽や淮南の肥沃な土地にそれぞれ一県を設立して居住させた。彭城の妖賊である劉黎が皇帝を皇丘で僭称し、龍驤将軍の劉牢之が討伐し平定した。二月、扶南が献上品をよこした。呂光が三河王を僭号した。夏四月甲辰、彭城王の司馬弘之が薨去した。翟遼が滎陽を侵略し、太守の張卓を捕らえた。六月壬寅、使持節・都督荊益寧三州諸軍事・荊州刺史の桓石虔が亡くなった。秋七月甲寅、宣陽門の四柱が焼けた。八月、姚萇が襲撃して苻登を破り、その偽后(苻登の妻)の毛氏を捕らえた。丁亥、汝南王の司馬羲(司馬義)が薨去した。九月庚午、尚書左僕射の陸納を尚書令とした。冬十二月乙巳、雨がふり、木が凍った。
十五年春正月乙亥、鎮北将軍・譙王の司馬恬之(司馬恬)が薨去した。龍驤将軍の劉牢之は翟遼(翟釗)・張願(張遇)と太山で戦い、王師(劉牢之の晋軍)は敗北した。征虜将軍の朱序は慕容永を太行で破った。二月辛巳、中書令の王恭を都督青兗幽并冀五州諸軍事・前将軍・青兗二州刺史とした。三月己酉朔、地震があった。戊辰、大赦した。秋七月丁巳、星孛が北河にあらわれた。八月、永嘉の人である李耽が兵を挙げて反乱し、太守の劉懐之が討伐し平定した。己丑、京師で地震があった。星孛が北斗にあらわれ、紫微を犯した。沔中の諸郡及び兗州で洪水があった。龍驤将軍の朱序が翟遼を滑台で攻撃し、大いにこれを破り、張願(張遇)は来降した。九月丁未、呉郡太守の王珣を尚書僕射とした。冬十二月己未、地震があった。

原文

十六年春正月1.庚申、改築太廟。夏六月、慕容永寇河南、太守楊佺期擊破之。己未、章武王範之薨。秋九月癸未、以尚書右僕射王珣為尚書左僕射、以太子詹事謝琰為尚書右僕射。新廟成。冬十一月、姚萇敗苻登于安定。
十七年春正月己巳朔、大赦、除逋租宿債。夏四月、齊國內史蔣喆殺樂安太守辟閭濬、據青州反、北平原太守辟閭渾討平之。五月丁卯朔、日有蝕之。六月癸卯、京師地震。甲寅、濤水入石頭、毀大桁。永嘉郡潮水湧起、近海四縣人多死者。乙卯、大風、折木。戊午、梁王龢薨。慕容垂襲翟釗于黎陽、敗之、釗奔于慕容永。秋七月丁丑、太白晝見。八月、新作東宮。冬十月丁酉、太白晝見。辛亥、都督荊益寧三州諸軍事・荊州刺史王忱卒。十一月癸酉、以黃門郎殷仲堪為都督荊益梁三州諸軍事・荊州刺史。庚寅、徙封琅邪王道子為會稽王、封皇子德文為琅邪王。十二月己未、地震。是歲、自秋不雨、至于冬。

1.正月は甲戌朔なので、同月内に庚申はない。

訓読

十六年春正月庚申、改めて太廟を築く。夏六月、慕容永 河南を寇し、太守の楊佺期 之を擊破す。己未、章武王の範之 薨ず。秋九月癸未、尚書右僕射の王珣を以て尚書左僕射と為し、太子詹事の謝琰を以て尚書右僕射と為す。新廟 成る。冬十一月、姚萇 苻登を安定に敗る。
十七年春正月己巳朔、大赦し、逋租宿債を除く。夏四月、齊國內史の蔣喆 樂安太守の辟閭濬を殺し、青州に據りて反し、北平原太守の辟閭渾 討ちて之を平らぐ。五月丁卯朔、日の之を蝕する有り。六月癸卯、京師に地 震ふ。甲寅、濤水 石頭に入り、大桁を毀つ。永嘉郡に潮水 湧き起り、近海の四縣の人 死者多し。乙卯、大風あり、木を折る。戊午、梁王の龢 薨ず。慕容垂 翟釗を黎陽に襲ひ、之を敗り、釗 慕容永に奔る。秋七月丁丑、太白 晝に見る。八月、新たに東宮を作る。冬十月丁酉、太白 晝に見る。辛亥、都督荊益寧三州諸軍事・荊州刺史の王忱 卒す。十一月癸酉、黃門郎の殷仲堪を以て都督荊益梁三州諸軍事・荊州刺史と為す。庚寅、琅邪王の道子を徙封して會稽王と為し、皇子の德文を封じて琅邪王と為す。十二月己未、地 震ふ。是の歲、秋より雨ふらず、冬に至る。

