いつか読みたい晋書訳

晋書_志第十四巻_職官

翻訳者:山田龍之
誤訳や誤字・脱字・衍字等、何かお気づきの点がございましたら、ご意見・ご助言・ご質問など、いずれも本プロジェクトの主宰者を通じてお寄せいただければ幸いです。
今回の『晋書』職官志の本文は、主に7つの部分に分けられます。
一つ目は、国のトップである「公」および軍のトップである「将軍」です。公の中には軍隊を授けられて将軍と同様の任務を担う「加兵公」とされる場合もあり、あるいは将軍の中には開府儀同三司として「武官公」とされる場合もあり、両者は互いに密接な関係にありました。
二つ目は「省」です。唐代の中書省・門下省・尚書省の三省制度が確立する以前、魏晋南北朝時代には「三台・五省」と呼ばれる官庁の枠組みがありました。具体的に「三台」とは何か、「五省」とは何かというのは王朝や時期によって異なりますが、『晋書』職官志では、唐代の三省の前身である尚書・中書・門下の諸官に加え、門下の属下にあった散騎省、中書省に属したりまた独立したりを繰り返した秘書省、その秘書省の属下にあった著作省などの諸省を紹介しています。
三つ目は「卿」です。漢代より、代表的な宰相・大臣の官職は「三公・九卿」と総称されてきました。ただ、「三公」以外にも公がいたのと同様、「九卿」以外にも卿はいました。そのような諸公・諸卿は「公卿」と総称されますが、『晋書』百官志では各省に続けて九卿およびその他の諸卿について紹介しています。
四つ目は「台」です。後漢では尚書台(中台)・御史台(憲台もしくは蘭台)・謁者台(外台)が「三台」とされていましたが、『晋書』職官志ではそれを受け、「省」の項目の方に組み込まれた尚書台を除いた残りの御史台・謁者台に加え、符節台・都水台などの諸台や、後の時代に「司隷台」と称されることになる司隷校尉府について紹介しています。
五つ目は「中軍」です。晋代では、各地に置かれた持節都督管轄下の「外軍」に対し、都城や宮城を管轄する中央軍のことを「中軍」と言い、「外軍」とともに「都督中外諸軍事」の監督下にありました。
六つ目は東宮官です。皇太子の東宮に属する官庁・官職です。
七つ目は地方官です。王爵および公・侯・伯・子・男の五等爵に封じられた者たちの国の制度や、州・郡・県の制度、そして四方で異民族を管轄する軍政官などが紹介されています。

原文

書曰「唐虞稽古、建官惟百。」所以奬導民萌、裁成庶政。易曰「天垂象、聖人則之。」執法在南宮之右、上相處端門之外、而鳥龍居位、雲火垂名、前史詳之、其以尚矣。黃帝置三公之秩、以親黎元、少昊配九扈之名、以爲農正、命重黎於天地、詔融冥於水火、則可得而言焉。伊尹曰「三公調陰陽、九卿通寒暑、大夫知人事、列士去其私。」而成湯居亳、初置二相、以伊尹・仲虺爲之、凡厥樞會、仰承君命。總及周武下車、成康垂則、六卿分職、二公弘化、咸樹司存、各題標準、苟非其道、人弗虛榮。貽厥孫謀、其固本也如此。
及秦變周官、漢遵嬴舊、或隨時適用、或因務遷革。霸王之典、義在於斯、既獲厥安、所謂得其時制者也。四征興於漢代、四安起於魏初、四鎮通於柔遠、四平止於喪亂、其渡遼・淩江、輕車・強弩、式揚遐外、用表攻伐、興而復毀、厥號彌繁。及當塗得志、克平諸夏、初有軍師祭酒、參掌戎律。建安十三年、罷漢台司、更置丞相、而以曹公居之、用兼端揆。孫吳・劉蜀、多依漢制、雖復臨時命氏、而無忝舊章。
世祖武皇帝即位之初、以安平王孚爲太宰、鄭沖爲太傅、王祥爲太保、司馬望爲太尉、何曾爲司徒、荀顗爲司空、石苞爲大司馬、陳騫爲大將軍、世所謂八公同辰、攀雲附翼者也。若乃成乎棟宇、非一枝之勢、處乎經綸、稱萬夫之敵。或牽羊以叶於夢、或垂釣以申其道、或空桑以獻其術、或操版以啓其心。臥龍飛鴻、方金擬璧、秦奚・鄭產、楚材晉用、斯亦曩時之良具、其又昭彰者焉。宣王既誅曹爽、政由己出、網羅英俊、以備天官。及蘭卿受羈、貴公顯戮、雖復策名魏氏、而乃心皇晉。及文王纂業、初啓晉臺、始置二衞、有前驅養由之弩;及設三部、有熊渠佽飛之眾。是以武帝龍飛、乘茲奮翼、猶武王以周之十亂而理殷民者也。是以泰始盡於太康、喬柯茂葉、來居斯位、自太興訖于建元、南金北銑、用處茲秩。雖未擬乎夔拊龍言、天工人代、亦庶幾乎任官惟賢、蒞事惟能者也。

訓読

書に曰く「唐虞は古を稽え、官を建つること惟れ百」と。民萌を奬導し、庶政を裁成する所以なり。易に曰く「天、象を垂れ、聖人、之に則る」と。執法は南宮の右に在り、上相は端門の外に處り、而して鳥龍は位に居り、雲火は名を垂れしは、前史に之を詳かにし、其れ以て尚ぶ。黃帝は三公の秩を置き、以て黎元に親しみ、少昊は九扈の名を配し、以て農正と爲し、重・黎を天地に命じ、融・冥を水火に詔せしは、則ち得て言うべし。伊尹曰く「三公は陰陽を調え、九卿は寒暑に通じ、大夫は人事を知り、列士は其の私を去る」と〔一〕。而して成湯の亳に居るや、初めて二相を置き、伊尹・仲虺(ちゅうき)を以て之と爲すに、凡そ厥の樞會は、仰ぎて君命を承く。總かに周武の下車し、成・康の則を垂るるに及び、六卿は職を分かち、二公は化を弘いにし、咸な司存を樹て、各々標準を題し、苟しくも其の道に非ずんば、人、虛榮せず。厥の孫謀を貽し、其の本を固むるや此くの如し。
秦の周官を變え、漢の嬴舊に遵うに及び、或いは時に隨いて適用し、或いは務に因りて遷革す。霸王の典、義は斯に在り、既に厥の安きを獲ば、所謂其の時制を得る者なり。四征は漢代に興り、四安は魏初に起こり、四鎮は柔遠に通じ、四平は喪亂を止め、其の渡遼・淩江、輕車・強弩は、式て遐外に揚げ、用て攻伐を表し、興りて復た毀ち、厥の號は彌々繁し。當塗の志を得、諸夏を克平するに及び、初めて軍師祭酒有り、戎律を參掌す。建安十三年、漢の台司を罷め、更めて丞相を置き、而して曹公を以て之に居らしめ、用て端揆を兼ねしむ。孫吳・劉蜀は、多く漢制に依り、復た時に臨みて氏を命ずと雖も、而れども舊章を忝むること無し。
世祖武皇帝の即位の初め、安平王孚(ふ)を以て太宰と爲し、鄭沖もて太傅と爲し、王祥もて太保と爲し、司馬望もて太尉と爲し、何曾もて司徒と爲し〔二〕、荀顗(じゅんぎ)もて司空と爲し、石苞(せきほう)もて大司馬と爲し、陳騫(ちんけん)もて大將軍と爲し、世に謂う所の「八公、辰を同じくし、雲を攀じ翼を附す」なる者なり。乃ち棟宇を成すに若(いた)りては、一枝の勢に非ず、經綸に處りては、萬夫の敵に稱う。或いは羊を牽きて以て夢に叶い、或いは釣を垂れて以て其の道を申べ、或いは空桑にして以て其の術を獻じ、或いは版を操りて以て其の心を啓す。臥龍・飛鴻、金に方べ璧に擬え、秦奚・鄭產、楚の材をば晉用い、斯れも亦た曩時の良具にして、其れ又た昭彰なる者なり。宣王の既に曹爽を誅し、政は己より出ずるや、英俊を網羅し、以て天官に備う。蘭卿の羈を受け、貴公の顯戮せらるるに及び、復た名を魏氏に策すと雖も、而れども乃心は皇晉にあり。文王の業を纂ぎ、初めて晉臺を啓き、始めて二衞を置くに及び、前驅・養由の弩有り、三部を設くるに及び、熊渠・佽飛の眾有り。是を以て武帝は龍飛し、茲の奮翼に乘ずるも、猶お武王の周の十亂を以てして殷民を理むる者のごときなり。是を以て泰始より太康を盡くし、喬柯の茂葉、來りて斯の位に居り、太興より建元に訖るまで、南金・北銑、用て茲の秩に處る。未だ夔の拊し龍の言い、天工をば人代わるに擬えずと雖も、亦た官を任ずるに惟れ賢、事に蒞むに惟れ能なる者に庶幾からんや。

〔一〕詳細は『説苑』臣述篇に記されている。
〔二〕『晋書斠注』に引く張熷『読史挙正』でも指摘されている通り、本紀や列伝と比べると、司馬望と何曽の官職が逆になっている。

現代語訳

『尚書』にはこうある。「尭や舜は古にならい、百官を立てた」(『尚書』周官)と。そうして民衆を助け導き、諸々の政務を上手く処理して秩序だったものにしたのである。『易』にはこうある。「天は瑞祥や凶徴を下し、聖人はそれに則る」(『易』繋辞上伝)と。執法(星官の名前)は南宮朱鳥(南方宿の総称で、天子の宮廷があるとされる)の筆頭であり、上相(星の名前)は端門(左執法と右執法の間の区域)の外にあり、(古の聖王たちはそのような天象をうかがい)少昊(古の五帝の四番目)は鳳鳥の瑞祥を受けて官名に鳥の名を盛り込み、太昊(古の五帝の一番目、あるいは伏羲)は龍の瑞祥を受けて官名に龍の名を盛り込み、それら諸鳥・諸龍たちが位にあり、黄帝(古の五帝の三番目)は景雲の瑞祥を受けて官名に雲の名を盛り込み、炎帝(古の五帝の二番目、あるいは神農)は火の瑞祥を受けて官名に火の名を盛り込み、それら諸雲・諸火が後世にその名を残したが、以上のことは旧来の史書に詳しく記されており、尊ぶべきものとされてきた。黄帝は三公の官職を置き、民衆を愛養させ、少昊は九つの農正(農業を掌る古の官職)を設置して九種のイカル(鳥の名前)の名前を配して名づけ、彼らに命じて民に農業を教えさせ、顓頊(古の五帝の五番目)は南正(天を掌る古の官職)の重(少昊の叔父)に命じて天をつかさどらせ、北正(地を掌る古の官職)の黎(顓頊の子)に命じて地をつかさどらせ、また、五行の官を置き、詔を下して祝融を火正(火を掌る古の官職)とし、玄冥を水正(水を掌る古の官職)としたが、これらについてもまたそのように(天に則り官を立てた例として尊ばれるべきことであると)言うことができる。伊尹は(殷の湯王に対して)言った。「三公は(天道に従って)陰陽を調和させ、九卿は季節ごとの気候や地理に通暁し(て産業の振興や治水を適切に行い)、大夫は人間社会の情理を理解し(て諸々の政務を適切に行い)、列士は私欲を捨て(て職務の遂行において公正であることを心掛け)るものです(ので、そのような人物をそれらの位につけるべきです)」と。そして湯王は(殷王朝を開いて)亳に都を置くと、初めて二相を置き、伊尹と仲虺(ちゅうき)をそれに任じたが、二人は枢要のことに関してはすべて、君命を仰ぎ、それを授かってから実行に移した。まもなく周の武王が(殷を打倒して)車から降り、成王や康王が規則を定めると、六卿(天官冢宰・地官司徒・春官宗伯・夏官司馬・秋官司寇・冬官司空)が職務を分担し、二公(成王の代の周公・召公、康王の代の召公・畢公)が教化を広め、いずれの官職に対してもそれぞれ職掌を定め、それぞれ準則を書き記し、もしその道に則らなければ、誰もそれで虚栄を得ることはできなかった。これらの帝王が、その天下の人々の心に沿うための方策を後世に伝え、その本幹を固めた様子は、まさに以上の通りであった。
秦が周の官制を変え、漢が秦の旧制を踏襲して以来、各王朝はあるいは時宜に従って旧来の制度を適用したり、あるいは時勢の必要に応じて旧来の制度を変革したりするようになった。これぞ覇王の制度の義というものであり、それで安泰を得ることができれば、まさに所謂「その時節と制度を得た」(『詩』鄘風・定之方中の序文)というものである。四征将軍(征東将軍・征西将軍・征南将軍・征北将軍)は漢代に興り、四安将軍(安東将軍・安西将軍・安南将軍・安北将軍)は魏初に始まり、四鎮将軍(鎮東将軍・鎮西将軍・鎮南将軍・鎮北将軍)は遠人を安撫することに精通し、四平将軍(平東将軍・平西将軍・平南将軍・平北将軍)は動乱を鎮め、渡遼将軍・凌江将軍・軽車将軍・強弩将軍などを置くことによって、辺境の兵士たちを奮い立たせ、攻伐を推奨し、そうして設置しては廃止するということを繰り返し、それらの将軍号はますます繁雑に増えていった。「当途高」の讖言に合致する魏(の曹操)がその志を得、中国各地を平定していった際には、初めて軍師祭酒を設置し、軍事に関する法律について担当させた。建安十三年(二〇八)には、漢の三公の官職を廃止し、改めて丞相を置き、そして曹公(曹操)をその位に据え、そうして国政を総攬させた。孫呉や劉蜀は、漢の制度に依拠することが多く、あるいは臨時に独自の官職を創設することはあっても、旧来の制度を汚す(=根本から独自に変革する)ことはなかった。
世祖武皇帝(司馬炎)が即位した当初、安平王・司馬孚(しばふ)が太宰に、鄭沖が太傅に、王祥が太保に、司馬望が太尉に、何曽が司徒に、荀顗(じゅんぎ)が司空に、石苞(せきほう)が大司馬に、陳騫(ちんけん)が大将軍に任じられたが、これぞ世に言うところの「八公が同時に雲の上に登り、互いに支え合った」というものである。建物を建てるに当たっては、一本の支えではとうてい耐え切れないものであるが、ましてや天下国家を治めるに当たってはなおさらで、(八公もいれば)一万の人に匹敵する心強さである。あるいは、黄帝が夢の中で何万頭もの羊の群れを追い立てて導いている者を見て、後に黄帝がその夢で見た人物を捜し求めると力牧がまさにその人であった(ので、力牧は師として黄帝を補佐することになり、それによって黄帝は五帝の一人として称えられることになった)ということがあり、あるいは、太公望が釣り糸を垂れて魚を釣っていたところに、周の文王が通り掛かり、そこで文王に向かって道を説いた(結果、太公望は師として文王や武王を補佐し、周が殷を打倒して王朝を開き、立派な統治を立てることに繋がった)ということがあり、あるいは、伊尹は葉が落ちた桑の木の中で生まれて、赤ん坊のときに拾われて育てられたような人物であったが、やがて殷の湯王に取り立てられて術策を献じるようになった(結果、伊尹は師として湯王や太甲を補佐し、殷が夏を打倒して王朝を開き、立派な統治を立てることに繋がった)ということがあり、あるいは、傅説(ふえつ)は版築の土木工事に携わっていたところを武丁(殷を中興した王)に抜擢され、その心のうちを述べた(結果、傅説は師として武丁を補佐し、武丁が殷を中興することに繋がった)ということがあ(り、いずれの聖王も身分を問わず賢人を採用し、彼らを宰相の位に据えて優れた政治を行)った。眠れる龍や野に翼を広げる大鳥(すなわち世にまだ認められていない逸材)は、金や璧になぞらえられるものであり、(春秋時代の晋国は賢者であれば出自を問わず用いたので)楚の逸材が多く晋で登用されることとなったが、(もと春秋時代の虞国の大夫であったが意見が取り入れられず、後に秦の穆公に抜擢されて穆公が覇者に上りつめることに大きく貢献した)秦の百里奚(ひゃくりけい)や(春秋時代の鄭国の宰相として魯の孔子にも称賛された)鄭の子産は、まさにそのような(他国で才能を認められた)人物であり、彼らもまた昔日の良材としてそれが顕著だった者である。宣王(司馬懿)は曹爽を誅殺し、政権を一手に握ると、英俊を網羅して登用し、それぞれ百官に据えた。(やがて司馬師・司馬昭の代になって)蘭卿(魏の三代皇帝・少帝曹芳)が帝位を廃されて諸侯の位に落とされ、高貴郷公(魏の四代皇帝・少帝曹髦)が罪を得て刑殺されるに及び、なお魏王朝の臣下としてその名を登録していたものの、群臣・諸侯の心はすでに皇晋(大いなる晋)に寄せられていた。文王(司馬昭)が事業を引き継ぎ、初めて晋国を建てて政府を開き、初めて左衛・右衛の二衛を置くと、その下に古の軍隊の前駆や楚の養由基(弓の名手)にちなんだ前駆司馬・由基司馬などの弩射部隊を設け、それら三部司馬の部隊を設けると、さらに古の楚の熊渠子(ゆうきょし)や同じく楚の佽飛(しひ)にちなんだ熊渠虎賁・佽飛虎賁の兵衆を置いた。それらに基づいて武帝(司馬炎)は龍のごとく飛翔し、そのヒレを奮って雲の上の位に駆け上るという機運に乗じたが、それでもなお(周の)武王が周の十人の乱臣(優れた臣下)を抱えながら、殷の諸侯として殷の民を統治していたのと同様の立場に留まっていた。そのように古の事跡にならったからこそ、泰始年間(武帝の最初の年号)から太康年間(武帝の晩年の年号)の末まで、高木の枝に茂った葉(=才徳の高い多くの賢者)が、訪れて来てはその位に据えられ、太興年間(東晋の元帝の最初の年号)から建元年間(東晋の康帝の晩年の年号)に至るまで、南で取れる銅や北で取れる光沢ある金属(=江南の逸材や北来の逸材)が、登用されてその官職に据えられた。それでもなお、舜の時代に、音楽をつかさどった夔(き)が石磬を小さく叩いて打ち鳴らし(神々や人々の心を調和させ)、納言に任じられた龍(人名)が言葉を伝え(信の心で上下の意志を通じさせて讒言を絶ち)、「天の仕事を人が代わりに行う」(『尚書』皋陶謨)というような働きを見せたということには及ばないものの、それでも、ほとんど「賢才を官に任用する」(『尚書』咸有一徳)、「能力あるものにその職務を行わせる」(『尚書』武成)というようなものであったのではなかろうか。

原文

丞相・相國、並秦官也。晉受魏禪、並不置、自惠帝以後、省置無恒。爲之者、趙王倫・梁王肜・成都王穎・南陽王保・王敦・王導之徒、皆非復尋常人臣之職。
太宰・太傅・太保、周之三公官也。魏初唯置太傅、以鍾繇爲之。末年又置太保、以鄭沖爲之。晉初以景帝諱故、又採周官官名、置太宰以代太師之任、秩增三司、與太傅太保皆爲上公。論道經邦、燮理陰陽、無其人則闕。以安平獻王孚居之。自渡江以後、其名不替、而居之者甚寡。
太尉・司徒・司空、並古官也。自漢歷魏、置以爲三公。及晉受命、迄江左、其官相承不替。
大司馬、古官也。漢制以冠大將軍・驃騎・車騎之上、以代太尉之職、故恒與太尉迭置、不並列。及魏有太尉、而大司馬・大將軍各自爲官、位在三司上。晉受魏禪、因其制、以安平王孚爲太宰、鄭沖爲太傅、王祥爲太保、義陽王望爲太尉、何曾爲司徒、荀顗爲司空、石苞爲大司馬、陳騫爲大將軍、凡八公同時並置、唯無丞相焉。自義陽王望爲大司馬之後、定令如舊、在三司上。
大將軍、古官也。漢武帝置、冠以大司馬名、爲崇重之職。及漢東京、大將軍不常置、爲之者皆擅朝權。至景帝爲大將軍、亦受非常之任。後以叔父孚爲太尉、奏改大將軍在太尉下。及晉受命、猶依其制、位次三司下、後復舊、在三司上。太康元年、琅邪王伷遷大將軍、復制在三司下、伷薨後如舊。
開府儀同三司、漢官也。殤帝延平元年、鄧騭爲車騎將軍、儀同三司。儀同之名、始自此也。及魏、黃權以車騎將軍開府儀同三司。開府之名、起於此也。
驃騎・車騎・衞將軍、伏波・撫軍・都護・鎮軍・中軍・四征・四鎮・龍驤・典軍・上軍・輔國等大將軍、左右光祿・光祿三大夫、開府者皆爲位從公。
太宰・太傅・太保・司徒・司空、左右光祿大夫・光祿大夫開府位從公者、爲文官公、冠進賢三梁、黑介幘。
大司馬・大將軍・太尉、驃騎・車騎・衞將軍・諸大將軍開府位從公者、爲武官公、皆著武冠、平上黑幘。
文武官公、皆假金章紫綬、著五時服。其相國・丞相、皆衮冕、綠盭綬、所以殊於常公也。
諸公及開府位從公者、品秩第一、食奉日五斛。太康二年、又給絹、春百匹、秋絹二百匹、緜二百斤。元康元年、給菜田十頃、1.〔田〕騶十人、立夏後不及田者、食奉一年。置長史一人、秩一千石、西・東閤祭酒、西・東曹掾、戶・倉・賊曹令史・屬各一人、御屬、閤下令史、西・東曹・倉・戶・賊曹令史、門令史、記室・省事令史、閤下・記室書令史、西・東曹學事各一人。給武賁二十人、持班劍。給朝車駕駟・安車黑耳駕三各一乘、祭酒・掾・屬白蓋小車七乘、軺車施耳後戶、皁輪・犢車各一乘。自祭酒已下、令史已上、皆皁零辟朝服。
太尉雖不加兵者、吏屬皆絳服。司徒加置置左・右長史各一人、秩千石、主簿、左西曹掾・屬各一人、西曹稱右西曹、其左西曹令史已下人數如舊令。司空加置導橋掾一人。
諸公及開府位從公加兵者、增置司馬一人、秩千石、從事中郎二人、秩比千石、主簿、記室督各一人、舍人四人、兵・鎧・士曹、營軍・刺姦・帳下都督、外都督令史各一人。主簿已下、令史已上、皆絳服。司馬給吏卒如長史、從事中郎給侍二人、主簿・記室督各給侍一人。其餘臨時增崇者、則褒加各因其時爲節文、不爲定制。
諸公及開府位從公爲持節都督、增參軍爲六人、長史・司馬・從事中郎・主簿・記室督・祭酒・掾・屬・舍人如常加兵公制。
特進、漢官也。二漢及魏晉以加官從本官車服、無吏卒。太僕羊琇遜位、拜特進、加散騎常侍、無餘官、故給吏卒・車服。其餘加特進者、唯食其祿賜、位其班位而已、不別給特進吏卒・車服。後定令、特進、品秩第二、位次諸公、在開府驃騎上、冠進賢兩梁、黑介幘、五時朝服、佩水蒼玉、無章綬、食奉日四斛。太康二年、始賜春服絹五十匹、秋絹百五十匹、緜一百五十斤。元康元年、給菜田八頃、田騶八人、立夏後不及田者、食奉一年。置主簿・功曹史・門亭長・門下書佐各一人。給安車黑耳・駕御一人、軺車施耳後戶一乘。
左右光祿大夫、假金章紫綬。光祿大夫加金章紫綬者、品秩第二、祿賜・班位・冠幘・車服・佩玉、置吏卒羽林及卒、諸所賜給皆與特進同。其以爲加官者、唯假章綬・祿賜・班位而已、不別給車服・吏卒也。又卒贈此位、本已有卿官者、不復重給吏卒、其餘皆給。
光祿大夫假銀章青綬者、品秩第三、位在金紫將軍下、諸卿上。漢時所置無定員、多以爲拜假賵贈之使、及監護喪事。魏氏已來、轉復優重、不復以爲使命之官。其諸公告老者、皆家拜此位、及在朝顯職、復用加之。及晉受命、仍舊不改、復以爲優崇之制。而諸公遜位、不復加之、或更拜上公、或以本封食公祿。其諸卿・尹・中朝大官年老致仕者、及內外之職加此者、前後甚眾。由是或因得開府、或進加金章紫綬、又復以爲禮贈之位。泰始中、唯太子詹事楊珧加給事中・光祿大夫。加兵之制、諸所供給依三品將軍。其餘自如舊制、終武・惠・孝懷三世。
光祿大夫與卿同秩中二千石、著進賢兩梁冠、黑介幘、五時朝服、佩水蒼玉、食奉日三斛。太康二年、始給春賜絹五十匹、秋絹百匹、緜百斤。惠帝元康元年、始給菜田六頃、田騶六人。置主簿・功曹史・門亭長・門下書佐各一人。
驃騎已下及諸大將軍不開府非持節都督者、品秩第二、其祿與特進同。置長史・司馬各一人、秩千石、主簿、功曹史、門下督、錄事、兵・鎧・士・賊曹、營軍・刺姦・帳下都督、功曹書佐、門吏、門下書吏各一人。其假節爲都督者、所置與四征鎮加大將軍不開府爲都督者同。
四征鎮安平加大將軍不開府持節都督者、品秩第二、置參佐・吏卒・幕府兵騎如常都督制、唯朝會祿賜從二品將軍之例。然則持節都督無定員。前漢遣使始有持節。光武建武初、征伐四方、始權時置督軍御史、事竟罷。建安中、魏武爲相、始遣大將軍督之。二十一年、征孫權還、夏侯惇督二十六軍是也。魏文帝黃初三年、始置都督諸州軍事、或領刺史。又上軍大將軍曹真、都督中外諸軍事、假黃鉞、則總統內外諸軍矣。魏明帝太和四年秋、宣帝征蜀、加號大都督。高貴鄉公正元二年、文帝都督中外諸軍、尋加大都督。及晉受禪、都督諸軍爲上、監諸軍次之、督諸軍爲下、使持節爲上、持節次之、假節爲下。使持節得殺二千石以下、持節殺無官位人、若軍事、得與使持節同、假節唯軍事得殺犯軍令者。江左以來、都督中外尤重、唯王導等權重者乃居之。
三品將軍秩中二千石者、著武冠、平上黑幘、五時朝服、佩水蒼玉、食奉・春秋賜緜絹・菜田・田騶如光祿大夫・諸卿制。置長史・司馬各一人、秩千石;主簿、功曹、門下都督、錄事、兵・鎧・士・賊曹、營軍・刺姦吏・帳下都督、功曹書佐、門吏、門下書吏各一人。

