翻訳者:池内早紀子・伊藤裕水・大島啓輔・小國結菜・島山奈緒子・髙橋あやの(五十音順)
『晋書』五行志について
基本的には『漢書』と『宋書』からの再構成となっている。
理屈の部分については『漢書』五行志を用い,実例については『宋書』五行志を用いる。実質的には『宋書』をベースに、『宋書』ではあまり記されない五行についての理屈の部分を『漢書』によって接木したような構成となっている。
そのため東洋文庫『漢書五行志』訳注と、筑摩書房『漢書』訳注を参照しながら進めることができる。
また少なからず『捜神記』などの先行事例を引いている部分があり,それらも先行する訳を参照とすることができる。
今回の訳註も,今言及した東洋文庫『漢書五行志』や筑摩書房『漢書』,東洋文庫『捜神記』の訳註によるところが大きいことを附言しておく。
(主催者より)表現形式等に不統一がありますが、早期公開を優先し翻訳者から提出をいただいたテキストに基づいて成形しています。製本版の作成までに現代語訳の記号等を修正予定です。記号等の変更については、翻訳者に許可を頂いています。
夫帝王者,配德天地,叶契陰陽,發號施令,動關幽顯,休咎之徵,隨感而作,故書曰「惠迪吉,從逆凶,惟影響。」昔伏羲氏繼天而王,受河圖,則而畫之,八卦是也。禹治洪水,賜洛書,法而陳之,洪範是也。聖人行其道,寶其真,自天祐之,吉無不利。三五已降,各有司存。爰及殷之箕子,在父師之位,典斯大範。周既克殷,以箕子歸,武王虛己而問焉。箕子對以禹所得雒書,授之以垂訓。然則河圖、雒書相為經緯,八卦、九章更為表裏。殷道絕,文王演周易;周道弊,孔子述春秋。奉乾坤之陰陽,效洪範之休咎,天人之道粲然著矣。
夫れ帝王なる者は,德を天地に配し,陰陽を叶契し,號を發し令を施き〔一〕,動もすれば幽顯に關し,休咎の徵,隨ひて感じて作(おこ)る,〔二〕故に書に曰く「迪に惠(したが)へば吉,逆に從へば凶,影響の惟し。」〔三〕と。昔し伏羲氏天を繼ぎて王たり,河圖を受け,則りて之れを畫く,八卦是れなり。禹洪水を治め,洛書を賜り,法として之れを陳ぶ,洪範是れなり。聖人其の道を行ひ,其の真を寶とし,天自りして之れを祐け,吉にして利あらざる無し。〔四〕三五已でに降り,各おの有司存す。爰(こ)こに殷の箕子に及び,父師の位に在り,斯の大範を典どる。周既に殷に克ち,箕子の歸するを以て,武王己を虛にして焉れに問ふ。箕子對ふるに禹の得る所の雒書を以てし,之れを授けて以て訓を垂る。然らば則はち河圖、雒書相ひ經緯為り,八卦、九章更(こも)ごも表裏為り。殷道絕え,文王周易を演す。周道弊し,孔子春秋を述ぶ〔五〕。乾坤の陰陽を奉じて,洪範の休咎に效ひ,天人の道粲然として著らかなり。
〔一〕『尚書』冏命:「發號施令,罔有不臧,下民祇若,萬邦咸休。」
偽孔伝「言文武發號施令,無有不善,下民敬順其命,萬國皆美其化。」
〔二〕『魏書』靈徵志:「帝王者,配德天地,協契陰陽,發號施令,動關幽顯。是以克躬修政,畏天敬神,雖休勿休,而不敢怠也。化之所感,其徵必至,善惡之來,報應如響。斯蓋神祇眷顧,告示禍福,人主所以仰瞻俯察,戒德慎行,弭譴咎,致休禎,圓首之類,咸納於仁壽。然則治世之符,亂邦之孽,隨方而作,厥迹不同,眇自百王,不可得而勝數矣。今錄皇始之後災祥小大,總為靈徵志。」
〔三〕『尚書』大禹謨:「禹曰,惠迪吉,從逆凶,惟影響。」
〔四〕『易』大有:「上九,自天祐之,吉无不利。」
〔五〕『史記』太史公自序:「上大夫壺遂曰「昔孔子何為而作春秋哉。」太史公曰「余聞董生曰『周道衰廢,孔子為魯司寇,諸侯害之,大夫壅之。孔子知言之不用,道之不行也,是非二百四十二年之中,以為天下儀表,貶天子,退諸侯,討大夫,以達王事而已矣。』子曰『我欲載之空言,不如見之於行事之深切著明也。』……」」
【参照】
『漢書』五行志上:易曰「天垂象,見吉凶,聖人象之。河出圖,雒出書,聖人則之。」劉歆以為虙羲氏繼天而王,受河圖,則而畫之,八卦是也。禹治洪水,賜雒書,法而陳之,洪範是也。聖人行其道而寶其真。降及于殷,箕子在父師位而典之。周既克殷,以箕子歸,武王親虛己而問焉。故經曰「惟十有三祀,王訪于箕子,王乃言曰『烏嘑,箕子。惟天陰騭下民,相協厥居,我不知其彝倫逌敘。』箕子乃言曰『我聞在昔,鯀陻洪水,汨陳其五行,帝乃震怒,弗畀洪範九疇,彝倫逌斁。鯀則殛死,禹乃嗣興,天乃錫禹洪範九疇,彝倫逌敘。』」此武王問雒書於箕子,箕子對禹得雒書之意也。「初一曰五行,次二曰羞用五事,次三曰農用八政,次四曰旪用五紀,次五曰建用皇極,次六曰艾用三德,次七曰明用稽疑,次八曰念用庶徵,次九曰嚮用五福,畏用六極。」凡此六十五字,皆雒書本文,所謂天乃錫禹大法九章常事所次者也。以為河圖雒書相為經緯,八卦九章相為表裏。昔殷道弛,文王演周易,周道敝,孔子述春秋。則乾坤之陰陽,效洪範之咎徵,天人之道粲然著矣。
さて帝王というものは,その徳は天と地と同じく,陰陽を調え,命令を下して,つねに陰陽のはたらきに関わり,吉凶のしるしが,それに随って反応しておこる,だから『尚書』に「道に従えば吉であり,逆に従えば凶であることは,かたちに従って影があらわれ声に従って響くようなものだ」という。むかし,伏羲氏は天のあとを継いで王となり、河図を授けられ、手本として図象化した,八卦がそれである。禹は洪水を治め,洛書を賜わり、模範にしてのべた,洪範がそれである。聖人は河図・洛書の教えを実践し、その真理を宝とし,天から下されたものが助けてくれるので,吉であってまったくわるいことがない。(天地人の)三正(からなる八卦)と(洪範の)五行がすでに降され,それぞれの役人がそれを保存してきた。そうして殷の箕子まで及び,箕子は父師(諸父で太師)の位にあり,このおおいなる法則をつかさどった。周が殷をたおし,箕子を連れて帰り、武王は虚心に教えを請うた。箕子は禹が得た洛書によって答え,洛書を授けて教えを垂れた。そうであるならば,河図と洛書とはたがいにたていととよこいとの関係であり,八卦と九章とはたがいに表と裏の関係である。殷の政道が絶えると、周の文王は『周易』を敷衍し,周の政道が衰えると,孔子は『春秋』を祖述し,八卦の乾坤に示された陰陽の道理に従い,洪範にしるされた天の咎徴にならった。こうして,天と人間との関係は燦然と明らかとなったのである。
漢興,承秦滅學之後,文帝時,虙生創紀大傳,其言五行庶徵備矣。後景武之際,董仲舒治公羊春秋,始推陰陽,為儒者之宗。宣元之間,劉向治穀梁春秋,數其禍福,傳以洪範,與仲舒多所不同。至向子歆治左氏傳,其言春秋及五行,又甚乖異。班固據大傳,采仲舒・劉向・劉歆著五行志,而傳載眭孟・夏侯勝・京房・谷永・李尋之徒所陳行事,訖于王莽,博通祥變,以傅春秋。
漢興り,秦滅學の後を承け,文帝の時,虙生創めて大傳を紀し,其の五行を言うに庶徵備はれり。後ち景武の際,董仲舒公羊春秋を治め,始めて陰陽を推し,儒者の宗と為る。宣元の間,劉向穀梁春秋を治め,其の禍福を數し,傳するに洪範を以てし,仲舒と同じからざる所多し。向子歆左氏傳を治むるに至り,其の春秋及び五行を言うに,又た甚だしく乖異す。班固大傳に據り,仲舒・劉向・劉歆を采り五行志を著し,而かも眭孟・夏侯勝・京房・谷永・李尋の徒の陳ぬる所の行事を傳載して,王莽に訖はり,博く祥變に通じ,以て春秋に傅す。
【参照】
『漢書』五行志:「漢興,承秦滅學之後,景武之世,董仲舒治公羊春秋,始推陰陽,為儒者宗。宣元之後,劉向治穀梁春秋,數其旤福,傳以洪範,與仲舒錯。至向子歆治左氏傳,其春秋意亦已乖矣。言五行傳,又頗不同。是以㩜仲舒,別向歆,傳載眭孟夏侯勝京房谷永李尋之徒所陳行事,訖於王莽,舉十二世,以傅春秋,著於篇。」
漢が起こると,秦が学問を滅ぼしたあとを承けて, 文帝の時には伏生が『尚書大伝』をはじめてつくり,そこで五行を説くことによりさまざまな徴候がそなわった。のちの景帝・武帝の時には,董仲舒が『春秋公羊伝』を修め,はじめて陰陽の原理を推しひろめ,儒者の第一人者となった。宣帝・元帝のあいだには,劉向は 『春秋穀梁伝』を修め,『春秋』の禍福を明らかにし,これを洪範によって解釈し, 董仲舒の説と異なる部分が多かった。劉向の子の劉歆は,『春秋左氏伝』を修め,その『春秋』と洪範五行伝を説くことは,さらにはなはだしく乖離した。班固は『尚書大伝』にもとづき,董仲舒,劉向と劉歆の説を採り上げて五行志をあらわし,眭孟・夏侯勝・京房・谷永・李尋たちが述べていることがらも転載し,王莽に至るまで,ひろく吉祥と変異に精通し,それを『春秋』とあわせた。
綜而為言,凡有三術。其一曰,君治以道,臣輔克忠,萬物咸遂其性,則和氣應,休徵效,國以安。二曰,君違其道,小人在位,眾庶失常,則乖氣應,咎徵效,國以亡。三曰,人君大臣見災異,退而自省,責躬修德,共禦補過,則消禍而福至。此其大略也。輒舉斯例,錯綜時變,婉而成章,有足觀者。及司馬彪纂光武之後以究漢事,災眚之說不越前規。今採黃初以降言祥異者,著于此篇。
綜じて言を為せば,凡そ三術有り。其の一に曰く,君治むるに道を以てし,臣輔するに克く忠にして,萬物咸な其の性を遂ぐれば,則はち和氣應じ〔一〕,休徵效し,國以て安らかなり。二に曰く,君其の道に違ひ,小人位に在り〔二〕,眾庶常を失へば,則はち乖氣應じ,咎徵效し,國以て亡ぶ。三に曰く,人君大臣災異を見,退きて自省し,躬を責め德を修め,共(つつ)しんで禦ぎ〔三〕過ちを補へば,則はち禍を消して福至る〔四〕。此れ其の大略なり。輒はち斯の例を舉げて,時變を錯綜して〔五〕,婉にして章を成す〔六〕,觀るに足る者有り。司馬彪光武の後を纂して以て漢事を究むるに及びて,災眚の說前規を越えず。今黃初以降の祥異を言ふ者を採りて,此の篇を著す。
〔一〕『漢書』劉向傳:「由此觀之,和氣致祥,乖氣致異。祥多者其國安,異衆者其國危,天地之常經,古今之通義也。」
〔二〕『尚書』大禹謨:「濟濟有眾,咸聽朕命,蠢茲有苗,昏迷不恭,侮慢自賢,反道敗德,君子在野,小人在位,民棄不保,天降之咎。」
〔三〕『春秋左氏傳』昭公十二年:「唯是桃弧棘矢,以共禦王事。」,杜預「桃弧棘矢,以禦不祥。」,『経典釈文』「共音恭,禦魚呂反。」
〔四〕『漢書』董仲舒傳:「國家將有失道之敗,而天乃先出災害以譴告之,不知自省,又出怪異以警懼之,尚不知變,而傷敗乃至。以此見天心之仁愛人君而欲止其亂也。」
〔五〕『周易』繋辞上傳:「參伍以變,錯綜其數,通其變,遂成天下之文。」
『周易』賁・彖傳:「觀乎天文,以察時變,觀乎人文,以化成天下。」
〔六〕『春秋左氏傳』成公十四年:「故君子曰,春秋之稱微而顯,志而晦,婉而成章,盡而不汙,懲惡而勸善,非聖人誰能脩之。」
これらのことを総合して言うと,全部で三つのすべがある。ひとつめは,君主が国を治めるのに道により,臣下が輔弼するのに忠であり,万物がそれぞれその性質を全うすれば,和気が応じ,吉兆があらわれ,国はそれによって安らかになる。ふたつめは君主が道から外れ,小人が(朝廷の)位につき,民たちがあるべきすがたを失えば,乖気が応じ,凶兆があらわれ,国はそれによってほろぶ。みっつめは,君主大臣が災異を見て,一歩下がって自省し,みづからのあやまちを責めて徳を修め,つつしんで(不祥の事を)防ぎ過ちを補えば,わざわいを消して福がくる。これらのことが,そのあらましである。それぞれ実例を挙げて,時勢の変化をまぜたりあわせたり,婉曲に文章とすることにより,そこから見いだすことができるものがある。司馬彪が光武帝以降のことを編纂して漢朝のことを研究したときには,災眚(わざわい)の說は班固の枠組みをこえることはなかった。いま,魏の黄初以降の吉祥と災異をいうものを採録して,この一篇をあらわす。
經曰「五行,一曰水,二曰火,三曰木,四曰金,五曰土。水曰潤下,火曰炎上,木曰曲直,金曰從革,土爰稼穡。」
傳曰「田獵不宿,飲食不享,出入不節,奪農時及有姦謀,則木不曲直。」
說曰,木,東方也。於易,地上之木為觀。於王事,威儀容貌亦可觀者也。故行步有佩玉之度,登車有和鸞之節,三驅之制,飲食有享獻之禮。出入有名,使人以時,務在勸農桑,謀在安百姓,如此,則木得其性矣。若乃田獵馳騁,不反宮室,飲食沈湎,不顧法度,妄興傜役,以奪農時,作為姦詐,以傷人財,則木失其性矣。蓋工匠之為輪矢者多傷敗,及木為變怪,是為不曲直。
經に曰く「五行,一に曰く水,二に曰く火,三に曰く木,四に曰く金,五に曰く土。水に曰く潤下,火に曰く炎上,木に曰く曲直,金に曰く從革,土爰こに稼穡。」と。
傳に曰く「田獵宿らず,飲食享せず,出入節ならず,農時を奪ふ及び姦謀有り,則はち木曲直ならず。」と
說に曰く,木,東方なり。易に於いては,地上の木觀と為す。王事に於いては,威儀容貌も亦た觀るべき者なり。故に行歩には佩玉の度有り,登車には和鸞の節,三驅の制有り,飲食には享獻の禮有り。出入に名有り,人を使うに時を以ってし,務は農桑を勸むるに在り,謀は百姓を安んずるに在り,此の如くんば,則はち木其の性を得たり。 若し乃はち田獵馳騁し,宮室に反らず,飲食沈湎して,法度を顧みず,妄りに傜役を興して,以て農時を奪ひ,姦詐を作為して,以て人財を傷なへば,則はち木其の性を失へり。蓋し工匠の輪矢を為す者傷敗すること多き,及び木の變怪と為る,是れ曲直ならざるが為なり。
【参照】
『漢書』五行志:「經曰「初一曰五行。五行,一曰水,二曰火,三曰木,四曰金,五曰土。水曰潤下,火曰炎上,木曰曲直,金曰從革,土爰稼穡。」傳曰「田獵不宿,飲食不享,出入不節,奪民農時,及有姦謀,則木不曲直。」說曰,木,東方也。於易,地上之木為觀。其於王事,威儀容貌亦可觀者也。故行步有佩玉之度,登車有和鸞之節,田狩有三驅之制,飲食有享獻之禮,出入有名,使民以時,務在勸農桑,謀在安百姓。如此,則木得其性矣。若乃田獵馳騁不反宮室,飲食沈湎不顧法度,妄興繇役以奪民時,作為姦詐以傷民財,則木失其性矣。蓋工匠之為輪矢者多傷敗,及木為變怪,是為木不曲直。」
『宋書』五行志:「五行傳曰「田獵不宿,飲食不享,出入不節,奪民農時,及有姦謀,則木不曲直,謂木失其性而為災也。」又曰「貌之不恭,是謂不肅。厥咎狂,厥罰恒雨,厥極惡。時則有服妖,時則有龜孽,時則有雞禍,時則有下體生上之痾,時則有青眚青祥。惟金沴木。」班固曰「蓋工匠為輪矢者多傷敗,及木為變怪。」皆為不曲直也。」
(『尚書』洪範の)経文にはつぎのようにいう。五行,一に水,二に火,三に木,四に金,五に土。水の本性は潤下 (物を潤し下へと流れる),火の本性は炎上(燃えて上にのぼる)、木の本性は曲直(まがったりまっすぐになる),金の本性は従革(自由に変形する),土の本性は稼穡(種をまいて収穫する)である。
『尚書大伝』にはつぎのようにいう。狩猟するのに時期を考えない,酒食には享献の礼法どおりに勧めない,宮殿の出入に節度がない,民の農時を奪い悪事をたくらむ,このような場合には,木は曲直の性質を失う。