現代語訳

太元十六年春正月庚申、改めて太廟を築いた。夏六月、慕容永が河南を侵略し、太守の楊佺期がこれを撃破した。己未、章武王の司馬範之が薨去した。秋九月癸未、尚書右僕射の王珣を尚書左僕射とし、太子詹事の謝琰を尚書右僕射とした。新廟が完成した。冬十一月、姚萇が苻登を安定で破った。
太元十七年春正月己巳朔、大赦し、未納分の租税と以前からの負債の回収をやめた。夏四月、斉国内史の蔣喆が楽安太守の辟閭濬を殺し、青州に拠って反乱したが、北平原太守の辟閭渾が討伐してこれを平定した。五月丁卯朔、日蝕があった。六月癸卯、京師で地震があった。甲寅、濤水が石頭城に入り、大きな橋桁を破壊した。永嘉郡で潮水が湧き起こり、海に近い四県のひとで死者が多く出た。乙卯、強風がふき、木を折った。戊午、梁王の司馬龢が薨去した。慕容垂が翟釗を黎陽で襲撃して、これを破り、翟釗は慕容永のもとに逃げた。秋七月丁丑、太白が昼にあらわれた。八月、新たに東宮を作った。冬十月丁酉、太白が昼にあらわれた。辛亥、都督荊益寧三州諸軍事・荊州刺史の王忱が亡くなった。十一月癸酉、黄門郎の殷仲堪を都督荊益梁三州諸軍事・荊州刺史とした。庚寅、琅邪王の司馬道子の封号を移して会稽王とし、皇子の司馬徳文を琅邪王に封建した。十二月己未、地震があった。この年、秋から雨が降らず、冬に至った。

原文

十八年春正月1.(癸卯)〔癸亥〕朔、地震。二月乙未、地又震。三月、翟釗寇河南。夏六月己亥、始興・南康・廬陵大水、深五丈。秋七月、旱。閏月、妖賊司馬徽聚黨於馬頭山、劉牢之遣部將討平之。九月丙戌、龍驤將軍楊佺期擊氐帥楊佛嵩于潼谷、敗之。冬1.十月、姚萇死、子興嗣偽位。
十九年夏六月3.壬子、追尊會稽王太妃鄭氏為簡文宣太后。秋七月、荊・徐二州大水、傷秋稼、遣使振卹之。八月己巳、尊皇太妃李氏為皇太后、宮曰崇訓。慕容垂擊慕容永於長子、斬之。冬十月、慕容垂遣其子惡奴寇廩丘、東平太守韋簡及垂將尹國戰于平陸、簡死之。是歲、苻登為姚興所殺、登太子崇奔于湟中、僭稱皇帝。
二十年春二月、作宣太后廟。甲寅、散騎常侍・光祿大夫・開府儀同三司・尚書令陸納卒。三月庚辰朔、日有蝕之。夏六月、荊・徐二州大水。十一月、魏王拓拔珪擊慕容垂子寶于4.黍谷、敗之。

1.五行志に従い、「癸卯」を「癸亥」に改める。
2.中華書局本の校勘記によると、『太平御覧』巻一百二十三に引く『後秦録』と『資治通鑑』一百八は、姚萇の死を十二月庚子とするので、「十二月」に作るべきか。
3.中華書局本の校勘記によると、六月は甲寅朔なので、壬子がない。礼志上は二月壬子とするが、二月は丙辰朔なので、やはり壬子がない。
4.中華書局本の校勘記によると、載記と『魏書』は「參合」につくり、『資治通鑑』巻一百八も「參合陂」につくる。