1.周家禄『晋書校勘記』に従い、「田」字を補う。

訓読

丞相・相國は、並びに秦官なり。晉の魏の禪を受くるや、並びに置かざるも、惠帝より以後、省置恒無し。之と爲る者は、趙王倫・梁王肜(ゆう)・成都王穎(えい)・南陽王保・王敦・王導の徒にして、皆な復た尋常の人臣の職に非ず。
太宰・太傅・太保は、周の三公の官なり。魏初、唯だ太傅のみを置き、鍾繇(しょうよう)を以て之と爲す。末年に又た太保を置き、鄭沖を以て之と爲す。晉初、景帝の諱の故を以て、又た周官の官名を採り、太宰を置きて以て太師の任に代え、秩は三司に增し、太傅・太保と皆な上公と爲す。道を論じ邦を經め、陰陽を燮理し、其の人無ければ則ち闕く。安平獻王孚(ふ)を以て之に居らしむ。渡江より以後、其の名は替てざるも、而れども之に居る者は甚だ寡し。
太尉・司徒・司空は、並びに古官なり。漢より魏を歷、置きて以て三公と爲す。晉の命を受くるに及び、江左に迄るまで、其の官、相い承けて替てず。
大司馬は、古官なり。漢制、以て大將軍・驃騎・車騎の上に冠し、以て太尉の職に代えたれば、故に恒に太尉と迭置し、並列せず。魏に及び、太尉有り、而して大司馬・大將軍は各々自ら官と爲し、位は三司の上に在り。晉の魏の禪を受くるや、其の制に因り、安平王孚(ふ)を以て太宰と爲し、鄭沖もて太傅と爲し、王祥もて太保と爲し、義陽王望もて太尉と爲し、何曾もて司徒と爲し、荀顗(じゅんぎ)もて司空と爲し、石苞(せきほう)もて大司馬と爲し、陳騫(ちんけん)もて大將軍と爲し、凡そ八公、時を同じくして並び置かるるも、唯だ丞相無きのみ。義陽王望の大司馬と爲りてよりの後、令を定めて舊の如くし、三司の上に在らしむ。
大將軍は、古官なり。漢の武帝置き、冠するに大司馬の名を以てし、崇重の職と爲す。漢の東京に及び、大將軍は常には置かず、之と爲る者は皆な朝權を擅にす。景帝の大將軍と爲るに至り、亦た非常の任を受く。後に叔父の孚を以て太尉と爲すや、奏して大將軍を改めて太尉の下に在らしむ。晉の命を受くるに及び、猶お其の制に依り、位は三司の下に次ぐも、後に舊に復し、三司の上に在らしむ。太康元年、琅邪王伷(ちゅう)の大將軍に遷るや、復た制して三司の下に在らしめ、伷の薨ぜし後に舊の如くす。
開府儀同三司は、漢官なり。殤帝の延平元年、鄧騭、車騎將軍と爲り、儀は三司に同じくせらる。儀同の名、始まるに此よりするなり。魏に及び、黃權、車騎將軍を以て開府すること儀は三司に同じくせらる。開府の名、此に起こるなり。
驃騎・車騎・衞將軍、伏波・撫軍・都護・鎮軍・中軍・四征・四鎮・龍驤・典軍・上軍・輔國等の大將軍、左右光祿・光祿三大夫にして、開府する者は皆な位從公と爲す〔一〕。
太宰・太傅・太保・司徒・司空、左右光祿大夫・光祿大夫にして開府位從公なる者は、文官公と爲し、進賢三梁、黑介幘を冠す。
大司馬・大將軍・太尉、驃騎・車騎・衞將軍・諸大將軍にして開府位從公なる者は、武官公と爲し、皆な武冠、平上黑幘を著く。
文武官公は、皆な金章紫綬を假し、五時の服を著る。其の相國・丞相は、皆な衮・冕、綠盭綬なるは、常公に殊ならしむる所以なり。
諸公及び開府位從公なる者は、品秩は第一、奉を食むこと日ごとに五斛。太康二年、又た絹を給するに、春は百匹、秋は絹二百匹、緜二百斤なり。元康元年、菜田十頃、田騶十人を給し、立夏の後にして田づくるに及ばずんば、奉を食むこと一年。長史一人、秩は一千石、西・東閤祭酒、西・東曹掾、戶・倉・賊曹の令史・屬各々一人、御屬、閤下令史、西・東曹・倉・戶・賊曹令史、門令史、記室・省事令史、閤下・記室書令史、西・東曹學事各々一人を置く〔二〕。武賁二十人を給し、班劍を持たしむ。朝車の駕駟なるもの、安車の黑耳にして駕三なるもの、各々一乘、祭酒・掾・屬の白蓋の小車七乘、軺車の耳を後戶に施せるもの、皁輪・犢車各々一乘を給す。祭酒より已下、令史已上は、皆な皁零辟の朝服もてす。
太尉は兵を加えざる者と雖も、吏屬は皆な絳服す。司徒は加えて左・右長史各々一人、秩は千石、主簿、左西曹掾・屬各々一人を置き、西曹は右西曹と稱し、其の左西曹令史已下の人數は舊令の如し。司空は加えて導橋掾一人を置く。
諸公及び開府位從公にして兵を加えられし者は、司馬一人、秩は千石、從事中郎二人、秩は比千石、主簿、記室督各々一人、舍人四人、兵・鎧・士曹、營軍・刺姦・帳下都督、外都督令史〔三〕各一人を增置す。主簿已下、令史已上、皆な絳服す。司馬は吏卒を給すること長史の如くし、從事中郎は給侍二人、主簿・記室督は各々給侍一人。其の餘の時に臨みて增崇する者あらば、則ち褒加は各々其の時に因りて節文を爲し、定制と爲さず。
諸公及び開府位從公にして持節都督と爲るものは、參軍を增して六人と爲し、長史・司馬・從事中郎・主簿・記室督・祭酒・掾・屬・舍人は常の加兵公の制の如し。
特進は、漢官なり。二漢及び魏晉、加官なるを以て本官の車服に從い、吏卒無し。太僕の羊琇(ようしゅう)は位を遜り、特進に拜せられ、散騎常侍を加えられしも、餘官無ければ、故に吏卒・車服を給せらる。其の餘の特進を加えられし者は、唯だ其の祿賜を食み、其の班位に位するのみにして、別に特進の吏卒・車服を給せず。後に令を定め、特進は、品秩は第二、位は諸公に次ぎ、開府驃騎の上に在り〔四〕、進賢兩梁、黑介幘を冠し、五時の朝服もて、水蒼玉を佩び、章綬無く、奉を食むこと日ごとに四斛。太康二年、始めて春服の絹五十匹を賜い、秋は絹百五十匹、緜一百五十斤もてす。元康元年、菜田八頃、田騶八人を給し、立夏の後、田づくるに及ばずんば、奉を食むこと一年。主簿・功曹史・門亭長・門下書佐各々一人を置く。安車の黑耳なるもの、駕御一人、軺車の耳を後戶に施せるもの一乘を給す。
左右光祿大夫は、金章紫綬を假す。光祿大夫の金章紫綬を加えられし者は、品秩は第二、祿賜・班位・冠幘・車服・佩玉、吏卒・羽林及び卒を置くこと、諸そ賜給する所は皆な特進と同じ。其の以て加官と爲すは、唯だ章綬・祿賜・班位を假すのみにして、別に車服・吏卒を給せざるなり。又た卒して此の位を贈らるるに、本より已に卿官有る者は、復た重ねて吏卒を給せず、其の餘は皆な給す。
光祿大夫の銀章青綬を假せられし者は、品秩は第三、位は金紫將軍の下、諸卿の上に在り。漢時、置く所は定員無く、多く以て拜假賵贈の使と爲し、及び喪事を監護せしむ。魏氏已來、轉た復た優重せられ、復た以て使命の官と爲さず。其の諸公の老を告げし者、皆な家にて此の位を拜し、及び朝の顯職に在りては、復た用て之を加う。晉の命を受くるに及び、舊に仍りて改めず、復た以て優崇の制と爲す。而るに諸公の位を遜るに、復た之を加えず、或いは更めて上公に拜し、或いは本封を以て公祿を食ましむ。其の諸卿・尹、中朝の大官の年老いて致仕せし者、及び內外の職にして此を加えられし者は、前後甚だ眾し。是に由りて或いは因りて開府を得、或いは進みて金章紫綬を加えられ、又た復た以て禮贈の位と爲す。泰始中、唯だ太子詹事の楊珧(ようよう)のみ給事中・光祿大夫を加えらる。加兵の制、諸そ供給する所は三品將軍に依る。其の餘は自ら舊制の如く、武・惠・孝懷の三世を終う。
光祿大夫は卿と同に秩中二千石にして、進賢兩梁冠、黑介幘を著け、五時の朝服もて、水蒼玉を佩び、奉を食むこと日ごとに三斛。太康二年、始めて給するに春に絹五十匹を賜い、秋は絹百匹、緜百斤もてす。惠帝の元康元年、始めて菜田六頃、田騶六人を給す。主簿・功曹史・門亭長・門下書佐各一人を置く。
驃騎已下及び諸大將軍の開府せず持節都督に非ざる者は、品秩は第二、其の祿は特進と同じ。長史・司馬各一人、秩は千石、主簿、功曹史、門下督、錄事、兵・鎧・士・賊曹、營軍・刺姦・帳下都督、功曹書佐、門吏、門下書吏各々一人を置く。其の節を假されて都督と爲る者は、置く所は四征鎮の大將軍を加えられ開府せず都督と爲る者と同じ。
四征鎮安平の大將軍を加えられ開府せず持節都督なる者は、品秩は第二、參佐・吏卒・幕府の兵騎を置くこと常の都督の制〔五〕の如きも、唯だ朝・會・祿・賜は二品將軍の例に從う。然れば則ち持節都督は定員無し。前漢、使を遣わすに始めて節を持たしむること有り。光武の建武の初め、四方を征伐するに、始めて權時に督軍御史を置き、事竟われば罷む。建安中、魏武の相と爲るや、始めて大將軍を遣わして之を督せしむ。二十一年、孫權を征して還るに、夏侯惇の二十六軍を督するは是れなり。魏の文帝の黃初三年、始めて都督諸州軍事を置き、或いは刺史を領せしむ。又た上軍大將軍の曹真、中外諸軍の事を都督し、黃鉞を假せられ、則ち內外の諸軍を總統す。魏の明帝の太和四年秋、宣帝、蜀を征するに、大都督を加號せらる。高貴鄉公の正元二年、文帝、中外の諸軍を都督するに、尋いで大都督を加えらる。晉の禪を受くるに及び、都督諸軍もて上と爲し、監諸軍は之に次ぎ、督諸軍もて下と爲し、使持節もて上と爲し、持節は之に次ぎ、假節もて下と爲す。使持節は二千石以下を殺すを得、持節は官位無き人を殺し、若し軍事ならば、使持節と同じきを得、假節は唯だ軍事に軍令を犯せし者を殺すを得るのみ。江左以來、都督中外、尤も重く、唯だ王導等の權の重き者のみ乃ち之に居る。
三品將軍の秩中二千石なる者、武冠、平上黑幘を著け、五時の朝服もて、水蒼玉を佩び、食奉・春秋の賜緜絹・菜田・田騶は光祿大夫・諸卿の制の如し。長史・司馬各々一人、秩は千石、主簿、功曹、門下都督、錄事、兵・鎧・士・賊曹、營軍・刺姦吏〔六〕・帳下都督、功曹書佐、門吏、門下書吏各々一人を置く。

〔一〕驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍は第二品の官職で、その他に挙げられている将軍は第三品の官職である。この三品将軍は、撫軍大将軍などとして「大」の字が付されると、第二品の待遇を受けるようになる。それに加えてさらに「開府儀同三司」の位を授けられると、「位従公」として第一品の待遇を受けることになったということである。驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍、左光禄大夫・右光禄大夫・金紫光禄大夫はもともといずれも第二品であり、銀青光禄大夫は第三品であるが、いずれも「開府儀同三司」を加えられることで同様に第一品の待遇を得た。
〔二〕なぜ倉曹令史、戸曹令史、賊曹令史が重複しているのかについては、その詳細は判然としない。そもそも「掾→令史→属→御属→令史」の順に記載されているのも順序としておかしい。なお、『晋書斠注』では『北堂書鈔』に引く荀綽『晋百官表注』を引用しており、そこには太傅の属官として掾属が十人、御属が一人、令史が十二人置かれていたとされている。史料によっては、これについて「漢太傅置掾屬十人、御屬一人、令史十二人、置長史、與漢異。」として、冒頭に「漢の」という一字が付され、漢制を述べているものとするテキストもあるが、内容としてそもそも『続漢書』百官志に引く『漢官』と大いに齟齬を来しているし、末尾に「與漢異」とある以上、それ以前の文は漢制ではなく、晋制について記しているものと見るべきであろう。それを踏まえて『晋書』百官志の該当箇所を見ると、「戸・倉・賊曹令史・屬各一人」とあるのは「戸・倉・賊曹掾・屬各一人」もしくは「戸・倉・賊曹掾史・屬各一人」の誤りかと思われる。そうすれば、倉曹令史、戸曹令史、賊曹令史が重複することもなく、また、掾属は西曹掾・東曹掾・戸曹掾(掾史)・倉曹掾(掾史)・賊曹掾(掾史)、西曹属・東曹属・戸曹属・倉曹属・賊曹属で『晋百官表注』の記述と同じく合わせて十人となる。令史に関しては、閤下令史、西曹令史、東曹令史、倉曹令史、戸曹令史、賊曹令史、門令史、記室令史、省事令史、閤下書令史、記室書令史の合わせて十一人となり、『晋百官表注』が十二人とするのに比べて一人分少ないが、『晋書』の伝写の際に何か脱落が生じたか、あるいは『晋百官表注』の伝写の際に「十一人」とするべきところを「十二人」と誤写してしまったなどということも、考えられなくはない。
〔三〕中華書局本では「外都督、令史」と区切って読んでいるが、『資治通鑑』の胡三省注では「外都督令史」を一括りにしており、『晋書』巻一・高祖宣帝紀などにも「都督令史の張静」なる人物が登場する。
〔四〕上文にもある通り、開府儀同三司とされた驃騎将軍は第一品とされ、特進は第二品であるので、品位では特進よりも「開府驃騎」の方が上である。ただ、このように班位は必ずしも品位と一致しない場合がある。後漢の尚書令が千石の位でありながら、班位が非常に高かったのと同様の類いであろう。
〔五〕上文の「諸公及び開府位從公にして持節都督と爲るもの」の条で、持節都督となった場合の属吏等の規定について記されている。つまり、六人の参軍が増置されるなどの措置が行われた。
〔六〕「刺姦吏都督」については、中華書局の校勘記が指摘する通り、上文の「加兵公」や二品将軍の条では「刺姦都督」とされていることからも、「吏」は衍字なのではないかと思われるが、ここではとりあえずそのまま訳出した。