説にはつぎのようにいう。木は東方である。『易』では,地上の木は(巽は木であり,坤は地であり,坤下巽上の)観卦である。王者にあてはめるならば,その立居振舞と容貌が観るにたりることである。ゆえに王者が歩むときには佩玉がなって歩行の節度があり,馬車に乗るときには(金でつくった)和鸞の鈴がなって速度の節度があり,狩をするには三駆の制度があり,飲食にはそれを勧める享献の礼法がある。宮殿に出入りするのにも名目があり,民を使役するにはしかるべき時におこない,務めは農作と養蚕の奨励することにあり,謀りごとは民衆を安んずることにある。このようであれば,木はその本性を全うする。もし狩猟に駆けずりまわって宮室にもどらず,酒食に溺れてきまりを無視し,むやみに夫役を興してそれにより農時を奪い,悪事をおこして民衆の財産をそこなう,そうすると木はその本性を失う。おもうに職人が車や矢を作るのに失敗することが多いことおよび木がばけものになったりする,これは木が曲直の性質を失ったからである。
魏文帝黃初六年正月,雨,木冰。案劉歆說,上陽施不下通,下陰施不上達,故雨,而木為之冰,雰氣寒,木不曲直也。劉向曰,冰者陰之盛,木者少陽,貴臣卿大夫象也。此人將有害,則陰氣脅木,木先寒,故得雨而冰也。是年六月,利成郡兵蔡方等殺太守徐質,據郡反。太守,古之諸侯,貴臣有害之應也。一說以木冰為木介,介者甲兵之象。是歲,既討蔡方,又八月天子自將以舟師征吳,戍卒十餘萬,連旌數百里,臨江觀兵,又屬常雨也。
魏の文帝黃初六年正月,雨ふり,木冰る。案ずるに劉歆說に,上陽施(ゆる)みて下通せず,下陰施みて上達せず,故に雨ふりて,木之れが為に冰り,雰氣寒にして,木曲直ならず,と。劉向曰く,冰なる者は陰の盛,木なる者は少陽,貴臣卿大夫の象なり。此れ人將さに害有らんとすれば,則はち陰氣木を脅かし,木先づ寒し,故に雨を得て冰るなり,と。〔一〕是の年六月,利成郡兵蔡方等 太守徐質を殺し,郡に據りて反す。太守,古の諸侯なれば,貴臣害有るの應なり。一說に木冰を以って木介と為す,介なる者は甲兵の象。是の歲,既に蔡方を討ち,又た八月天子自づから將さに舟師を以って吳を征さんとし,戍卒十餘萬,旌を連ぬること數百里,江に臨みて觀兵す,又た常雨に屬するなり。〔二〕
〔一〕『漢書』五行志:「春秋成公十六年「正月,雨,木冰 」。劉歆以為上陽施不下通,下陰施不上達,故雨,而木為之冰,雰氣寒,木不曲直也。劉向以為冰者陰之盛而水滯者也,木者少陽,貴臣卿大夫之象也。此人將有害,則陰氣脅木,木先寒,故得雨而冰也。是時叔孫喬如出奔,公子偃誅死。一曰,時晉執季孫行父,又執公,此執辱之異。或曰,今之長老名木冰為「木介」。介者,甲。甲,兵象也。是歲晉有𨻳陵之戰,楚王傷目而敗。屬常雨也。」
〔二〕『三国志』魏書・文帝紀:「六月,利成郡兵蔡方等以郡反,殺太守徐質。遣屯騎校尉任福步兵校尉段昭與青州刺史討平之,其見脅略及亡命者,皆赦其罪。秋七月,立皇子鑒為東武陽王。八月,帝遂以舟師自譙循渦入淮,從陸道幸徐。九月,築東巡臺。冬十月,行幸廣陵故城,臨江觀兵,戎卒十餘萬,旌旗數百里。是歲大寒,水道冰,舟不得入江,乃引還。」
【参照】
『宋書』五行志:「魏文帝黃初六年正月,雨,木冰。按劉歆說,木不曲直也。劉向曰「冰者陰之盛,木者少陽,貴臣象也。此人將有害,則陰氣脅木,木先寒,故得雨而冰也。」是年六月,利成郡兵蔡方等殺太守徐質,據郡反,多所脅略,并聚亡命。遣二校尉與青州刺史共討平之。太守,古之諸侯,貴臣有害之應也。一說以木冰為甲兵之象。是歲,既討蔡方,又八月,天子自將以舟師征吳,戎卒十餘萬,連旍數百里,臨江觀兵。」
魏の文帝の黃初六年正月,雨がふり,木がこおった。考えてみるに劉歆はつぎのようにいう,上天の陽気がゆるんで下に通ぜず,下方の陰気がゆるんで上にとどかない。そのため雨が降り,木がそのためにこおり,たれこめた空気が冷たく,木は曲直でなくなる。 劉向はつぎのように考える。氷は陰気が盛んで水が凝結したものである。「木」は少陽,貴臣たる卿大夫の象徴である。これは人にわざわいがおこりそうになると,陰気が木をおびやかし,木がまず冷たくなる,だから雨がふって氷るのである。この年の六月,利成郡の兵である蔡方等が太守の徐質を殺し,郡を占拠して反乱をおこした。太守とは,むかしの諸侯であり,貴臣に害があることのしるしである。 一説では木が氷ることを「木介」とする。介とは武器の象徴である。この年,蔡方を討っただけでなく,さらに八月には天子が水軍を率いて呉を征討しようとし,兵卒は十余万,旌旗は数百里にも連なり,長江に臨んで観兵した,これもまた常雨(長雨)に関する災異である。
元帝太興三年二月辛未,雨,木冰。後二年,周顗等遇害,是陽施不下通也。
元帝太興三年二月辛未,雨ふり,木冰る。後二年にして,周顗等害に遇ふ〔一〕,是れ陽施みて下通せざるなり。
〔一〕『晉書』元帝紀:「(永昌元年四月)丙子,驃騎將軍秣陵侯戴若思,尚書左僕射護軍將軍武城侯周顗為敦所害。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉元帝太興三年二月辛未,雨,木冰。後二年,周顗戴淵刁協劉隗皆遇害,與春秋同事,是其應也。一曰,是後王敦攻京師,又其象也。」
(東晋の)元帝の太興三年(320年)二月辛未,雨がふり,木が氷った。二年後に,(武城侯の)周顗たちが害せられた,これが上天の陽気がゆるんで下に通じないということである。
穆帝永和八年正月乙巳,雨,木冰。是年殷浩北伐,明年軍敗,十年廢黜。又曰,荀羨、殷浩北伐,桓溫入關之象也。
穆帝永和八年正月乙巳,雨ふり,木冰る。是の年殷浩北伐し,明年軍敗れ,十年廢黜せらる。又た曰く,荀羨・殷浩の北伐,桓溫の入關の象なり。〔一〕
〔一〕『晉書』穆帝紀:「(永和八年)九月,冉智為其將馬願所執,降于慕容恪。中軍將軍殷浩帥眾北伐,次泗口,遣河南太守戴施據石門,滎陽太守劉𨔵(【辶+彖】)戍倉垣。……(九年)冬十月,中軍將軍殷浩進次山桑,使平北將軍姚襄為前鋒。襄叛,反擊浩,浩棄輜重,退保譙城。…‥(十年)二月己丑,太尉征西將軍桓溫帥師伐關中。廢揚州刺史殷浩為庶人,以前會稽內史王述為揚州刺史。……(升平二年)三月,慕容儁陷冀州諸郡,詔安西將軍謝奕・北中郎將荀羨北伐。」
『晉書』殷浩傳:「及石季龍死,胡中大亂,朝廷欲遂蕩平關河,於是以浩為中軍將軍假節都督揚豫徐兗青五州軍事。浩既受命,以中原為己任,上疏北征許洛。」
『晉書』桓温傳:「時殷浩至洛陽修復園陵,經涉數年,屢戰屢敗,器械都盡。溫復進督司州,因朝野之怨,乃奏廢浩,自此內外大權一歸溫矣。溫遂統步騎四萬發江陵,水軍自襄陽入均口,至南鄉,步自淅川以征關中,命梁州刺史司馬勳出子午道。別軍攻上洛,獲苻健荊州刺史郭敬,進擊青泥,破之。健又遣子生・弟雄眾數萬屯嶢柳・愁思塠以距溫,遂大戰,生親自陷陣,殺溫將應誕、劉泓,死傷千數。溫軍力戰,生眾乃散。雄又與將軍桓沖戰白鹿原,又為沖所破。雄遂馳襲司馬勳,勳退次女媧堡。溫進至霸上,健以五千人深溝自固,居人皆安堵復業,持牛酒迎溫於路者十八九,耆老感泣曰「不圖今日復見官軍。」」
【参照】
『宋書』五行志:「晉穆帝永和八年正月乙巳,雨,木冰。是年,殷浩北伐,明年,軍敗,十年,廢黜。又曰,荀羨・殷浩北伐,桓溫入關之象也。」
穆帝の永和八年(352)正月乙巳,雨がふり,木が氷った。この年殷浩が北伐し,明くる年敗れ,十年に官職を取り上げられ退けられた。また,荀羨と殷浩の北伐,桓温の関中入りの象(きざし)であるともいう。
孝武帝太元十四年十二月乙巳,雨,木冰。明年二月王恭為北藩,八月庾楷為西藩,九月王國寶為中書令,尋加領軍將軍,十七年殷仲堪為荊州,雖邪正異規,而終同夷滅,是其應也。
孝武帝太元十四年十二月乙巳,雨ふり,木冰る。明年二月王恭北藩と為る〔一〕,八月庾楷西藩と為る〔二〕,九月王國寶中書令と為り,尋いで領軍將軍を加へらる〔三〕,十七年殷仲堪荊州と為る。〔四〕〔五〕邪正規を異にすと雖も,而かるに終に同もに夷滅せらる,是れ其の應なり。
〔一〕『晉書』王恭傳:「其後帝將擢時望以為藩屏,乃以恭為都督兗青冀幽并徐州晉陵諸軍事平北將軍兗青二州刺史假節,鎮京口。初,都督以「北」為號者,累有不祥,故桓沖王坦之刁彝之徒不受鎮北之號。恭表讓軍號,以超受為辭,而實惡其名,於是改號前將軍。」
〔二〕『晉書』庾楷傳:「初拜侍中,代兄準為西中郎將豫州刺史假節,鎮歷陽。」
〔三〕『晉書』王國宝傳:「及道子輔政,以為祕書丞。俄遷琅邪內史,領堂邑太守,加輔國將軍。入補侍中,遷中書令 中領軍,與道子持威權,扇動內外。」
〔四〕『晉書』殷仲堪傳:「帝以會稽王非社稷之臣,擢所親幸以為藩捍,乃授仲堪都督荊益寧三州軍事振威將軍荊州刺史假節,鎮江陵。」
〔五〕『晉書』孝武帝紀:「(太元十四年)冬十二月乙巳,雨,木冰。……(太元十五年)二月辛巳,以中書令王恭為都督青兗幽并冀五州諸軍事前將軍青兗二州刺史。……(太元十七年)十一月癸酉,以黃門郎殷仲堪為都督荊益梁三州諸軍事荊州刺史。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉孝武帝太元十四年十二月乙巳,雨,木冰。明年二月,王恭為北蕃。八月,庾楷為西蕃。九月,王國寶為中書令,尋加領軍將軍。十七年殷仲堪為荊州。雖邪正異規,而終同摧滅,是其應也。一曰,苻堅雖敗,關河未一,丁零鮮卑,侵略司兗,竇揚勝扇逼梁雍,兵役不已,又其象也。」
孝武帝の太元十四年(389)十二月乙巳,雨がふって,木が氷った。明くる年二月王恭は北の藩屏となり,八月には庾楷が西の藩屏となり,九月には王国宝が中書令となり,ついで領軍将軍を加えられ,十七年には殷仲堪が荊州(刺史)となった。正邪はそれぞれ(行動の)規範が異なるとはいえ,さいごにはすべて誅殺された,これがその応(しるし)である。
吳孫亮建興二年,諸葛恪征淮南,後所坐聽事棟中折。恪妄興徵役,奪農時,作邪謀,傷國財力,故木失其性致毀折也。及旋師而誅滅,於周易又為「棟撓之凶」也。
吳の孫亮建興二年,諸葛恪淮南を征するに,後に坐る所の聽事の棟中ばに折る。恪妄りに徵役を興し,農時を奪ひ,邪謀を作し,國の財力を傷ふ,故に木其の性を失ひ毀折を致すなり。師を旋らすに及びて誅滅せらる〔一〕,周易に於いて又た「棟撓の凶」と為すなり。〔二〕
〔一〕『三国志』呉書・孫亮伝:「三月,恪率軍伐魏。夏四月,圍新城,大疫,兵卒死者大半。秋八月,恪引軍還。冬十月,大饗。武衞將軍孫峻伏兵殺恪於殿堂。」
『三国志』呉書・諸葛恪伝:「恪意欲曜威淮南,驅略民人,而諸將或難之曰「今引軍深入,疆埸之民,必相率遠遁,恐兵勞而功少,不如止圍新城。新城困,救必至,至而圖之,乃可大獲。」恪從其計,迴軍還圍新城。攻守連月,城不拔。士卒疲勞,因暑飲水,泄下流腫,病者大半,死傷塗地。……出住江渚一月,圖起田於潯陽,詔召相銜,徐乃旋師。由此眾庶失望,而怨黷興矣。……初,恪將征淮南,……出行之後,所坐廳事屋棟中折。自新城出住東興,有白虹見其船,還拜蔣陵,白虹復繞其車。及將見,駐車宮門,峻已伏兵於帷中,……恪躊躇而還,劍履上殿,謝亮,還坐。設酒,恪疑未飲,峻因曰「使君病未善平,當有常服藥酒,自可取之。」恪意乃安,別飲所齎酒。酒數行,亮還內。峻起如廁,解長衣,著短服,出曰「有詔收諸葛恪。」恪驚起,拔劍未得,而峻刀交下。張約從旁斫峻,裁傷左手,峻應手斫約,斷右臂。武衞之士皆趨上殿,峻云「所取者恪也,今已死。」悉令復刃,乃除地更飲。」
〔二〕『易』大過:「九三,棟橈,凶。象曰,棟橈之凶,不可以有輔也。」
【参照】
『宋書』五行志:吳孫亮建興二年,諸葛恪征淮南,行後,所坐聽事棟中折。恪妄興徵役,奪民農時,作為邪謀,傷國財力,故木失其性,致毀折也。及旋師而誅滅,於周易又為棟橈之凶也。
吳の孫亮の建興二年(253),諸葛恪が淮南に侵攻したところ,(出征した)のちに執務していた政庁の棟木がまん中から折れた。諸葛恪はみだりに民衆を使役して,農時を奪い,よこしまな謀りごとをくわだて,国の財力を損なった,その故に木はその(曲直の)性質を失い折れてしまったのである。軍を引くと誅殺された,これは『周易』では「棟木が撓む凶兆」とされるものである。
武帝太康五年五月,宣帝廟地陷,梁折。 八年正月,太廟殿又陷,改作廟,築基及泉。其年九月,遂更營新廟,遠致名材,雜以銅柱,陳勰為匠,作者六萬人。至十年四月乃成,十一月庚寅梁又折。天戒若曰,地陷者分離之象,梁折者木不曲直也。明年帝崩,而王室遂亂。
武帝太康五年五月,宣帝廟地陷し,梁折る。 八年正月,太廟殿又た陷し,改めて廟を作る,基及び泉を築く。其の年九月,遂に更に新廟を營し,遠く名材を致し,雜へるに銅柱を以ってし,陳勰もて匠と為し〔一〕,作者六萬人。十年四月に至て乃はち成る,十一月庚寅梁又た折る。〔二〕天戒しめて若くのごとく曰く,地陷なる者は分離の象,梁折る者は木 曲直ならざるなり。明年帝崩じて,王室遂に亂る。
〔一〕『晉書』摯虞傳:「將作大匠陳勰掘地得古尺,尚書奏「今尺長於古尺,宜以古為正。」潘岳以為習用已久,不宜復改。」
〔二〕『晉書』武帝紀:「(大康五年)五月丙午,宣帝廟梁折。……八年春正月戊申朔,日有蝕之。太廟殿陷。……九月,改營太廟。……十年夏四月,……太廟成。乙巳,遷神主于新廟,帝迎于道左,遂祫祭。大赦,文武增位一等,作廟者二等。……十二月庚寅(中華書局本校注:十二月庚寅 十二月辛卯朔,無庚寅。五行志上、宋書五行志一通典五一引河南孫平子封事並作十一月。庚寅為十一月二十九日。),太廟梁折。……(太熙元年)夏四月辛丑,以侍中車騎將軍楊駿為太尉都督中外諸軍、錄尚書事。己酉,帝崩于含章殿,時年五十五,葬峻陽陵,廟號世祖。」
『晉書』禮志上:「六年(中華書局本校注:六年 斠注:按武紀,此「六年」當為「八年」之誤。通典五一引河南人孫平子封事亦作「八年」),因廟陷,當改修創,羣臣又議奏曰「古者七廟異所,自宜如禮。」詔又曰「古雖七廟,自近代以來皆一廟七室,於禮無廢,於情為敘,亦隨時之宜也。其便仍舊。」至十年,乃更改築於宣陽門內,窮極壯麗,然坎位之制猶如初爾。廟成,帝用摯虞議,率百官遷神主于新廟,自征西以下,車服導從皆如帝者之儀。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉武帝太康五年五月,宣帝廟地陷梁折。八年正月,太廟殿又陷,改作廟,築基及泉。其年九月,遂更營新廟,遠致名材,雜以銅柱。陳勰為匠,作者六萬人。十年四月,乃成。十一月庚寅,梁又折。按地陷者,分離之象,梁折者,木不曲直也。孫盛曰,于時後宮殿有孽火,又廟梁無故自折。先是帝多不豫,益惡之。明年,帝崩,而王室頻亂,遂亡天下。」
武帝の太康五年(284)五月,宣帝廟の地面が陥没し,梁が折れた。八年の正月,太廟殿がまた陥没し,改めて廟を作り,基礎と泉を築いた。その年の九月,そのままさらに新しい廟を造営し,遠くによい資材を求め,それと銅柱を組み合わせ,陳勰を責任者として,役夫が六萬人たずさわった。十年四月になってようやく完成した,十一月庚寅に梁がまた折れた。天は戒しめてこのようにいった,地面が陥没するということは分離の象である,梁が折れるということは木は曲直でないということである。明くる年武帝が崩御し,王室はそうして乱れていった。
惠帝太安二年,成都王穎使陸機率眾向京都,擊長沙王乂。及軍始引而牙竿折。俄而戰敗,機被誅,穎遂奔潰,卒賜死。此姦謀之罰,木不曲直也。