訓読

十八年春正月癸亥朔、地 震ふ。二月乙未、地 又 震ふ。三月、翟釗 河南を寇す。夏六月己亥、始興・南康・廬陵に大水あり、深さ五丈なり。秋七月、旱あり。閏月、妖賊の司馬徽 黨を馬頭山に聚め、劉牢之 部將を遣はして討ちて之を平らがしむ。九月丙戌、龍驤將軍の楊佺期 氐帥の楊佛嵩を潼谷に擊ち、之を敗る。冬十月、姚萇 死し、子の興 偽位を嗣ぐ。
十九年夏六月壬子、會稽王太妃の鄭氏を追尊して簡文宣太后と為す。秋七月、荊・徐二州に大水あり、秋稼を傷つけ、使を遣りて之を振卹す。八月己巳、皇太妃の李氏を尊びて皇太后と為し、宮は崇訓と曰ふ。慕容垂 慕容永を長子に擊ち、之を斬る。冬十月、慕容垂 其の子の惡奴を遣はして廩丘を寇せしめ、東平太守の韋簡 垂の將の尹國と平陸に戰ひ、簡 之に死す。是の歲、苻登 姚興の殺す所と為り、登の太子の崇 湟中に奔り、皇帝を僭稱す。
二十年春二月、宣太后の廟を作る。甲寅、散騎常侍・光祿大夫・開府儀同三司・尚書令の陸納 卒す。三月庚辰朔、日の之を蝕する有り。夏六月、荊・徐二州に大水あり。十一月、魏王の拓拔珪 慕容垂の子の寶を黍谷に擊ち、之を敗る。

現代語訳

太元十八年春正月癸亥朔、地震があった。二月乙未、また地震があった。三月、翟釗が河南を侵略した。夏六月己亥、始興・南康・廬陵で洪水がおき、深さ五丈であった。秋七月、日照があった。閏月、妖賊の司馬徽が配下を馬頭山に集めたので、劉牢之が部将に命じて討伐し平定させた。九月丙戌、龍驤将軍の楊佺期が氐帥の楊仏嵩を潼谷で攻撃し、これを破った。冬十月、姚萇が死に、子の姚興が偽位を嗣いだ。
太元十九年夏六月壬子、会稽王太妃の鄭氏を追尊して簡文宣太后とした。秋七月、荊・徐二州で洪水があり、秋の実りを傷つけたので、使者を送って被害地域を振給した。八月己巳、皇太妃の李氏を尊んで皇太后とし、宮殿を崇訓といった。慕容垂が慕容永を長子で攻撃し、これを斬った。冬十月、慕容垂はその子の慕容悪奴に命じて廩丘を侵略させ、東平太守の韋簡は慕容垂の将の尹国と平陸で戦ったが、韋簡は戦死した。この年、苻登が姚興に殺され、苻登の子の苻崇が湟中に逃げこみ、皇帝を僭称した。
太元二十年春二月、宣太后の廟を作った。甲寅、散騎常侍・光禄大夫・開府儀同三司・尚書令の陸納が亡くなった。三月庚辰朔、日蝕があった。夏六月、荊・徐二州で洪水がおきた。十一月、魏王の拓拔珪が慕容垂の子の慕容宝を黍谷(正しくは参合か)で攻撃し、これを破った。

原文

二十一年春正月、造清暑殿。三月、慕容垂攻平城、拔之。夏四月、新作永安宮。1.(丁卯)〔丁亥〕、雨雹。慕容垂死、子寶嗣偽位。五月甲子、以望蔡公謝琰為尚書左僕射。大水。六月、呂光僭即天王位。秋九月庚申、帝崩于清暑殿、時年三十五。葬隆平陵。
帝幼稱聰悟。簡文之崩也、時年十歲、至晡不臨、左右進諫、答曰、「哀至則哭、何常之有」。謝安嘗嘆以為精理不減先帝。既威權己出、雅有人主之量。既而溺于酒色、殆為長夜之飲。末年長星見、帝心甚惡之、於華林園舉酒祝之曰、「長星、勸汝一杯酒、自古何有萬歲天子邪」。太白連年晝見、地震水旱為變者相屬。醒日既少、而傍無正人、竟不能改焉。時張貴人有寵、年幾三十、帝戲之曰、「汝以年當廢矣」。貴人潛怒、向夕、帝醉、遂暴崩。時道子昏惑、元顯專權、竟不推其罪人。
初、簡文帝見讖云、「晉祚盡昌明」。及帝之在孕也、李太后夢神人謂之曰、「汝生男、以『昌明』為字」。及產、東方始明、因以為名焉。簡文帝後悟、乃流涕。及為清暑殿、有識者以為「清暑」反為「楚」聲、哀楚之徵也。俄而帝崩、晉祚自此傾矣。