現代語訳

丞相・相国は、いずれも秦が創設した官である。晋が魏の禅譲を受けると、いずれも置くことはなかったが、恵帝以降になると、省いたり置いたりを繰り返して決まった制度がなかった。これらの官に就任した者としては、趙王・司馬倫、梁王・司馬肜(しばゆう)、成都王・司馬穎(しばえい)、南陽王・司馬保、王敦、王導らがおり、いずれの場合も尋常の人臣のための職ではなかった。
太宰・太傅・太保は、周の三公の官である。魏の初期には、ただ太傅だけが置かれ、鍾繇(しょうよう)がこれに任じられた。(魏の)末年にはさらに太保を置き、鄭沖をそれに任じた。晋の初期、景帝(司馬師)の諱を避けるため、また『周官』(=『周礼』)の官名を採用し、太宰を置いて太師の職任の代わりとし、秩は三公よりも高くし、太傅・太保ともども上公の位とした。道を論じ、国を経理し、陰陽を整え治める役目を担い、適任者がいなければ欠員状態のままにすることとした。安平献王・司馬孚(しばふ)が(最初に)太宰に就任した。渡江した後(すなわち東晋時代)も、その名を廃することはしなかったが、しかし、その地位に上った者は非常に少なかった。
太尉・司徒・司空は、いずれも古に創設された官である。漢から魏を経て、三公として置かれた。晋が天命を受けて王朝を開いてから、江左(東晋)にいたるまで、それらの官は、(ある人物がその任を解かれれば、まもなく他の人物が代わりにそれに就任するというように)代々位が継承されて廃止されることはなかった。
大司馬は、古に創設された官である。漢の制度では、大将軍・驃騎将軍・車騎将軍の名前の上に冠し(すなわち「大司馬大将軍」「大司馬驃騎将軍」「大司馬車騎将軍」などと組み合わせて呼ばれ)、それを置くことで太尉の職の代わりとしたので、よって常に太尉とどちらか一方だけが置かれ、同時に両者が並び置かれることはなかった。魏の時代になると、太尉が置かれておりながら、さらに大司馬や大将軍もそれぞれ独自の官として置かれ、その(大司馬の)位は三公の上とされた。晋が魏の禅譲を受けると、その制度を継承し、安平王・司馬孚が太宰に、鄭沖が太傅に、王祥が太保に、義陽王・司馬望が太尉に、何曽が司徒に、荀顗(じゅんぎ)が司空に、石苞(せきほう)が大司馬に、陳騫(ちんけん)が大将軍に任じられ、合計で八公が同時に並び置かれたが、ただ丞相だけは置かれなかった。(以上の序列を見ても分かる通り、大司馬・石苞は三公の下に位置づけられたが、)義陽王・司馬望が大司馬となった後には、令を定めて元通りの位に戻し、三公の上に位置づけられた。
大将軍は、古に創設された官である。漢では武帝が設置し、大司馬の名を冠し(すなわち「大司馬大将軍」として存在し)、尊貴なる者(主に外戚)のための職とした。漢の東京(すなわち後漢)になると、大将軍は常には置かないこととし、この官職に就任した者はいずれも朝廷の権勢を思いのままにした。(曹魏の時代に)景帝(司馬師)が大将軍に就任した際も、やはり常ならざる職任を受けたのであった。後に景帝の叔父の司馬孚が太尉に任じられると、景帝は(叔父の上に立つことを善しとせず)上奏して改めて大将軍を太尉の下に位置づけることにした。晋が天命を受けて王朝を開くと、引き続きその制度を継承し、位は三公の下に位置づけられたが、後に元に戻し、三公の上に位置づけられた。太康元年(二八〇)、琅邪王・司馬伷(しばちゅう)が大将軍に昇進すると、また制書を下して三公の下に位置づけ、司馬伷が薨去した後に元通りに戻した。
開府儀同三司は、漢が創設した官である。(後漢の)殤帝の延平元年(一〇六)、鄧騭(とうしつ)が車騎将軍となった際に、その儀は三公と同じとされた。「儀同」の名は、ここから始まった。魏になると、黄権が車騎将軍の身で開府した際に、その儀は三公と同じとされた。「開府」の名は、ここから生じた。
驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍の三将軍が開府儀同三司とされた場合、あるいは伏波将軍・撫軍将軍・都護将軍・鎮軍将軍・中軍将軍・四征将軍(征東将軍・征西将軍・征北将軍・征南将軍)・四鎮将軍(鎮東将軍・鎮西将軍・鎮北将軍・鎮南将軍)・龍驤将軍・典軍将軍・上軍将軍・輔国将軍等のうち大将軍とされた者(すなわち撫軍大将軍や征東大将軍など)が開府儀同三司とされた場合、もしくは左光禄大夫・右光禄大夫・(左右を冠さない通常の)光禄大夫の三大夫が開府儀同三司とされた場合には、いずれも「位従公」(公に準ずる位)とされた。
太宰・太傅・太保・司徒・司空、および左光禄大夫・右光禄大夫・光禄大夫のうち開府儀同三司として「位従公」となった者は、「文官公」とされ、三梁の進賢冠および黒色の介幘をかぶることとされた。
大司馬・大将軍・太尉、および驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍・諸大将軍のうち開府儀同三司として「位従公」となった者は、「武官公」とされ、いずれも武冠および黒色の平上幘をかぶることとされた。
文官公・武官公は、いずれも金章・紫綬を授けられ、五時の服(春は青色、夏は朱色、季夏は黄色、秋は白色、冬は黒色の朝服)を着ることとされた。(同じく公の身でありながら)相国・丞相がいずれも袞衣や冕、緑盭綬を身に着けることとされていたのは、通常の諸公と区別して特別であることを示すためである。
諸公および開府儀同三司として「位従公」とされた者は、品秩は第一(第一品)とし、一日あたり五斛の俸禄を授かった。太康二年(二八一)、それに加えて毎年、春には絹百匹、秋には絹二百匹と真綿二百斤を給付することにした。元康元年(二九一)、さらにそれに加えて、菜田十頃、田騶(菜田で耕作させるための専属の農夫)十人を給付することとし、もしその拝命が立夏の後に行われ、その年の農作に間に合わない場合には、代わりに一年分の俸禄を追加で授けた。属吏としては、長史が一人、その秩は一千石とし、他に西閤祭酒、東閤祭酒、西曹掾、東曹掾、戸曹令史、戸曹属、倉曹令史、倉曹属、賊曹令史、賊曹属がそれぞれ一人ずつ、御属、閤下令史、西曹令史、東曹令史、倉曹令史、戸曹令史、賊曹令史、門令史、記室令史、省事令史、閤下書令史、記室書令史、西曹学事、東曹学事がそれぞれ一人ずつ置かれた。また、武賁(虎賁)二十人を給付し、彼らに班剣を持たせた。そして四頭立ての朝車、三頭立てで黒い車耳をつけた安車(座って乗る車)をそれぞれ一乗ずつ、二人の祭酒・二人の掾・三人の属たちのための白い車蓋の小車を七乗、またその他に車耳を後戸につけた軺車や、皁輪車、犢車をそれぞれ一乗ずつ給付した。祭酒以下、令史以上の属吏は、みな皁零辟の朝服を着ることとされた。
太尉は、兵を授からなかった場合であっても、その属吏は(加兵公の属吏と同様に)いずれも絳服を着用することとされた。司徒の場合は、(他の諸公や「位従公」の場合に)加えて左長史・右長史がそれぞれ一人、秩は千石とし、主簿、左西曹掾、左西曹属がそれぞれ一人ずつ置かれ、(他の諸公や「位従公」の)西曹に相当する部署は右西曹と呼び、その左西曹令史以下の人数は旧令(上記の諸公および「位従公」の制度)の通りとした。司空の場合は、(他の諸公や「位従公」の場合に)加えて導橋掾一人を置くこととした。
諸公および開府儀同三司として「位従公」とされた者のうち、加えて兵(軍隊)を与えられた者(=「加兵公」)は、属吏として司馬が一人、秩は千石とし、従事中郎が二人、秩は比千石とし、主簿、記室督がそれぞれ一人ずつ、舍人が四人、兵曹、鎧曹、士曹、営軍都督、刺姦都督、帳下都督、外都督令史がそれぞれ一人ずつ増置された。主簿以下、令史以上の者たちは、いずれも絳服を着用することとされた。司馬には長史と同様の吏卒を給付し、従事中郎には給侍を二人、主簿・記室督にはそれぞれ給侍を一人ずつ給付した。その他、臨時に属吏の種類や定員を増やしたり、待遇を厚くしたりする場合には、それらの賞与や増加に関してはそれぞれその時々に応じて儀制を定め、いずれも定制(一般的な制度)とはしなかった。
諸公および開府儀同三司として「位従公」とされた者のうち、持節都督に任じられた者は、(前掲の「加兵公」の場合に加えて)参軍六人を増置し、長史・司馬・従事中郎・主簿・記室督・祭酒・掾・属・舍人については、通常の「加兵公」の制度と同様とされた。
特進は、漢が創設した官である。二漢(前漢・後漢)および魏晋では加官として扱われたので、車や服は本官のものに従うこととし、吏卒が独自に給付されることはなかった。ただ、(西晋の)太僕の羊琇(ようしゅう)が位を退くと、特進を拝命し、散騎常侍を加官されたが、それらの加官の他に本官が無かったため、そこでお付きの吏卒や専用の車・服を給付された。それ以外では、特進を加えられた者は、ただ禄・賜(俸禄や菜田・絹・真綿などを始めとする諸々の賜与)を授けられ、その班位に居座るだけであり、それとは別に特進専用の吏卒や車・服を給付されることはなかった。後に令を定め、特進は、品秩は第二(第二品)とし、班位は諸公に次ぐもの、具体的には開府儀同三司として「位従公」となった驃騎将軍の上に位置するものとし、二梁の進賢冠と黒色の介幘をかぶり、五時の朝服を着て、水蒼玉を佩びることとされ、印章や綬は無く、一日あたり四斛の俸禄を授かった。太康二年(二八一)、初めてそれに加えて毎年、春服用の絹五十匹と、秋には絹百五十匹と真綿一百五十斤を賜うことにした。元康元年(二九一)、さらにそれに加えて菜田八頃、田騶八人を給付することにし、もしその拝命が立夏の後に行われ、その年の農作に間に合わない場合には、代わりに一年分の俸禄を追加で授けた。属吏としては主簿・功曹史・門亭長・門下書佐がそれぞれ一人ずつ置かれた。また、黒い車耳をつけた安車一乗と、御者一人、車耳を後戸につけた軺車一乗が給付された。
左光禄大夫・右光禄大夫には、金章・紫綬が授けられた。また、(左右を冠さない通常の)光禄大夫で金章・紫綬を加えられた者(=金紫光禄大夫)は、(左光禄大夫・右光禄大夫ともども)品秩は第二(第二品)とし、禄や賜、班位、冠や幘、車や服、佩玉についてや、吏卒・羽林および卒を置くことについては、すべて賜与・給付する内容はいずれも特進と同じとされた。加官として光禄大夫が授けられる際には、ただ印章や綬、禄や賜、班位を授けるのみとし、本官の制度とは別に車や服、吏卒を給付することはしなかった。また、死去してこの位を追贈されたものの、もともと卿の官位を有していた場合には、また改めて二重に吏卒を給付することはしないこととしたが、その他のものに関してはすべて給付した。
(左右を冠さない通常の)光禄大夫で銀章・青綬を授けられた者(=銀青光禄大夫)は、品秩は第三(第三品)とし、班位は金印(金章)・紫綬の将軍の下、諸卿の上に位置づけられた。漢の時代には、設置する際の定員は無く、多くの場合、臨時に官職を授与するときや、諸侯や官僚の葬儀の際に贈り物をするときの使者として任命し、あるいは葬儀の監督(総括)をさせた。曹魏以来、ますますさらに優遇・尊重され、もはや使命の官として用いられることはなくなった。(その代わりに)諸公で年老いたために引退を願い出た者が、みな家にいながらにしてこの位を拝命したり、あるいは朝廷の顕職にある者にも、加官としてこの位を授けることがあったりした。晋が天命を受けて王朝を開いた後も、旧法を踏襲して改めず、またその人物を優遇するための制度として光禄大夫の官職を用いた。ただ、諸公が位を退いた場合には、もうこの位を加えられることはなくなり、あるいは改めて上公に拝命されたり、あるいはもともと授かっていた封爵に基づいて俸禄を授かったりするようになった。諸卿や河南尹、あるいはその他の中央の大官に就任し、年老いて引退した者、あるいは内外の職に在りながらこの位を加官された者は、前後にわたって非常に多くの数に上った。そのため、あるいはそれに基づいて開府儀同三司の位を得たり、あるいは位を進められて金章・紫綬を加えられたり、または追贈のための位として用いられることもあった。泰始年間には、ただ太子詹事の楊珧(ようよう)のみが給事中・光禄大夫を加官された。加兵の制度(軍隊を授けられる場合の制度)については、すべて供給する内容は三品の将軍の場合に依拠することとした。その他についてはもともと旧制の通りで、武帝・恵帝・孝懐帝の三世にわたってその制度が続いた。
光禄大夫は卿と同じく秩中二千石であり、二梁の進賢冠、黒色の介幘をかぶり、五時の朝服を着て、水蒼玉を佩びることとされ、一日あたり三斛の俸禄を授かった。太康二年(二八一)、初めてそれに加えて毎年、春には絹五十匹、秋には絹百匹と真綿百斤を賜わることになった。恵帝の元康元年(二九一)、さらにそれに加えて初めて菜田六頃、田騶六人を給付することとされた。属吏として主簿・功曹史・門亭長・門下書佐がそれぞれ一人ずつ置かれた。
驃騎将軍以下(車騎将軍・衛将軍に至るまで)および諸大将軍のうち、開府儀同三司の位も持節都督の位も授けられなかった者は、品秩は第二(第二品)とし、その俸禄は特進と同じとされた。属吏としては長史・司馬がそれぞれ一人ずつ、秩は千石とし、主簿、功曹史、門下督、録事、兵曹、鎧曹、士曹、賊曹、営軍都督、刺姦都督、帳下都督、功曹書佐、門吏、門下書吏がそれぞれ一人ずつ置かれた。その中でも、節を授けられて都督とされた者(=「持節都督」)の場合、設置する属吏については、四征将軍・四鎮将軍で大将軍を加えられて開府儀同三司の位を授けられず持節都督となった者と同じとされた。
四征将軍・四鎮将軍・四安将軍・四平将軍で大将軍を加えられて開府儀同三司の位を授けられず持節都督となった者は、品秩は第二(第二品)とし、属吏や吏卒・幕府の兵騎を置くことに関しては、通常の持節都督の制度と同じであるが、ただ朝(朝儀・朝議)や会(元会などの諸会)の際の待遇や、禄や賜は二品将軍(驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍)の例に従うこととされた。それから、持節都督には定員が無かった。(その淵源を辿ると)前漢において、使者を派遣する際に初めて節を持たせることがあった。(後漢の)光武帝の建武年間の初め、四方を征伐するに当たって、初めてその時限定の措置として督軍御史を置き、事が済んだら解任することとした。建安年間において、魏の武帝(曹操)が宰相となると、初めて大将軍を派遣して軍を監督させた。建安二十一年(二一六)に、孫権を征伐して帰還するに当たって、夏侯惇が二十六軍を督することになったのがそれである。魏の文帝(曹丕)の黄初三年(二二二)、初めて都督諸州軍事を置き、あるいは刺史を兼任する者もいた。また、上軍大将軍の曹真は、中外の諸軍の事を都督し(=都督中外諸軍事に任命され)、黄鉞を授けられ、そうして内外の諸軍を総帥した。魏の明帝(曹叡)の太和四年(二三〇)秋、宣帝(司馬懿)が蜀を征伐するに当たり、大都督の号を加えられた。高貴郷公(少帝・曹髦)の正元二年(二五五)、文帝(司馬昭)が、中外の諸軍を都督する(=都督中外諸軍事に任じられる)ことになり、さらにまもなく大都督を加えられた。晋が禅譲を受けた後には、持節都督に関しては、「都督諸軍」を最上位とし、「監諸軍」をそれに次ぐものとし、「督諸軍」を最下位とし、また「使持節」を最上位とし、「持節」をそれに次ぐものとし、「仮節」を最下位とした。そして「使持節」は二千石以下を殺すことができるものとし、「持節」は官位の無い人を殺すことができ、軍事の場合に限って「使持節」と同じ権限を持つことができるものとし、「仮節」はただ軍事の場合に限って軍令違犯者を殺すことができるのみとした。江左(すなわち東晋時代)以降、都督中外諸軍事が特に重んじられ、ただ王導などの権勢の大きい者だけがようやっとその位に就くことができた。
(四征将軍などの)三品将軍で秩中二千石である者は、武冠、黒色の平上幘をかぶり、五時の朝服を着て、水蒼玉を佩びることとされ、俸禄や、春と秋における絹や真綿の賜与、菜田、田騶については光禄大夫・諸卿の制度と同じとされた。属吏としては、長史・司馬がそれぞれ一人ずつ、秩は千石とし、主簿、功曹、門下都督、録事、兵曹、鎧曹、士曹、賊曹、営軍都督、刺姦吏都督(刺姦都督?)、帳下都督、功曹書佐、門吏、門下書吏がそれぞれ一人ずつ置かれた。

原文

錄尚書。案漢武時、左右曹・諸吏分平尚書奏事、知樞要者始領尚書事。張安世以車騎將軍、霍光以大將軍、王鳳以大司馬、師丹以左將軍並領尚書事。後漢章帝以太傅趙憙・太尉牟融並錄尚書事。尚書有錄名、蓋自憙・融始、亦西京領尚書之任、猶唐虞大麓之職也。和帝時、太尉鄧彪爲太傅、錄尚書事、位上公、在三公上。漢制遂以爲常、每少帝立則置太傅錄尚書事、猶古冢宰總已之義、薨輒罷之。自魏晉以後、亦公卿權重者爲之。
尚書令、秩千石、假銅印・墨綬、冠進賢兩梁冠、納言幘、五時朝服、佩水蒼玉、食奉月五十斛。受拜則策命之、以在端右故也。太康二年、始給賜絹、春三十匹、秋七十匹、緜七十斤。元康元年、始給菜田六頃、田騶六人、立夏後不及田者、食奉一年。始賈充爲尚書令、以目疾表置省事吏四人。省事蓋自此始。
僕射、服・秩・印・綬與令同。案漢本置一人、至漢獻帝建安四年、以執金吾榮郃爲尚書左僕射。僕射分置左右、蓋自此始。經魏至晉、迄於江左、省置無恒、置二、則爲左右僕射、或不兩置、但曰尚書僕射。令闕、則左爲省主、若左右並闕、則置尚書僕射以主左事。
列曹尚書。案尚書本漢承秦置。及武帝遊宴後庭、始用宦者主中書、以司馬遷爲之、中間遂罷其官、以爲中書之職。至成帝建始四年、罷中書宦者、又置尚書五人、一人爲僕射、而四人分爲四曹、通掌圖書・祕記・章奏之事、各有其任。其一曰常侍曹、主丞相・御史・公卿事。其二曰二千石曹、主刺史・郡國事。其三曰民曹、主吏民上書事。其四曰主客曹、主外國・夷狄事。後成帝又置三公曹、主斷獄、是爲五曹。後漢光武以三公曹主歲盡考課諸州郡事、改常侍曹爲吏部曹、主選舉・祠祀事、民曹主繕修・功作・鹽池・園苑事、客曹主護駕・羌胡・朝賀事、二千石曹主辭訟事、中都官曹主水火・盜賊事、合爲六曹。并令僕二人、謂之八座。尚書雖有曹名、不以爲號。靈帝以侍中梁鵠爲選部尚書、於此始見曹名。及魏改選部爲吏部、主選部事、又有左民・客曹・五兵・度支、凡五曹尚書・二僕射・一令爲八座。及晉置吏部・三公・客曹・駕部・屯田・度支六曹、而無五兵。咸寧二年、省駕部尚書。四年、省一僕射、又置駕部尚書。太康中、有吏部・殿中及五兵・田曹・度支・左民爲六曹尚書、又無駕部・三公・客曹。惠帝世又有右民尚書、止於六曹、不知此時省何曹也。及渡江、有吏部・祠部・五兵・左民・度支五尚書。祠部尚書常與右僕射通職、不恒置、以右僕射攝之、若右僕射闕、則以祠部尚書攝知右事。
左右丞。自漢1.(武)〔成〕帝建始四年置尚書、而便置丞四人。及光武始減其二、唯置左右丞。左右丞、蓋自此始也。自此至晉不改。晉左丞主臺內禁令、宗廟祠祀、朝儀禮制、選用・署吏、急假、右丞掌臺內庫藏・廬舍、凡諸器用之物、及廩振・人2.〔戸〕・租布・刑獄・兵器、督錄遠道文書・章・表・奏事。八座・郎初拜、皆沿漢舊制、並集都座交禮、遷職又解交焉。
尚書郎、西漢舊置四人、以分掌尚書。其一人主匈奴單于營部、一人主羌夷吏民、一人主戶口・墾田、一人主財帛・委輸。及光武分尚書爲六曹之後、合置三十四人、秩四百石、并左右丞爲三十六人。郎主作文書・起草、更直五日於建禮門內。尚書郎初從三署詣臺試、守尚書郎、中歲滿稱尚書郎、三年稱侍郎、選有吏能者爲之。至魏、尚書郎有殿中・吏部・駕部・金部・虞曹・比部・南主客・祠部・度支・庫部・農部・水部・儀曹・三公・倉部・民曹・二千石・中兵・外兵・都兵・別兵・考功・定課、凡二十三郎。青龍二年、尚書陳矯奏置都官・騎兵、合凡二十五郎。每一郎缺、白試諸孝廉能結文案者五人、謹封奏其姓名以補之。及晉受命、武帝罷農部・定課、置直事・殿中・祠部・儀曹・吏部・三公・比部・金部・倉部・度支・都官・二千石・左民・右民・虞曹・屯田・起部・水部・左右主客・駕部・車部・庫部・左右中兵・左右外兵・別兵・都兵・騎兵・左右士・北主客・南主客、爲三十四曹郎。後又置運曹、凡三十五曹、置郎二十三人、更相統攝。及江左、無直事・右民・屯田・車部・別兵・都兵・騎兵・左右士・運曹の十曹郎とす。康穆以後、又無虞曹・二千石二郎、但有殿中・祠部・吏部・儀曹・三公・比部・金部・倉部・度支・都官・左民・起部・水部・主客・駕部・庫部・中兵・外兵十八曹郎。後又省主客・起部・水部、餘十五曹云。

侍中、案黃帝時風后爲侍中、於周爲常伯之任、秦取古名置侍中、漢因之。秦漢俱無定員、以功高者一人爲僕射。魏晉以來置四人、別加官者則非數。掌儐贊威儀、大駕出則次直侍中護駕、正直侍中負璽陪乘、不帶劍、餘皆騎從。御登殿、與散騎常侍對扶、侍中居左、常侍居右。備切問近對、拾遺補闕。及江左哀帝興寧四年、桓溫奏省二人、後復舊。
給事黃門侍郎、秦官也。漢已後並因之、與侍中俱管門下眾事、無員。及晉、置員四人。
散騎常侍、本秦官也。秦置散騎、又置中常侍、散騎騎從乘輿車後、中常侍得入禁中、皆無員、亦以爲加官。漢東京初、省散騎、而中常侍用宦者。魏文帝黃初初、置散騎、合之於中常侍、同掌規諫、不典事、貂璫插右、騎而散從、至晉不改。及元康中、惠帝始以宦者董猛爲中常侍、後遂止。常爲顯職。
給事中、秦官也。所加或大夫・博士・議郎、掌顧問應對、位次中常侍。漢因之。及漢東京省、魏世復置、至晉不改。在散騎常侍下、給事黃門侍郎上、無員。
通直散騎常侍、案魏末散騎常侍又有在員外者。泰始十年、武帝使二人與散騎常侍通員直、故謂之通直散騎常侍。江左置四人。
員外散騎常侍、魏末置、無員。
散騎侍郎、四人。魏初與散騎常侍同置。自魏至晉、散騎常侍・侍郎與侍中・黃門侍郎共平尚書奏事、江左乃罷。
通直散騎侍郎、四人。初、武帝置員外散騎侍郎、及太興元年、元帝使二人與散騎侍郎通員直、故謂之通直散騎侍郎、後增爲四人。
員外散騎侍郎、武帝置、無員。
奉朝請、本不爲官、無員。漢東京罷三公・外戚・宗室・諸侯多奉朝請。奉朝請者、奉朝會請召而已。武帝亦以宗室・外戚爲奉車・駙馬・騎三都尉而奉朝請焉。元帝爲晉王、以參軍爲奉車都尉、掾・屬爲駙馬都尉、行參軍・舍人爲騎都尉、皆奉朝請。後罷奉車・騎二都尉、唯留駙馬都尉奉朝請。諸尚公主者劉惔・桓溫皆爲之。

中書監及令。案漢武帝遊宴後庭、始使宦者典事尚書、謂之中書謁者、置令・僕射。成帝改中書謁者令曰中謁者令、罷僕射。漢東京省中謁者令、而有中官謁者令、非其職也。魏武帝爲魏王、置祕書令、典尚書奏事。文帝黃初初改爲中書、置監・令、以祕書左丞劉放爲中書監、右丞孫資爲中書令。監・令蓋自此始也。及晉因之、並置員一人。
中書侍郎。魏黃初初、中書既置監・令、又置通事郎、次黃門郎。黃門郎已署事過、通事乃署名。已署、奏以入、爲帝省讀、書可。及晉、改曰中書侍郎、員四人。中書侍郎蓋此始也。及江左初、改中書侍郎曰通事郎、尋復爲中書侍郎。
中書舍人。案晉初初置舍人・通事各一人、江左合舍人・通事謂之通事舍人、掌呈奏案章、後省。而以中書侍郎一人直西省、又掌詔命。

祕書監。案漢桓帝延熹二年置祕書監、後省。魏武爲魏王、置祕書令・丞。及文帝黃初初、置中書令、典尚書奏事、而祕書改令爲監。後以何禎爲祕書丞、而祕書先自有丞、乃以禎爲祕書右丞。及晉受命、武帝以祕書并中書省、其祕書著作之局不廢。惠帝永平中、復置祕書監、其屬官有丞、有郎、并統著作省。
著作郎、周左史之任也。漢東京圖籍在東觀、故使名儒著作東觀、有其名、尚未有官。魏明帝太和中、詔置著作郎、於此始有其官、隸中書省。及晉受命、武帝以繆徵爲中書著作郎。元康二年、詔曰「著作舊屬中書、而祕書既典文籍、今改中書著作爲祕書著作。」於是改隸祕書省。後別自置省而猶隸祕書。著作郎一人、謂之大著作郎、專掌史任、又置佐著作郎八人。著作郎始到職、必撰名臣傳一人。

1.建始は前漢の成帝の年号であり、前文でも成帝の建始四年に尚書が置かれたとしているので、ここで「武帝の建始四年」とするのは明らかに誤りである。『職官分紀』巻八・尚書省・左右丞の条に引く『晋書』職官志には「左右丞。自漢成帝建始四年置尚書、而便置丞四人。」とあるので、これに従い、「武帝」を「成帝」に改める。なお、『晋書斠注』ではこのことについて何も指摘されていない。
2.前後に二字の名詞が続く中で、この部分だけ「廩振人」として「動詞+目的語」の句が挿入されているのは不自然である。『晋書斠注』や中華書局本の校勘記に有る通り、『太平御覧』巻二一三・職官部十一・右丞の条に引く『晋書百官表注』では、「右丞主臺内庫藏・廨舍、量物用多少及廩賜・民戸・租布・刑獄・兵器、稽遠道文書・章・表・奏事」とあり、また『職官分紀』巻八・尚書省・左右丞の条に引く『晋書』職官志でも該当箇所は「稟振・民戸・租布・刑獄・兵器」となっているので、ここでは「戸」を補うこととする。

訓読

錄尚書。案ずるに漢武の時、左右曹・諸吏、尚書の奏事を分平し〔一〕、樞要を知する者、始めて尚書の事を領す。張安世は車騎將軍を以て、霍光(かくこう)は大將軍を以て、王鳳は大司馬を以て、師丹は左將軍を以て並びに尚書の事を領す。後漢の章帝、太傅の趙憙(ちょうき)・太尉の牟融(ぼうゆう)を以て並びに尚書の事を錄せしむ。尚書に錄の名有るは、蓋し憙・融より始まり、亦た西京の領尚書の任にして、猶お唐虞の大麓の職のごときなり。和帝の時、太尉の鄧彪(とうひょう)の太傅と爲るや、尚書の事を錄し、位は上公たり、三公の上に在り。漢制、遂に以て常と爲し、少帝の立つ每に則ち太傅を置きて尚書の事を錄せしむること、猶お古の冢宰の已を總ぶるの義のごとくし、薨ずれば輒ち之を罷む。魏晉より以後、亦た公卿の權重き者もて之と爲す。
尚書令は、秩は千石、銅印・墨綬を假し、進賢兩梁冠、納言幘を冠し、五時の朝服もて、水蒼玉を佩び、食奉は月ごとに五十斛。拜を受くれば則ち策もて之に命ずるは、端右に在るを以ての故なり。太康二年、始めて絹を給賜するに、春は三十匹、秋は七十匹、緜七十斤もてす。元康元年、始めて菜田六頃、田騶六人を給し、立夏の後にして田づくるに及ばずんば、奉を食むこと一年。始め賈充の尚書令と爲るや、目疾を以て表して省事の吏四人を置く。省事は蓋し此より始まる。
僕射は、服・秩・印・綬は令と同じ。案ずるに漢は本と一人を置くも、漢の獻帝の建安四年に至り、執金吾の榮郃(えいこう)を以て尚書左僕射と爲す。僕射の分かちて左右を置くは、蓋し此より始まる。魏を經て晉に至り、江左に迄るまで、省置は恒無く、二を置けば、則ち左右僕射と爲し、或いは兩つながらには置かざれば、但だ尚書僕射と曰う。令の闕くれば、則ち左もて省主と爲し、若し左右並びに闕くれば、則ち尚書僕射を置きて以て左事を主らしむ。
列曹尚書。案ずるに、尚書は本と漢、秦を承けて置く。武帝の後庭に遊宴するに及び、始めて宦者を用いて中書を主らしめ、司馬遷を以て之と爲し、中間に遂に其の官を罷め、以て中書の職と爲す。成帝の建始四年に至り、中書の宦者を罷め、又た尚書五人を置き、一人もて僕射と爲し、而して四人もて分かちて四曹と爲し、圖書・祕記・章奏の事を通掌せしめ、各々其の任有り。其の一は常侍曹と曰い、丞相・御史・公卿の事を主る。其の二は二千石曹と曰い、刺史・郡國の事を主る。其の三は民曹と曰い、吏民の上書の事を主る。其の四は主客曹と曰い、外國・夷狄の事を主る。後に成帝は又た三公曹を置き、斷獄を主らしめ、是れを五曹と爲す。後漢の光武、三公曹を以て歲盡くるに諸州郡を考課するの事を主らしめ、常侍曹を改めて吏部曹と爲し、選舉・祠祀の事を主らしめ、民曹もて繕修・功作・鹽池・園苑の事を主らしめ、客曹もて護駕・羌胡・朝賀の事を主らしめ、二千石曹もて辭訟の事を主らしめ、中都官曹もて水火・盜賊の事を主らしめ、合わせて六曹と爲す。令僕二人と并わせ、之を八座と謂う。尚書は曹名有りと雖も、以て號と爲さず。靈帝、侍中の梁鵠(りょうこく)を以て選部尚書と爲し、此に於いて始めて曹名を見る。魏に及び、選部を改めて吏部と爲し、選部の事を主らしめ、又た左民・客曹・五兵・度支有り、凡そ五曹尚書・二僕射・一令もて八座と爲す。晉に及び、吏部・三公・客曹・駕部・屯田・度支の六曹を置くも、而れども五兵無し。咸寧二年、駕部尚書を省く。四年、一僕射を省き、又た駕部尚書を置く。太康中、吏部・殿中及び五兵・田曹・度支・左民有りて六曹尚書と爲し、又た駕部・三公・客曹無し。惠帝の世、又た右民尚書有り、六曹に止まるも、此の時に何れの曹を省けるかを知らざるなり。渡江するに及び、吏部・祠部・五兵・左民・度支の五尚書有り。祠部尚書、常に右僕射と職を通じ、恒には置かず、右僕射を以て之に攝わらしめ、若し右僕射闕くれば、則ち祠部尚書を以て攝わりて右事を知せしむ。
左右丞。漢の成帝の建始四年に尚書を置きてより、而して便ち丞四人を置く。光武に及び、始めて其の二を減じ、唯だ左右丞を置く。左右丞は、蓋し此より始まるなり。此より晉に至るまで改めず。晉にては、左丞は臺內の禁令、宗廟の祠祀、朝儀の禮制、選用・署吏、急假を主り、右丞は臺內の庫藏・廬舍、凡諸の器用の物、及び廩振・人戸・租布・刑獄・兵器、遠道の文書・章・表・奏事を督錄するを掌る。八座・郎の初めて拜するや、皆な漢の舊制に沿い、並びに都座に集まりて交禮し、遷職するや又た焉に解交す。
尚書郎。西漢は舊と四人を置き、以て尚書を分掌す。其の一人は匈奴單于の營部を主り、一人は羌夷の吏民を主り、一人は戶口・墾田を主り、一人は財帛・委輸を主る。光武の尚書を分かちて六曹と爲すの後に及び、合して三十四人を置き、秩は四百石、左右丞と并わせて三十六人と爲す。郎は文書を作り、起草するを主り、建禮門內に更直すること五日。尚書郎は初め三署より臺に詣りて試され、尚書郎を守し、中ごろ歲滿つれば尚書郎と稱し、三年にして侍郎と稱し、吏能有る者を選びて之と爲す。魏に至り、尚書郎は殿中・吏部・駕部・金部・虞曹・比部・南主客・祠部・度支・庫部・農部・水部・儀曹・三公・倉部・民曹・二千石・中兵・外兵・都兵・別兵・考功・定課、凡そ二十三郎有り。青龍二年、尚書の陳矯(ちんきょう)、奏して都官・騎兵を置き、合して凡そ二十五郎。一郎缺くる每に、諸孝廉の能く文案を結ぶ者五人を白試し、謹みて其の姓名を封奏して以て之に補す。晉の命を受くるに及び、武帝は農部・定課を罷め、直事・殿中・祠部・儀曹・吏部・三公・比部・金部・倉部・度支・都官・二千石・左民・右民・虞曹・屯田・起部・水部・左右主客・駕部・車部・庫部・左右中兵・左右外兵・別兵・都兵・騎兵・左右士・北主客・南主客を置き、三十四曹郎と爲す。後に又た運曹を置き、凡そ三十五曹、郎二十三人を置き、更々相い統攝す。江左に及び、直事・右民・屯田・車部・別兵・都兵・騎兵・左右士・運曹の十曹郎とす。康穆以後、又た虞曹・二千石の二郎無く、但だ殿中・祠部・吏部・儀曹・三公・比部・金部・倉部・度支・都官・左民・起部・水部・主客・駕部・庫部・中兵・外兵十八曹郎有り。後に又た主客・起部・水部を省き、餘は十五曹なりと云う。