惠帝太安二年,成都王穎陸機をして眾を率ひて京都に向かひ,長沙王乂を擊たしむ。軍始めて引くに及びて牙竿折る。俄かに戰敗し,機誅せられ〔一〕,穎遂に奔潰し,卒に死を賜る〔二〕。此れ姦謀の罰,木の曲直ならざるなり。
〔一〕『晉書』陸機傳:「時成都王穎推功不居,勞謙下士。機既感全濟之恩,又見朝廷屢有變難,謂穎必能康隆晉室,遂委身焉。穎以機參大將軍軍事,表為平原內史。太安初,穎與河間王顒起兵討長沙王乂,假機後將軍河北大都督,督北中郎將王粹冠軍牽秀等諸軍二十餘萬人。……機始臨戎,而牙旗折,意甚惡之。列軍自朝歌至於河橋,鼓聲聞數百里,漢魏以來,出師之盛未嘗有也。長沙王乂奉天子與機戰於鹿苑,機軍大敗,赴七里澗而死者如積焉,水為之不流,將軍賈棱皆死之。……(孟)玖疑機殺之,遂譖機於穎,言其有異志。將軍王闡郝昌公師藩等皆玖所用,與牽秀等共證之。穎大怒,使秀密收機。其夕,機夢黑幰繞車,手決不開,天明而秀兵至。機釋戎服,著白帢,與秀相見,神色自若,謂秀曰「自吳朝傾覆,吾兄弟宗族蒙國重恩,入侍帷幄,出剖符竹。成都命吾以重任,辭不獲已。今日受誅,豈非命也。」因與穎牋,詞甚悽惻。既而歎曰「華亭鶴唳,豈可復聞乎。」遂遇害於軍中,時年四十三。二子蔚・夏亦同被害。機既死非其罪,士卒痛之,莫不流涕。是日昏霧晝合,大風折木,平地尺雪,議者以為陸氏之寃。」
〔二〕『晉書』成都王穎傳:「屬虓暴薨,虓長史劉輿見穎為鄴都所服,慮為後患,祕不發喪,偽令人為臺使,稱詔夜賜穎死。穎謂守者田徽曰「范陽王亡乎。」徽曰「不知。」穎曰「卿年幾。」徽曰「五十。」穎曰「知天命不。」徽曰「不知。」穎曰「我死之後,天下安乎不安乎。我自放逐,於今三年,身體手足不見洗沐,取數斗湯來。」其二子號泣,穎敕人將去。乃散髮東首臥,命徽縊之,時年二十八。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉惠帝太安二年,成都王穎使陸機率眾向京師,擊長沙王乂。軍始引而牙竿折,俄而戰敗,機被誅。穎尋奔潰,卒賜死。初,河間王顒謀先誅長沙,廢太子,立穎。長沙知之,誅其黨卞粹等,故穎來伐。機又以穎得遐邇心,將為漢之代王,遂委質於穎,為犯從之將。此皆姦謀之罰,木不曲直也。」
惠帝の太安二年(303),成都王司馬穎が陸機に兵を率いて洛陽にむかい,長沙王司馬乂を攻撃させた。軍を率いはじめたときに大将旗の旗竿が折れた。たちまちに敗戦し,陸機は誅せられ,司馬穎はそのまま逃走したが,けっきょく死を賜った。これはよこしまなはかりごとの罰で,木が曲直でないのである。
元帝太興四年,王敦在武昌,鈴下儀仗生華如蓮華,五六日而萎落。此木失其性。干寶以為狂華生枯木,又在鈴閤之間,言威儀之富,榮華之盛,皆如狂華之發,不可久也。其後王敦終以逆命加戮其尸。一說亦華孽也,於周易為「枯楊生華」。
元帝太興四年,王敦武昌に在り,鈴下の儀仗華を生ずること蓮華の如し,五六日にして萎落す。此れ木其の性を失ふ。干寶以為へらく狂華枯木に生ず,又た鈴閤の間に在り,言ふこころは威儀の富,榮華の盛,皆狂華の發くが如く,久しからざるべきなり。其の後王敦終ひに命に逆らふを以って其の尸を戮せらる〔一〕〔二〕。一說に亦た華孽なり,周易に於いては「枯楊華を生ず」〔三〕と為す。
〔一〕『晉書』王敦傳:「既而周光斬錢鳳,吳儒斬沈充,並傳首京師。有司議曰「王敦滔天作逆,有無君之心,宜依崔杼・王淩故事,剖棺戮尸,以彰元惡。」於是發瘞出尸,焚其衣冠,跽而刑之。敦・充首同日懸于南桁,觀者莫不稱慶。敦首既懸,莫敢收葬者。」
〔二〕『捜神記』巻七:「太興四年,王敦在武昌,鈴下儀仗生花,如蓮花,五六日而萎落。說曰「易說『枯楊生花,何可久也。』今狂花生枯木,又在鈴閣之間,言威儀之富,榮華之盛,皆如狂花之發,不可久也。」其後王敦終以逆命,加戮其屍。」
〔三〕『易』大過:「九五,枯楊生華。老婦得其士夫。无咎无譽。象曰,枯楊生華,何可久也。老婦士夫,亦可醜也。」
【参照】
『宋書』五行志:「王敦在武昌,鈴下儀仗生華如蓮花狀,五六日而萎落。此木失其性而為變也。干寶曰「鈴閤,尊貴者之儀。鈴下,主威儀之官。今狂花生於枯木,又在鈴閤之間,言威儀之富,榮華之盛,皆如狂花之發,不可久也。」其後終以逆命,沒又加戮,是其應也。一說此花孽也,於周易為「枯楊生華」」
元帝の太興四年(321),王敦が武昌にいたとき,衛士の儀仗に蓮華のような花が生じ,五六日でしぼんでおちた。これは木がその性質を失ったのである。干宝は,狂い花が枯れ木に生じ,しかも政庁でおこった,これは堂々たる威勢も,盛大な栄華も,みな狂い花が花を咲かせるように,久しくないということを言っている,と考える。その後王敦は最後には命に逆らったことによりその屍を晒された。一説には華孽ともいい,『周易』においては「枯れやなぎに花が咲く」とする。
桓玄始篡,龍旂竿折。時玄田獵無度,飲食奢恣,土木妨農,又多姦謀,故木失其性。天戒若曰,旂所以掛三辰,章著明也,旂竿之折,高明去矣。玄果敗。
桓玄始めて篡するに〔一〕,龍旂竿折る。時に玄田獵度無く,飲食奢恣し,土木農を妨げ,又た姦謀多し,故に木其の性を失ふなり。天戒しめて若くのごとく曰く,旂の三辰を掛くる所以は,著明を章らかにするなり〔二〕。旂竿の折るるは,高明の去るなり。玄果たして敗る〔三〕。
〔一〕『晉書』桓玄傳:「(元興二年)十二月壬辰,玄篡位,以帝為平固王。辛亥,帝蒙塵于尋陽。」
〔二〕『春秋左氏傳』桓公二年:「三辰旂旗,昭其明也。」
〔三〕『晉書』桓玄傳:「(三年)三月戊午,劉裕斬玄將吳甫之于江乘,斬皇甫敷於羅落。己未,玄眾潰而逃。」
【参照】
『宋書』五行志:「桓玄始篡,龍旂竿折。玄田獵出入,不絕昏夜,飲食恣奢,土水妨農,又多姦謀,故木失其性也。夫旂所以擬三辰,章著明也。旂竿之折,高明去矣。在位八十日而敗。」
桓玄が簒奪したときに,龍旂(天子の旗)の竿が折れた。その時桓玄は狩猟に節度がなく,飲食はほしいままにし,土木工事は農業を妨げ,さらに奸策が多かった,そのため木はその性質を失ったのである。天は戒めてつぎのようにいった,旂旗に(日月星の)三辰をえがく理由は,明知を示すのである。旗竿が折れたのは,賢才が去ることをあらわす。桓玄はやはり敗れた。
傳曰「棄法律,逐功臣,殺太子,以妾為妻,則火不炎上。」
說曰,火,南方,揚光煇為明者也。其於王者,南面嚮明而治。書云「知人則哲,能官人。」〔一〕故堯舜舉羣賢而命之朝,遠四佞而放諸埜〔二〕。孔子曰「浸潤之譖,膚受之愬,不行焉,可謂明矣。」〔三〕賢佞分別,官人有序,帥由舊章,敬重功勳,殊別嫡庶,如此則火得其性矣。若乃信道不篤,或燿虛偽,讒夫昌,邪勝正,則火失其性矣。自上而降,及濫炎妄起,焚宗廟,燒宮館,雖興師眾,不能救也,是為火不炎上。
傳に曰く「法律を棄て,功臣を逐ひ,太子を殺し,妾を以て妻と為す,則はち火 炎上せざるなり。」と。
說に曰く「火,南方,光煇を揚げて明を為す者なり。其の王者に於ける,南面して明に嚮ひて治む。書に云ふ「人を知れば則はち哲,能く人を官たらしむ。」〔一〕と。故に堯舜羣賢を舉げて之れを朝に命じ,四佞を遠ざけて諸れを埜に放つ〔二〕。孔子曰く「浸潤の譖,膚受の愬,焉れを行わざれば,明と謂ふべし。」〔三〕と。賢佞分別し,官人序有り,舊章を帥由し,功勳を敬重し,嫡庶を殊別す,此の如くんば則はち火其の性を得たり。若し乃はち道を信ずること篤からず,或ひは虛偽を耀かし,讒夫昌へ,邪 正に勝てば,則はち火其の性を失へり。上自りして降る,及び濫炎妄りに起こり,宗廟を焚き,宮館を燒き,師眾を興すと雖も,救ふこと能はざるなり,是れ火の炎上せざると為す。
〔一〕『尚書』皋陶謨:「禹曰,吁,咸若時,惟帝其難之。知人則哲,能官人。安民則惠,黎民懷之。」
〔二〕『尚書』堯典:「流共工于幽州,放驩兜于崇山,竄三苗于三危,殛鯀于羽山。四罪而天下咸服。」
〔三〕『論語』顔淵:「子張問明。子曰,浸潤之譖 ,膚受之愬。不行焉,可謂明也矣。 浸潤之譖,膚受之愬。不行焉,可謂遠也已矣。」
【参照】
『漢書』五行志:「傳曰「棄法律,逐功臣,殺太子,以妾為妻,則火不炎上。」說曰,火,南方,揚光煇為明者也。其於王者,南面鄉明而治。書云「知人則悊,能官人。」故堯舜舉羣賢而命之朝,遠四佞而放諸壄。孔子曰「浸潤之譖、膚受之訴不行焉,可謂明矣。」賢佞分別,官人有序,帥由舊章,敬重功勳,殊別適庶,如此則火得其性矣。若乃信道不篤,或燿虛偽,讒夫昌,邪勝正,則火失其性矣。自上而降,及濫炎妄起,災宗廟,燒宮館,雖興師衆,弗能救也,是為火不炎上。」
『宋書』五行志:「五行傳曰「棄法律,逐功臣,殺太子,以妾為妻,則火不炎上。」謂火失其性而為災也。又曰「視之不明,是謂不哲。厥咎舒,厥罰恒懊,厥極疾。時則有草妖,時則有臝蟲之孽,時則有羊禍,時則有目痾,時則有赤眚赤祥。惟水沴火。」臝蟲,劉歆傳以為羽蟲。」
『尚書大伝』には次のようにいう。法律を無視し,功臣を放逐し,太子を殺し,側妾を正妻とするならば,火は炎上の性質を失う。
説にはつぎのようにいう。火は南方であり,きらきらと光り輝いてあかりとなるものである。王者にあてはめるならば,南面して明るい方向に向かって治めることである。『尚書』には,「人を知るというのは哲であり,(哲であれば有能な)人を官職に置くことができる。」とある。そのため,堯舜は賢人たちを抜擢して朝廷の官職に任命し,(共工・驩兜・三苗・鯀の)四人の佞臣を遠ざけて野に放逐したのである。孔子は「しみこんでいくようなつげ口や,だんだんと肌の上にたまっていく汚れのような讒言,このような(ひとを冒すような)ことをしないならば,聡明といってよかろう」という。賢人と悪人とが区別され,人を官職につけるには秩序があり,以前からのきまりを順守し,勲功のある人物をうやまい重んじ,嫡子と庶子とをはっきりと区別する,このようであれば,火はその本性を全うする。 もし,道を信じる心が厚くなく,あるいは虚偽を盛んにおこない,讒言者がはばをきかし,邪が正に勝つ,そうすると火はその本性を失う。(もえあがっていくべき火が) 上から下へ降ったり,手のつけられない炎が燃えあがって,宗廟に火災をおこし,宮殿を焼き,兵隊を動員しても火を消すことができない。これが火が炎上の性質を失うということである。
魏明帝太和五年五月,清商殿災。初,帝為平原王,納河南虞氏為妃。及即位,不以為后,更立典虞車工卒毛嘉女為后〔一〕。后本仄微,非所宜升,以妾為妻之罰也。
魏の明帝太和五年五月,清商殿災あり。初め,帝平原王為るに,河南虞氏を納れて妃と為す。即位に及び,以て后と為さず,更めて典虞車工卒毛嘉の女を立てて后と為す〔一〕。后本と仄微,宜しく升すべき所に非ず,妾を以て妻と為すの罰なり。
〔一〕『三国志』魏書・明悼毛皇后伝:「明悼毛皇后,河內人也。黃初中,以選入東宮,明帝時為平原王,進御有寵,出入與同輿輦。及即帝立,以為貴嬪。太和元年,立為皇后。后父嘉,拜騎都尉,后弟曾,郎中。初,明帝為王,始納河內虞氏為妃,帝即位,虞氏不得立為后,太皇后卞太后慰勉焉。虞氏曰「曹氏自好立賤,未有能以義舉者也。然后職內事,君聽外政,其道相由而成,苟不能以善始,未有能令終者也。殆必由此亡國喪祀矣。」虞氏遂絀還鄴宮。進嘉為奉車都尉,曾騎都尉,寵賜隆渥。頃之,封嘉博平鄉侯,遷光祿大夫,曾駙馬都尉。嘉本典虞車工卒,暴富貴,明帝令朝臣會其家飲宴,其容止舉動甚蚩騃,語輒自謂「侯身」,時人以為笑。後又加嘉位特進,曾遷散騎侍郎。青龍三年,嘉薨,追贈光祿大夫,改封安國侯,增邑五百,并前千戶,諡曰節侯。」
【参照】
『宋書』五行志:「魏明帝太和五月,清商殿災。初,帝為平原王,納河南虞氏為妃。及即位,不以為后,更立典虞車工卒毛嘉女,是為悼皇后。后本仄微,非所宜升。以妾為妻之罰也。」
魏の明帝の太和五年(231)五月,清商殿に火災が起きた。もともと,明帝は平原王であったときに,河南の虞氏をめとって妃としていた。(皇帝に)即位するときには,皇后とせず,かわりに典虞車工卒の毛嘉のむすめを立てて皇后とした。皇后はもともと微賤の出であり,(皇后の位へ)升すべきものではない,妾を正妻とした罰である。
青龍元年六月,洛陽宮鞠室災。 二年四月,崇華殿災,延於南閤,繕復之。至三年七月,此殿又災。帝問高堂隆「此何咎也。於禮寧有祈禳之義乎。」對曰「夫災變之發,皆所以明教誡也,惟率禮修德可以勝之。易傳曰『上不儉,下不節,孽火燒其室。』又曰『君高其臺,天火為災。』此人君苟飾宮室,不知百姓空竭,故天應之以旱,火從高殿起也。案舊占曰『災火之發,皆以臺榭宮室為誡。』今宜罷散作役,務從節約,清掃所災之處,不敢於此有所營造,萐莆嘉禾必生此地,以報陛下虔恭之德。」帝不從。遂復崇華殿,改曰九龍。以郡國前後言龍見者九,故以為名。多棄法度,疲眾逞欲,以妾為妻之應也。
青龍元年六月,洛陽宮の鞠室に災あり。 二年四月,崇華殿に災あり,南閤に延し,之れを繕復す。三年七月に至て,此の殿又た災あり〔一〕。帝 高堂隆に問ふ「此れ何の咎なるや。禮に於いて寧(ある)ひは祈禳の義有るか。」と。對へて曰く「夫れ災變の發す,皆な教誡を明らかにする所以なり,惟だ禮に率ひ德を修むれば以て之れに勝つべし。易傳に曰く『上儉ならず,下節ならず,孽火其の室を燒く。』と。又た曰く『君其の臺を高くす,天火〔二〕 災を為す。』と。此れ人君苟しくも宮室を飾り,百姓の空竭するを知らず,故に天之れに應ずるに旱を以てし,火は高殿從り起こるなり。案ずるに舊占に曰く『災火の發す,皆な臺榭宮室を以て誡と為す。』と。今宜しく作役を罷散し,務めて節約に從ひ,災ある所の處を清掃し,敢へて此に於いて營造する所有らず,萐莆嘉禾〔三〕必らず此の地に生じ,以て陛下の虔恭の德に報いん。」と。帝從はず。遂に崇華殿を復し,改めて九龍と曰ふ。郡國に前後して龍見はるるを言う者九を以って,故に以て名と為す。〔四〕多く法度を棄て,眾を疲し欲を逞しくし,妾を以て妻と為すの應なり。
【参照】
『宋書』五行志:「魏明帝青龍元年六月,(中華書局本校注:魏明帝青龍元年六月 「六月」各本並作「九月」,據三國志魏志明帝紀、晉書五行志改。)洛陽宮鞠室災。二年四月,崇華殿災,延于南閣。繕復之。至三年七月,此殿又災。帝問高堂隆「此何咎也。於禮寧有祈禳之義乎。」對曰「夫災變之發,皆所以明教誡也。唯率禮修德,可以勝之。易傳曰『上不儉,下不節,孽火燒其室。』又曰『君高其臺,天火為災。』此人君苟飾宮室,不知百姓空竭,故天應之以旱,火從高殿起也。案舊占,災火之發,皆以臺榭宮室為誡。今宜罷散民役,務從節約,清掃所災之處,不敢於此有所營造。萐莆嘉禾,必生此地,以報陛下虔恭之德。」不從。遂復崇華殿,改曰九龍。以郡國前後言龍見者九,故以為名。多棄法度,疲民逞欲,以妾為妻之應也。」
〔一〕『三国志』魏書・明帝紀:「(青龍元年)六月,洛陽宮鞠室災。……(二年)夏四月,大疫。崇華殿災。……(三年)秋七月,洛陽崇華殿災。八月庚午,立皇子芳為齊王,詢為秦王。丁巳,行還洛陽宮。命有司復崇華,改名九龍殿。」
〔二〕『春秋左氏傳』宣公十六年:「夏,成周宣榭火。人火之也。凡火,人火曰火,天火曰災。」
〔三〕『論衡』是応:「儒者論太平瑞應,皆言氣物卓異,朱草・醴泉・翔鳳・甘露・景星・嘉禾・萐脯・蓂莢・屈軼之屬。……儒者言萐脯生於庖廚者,言廚中自生肉脯,薄如萐形,搖鼓生風,寒涼食物,使之不臰。」