1.五行志下に従い、「丁卯」を「丁亥」に改める。

訓読

二十一年春正月、清暑殿を造(つく)る。三月、慕容垂 平城を攻め、之を拔く。夏四月、新たに永安宮を作る。丁亥、雨雹る。慕容垂 死し、子の寶 偽位を嗣ぐ。五月甲子、望蔡公の謝琰を以て尚書左僕射と為す。大水あり。六月、呂光 僭して天王の位に即く。秋九月庚申、帝 清暑殿に崩じ、時に年三十五なり。隆平陵に葬る。
帝 幼くして聰悟なるを稱せらる。簡文の崩ずるや、時に年は十歲、晡に至りても臨まず、左右 進みて諫むるに、答へて曰く、「哀 至るときは則ち哭す、何の常が有らんや」と。謝安 嘗て嘆きて以為へらく精理 先帝に減ぜずと。既にして威權 己より出づるに、雅より人主の量有り。既にして酒色に溺れ、殆ど長夜の飲を為す。末年に長星 見はれ、帝 心に甚だ之を惡み、華林園に於て酒を舉げて之を祝ひて曰く、「長星は、汝に一杯の酒を勸む、古より何ぞ萬歲の天子有らんや」と。太白 連年に晝に見れ、地震水旱 變為る者 相 屬(つら)なる。醒むる日 既に少なく、而れども傍に正人無く、竟に焉を改むる能はず。時に張貴人 寵有り、年は幾ど三十にして、帝 之に戲れて曰く、「汝 年を以て當に廢すべし」と。貴人 潛かに怒り、夕に向ひ、帝 醉ふに、遂に暴かに崩ず。時に道子 昏惑にして、元顯 專權せば、竟に其の罪人を推さず。
初め、簡文帝 讖を見るに云ふらく、「晉祚 昌明に盡く」と。帝の孕む在るに及ぶや、李太后 神人 之に謂ふを夢みて曰く、「汝 男を生まん、『昌明』を以て字と為せ」と。產むに及び、東方 始めて明かるければ、因りて以て名と為す。簡文帝 後に悟り、乃ち流涕す。清暑殿を為(つく)るに及び、有識者 以為へらく「清暑」の反は「楚」の聲と為れば、哀楚の徵なりと。俄かにして帝 崩じ、晉祚 此より傾くなり。

現代語訳

太元二十一年春正月、清暑殿を造った。三月、慕容垂が平城を攻め、ここを抜いた。夏四月、新たに永安宮を作った。丁亥、雹がふった。慕容垂が死に、子の慕容宝が偽位を嗣いだ。五月甲子、望蔡公の謝琰を尚書左僕射とした。洪水がおきた。六月、呂光が僭上して天王の位に即いた。秋九月庚申、孝武帝が清暑殿で崩御し、このとき三十五歳だった。隆平陵に葬った。
孝武帝は幼いとき聡明さを称えられた。簡文帝が崩御したとき、十歳であったが、晡(夕方)になっても(簡文帝の遺体に)臨まず、左右が進みでて諫めたが、孝武帝は、「哀が至るときに哭する、どうして決まったやり方があるだろうか」と言った。謝安はかつて(孝武帝の)精妙さは先帝(簡文帝)に見劣りがしないと感嘆した。威権をみずから振るうようになると、君主としての器量を備えた。やがて酒色に溺れ、ほとんど(殷の紂王のように)夜明けまでの酒宴をした。末年に長星があらわれ、孝武帝はとても気に病み、華林園で酒をあげて言祝いで、「長星が、おまえに一杯の酒を勧めている、いにしえより万年の寿命がある天子がいるものか」と言った。太白が連年に昼にあらわれ、地震や洪水と旱魃などの異変が連続した。しらふの日が少なくなり、しかし傍らに(諫言する)正しい人物がおらず、結局は改められなかった。このとき張貴人は寵愛を受けていたが、年齢は三十の手前となり、孝武帝は彼女に戯れて、「きみは年齢が高いから捨てなければ」と言った。張貴人はひそかに怒り、夕方にさしかかり、孝武帝は酔っていたが、突然に崩御した。このとき司馬道子は愚かで道理が分からず、司馬元顕は政治を専断していたので、罪人は摘発されずに終わった。
かつて、簡文帝が讖文を見ると、「晋祚(晋帝国の命運)は昌明のときに尽きる」とあった。簡文帝が李氏に子(のちの孝武帝)を孕ませると、李氏の夢のなかで神の使いが、「おまえは男子を産むだろう、『昌明』と名づけよ」と言った。出産したときに、東方が(夜明けで)明るくなりかけていたので、これにちなんで「昌明(日の光が明るい)」と名づけた。簡文帝がのちに讖文との呼応を悟り、涙を流した。清暑殿をつくると、有識者は「清暑(セイ・ショ)」の反が「楚(ショ)」の音になるため、哀楚の徴候になるとした。その直後に孝文帝は崩御し、晋祚がこのときから傾いたのである。