侍中。案ずるに、黃帝の時、風后、侍中と爲り、周に於いて常伯の任と爲し、秦は古名を取りて侍中を置き、漢は之に因る。秦漢、俱に定員無く、功の高き者一人を以て僕射と爲す。魏晉以來、四人を置き、別に加官せられし者は則ち數に非ず。儐贊の威儀を掌り、大駕出ずれば則ち次直の侍中は護駕し、正直の侍中は璽を負いて陪乘し、帶劍せず、餘は皆な騎して從う。登殿に御するに、散騎常侍と對扶し、侍中は左に居り、常侍は右に居る。切問近對に備え、拾遺補闕す。江左に及び、哀帝の興寧四年〔二〕、桓溫、奏して二人を省き、後に舊に復す。
給事黃門侍郎は、秦官なり。漢已後並びに之に因り、侍中と俱に門下の眾事を管り、員無し。晉に及び、員四人を置く。
散騎常侍は、本と秦官なり。秦は散騎を置き、又た中常侍を置き、散騎は騎して乘輿の車後に從い、中常侍は禁中に入るを得、皆な員無く、亦た以て加官と爲す。漢の東京の初め、散騎を省き、而して中常侍は宦者を用う。魏の文帝の黃初の初め、散騎を置き、之を中常侍に合し、同に規諫を掌り、事を典らず、貂璫もて右に插し、騎して散從し、晉に至りて改めず。元康中に及び、惠帝、始めて宦者の董猛を以て中常侍と爲すも、後に遂に止む。常に顯職たり。
給事中は、秦官なり。加うる所は或いは大夫・博士・議郎にして、顧問應對を掌り、位は中常侍に次ぐ。漢、之に因る。漢の東京に及びて省き、魏世に復た置き、晉に至りて改めず。散騎常侍の下、給事黃門侍郎の上に在り、員無し。
通直散騎常侍。案ずるに、魏末に散騎常侍に又た員外に在る者有り。泰始十年、武帝、二人をして散騎常侍と與に員を通じて直せしめたれば、故に之を通直散騎常侍と謂う。江左は四人を置く。
員外散騎常侍は、魏末に置き、員無し。
散騎侍郎は四人。魏初に散騎常侍と同に置く。魏より晉に至り、散騎常侍・侍郎は侍中・黃門侍郎と共に尚書の奏事を平するも、江左は乃ち罷む。
通直散騎侍郎は四人。初め、武帝、員外散騎侍郎を置き、太興元年に及び、元帝、二人をして散騎侍郎と員を通じて直せしめたれば、故に之を通直散騎侍郎と謂い、後に增して四人と爲す。
員外散騎侍郎は、武帝置き、員無し。
奉朝請は、本と官と爲さず、員無し。漢の東京、三公・外戚・宗室・諸侯を罷むるに多く朝請を奉ず。奉朝請は、朝會の請召を奉ずるのみ。武帝も亦た宗室・外戚を以て奉車・駙馬・騎三都尉と爲して朝請を奉ぜしむ。元帝の晉王と爲るや、參軍を以て奉車都尉と爲し、掾・屬もて駙馬都尉と爲し、行參軍・舍人もて騎都尉と爲し、皆な朝請を奉ぜしむ。後に奉車・騎二都尉を罷め、唯だ駙馬都尉を留めて朝請を奉ぜしむ。諸々の公主を尚る者、劉惔・桓溫は皆な之と爲る。

中書監及び令。案ずるに、漢の武帝の後庭に遊宴するや、始めて宦者をして尚書を典事せしめ、之を中書謁者と謂い、令・僕射を置く。成帝、中書謁者令を改めて中謁者令と曰い、僕射を罷む。漢の東京、中謁者令を省き、而して中官謁者令〔三〕有るも、其の職に非ざるなり。魏の武帝の魏王と爲るや、祕書令を置き、尚書の奏事を典らしむ。文帝の黃初の初め、改めて中書と爲し、監・令を置き、祕書左丞の劉放を以て中書監と爲し、右丞の孫資もて中書令と爲す。監・令は蓋し此より始まるなり。晉に及ぶや之に因り、並びに員一人を置く。
中書侍郎。魏の黃初の初め、中書に既に監・令を置き、又た通事郎を置き、黃門郎に次がしむ。黃門郎、已に署して事過ぐるや、通事乃ち署名す。已に署するや、奏して以て入り、帝の爲に省讀し、可と書す。晉に及び、改めて中書侍郎と曰い、員は四人。中書侍郎は蓋し此に始まるなり。江左の初めに及び、中書侍郎を改めて通事郎と曰い、尋いで復た中書侍郎と爲す。
中書舍人。案ずるに、晉初に初め舍人・通事各々一人を置き、江左は舍人・通事を合して之を通事舍人と謂い、呈奏・案章を掌らしむるも、後に省く。而して中書侍郎一人を以て西省に直せしめ、又た詔命を掌らしむ。

祕書監。案ずるに、漢の桓帝の延熹二年、祕書監を置き、後に省く。魏武の魏王と爲るや、祕書令・丞を置く。文帝の黃初の初めに及び、中書令を置き、尚書の奏事を典らしめ、而して祕書は令を改めて監と爲す。後に何禎(かてい)を以て祕書丞と爲さんとするも、而れども祕書に先に自より丞有れば、乃ち禎を以て祕書右丞と爲す。晉の命を受くるに及び、武帝は祕書を以て中書省に并するも、其の祕書の著作の局は廢せず。惠帝の永平中、復た祕書監を置き、其の屬官に丞有り、郎有り、并びに著作省を統ぶ。
著作郎は、周の左史の任なり。漢の東京、圖籍は東觀に在りたれば、故に名儒をして東觀に著作せしめ、其の名有るも、尚お未だ官有らず。魏の明帝の太和中、詔して著作郎を置き、此に於いて始めて其の官有り、中書省に隸す。晉の命を受くるに及び、武帝、繆徵(びゅうちょう)を以て中書著作郎と爲す。元康二年、詔して曰く「著作は舊と中書に屬するも、而れども祕書は既に文籍を典れば、今、中書著作を改めて祕書著作と爲す」と。是に於いて改めて祕書省に隸す。後に別に自ら省を置くも猶お祕書に隸す。著作郎一人、之を大著作郎と謂い、專ら史任を掌り、又た佐著作郎八人を置く。著作郎、始めて職に到るや、必ず名臣傳一人を撰す。

〔一〕漢代以来の「録尚書事」「平尚書事」「省尚書事」「視尚書事」「領尚書事」等は、いずれも尚書に関する何かしらの事を担当していたものと思われるが、「録」「平」「省」「視」「領」の違いやそれぞれの意味については諸説ある。ここではいずれかの説を取ることを避け、『晋書』職官志に登場する「録尚書事」「平尚書事」「領尚書事」に関しては、「録す」「平す」「領す」とそのまま訳出することにした。
〔二〕中華書局の校勘記にもある通り、哀帝の興寧年間は興寧三年までしかないので、ここで興寧四年とあるのは不可解である。
〔三〕『続漢書』百官志四などでは「中官謁者令」ではなく「中宮謁者令」となっている。

現代語訳

録尚書(録尚書事)について。案ずるに、漢の武帝のとき、左曹・右曹・諸吏が尚書台に送られてきた上奏を分担して「平」しており、枢要を担う者となって初めて尚書の事を「領」することができたのである。張安世は車騎将軍の身で、霍光(かくこう)は大将軍の身で、王鳳は大司馬の身で、師丹は左将軍の身でいずれも尚書の事を「領」した。後漢の章帝は、太傅の趙憙(ちょうき)、太尉の牟融(ぼうゆう)の両者に尚書の事を「録」させた。尚書に「録」の名が添えられるようになったのは、思うに趙憙・牟融から始まったのであり、これもまた西京(前漢)の「領尚書」と同様の職任であり、尭や舜の大麓に相当する職である。和帝の時、太尉の鄧彪(とうひょう)が太傅となると、尚書の事を録し、位は上公とされ、三公の上に位置づけられた。漢の制度では、そのままそれを常なる制度とし、幼少の皇帝が即位するごとに、太傅を置いて尚書の事を録させ、まるで古において(新君が先王のために三年の喪に服している間)百官がそれぞれ自分の職務を慎み、その決裁を冢宰に委ねたという義のようにし、在任者が薨去すれば(その皇帝の在位中には新たに別の人物を「太傅・録尚書事」に据えることはせずに)そのたびに廃止するようにした。魏晋以降もまた、公卿のうち権勢の大きい者を録尚書事に任じた。
尚書令は、秩は千石で、銅印・墨綬を授かり、二梁の進賢冠、納言幘をかぶり、五時の朝服を着て、水蒼玉を佩びることとされ、一ヶ月あたり五十斛の俸禄を授かった。拝命を受けるに当たって、策書による任命が行われたのは、それが重任であったが故である。太康二年(二八一)、始めて絹を賜与することになり、毎年春には絹三十匹、秋には絹七十匹と真綿七十斤を支給することとされた。元康元年(二九一)、始めて菜田六頃、田騶六人を給付し、もしその拝命が立夏の後に行われ、その年の農作に間に合わない場合には、代わりに一年分の俸禄を追加で授けた。初め賈充が尚書令となった際、眼病であったため上表して(属吏として)省事の吏を四人置いた。省事の官職は思うにこのときから始まったのである。
尚書僕射は、服飾・秩石・印章・綬については尚書令と同じである。案ずるに、漢ではもともと定員は一人であったが、漢の献帝の建安四年(一九九)になると、執金吾の栄郃(えいこう)を尚書左僕射に任じた。尚書僕射を分割して尚書左僕射・尚書右僕射の二つを置いたのは、思うにこのときから始まった。魏を経て晋に至り、江左(東晋)に至るまで、尚書僕射や尚書左右僕射の廃止や設置に関しては決まった制度が無く、ポストを二つ設ければ、そのときは尚書左僕射・尚書右僕射として設置し、あるいは両方は置かないという場合には、ただ尚書僕射と呼んだ。尚書令が欠員となると、尚書左僕射が尚書台のトップとなり、もし尚書左僕射・尚書右僕射の両方が欠員となると、(尚書右僕射のポストを尚書僕射と改名して)尚書僕射のポストを設置して誰かをそれに任命し、尚書左僕射の事務も合わせて担当させた。
列曹の尚書(各部署の尚書)について。案ずるに、尚書はもともと漢が秦の制度を継承して置いたものである。ただ、武帝が後宮で遊楽の宴を催す日々を送っていた際に、初めて宦官を用いて中書の任務を担当させ、司馬遷をその職に任じ、その後はそのまま尚書の官を廃止し、それは中書が担う職分となった。成帝の建始四年(前二九)に至ると、中書の宦官(宦官が担当する中書の職任)を廃止し、また五人の尚書を置き、そのうちの一人を尚書僕射とし、その他の四人にそれぞれ四曹(四つの部署)を分担させ、河図・洛書・讖緯のたぐいや、章や奏(いずれも上書する際の公文書)についての全般を職掌とさせ、それぞれ担当の任務があった。その一つ目は常侍曹と言い、丞相・御史・公卿に関する事を担当した。その二つ目は二千石曹と言い、刺史や郡・国に関する事を担当した。その三つ目は民曹と言い、官吏や民の上書に関する事を担当した。その四つ目は主客曹と言い、外国や夷狄に関する事を担当した。後に成帝はさらに三公曹を置き、断獄に関して担当させ、これらを五曹とした。後漢の光武帝(劉秀)は、三公曹に一年の終わりに行う諸州郡の考課に関する事を担当させ、また常侍曹を改めて吏部曹とし、選挙(官僚の人選や推挙)・祭祀に関する事を担当させ、民曹に建物や器物等の修繕、土木関係、塩池、御苑に関する事を担当させ、客曹に護駕(儀注に従い鹵簿の車騎の行列を整理すること)・羌胡・朝賀に関する事を担当させ、二千石曹に訴訟に関する事を担当させ、中都官曹に水害や火災・盗賊に関する事を担当させ、合わせて六曹とした。そして、列曹の尚書六人と尚書令・尚書僕射の二人とを合わせ、これらを「八座」と呼んだ。尚書はそれぞれ曹の名前はあるものの、それを(たとえば「三公曹尚書」のような具合に)官職の名号とはしなかった。ただ、霊帝は侍中の梁鵠(りょうこく)を選部尚書に任じ、このときに初めて曹名が官職の名号に冠されたことが見える。魏になると、選部尚書を改めて吏部尚書とし、選部尚書の担っていた事務を担当させ、他に左民尚書・客曹尚書・五兵尚書・度支尚書があり、この五曹の尚書、尚書左僕射・尚書右僕射の二僕射、尚書令一人を合わせて「八座」と称した。晋になると、吏部・三公・客曹・駕部・屯田・度支の六曹を置いたが、(魏のときに置かれていた)五兵曹は無くなった。咸寧二年(二七六)には駕部尚書を廃止した。咸寧四年(二七八)には尚書僕射を一人分だけ廃止し、また駕部尚書を置いた。太康年間には、吏部・殿中および五兵・田曹・度支・左民の六曹があってこれを六曹尚書とし、駕部・三公・客曹の三曹が無くなった。恵帝の世には、さらに右民尚書が存在し、合計で六曹までにとどめていたというが、このときにどの曹を廃止したのかは不明である。渡江した後(すなわち東晋時代)には、吏部・祠部・五兵・左民・度支の五尚書があった。祠部尚書は、常に尚書右僕射と同じ職務を担わせることとし、常には置かず、基本的には尚書右僕射にその職務を代行させ、もし尚書右僕射が欠員となったら、祠部尚書に尚書右僕射の職務を代行して担当させた。
尚書左丞・尚書右丞について。漢の成帝の建始四年に尚書を置いたときから、四人の尚書丞を置いていた。光武帝の時代になると、初めてそのうち二人分を減らし、ただ尚書左丞と尚書右丞だけを置いた。尚書左丞・尚書右丞は、思うにこのときから始まったのである。このときから晋に至るまで変更は無かった。晋では、尚書左丞は尚書台内部の禁令や、宗廟の祭祀、朝儀における礼制、官吏の人選や任命、官吏の休暇に関することを担当し、尚書右丞は尚書台内部の倉庫・建物やあらゆる器物、そして廩振(食糧庫を開いて人々に食物を恵み施すこと)や民戸、銭や布などの租税、刑獄、兵器に関すること、さらに遠道からもたらされた文書や章・表・奏などの公文書に関して記録・管理することを職掌とした。八座や尚書郎たちが初めて拝命を受けると、みな漢の旧来の制度に従い、いずれも都座(尚書の政務を行う場所)に集まって互いに拝礼を交わし合い、他の職に昇進して八座や尚書郎の職を解任される場合にも、またここで解礼(解任の際に互いに拝礼を交わし合うこと)を行った。
尚書郎について。西漢(前漢)ではもともと四人置かれ、尚書の事務を分担していた。そのうち一人は匈奴単于の軍営や部族に関することを担当し、一人は羌族や東夷・西南夷の官吏や民に関することを担当し、一人は(一般の)戸口や墾田に関することを担当し、一人は金銭や布帛、物資の輸送に関することを担当した。光武帝が尚書を六曹に分割した後、尚書郎を合わせて三十四人置き、秩は四百石とし、尚書左丞・尚書右丞と合わせて三十六人とした。尚書郎は公文書の作成や詔勅の起草についてつかさどり、また五日交代で建礼門内に宿直した。尚書郎は、初め(光禄勲に所属する)五官署・左署・右署の三署の郎官の中から選ばれ、尚書台に出向いて試験を受けることにより、(合格したら)守尚書郎(尚書郎試用期間)とされ、途中で一年が経過すれば(「守」を外して)尚書郎と呼ばれるようになり、三年が経てば尚書侍郎と呼ばれるようになり、いずれも官吏としての能力がある者が選抜されて尚書郎に任じられた。魏になると、尚書郎には、殿中郎・吏部郎・駕部郎・金部郎・虞曹郎・比部郎・南主客郎・祠部郎・度支郎・庫部郎・農部郎・水部郎・儀曹郎・三公郎・倉部郎・民曹郎・二千石郎・中兵郎・外兵郎・都兵郎・別兵郎・考功郎・定課郎の合わせて二十三郎がいた。青龍二年(二三四)、尚書の陳矯(ちんきょう)が上奏して都官郎・騎兵郎の二郎を新設し、合わせて二十五郎となった。尚書郎が一人欠員となるごとに、諸々の孝廉の中から公文書の作成が上手い人物を五人選んで明白な試験を行い、その姓名を記した文書を慎重に密封して上奏し、そうしてその地位に補任した。晋が天命を受けて王朝を開くと、武帝は農部郎・定課郎の二郎を廃止し、直事郎・殿中郎・祠部郎・儀曹郎・吏部郎・三公郎・比部郎・金部郎・倉部郎・度支郎・都官郎・二千石郎・左民郎・右民郎・虞曹郎・屯田郎・起部郎・水部郎・左主客郎・右主客郎・駕部郎・車部郎・庫部郎・左中兵郎・右中兵郎・左外兵郎・右外兵郎・別兵郎・都兵郎・騎兵郎・左士郎・右士郎・北主客郎・南主客郎を置き、三十四曹・三十四郎とした。後にさらに運曹を置き、合計で三十五曹とし、(それまで一曹に一郎だったのを改めて尚書郎の数を減らし)郎は二十三人とし、それぞれ(一曹から数曹を)分担して統括した。江左(東晋)になると、直事郎・右民郎・屯田郎・車部郎・別兵郎・都兵郎・騎兵郎・左士郎・右士郎・運曹郎の十曹・十郎とした。康帝・穆帝以降になると、さらに虞曹郎・二千石郎の二郎が無くなり、ただ殿中郎・祠部郎・吏部郎・儀曹郎・三公郎・比部郎・金部郎・倉部郎・度支郎・都官郎・左民郎・起部郎・水部郎・主客郎・駕部郎・庫部郎・中兵郎・外兵郎の十八曹・十八郎が存在した。後にさらに主客郎・起部郎・水部郎を廃止し、残りは十五曹となった。

侍中について。案ずるに、黄帝の時に風后が侍中となり、周においてはそれを常伯の任務とし、秦は古の名を採用して侍中を置き、漢はそれを踏襲した。秦・漢では、いずれも侍中の定員は無く、その中でも功績の高い者一人を侍中僕射とした。魏晋以降、侍中の定員は四人とし、それとは別に加官として侍中を授けられた者に関しては、その数に含めないこととした。侍中は賛礼の威儀についてのことを職掌とし(=儀式の進行役を担い)、大駕(天子の鹵簿のうち最大規模のもの)が出る際には、次に当直予定の侍中が護駕(儀注に従い鹵簿の車騎の行列を整理すること)を行い、当直の侍中が玉璽を背負って天子の車に陪乗し、その際に剣は帯びないこととし、残りの侍中は騎馬して従った。天子の登殿に当たって侍従する際には、散騎常侍と対になって扶助し、侍中は左に、散騎常侍は右に控えた。天子による突発的な質問に近くで答えることに備え、天子に何か遺漏や過失があった際にそれを補う役目を担った。江左(東晋)になり、哀帝の興寧四年(三六六?)に、桓温が上奏して定員を二人分だけ削減し、後にまた元に戻した。
給事黄門侍郎は、秦が創設した官である。漢以降のいずれの王朝もそれを踏襲し、侍中と一緒に門下の諸々の事務を担当し、定員は無かった。晋になると、定員を四人とした。
散騎常侍は、その淵源は秦が創設した官である。秦では散騎が置かれ、それとは別に中常侍が置かれ、散騎は騎乗して皇帝の車の後ろに従い、中常侍は禁中に入ることができ、いずれも定員は無く、またいずれも加官であった。漢の東京(後漢)の初め、散騎を廃止し、そして中常侍には宦官を用いることとした。魏の文帝の黄初年間の初め、散騎を置き、これを中常侍の名と組み合わせて散騎常侍と呼び(一方で中常侍は廃止し)、中常侍と同様に諫言を呈して物事を正すことを職掌とし、特定の常務を担うことはなく、貂璫(冠の装飾の一種)を右側に挿し、天子がお出ましになる際には騎馬して従うものの特に何かの役目があるわけではなく、以上のことは晋の時代になっても改めることはしなかった。元康年間になると、恵帝が初めて(中常侍を復活させて)宦官の董猛を中常侍に任命したが、後になってまた廃止した。散騎常侍は常に顕職とされた。
給事中は、秦が創設した官である。大夫や博士・議郎などの加官とされ、天子の諮問に対する受け答えを職掌とし、位は中常侍に次ぐものとされた。漢はそれを踏襲した。漢の東京(後漢)になると廃止し、魏の時代に再び設置し、晋になってもそれを改めなかった。給事中は散騎常侍の下、給事黄門侍郎の上に位置づけられ、定員は無かった。
通直散騎常侍について。案ずるに、魏の末期に散騎常侍の中でも定員外に置かれた者がいた。泰始十年(二七四)、武帝が二人の人物を散騎常侍に交えて当番に組み入れ、交代で宿直させたので、故にそれを通直散騎常侍と呼んだ。江左(東晋)では定員は四人とされた。
員外散騎常侍は、魏末に置かれ、定員は無かった。
散騎侍郎は、定員は四人とされた。魏の初めに散騎常侍と一緒に置かれた。魏から晋に至るまで、散騎常侍と散騎侍郎は、侍中や黄門侍郎と一緒に尚書台に送られてきた上奏を「平」したが、江左(東晋)ではその職務を撤廃した。
通直散騎侍郎は、定員は四人とされた。初め、武帝が員外散騎侍郎を置き、太興元年(三一八)になると、元帝が二人の人物を散騎侍郎に交えて当番に組み入れ、交代で宿直させたので、故にそれを通直散騎侍郎と呼び、後に定員を増やして四人とした。
員外散騎侍郎は、武帝のときに置かれ、定員は無かった。
奉朝請は、もともと官ではなく、定員も無かった。漢の東京(後漢)では、三公・外戚・宗室・諸侯が罷免された際に、朝請を奉じる(すなわち官位が無いのにもかかわらず特別に朝儀・朝議などに参列することを許される)場合が多かった。奉朝請は、朝(朝儀・朝議)や会(元会などの諸会)に招かれた際にそれに応じて参加するだけの立場である。(西晋の)武帝もまた宗室・外戚を奉車都尉・駙馬都尉・騎都尉の三都尉に任じて朝請を奉じさせた。元帝(司馬睿)が晋王となったとき、その丞相府の参軍たちを奉車都尉に任じ、掾・属たちを駙馬都尉に任じ、行参軍・舍人たちを騎都尉に任じ、いずれも朝請を奉じさせた。後に奉車都尉・騎都尉の二都尉を廃止し、ただ駙馬都尉だけを残して朝請を奉じさせた。諸々の公主を娶った者、たとえば劉惔(りゅうたん)・桓温などは、いずれも駙馬都尉として朝請を奉じた。