〔四〕『三国志』魏書・高堂隆傳:「崇華殿災,詔問隆「此何咎。於禮,寧有祈禳之義乎。」隆對曰「夫災變之發,皆所以明教誡也,惟率禮脩德,可以勝之。易傳曰『上不儉,下不節,孽火燒其室。』又曰『君高其臺,天火為災。』此人君苟飾宮室,不知百姓空竭,故天應之以旱,火從高殿起也。上天降鑒,故譴告陛下。陛下宜增崇人道,以答天意。昔太戊有桑穀生於朝,武丁有雊雉登於鼎,皆聞災恐懼,側身脩德,三年之後,遠夷朝貢,故號曰中宗・高宗。此則前代之明鑒也。今案舊占,災火之發,皆以臺榭宮室為誡。然今宮室之所以充廣者,實由宮人猥多之故。宜簡擇留其淑懿,如周之制,罷省其餘。此則祖己之所以訓高宗,高宗之所以享遠號也。」詔問隆「吾聞漢武帝時,柏梁災,而大起宮殿以厭之,其義云何。」隆對曰「臣聞西京柏梁既災,越巫陳方,建章是經,以厭火祥。乃夷越之巫所為,非聖賢之明訓也。五行志曰『柏梁災,其後有江充巫蠱衞太子事。』如志之言,越巫建章無所厭也。孔子曰『災者脩類應行,精祲相感,以戒人君。』是以聖主覩災責躬,退而脩德,以消復之。今宜罷散民役。宮室之制,務從約節,內足以待風雨,外足以講禮儀。清埽所災之處,不敢於此有所立作,萐莆・嘉禾必生此地,以報陛下虔恭之德。豈可疲民之力,竭民之財。實非所以致符瑞而懷遠人也。」帝遂復崇華殿,時郡國有九龍見,故改曰九龍殿。」
青龍元年(233)の六月,洛陽宮の鞠室(蹴鞠をおこなう場所)に火災が起こった。 二年四月,崇華殿に火災が起こった,南閤に延焼したが,これを修繕した。三年七月に至って,この殿にはまた火災があった。明帝は高堂隆に下問した「これはなんのとがであろうか。礼においてはて厄払いの祈祷の道があるだろうか」高堂隆はつぎのように答えた「そもそも災異のおこるのは,すべて教誡を明らかにするためです,ただ礼にしたがって徳を修めればこれに勝つことができます。『易傳』にはつぎのようにあります『上が倹約をせず,下が節約をしない,そうするとあやしい炎がその宮室を燒く。』と。またつぎのようにもあります『君主がその建物を高くする,そうすると天の火がわざわいを起こす。』と。これは人君がもし宮室を飾りたて,民衆が枯渇していることを知らないがために,天がこれに旱を応として,火は高殿から起こったのです。考えてみますとふるい占断にこのようにあります『災火のおこるのは,すべて高殿や宮室(を燃やすこと)によっていましめとした』と。今民の労役をやめて,節約につとめ,火災がおこった場所を掃き清め,あえてここで建築することがなければ,萐莆〔二〕や嘉禾が必らずこの地に生じて,陛下のつつしみぶかい德に報いるでしょう。」と。明帝は従わなかった。そのまま崇華殿を修建し,九龍(殿)と名を改めた。郡国に前後して龍があらわれたと告げることが九回あったため,それを名としたのである。〔三〕法度を無視して,民衆を疲弊させ欲をたくましくし,側妾を正妻としたことの應である。
吳孫亮建興元年十二月,武昌端門災,改作,端門又災。內殿門者,號令所出;殿者,聽政之所。是時諸葛恪執政,而矜慢放肆,孫峻總禁旅,而險害終著。武昌,孫氏尊號所始。天戒若曰,宜除其貴要之首者。恪果喪眾殄人,峻授政於綝,綝廢亮也。或曰,孫權毀徹武昌以增太初宮,諸葛恪有遷都意,更起門殿,事非時宜,故見災也。京房易傳曰「君不思道,厥妖火燒宮。」
吳の孫亮建興元年十二月,武昌の端門災あり,改めて作るに,端門又た災あり〔一〕。內殿門なる者は,號令の出づる所。殿なる者は,聽政の所。是の時諸葛恪政を執りて,矜慢にして放肆,孫峻禁旅を總じて,險害終ひに著はるるなり。武昌,孫氏の尊號の始まる所〔二〕。天戒しめて若くのごとく曰く,宜しく其の貴要の首者を除くべし,と。恪果たして眾を喪い人を人を殄(た)やし,峻政を綝に授け,綝 亮を廢す。或るひと曰く,孫權武昌を毀徹して以て太初宮を增し〔三〕,諸葛恪遷都の意有り,更に門殿を起こすは,事 時宜に非ず,故に災見はるるなり。京房易傳に曰く「君 道を思はざれば,厥の妖火宮を燒す。」〔四〕と。
〔一〕『三国志』呉書・孫亮傳:「(建興元年十二月)是月,雷雨,天災武昌端門。改作端門,又災內殿。」
〔二〕『三国志』呉書・孫権傳:「黃龍元年春,公卿百司皆勸權正尊號。夏四月,夏口武昌並言黃龍・鳳凰見。丙申,南郊即皇帝位,是日大赦,改年。」
〔三〕『三国志』呉書・孫権傳:「(赤烏十年)二月,權適南宮。三月,改作太初宮,諸將及州郡皆義作。」
『三国志』呉書・孫亮伝・裴注:「臣松之案,孫權赤烏十年,詔徙武昌宮材瓦,以繕治建康宮,而此猶有端門內殿。」
〔四〕『三国志』呉書・孫亮伝・裴注:「吳錄云「諸葛恪有遷都意,更起武昌宮。今所災者恪所新作。」」
〔五〕『漢書』五行志:「天戒若曰,去高顯而奢僭者。一曰,門闕,號令所由出也,今舍大聖而縱有辠,亡以出號令矣。京房易傳曰「君不思道,厥妖火燒宮。」」
【参照】
『宋書』五行志:「吳孫亮建興元年十二月,武昌端門災。改作端門,又災內殿。案春秋魯雉門及兩觀災。董仲舒以為天意欲使定公誅季氏,漢武帝世,遼東高廟災,其說又同。今此與二事頗類也。且門者,號令所出,殿者,聽政之所。是時諸葛恪秉政,而矜慢放肆,孫峻總禁旅,而險害終著。武昌,孫氏尊號所始,天戒若曰,宜除其貴要之首者。恪果喪眾殄民,峻授政於綝,綝廢亮也。或曰孫權毀徹武昌,以增太初宮,諸葛恪有遷都意,更起門殿,事非時宜,故見災也。京房易傳曰「君不思道,厥妖火燒宮。」
呉の孫亮の建興元年(252)十二月,武昌の端門で火災が起こった,作りなおしたが,端門にまた火災があった。内殿門というものは,號令の出されるところである。殿というものは,政治を執り行う場所である。この時諸葛恪が政治をとりおこない,驕り高ぶりほしいままに振る舞い,孫峻は禁軍を統率しており,兇悪さがさいごには表に現れたのである。武昌は,孫氏の皇帝号の始まった場所である。天は戒しめてこのようにいうのである,よろしくそのもっとも政権の要のものを除くべきである,と。諸葛恪ははたせるかな衆民を毀損し,孫峻は政権を孫綝へと授け,孫綝は孫亮を廢位した。つぎのようにいう人もいる,孫權は武昌宮をこぼち(建業の)太初宮を増築し〔三〕,諸葛恪には遷都の意があり,さらに門殿を建てる〔四〕,その事業は時宜にかなっていない,そのため災が現れたのである。『京房易傳』には「君主が正道に思いを致さなければ,その怪火が宮殿を焼く。」という。
太平元年二月朔,建鄴火,人之火也。是秋,孫綝始執政,矯以亮詔殺呂據・滕胤。明年,又輒殺朱異。棄法律逐功臣之罰也。
太平元年二月朔の建鄴の火あり〔一〕,人の火なり〔二〕。是の秋,孫綝始めて政を執り,矯めるに亮の詔を以て呂據・滕胤を殺す。明年,又 輒ち朱異を殺す。法律を弃て功臣を逐うたることの罰なり。
〔一〕『三國志』吳書・三嗣主傳・孫亮:「太平元年春二月朔,建業火。峻用征北大將軍文欽計,將征魏。八月,先遣欽及驃騎將軍呂據,車騎將軍劉纂,鎮南將軍朱異,前將軍唐咨軍自江都入淮,泗。九月丁亥,峻卒,以從弟偏將軍綝為侍中,武衞將軍,領中外諸軍事,召還據等。據聞綝代峻,大怒。己丑,大司馬呂岱卒。壬辰,太白犯南斗。據,欽,咨等表薦衞將軍滕胤為丞相,綝不聽。癸卯,更以胤為大司馬,代呂岱駐武昌。據引兵還,欲討綝。綝遣使以詔書告喻欽,咨等,使取據。冬十月丁未,遣孫憲及丁奉,施寬等以舟兵逆據於江都,遣將軍劉丞督步騎攻胤。胤兵敗夷滅。己酉,大赦,改年。辛亥,獲呂據於新州。十一月,以綝為大將軍,假節,封永康侯。孫憲與將軍王惇謀殺綝,事覺,綝殺惇,迫憲令自殺。十二月,使五官中郎將刁玄告亂于蜀。」
〔二〕『春秋左氏傳』宣公十六年:「夏,成周宣榭火。人火之也。凡火,人火曰火,天火曰災。」
【参照】
『宋書』五行志:「吳孫亮太平元年二月朔,建業火。人火之也。是秋,孫綝始秉政,矯以亮詔殺呂據,滕胤,明年,又輒殺朱異。棄法律,逐功臣之罰也。」
太平元年(256年)二月朔の建鄴で火災があった,人事の(不正に関わる)火である。この秋,孫綝は政治を執りはじめ,いつわって孫亮の詔をもって呂據・滕胤を殺した。明年,さらに朱異を殺した。法律を棄てて功臣を退けたことの罰である。
孫休永安五年二月,城西門北樓災。 六年十月,石頭小城火,燒西南百八十丈。是時嬖人張布專擅國勢,多行無禮,而韋昭・盛沖終斥不用。兼遣察戰等為內史,驚擾州郡,致使交阯反亂,是其咎也。
孫休の永安五年二月,城の西門北樓に災いあり〔一〕。 六年十月,石頭小城の火,西南百八十丈を燒く。是の時 嬖人張布 國勢を專擅し,行ひて禮無きこと多くして,韋昭・盛沖 終に斥け用いられず。兼ねて察戰等を遣わし內史を為すも,州郡を驚き擾(みだ)し,交阯をして反亂に致さしむ。是れ其の咎なり。
〔一〕『三國志』吳書・三嗣主傳・孫休:「五年春二月,白虎門北樓災。秋七月,始新言黃龍見。八月壬午,大雨震電,水泉涌溢。乙酉,立皇后朱氏。戊子,立子𩅦為太子,大赦。冬十月,以衞將軍濮陽興為丞相,廷尉丁密,光祿勳孟宗為左右御史大夫。休以丞相興及左將軍張布有舊恩,委之以事,布典宮省,興關軍國。休銳意於典籍,欲畢覽百家之言,尤好射雉,春夏之間常晨出夜還,唯此時舍書。休欲與博士祭酒韋曜,博士盛沖講論道藝,曜,沖素皆切直,布恐入侍,發其陰失,令己不得專,因妄飾說以拒遏之。休答曰「孤之涉學,羣書略徧,所見不少也。其明君闇王,姦臣賊子,古今賢愚成敗之事,無不覽也。今曜等入,但欲與論講書耳,不為從曜等始更受學也。縱復如此,亦何所損。君特當以曜等恐道臣下姦變之事,以此不欲令入耳。如此之事,孤已自備之,不須曜等然後乃解也。此都無所損,君意特有所忌故耳。」布得詔陳謝,重自序述,又言懼妨政事。休答曰「書籍之事,患人不好,好之無傷也。此無所為非,而君以為不宜,是以孤有所及耳。政務學業,其流各異,不相妨也。不圖君今日在事,更行此於孤也,良所不取。」布拜表叩頭,休答曰「聊相開悟耳,何至叩頭乎!如君之忠誠,遠近所知。往者所以相感,今日之巍巍也。詩云『靡不有初,鮮克有終。』終之實難,君其終之。」初休為王時,布為左右將督,素見信愛,及至踐阼,厚加寵待,專擅國勢,多行無禮,自嫌瑕短,懼曜,沖言之,故尤患忌。休雖解此旨,心不能悅,更恐其疑懼,竟如布意,廢其講業,不復使沖等入。是歲使察戰 到交阯調孔爵,大豬。」,裴松之注「察戰,吳官名號,今揚都有察戰巷。」
【参照】
『宋書』五行志:「吳孫休永安五年二月,白虎門北樓災。六年十月,石頭小城火,燒西南百八十丈。是時嬖人張布專擅國勢,多行無禮,而韋昭,盛冲終斥不用,兼遣察戰等為使,驚擾州郡,致使交趾反亂。是其咎也。」
孫休の永安五年(262年)二月,城の西門北楼に火災があった。 (永安)六年十月,石頭(小)城の火は,西南百八十丈を焼いた。この時の嬖人である張布は国勢を専擅し,礼にかなっていない行いが多く,韋昭・盛沖は結局斥けられて用られなかった。さらに察戦等を内史としたが,州郡をおびやかし擾して,交阯郡にて反乱が起こる事態を招いた。これはその咎である。
孫晧建衡二年三月,大火,燒萬餘家,死者七百人。案春秋齊大災,劉向以為桓公好內,聽女口,妻妾數更之罰也。時晧制令詭暴,蕩棄法度,勞臣名士,誅斥甚眾,後宮萬餘,女謁數行,其中隆寵佩皇后璽綬者又多矣,故有大火。
孫晧の建衡二年三月〔一〕,大火あり,萬餘家を燒く。死者七百人。案ずるに春秋の齊の大災,劉向以為らく桓公 內を好み,女口を聽き,妻妾數しば更ふることの罰なり〔二〕〔三〕。時に晧 制令に詭暴あり,法度を蕩(ほしいまま)にし棄て,勞臣名士誅斥せらるること甚だ眾(おお)く,後宮萬餘,女謁すること數(しばしば)行ふ,其の中 寵を隆くし,皇后の璽綬を佩びる者又多く,故に大火有り。
〔一〕『三国志』呉書・三嗣主傳・孫皓傳:「三月,天火燒萬餘家,死者七百人。」
〔二〕『春秋』荘公二十年:「夏,齊大災。」
『史記』世家 齊太公世家第二:「四十三年。初,齊桓公之夫人三,曰王姬,徐姬,蔡姬,皆無子。桓公好內,多內寵,如夫人者六人,長衞姬,生無詭,少衞姬,生惠公元,鄭姬,生孝公昭,葛嬴,生昭公潘,密姬,生懿公商人,宋華子,生公子雍。桓公與管仲屬孝公於宋襄公,以為太子。雍巫有寵於衞共姬,因宦者豎刀以厚獻於桓公,亦有寵,桓公許之立無詭。管仲卒,五公子皆求立。冬十月乙亥,齊桓公卒。易牙入,與豎刀因內寵殺羣吏,而立公子無詭為君。太子昭奔宋。」
〔三〕『漢書』五行志上:「嚴公二十年「夏,齊大災」。劉向以為齊桓好色,聽女口,以妾為妻,適庶數更,故致太災。桓公不寤,及死,適庶分爭,九月不得葬。公羊傳曰,大災,疫也。董仲舒以為魯夫人淫於齊,齊桓姊妹不嫁者七人。國君,民之父母。夫婦,生化之本。本傷則末夭,故天災所予也。」
顔師古注「更,改也,桓公之夫人三,王姬,徐嬴,蔡姬,皆無子。而桓公好內多寵,內嬖如夫人者六人。長衞姬,生公子無虧,即武孟也。少衞姬,生惠公。鄭姬生孝公。葛嬴生昭公。密姬生懿公。宋華子生公子雍。公與管仲屬孝公於宋襄公,以為太子。易牙有寵於衞恭姬,因寺人貂以薦羞於公,請立武孟。公許之。管仲卒,五公子皆求立。適讀曰嫡,下亦同。數音所角反。」
【参照】
『宋書』五行志:「吳孫晧建衡二年三月,大火,燒萬餘家,死者七百人。案春秋,齊火。劉向以為桓公好內,聽女口,妻妾數更之罰也。晧制令詭暴,蕩棄法度,勞臣名士,誅斥甚眾。後宮萬餘,女謁數行,其中隆寵佩皇后璽者又多矣。故有大火。」
孫晧の建衡二年(270年)三月,大火があり,一万戸以上を焼いた。死者は七百人。『春秋』の斉の大災について劉向は,桓公は色を好み,女性のいうことに耳をかして,しばしば妻妾を変えたことの罰であると,考えた。その時孫晧の制令は暴虐で常なく,法度を気ままに無きものとし,功労ある臣下や名士を誅殺されることが非常に多かった。後宮の(女性の数は)一万人以上に及び,宮女を頼んで請願することがしばしば行われ,その中には寵愛されて皇后の璽綬を佩びる者も多かった,故に大火があったのだ。
武帝太康八年三月乙丑,震災西閤楚王所止坊及臨商觀窗。
十年四月癸丑,崇賢殿災。十月庚辰,含章鞠室・脩成堂前廡・景坊東屋・暉章殿南閤火。時有上書曰「漢王氏五侯,兄弟迭任,今楊氏三公,並在大位,故天變屢見,竊為陛下憂之。」由是楊珧求退。是時帝納馮紞之間,廢張華之功,聽楊駿之讒,離衞瓘之寵,此逐功臣之罰也。明年,宮車宴駕。其後楚王承竊發之旨,戮害二公,身亦不免。震災其坊,又天意乎。
武帝の太康八年三月乙丑〔一〕,西閤の楚王所止の坊及び臨商觀の窗に震の災あり。
十年四月癸丑,崇賢殿に災ひあり。十月庚辰〔二〕,含章の鞠室・脩成堂の前廡・景坊東屋・暉章殿の南閤に火あり。時に上書有り。曰く「漢の王氏の五侯,兄弟迭(たが)いに任せ,今の楊氏の三公,並びに大位に在り,故に天變屢(しばしば)あらはる,竊(ひそ)かに陛下の為に之を憂う。」と。是に由って楊珧退くことを求む。是の時帝 馮紞の間を納め,張華の功を廢し,楊駿の讒を聽き,衞瓘の寵を離す。此れ功臣を逐ふことの罰なり。明年,宮車宴駕す。其の後楚王竊發の旨を承り,二公を戮害するも,身また免れず〔三〕。其の坊に震の災あり,又た天意なるや。