原文

史臣曰、前史稱、「不有廢也、君何以興」。若乃天挺惟神、光膺嗣位、邁油雲而驤首、濟沈川而能躍。少康一旅之眾、所以闡帝圖、成湯七十之基、所以興王業。靜河海於既泄、補穹圓於已紊。事異於斯、則弗由也。簡皇以虛白之姿、在屯如之會、政由桓氏、祭則寡人。太宗晏駕、寧康纂業、天誘其衷、姦臣自隕。于時西踰劍岫而跨靈山、北振長河而臨清洛。荊吳戰旅、嘯吒成雲。名賢間出、舊德斯在、謝安可以鎮雅俗、彪之足以正紀綱、桓沖之夙夜王家、謝玄之善䉼軍事。于時上天乃眷、強氐自泯。五尺童子、振袂臨江、思所以挂旆天山、封泥函谷。而條綱弗垂、威恩罕樹、道子荒乎朝政、國寶彙以小人、拜授之榮、初非天旨、鬻刑之貨、自走權門、毒賦年滋、愁民歲廣。是以聞人・許榮馳書詣闕、烈宗知其抗直、而惡聞逆耳、肆一醉於崇朝、飛千觴於長夜。雖復「昌明」表夢、安聽神言。而金行穨弛、抑亦人事、語曰、「大國之政未陵夷、小邦之亂已傾覆」也。屬苻堅百六之秋、棄肥水之眾、帝號為「武」、不亦優哉。
贊曰、君若綴旒、道非交泰。簡皇凝寂、不貽伊害。孝武登朝、姦雄自消。燕・之擊路、鄭・叔分鑣。倡臨帝席、酒勸天妖。金風不競、人事先彫。

訓読

史臣曰く、前史に稱す、「廢すること有らずんば、君 何を以て興らん」と〔一〕。若乃し天 惟の神を挺(いだ)し、光に嗣位に膺(あ)たらば、油雲を邁(すご)して首を驤し、沈川を濟りて能く躍く。少康が一旅の眾は、帝圖を闡(ひら)く所以にして、成湯が七十の基は、王業を興す所以なり。河海を既に泄るるに靜め、穹圓を已に紊るるに補ふ。事 斯に異なれば、則ち由る弗きなり。簡皇 虛白の姿を以て、屯如の會に在り、政 桓氏に由り、祭れば則ち寡人なり。太宗 晏駕するや、寧康 業を纂し、天は其の衷に誘はれ、姦臣 自ら隕つ。時に西は劍岫を踰えて靈山を跨ぎ、北は長河を振ひて清洛に臨う。荊吳の戰旅、嘯吒して雲を成す。名賢 間に出で、舊德 斯に在り、謝安は以て雅俗を鎮む可く、彪之は以て紀綱を正すに足り、桓沖の王家に夙夜し、謝玄の軍事に善䉼す。時に上天 乃ち眷(めぐ)み、強氐 自ら泯ぶ。五尺の童子だに、袂を振ひて江に臨み、旆を天山に挂け、泥を函谷に封ずる所以を思ふ。而して條綱 垂るる弗く、威恩 樹つる罕く、道子 朝政に荒み、國寶 彙するに小人を以てし、拜授の榮、初めより天旨に非ず、鬻刑の貨、自ら權門に走り、毒賦 年ごとに滋く、愁民 歲ごとに廣し。是を以て聞人・許榮 書を馳せて闕に詣り、烈宗 其の抗直を知り、而して耳に逆らふを聞くを惡み、一醉を崇朝に肆にし、千觴を長夜に飛す。復た「昌明」夢を表し、聽を神言に安んずと雖も、而れども金行 穨弛するは、抑々亦た人事なり。語に曰く、「大國の政 未だ陵夷ならざれば、小邦の亂 已に傾覆す」なり。苻堅の百六の秋に、肥水の眾を棄つるに屬ひ、帝號は「武」と為すは、亦た優(たはむ)れならざるや。
贊に曰く、君 綴旒の若くあれば、道は交泰に非ず。簡皇 凝寂にして、伊(こ)の害を貽(のこ)さず。孝武 登朝し、姦雄 自ら消ゆ。燕・之 路を擊ち、鄭・叔 鑣を分かつ〔二〕。倡 帝席に臨み、酒を天妖に勸む。金風 競(さか)んあらず、人事 先に彫(いた)む。