中書監および中書令について。案ずるに、漢の武帝が後宮で遊楽の宴を催す日々を送っていたとき、初めて宦官に尚書の事務を担当させ、その官職を中書謁者と呼び、(その長官・副官として)中書謁者令・中書謁者僕射を置いた。成帝は、中書謁者令を改めて中謁者令とし、中書謁者僕射を廃止した。漢の東京(後漢)では、中謁者令も廃止し、それとは別に中官謁者令が置かれたが、それは中書謁者令(中謁者令)とは別の官職である。魏の武帝(曹操)が魏王となると、秘書令を置き、(魏国内の)尚書台に送られてくる上奏について担当させた。文帝の黄初年間の初めには、秘書を改めて中書とし、中書監・中書令を置き、秘書左丞の劉放を中書監に、秘書右丞の孫資を中書令に任じた。中書監・中書令は思うにこのときから始まった。晋になるとそれを踏襲し、いずれも定員は一人とした。
中書侍郎について。魏の黄初年間の初め、中書省に中書監・中書令を置くと、さらに中書通事郎を置き、黄門郎に次ぐ位とした。黄門郎が(上奏文を検閲して)署名して物が中書省に送られてくると、中書通事郎がそこで署名した。署名が終わったら、それを上奏して禁中に入り、皇帝のためにその文を読み上げ、(皇帝が裁可すれば)「可」と書き込んだ。晋になると、改めて中書侍郎と呼び、定員は四人とした。中書侍郎は思うにこのときから始まった。江左(東晋)の初めには、中書侍郎を改めて中書通事郎と呼び、まもなくまた中書侍郎という呼称に戻した。
中書舍人について。案ずるに、晋初では始め中書舍人・中書通事をそれぞれ一人置き、江左(東晋)では中書舍人・中書通事を統合して中書通事舍人と呼び、奏や章などの上奏文の提出やその文章の不備をチェックすることを職掌とさせたが、後にこれを廃止した。そして、中書侍郎のうち一人を西省に宿直させ(中書通事舍人の職務を担わせ)、また詔命の起草も職掌とさせた。

秘書監について。案ずるに、漢の桓帝の延熹二年(一五九)に秘書監を置いたが、後に廃止した。魏の武帝(曹操)が魏王となったとき、秘書令・秘書丞を置いた。文帝の黄初年間の初めには、中書令を置き、(それまで秘書が担っていた職務である)尚書台に送られてくる上奏について担当させ、そして秘書署に関しては秘書令を秘書監という名に改めた。後に何禎(かてい)を秘書丞に任じようとしたが、秘書署にはそのときすでに秘書丞に任じられている者がいたので、そこで何禎を秘書右丞に任じ(そのときすでに秘書丞だった者を秘書左丞に任じ)ることになった。晋が天命を受けて王朝を開くと、武帝は秘書を中書省に併合したが、その秘書が管轄していた著作の部局は(中書省に移管し、)廃止しなかった。恵帝の永平年間、再び(秘書を復活させて)秘書監を置き、その属官としては秘書丞や秘書郎がおり、いずれも著作省を統括した。
著作郎は、周の左史の職任である。漢の東京(後漢)では、図書は東観に所蔵されていたので、故に名儒に命じて東観において史書等の編纂を行わせ、(そのような立場の者は「著作郎」と呼ばれ、)その名前だけは存在したものの、まだ官職としては成立していなかった。魏の明帝の太和年間、詔を下して著作郎を置き、このときになって初めてその官が置かれ、中書省に属した。晋が天命を受けて王朝を開くと、武帝は、繆徴(びゅうちょう)を中書著作郎に任じた。そして(秘書が復活した直後の)元康二年(二九二)には、次のような詔が下された。「著作はもともと中書省に属していたが、秘書が書籍について管轄している今、中書著作を改めて秘書著作とする」と。こうして改めて秘書に属することとなった。後に秘書とは別に独自に著作省を置いたが、その後もなお(著作省全体が)秘書に属するものとされた。著作郎の定員は一人で、これを大著作郎と言い、専ら史書の編纂に関わる職任を担当し、その他にさらに八人の佐著作郎を置いた。著作郎が初めて着任した際には、必ず一人分の名臣伝を著わすこととされた。

原文

太常・光祿勳・衞尉・太僕・廷尉・大鴻臚・宗正・大司農・少府・將作大匠・太后三卿・大長秋、皆爲列卿、各置丞・功曹・主簿・五官等員。

太常、有博士・協律校尉員、又統太學諸博士・祭酒及太史・太廟・太樂・鼓吹・陵等令、太史又別置靈臺丞。
太常博士、魏官也。魏文帝初置、晉因之。掌引導乘輿。王公已下應追諡者、則博士議定之。
協律校尉、漢協律都尉之職也。魏杜夔爲之。及晉、改爲協律校尉。
晉初承魏制、置博士十九人。及咸寧四年、武帝初立國子學、定置國子祭酒・博士各一人、助教十五人、以教生徒。博士皆取履行清淳、通明典義者、若散騎常侍・中書侍郎・太子中庶子以上、乃得召試。及江左初、減爲九人。元帝末、增儀禮・春秋公羊博士各一人、合爲十一人。後又增爲十六人、不復分掌五經、而謂之太學博士也。孝武太元十年、損國子助教員爲十人。

光祿勳、統武賁中郎將、羽林郎將、冗從僕射、羽林左監、五官・左・右中郎將、東園匠・太官・御府・守宮・黃門・掖庭・清商・華林園・暴室等令。哀帝興寧二年、省光祿勳、并司徒。孝武寧康元年復置。

衞尉、統武庫・公車・衞士・諸冶等令、左・右都候、南・北・東・西督冶掾。及渡江、省衞尉。

太僕、統典農・典虞都尉、典虞丞、左・右・中典牧都尉、車府・典牧・乘黃廐・驊騮廐・龍馬廐等令。典牧又別置羊牧丞。太僕、自元帝渡江之後或省或置。太僕省、故驊騮爲門下之職。

廷尉、主刑法・獄訟、屬官有正・監・評、并有律博士員。

大鴻臚、統大行・典客・園池・華林園・鈎盾等令、又有青宮列丞・鄴玄武苑丞。及江左、有事則權置、無事則省。

宗正、統皇族・宗人圖諜、又統太醫令・史、又有司牧掾員。及渡江、哀帝省并太常、太醫以給門下省。

大司農、統大簞・導官二令、襄國都水長、東・西・南・北部護漕掾。及渡江、哀帝省并都水、孝武復置。

少府、統材官校尉、中左右三尚方・中黃左右藏・左校・甄官・平準・奚官等令、左校坊・鄴中黃左右藏・油官等丞。及渡江、哀帝省并丹楊尹、孝武復置。自渡江唯置一尚方、又省御府。

將作大匠、有事則置、無事則罷。

太后三卿、衞尉・少府・太僕。漢置、皆隨太后宮爲官號、在同名卿上、無太后則闕。魏改漢制、在九卿下。及晉復舊、在同號卿上。

大長秋、皇后卿也。有后則置、無后則省。

訓読

太常・光祿勳・衞尉・太僕・廷尉・大鴻臚・宗正・大司農・少府・將作大匠・太后三卿・大長秋は、皆な列卿と爲し、各々丞・功曹・主簿・五官等の員を置く。

太常は、博士・協律校尉の員有り、又た太學諸博士・祭酒及び太史・太廟・太樂・鼓吹・陵等の令を統べ、太史は又た別に靈臺丞を置く。
太常博士は、魏官なり。魏の文帝、初めて置き、晉は之に因る。乘輿を引導するを掌る。王公已下の應に追諡すべき者あれば、則ち博士、之を議定す。
協律校尉は、漢の協律都尉の職なり。魏にて杜夔(とき)、之と爲る。晉に及び、改めて協律校尉と爲す。
晉初、魏制を承け、博士十九人を置く。咸寧四年に及び、武帝、初めて國子學を立て、定めて國子祭酒・博士各々一人、助教十五人を置き、以て生徒に教えしむ。博士は皆な清淳を履行し、典義に通明せる者を取り、若し散騎常侍・中書侍郎・太子中庶子以上ならば〔一〕、乃ち召試するを得たり。江左の初めに及び、減じて九人と爲す。元帝の末、儀禮・春秋公羊博士各々一人を增し、合して十一人と爲す。後に又た增して十六人と爲し、復た五經を分掌せざるも、而れども之を太學博士と謂うなり。孝武の太元十年、國子助教の員を損じて十人と爲す。

光祿勳は、武賁中郎將、羽林郎將、冗從僕射、羽林左監、五官・左・右中郎將、東園匠・太官・御府・守宮・黃門・掖庭・清商・華林園・暴室等の令を統ぶ。哀帝の興寧二年、光祿勳を省き、司徒に并す。孝武の寧康元年、復た置く。

衞尉は、武庫・公車・衞士・諸冶等の令、左・右都候、南・北・東・西督冶掾を統ぶ。渡江するに及び、衞尉を省く。

太僕は、典農・典虞都尉、典虞丞、左・右・中典牧都尉、車府・典牧・乘黃廐・驊騮廐・龍馬廐等の令を統ぶ。典牧は又た別に羊牧丞を置く。太僕は、元帝の渡江してよりの後、或いは省き或いは置く。太僕省かるれば、故に驊騮は門下の職と爲す。

廷尉は、刑法・獄訟を主り、屬官に正・監・評有り、并びに律博士の員有り。

大鴻臚は、大行・典客・園池・華林園・鈎盾等の令を統べ、又た青宮列丞・鄴玄武苑丞有り。江左に及び、事有れば則ち權に置き、事無ければ則ち省く。

宗正は、皇族宗人の圖諜を統べ、又た太醫令・史を統べ、又た司牧掾の員有り。渡江するに及び、哀帝、省きて太常に并せ、太醫は以て門下省に給す。

大司農は、大簞・導官の二令、襄國都水長、東・西・南・北部護漕掾を統ぶ。渡江するに及び、哀帝、省きて都水に并せ、孝武、復た置く。

少府は、材官校尉、中左右三尚方・中黃左右藏・左校・甄官・平準・奚官等の令、左校坊・鄴中黃左右藏・油官等の丞を統ぶ。渡江するに及び、哀帝、省きて丹楊尹に并せ、孝武、復た置く。渡江より唯だ一尚方を置くのみにして、又た御府を省く〔二〕。

將作大匠は、事有れば則ち置き、事無ければ則ち罷む。

太后三卿は、衞尉・少府・太僕なり。漢置くに、皆な太后宮に隨いて官號と爲し、同名の卿の上に在り、太后無ければ則ち闕く。魏は漢制を改め、九卿の下に在り。晉の舊に復すに及び、同號の卿の上に在り。

大長秋は、皇后卿なり。后有れば則ち置き、后無ければ則ち省く。

〔一〕ここでは、散騎常侍・中書侍郎・太子中庶子が並べられているが、散騎常侍は第三品、中書侍郎・太子中庶子は第五品で、不揃いである。『晋書斠注』も指摘する通り、『太平御覧』あるいは『芸文類聚』などに引く「晋令」では「博士皆取履行清通、淳明典義、若散騎・中書侍郎、太子中庶子以上、乃得召試。」とある。これによれば、召試を受けられる官職に該当するのは「散騎常侍・中書侍郎・太子中庶子以上」ではなく、「散騎侍郎・中書侍郎・太子中庶子以上」となる。散騎侍郎は、中書侍郎などと同じ第五品である。
〔二〕ここで衛尉府に属する御府署について言及されるのは唐突に見えるが、御府署は漢や魏ではもともと少府に属しており、また南朝宋以降も、尚方署の一部が御府署に改称されたりするなど、少府との関連が強い部署であった。よって、ここでは尚方署のことと合わせて御府署のことが言及されているのであろう。

現代語訳

太常・光禄勲・衛尉・太僕・廷尉・大鴻臚・宗正・大司農・少府・将作大匠・太后三卿・大長秋は、みな列卿の位とされ、それぞれ丞・功曹史・主簿・五官掾などの属吏を置いた。

太常には、属官として太常博士・協律校尉などの官員がおり、また(易博士などの)諸々の太学博士・博士祭酒および太史令・太廟令・太楽令・鼓吹令・陵令などの諸令を統括し、太史令の下にはさらに(太史丞以外に)別に霊台丞が置かれた。
太常博士は、魏が創設した官である。魏の文帝が初めて置き、晋はそれを踏襲した。皇帝の乗輿を引導することを職掌とした。また王公以下の者で諡号を追贈すべき人物がいれば、太常博士がそれについて議論して定めた。
協律校尉は、漢の協律都尉の職である。魏では、杜夔(とき)が協律都尉に任じられた。晋の時代になると、名を協律校尉に改めた。
晋の初期には、魏の制度を踏襲して十九人の太学博士を置いていた。咸寧四年(二七八)になると、武帝は初めて国子学を立て、制度を定めて国子祭酒・国子博士をそれぞれ一人ずつ、国子助教を十五人置き、彼らに生徒を教えさせた。国子博士はみな高潔で純朴な行いを実践し、かつ経義に通暁している者を採用し、もし散騎常侍・中書侍郎・太子中庶子以上の官職にある者であれば、召試(皇帝が招いて直々に試験を行うこと)を受けることができた。江左(東晋)の初期には、(十九人の太学博士の)定員を減らして九人にした。元帝の末期には、儀礼博士(『儀礼』担当の博士)・春秋公羊博士(『春秋公羊伝』担当の博士)をそれぞれ一人ずつ増員し、合わせて十一人とした。後にまた増員して十六人とし、もはや五経を分掌することはなくなったが、それを太学博士と呼んだのである。孝武帝の太元十年(三八五)には、国子助教の定員を減らして十人とした。

光禄勲は、武賁中郎将(虎賁中郎将)、羽林中郎将、冗從僕射、羽林左監、五官中郎将、左中郎将、右中郎将、および東園匠令・太官令・御府令・守宮令・黄門令・掖庭令・清商令・華林園令・暴室令などの諸令を統括した。哀帝の興寧二年(三六四)には光禄勲を廃止し、(属下の官署はみな)司徒の管轄下に併合した。孝武帝の寧康元年(三七三)には、再び光禄勲を置いた。

衛尉は、武庫令・公車令・衛士令・諸冶令などの諸令や、左都候・右都候、南督冶掾・北督冶掾・東督冶掾・西督冶掾を統括した。渡江した後(すなわち東晋時代)には、衛尉を廃止した。

太僕は、典農都尉・典虞都尉、典虞丞、左典牧都尉・右典牧都尉・中典牧都尉、車府令・典牧令・乗黄厩令・驊騮厩令・龍馬厩令などの諸令を統括した。典牧令の下にはさらに(典牧丞以外に)別に羊牧丞を置いた。太僕は、元帝が渡江して以降(すなわち東晋時代)、廃止したりまた設置したりした。太僕が廃止された際には、驊騮廏署の職は門下の管轄下とされた。

廷尉は、刑法や獄訟(刑事事件と民事事件の裁判)を担当し、属官として廷尉正・廷尉監・廷尉評がおり、さらに律博士が置かれた。

大鴻臚は、大行令・典客令・園池令・華林園令・鈎盾令などの諸令を統括し、また属吏として青宮列丞、鄴の玄武苑丞がいた。江左(東晋)になると、必要が生じれば一時的な措置として置くことにし、必要が無くなったらまた廃止した。

宗正は、皇族や宗族の戸籍や家譜などを管轄し、また太医令・太医史を統括し、さらに属吏として司牧掾がいた。渡江した後(すなわち東晋時代)、哀帝は宗正を廃止してその職務を太常の管轄下に併合し、太医署だけは門下省に統括させた。

大司農は、大簞令・導官令の二令、襄国の都水長、東部護漕掾・西部護漕掾・南部護漕掾・北部護漕掾を統括した。渡江した後(すなわち東晋時代)、哀帝は大司農を廃止して(属下の官署はみな)都水台の管轄下に併合し、また孝武帝の時代になると再び大司農を置いた。

少府は、材官校尉、中尚方令・左尚方令・右尚方の三尚方令、中黄藏令・左藏令・右藏令、左校令・甄官令・平準令・奚官令などの諸令、左校坊丞、鄴の中黄藏丞・左藏丞・右藏丞、油官丞などの諸丞を統括した。渡江した後(すなわち東晋時代)、哀帝は少府を廃止して(属下の官署はみな)丹楊尹の管轄下に併合し、孝武帝の時代になると再び少府を置いた。なお、渡江以降(すなわち東晋時代)には(西晋では三つあった)尚方署は一つだけ置くことにし、また御府署を廃止した。

将作大匠は、必要が生じればそのときだけ置くことにし、必要が無くなったらまた廃止した。

太后三卿は、衛尉・少府・太僕のことである。漢においては設置する際、いずれも太后の宮名に従ってそれを官号とし(たとえば太后の宮が「長楽宮」であれば「長楽衛尉」「長楽少府」「長楽太僕」とし)、位は同名の卿(=九卿としての衛尉・少府・太僕)の上とされ、太后がいなければ欠員とした。魏では漢制を改め、九卿の下に位置づけた。晋が元の制度に戻した際には、また同名の卿の上に位置づけられることになった。

大長秋は、皇后卿である。皇后がいれば設置し、皇后がいなければ廃止した。

原文

御史中丞、本秦官也。秦時、御史大夫有二丞、其一御史丞、其一爲中丞。中丞外督部刺史、內領侍御史、受公卿奏事、舉劾案章。漢因之。及成帝綏和元年、更名御史大夫爲大司空、置長史、而中丞官職如故。哀帝建平二年、復爲御史大夫。元壽二年、又爲大司空、而中丞出外爲御史臺主。歷漢東京至晉因其制、以中丞爲臺主。
治書侍御史。案漢宣帝幸宣室齋居而決事、令侍御史二人治書侍側、後因別置、謂之治書侍御史。蓋其始也。及魏、又置治書執法、掌奏劾、而治書侍御史掌律令、二官俱置。及晉、唯置治書侍御史、員四人。泰始四年、又置黃沙獄治書侍御史一人、秩與中丞同、掌詔獄、及廷尉不當者皆治之。後并河南、遂省黃沙治書侍御史。及太康中、又省治書侍御史二員。
侍御史。案二漢所掌凡有五曹、一曰令曹、掌律令、二曰印曹、掌刻印、三曰供曹、掌齋祠、四曰尉馬曹、掌廐馬、五曰乘曹、掌護駕。魏置八人。及晉、置員九人、品同治書、而有十三曹吏曹・課第曹・直事曹・印曹・中都督曹・外都督曹・媒曹・符節曹・水曹・中壘曹・營軍曹・法曹・算曹。及江左初、省課第曹、置庫曹、掌廐牧牛馬市租、後分曹、置外左庫・內左庫云。
殿中侍御史。案魏蘭臺遣二御史居殿中、伺察非法、即其始也。及晉、置四人、江左置二人。又案魏晉官品令又有禁防御史第七品、孝武太元中有檢校御史吳琨、則此二職亦蘭臺之職也。
符節御史、秦符璽令之職也。漢因之、位次御史中丞。至魏、別爲一臺、位次御史中丞、掌授節・銅武符・竹使符。及泰始九年、武帝省并蘭臺、置符節御史掌其事焉。

司隸校尉。案漢武初置十三州刺史各一人、又置司隸校尉、察三輔・三河・弘農七郡、歷漢東京及魏晉、其官不替。屬官有功曹・都官從事・諸曹從事・部郡從事・主簿・錄事・門下書佐・省事・記室書佐・諸曹書佐・守從事・武猛從事等員、凡吏一百人、卒三十二人。及渡江、乃罷司隸校尉官、其職乃揚州刺史也。

謁者僕射、秦官也。自漢至魏因之。魏置僕射、掌大拜授及百官班次、統謁者十人。及武帝省僕射、以謁者并蘭臺。江左復置僕射、後又省。

都水使者、漢水衡之職也。漢又有都水長・丞、主陂池灌溉、保守河渠、屬太常。漢東京省都水、置河隄謁者、魏因之。及武帝省水衡、置都水使者一人、以河隄謁者爲都水官屬。及江左、省河隄謁者、置謁者六人。

訓読

御史中丞は、本と秦官なり。秦時、御史大夫に二丞有り、其の一は御史丞、其の一は中丞と爲す。中丞は外は部刺史を督し、內は侍御史を領し、公卿の奏事を受け、舉劾案章す。漢は之に因る。成帝の綏和元年に及び、更めて御史大夫を名づけて大司空と爲し、長史を置き、而して中丞の官職は故の如し。哀帝の建平二年、復た御史大夫と爲す。元壽二年、又た大司空と爲し、而して中丞は外に出でて御史臺の主と爲す。漢の東京を歷て晉に至るまで其の制に因り、中丞を以て臺主と爲す。
治書侍御史。案ずるに、漢の宣帝は宣室に幸して齋居して事を決し、侍御史二人をして書を治めて側に侍らしめ、後に因りて別に置き、之を治書侍御史と謂う。蓋し其れ始めなり。魏に及び、又た治書執法を置き、奏劾を掌り、而して治書侍御史は律令を掌り、二官俱に置く。晉に及び、唯だ治書侍御史を置くのみにして、員は四人。泰始四年、又た黃沙獄治書侍御史一人を置き、秩は中丞と同じくし、詔獄を掌り、及び廷尉の不當なる者は皆な之を治す。後に河南に并せ、遂に黃沙治書侍御史を省く。太康中に及び、又た治書侍御史二員を省く。
侍御史。案ずるに、二漢の掌る所は凡そ五曹有り、一は令曹と曰い、律令を掌り、二は印曹と曰い、刻印を掌り、三は供曹と曰い、齋祠を掌り、四は尉馬曹と曰い、廐馬を掌り、五は乘曹と曰い、護駕を掌る。魏は八人を置く。晉に及び、員九人を置き、品は治書と同じくし、而して十三曹有り、吏曹・課第曹・直事曹・印曹・中都督曹・外都督曹・媒曹・符節曹・水曹・中壘曹・營軍曹・法曹・算曹。江左の初めに及び、課第曹を省き、庫曹を置き、廐牧・牛馬・市租を掌らしめ、後に曹を分かち、外左庫・內左庫を置くと云う。
殿中侍御史。案ずるに、魏の蘭臺は二御史を遣わして殿中に居らしめ、非法を伺察したれば、即ち其れ始めなり。晉に及び、四人を置き、江左は二人を置く。又た案ずるに、魏晉の官品令に又た禁防御史、第七品なるもの有り、孝武の太元中に檢校御史の吳琨(ごこん)なるもの有るは、則ち此の二職も亦た蘭臺の職なり。
符節御史は、秦の符璽令の職なり。漢は之に因り、位は御史中丞に次ぐ。魏に至り、別に一臺と爲し、位は御史中丞に次ぎ、授節・銅武符・竹使符を掌る。泰始九年に及び、武帝は省きて蘭臺に并せ、符節御史を置きて其の事を掌らしむ。

司隸校尉。案ずるに、漢武は初めて十三州刺史各々一人を置き〔一〕、又た司隸校尉を置き、三輔・三河・弘農の七郡を察せしめ、漢の東京を歷て魏晉に及ぶまで、其の官は替てず。屬官に功曹・都官從事・諸曹從事・部郡從事・主簿・錄事・門下書佐・省事・記室書佐・諸曹書佐・守從事・武猛從事等の員有り、凡そ吏は一百人、卒は三十二人。渡江するに及び、乃ち司隸校尉の官を罷め、其の職は乃ち揚州刺史なり。

謁者僕射は、秦官なり。漢より魏に至るまで之に因る。魏は僕射を置き、大拜授及び百官の班次を掌り、謁者十人を統ぶ。武帝に及び、僕射を省き、謁者を以て蘭臺に并す。江左は復た僕射を置くも、後に又た省く。