〔一〕「十月庚辰」を中華書局標点本では「十一月庚辰」に作る。今、『晋書斠注』に從う。
〔二〕『晉書』武帝本紀:「八年春正月戊申朔,日有蝕之。太廟殿陷。三月乙丑,臨商觀震。夏四月,齊國,天水隕霜,傷麥。六月,魯國大風,拔樹木,壞百姓廬舍。郡國八大水。秋七月,前殿地陷,深數丈,中有破船。八月,東夷二國內附。九月,改營太廟。冬十月,南康平固縣吏李豐反,聚眾攻郡縣,自號將軍。十一月,海安令蕭輔聚眾反。十二月,吳興人蔣迪聚黨反,圍陽羨縣,州郡捕討,皆伏誅。南夷扶南,西域康居國各遣使來獻。是歲,郡國五地震。」
〔三〕『晉書』八王傳・楚隱王瑋:楚隱王瑋字彥度,武帝第五子也。初封始平王,歷屯騎校尉。太康末,徙封於楚,出之國,都督荊州諸軍事、平南將軍,轉鎮南將軍。武帝崩,入為衞將軍,領北軍中候,加侍中、行太子少傅。
「楊駿之誅也,瑋屯司馬門。瑋少年果銳,多立威刑,朝廷忌之。汝南王亮、太保衞瓘以瑋性很戾,不可大任,建議使與諸王之國,瑋甚忿之。長史公孫宏、舍人岐盛並薄於行,為瑋所昵。瓘等惡其為人,慮致禍亂,將收盛。盛知之,遂與宏謀,因積弩將軍李肇矯稱瑋命,譖亮、瓘於賈后。而后不之察,使惠帝為詔曰「太宰、太保欲為伊霍之事,王宜宣詔,令淮南、長沙、成都王屯宮諸門,廢二公。」夜使黃門齎以授瑋。瑋欲覆奏,黃門曰「事恐漏泄,非密詔本意也。」瑋乃止。遂勒本軍,復矯詔召三十六軍,手令告諸軍曰「天禍晉室,凶亂相仍。間者楊駿之難,實賴諸君克平禍亂。而二公潛圖不軌,欲廢陛下以絕武帝之祀。今輒奉詔,免二公官。吾今受詔都督中外諸軍。諸在直衞者皆嚴加警備,其在外營,便相率領,徑詣行府。助順討逆,天所福也。懸賞開封,以待忠效。皇天后土,實聞此言。」又矯詔使亮、瓘上太宰太保印綬、侍中貂蟬,之國,官屬皆罷遣之。又矯詔赦亮、瓘官屬曰「二公潛謀,欲危社稷,今免還第。官屬以下,一無所問。若不奉詔,便軍法從事。能率所領先出降者,封侯受賞。朕不食言」。遂收亮、瓘,殺之。
岐盛說瑋,可因兵勢誅賈模、郭彰,匡正王室,以安天下。瑋猶豫未決。會天明,帝用張華計,遣殿中將軍王宮齎騶虞幡麾眾曰「楚王矯詔。」眾皆釋杖而走。瑋左右無復一人,窘迫不知所為,惟一奴年十四,駕牛車將赴秦王柬。帝遣謁者詔瑋還營,執之於武賁署,遂下廷尉。詔以瑋矯制害二公父子,又欲誅滅朝臣,謀圖不軌,遂斬之,時年二十一。其日大風,雷雨礔礰。詔曰「周公決二叔之誅,漢武斷昭平之獄,所不得已者。廷尉奏瑋已伏法,情用悲痛,吾當發哀。」瑋臨死,出其懷中青紙詔,流涕以示監刑尚書劉頌曰「受詔而行,謂為社稷,今更為罪。託體先帝,受枉如此,幸見申列。」頌亦歔欷不能仰視。公孫宏、岐盛並夷三族。
瑋性開濟好施,能得眾心,及此莫不隕淚,百姓為之立祠。賈后先惡瓘、亮,又忌瑋,故以計相次誅之。永寧元年,追贈驃騎將軍,封其子範為襄陽王,拜散騎常侍,後為石勒所害。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉武帝太康八年三月乙丑,震災西閣,楚王所止坊,及臨商觀牕。十年四月癸丑,崇賢殿災。十月庚辰,含章鞠室,脩成堂前廡,丙坊東屋,煇章殿南閣火。時有上書者曰「漢王氏五侯兄弟迭任,今楊氏三公並在大位。天變屢見,竊為陛下憂之。」楊珧由是乞退。是時帝納馮紞之間,廢張華之功;聽楊駿之讒,離衞瓘之寵。此逐功臣之罰也。明年,宮車晏駕。其後楚王承竊發之旨,戮害二公,身亦不免。震災其坊,又天意乎。」
武帝の太康八年(287年)三月乙丑,西の宮殿の雷による火災は,楚王の居住区画や臨商觀の窓にも及んだ。
十年四月癸丑,崇賢殿に災いがあった。十月庚辰,含章殿の鞠室・脩成堂の前 廡・景坊 東屋・暉章殿の南閤に火があった。時に上書があった。(右軍督趙休の上書)それをみるに「漢の王氏の五侯は,兄弟が互いに任せて,今の楊氏の三公は,そろって大位に在る,そのため天變がしばしばあらわれた,ひそかに陛下の為にこれを憂いている。」と。これによって楊珧を退けることを求めた。この時皇帝は馮紞との仲たがいを納め,張華の功を廃して,楊駿の讒を聴き,衞瓘への寵愛を離した。これは功臣をおいやったことの罰である。明年,天子が亡くなった。その後楚王(司馬瑋)はひそかに偽って二公(司馬亮・衛瓘)を戮害するも,その身も免れなかった。その地区に雷による火災があったが,これは天意であろう。
惠帝元康五年閏月庚寅,武庫火。張華疑有亂,先命固守,然後救火。是以累代異寶,王莽頭,孔子屐,漢高祖斷白蛇劍及二百萬人器械,一時蕩盡。是後愍懷太子見殺之罰也。天戒若曰,夫設險擊柝,所以固其國,儲積戎器,所以戒不虞。今冢嗣將傾,社稷將泯,禁兵無所復施,皇旅又將誰衞。帝后不悟,終喪四海,是其應也。張華・閻纂皆曰,「武庫火而氐羌反,太子見廢,則四海可知」。
惠帝の元康五年閏月庚寅,武庫に火あり。張華亂有ることを疑い,先ず固く守ることを命じて,然る後 火を救ふ。是を以て累代の異寶,王莽の頭,孔子の屐,漢の高祖斷白蛇劍及び二百萬人器械,一時に蕩盡す。是れ後の愍懷太子殺さるることの罰なり。天戒しめて若くのごとく曰く,「夫れ險を設け柝を擊つは,其の國を固める所以なり,戎器を儲積するは,不虞を戒むる所以なり。」と。今冢嗣 將に傾かんとし,社稷 將に泯びんとす,禁兵復た施す所無く,皇旅又將に誰かに衞らせんとす。帝后悟らず,終に四海を喪ふ,是れ其の應なり。張華・閻纂皆曰く,「武庫の火ありて氐羌反し,太子廢せられば,則ち四海知るべし」と。
【参照】
『宋書』五行志:「晉惠帝元康五年閏月庚寅,武庫火。張華疑有亂,先固守,然後救災。是以累代異寶,王莽頭,孔子履,漢高斷白蛇劍及二百萬人器械,一時蕩盡。是後愍懷見殺,殺太子之罰也。天戒若曰,夫設險擊柝,所以固其國,儲積戎器,所以戒不虞。今冢嗣將傾,社稷將泯,禁兵無所復施,皇旅又將誰衞。帝后不悟,終喪四海,是其應也。張華,閻纂皆曰,武庫火而氐,羌反,太子見廢,則四海可知矣。」
恵帝の元康五年(295年)閏月庚寅,武庫に火があった。張華は(司馬倫らによる)乱が有ることを疑って,先ず固く守ることを命じたので,その後で火を消した。これにより歴代の珍宝である,王莽の頭,孔子の屐,漢の高祖の断白蛇劍及び二百万人分の武器などは全て灰燼に帰した。(これは)その後に愍懐太子が殺されたことへの罰である。天が戒しめていうには,「そもそも險を設けて(守りの意)柝を擊つ(警戒する意)のは,その国を固めるためである,武器を数多くため込むのは,思いがけないことを警戒するためである。」といった。今太子の座は傾こうとしており,社稷は今まさに亡びんとしている,禁兵はまた働くことがなく,皇旅の際は誰かに衞らせようとしている。皇帝や皇后は悟らず,最終的に天下を喪った,これはその応である。張華・閻纂皆がいうには「武庫の火に関連して氐羌が反乱を起こし,太子が廃せられたのであれば,天下の皆が知るべきである」と。
八年十一月,高原陵火。是時賈后凶恣,賈謐擅朝,惡積罪稔,宜見誅絕。天戒若曰,臣妾之不可者,雖親貴莫比,猶宜忍而誅之,如吾燔高原陵也。帝既眊弱,而張華又不納裴頠・劉卞之謀,故后遂與謐殺太子也。干寶以為「高原陵火,太子廢之應。漢武帝世,高園便殿火,董仲舒對與此占同」。
八年十一月,高原陵に火あり。是の時賈后 凶恣し,賈謐 擅朝し,惡積り罪稔る,宜しく誅絕せらるべし。天戒しめて若くのごとく曰く,臣妾の不可なる者,親貴比するなきと雖も,猶宜しく忍びて之を誅するべし,吾 高原陵燔くが如くなりと。帝 既に眊弱して,張華又た裴頠・劉卞の謀を納れず,故に后遂に謐と與に太子を殺すなり。干寶以為らく「高原陵の火,太子を廢することの應なり。漢の武帝の世,高園の便殿の火〔一〕,董仲舒の對へ此の占と同じ」。
〔一〕『漢書』五行志第七上:「武帝建元六年六月丁酉,遼東高廟災。四月壬子,高園便殿火。董仲舒對曰「春秋之道舉往以明來,是故天下有物,視春秋所舉與同比者,精微眇以存其意,通倫類以貫其理,天地之變,國家之事,粲然皆見,亡所疑矣。按春秋魯定公,哀公時,季氏之惡已孰,而孔子之聖方盛。夫以盛聖而易孰惡,季孫雖重,魯君雖輕,其勢可成也。故定公二年五月兩觀災。兩觀,僭禮之物,天災之者,若曰,僭禮之臣可以去。已見辠徵,而後告可去,此天意也。定公不知省。至哀公三年五月,桓宮,釐宮災。二者同事,所為一也,若曰燔貴而去不義云爾。哀公未能見,故四年六月亳社災。兩觀,桓,釐廟,亳社,四者皆不當立,天皆燔其不當立者以示魯,欲其去亂臣而用聖人也。季氏亡道久矣,前是天不見災者,魯未有賢聖臣,雖欲去季孫,其力不能,昭公是也。至定,哀乃見之,其時可也。不時不見,天之道也。今高廟不當居遼東,高園殿不當居陵旁,於禮亦不當立,與魯所災同。其不當立久矣,至於陛下時天乃災之者,殆亦其時可也。昔秦受亡周之敝,而亡以化之。漢受亡秦之敝,又亡以化之。夫繼二敝之後,承其下流,兼受其猥,難治甚矣。又多兄弟親戚骨肉之連,驕揚奢侈恣睢者衆,所謂重難之時者也。陛下正當大敝之後,又遭重難之時,甚可憂也。故天災若語陛下『當今之世,雖敝而重難,非以太平至公,不能治也。視親戚貴屬在諸侯遠正最甚者,忍而誅之,如吾燔遼高廟乃可。視近臣在國中處旁仄及貴而不正者,忍而誅之,如吾燔高園殿乃可』云爾。在外而不正者,雖貴如高廟,猶災燔之,況諸侯乎!在內不正者,雖貴如高園殿,猶燔災之,況大臣乎!此天意也。辠在外者天災外,辠在內者天災內,燔甚辠當重,燔簡辠當輕,承天意之道也。」」
【参照】
『宋書』五行志:「元康八年十一月,高原陵火。是時賈后凶恣,賈謐擅朝,惡積罪稔,宜見誅絕。天戒若曰,臣妾之不可者,雖親貴莫比,猶宜忍而誅之,如吾燔高原陵也。帝既眊弱,而張華又不納裴頠,劉卞之謀,故后遂與謐誣殺太子也。干寶云「高原陵火,太子廢,其應也。漢武帝世,高園便殿火,董仲舒對與此占同。」」
(元康)八年(298年)十一月,高原陵に火があった。この時賈后はわざわいを恣ままにして,賈謐は擅朝し,悪や罪がつもっていった,これは誅絶されるべきである。天が戒しめていうには,臣妾としてふさわしくない者は,他に比べるものがないくらい親しさと身分の貴さがあったとしても,それでも耐え忍んで誅する必要がある,我(天)が高原陵を燔くようにせねばならないと。皇帝は既に衰弱して張華もまた裴頠・劉卞の謀を納めないので,皇后は遂に賈謐と共謀して太子を殺した。干寶が考えるに「高原陵の火は太子を廃することの応である。漢の武帝の世,高園の便殿の火について,董仲舒の答えはこの占と同じ」と。
永康元年,帝納皇后羊氏,后將入宮,衣中忽有火,眾咸怪之。永興元年,成都王遂廢后,處之金墉城。是後還立,立而復廢者四。又詔賜死,荀藩表全之。雖來還在位,然憂逼折辱,終古未聞。此孽火之應也。
永康元年,帝 皇后羊氏を納れ,后 將に入宮せんとす,衣中に忽ち火あり,眾(しゅう)咸な之を怪しむ。永興元年,成都王遂に廢后し,之を金墉城に處らしむ。是の後 還た立ち,立ちて復び廢する者四。又詔して死を賜い,荀藩 表して之を全うす。來還して在位すと雖も,然るに憂逼折辱し,終古未だ聞かず。此れ孽火(げつか)の應なり。
【参照】
『宋書』五行志:「晉惠帝永康元年,帝納皇后羊氏。后將入宮,衣中忽有火,眾咸怪之。太安二年,后父玄之以成都之逼,憂死。永興元年,成都遂廢后,處之金墉城,而殺其叔父同之。是後還立,立而復廢者四,又詔賜死,荀藩表全之。雖末還在位,然憂逼折辱,終古未聞。此孽火之應。」
永康元年(300年),皇帝は皇后の羊氏を娶り,皇后は今まさに入宮しようとしたとき,衣の内側から突然火がおこったので,人々は皆これを怪しんだ。永興元年,成都王は遂に廃后し(皇后を替えて),金墉城に移した。この後また立后し,また廃することは四回あった。また詔で死を賜わり,荀藩はそれを表してこれを全うした。いったりきたりして在位があるとしても,憂い煩い辱められた,(このような事は)古来今まで聞いたことがない。これは孽火(怪異が起こした火)の応である。
永興二年七月甲午,尚書諸曹火起,延崇禮闥及閣道。夫百揆王化之本,王者棄法律之應也。後清河王覃入嗣,不終於位,又殺太子之罰也。
永興二年七月甲午,尚書諸曹に火起り,崇禮闥及び閣道に延す。夫れ百揆 王化の本,王者法律を棄つることの應なり〔一〕。後に清河王覃 入嗣し,位に終わらず,又太子を殺すことの罰なり。
【参照】
『宋書』五行志:「晉惠帝永興二年七月甲午,尚書諸曹火,延崇禮闥及閣道。夫百揆王化之本,王者棄法律之應也。清河王覃入為晉嗣,不終于位,又殺太子之罰也。」
永興二年(305年)七月甲午,尚書諸曹に火が起り,(火は)崇礼闥に延び閣道にまで及んだ。そもそも役人というのは君主が民を感化するための根本であって,(尚書諸曹に火が起ったということは)王が法律を棄てていることの応である。後に清河王覃は入嗣して,位を全うせず,また太子を殺したことへの罰である。
孝懷帝永嘉四年十一月,襄陽火,燒死者三千餘人。是時王如自號大將軍・司雍二州牧,眾四五萬,攻略郡縣。此下陵上,陽失其節之應也。
孝懷帝の永嘉四年十一月,襄陽に火あり,燒死者三千餘人。是の時王如自ら大將軍・司雍二州牧と號し,眾四五萬,郡縣を攻略す。此れ下上を陵ぎ,陽 其の節を失うことの應なり。
【参照】
『宋書』五行志:「晉孝懷帝永嘉四年十一月,襄陽火,死者三千餘人。是時王如自號大將軍,司雍二州牧,眾四五萬,攻略郡縣,以為己邑。都督力屈,嬰城自守,賊遂攻逼襄陽。此下陵上,陽失節,火災出也。」
孝懐帝の永嘉四年(310年)十一月,襄陽に火があり,焼死者は三千余人にのぼった。この時王如は自ら大将軍・司雍二州牧と号して,四五万の兵を率い,郡県を攻略した。これは下の者が上をしのぎ,陽が其の節度を失うことの応である。
元帝太興中,王敦鎮武昌,武昌災,火起,興眾救之,救於此而發於彼,東西南北數十處俱應,數日不絕。舊說所謂「濫炎妄起,雖興師眾不能救之」之謂也。干寶以為「此臣而君行,亢陽失節,是為王敦陵上,有無君之心,故災也」。
元帝の太興中,王敦武昌を鎮め,武昌に災いあり,火起こる。眾を興し之を救ふ,此れを救ふも彼こに發す,東西南北數十處俱に應じ,數日絕へず。舊說の所謂「濫炎妄りに起り,師眾を興すと雖も之を救うこと能わず」の謂ひなり。干寶以為らく「此れ臣にして君行し,亢陽 節を失ふ。是れ王敦 上を陵ぐことを為し,君を無みするの心有り。故に災いあるなり」。
【参照】
『宋書』五行志:「晉元帝太興中,王敦鎮武昌。武昌火起,興眾救之。救於此而發於彼,東西南北數十處俱應,數日不絕。班固所謂濫炎妄起,雖興師不能救之之謂也。干寶曰「此臣而君行,亢陽失節之災也。」」
元帝の太興中(318年~321年),王敦は武昌を鎮め,武昌に災いがあり,火が起きた。人々を奮い立たせてこれを救い,ここを防げば他方で起こり,東西南北数十箇所で同時に起こって,数日絶えなかった。旧説によると「濫炎が妄りに起り,軍隊をおこしたが人々はこれを救うことができなかった」とあり、これのことを指している。干宝が考えるには「これは臣下であるにもかかわらず君主のような行いをすることである。亢陽は節を失う。これは王敦が上をしのいでおり、君主を無視する心があった。故に火災があるのである」と。
永昌二年正月癸巳,京都大火。三月,饒安・東光・安陵三縣火,燒七千餘家,死者萬五千人。