〔一〕『春秋左氏伝』僖公 伝十年に、「對曰、不有廢也、君何以興。欲加之罪、其無辭乎」とあり、出典である。
〔二〕調査中。中華書局本は、「燕」「之」「鄭」「叔」を一字ずつ固有名詞としており、それに従った。

現代語訳

史臣はいう、前代の史書(『春秋左氏伝』僖公 伝十年)に、「廃することがなければ、君主は何によって興隆するだろうか」とある。もし天が神秘性を発揮し、光が後継者にあたれば、雨雲を通過させて首をあげ、深い川を渡って飛び上がることができる。夏の少康が率いた一つの部隊の兵は、王朝の命運を開き(夏王朝を再興し)、殷の成湯(湯王)の七十の計画(未詳)は、(殷の)王業を興隆させる基礎となった。黄河や海が漏れていても静め、全天が乱れていても補う。情勢がこれら(夏の少康と殷の湯王)と異なるならば、依拠するものがない。簡文帝は虚無のあっさりとした素質をもって、困難な時代に巡りあい、政治の実権は桓氏が握ったが、(簡文帝は出自において)寡人(諸侯)として祖先を祭った。太宗(簡文帝)が晏駕(崩御)すると、寧康年間に(孝武帝が)帝業を継承し、天はその真心にいざなわれ、姦臣(桓温)を自滅させた。このとき(東晋の領土は)西のかたは劍岫をこえて霊山をまたぎ、北のかたは長河(皖水か)を制圧して清洛(洛水か)に臨んだ。荊州や揚州の兵士は、威勢をあげて雲のように集まった。賢者たちが出仕し、かねてより徳のある人物が参入し、謝安は風雅と俗悪とを区別し、王彪之は秩序を正せる資質があり、桓沖は朝から晩まで晋帝国のために働き、謝玄は軍事に精通していた。このときは上天が恵みをあたえ、強い氐族(前秦)は自壊した。五尺の童子ですら、袂を振るって長江に臨み(前秦の軍を迎え撃ち)、旗印を天山にかかげ、泥土で函谷関を封印しようとした。しかし(淝水で勝利したものの)政治は情理が施されず、威光と恩恵が立てられず、司馬道子が朝政を荒し、王国宝が小人を集め、爵位や恩賞の栄誉は、本来の天の意向と異なり、財貨と刑罰は、権門のもとに偏り、害毒となる徴税が年ごとにひどく、貧困の民は年ごとに増えた。ここにおいて聞人と許榮は意見書を宮殿に提出し、烈宗(孝武帝)はその強硬さを知り、しかし耳に痛いので嫌い、尊い朝廷でひたすら酒に酔い、千のさかずきを長夜に交わした。また(孝武帝の生母が)「昌明」という夢を見て、神の使いの言う通りにしたが、金行(金徳の晋帝国の命運)が衰退したのは、これもまた人間のせいである。語にいう、「大国の政治が徐々に弱体化するとき、小国の政治はすでに傾覆している」と。苻堅が百六(災厄の不運)により、淝水で軍勢を捨てただけなのに、帝号に「武」を含め(孝武帝とす)るのは、冗談ではないか。
賛にいう、君主がはたあしならば(臣下に翻弄されれば)、(万物の)道が通じない。簡文帝は落ち着いて静かであったので、害悪を遺さなかった。孝武帝が朝廷に入ると、姦雄(桓温)が自ら消滅した。燕と之が路を撃ち、鄭と叔が鑣(くつわ)を分けた(調査中)。娼婦(張貴人)が孝武帝の席に近づき、酒を妖しげな天体(長星)に進めた。(孝武帝の名付けに関する讖文が現れたように)金風(金徳の晋帝国の天命)が衰えたが、(天が晋を滅ぼすのに先んじて)人間の行いが先に損なわれた。