都水使者は、漢の水衡の職なり。漢に又た都水長・丞有り、陂池・灌溉、河渠を保守するを主り、太常に屬す。漢の東京は都水を省き、河隄謁者を置き、魏は之に因る。武帝に及び、水衡を省き、都水使者一人を置き、河隄謁者を以て都水の官屬と爲す。江左に及び、河隄謁者を省き、謁者六人を置く。

〔一〕豫州・冀州・兗州・徐州・青州・荊州・揚州・益州・涼州・并州・幽州の十一州刺史部と、交阯刺史部・朔方刺史部を合わせた十三部の刺史のこと。

現代語訳

御史中丞は、その淵源は秦が創設した官である。秦の時代、御史大夫の下に二人の丞が置かれ、その一つは御史丞と言い、もう一つは御史中丞と言った。御史中丞は、外は部刺史を監督し、内は侍御史を統括し、公卿の上奏文を受け、それに基づいて弾劾したり、上奏文の不備をチェックしたりした。漢はそれを踏襲した。成帝の綏和元年(前八)になると、御史大夫の名を大司空に改め、属吏として(御史丞の代わりに)長史を置き、そして御史中丞の官職は従来のままとした。哀帝の建平二年(前五)、また大司空を御史大夫の名に戻した。元寿二年(前一)、また御史大夫を大司空とし、そして御史中丞は大司空府の外に出されて御史台の長官となった。漢の東京(後漢)を経て晋に至るまでその制度を踏襲し、御史中丞を御史台の長官とした。
治書侍御史について。案ずるに、漢の宣帝は宣室に出御してそこで斎戒してから刑罰の裁決を下したが、その際に二人の侍御史に書物を整理させて側に侍らせ、後に通常の侍御史とは別にその職務を担う専属の侍御史を置き、それを治書侍御史と言った。思うにそれがこの官職の始まりである。魏になると、さらに治書執法を置き、劾奏を職掌とし、そして治書侍御史は律令に関することを職掌とし、二官を一緒に置いた。晋になると、ただ治書侍御史を置くだけにし、定員は四人とした。泰始四年(二六八)、さらに黄沙獄治書侍御史を一人置き、秩は御史中丞と同じとし、詔獄(通常の裁判とは異なり、皇帝の命により開かれることになった裁判案件)に関することを職掌とし、さらに廷尉府に所属する人物が不当な行いをした際に、その人物に関する裁判案件をすべて審理した。後に黄沙獄治書侍御史の職務は河南尹が担うこととなり、そこで黄沙治書侍御史は廃止された。太康年間になると、さらに治書侍御史の定員を二人分削減した。
侍御史について。案ずるに、二漢(前漢・後漢)の侍御史が管轄した部署は全部で五曹あり、一つ目は令曹と言い、律令に関することを担当し、二つ目は印曹と言い、刻印に関することを担当し、三つ目は供曹と言い、斎戒や祭祀に関することを担当し、四つ目は尉馬曹と言い、厩の馬に関することを担当し、五つ目は乗曹と言い、護駕(儀注に従い鹵簿の車騎の行列を整理すること)に関することを担当した。魏は侍御史を八人置いた。晋になると、定員を九人とし、官品は治書侍御史と同じとし、そして部署は十三曹あり、吏曹・課第曹・直事曹・印曹・中都督曹・外都督曹・媒曹・符節曹・水曹・中塁曹・営軍曹・法曹・算曹がそれである。江左(東晋)の初めには、課第曹を廃止し、代わりに庫曹を置き、牧場における諸々の家畜の飼育や、(駅伝等のための)牛や馬の管理、市の租税に関することを担当させ、さらに後にこの曹を分割し、外左庫曹・内左庫曹を置いた。
殿中侍御史について。案ずるに、魏の蘭台(御史台)では二人の侍御史を派遣して殿中に控えさせ、法令違反がないかどうかを視察させており、それがこの官職の始まりである。晋になると、定員を四人とし、江左(東晋)では定員を二人とした。また案ずるに、魏晋の官品令にはさらに第七品の禁防御史なるものがあり、孝武帝の太元年間には検校御史の呉琨(ごこん)なるものがおり、この二職もまた蘭台の職である。
符節御史は、秦の符璽令の職である。漢はそれを踏襲し、位は御史中丞に次ぐものとした。魏に至り、別に一つの台(符節台)として独立させ、位は御史中丞に次ぐものとし、使者が出るときの節の授与や、銅武符・竹使符に関することを職掌とした。(西晋の)泰始九年(二七三)になると、武帝は符節台を廃止して蘭台(御史台)に併合し、符節御史を置いてその職務を担当させた。

司隷校尉について。案ずるに、漢の武帝は初めて十三州刺史をそれぞれ一人ずつ置き、さらに司隷校尉を置き、三輔(京兆尹・左馮翊・右扶風)・三河(河南尹・河内郡・河東郡)・弘農郡の七郡を監察させ、漢の東京(後漢)を経て魏晋に及ぶまで、その官は廃止されなかった。その属官には功曹従事、都官従事、(たとえば兵曹従事などの)諸曹従事、(たとえば部弘農従事などの)部郡従事、主簿、録事、門下書佐、省事、記室書佐、(たとえば兵曹書佐などの)諸曹書佐、守従事、武猛従事などの吏員がおり、合計で吏は一百人、卒は三十二人いた。渡江した後(すなわち東晋時代)になると、そこで司隷校尉の官を廃止し、(東晋では揚州・丹楊郡の建康を都としているため)その職は揚州刺史が担うことになった。

謁者僕射は、秦が創設した官である。漢より魏に至るまでそれを踏襲した。魏では謁者僕射が置かれ、大拝授(大官の拝受)や百官の班次に関することを職掌とし、謁者十人を統括した。武帝の時代になると、謁者僕射を廃止し、謁者たちを蘭台(御史台)に併合して移管させた。江左(東晋)ではまた謁者僕射を置いたが、後にまた廃止した。

都水使者は、漢の水衡府の職である。漢には他に都水長・都水丞が置かれ、ため池や灌漑に関することや、河川や水路の保全を担当し、太常に属していた。漢の東京(後漢)では都水署が廃止され、代わりに河隄謁者を置き、魏はそれを踏襲した。(西晋の)武帝の時代になると、水衡府を廃止し、都水使者を一人置き、河隄謁者を都水台の属官とした。江左(東晋)になると、河隄謁者を廃止し、代わりに謁者を六人置いた。

原文

中領軍・將軍、魏官也。漢建安四年、魏武丞相府自置、及拔漢中、以曹休爲中領軍。文帝踐阼、始置領軍將軍、以曹休爲之、主五校・中壘・武衞等三營。武帝初省、使中軍將軍羊祜統二衞・前・後・左・右・驍衞等營、即領軍之任也。懷帝永嘉中、改中軍曰中領軍。永昌元年、改曰北軍中候、尋復爲領軍。成帝世、復爲中候、尋復爲領軍。
護軍將軍、案本秦護軍都尉官也。漢因之、高祖以陳平爲護軍中尉、武帝復以爲護軍都尉、屬大司馬。魏武爲相、以韓浩爲護軍、史渙爲領軍、非漢官也。建安十二年、改護軍爲中護軍、領軍爲中領軍、置長史・司馬。魏初、因置護軍將軍、主武官選、隸領軍、晉世則不隸也。元帝永昌元年、省護軍、并領軍。明帝太寧二年、復置領・護、各領營兵。江左以來、領軍不復別領營、總統二衞・驍騎・材官諸營、護軍猶別有營也。資重者爲領軍・護軍、資輕者爲中領軍・中護軍。屬官有長史・司馬・功曹・主簿・五官、受命出征則置參軍。
左・右衞將軍。案文帝初置中衞、及武帝受命、分爲左右衞、以羊琇爲左、趙序爲右。並置長史・司馬・功曹・主簿員、江左罷長史。
驍騎將軍・遊擊將軍、並漢雜號將軍也。魏置爲中軍。及晉、以領・護・左右衞・驍騎・遊擊爲六軍。
左・右・前・後軍將軍。案魏明帝時有左軍、則左軍魏官也。至晉不改。武帝初又置前軍・右軍、泰始八年又置後軍、是爲四軍。
屯騎・步兵・越騎・長水・射聲等校尉、是爲五校、並漢官也。魏晉逮于江左、猶領營兵、並置司馬・功曹・主簿。
後省左軍・右軍・前軍・後軍爲鎮・衞軍、其左右營校尉自如舊、皆中領軍統之。
二衞始制前驅・由基・強弩爲三部司馬、各置督・史。左衞、熊渠武賁、右衞、佽飛武賁。二衞各五部督、其命中武賁、驍騎・遊擊各領之。又置武賁・羽林・上騎・異力四部、并命中爲五督。其衞・鎮・四軍、如五校各置千人。更制殿中將軍・中郎・校尉・司馬1.(此)〔比〕驍騎。持椎斧武賁、分屬二衞。2.(尉)〔殿〕中武賁・持3.(披)〔鈒〕冗從・羽林・4.〔司〕馬、常從人數各有差。
武帝甚重兵官、故軍校多選朝廷清望之士居之。先是、陳勰爲文帝所待、特有才用、明解軍令。帝爲晉王、委任使典兵事。及蜀破後、令勰受諸葛亮圍陣・用兵・倚伏之法、又甲乙校標幟之制、勰悉闇練之、遂以勰爲殿中典兵中郎將、遷將軍。久之、武帝每出入、勰持白獸幡在乘輿左右、鹵簿陳列齊肅。太康末、武帝嘗出射雉、勰時已爲都水使者、散從。車駕逼暗乃還、漏已盡、當合函、停乘輿、良久不得合、乃詔勰合之。勰舉白獸幡指麾、須臾之間而函成。皆謝勰閑解、甚爲武帝所任。

1.中華書局本の校勘記に従い、「此」を「比」に改める。
2.中華書局本の校勘記に従い、「尉」を「殿」に改める。
3.周家禄『晋書校勘記』も指摘する通り、何らかの脱誤があると思われる。そこで殿本に従って「披」を「鈒」に改める。なお、『晋書』巻二十六・食貨志にも「持鈒冗從武賁」が登場する。
4.周家禄『晋書校勘記』も指摘する通り、何らかの脱誤があると思われる。そこで、殿本に従って「司」を補う。

訓読

中領軍・將軍は、魏官なり。漢の建安四年、魏武の丞相府に自ら置き、漢中を拔くに及び、曹休を以て中領軍と爲す。文帝の踐阼するや、始めて領軍將軍を置き、曹休を以て之と爲し、五校・中壘・武衞等三營を主る〔一〕。武帝の初めに省き、中軍將軍の羊祜(ようこ)をして二衞・前・後・左・右・驍衞等の營を統べしむるは、即ち領軍の任なり。懷帝の永嘉中、中軍を改めて中領軍と曰う。永昌元年、改めて北軍中候と曰い、尋いで復た領軍と爲す。成帝の世、復た中候と爲し、尋いで復た領軍と爲す。
護軍將軍は、案ずるに本と秦の護軍都尉の官なり。漢は之に因り、高祖は陳平を以て護軍中尉と爲し、武帝は復た以て護軍都尉と爲し、大司馬に屬せしむ。魏武の相と爲るや、韓浩を以て護軍と爲し、史渙もて領軍と爲すも、漢官に非ざるなり。建安十二年、護軍を改めて中護軍と爲し、領軍もて中領軍と爲し、長史・司馬を置く。魏の初め、因りて護軍將軍を置き、武官の選を主らしめ、領軍に隸するも、晉の世には則ち隸せざるなり。元帝の永昌元年、護軍を省き、領軍に并す。明帝の太寧二年、復た領・護を置き、各々營兵を領せしむ。江左以來、領軍は復た別に營を領せず、二衞・驍騎・材官諸營を總統するも、護軍は猶お別に營有るなり。資重き者は領軍・護軍と爲し、資輕き者は中領軍・中護軍と爲す。屬官に長史・司馬・功曹・主簿・五官有り、命を受けて出征すれば則ち參軍を置く。
左・右衞將軍。案ずるに、文帝は初め中衞を置き、武帝の命を受くるに及び、分かちて左右衞と爲し、羊琇(ようしゅう)を以て左と爲し、趙序もて右と爲し、並びに長史・司馬・功曹・主簿の員を置き、江左は長史を罷む。
驍騎將軍・遊擊將軍は、並びに漢の雜號將軍なり。魏は置きて中軍と爲す。晉に及び、領・護・左右衞・驍騎・遊擊を以て六軍と爲す。
左・右・前・後軍將軍〔二〕。案ずるに、魏の明帝の時に左軍有れば、則ち左軍は魏官なり。晉に至りて改めず。武帝の初め、又た前軍・右軍を置き、泰始八年に又た後軍を置き、是れ四軍と爲す。
屯騎・步兵・越騎・長水・射聲等の校尉は、是れ五校と爲し、並びに漢官なり。魏晉より江左に逮ぶまで、猶お營兵を領し、並びに司馬・功曹・主簿を置く。
後に左軍・右軍・前軍・後軍を省きて鎮・衞軍と爲すも、其の左右營校尉は自より舊の如くし、皆な中領軍、之を統ぶ。
二衞、始めて前驅・由基・強弩を制して三部司馬〔三〕と爲し、各々督・史を置く。左衞は、熊渠武賁あり、右衞は、佽飛武賁あり〔四〕。二衞は各々五部督あり、其の命中武賁は、驍騎・遊擊、各々之を領す。又た武賁・羽林・上騎・異力の四部を置き、命中と并せて五督と爲す〔五〕。其の衞・鎮・四軍は、五校の如く各々千人を置く。更めて殿中將軍・中郎・校尉・司馬を制して驍騎に比す〔六〕。持椎斧武賁、二衞に分屬す。殿中武賁・持鈒冗從・羽林・司馬は、常從の人數は各々差有り。
武帝、甚だ兵官を重んじたれば、故に軍校は多く朝廷の清望の士を選びて之に居らしむ。是より先、陳勰(ちんきょう)は文帝の待する所と爲り、特に才用有り、明らかに軍令を解す。帝の晉王と爲るや、委任して兵事を典らしむ。蜀の破れし後に及び、勰をして諸葛亮の圍陣・用兵・倚伏の法を受けしめ、又た甲乙もて標幟の制を校べしむるに、勰、悉く之を闇練したれば、遂に勰を以て殿中典兵中郎將と爲し、將軍に遷す。之を久しくして、武帝の出入する每に、勰、白獸幡を持ちて乘輿の左右に在り、鹵簿の陳列すること齊肅たり。太康の末、武帝、嘗て出でて雉を射るや、勰、時に已に都水使者たり、散從す。車駕、暗に逼りて乃ち還るに、漏の已に盡きたれば、當に函を合せんとし、乘輿を停むるも、良々久しくするに合するを得ず、乃ち勰に詔して之を合せしむ。勰、白獸幡を舉げて指麾し、須臾の間にして函成る。皆な勰の閑解せるに謝し、甚だ武帝の任ずる所と爲る。

〔一〕この「五校・中塁・武衛等三営」が具体的に何を指すのかは不明。五校とは、北軍五校尉(屯騎校尉・越騎校尉・歩兵校尉・長水校尉・射声校尉)のことで、その営は「五営」と呼ばれる。すなわち、五営に中塁営・武衛営を加えると合計で七営になるので、「五校・中塁・武衛」で「三営」という数え方にはならない。すると、この箇所は「五校尉の五営」と「中塁営」と「武衛営などの三営」の合計九営が領軍将軍・曹休の管轄下に置かれたということを指しているように見える。しかし、後文の「二衛・前・後・左・右・驍衞等の営」に関しては、『通典』や『唐六典』では「統宿衛七軍」「二衛・前・後・左・右・驍騎等の七軍の営兵」とあるので、この箇所もあるいは、五営に関しては五営で一セットとしてカウントし、「五校・中塁・武衛」の三営という意味で述べているのであろうか。
〔二〕ともに唐代に編纂された『晋書』や『通典』では、左将軍・右将軍・前将軍・後将軍および衛将軍と、左軍将軍・右軍将軍・前軍将軍・後軍将軍および衛軍将軍は、同じ存在だとされている。ただ、『通典』巻三十七・職官典十九・秩品二・晋官品では、第三品に前将軍・後将軍・左将軍・右将軍が並べられ、第四品に前軍将軍・後軍将軍・左軍将軍・右軍将軍が並べられており、おそらく時期によって名称や官品が異なるのだと解釈しているか、あるいは中領軍・領軍将軍、中護軍・護軍将軍と同様に、就任者のキャリアに応じてどちらかが決まるというように解釈しているようにも見える。ただ、『晋書』では劉豫(劉預)や卞粋が記事によって「左将軍」であるとされたり「左軍将軍」であるとされたりし、郭黙や桓伊が「右将軍」であるとされたり「右軍将軍」であるとされたりし、楊駿が「前将軍」であるとされたり「前軍将軍」であるとされたりするなど、時代による呼称の変化、キャリアによる資格の相違があったというわけでも無さそうに思われる。本来の晋の制度でも左将軍・右将軍・前将軍・後将軍および衛将軍と、左軍将軍・右軍将軍・前軍将軍・後軍将軍および衛軍将軍とは同一の存在であったのか、それとも異なる存在であったにもかかわらず唐代の人の不理解により『晋書』や『通典』のような記述になってしまったのか、いずれなのかは不明である。
〔三〕ややこしいが、この「前駆司馬」「由基司馬」「強弩司馬」の三部司馬は、部隊名であって官職名ではない。官職としては、たとえば、前駆司馬の部隊を管轄しているのが「前駆司馬督」で、その部下が「前駆司馬史」であるということになる。同様に、たとえば下文の「熊渠武賁(熊渠虎賁)」は部隊名であり、それを管轄する役職が「熊渠督」となる。なお、虎賁が「武賁」と記されているのは、唐の太祖・李虎の諱を避けているためである。
〔四〕『晋書』巻二十五・輿服志・中朝大駕鹵簿などによれば、「熊渠督」「佽飛督」「命中督」などは同時に二人以上存在していたようである。よって後文に、「命中武賁(命中虎賁)」が驍騎将軍や遊撃将軍の下にそれぞれ置かれたとあり、しかも左衛将軍・右衛将軍の下にも「命中武賁(命中虎賁)」や「命中督」が「五部」「五部督」の一つとして置かれたとあるのも、「命中武賁(命中虎賁)」が各将軍の下にそれぞれ配備され、そしてそれらを管轄する者として、それぞれ「命中督」が一人ずつ置かれたということを意味しているのであろう。なお、「佽飛督」は「右衛佽飛督」とも呼ばれていたので、「命中督」も「驍騎命中督」「遊撃命中督」「左衛命中督」「右衛命中督」という名称で各自区別されていたのかもしれない。ちなみに、『資治通鑑』の胡三省注では「佽飛虎賁」を「佽飛・虎賁」と区切って読み、佽飛督と虎賁督の二督が置かれたのだと解釈しているが、たとえば『晋書』巻二十六・食貨志・食の条に、「殿中冗従武賁」「殿中武賁」「持椎斧武賁」「持鈒冗従武賁」「命中武賁」などの諸武賁(虎賁)が見えるように、基本的に「武賁(虎賁)」には「〇〇武賁(虎賁)」という形で何かしらの冠称があるので、この場合も同様に、「佽飛武賁(佽飛虎賁)」「熊渠武賁(熊渠虎賁)」でそれぞれ一つの部隊名として解釈すべきかと思われる。そうでないと、後文の「五部」「五部督」の数字に合致しなくなってしまう。
〔五〕ここでひとまず、当初の制度における左・右衛将軍および驍騎・遊撃将軍の属下を整理する。左衛将軍の下には、前駆司馬を管轄する前駆司馬督、由基司馬を管轄する由基司馬督、強弩司馬を管轄する強弩司馬督の三部司馬督が置かれたほか、熊渠虎賁を管轄する熊渠督、命中虎賁を管轄する命中督、羽林を管轄する羽林督、上騎を管轄する上騎督、異力を管轄する異力督の五部督が置かれた。右衛将軍の下には、前駆司馬を管轄する前駆司馬督、由基司馬を管轄する由基司馬督、強弩司馬を管轄する強弩司馬督の三部司馬督が置かれたほか、佽飛虎賁を管轄する佽飛督、命中虎賁を管轄する命中督、羽林を管轄する羽林督、上騎を管轄する上騎督、異力を管轄する異力督の五部督が置かれた。驍騎将軍の下には、命中虎賁を管轄する命中督が置かれた。遊撃将軍の下にも、命中虎賁を管轄する命中督が置かれた。
〔六〕史料上ではしばしば中郎将は「中郎」と略称される。『水経注』巻十五・伊水の注では、西晋の恵帝の元康二年(二九二)のこととして、「殿中中郎将」の樊広なる人物が登場する。また『宋書』等の史書でもしばしば「殿中中郎将」が登場するので、『晋書』のこの「殿中中郎」も、殿中中郎将のことを指していると見てよいであろう。また「殿中司馬」については、『宋書』等では「殿中司馬督」とされていることから、これも「殿中司馬督」のことを指しているものと思われる。なお、晋代のことは不明であるが、続く宋代では、殿中将軍・殿中司馬督はともに第六品とされているので、晋代の場合も、殿中将軍・殿中中郎将・殿中校尉・殿中司馬督はいずれも同じ官品であった可能性が高い。よって、いずれも同様に「驍騎将軍に比す」地位であったということなのであろう。