永昌二年正月癸巳,京都(けいと)に大火あり。三月,饒安・東光・安陵の三縣に火あり,七千餘家を燒くこと,死者萬五千人なり。
【参照】
『宋書』五行志:「晉元帝永昌二年正月癸巳,京都大火。三月,饒安,東光,安陵三縣火,燒七千餘家,死者萬五千人。」
永昌二年(323年)正月癸巳,都(洛陽)に大火があった。三月,饒安・東光・安陵の三県に火があり,七千余戸を焼いて,死者は一万五千人にのぼった。
明帝太寧元年正月,京都火。是時王敦威侮朝廷,多行無禮,內外臣下咸懷怨毒,極陰生陽也。
明帝の太寧元年正月,京都に火あり。是の時王敦 朝廷を威侮し,行い禮無きこと多し,內外の臣下咸怨毒を懷(いだ)き,陰を極め,陽生ずるなり。
【参照】
『宋書』五行志:「晉明帝太寧元年正月,京都火。是時王敦威侮朝廷,多行無禮,內外臣下,咸懷怨毒。極陰生陽,故有火災。與董仲舒說春秋陳火同事也。」
明帝の太寧元年(323年)正月,都(洛陽)で火災があった。この時王敦は朝廷を侮辱し,行いは礼を欠いていることが多く,内外の臣下はみな怨恨をいだいたため,陰が極まり陽が生ずるのである。
成帝咸和二年五月,京師火。
成帝の咸和二年五月,京師に火あり。
成帝の咸和二年(327年)五月,京師で火災があった。
康帝建元元年七月庚申,吳郡災。
康帝の建元元年七月庚申,吳郡に災いあり。
【参照】
『宋書』五行志:「晉康帝建元元年七月庚申,晉陵,吳郡災風。」
康帝の建元元年(343年)七月庚申,呉郡で火災があった。
穆帝永和五年六月,震災石季龍太武殿及兩廟端門。震災月餘乃滅,金石皆盡。其後季龍死,大亂,遂滅亡。
穆帝の永和五年六月,石季龍の太武殿及び兩廟の端門に震の災あり。震の災月餘にして滅び,金石皆盡きる。其の後季龍死し,大いに亂れ,遂に滅亡す。
【参照】
『宋書』五行志:「晉穆帝永和五年六月,震災石虎太武殿及兩廂,端門,光爛照天,金石皆盡,火月餘乃滅。是年四月,石虎死矣。其後胡遂滅亡。」
穆帝の永和五年(349年)六月,石季龍の太武殿及び両廟の端門に雷による火災があった。(この)雷による火災はひと月あまりでなくなり,金属や玉石に至るまで皆焼き尽くした。その後石季龍が死に,大いに乱れて,遂に滅亡した。
海西公太和中,郗愔為會稽太守。六月大旱災,火燒數千家,延及山陰倉米數百萬斛,炎煙蔽天,不可撲滅。此亦桓溫強盛,將廢海西,極陰生陽之應也。
海西公〔一〕の太和中,郗愔 會稽太守 為り。六月大旱の災あり,火 數千家を燒き,延して山陰の倉米の數百萬斛にも及び,炎煙天を蔽し,撲滅すべからず。此れ亦た桓溫強盛にして,將に海西を廢さんとす,陰 極まり陽を生ずることの應なり。
〔一〕『晉書』廢帝海西公紀:「廢帝諱奕,字延齡,哀帝之母弟也。咸康八年封為東海王。永和八年拜散騎常侍,尋加鎮軍將軍。升平四年拜車騎將軍。五年,改封琅邪王。隆和初,轉侍中,驃騎大將軍,開府儀同三司。興寧三年二月丙申,哀帝崩,無嗣。丁酉,皇太后詔曰「帝遂不救厥疾,艱禍仍臻,遺緒泯然,哀慟切心。琅邪王奕。明德茂親,屬當儲嗣,宜奉祖宗,纂承大統。便速正大禮,以寧人神。」於是百官奉迎于琅邪第。是日,即皇帝位,大赦。……【中略】……咸安二年正月,降封帝為海西縣公。四月,徙居吳縣,敕吳國內史刁彝防衞,又遣御史顧允監察之。十一月,妖賊盧悚遣弟子殿中監許龍晨到其門,稱太后密詔,奉迎興復。帝初欲從之,納保母諫而止。龍曰「大事將捷,焉用兒女子言乎。」帝曰「我得罪於此,幸蒙寬宥,豈敢妄動哉。且太后有詔,便應官屬來,何獨使汝也。汝必為亂。」因叱左右縛之,龍懼而走。帝知天命不可再,深慮橫禍,乃杜塞聰明,無思無慮,終日酣暢,耽於內寵,有子不育,庶保天年。時人憐之,為作歌焉。朝廷以帝安于屈辱,不復為虞。太元十一年十月甲申,薨于吳,時年四十五。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉海西太和中,郗愔為會稽。六月,大旱災,火燒數千家,延及山陰倉米數百萬斛。炎烟蔽天,不可撲滅。」
海西公の太和年間(366年~371年),郗愔は會稽太守であった。六月大干ばつの災いで,火は数千家を焼き,(その火は)山陰の倉の穀物の数百万斛にも及んで,炎や煙は天をおおいかくして,消火しきることはできなかった。これは桓温が強盛にして,今まさに海西公を廃さんとして,陰が極まり陽を生じたことの応である。
孝武帝寧康元年三月,京師風火大起。是時桓溫入朝,志在陵上,少主踐位,人懷憂恐,此與太寧火事同。
孝武帝の寧康元年三月,京師に風火大いに起る。是の時桓溫入朝し,志 上を陵ぐに在り,少主 位を踐す。人 憂恐を懷き,此れ太寧の火事と同じ。
【参照】
『宋書』五行志:「晉孝武帝寧康元年三月,京都風,火大起。是時桓溫入朝,志在陵上,少主踐位,人懷憂恐。此與太寧火同事。」
孝武帝の寧康元年(373年)三月,京師に風火が大いに起こった。この時桓温は入朝し,志は皇帝を陵ごうとし,年若い君主が位にあったため,人々は憂いや恐れの感情を懐(いだ)いた,これは太寧の火事と同じである。
太元十年正月,國子學生因風放火,焚房百餘間。是後考課不厲,賞黜無章。蓋有育才之名,而無收賢之實,此不哲之罰先兆也。
太元十年正月,國子學生 風に因りて火を放ち,房を焚くこと百餘間(けん)。是の後考課 厲(はげ)しからず,賞黜章無し。蓋し育才の名あるといえども,收賢の實無く,此れ不哲の罰〔一〕の先兆なり。
〔一〕『宋書』五行志:「傳曰「視之不明,是謂不哲 ,厥咎舒,厥罰恒燠,厥極疾。時則有草妖,時則有蠃蟲之孼,時則有羊禍,時則有目痾,時則有赤眚赤祥。惟水沴火。」視之不明,是謂不哲。哲,知也。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉孝武帝太元十年正月,立國子學。學生多頑嚚,因風放火,焚房百餘間。是後考課不厲,賞黜無章,有育才之名,無收賢之實。書云「知人則哲。」此不哲之罰先兆也。」
太元十年(385年)正月,国子(館)の学生が風に乗って火を放ち,百余間を焼いた。この後考課は厳しくおこなわれず,賞黜は筋道の通らない不明瞭なものとなった。思うに才能を育てるという名はあるというが,賢人を修めるという本来の目的が果たされていなくなっており,これは不哲の罰の前兆である。
十三年十二月乙未,延賢堂災。是月丙申,螽斯則百堂及客館・驃騎府庫皆災。于時朝多弊政,衰陵日兆,不哲之罰,皆有象類,主相不悟,終至亂亡。會稽王道子寵幸尼及姏母,各樹用其親戚,乃至出入宮掖,禮見人主。天戒若曰,登延賢堂及客館者多非其人,故災之也。又,孝武帝更不立皇后,寵幸微賤張夫人,夫人驕妬,皇子不繁,乖螽斯則百之道,故災其殿焉。道子復賞賜不節,故府庫被災,斯亦其罰也。
十三年十二月乙未,延賢堂に災いあり。是の月の丙申,螽斯則百堂〔一〕及び客館・驃騎府庫皆災いあり。時において朝 政弊多く,衰陵日び兆(きざ)す,不哲の罰なり。皆象類有り,主相 悟らず,終に亂亡に至る。會稽王道子 尼及び姏母を寵幸し,各おの其の親戚を樹て用い,乃ち宮掖を出入し,禮もて人主に見ゆるに至る。天戒しめて若くのごとく曰く,延賢堂及び客館に登る者の多く,其の人に非ずと。故に之に災ひす。又た,孝武帝更めて皇后を立てず,微賤の張夫人を寵幸し,夫人驕妬にして,皇子繁らず,螽斯則百の道に乖く,故に其の殿に災いす。道子また賞賜節ならず,故に府庫災を被る,斯れ亦其の罰なり。
〔一〕『後漢書』皇后紀・順烈梁皇后紀:「永建三年,與姑俱選入掖庭,時年十三。相工茅通見后,驚,再拜賀曰「此所謂日角偃月,相之極貴,臣所未嘗見也。」太史卜兆得壽房,又筮得坤之比,遂以為貴人。常特被引御,從容辭於帝曰「夫陽以博施為德,陰以不專為義,螽斯則百,福之所由興也。」
李賢注「詩國風序曰,「言后妃若螽斯不妬忌,則子孫眾多也。」詩大雅曰「太姒嗣徽音,則百斯男」也。」
『毛詩』國風・周南・螽斯:「螽斯羽,詵詵兮,宜爾子孫,振振兮。螽斯羽,薨薨兮,宜爾子孫,繩繩兮。螽斯羽,揖揖兮,宜爾子孫,蟄蟄兮。
【参照】
『宋書』五行志:「太元十三年十二月乙未,延賢堂災。丙申,螽斯,則百堂及客館,驃騎庫皆災。于時朝多弊政,衰陵日兆。不哲之罰,皆有象類。主相不悟,終至亂亡云。」
(太元)十三年(388年)十二月乙未,延賢堂に災いがあった。この月の丙申,螽斯則百堂及び客館・驃騎府庫すべてに災いがあった。この時朝廷は悪政が多く,衰退は日々兆しをみせており,これは不哲の罰なのである。これには皆象徴があり,主君や大臣が悟ることがなく,終に乱亡に至った。會稽王司馬道子は尼や姏母を寵愛し,それぞれの親戚を要職につけて,さらに宮中へ出入りさせた上,礼儀にしたがって皇帝に会見するまでになった。天が戒しめていうには,延賢堂及び客館に登る者の多くは相応しくないものばかりである。だからここに災いがおこるのである。また,孝武帝はあらためて皇后を立てず,微賎の出の張夫人を寵幸し,夫人は驕り妬んで,皇子は生まれなかった。螽斯則百の道に乖いた為,その殿に災いがあった。道子また賞賜を節制しなかった。だから府庫は災を被ったのであり,またその罰なのである。
安帝隆安二年三月,龍舟二乘災,是水沴火也。其後桓玄篡位,帝乃播越。天戒若曰,王者流遷,不復御龍舟,故災之耳。
安帝の隆安二年三月,龍舟二乘に災いあり,是れ水 火を沴するなり。其の後桓玄 位を篡し,帝 乃ち播越す。天戒しめて若くのごとく曰く,王者流遷し,復た龍舟を御せずと。故に之れに災すのみ。
【参照】
『宋書』五行志:「晉安帝隆安二年三月,龍舟二乘災。是水沴火也。」
安帝の隆安二年(398年)三月,龍舟二乗に災いがあった,これは水が火をやぶったのである。その後桓玄は位を簒奪し,皇帝は流浪することになった。天が戒しめていうには,王者は流れうつり,二度と龍舟を率いることはない。だからこの災いがおきたのである,といった。
元興元年八月庚子,尚書下舍曹火,時桓玄遙錄尚書,故天火,示不復居也。
元興元年八月庚子,尚書の下舍曹に火あり,時に桓玄 遙に錄尚書たり,故に天火あり。復た居らざるを示すなり。
【参照】
『宋書』五行志:「晉安帝元興元年八月庚子,尚書下舍曹火。」
元興元年(402年)八月庚子,尚書の下舍曹に火があった,この時(402年3月)に桓玄は遠方にて錄尚書をうけており,だから天火があったのだ。またこれは(その場に)いなかったことを示しているのだ。
三年,盧循攻略廣州,刺史吳隱之閉城固守,其十月壬戌夜,火起。時百姓避寇盈滿城內,隱之懼有應賊者,但務嚴兵,不先救火。由是府舍焚蕩,燒死者萬餘人,因遂散潰,悉為賊擒。
三年,盧循 廣州を攻略し,刺史吳隱之〔一〕 城を閉め固守するに,其の十月壬戌の夜,火起こる。時に百姓寇を避け城內に盈滿し,隱之賊に應ずる者有るを懼れ,但だ兵を嚴むるに務むるのみにして,火を救ふを先にせず。是に由り府舍焚蕩し,燒死者萬餘人。因て遂に散潰し,悉く賊の擒ふるところと為る。
〔一〕『晋書』吳隱之傳:「吳隱之字處默,濮陽鄄城人,魏侍中質六世孫也。隱之美姿容,善談論,博涉文史,以儒雅標名。弱冠而介立,有清操,雖日晏歠菽,不饗非其粟,儋石無儲,不取非其道。年十餘,丁父憂,每號泣,行人為之流涕。事母孝謹,及其執喪,哀毀過禮。家貧,無人鳴鼓,每至哭臨之時,恒有雙鶴警叫,及祥練之夕,復有羣雁俱集,時人咸以為孝感所至。嘗食鹹菹,以其味旨,掇而棄之。……及盧循寇南海,隱之率厲將士,固守彌時,長子曠之戰沒。循攻擊百有餘日,踰城放火,焚燒三千餘家,死者萬餘人,城遂陷。隱之攜家累出,欲奔還都,為循所得。循表朝廷,以隱之黨附桓玄,宜加裁戮,詔不許。劉裕與循書,令遣隱之還,久方得反。歸舟之日,裝無餘資。及至,數畝小宅,籬垣仄陋,內外茅屋六間,不容妻子。劉裕賜車牛,更為起宅,固辭。尋拜度支尚書,太常,以竹篷為屏風,坐無氊席。後遷中領軍,清儉不革,每月初得祿,裁留身糧,其餘悉分振親族,家人績紡以供朝夕。時有困絕,或并日而食,身恒布衣不完,妻子不霑寸祿。義熙八年,請老致事,優詔許之,授光祿大夫,加金章紫綬,賜錢十萬,米三百斛。九年,卒,追贈左光祿大夫,加散騎常侍。隱之清操不渝,屢被褒飾,致事及於身沒,常蒙優錫顯贈,廉士以為榮。」
【参照】
『宋書』五行志:「元興三年,盧循攻略廣州,刺史吳隱之閉城固守。是年十月壬戌夜,大火起。時民人避寇,盈滿城內。隱之懼有應賊,但務嚴兵,不先救火,由是府舍焚燒蕩盡,死者萬餘人,因遂散潰,悉為賊擒。殆與襄陽火同占也。」
(元興)三年(404年),盧循は広州へ攻め込み,刺史の吳隱之は城を閉めて固く守り,その十月壬戌の夜,火が起きた。時に人々は賊の攻撃を避けて城内に満ちており,隱之は賊に応じる者が有ることを危惧し,ただ厳しく兵を戒めただけで,すぐに火を消しに行かなかった。これによって府舍は焼けて,焼死者は一万人以上にのぼった。これによってついに潰散し,ことごとく賊によってとらえられることとなった。
義熙四年七月丁酉,尚書殿中吏部曹火。 九年,京都大火,燒數千家。 十一年,京都所在大行火災,吳界尤甚。火防甚峻,猶自不絕。王弘時為吳郡,晝在聽事,見天上有一赤物下,狀如信幡,遙集路南人家屋上,火即大發。弘知天為之災,故不罪火主。此帝室衰微之應也。
義熙四年七月丁酉,尚書殿中の吏部曹に火あり。 九年,京都に大火あり,數千家を燒く。 十一年,京都の所在に大いに行(めぐ)りて火災あり,吳界 尤も甚だしきなり。火防甚だ峻なるも,猶ほ自(おのずか)ら絕えず。王弘時に吳郡を為(おさ)め,晝 聽事に在り,天上を見るに一赤物の下る有り,狀は信幡の如く,路南の人家 屋上に遙集し,火即ち大いに發す。弘 天 之がために災いあるを知る,故に火主を罪せず。此れ帝室衰微の應なり。
【参照】
『宋書』五行志:「晉安帝義熙四年七月丁酉,尚書殿中吏部曹火。義熙十一年,京都所在大行火災,吳界尤甚。火防甚峻,猶自不絕。王弘時為吳郡,白日在聽事上,見天上有一赤物下,狀如信幡,徑集路南人家屋上,火即復大發。弘知天為之災,不罪火主。」
義熙四年(408年)七月丁酉,尚書殿中の吏部曹に火があった。 九年,京都に大火があり,数千家を焼いた。 十一年,京都のいたるところで大いに火災がおこり,呉界はもっとも被害が酷かった。火への対策が整っていたにも関わらず,なお火が自ら消えることはなかった。その時王弘は呉郡をおさめており,昼は役所にいたところ,天上を見ると赤いものが下りてきた,かたちは信幡(旗)のようであり,路南の人家の屋上に集まった,そして火が噴き出してきた。王弘は天がこの災いを為したことを知った為,出火もとの罪としなかった。これは帝室が衰えている応である。
傳曰「修宮室,飾臺榭,內淫亂,犯親戚,侮父兄,則稼穡不成。」
說曰土,中央,生萬物者也。其於王者,為內事,宮室・夫婦・親屬,亦相生者也。古者天子諸侯,宮廟大小高卑有制,后夫人媵妾多少有度,九族親疏長幼有序。孔子曰「禮,與其奢也,寧儉。」故禹卑宮室,文王刑于寡妻,此聖人之所以昭教化也。如此,則土得其性矣。若乃奢淫驕慢,則土失其性。亡水旱之災而草木百穀不熟,是為稼穡不成。