現代語訳

中領軍・領軍将軍は、魏が創設した官である。漢の建安四年(一九九)、魏の武帝(曹操)が自らの丞相府の下に設置し、漢中を攻略した後には、曹休を中領軍に任じた。文帝が皇帝に即位すると、初めて領軍将軍を置き、曹休をその地位に据え、五営校尉の五営、中塁将軍の中塁営、武衛将軍の武衛営などの三営を統括させた。(西晋の)武帝の時代の初期になると中領軍・領軍将軍を廃止し、中軍将軍の羊祜(ようこ)に左衛将軍の左衛営、右衛将軍の右衛営、前将軍の前営、後将軍の後営、左将軍の左営、右将軍の右営、驍衛将軍の驍衛営などの諸営を統括させたが、これはすなわち中領軍・領軍将軍の職任だったものである。懐帝の永嘉年間には、中軍将軍を改めて中領軍とした。(東晋の元帝の)永昌元年(三二二)、中領軍を改めて北軍中候とし、まもなくまた中領軍に戻した。成帝の時代には、また北軍中候と改め、まもなくまた中領軍に戻した。
護軍将軍は、案ずるに、その淵源は秦の護軍都尉の官である。漢はそれを踏襲し、高祖(劉邦)は陳平を護軍中尉に任じ、武帝はまたそれを護軍都尉の名に戻し、大司馬に属することとした。魏の武帝(曹操)が宰相となると、韓浩を護軍に任じ、史渙を領軍に任じたが、これは漢の官職ではなかった。建安十二年(二〇七)、護軍を中護軍、領軍を中領軍と改め、それぞれ属吏として長史・司馬を置いた。魏の初期になると、そこで護軍将軍を置き、武官の人選を担当させ、中領軍もしくは領軍将軍の属下に置いたが、晋の時代には中領軍もしくは領軍将軍の属下とはしなかった。(東晋の)元帝の永昌元年(三二二)、中護軍・護軍将軍を廃止し、その職務は中領軍・領軍将軍に併合して移管させた。明帝の太寧二年(三二四)、また中領軍・領軍将軍と中護軍・護軍将軍の両者を置き、それぞれ営兵を直属させた。というのも、江左(東晋)の時代以降、(太寧二年までは)中領軍・領軍将軍はもう直属の営(すなわち領軍営)を独自に有することが無くなり、左衛将軍の左衛営、右衛将軍の右衛営、驍騎将軍の驍騎営、材官将軍の材官営などの諸営を統括していただけであったが、中護軍・護軍将軍は引き続き直属の営(すなわち護軍営)を独自に有していた。(領軍・護軍の職名に関しては)官資(キャリア)が重い者は領軍将軍・護軍将軍とされ、官資が軽い者は中領軍・中護軍とされた。属官としては長史・司馬・功曹史・主簿・五官掾が置かれ、命を受けて出征することになれば加えて参軍が置かれた。
左衛将軍・右衛将軍について。案ずるに、(魏の時代に)文帝(司馬昭)が初めて中衛将軍を置き、武帝が天命を受けて王朝を開くと、それを分割して左衛将軍・右衛将軍とし、羊琇(ようしゅう)を左衛将軍に、趙序を右衛将軍に任じ、いずれも属官として長史・司馬・功曹史・主簿の官員を置き、江左(東晋)になると長史を廃止した。
驍騎将軍・遊撃将軍は、いずれも漢の雑号将軍である。魏では中軍を構成するものとして置かれた。晋になると、領軍・護軍・左衛軍・右衛軍・驍騎軍・遊撃軍を合わせて「六軍」と称した。
左軍将軍(左将軍)・右軍将軍(右将軍)・前軍将軍(前将軍)・後軍将軍(後将軍)について。案ずるに、魏の明帝の時に左軍将軍がいたので、左軍将軍は魏が創設した官である。晋になってもそれは改めなかった。武帝の時代の初めに、さらに前軍・右軍を置き、泰始八年(二七二)にさらに後軍を置き、これを「四軍」と称した。
屯騎校尉・歩兵校尉・越騎校尉・長水校尉・射声校尉などの校尉は、「五校」と称され、いずれも漢が創設した官職である。魏・晋(西晋)から江左(東晋)に至るまで、引き続き営兵を属下に置き、いずれも属官として司馬・功曹史・主簿を置いた。
後に左軍将軍(左将軍)・右軍将軍(右将軍)・前軍将軍(前将軍)・後軍将軍(後将軍)を廃止し、鎮軍将軍・衛軍将軍(衛将軍)の下に再編したが、ただし左軍将軍(左将軍)の左営、右軍将軍(右将軍)の右営は解体せずに元のまま残し、左営校尉・右営校尉を置いて管轄させ、左営・右営の両者とも中領軍が統括した。
左衛将軍・右衛将軍の二衛将軍が置かれたとき、初めて両者の属下にそれぞれ前駆司馬・由基司馬・強弩司馬の部隊を置くことが制定され、それらを「三部司馬」と呼び、それぞれの部隊に司馬督・司馬史を置くことになった。そして左衛将軍の属下には熊渠虎賁の部隊が置かれ、右衛将軍の属下には佽飛虎賁の部隊が置かれた。二衛にはそれぞれ五つの部隊とそれを管轄する「督」が置かれ、そのうち命中虎賁の部隊については、驍騎将軍・遊撃将軍の下にもそれぞれ置かれ、各々それを統率した。また、左衛将軍・右衛将軍の場合には、虎賁(左衛将軍であれば前掲の熊渠虎賁、右衛将軍であれば前掲の佽飛虎賁)・羽林・上騎・異力の四部隊を置き、そこに命中虎賁を含めた五部隊の「督」を置いた。また衛軍将軍(衛将軍)・鎮軍将軍・左軍将軍(左将軍)・右軍将軍(右将軍)・前軍将軍(前将軍)・後軍将軍(後将軍)の下には、五営校尉と同じようにそれぞれ千人の兵を置いた。さらに、改めて殿中将軍・殿中中郎将・殿中校尉・殿中司馬督を置くことが制定され、いずれも驍騎将軍に準じるものとした。そして、持椎斧虎賁の部隊を創設し、それを二つに分けて左衛将軍・右衛将軍の下にそれぞれ所属させた。(二衛将軍や殿中将軍などの下にいる)殿中虎賁・持鈒冗従虎賁・羽林騎・三部司馬などの部隊について、(二衛将軍や殿中将軍などに)常に随行する人数は、等級に応じてそれぞれ定めた。
(西晋の)武帝は、非常に兵官を重んじたので、故に将軍や校尉の多くは朝廷のうちでも清廉な声望を有する士人たちの中から選ばれ、その地位に据えられた。これに先立って、(魏の時代に)陳勰(ちんきょう)は文帝(司馬昭)に厚遇され、特別な才幹があり、軍令に通暁していた。文帝が晋王となると、陳勰を信任して兵事を担当させていた。蜀漢が敗れた後には、陳勰に諸葛亮の囲陣(包囲や陣形の構築)・用兵・倚伏(奇兵や伏兵)などの兵法を学ばせ、また標幟(旗で行軍の指示を出すなどの軍事行動に関する合図)の制度について(諸葛亮軍と魏軍の)優劣を比較して考究させたところ、陳勰はそれらについて熟知・熟練するようになったので、そこで陳勰は殿中典兵中郎将に任じられ、やがて殿中将軍に昇進した。それからしばらくすると、武帝が出入りするたびに、陳勰は白獣幡(白虎幡)を持って武帝の乗輿の左右に控えるようになり、そのため鹵簿は整然と厳粛に列をなすようになった。太康年間の末、武帝がかつて狩りに出て雉を射た際に、陳勰はそのときすでに都水使者となっていて、特に役目もなくただ従っていた。武帝は、日没が近づいてきたので帰途に就いたが、(帰り道の途中で)漏刻(水時計)の水が尽きてしまい、(改めて漏刻を構築するため)漏刻の函を組み合わせようとして乗輿を止めて待ったが、かなりの時間が経っても函を組み合わせることができず、そこで陳勰に詔を下して函を組み合わさせた。陳勰が白獣幡(白虎幡)を掲げて係の者たちに指図すると、あっという間に函が完成した。その場にいた者はみな、陳勰が(漏刻の仕組みや巧みに人を動かして作業を行わせる方法について)通暁していたことに対して感謝し、陳勰は非常に武帝の信任を得たのであった。

原文

太子太傅・少傅、皆古官也。泰始三年、武帝始建1.(官)〔宮〕、各置一人、尚未置詹事、1.(官)〔宮〕事無大小、皆由二傅、並有功曹・主簿・五官。太傅中二千石、少傅二千石。其訓導者、太傅在前、少傅在後。皇太子先拜、諸傅然後答之。武帝後以儲副體尊、遂命諸公居之、以本位重、故或行或領。時侍中任愷、武帝所親敬、復使領之、蓋一時之制也。咸寧元年、以給事黃門侍郎楊珧爲詹事、掌宮事、二傅不復領官屬。及楊珧爲衞將軍、領少傅、省詹事、遂崇廣傅訓、命太尉賈充領太保、司空齊王攸領太傅、所置吏屬復如舊。二傅進賢兩梁冠、黑介幘、五時朝服、佩水蒼玉、食奉日三斛。太康二年、始給春賜絹五十匹、秋絹百匹、緜百斤。其後太尉汝南王亮・車騎將軍楊駿・司空衞瓘・石鑒皆領傅保、猶不置詹事、以終武帝之世。惠帝元康元年、復置詹事、二傅給菜田六頃、田騶六人、立夏後不及田者、食奉一年。置丞一人、秩千石、主簿、五官掾、功曹史、主記・門下史、錄事、戶曹・法曹・倉曹・賊曹・功曹書佐、門下亭長、門下書佐・省事各一人、給赤耳安車一乘。及愍懷建1.(官)〔宮〕、乃置六傅、三太・三少、以景帝諱師、故改太師爲太保、通省尚書事、詹事文書關由六傅。然自元康之後、諸傅或二或三、或四或六。及永康中復不置詹事也。自太安已來置詹事、終孝懷之世。渡江之後、有太傅・少傅、不立師・保。
中庶子、四人。職如侍中。
中舍人、四人。咸寧四年置、以舍人才學美者爲之、與中庶子共掌文翰、職如黃門侍郎、在中庶子下、洗馬上。
食官令、一人。職如太官令。
庶子、四人。職比散騎常侍、中書監・令。
舍人、十六人。職比散騎・中書等侍郎。
洗馬、八人。職如謁者・祕書、掌圖籍。釋奠・講經則掌其事、出則直者前驅、導威儀。
率更令、主1.(官)〔宮〕殿門戶及賞罰事、職如光祿勳・衞尉。
家令、主刑獄・穀貨・飲食、職比司農・少府。漢東京主食官令、食官令及晉自爲官、不復屬家令。
僕、主車馬・親族、職如太僕・宗正。
左・右衞率。案武帝建東宮、置衞率、初曰中衞率。泰始五年、分爲左右、各領一軍。惠帝時、愍懷太子在東宮、又加前後二率。及江左、省前後二率、孝武太元中又置。

1.中華書局本の校勘記に従い、いずれも「官」を「宮」に改める。

訓読

太子太傅・少傅は、皆な古官なり。泰始三年、武帝の始めて宮を建つるや、各々一人を置くも、尚お未だ詹事を置かず、宮事は大小と無く、皆な二傅に由り、並びに功曹・主簿・五官有り。太傅は中二千石、少傅は二千石。其の訓導すれば、太傅は前に在り、少傅は後に在り。皇太子、先ず拜し、諸傅は然る後に之に答う。武帝は後に儲副の尊を體するを以て、遂に諸公に命じて之に居らしむるに、本位の重きを以て、故に或いは行し或いは領せしむ〔一〕。時に侍中の任愷(じんがい)は、武帝の親敬する所にして、復た之を領せしむるは、蓋し一時の制なり。咸寧元年、給事黃門侍郎の楊珧(ようよう)を以て詹事と爲し、宮事を掌らしめ、二傅は復た官屬を領せず。楊珧の衞將軍と爲り、少傅を領するに及び、詹事を省き、遂に傅訓を崇廣し、命じて太尉の賈充もて太保を領せしめ、司空の齊王攸(ゆう)もて太傅を領せしめ、置く所の吏屬は復た舊の如し。二傅は進賢兩梁冠、黑介幘、五時の朝服にして、水蒼玉を佩び、奉を食むこと日ごとに三斛。太康二年、始めて給するに春には絹五十匹を賜い、秋には絹百匹、緜百斤もてす。其の後、太尉の汝南王亮、車騎將軍の楊駿、司空の衞瓘(えいかん)、石鑒は皆な傅保を領し、猶お詹事を置かず、以て武帝の世を終う。惠帝の元康元年、復た詹事を置き、二傅には菜田六頃、田騶六人を給し、立夏の後にして田づくるに及ばずんば、奉を食むこと一年。丞一人、秩は千石、主簿、五官掾、功曹史、主記・門下史、錄事、戶曹・法曹・倉曹・賊曹・功曹書佐、門下亭長、門下書佐、省事各々一人を置き、赤耳の安車一乘を給す。愍懷の宮を建つるに及び、乃ち六傅を置き、三太・三少あるも、景帝の諱の師なるを以て、故に太師を改めて太保と爲し〔二〕、尚書の事を通省せしめ、詹事の文書は六傅に關由せしむ。然して元康よりの後、諸傅は或いは二あり或いは三あり、或いは四あり或いは六あり。永康中に及び、復た詹事を置かざるなり。太安より已來、詹事を置き、孝懷の世を終う。渡江の後、太傅・少傅有るも、師・保を立てず。
太子中庶子は、四人。職は侍中の如し。
中舍人は、四人。咸寧四年に置き、舍人の才學美なる者を以て之と爲し、中庶子と共に文翰を掌り、職は黃門侍郎の如く、中庶子の下、洗馬の上に在り。
食官令は、一人。職は太官令の如し。
庶子は、四人。職は散騎常侍、中書監・令に比す。
舍人は、十六人。職は散騎・中書等の侍郎に比す。
洗馬は、八人。職は謁者・祕書の如く、圖籍を掌る。釋奠・講經には則ち其の事を掌り、出ずれば則ち直者は前驅し、威儀を導く。
率更令は、宮殿の門戶及び賞罰の事を主り、職は光祿勳・衞尉の如し。
家令は、刑獄・穀貨・飲食を主り、職は司農・少府に比す。漢の東京にては、食官令を主り、食官令は晉に及ぶまで自ら官と爲すも、復た家令に屬さず。
僕は、車馬・親族を主り、職は太僕・宗正の如し。
左・右衞率。案ずるに、武帝の東宮を建つるや、衞率を置き、初めて中衞率と曰う。泰始五年、分かちて左右と爲し、各々一軍を領す。惠帝の時、愍懷太子の東宮に在るや、又た前後二率を加う。江左に及び、前後二率を省き、孝武の太元中、又た置く。

〔一〕「領」は兼任を示す。「行」は「職務代行」のような意味で、その官職そのものに就任したわけではないが、その職務を一時的に担うという場合の肩書きである。
〔二〕中華書局本の校勘記も指摘する通り、これでは太子太保が二人になってしまうのでおかしい。また、『晋書斠注』や中華書局本の校勘記も指摘する通り、『唐六典』などには、太子太帥を改めて「太子太帥」とした、すなわち「師」ではなく「帥」の字を用いるようになったことが記されている。そちらの方が妥当であろう。なお、『晋書斠注』も指摘する通り、これ以前から太子太師や太子太保などはすでに置かれていた。よって、『晋書斠注』では、このときに行われたのは六傅の新設ではなく、司馬師の諱を避けて「帥」を「帥」に変更したことのみであるとする。あるいは、太子太師(太子太帥)や太子太保はそれ以前にも置かれていたが、太子少師(太子少帥)・太子少保の存在はそれ以前には見られないので、太子少帥・太子少保を置くことによって六傅が揃ったことを指しているのかもしれない。

現代語訳

太子太傅・太子少傅は、いずれも古に創設された官である。泰始三年(二六七)、武帝が初めて東宮(皇太子)を立てると、それぞれ一人ずつ置いたが、そのときにはまだ太子詹事は置かず、東宮に関する事務は大小を問わずみな太子太傅・太子少傅が担当することとし、いずれにも功曹・主簿・五官掾などの属吏が置かれた。太子太傅は中二千石で、太子少傅は二千石とされた。太子の訓導を行う際には、太子太傅が前に、太子少傅が後ろに位置した。そして皇太子がまず拝礼を行い、その後に太子太傅・太子少傅が答拝の礼を行った。後に武帝は、太子は尊位を体現する存在である(ためその教育は非常に重要である)ということから、諸公の位にある者に命じて太子太傅・太子少傅の職に据えることにしたが、(諸公としての)本官の位の方が重いため(ただ単に太子太傅・太子少傅に転任するのは左遷になってしまうので)、あるいは「行太子太傅」「行太子少傅」としてその職務を代行させ、あるいは「領太子太傅」「領太子少傅」としてその官職を兼任させた。時に侍中の任愷(じんがい)は、武帝に親任・敬愛されており、(諸公の位ではないのにもかかわらず)この者にも太子少傅を兼任させたのは、思うにこのとき限りの制度であった。咸寧元年(二七五)、給事黄門侍郎の楊珧(ようよう)を太子詹事に任じ、東宮に関する事務を管轄させ、もう太子太傅・太子少傅の下には(太子中庶子などの)属官を置くのをやめた。楊珧が衛将軍になり、太子少傅を兼任することになると、太子詹事を廃止し、さらに傅による訓導を広く高大なものにするべく、命を下して太尉の賈充に太子太保を兼任させ、司空の斉王・司馬攸(しばゆう)に太子太傅を兼任させ、その属官についてはまたかつての通りに置くことにした。太子太傅・太子少傅の二傅は、二梁の進賢冠、黒色の介幘をかぶり、五時の朝服を着て、水蒼玉を佩びることとされ、一日あたり三斛の俸禄を授かった。太康二年(二八一)、初めて、毎年春には絹五十匹を賜い、秋には絹百匹と真綿百斤を給付することにした。その後、太尉の汝南王・司馬亮、車騎将軍の楊駿、司空の衛瓘(えいかん)、同じく司空の石鑑らが太子太傅・太子少傅・太子太保などを兼任し、太子詹事は引き続き置かれず、そのまま武帝の世が終わった。恵帝の元康元年(二九一)、また太子詹事を置き、太子太傅・太子少傅の二傅には菜田六頃、田騶六人を給付することにし、もしその拝命が立夏の後に行われ、その年の農作に間に合わない場合には、代わりに一年分の俸禄を追加で授けた。また、(直属の属吏として)丞が一人、秩は千石とし、その他に主簿、五官掾、功曹史、主記史、門下史、録事、戸曹書佐、法曹書佐、倉曹書佐、賊曹書佐、功曹書佐、門下亭長、門下書佐、省事がそれぞれ一人ずつ置かれ、また赤い車耳をつけた安車(座って乗る車)が給付された。愍懐太子が東宮(皇太子)に立てられると、そこで「六傅」を置き、太子太師・太子太傅・太子太保の三太、太子少師・太子少傅・太子少保の三少がそれであるが、景帝(司馬師)の諱が師であったので、故に(それを避けて)太師を改めて太保とし、尚書台に送られてくる上奏文をすべて皆で「省」させるようにし、太子詹事の文書は必ずこの六傅を経由させることとした。そうして元康年間以降、これらの諸傅は、あるいは二人、あるいは三人、あるいは四人、あるいは六人が同時に並び置かれた。そして(恵帝の)永康年間になると、また太子詹事を置かないことにした。(恵帝の)太安年間以降になると、また太子詹事を置くことにし、孝懐帝の世が終わるまでそれが続いた。渡江の後(すなわち東晋時代)、太子太傅・太子少傅はそのまま置いたが、太子太師(太子太帥)・太子少師(太子少帥)・太子太保・太子少保は置かなかった。
太子中庶子は、定員は四人であった。その職は皇帝にとっての侍中と同様である。
太子中舍人は、定員は四人であった。咸寧四年(二七八)に置かれ、太子舍人の中から才能と学識の素晴らしい者を選んで太子中舍人に任じ、太子中庶子と一緒に公文書について管轄させ、その職は皇帝にとっての黄門侍郎と同様であり、位は太子中庶子の下、太子洗馬の上とされた。
太子食官令は、定員は一人であった。その職は皇帝にとっての太官令と同様である。
太子庶子は、定員は四人であった。その職は皇帝にとっての散騎常侍・中書監・中書令のようなものである。
太子舍人は、定員は十六人であった。その職は皇帝にとっての散騎侍郎・中書侍郎などのようなものである。
太子洗馬は、定員は八人であった。その職は皇帝にとっての謁者・秘書と同様で、図書について管轄した。釈奠の儀礼や経典の講釈が行われる場合には、それに関する事務を管轄し、太子が外出する際には、当直の者はその前駆となり、儀仗隊を先導した。
太子率更令は、官殿の門戸や賞罰に関する事を担当し、その職は皇帝にとっての光禄勲・衛尉と同様である。
太子家令は、刑獄や穀物・財貨・飲食に関することを担当し、その職は皇帝にとっての大司農・少府のようなものである。漢の東京(後漢)では、太子家令は太子食官令(およびその官署)を管轄しており、食官令は引き続き晋に及ぶまで独自の官として置かれていたが、もう太子家令の属下に置かれることはなくなった。
太子僕は、車馬・親族について担当し、その職は皇帝にとっての太僕・宗正と同様である。
太子左衛率・太子右衛率について。案ずるに、(西晋の)武帝が東宮(皇太子)を立てたとき、衛率を置き、初めてそれを「中衛率」と呼んだ。泰始五年(二六九)、中衛率を分割して左衛率・右衛率とし、それぞれ一軍を統率させた。恵帝の時、愍懐太子が皇太子であった時期に、さらに前衛率・後衛率の二率を追加した。江左(東晋)になると、前衛率・後衛率の二率を廃止し、孝武帝の太元年間になると、また置いた。

原文

王置師・友・文學各一人、景帝諱、故改師爲傅。友者、因文王・仲尼四友之名號。改太守爲內史、省相及僕。有郎中令・中尉・大農爲三卿。大國置左右常侍各一人、省郎中、置侍郎二人、典書・典祠・典衞・學官令、典書丞各一人、治書四人、中尉、司馬、世子庶子、陵・廟・牧長各一人、謁者四人、中大夫六人、舍人十人、典府各一人。
咸寧三年、衞將軍楊珧與中書監荀勖以齊王攸有時望、懼惠帝有後難、因追故司空裴秀立五等封建之旨、從容共陳時宜於武帝、以爲「古者建侯、所以藩衞王室。今吳寇未殄、方岳任大、而諸王爲帥、都督封國、既各不臣其統內、於事重非宜。又異姓諸將居邊、宜參以親戚。而諸王公皆在京都、非扞城之義、萬世之固。」帝初未之察、於是下詔議其制。有司奏從諸王公、更制戶邑、皆中尉領兵。其平原・汝南・琅邪・扶風・齊爲大國、梁・趙・樂安・燕・安平・義陽爲次國、其餘爲小國、皆制所近縣益滿萬戶。又爲郡公制度如小國王、亦中尉領兵。郡侯如不滿五千戶王、置一軍一千一百人、亦中尉領之。于時、唯特增魯公國戶邑、追進封故司空博陵公王沈爲郡公、鉅平侯羊祜爲南城郡侯。又南宮王承・隨王萬各於泰始中封爲縣王、邑千戶、至是改正縣王增邑爲三千戶、制度如郡侯、亦置一軍。自此非皇子不得爲王、而諸王之支庶、皆皇家之近屬至親、亦各以土推恩受封。其大國・次國始封王之支子爲公、承封王之支子爲侯、繼承封王之支子爲伯。小國五千戶已上、始封王之支子爲子、不滿五千戶始封王之支子及始封公・侯之支子皆爲男、非此皆不得封。其公之制度如五千戶國、侯之制度如不滿五千戶國、亦置一軍千人、中尉領之。伯子男以下各有差而不置軍。大國始封之孫罷下軍、曾孫又罷上軍、次國始封子孫亦罷下軍、其餘皆以一軍爲常。大國中軍二千人、上下軍各千五百人、次國上軍二千人、下軍千人。其未之國者、大國置守土百人、次國八十人、小國六十人、郡侯縣公亦如小國制度。既行、所增徙各如本奏遣就國、而諸公皆戀京師、涕泣而去。及吳平後、齊王攸遂之國。
中朝制、典書令在常侍下、侍郎上。及渡江、則侍郎次常侍、而典書令居三軍下。公國則無中尉・常侍・三軍、侯國又無大農・侍郎、伯・子・男唯典書以下、又無學官令、1.(史)〔吏〕職皆以次損焉。公・侯以下置官屬、隨國大小無定制、其餘官司各有差。名山・大澤不以封、鹽鐵金銀銅錫、始平之竹園、別都宮室園囿、皆不爲屬國。其仕在天朝者、與之國同、皆自選其文武官。諸入作卿士而其世子年已壯者、皆遣莅國。其王公已下、茅社・符璽・車旗・命服、一如泰始初故事。

州置刺史、別駕・治中從事、諸曹從事等員。所領中郡以上及江陽・朱提郡、郡各置部從事一人、小郡亦置一人。又有主簿・門亭長・錄事・記室書佐・諸曹佐・守從事・武猛從事等。凡吏四十一人、卒二十人。諸州邊遠、或有山險、濱近寇賊羌夷者、又置弓馬從事五十餘人。徐州又置淮海、涼州置河津、諸州置都水從事各一人。涼・益州置吏八十五人、卒二十人。荊州又置監佃督一人。
郡皆置太守、河南郡京師所在、則曰尹、諸王國以內史掌太守之任。又置主簿、主記室、門下賊曹・議生、門下史、記室史、錄事史・書佐、循行、幹小史、五官掾、功曹史、功曹書佐、循行小史、五官掾等員。郡國戶不滿五千者、置職吏五十人、散吏十三人、五千戶以上、則職吏六十三人、散吏二十一人、萬戶以上、職吏六十九人、散吏三十九人。郡國皆置文學掾一人。
縣大者置令、小者置長。有主簿、錄事史、主記室史、門下書佐・幹・游徼・議生・循行・功曹史・小史、廷掾、功曹史・小史・書佐・幹、戶曹掾・史・幹、法曹・門幹・金・倉・賊曹掾・史、兵曹史、吏曹史、獄小史、獄門亭長、都亭長、賊捕掾等員。戶不滿三百以下、職吏十八人、散吏四人、三百以上、職吏二十八人、散吏六人、五百以上、職吏四十人、散吏八人、千以上、職吏五十三人、散吏十二人、千五百以上、職吏六十八人、散吏一十八人、三千以上、職吏八十八人、散吏二十六人。
郡國及縣、農月皆隨所領戶多少爲差、散吏爲勸農。又縣五百以上皆置鄉、三千以上置二鄉、五千以上置三鄉、萬以上置四鄉、鄉置嗇夫一人。鄉戶不滿千以下、置治書史一人;千以上置史・佐各一人、正一人、五千五百以上、置史一人、佐二人。縣率百戶置里吏一人、其土廣人稀、聽隨宜置里吏、限不得減五十戶。戶千以上、置校官掾一人。縣皆置方略吏四人。洛陽縣置六部尉。江左以後、建康亦置六部尉、餘大縣置二人、次縣・小縣各一人。鄴・長安置吏如三千戶以上之制。

四中郎將、並後漢置、歷魏及晉、並有其職、江左彌重。
護羌・夷・蠻等校尉。案武帝置南蠻校尉於襄陽、西戎校尉於長安、南夷校尉於寧州。元康中、護羌校尉爲涼州刺史、西戎校尉爲雍州刺史、南蠻校尉爲荊州刺史。及江左初、省南蠻校尉、尋又置於江陵、改南夷校尉曰鎮蠻校尉。及安帝時、於襄陽置寧蠻校尉。
護匈奴・羌・戎・蠻・夷・越中郎將。案武帝置四中郎將、或領刺史、或持節爲之。武帝又置平越中郎將、居廣州、主護南越。

1.中華書局本では「又無學官、令史,職皆皆以次損焉。」と標点しているが、この部分は上文に挙げられた王国の諸官のうち、伯国・子国・男国の場合には置かれない官職について紹介しているにもかかわらず、「令史」もしくは「學官令史」は、上文では挙げられておらず、ここに初出であるのは文脈上おかしい。また、その他の史料でも、王国以下の各国に「令史」もしくは「学官令史」がいた形跡も見られない。一方で、『宋書』巻四十・百官志下における晋の制度を述べた該当箇所では「又無學官令矣。吏職皆以次損省焉。」とある。よって、『晋書』の該当箇所における「史」は「吏」の誤りであると見て、「又無學官令、吏職皆皆以次損焉。」と標点することにする。

訓読

王は師・友・文學各々一人を置くも、景帝の諱なれば、故に師を改めて傅と爲す。友は、文王・仲尼の四友の名號に因る。太守を改めて內史と爲し、相及び僕を省く。郎中令・中尉・大農有りて三卿と爲す。大國は左右常侍各々一人を置き、郎中を省き、侍郎二人、典書・典祠・典衞・學官令、典書丞各々一人、治書四人、中尉、司馬、世子庶子、陵・廟・牧長各々一人、謁者四人、中大夫六人、舍人十人、典府各々〔一〕一人を置く。
咸寧三年、衞將軍の楊珧(ようよう)、中書監の荀勖(じゅんきょく)と與に齊王攸(ゆう)の時望有るを以て、惠帝に後難有らんことを懼れ、因りて故の司空の裴秀の五等封建の旨を立つるを追い、從容として共に時宜を武帝に陳べ、以爲えらく「古者に侯を建てしは、王室を藩衞する所以なり。今、吳寇は未だ殄きず、方岳の任は大にして、而して諸王もて帥と爲し、都督もて國に封ぜば、既に各々其の統內に不臣たり、事に於いて重だ非宜なり。又た異姓の諸將は邊に居れば、宜しく參うるに親戚を以てすべし。而るに諸王公の皆な京都に在るは、扞城の義、萬世の固に非ず」と。帝、初め未だ之を察せざるも、是に於いて詔を下して其の制を議せしむ。有司奏し、諸王公より、更めて戶邑を制し、皆な中尉、兵を領す。其の平原・汝南・琅邪・扶風・齊は大國と爲し、梁・趙・樂安・燕・安平・義陽は次國と爲し、其の餘は小國と爲し、皆な近づく所の縣を制して益して萬戶に滿つ。又た郡公の制度を爲ること小國王の如くし、亦た中尉、兵を領す。郡侯は五千戶に滿たざるの王の如くし、一軍一千一百人を置き、亦た中尉、之を領す。時に、唯だ特に魯公國の戶邑を增し、追いて封を進めて故の司空の博陵公の王沈もて郡公と爲し、鉅平侯の羊祜もて南城郡侯と爲す。又た南宮王承・隨王萬、各々泰始中に於いて封ぜられて縣王と爲り、邑は千戶なるも、是に至りて縣王を改正して邑を增して三千戶と爲し、制度は郡侯の如くし、亦た一軍を置く。此より皇子に非ずんば王と爲るを得ず、而して諸王の支庶、皆な皇家の近屬・至親なれば、亦た各々土を以て恩を推され封を受く。其の大國・次國の始封王の支子は公と爲し、承封王の支子は侯と爲し、繼承封王の支子は伯と爲す。小國の五千戶已上なれば、始封王の支子は子と爲し、五千戶に滿たざる始封王の支子及び始封公・侯の支子は皆な男と爲し、此に非ずんば皆な封を得ず。其の公の制度は五千戶の國の如く、侯の制度は五千戶に滿たざる國の如く、亦た一軍千人を置き、中尉、之を領す。伯・子・男以下は各々差有りて軍を置かず。大國の始封の孫は下軍を罷め、曾孫は又た上軍を罷め、次國の始封の子孫も亦た下軍を罷め、其の餘は皆な一軍を以て常と爲す。大國の中軍は二千人、上下軍は各々千五百人にして、次國の上軍は二千人、下軍は千人〔二〕。其の未だ國に之かざる者は、大國は守土百人を置き、次國は八十人、小國は六十人、郡侯・縣公も亦た小國の制度の如し。既に行わるるや、增徙する所、各々本奏の如く遣わして國に就かしめ、而して諸公は皆な京師を戀い、涕泣して去る。吳の平ぎし後に及び、齊王攸、遂に國に之く。
中朝の制、典書令は常侍の下、侍郎の上に在り。渡江するに及び、則ち侍郎は常侍に次ぎ、而して典書令は三軍の下に居る。公國は則ち中尉・常侍・三軍無く、侯國は又た大農・侍郎無く、伯・子・男は唯だ典書以下あるのみにして、又た學官令無く、吏職は皆な次を以て焉を損ず。公・侯以下は官屬を置くに、國の大小に隨いて定制無く、其の餘の官司は各々差有り〔三〕。名山・大澤は以て封ぜず、鹽・鐵・金・銀・銅・錫、始平の竹園、別都・宮室・園囿、皆な國に屬すると爲さず。其の仕えて天朝に在る者は、國に之くものと同じく、皆な自ら其の文武の官を選ぶ。諸そ入りて卿士と作りて其の世子の年已に壯なれば、皆な遣わして國に莅ましむ。其の王公已下、茅社・符璽・車旗・命服、一に泰始の初めの故事の如くす。

州は刺史を置き、別駕・治中從事、諸曹從事等の員あり。領する所の中郡以上及び江陽・朱提郡は、郡ごとに各々部從事一人を置き、小郡も亦た一人を置く。又た主簿・門亭長・錄事・記室書佐・諸曹佐・守從事・武猛從事等有り。凡そ吏は四十一人、卒は二十人。諸州の邊遠にして、或いは山險有り、寇賊・羌夷に濱近する者は、又た弓馬從事五十餘人を置く。徐州は又た淮海を置き、涼州は河津を置き、諸州に都水從事各々一人を置く。涼・益州は吏八十五人、卒二十人を置く。荊州は又た監佃督一人を置く。
郡は皆な太守を置くも、河南郡は京師の在る所なれば、則ち尹と曰い、諸王國は內史を以て太守の任を掌らしむ。又た主簿、主記室、門下賊曹・議生、門下史、記室史、錄事史・書佐、循行、幹小史、五官掾、功曹史、功曹書佐、循行小史、五官掾〔四〕等の員を置く。郡國の戶の五千に滿たざる者は、職吏五十人、散吏十三人を置き、五千戶以上は、則ち職吏は六十三人、散吏は二十一人、萬戶以上は、職吏は六十九人、散吏は三十九人。郡國は皆な文學掾一人を置く。
縣の大なる者は令を置き、小なる者は長を置く。主簿、錄事史、主記室史、門下書佐・幹・游徼・議生・循行・功曹史・小史〔五〕、廷掾、功曹史・小史・書佐・幹、戶曹掾・史・幹、法曹・門幹・金・倉・賊曹掾・史、兵曹史、吏曹史、獄小史、獄門亭長、都亭長、賊捕掾等の員有り。戶の三百に滿たざる以下は、職吏は十八人、散吏は四人、三百以上は、職吏は二十八人、散吏は六人、五百以上は、職吏は四十人、散吏は八人、千以上は、職吏は五十三人、散吏は十二人、千五百以上は、職吏は六十八人、散吏は一十八人、三千以上は、職吏は八十八人、散吏は二十六人。
郡國及び縣は、農月に皆な領する所の戶の多少に隨いて差を爲し、散吏もて勸農と爲す。又た縣の五百以上なるは皆な鄉を置き、三千以上は二鄉を置き、五千以上は三鄉を置き、萬以上は四鄉を置き、鄉には嗇夫一人を置く。鄉の戶の千に滿たざる以下は、治書史一人を置き、千以上は史・佐各々一人、正一人を置き、五千五百以上は、史一人、佐二人を置く。縣は率ね百戶ごとに里吏一人を置き、其の土は廣く人は稀ならば、宜に隨いて里吏を置くを聽すも、限るに五十戶より減ずるを得ず。戶千以上ならば、校官掾一人を置く。縣は皆な方略吏四人を置く。洛陽縣は六部尉を置く。江左以後は、建康も亦た六部尉を置き、餘の大縣は二人を置き、次縣・小縣は各々一人。鄴・長安は吏を置くこと三千戶以上の制の如し。

四中郎將は、並びに後漢置き、魏を歷て晉に及ぶまで、並びに其の職有り、江左は彌々重んず。
護羌・夷・蠻等の校尉。案ずるに、武帝は南蠻校尉を襄陽に、西戎校尉を長安に、南夷校尉を寧州に置く。元康中、護羌校尉は涼州刺史と爲り、西戎校尉は雍州刺史と爲り、南蠻校尉は荊州刺史と爲る。江左の初めに及び、南蠻校尉を省き、尋いで又た江陵に置き、南夷校尉を改めて鎮蠻校尉と曰う。安帝の時に及び、襄陽に於いて寧蠻校尉を置く。
護匈奴・羌・戎・蠻・夷・越中郎將。案ずるに、武帝は四中郎將を置き、或いは刺史を領せしめ、或いは節を持たしめて之と爲す。武帝、又た平越中郎將を置き、廣州に居らしめ、南越を護するを主る。

〔一〕この「各」の字の意味するところは不明である。なお『宋書』巻四十・百官志下では晋の王国の制度について「典書・典祠・典衞・學官令、典書令・丞各一人、治書四人、中尉、司馬、世子庶子、陵・廟・牧長各一人、謁者四人、中大夫六人、舍人十人、典醫丞、典府丞各一人。」となっている。よって、『晋書』でも該当箇所はもともと「典醫・典府丞各一人」あるいは「典醫丞・典府丞各一人」とあったのが、記述が抜け落ちてしまったのかもしれない。
〔二〕『晋書』職官志では、郡公国・郡侯国・県公国・県侯国の軍に関しては中尉がそれを率いることとされたと記されているが、王国の中軍・上軍・下軍については、特に中尉がそれを率いたとも書かれておらず、いずれの官職にある者がそれを率いていたのかが明示されていない。ただ、『宋書』巻四十・百官志下では、晋の制度として「大國又置上軍・中軍・下軍三將軍、次國上軍將軍・下軍將軍各一人、小國上軍而已。」とあり、大国の場合には上軍将軍・中軍将軍・下軍将軍が置かれてそれぞれ上軍・中軍・下軍を率い、次国の場合には上軍将軍・下軍将軍がそれぞれ上軍・下軍を率い、小国では上軍将軍が上軍を率いるのみであったという。
〔三〕たとえば、『晋書』巻三十三・王祥伝によれば、王祥が睢陵県公となった際には「加えて七官の職を置く」こととされ、巻三十四・羊祜伝によれば、羊祜が鉅平県侯となった際には「郎中令を置き、九官の職を備う」こととされた。いずれも具体的に何が置かれたかは不明であるが、このようにその時々に応じて定められたということであろう。
〔四〕五官掾が重複しているが、これがどういうことなのかは不明。
〔五〕「功曹史」が重複しているが、これがどういうことなのかは不明。一つ目の「功曹史」が衍字であるのか、はたまた「門下功曹史」と通常の「功曹史」は別の存在であるということなのか。

現代語訳

王には師・友・文学をそれぞれ一人ずつ置いたが、景帝(司馬師)の諱だということで、師を改めて傅とした。友は、(周の)文王・仲尼(孔子)の四友の名号にちなむものである。王国には太守を置かず、代わりに改めて内史を置き、(それ以前まで置かれていた)国相および僕を廃止した。他に郎中令・中尉・大農が置かれて「三卿」と呼ばれた。大国には左常侍・右常侍がそれぞれ一人ずつ置かれ、(それまで郎中令の管轄下にあった)郎中は廃止され、侍郎が二人、典書令、典祠令、典衛令、学官令、典書丞がそれぞれ一人ずつ、治書が四人、中尉、司馬、世子庶子、陵長、廟長、牧長がそれぞれ一人ずつ、謁者が四人、中大夫が六人、舍人が十人、典府がそれぞれ一人ずつ(典医丞・典府丞がそれぞれ一人ずつ?)置かれた。
咸寧三年(二七七)、衛将軍の楊珧(ようよう)と中書監の荀勖(じゅんきょく)は、(武帝の弟の)斉王・司馬攸(しばゆう)が世の人々の期待の的になっていたため、恵帝に後々の禍難をもたらすのではないかと恐れ、そこで(当時すでに亡くなっていた)もと司空の裴秀がかつて五等爵を設けて封建を行うことの本旨を論じていたのを引き合いに出し、落ち着き払って何気なしに二人一緒にその時宜について武帝に述べ、次のように言った。「古の時代に諸侯を封建したのは、それらを藩屏として王室を守るためでありました。(よって我が大晋においても王・公・侯・伯・子・男の諸侯を封じて各地を治めさせるべきでありますが、)今のところ呉賊はまだ滅びておらず、そのため都督の任は重大でありますので、もし諸侯を都督に任じて統帥とし、あるいは都督の地位にある者を国に封じてしまえば(すなわち政権と軍権の両者を握らせてしまえば)、そのままそれぞれの統括下の地域に君臨して(呉や蜀のように)不臣の存在となってしまいかねず、そのような事態は非常によろしくないものであります。一方で、異姓の諸将が辺境に据え置かれていますので、陛下の親戚をその中に交えて封建するのがよろしいでしょう。それなのに、皇室の諸王公がみな京都にいるというのは、領土を守り民を戦禍から遠ざけるという義に反するものであり、万世にわたって国を堅固なものにするための方策でもございません」と。武帝は初めそのことについて考えをめぐらせていなかったが、その意見を聞いて詔を下してその制度について議論させた。その結果、担当官が上奏し、諸王公以下に関して、改めて封国の戸邑を制定し、(兵を置くことを許して)いずれも中尉に兵を統率させることにした。(その内容は以下の通りである。)郡王国のうち、平原国・汝南国・琅邪国・扶風国・斉国は大国とし、梁国・趙国・楽安国・燕国・安平国・義陽国は次国とし、その他は小国とし、いずれも近隣の県を併入して戸邑を増し、一万戸以上になるよう新たに制定した。また、(晋以前には無かった)郡公の制度を創設し、その制度は小国の王と同様とし、やはり(兵を置くことを許して)中尉に兵を統率させることにした。また郡侯を創設し、その制度は(県王などの)五千戸に満たない封邑の王と同様とし、一軍を置き、その兵は一千一百人とし、やはり中尉がそれを統率することとした。(咸寧三年の)当時、郡公・郡侯としては以下の三者のみ特別に封爵を増した。(賈充の)魯公国(郡公)の戸邑を増し、(すでに亡くなっていた)もと司空・博陵公(県公)であった王沈の封爵を追って進めて博陵郡公とし、鉅平侯(県侯)の羊祜の封爵を進めて南城郡侯とした。また、南宮王・司馬承、隨王・司馬萬(司馬邁)は、それぞれ泰始年間に封ぜられて県王となり、封邑は千戸であったが、このときになって県王の制度を改正して封邑を増して三千戸とし、その制度は郡侯と同様とし、やはり一軍を置いた。このとき以降、皇子でなければ(王の嫡子がその位を継承するのを除き)新たに王に封建されることはできないものとされ、また、諸王の支庶(嫡子・嫡孫以外の王子・王孫たち)はいずれも皇室の近親であるので、彼らもまた次のように、それぞれ封土を与えられて恩恵を施され、封爵を授かった。大国・次国の場合、始封王(初めてその国に封建された王=初代)の支子(嫡子以外の王子たち)は公に封じ、承封王(始封王から王位を継承した王=二代目)の支子は侯に封じ、継承封王(承封王から王位を継承した王=三代目)の支子は伯に封じることとした。小国のうち、五千戸以上の封邑を有する国であれば、始封王の支子は子(子爵)に封じ、五千戸に満たない郡王国・県王国における始封王の支子や、始封公・始封侯の支子は、いずれも男に封じることとし、それら以外の場合にはいずれも封建されることはできないものとした。県公国の制度は五千戸の封邑を有する王国と同様とし、県侯国の制度は封邑が五千戸に満たない王国と同様とし、いずれもまた一軍を置き、その兵は千人とし、中尉がそれを統率することとした。また、伯国・子国・男国以下の制度もそれぞれ等級に応じて定め、その三者の国にはいずれも軍を置かないこととした。大国の場合、始封王の孫の世代になったら(中軍・上軍・下軍の三軍のうち)下軍を廃止し、曽孫の世代になったらさらに上軍を廃止することにし、次国の場合、始封王の子や孫の世代になったらやはり(上軍・下軍の二軍のうち)下軍を廃止することにし、それ以外(王国の小国や公国・侯国)はいずれも、もともと一軍のみを置くのが常であった。大国の中軍は二千人、上軍・下軍はそれぞれ千五百人とし、次国の上軍は二千人、下軍は千人とした。(下文の如く官僚として中央や封国以外の地方に赴任しているために)まだ封国に赴いていない者については、大国の場合は守土百人を、次国の場合は守土八十人を、小国の場合は守土六十人を追加で置くことにし、(郡公はもともとその制度は小国と同じなので言うまでもないが)郡侯・県公もまたこの点については王国の小国と同様の制度にした。以上の制度が施行されると、封邑を増されたり、移封されたりした者たちは、それぞれ楊珧や荀勖の上奏の通り各地に派遣されて封国に駐在することとされ、そして諸公たちはみな京師を恋い慕い、泣を流しながら去った。呉が平定された後には、斉王・司馬攸も遂に封国に赴くこととなった。
中朝(西晋)の制度では、典書令は常侍の下、侍郎の上の位とされていた。渡江した後(すなわち東晋)では、侍郎は常侍に次ぐものとされ、そして典書令は三軍の将軍(中軍将軍・上軍将軍・下軍将軍)の下の位とされた。(東晋では)公国には中尉・常侍・軍(中軍・上軍・下軍のいずれも)が置かれず、侯国にはさらに大農・侍郎が置かれず、伯国・子国・男国にはただ典書令以下が置かれるのみで、さらに学官令は置かれず、その他の官職はいずれも等級に応じて削減した。(西晋では)公・侯以下の場合、属官を置くに当たっては、国の大小に従って随時その種類や定員が決められていたので、爵位ごとに決まった制度があったわけではなく、上述したもの以外の官府についてはその等級に応じて置かれた。名山・大沢のある地域には封建することはせず、また、塩・鉄・金・銀・銅・錫の産地、始平県の竹園、陪都・離宮・御苑などが封地の領域内にあったとしても、それらはいずれも(朝廷の所有物とし)その封国に属するものとはしなかった。封建された者のうち、朝廷に官僚として仕えている(ために封国に駐在していない)者は、封国に赴いてそこに駐在している者と同様、いずれも自ら封国の文官・武官を選べることとした。また、封建された者のうち、朝廷の官僚となっており、かつその世子(諸侯の跡継ぎ)がすでに壮年になっていれば、いずれもその世子を封国に派遣して封国を治めさせることとした。それら王・公以下の茅社(諸侯の社)、印璽、車や旗、命服(爵位ごとに異なる衣服)については、すべて泰始年間初期の故事と同様の制度にした。

州には刺史を置き、別駕従事、治中従事、(たとえば兵曹従事などの)諸曹従事などの属吏がいた。その管轄下の郡のうち、中郡以上もしくは江陽郡・朱提郡には、(監察のため)郡ごとにそれぞれ部従事(たとえば江陽郡の担当であれば「部江陽従事」)を一人ずつ置き、小郡にもまた一人ずつ置いた。さらに主簿・門亭長・録事・記室書佐・諸曹佐・守従事・武猛従事などの属吏がいた。州吏は全部で四十一人、卒は全部で二十人置かれた。諸州のうち、遠く辺境にあり、あるいは険阻な山が連なる地域で、賊や羌人・夷人などのいる地域に隣接している場合には、弓馬従事を五十人あまり置いた。徐州にはさらに淮海従事を置き、涼州には河津従事を置き、そして諸州に都水従事をそれぞれ一人ずつ置いた。涼州・益州の場合、州吏は八十五人、卒は二十人置かれた。荊州にはまた監佃督を一人置いた。
郡にはいずれも太守を置いたが、河南郡は京師がある場所なので、(河南太守ではなく)河南尹と言い、諸王国には内史を置いて太守の職任を代わりに担当させた。また、主簿、主記室、門下賊曹、門下議生、門下史、記室史、録事史、録事書佐、循行、幹小史、五官掾、功曹史、功曹書佐、循行小史、五官掾などの属吏を置いた。郡や国のうち、五千戸に満たない場合には、職吏を五十人、散吏を十三人置き、五千戸以上の場合には、職吏は六十三人、散吏は二十一人とし、一万戸以上の場合には、職吏は六十九人、散吏は三十九人とした。郡や国にはいずれも文学掾を一人ずつ置いた。
県は、規模が大きいところには県令を置き、規模が小さいところには県長を置いた。属吏として、主簿、録事史、主記室史、門下書佐、門下幹、門下游徼、門下議生、門下循行、門下功曹史、門下小史、廷掾、功曹史、功曹小史、功曹書佐、功曹幹、戸曹掾、戸曹史、戸曹幹、法曹掾、法曹史、門幹掾、門幹史、金曹掾、金曹史、倉曹掾、倉曹史、賊曹掾、賊曹史、兵曹史、吏曹史、獄小史、獄門亭長、都亭長、賊捕掾などがいた。三百戸に満たない県の場合は、職吏は十八人、散吏は四人とし、三百戸以上(五百戸未満)の場合は、職吏は二十八人、散吏は六人とし、五百戸以上(千戸未満)の場合は、職吏は四十人、散吏は八人とし、千戸以上(千五百戸未満)の場合は、職吏は五十三人、散吏は十二人とし、千五百戸以上(三千戸未満)の場合は、職吏は六十八人、散吏は一十八人とし、三千戸以上の場合は、職吏は八十八人、散吏は二十六人とした。
郡・国および県では、いずれも農月(立夏以降の農作の繁忙期)に、管轄下の戸数の多少に応じて定員を決め、その定員分の人数だけ散吏を勧農掾に任じた。また、五百戸以上の県にはいずれも郷を置き、三千戸以上の県には郷を二つ置き、五千戸以上の県には郷を三つ置き、一万戸以上の県には郷を四つ置き、郷には嗇夫を一人ずつ置いた。千戸に満たない郷には、治書史を一人置き、千戸以上の郷には治書史・治書佐を一人ずつ、そして郷正を一人置き、五千五百戸以上の郷には、治書史を一人、治書佐を二人置いた。県にはおおむね百戸ごとに里を一つ設け、それを管轄する里吏を一人ずつ置き、土地が広く人が少ない過疎地域には、便宜に応じて(百戸ごとでなくとも)里吏を置くことを許したが、五十戸ごとに里吏一人という基準を下回ることは許さなかった。千戸以上の県には、さらに校官掾を一人置いた。また県にはいずれも方略吏を四人置いた。他にも、洛陽県には六部尉(六部の県尉)を置いた。江左(東晋)以降には、(その都である)建康にもまた六部尉を置き、その他の大県には県尉を二人置き、次県・小県には県尉をそれぞれ一人ずつ置いた。鄴県と長安県に関しては、三千戸以上の県の制度と同様に、属吏を置いた。

四中郎将(東中郎将・西中郎将・南中郎将・北中郎将)は、いずれも後漢で置かれた官であり、魏を経て晋に及ぶまで、いずれもその官職が置かれ、江左(東晋)ではますます重んじられた。
護羌校尉・諸夷校尉・諸蛮校尉などの校尉について。案ずるに、(西晋の)武帝は南蛮校尉を襄陽に、西戎校尉を長安に、南夷校尉を寧州に置いた。(恵帝の)元康年間、護羌校尉は涼州刺史を兼任し、西戎校尉は雍州刺史を兼任し、南蛮校尉は荊州刺史を兼任することとした。江左(東晋)の初めに南蛮校尉を廃止したが、まもなく再び江陵に置くことにし、一方で南夷校尉を改めて鎮蛮校尉とした。安帝の時代になると、襄陽に寧蛮校尉を置いた。
護匈奴中郎将・諸羌中郎将・諸戎中郎将・諸蛮中郎将・諸夷中郎将・諸越中郎将について。案ずるに、(西晋の)武帝は四中郎将(東中郎将・西中郎将・南中郎将・北中郎将)を各地に置き、あるいは刺史を兼任させ、あるいは節を授けて、その(護匈奴中郎将・諸羌中郎将・諸戎中郎将・諸蛮中郎将・諸夷中郎将・諸越中郎将の)職務を担わせた。武帝は、さらに平越中郎将を置き、広州に駐屯させ、南越の監督を担当させた。