傳に曰く「宮室を修(つく)り,臺榭を飾り,淫亂なるを內れ,親戚を犯し,父兄を侮れば,則ち稼穡成らず。」と。
說に曰く「土,中央なり,萬物を生ずる者なり。其れ王者に於いては,內事為(た)り,宮室・夫婦・親屬,亦た相ひ生ずる者なり。古者天子諸侯は,宮廟の大小高卑に制有り,后夫人媵妾の多少に度有り,九族親疏の長幼に序有り。」と。孔子曰く「禮,其の奢らんよりは,寧ろ儉せよ。」と〔一〕。故に禹は宮室を卑くし〔二〕,文王は寡妻に刑(のっと)る〔三〕,此れ聖人の教化を昭らかにする所以なり。此の如ければ,則ち土は其の性を得。若し乃ち奢淫驕慢なれば,則ち土は其の性を失ふ。水旱の災亡くして草木百穀熟さざるは,是れ稼穡成らざるが為(ため)なり。
〔一〕『論語』八佾:「林放問禮之本。子曰,大哉問。禮與其奢也寧儉。喪與其易也寧戚。」
〔二〕『論語』泰伯:「子曰,禹吾無間然矣。菲飲食,而致孝乎鬼神,惡衣服而致美乎黻冕,卑宮室而盡力乎溝洫。禹吾無間然矣。」
〔三〕『詩経』大雅・思齊:「刑于寡妻,至于兄弟,以御于家邦。」
【参照】
『漢書』五行志:「傳曰「治宮室,飾臺榭,內淫亂,犯親戚,侮父兄,則稼穡不成。」說曰土,中央,生萬物者也。其於王者,為內事。宮室、夫婦、親屬,亦相生者也。古者天子諸侯,宮廟大小高卑有制,后夫人媵妾多少進退有度,九族親疏長幼有序。孔子曰「禮,與其奢也,寧儉。」故禹卑宮室,文王刑于寡妻,此聖人之所以昭教化也。如此則土得其性矣。若乃奢淫驕慢,則土失其性。亡水旱之災而草木百穀不孰,是為稼穡不成。」
『尚書大傳』はつぎのようにいう「宮殿を造り,楼閣を飾り立て,みだらな女を後宮に入れ,親戚関係に踏み入り,年長者をあなどれば、(農事がうまくいかず)収穫ができない」と。
説にはつぎのようにいう「土は中央であり,万物を生みだすものである。王者にあてはめるならば,内向きの事柄であり,宮殿・夫婦・親族も(そこから)生み出されたものである。むかしの天子や諸侯は,宮殿や廟の大小・高下にきまりがあり,皇后・夫人・側室の多寡に節度があり,九族にわたる親戚の長幼の序列がある。」と。孔子はこうおっしゃった「礼はぜいたくであるよりは,むしろ質素にせよ。」と。それゆえ禹は宮殿を質素にし,文王は妃に礼法を示した。これは聖人が教化を明らかにする方法である。このようにすれば土はその本性を得る。もし贅沢で自堕落な生活を送り他者をみくだせば,土はその本性を失う。水害や干ばつの災害が起こっていないのに草木や穀物が成熟しないのは,(土の本性である)稼穡が成しとげられなかったためである。
吳孫晧時,常歲無水旱,苗稼豐美而實不成,百姓以飢,闔境皆然,連歲不已。吳人以為傷露,非也。案劉向春秋說曰「水旱當書,不書水旱而曰大無麥禾者,土氣不養,稼穡不成」,此其義也。晧初遷都武昌,尋還建鄴,又起新館,綴飾珠玉,壯麗過甚,破壞諸營,增廣苑囿,犯暑妨農,官私疲怠。月令,季夏不可以興土功。晧皆冒之。此修宮室飾臺榭之罰也。
吳の孫晧の時,常歲水旱無く,苗稼豐美なるも實 成らず,百姓以て飢う,闔境皆な然り,連歲已まず。吳人以て傷露と為す,非なり。案ずるに劉向春秋說に曰く「水旱當に書すべきも,水旱と書せずして大ひに麥禾無しと曰ふ者は,土氣養はず,稼穡成らざればなり。」と〔一〕〔二〕,此れ其の義なり。晧 初め武昌に遷都し,尋(つ)いで建鄴に還し〔三〕,又た新館を起こし,珠玉を綴り飾り,壯麗なること過ぎたるは甚だし,諸營を破壞し,苑囿を增廣し,暑を犯し農を妨げ,官私疲怠す。月令に,季夏以て土功を興すべからず〔四〕。と。晧 皆な之を冒す。此れ宮室を修(つく)り臺榭を飾るの罰なり。
〔一〕『漢書』五行志:「劉向以為水旱當書,不書水旱而曰「大亡麥禾」者,土氣不養,稼穡不成者也。」
〔二〕『春秋左氏傳』莊公二十八年:「大無麥禾。臧孫辰告糴于齊。」
『春秋公羊傳』莊公二十八年:「冬,築微。大無麥禾 。冬,既見無麥禾矣。曷為先言築微,而後言無麥禾。諱以凶年造邑也。」
『春秋穀梁傳』莊公二十八年:「大無麥禾。大者有顧之辭也。於無禾及無麥也。」
〔三〕『三國志』吳書「三嗣主傳」:「(寶鼎元年)十二月,晧還都建業,衞將軍滕牧留鎮武昌。」
〔四〕『禮記』月令:「孟夏之月(中略)毋起土功,毋發大眾。」
呉の孫晧の時に,普段は水害や干ばつが無く,植えた苗は豊かであったが実が成熟しなかったので,民は飢え,国中みな飢餓に陥り,何年もおさまらなかった。呉の人たちは露にやられたと考えたが,そうではない。考えてみると,劉向の春秋の説に「水害や干ばつ(があったなら)(『春秋』の経文に)書くべきであるのに,水害や干ばつと書かずに麦やいねが成熟しなかったというのは,土の気が養われず,稼穡が成し遂げられなかったからである」とある,これがその理屈である。孫晧は初めに武昌に遷都し,まもなく建業に都をもどした,それから新しい宮殿を建て,宝石で飾りたてた,(それは)立派で美しすぎること甚だしく,砦を壊し,庭園を増し広げ,暑い時期にわたり農業を妨げ,役人も民も疲弊し怠けた。『礼記』月令にこうある,夏は土木工事をすすめてはいけない,と。孫晧(の行ったことは)みなこれをおかしている。(植えた苗は豊かであったが実が成熟せず,飢餓に陥ったのは)宮殿を造り,楼閣を飾り立てた罰である。
元帝太興二年,吳郡・吳興・東陽無麥禾〔一〕,大饑〔二〕。
元帝太興二年(319年),吳郡・吳興・東陽 麥禾なし,大いに饑う。
〔一〕上注(春秋三傳)参照。以下同じ。
〔二〕『晉書』元帝紀:「(太興二年)五月癸丑,(中略)徐楊及江西諸郡蝗。吳郡大饑。平北將軍祖逖及石勒將石季龍戰于浚儀,王師敗績。壬戌,詔曰「天下凋弊,加以災荒,百姓困窮,國用並匱,吳郡饑人死者百數。(中略)況今日之弊,百姓凋困邪!且當去非急之務,非軍士所須者皆省之。」」
元帝太興二年に,呉郡・吳興・東陽で穀物の収穫がなく,大変な飢饉があった。
成帝咸和五年,無麥禾,天下大饑。
成帝咸和五年(330年),麥禾無し,天下大いに饑う。〔一〕
〔一〕『晉書』成帝紀:「(咸和)五年夏五月,旱,且飢疫。」
成帝咸和五年に,穀物の収穫が無かった。国中,大変な飢饉になった。
穆帝永和十年,三麥不登。 十二年,大無麥。
穆帝永和十年(354年),三麥登(みの)らず。 十二年(356年),大いに麥無し。
穆帝の永和十年には,麦類が実らなかった,十二年には,麦がほとんど収穫されなかった。
孝武太元六年,無麥禾,天下大饑。
孝武太元六年(381年),麥禾無し,天下大いに饑う。〔一〕
〔一〕『晉書』孝武帝紀:「(太元)六年秋七月丙子,赦五歲刑已下。甲午,交阯太守杜瑗斬李遜,交州平。大饑。」
孝武帝の太元六年には,穀物が収穫されなかった。国中,大変な飢饉になった。
安帝元興元年,無麥禾,天下大饑。
安帝元興元年(402年),麥禾無し,天下大いに饑う。〔一〕
〔一〕『晉書』安帝紀には元興元年には本条に関わる記載がない。しかし前年には隆安五年には「是歲,饑,禁酒。」とある。
安帝の元興元年には,穀物が収穫されなかった。国中,大変な飢饉になった。
傳曰「好戰攻,輕百姓,飾城郭,侵邊境,則金不從革。」
說曰金,西方,萬物既成,殺氣之始也。故立秋而鷹隼擊,秋分而微霜降。其於王事,出軍行師,把旄杖鉞,誓士眾,抗威武,所以征叛逆,止暴亂也。詩云「有虔執鉞,如火烈烈。」又曰「載戢干戈,載櫜弓矢。」動靜應宜,說以犯難,人忘其死,金得其性矣。若乃貪慾恣睢,務立威勝,不重人命,則金失其性。蓋工冶鑄金鐵,冰滯涸堅,不成者眾,乃為變怪,是為金不從革。
傳に曰く「戰攻を好み,百姓を輕んじ,城郭を飾り,邊境を侵せば,則ち金は從革せず。」と。
說に曰く,金,西方,萬物既に成る,殺氣の始めなり〔一〕。故に立秋にして鷹隼 擊ち,秋分にして微かに霜降る〔二〕。其れ王事に於けるや,軍を出し師を行い,旄杖鉞を把(と)り,士眾を誓(いまし)め,威武を抗(は)るは,叛逆を征(う)ち,暴亂を止める所以なり。詩に云く「虔(かた)く鉞を執る有り,火の烈烈たるが如し。〔三〕」と。又た曰く「載(すなわ)ち干戈を戢(あつ)め,載(すなわ)ち弓矢を櫜(つつ)む。〔四〕」と。動靜宜に應じ,說んで以て難を犯し,人其の死を忘れ〔五〕,金 其の性を得。若し乃ち貪慾恣睢にして,威勝を立つるに務め,命を重んじざれば,則ち金 其の性を失う。蓋し工 金鐵を冶鑄するに,冰滯涸堅し,成らざる者 眾く,乃ち變怪と為す,是れ金 從革せざるが為(ため)なり。
〔一〕『禮記』月令:「仲秋之月(中略)殺氣浸盛,陽氣日衰水始涸。」
〔二〕『禮記』月令:「孟秋之月(中略)涼風至,白露降,寒蟬鳴,鷹乃祭鳥,用始行戮。」
〔三〕『詩經』商頌・長發:「武王載旆,有虔秉鉞,如火烈烈,則莫我敢曷。」
〔四〕『詩經』周頌・時邁:「載戢干戈,載櫜弓矢。」
〔五〕『易經』兌:「彖曰,兌說也。剛中而柔外。說以利貞。是以順乎天而應乎人。說以先民,民忘其勞。說以犯難,民忘其死。說之大,民勸矣哉。」
【参照】
『漢書』五行志上:「傳曰「好戰攻,輕百姓,飾城郭,侵邊境,則金不從革。」說曰金,西方,萬物既成,殺氣之始也。故立秋而鷹隼擊,秋分而微霜降。其於王事,出軍行師,把旄杖鉞,誓士衆,抗威武,所以征畔逆止暴亂也。詩云「有虔秉鉞,如火烈烈。」又曰「載戢干戈,載櫜弓矢。」動靜應誼,「說以犯難,民忘其死。」〔如此則〕金得其性矣。若乃貪欲恣睢,務立威勝,不重民命,則金失其性。蓋工冶鑄金鐵,金鐵冰滯涸堅,不成者衆,及為變怪,是為金不從革。」
『尚書大傳』にはつぎのようにいう「戦争を好み,民衆を軽んじ,城郭を飾りたて,辺境を侵略すれば,金は自由に変形する性質がなくなる。」と。
説には次のようにいう「金は,(方角では)西であり,時期では万物は成熟し終わっており,寒気が盛んになり始める。したがって立秋には鷹と隼が獲物を襲撃し,秋分には微かに霜が降りる。王者にあてはめるならば,軍を出し戦を行い,旗飾り・矛・まさかりを握り,兵卒に号令をかけ,威武をかかげるのは,叛逆(する者)を討ち,暴動を止めるためである。
『詩経』には「しっかりとまさかりをとり持つこと,はげしく燃える火のようである。」とある。また,こうもある「たてとほこを集め,弓矢を袋に入れる。」とある。動静がちょうどよく,(民衆が)よろこんで危難におもむき,その死をも忘れるようであれば,金はその(従革の)性質を得る。もし貪欲で勝手気ままにふるまい,強さを示して勝つことばかりにはげみ,(民衆の)命を重んじなければ,金はその性質を失う。思うに工人が金属を鋳造するのに,成功しないものが多く,怪異となる。これは金が「従革」(の性質を)失ったからである。
魏時張掖石瑞,雖是晉之符命,而於魏為妖。好攻戰,輕百姓,飾城郭,侵邊境,魏氏三祖皆有其事。石圖發於非常之文,此不從革之異也。晉定大業,多斃曹氏,石瑞文「大討曹」之應也。案劉歆以春秋石言于晉,為金石同類也。是為金不從革,失其性也。劉向以為石白色為主,屬白祥。
魏の時 張掖に石瑞あり〔一〕,是れ晉の符命と雖も,魏に於いては妖為り。攻戰を好み,百姓を輕んじ,城郭を飾り,邊境を侵す,魏氏三祖皆な其の事あり。石圖 非常の文を發す,此れ從革せざるの異なり。晉 大業を定め,多く曹氏を斃(ころ)す,石瑞文の「大いに曹を討つ〔二〕」の應なり。案ずるに劉歆 春秋の石の晉に言(ものい)うを以て,金石同類と為すなり。是れ金 從革せずして,其の性を失ふ為なり。劉向 以為らく石 白色もて主と為す,白祥に屬す〔三〕。
〔一〕『三國志』魏書・袁張涼國田王邴管傳・張臶:「青龍四年辛亥詔書「張掖郡玄川溢涌,激波奮蕩,寶石負圖,狀像靈龜,宅于川西,嶷然磐峙,倉質素章,麟鳳龍馬,煥炳成形,文字告命,粲然著明。太史令高堂隆上言古皇聖帝所未嘗蒙,實有魏之禎命,東序之世寶。」事頒天下。任令于綽連齎以問臶,臶密謂綽曰「夫神以知來,不追已往,禎祥先見而後廢興從之。漢已久亡,魏已得之,何所追興徵祥乎!此石,當今之變異而將來之禎瑞也。」」
『三國志』魏書・明帝紀・青龍三年・裴注:「魏氏春秋曰,是歲張掖郡刪丹縣金山玄川溢涌,寶石負圖,狀象靈龜,廣一丈六尺,長一丈七尺一寸,圍五丈八寸,立于川西。有石馬七,其一仙人騎之,其一羈絆,其五有形而不善成。有玉匣關蓋於前,上有玉字,玉玦二,璜一。麒麟在東,鳳鳥在南,白虎在西,犧牛在北,馬自中布列四面,色皆蒼白。其南有五字,曰「上上三天王」。又曰「述大金,大討曹,金但取之,金立中,大金馬一匹在中,大(告)〔吉〕開壽,此馬甲寅述水」。凡「中」字六,「金」字十。又有若八卦及列宿孛彗之象焉。」
〔二〕『捜神記』巻七:「初,漢元、成之世,先識之士有言曰「魏年有和,當有開石於西三千餘里,繫五馬,文曰,『大討曹。』」及魏之初興也,張掖之柳谷,有開石焉。始見於建安,形成於黃初,文備於太和,周圍七尋,中高一仞,蒼質素章。龍、馬、鱗、鹿、鳳凰、仙人之象,粲然咸著。此一事者,魏、晉代興之符也。至晉泰始三年,張掖太守焦勝上言,以留郡本國圖,校今石文,文字多少不同,謹具圖上。案其文有五馬象。其一,有人平上幘,執戟而乘之。其一,有若馬形而不成,其字有金,有中,有大司馬,有王,有大吉,有正,有開壽。其一,成行,曰,金當取之。」
『三國志』魏書・明帝紀・裴注:「搜神記曰,初,漢元、成之世,先識之士有言曰,魏年有和,當有開石於西三千餘里,繫五馬,文曰「大討曹」。及魏之初興也,張掖之柳谷,有開石焉,始見於建安,形成於黃初,文備於太和,周圍七尋,中高一仞,蒼質素章,龍馬・麟鹿・鳳皇・仙人之象,粲然咸著,此一事者,魏、晉代興之符也。至晉泰始三年,張掖太守焦勝上言,以留郡本國圖校今石文,文字多少不同,謹具圖上。按其文有五馬象,其一有人平上幘,執戟而乘之,其一有若馬形而不成,其字有「金」,有「中」,有「大司馬」,有「王」,有「大吉」,有「正」,有「開壽」,其一成行,曰「金當取之」。」
〔三〕『漢書』五行志第七中之上 に「白祥」についての記載があり,「白祥」は玉や石の怪異のことを言う。
【参照】
『宋書』五行志:「魏世張掖石瑞,雖是晉氏之浮命,而於魏為妖。好攻戰,輕百姓,飾城郭,侵邊境,魏氏三祖皆有其事。劉歆以為金石同類,石圖發非常之文,此不從革之異也。晉定大業,多敝曹氏,石瑞文「大討曹」之應也。」
魏の時代に張掖郡より瑞祥である石がでてきた。これは晋にとっては吉兆であったが,魏にとっては凶兆であった。いくさを好み,民衆を軽んじ,城郭を飾り立て,周辺の国を侵略する,魏の三祖(太祖曹操・高祖曹丕・烈祖曹叡)はどの人もそれらの事を行った。石が普通ではない模様をあらわすのは,従革(の性質が発揮できないこと)の異である。晋は大業を整え,曹氏を大勢殺した,瑞祥である石に現れた文(「張腋郡玄石図」)にある,「大いに曹を討つ」の応である。考えるに,劉歆が『春秋』(左傳 昭公八年)で晋で石がものを言った,とあるのをもって,金属と石を同類としたのである。劉向の考えによれば,石は白い色が主であるので,白祥(白い吉祥)に属する。
魏明帝青龍中,盛修宮室,西取長安金狄,承露槃折,聲聞數十里,金狄泣,於是因留霸城。此金失其性而為異也。
魏の明帝 青龍中,盛んに宮室を修(つく)り,西のかた長安の金狄を取るに,承露槃折れ,聲數十里に聞こえ,金狄泣く,是に於いて因りて霸城に留む〔一〕。此れ金 其の性を失ひて異と為るなり。
〔一〕『三國志』魏書「明帝紀」 景初元年・裴注:「魏略曰,是歲,徙長安諸鐘簴、駱駝、銅人、承露盤。盤折,銅人重不可致,留于霸城。大發銅鑄作銅人二,號曰翁仲,列坐于司馬門外。又鑄黃龍、鳳皇各一,龍高四丈,鳳高三丈餘,置內殿前。起土山于芳林園西北陬,使公卿羣僚皆負土成山,樹松竹雜木善草於其上,捕山禽雜獸置其中。 漢晉春秋曰,帝徙盤,盤折,聲聞數十里,金狄或泣,因留霸城。」
『史記』高祖本紀:「漢元年十月,沛公兵遂先諸侯至霸上。」【正義】「故霸陵在雍州萬年縣東北二十五里。漢霸陵,文帝之陵邑也,東南去霸陵十里。地理志云「霸陵故芷陽,文帝更名。」三秦記云「霸城 ,秦穆公築為宮,因名 霸城 。漢於此置霸陵。」廟記云「 霸城 ,漢文帝築。沛公入關,遂至霸上,即此也。」」
【参照】
『宋書』:「魏明帝青龍中,盛修宮室,西取長安金狄,承露槃折,聲聞數十里,金狄泣,於是因留霸城。此金失其性而為異也。」
魏の明帝,青龍年間に,宮殿をさかんに造り,西にいき長安の銅像をとった時,承露盤が折れ,その音が数十里に聞こえ,銅像が泣いた,このことによって(銅像を)霸城に留めた。これは金がその(従革の)性質を失って怪異となったものである。
吳時,歷陽縣有巖穿,似印,咸云「石印封發,天下太平」。孫晧天璽元年,印發。又,陽羨山有石穴,長十餘丈。晧初修武昌宮,有遷都之意。是時武昌為離宮。班固云「離宮與城郭同占」,飾城郭之謂也。其寶鼎三年後,晧出東關,遣丁奉至合肥,建衡三年晧又大舉出華里,侵邊境之謂也。故令金失其性,卒面縛而吳亡。
吳の時,歷陽縣に巖穿有り,印の似(ごと)し,咸な云ふ「石印の封發けば,天下太平なり」と。孫晧天璽元年,印發す。又た,陽羨山に石穴有り,長十餘丈たり。〔一〕晧 初め武昌宮を修(つく)る,遷都の意有り。是の時 武昌 離宮為り。班固云ふ「離宮と城郭とは同占なり〔二〕」と,城郭を飾るの謂ひなり。其れ寶鼎三年(268年)の後,晧 東關に出で,丁奉をして合肥に至らしむ〔三〕,建衡三年(271年)晧 又た大舉して華里に出づ〔四〕,邊境を侵すの謂ひなり。故に金をして其の性を失はしめ,卒ひに面縛して〔五〕吳 亡ぶ。
〔一〕『三國志』吳書・三嗣主傳:「(天璽元年)秋八月(中略)鄱陽言歷陽山石文理成字,凡二十,云「楚九州渚,吳九州都,揚州士,作天子,四世治,太平始」。又吳興陽羨山有空石,長十餘丈,名曰石室,在所表為大瑞。)
裴注:「江表傳曰,歷陽縣有石山臨水,高百丈,其三十丈所,有七穿駢羅,穿中色黃赤,不與本體相似,俗相傳謂之石印。又云,石印封發,天下當太平。下有祠屋,巫祝言石印神有三郎。時歷陽長表上言石印發,晧遣使以太牢祭歷山。巫言,石印三郎說「天下方太平」。使者作高梯,上看印文,詐以朱書石作二十字,還以啟晧。晧大喜曰「吳當為九州作都、渚乎,從大皇帝逮孤四世矣,太平之主,非孤復誰。」重遣使,以印綬拜三郎為王,又刻石立銘,褒贊靈德,以答休祥。」
〔二〕『漢書』五行志:「成帝鴻嘉三年五月乙亥,天水冀南山大石鳴,聲隆隆如雷,有頃止,聞平襄二百四十里,壄雞皆鳴。石長丈三尺,廣厚略等,旁著岸脅,去地二百餘丈,民俗名曰石鼓。石鼓鳴,有兵。是歲,廣漢鉗子謀攻牢,篡死辠囚鄭躬等,盜庫兵,劫略吏民,衣繡衣,自號曰山君,黨與𡫏廣。明年冬,乃伏誅,自歸者三千餘人。後四年,尉氏樊並等謀反,殺陳留太守嚴普,自稱將軍,山陽亡徒蘇令等黨與數百人盜取庫兵,經歷郡國四十餘,皆踰年乃伏誅。是時起昌陵,作者數萬人,徙郡國吏民五千餘戶以奉陵邑。作治五年不成,乃罷昌陵,還徙家。石鳴,與晉石言同應,師曠所謂「民力彫盡」,傳云「輕百姓」者也。虒祁離宮去絳都四十里,昌陵亦在郊壄,皆與城郭同占。城郭屬金,宮室屬土,外內之別云。」
〔三〕『三國志』吳書・三嗣主傳:「(寶鼎三年)秋九月,晧出東關,丁奉至合肥。」
〔四〕『三國志』吳書・三嗣主傳:「(建衡三年)三年春正月晦,晧舉大眾出華里,晧母及妃妾皆行,東觀令華覈等固爭,乃還。」
〔五〕『晉書』王濬傳:「晧乃備亡國之禮,素車白馬,肉袒面縛。」
【参照】
『宋書』五行志:「吳時,歷陽縣有巖穿似印,咸云「石印封發,天下太平」。孫晧天璽元年印發。又陽羨山有石穴,長十餘丈。晧初修武昌宮,有遷都之意。是時武昌為離宮。班固云「離宮與城郭同占。」飾城郭之謂也。寶鼎三年,晧出東關,遣丁奉至合肥。建衡三年,晧又大舉出華里。侵邊境之謂也。故令金失其性,卒面縛而吳亡。」
呉の時代に,歴陽県に岩あながあり,(中に)しるしのような模様があった,みなが「石印の封印が解かれれば,天下は太平だ」と言った。孫晧の天璽元年(276年)にしるしがあらわれた。さらに,陽羨山にも洞窟があり,長さは十数丈(1丈は約241㎝)であった。孫晧は初めに武昌宮を築いたとき,遷都する意向があった。この時は武昌は離宮であった。班固の(『漢書』五行志)はつぎのようにいう「(中央の宮殿が土で城郭が金に属するため,)離宮と城郭は同じ占断と言える。」と。(離宮を造ることは)城郭を飾るということである。寶鼎三年の後半に,孫晧は東関に出兵し,丁奉を合肥につかわした。さらに建衡三年に孫晧は大軍を挙げて華里に侵攻した,(これらは)辺境を侵略するということであり。(これらの事により)金にその(従革の)性質を失わさせて,ついには後ろ手に縛られて降伏し,呉は滅亡した。
惠帝元康三年閏二月,殿前六鍾皆出涕,五刻止。前年賈后殺楊太后於金墉城,而賈后為惡不止,故鍾出涕,猶傷之也。
惠帝 元康三年閏二月〔一〕,殿前の六鍾 皆 涕を出だす,五刻にして止む。前年 賈后 楊太后を金墉城において殺す,而も賈后惡を為すこと止まず,故に鍾 涕を出だす,猶ほ之を傷むがごときなり〔二〕。
〔一〕『晉書』孝惠帝紀:「(永平)二年春二月己酉,賈后弒皇太后于金墉城。」
なお,「永平元年春正月乙酉朔」の校注に「是年三月又改元「元康」,依例應作「元康元年」。此仍作「永平」,則三月改元後應出「元康」年號,使讀者明白自此以下至九年皆「元康之年」。紀文此處既用「永平」,下文又不出「元康」,似自此至九年皆屬「永平」矣。此為史例之失。」と指摘している。
〔二〕『搜神記』卷七:「晉元康三年閏二月,殿前六鐘皆出涕,五刻乃止。前年,賈后殺楊太后於金墉城,而賈后為惡不悛,故鐘出涕,猶傷之也。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉清河王覃為世子時,所佩金鈴忽生起如粟者。康王母疑不祥,毀棄之。及後為惠帝太子,不終于位,卒為司馬越所殺。」
晋の恵帝 元康三年(293年)の閏二月,宮殿の前にある六鐘がなみだを流し,五刻(1時間あまり)で止まった。前年に賈皇后が金墉城で楊太后(楊芷)を殺した。そのうえさらに賈皇后は悪い行いを止めなかったので,鐘はなみだを流し,(まるで鐘がその状況を)悲しんでいるかのようである。
永興元年,成都伐長沙,每夜戈戟鋒有火光如懸燭。此輕人命,好攻戰,金失其性而為光變也。天戒若曰,兵猶火也,不戢將自焚。成都不悟,終以敗亡。
永興元年,成都 長沙を伐つに,每夜 戈戟の鋒に火光の懸燭の如き有り〔一〕。此れ人命を輕んじ,攻戰を好み,金 其の性を失ひて光變する為めなり。天戒めて若のごとく曰く,兵猶ほ火のごときなり,戢めざれば將に自ら焚かんとす〔二〕。成都 悟らず,終に以て敗亡す。
〔一〕『晉書』成都王潁傳:「穎方恣其欲,而憚長沙王乂在內,遂與河間王顒表請誅后父羊玄之・左將軍皇甫商等,檄乂使就第。乃與顒將張方伐京都,以平原內史陸機為前鋒都督・前將軍・假節。 穎 次朝歌,每夜矛戟有光若火,其壘井中皆有龍象。進軍屯河南,阻清水為壘,造浮橋以通河北,以大木函盛石,沈之以繫橋,名曰石鼈。陸機戰敗,死者甚眾,機又為孟玖所譖,穎收機斬之,夷其三族,語在機傳。於是進攻京城。時常山人王輿合眾萬餘,欲襲穎。會乂被執,其黨斬輿降。 穎 既入京師,復旋鎮于鄴,增封二十郡,拜丞相。河間王顒表 穎 宜為儲副,遂廢太子覃,立 穎 為皇太弟,丞相如故,制度一依魏武故事,乘輿服御皆遷于鄴。表罷宿衞兵屬相府,更以王官宿衞。僭侈日甚,有無君之心,委任孟玖等,大失眾望。」
〔二〕『春秋左氏傳』隱公四年:「夫兵猶火也。弗戢。將自焚也。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉惠帝永興元年,成都伐長沙,每夜戈戟鋒有火光如縣燭。此輕民命,好攻戰,金失其性而為變也。天戒若曰,兵猶火也,不戢將自焚。成都不悟,終以敗亡。」
永興元年(304年),成都王司馬穎が長沙王司馬乂を討伐しようとした時,毎夜,武器の先端が炎のように光り燭台に掲げられた灯りのようであった。これは人命を軽んじて,いくさを好んだことで,金がその本性(従革)を失い光が変化するためである。天が戒めて「兵器は火のようなもので,おさめなければ,みずからを焼いてしまうだろう。」というように言っている。司馬穎はそのことを悟らなかったため,とうとう敗れて逃走した。
懷帝永嘉元年,項縣有魏豫州刺史賈逵石碑,生金可採,此金不從革而為變也。五月,汲桑作亂,羣寇飆起〔一〕。清河王覃為世子時,所佩金鈴忽生起如粟者,康王母疑不祥,毀棄之。及後為惠帝太子,不終于位,卒為司馬越所殺〔二〕。
懷帝 永嘉元年,項縣に魏の豫州刺史賈逵の石碑の金を生じ採る可き有り,此れ金 從革せずして變と為るなり。五月,汲桑 亂を作し,羣寇飆起す。清河王覃 世子為る時,佩びる所の金鈴 忽に粟の如き者を生起す,康王の母 不祥を疑ひ,毀ちて之を棄つ。後に惠帝の太子に為るに及び,位に終らず,卒ひに司馬越に殺す所と為る。
〔一〕『晉書』孝懷帝紀:「夏五月,馬牧帥汲桑聚眾反,敗魏郡太守馮嵩,遂陷鄴城,害新蔡王騰。燒鄴宮,火旬日不滅。又殺前幽州刺史石尟於樂陵,入掠平原,山陽公劉秋遇害。洛陽步廣里地陷,有二鵝出,色蒼者沖天,白者不能飛。建寧郡夷攻陷寧州,死者三千餘人。」
〔二〕『晉書』孝惠帝紀:「(太安元年)五月(中略)癸卯,以清河王遐子覃為皇太子。」
『晉書』孝懷帝紀:「(永嘉二年)二月辛卯,清河王覃為東海王越所害。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉懷帝永嘉元年,項縣有魏豫州刺史賈逵石碑,生金可采。此金不從革而為變也。五月,汲桑作亂,羣寇飈起。」
懷帝の永嘉元年(307年),縣にある魏の豫州刺史賈逵の石碑から,金が発生して採ることができた。これは金が従革の性質をなくし,怪異になったからである。五月、汲桑が反乱をおこし,大勢の賊がにわかに蜂起した。司馬覃が世継ぎであった時に,身に着けていた金の鈴に急に粟のようなものが生じた、(司馬遐の生母である)陳太后は凶兆であると考え,(鈴を)壊して捨てた。その後に惠帝(司馬衷)の皇太子になったときに,位を全うせず,最後には司馬越に殺されることになった。
愍帝建興五年,石言于平陽。是時帝蒙塵亦在平陽,故有非言之物而言,妖之大者。俄而帝為逆胡所弒。
愍帝建興五年(317年),石 平陽に言(ものい)ふ〔一〕。是の時 帝 塵を蒙りて〔二〕亦た平陽に在り〔三〕,故に言(ものい)はざるの物にして言(ものい)ふもの有り,妖の大なる者なり。俄にして帝 逆胡の弒する所と為る〔四〕。
〔一〕『春秋左氏傳』:「(昭公)八年,春,石言于晉魏榆。」
〔二〕『春秋左氏傳』僖公二十四年:「天子蒙塵于外,敢不奔問官守。」
〔三〕『晉書』孝愍帝紀:「(建興四年)十一月乙未,使侍中宋敞送牋于曜,帝乘羊車,肉袒銜璧,輿櫬出降。羣臣號泣攀車,執帝之手,帝亦悲不自勝。(中略)辛丑,帝蒙塵于平陽,麴允及羣官並從。」 「(建興)五年春正月,帝在平陽。」
〔四〕『晉書』孝愍帝紀: 「(建興五年)十二月戊戌,帝遇弒,崩于平陽,時年十八。」
愍帝の建興五年に,平陽で石が言葉を発した。この時、愍帝は意に反して連れていかれて平陽にいたので,言葉を発しない物体が言葉を発した,(これは)怪異の中でもおぞましいものである。まもなく愍帝は逆賊により殺されることとなった。
元帝永昌元年,甘卓將襲王敦,既而中止。及還,家多變怪,照鏡不見其頭,此金失其性而為妖也。尋為敦所襲,遂夷滅。
元帝永昌元年,甘卓 將に王敦を襲わんとす,既にして中止す。還るに及び,家 變怪 多し,鏡に照らすも其の頭 見えず,此れ金 其の性を失ひて妖と為るなり。尋いで敦の襲ふ所と為り,遂に夷滅せらる。〔一〕
〔一〕『晉書』甘卓傳:「(前略)時敦以卓不至,慮在後為變,遣參軍樂道融苦要卓俱下。道融本欲背敦,因說卓襲之,語在融傳。卓既素不欲從敦,得道融說,遂決曰「吾本意也。」乃與巴東監軍柳純、南平太守夏侯承、宜都太守譚該等十餘人,俱露檄遠近,陳敦肆逆,率所統致討。(中略)卓性先寬和,忽便強塞,徑還襄陽,意氣騷擾,舉動失常,自照鏡不見其頭,視庭樹而頭在樹上,心甚惡之。其家金櫃鳴,聲似槌鏡,清而悲。巫云「金櫃將離,是以悲鳴。」主簿何無忌及家人皆勸令自警。卓轉更很愎,聞諫輒怒。方散兵使大佃,而不為備。功曹榮建固諫,不納。襄陽太守周慮等密承敦意,知卓無備,詐言湖中多魚,勸卓遣左右皆捕魚,乃襲害卓于寢,傳首于敦。四子散騎郎蕃等皆被害。太寧中,追贈驃騎將軍,諡曰敬。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉元帝永昌元年,甘卓將襲王敦,既而中止。及還家,多變怪,照鏡不見其頭。此金失其性而為妖也。尋為敦所襲,遂夷滅。」
元帝(司馬睿)の永昌元年(322年),甘卓が王敦を襲撃しようとしていたが,中止した。戻った時に,家に変わったことが多く起こった,鏡に姿を映しても頭が見えない,これは金がその(従革の)性質を失って怪異となったからだ。まもなく(甘卓は)王敦に襲撃されて(殺され),そのまま滅ぼされた。
石季龍時,鄴城鳳陽門上金鳳皇二頭飛入漳河。
石季龍の時,鄴城鳳陽門の上の金鳳皇二頭漳河に飛び入る。
【参照】
『宋書』五行志:「石虎時,鄴城鳳陽門上金鳳皇二頭,飛入漳河。」
石季龍(石虎295 - 349)の時に鄴城鳳陽門の上にあった金の鳳凰二頭が漳河に飛びこんだ。
海西太和中,會稽山陰縣起倉,鑿地得兩大船,滿中錢,錢皆輪文大形。時日向暮,鑿者馳以告官,官夜遣防守甚嚴。至明旦,失錢所在,惟有船存。視其狀,悉有錢處。
海西太和(366‐371)中,會稽 山陰縣 倉を起こす,地を鑿ちて兩つの大船を得,中に錢滿つ,錢 皆 輪文にして大形たり。時 日は暮に向ひ,鑿つ者 馳せて以て官に告げ,官 夜 防守甚だ嚴たり。明旦に至り,錢は在る所より失ひ,惟だ船のみ存する有り。其の狀を視るに,悉く錢 處る有り。〔一〕
〔一〕『異苑』巻二:「海西太和中,會稽山陰縣起倉,鑿得兩大船,船中有錢,皆輪文。時日向暮,鑿者馳以告官,官夜遣防守甚嚴。至明旦失錢所在,惟有船存,視其狀,悉有錢處。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉海西太和中,會稽山陰縣起倉,鑿地得兩大船,滿中錢,錢皆輪文大形。時日向莫,鑿者馳以告官。官夜遣防守甚嚴。至明旦,失錢所在,唯有船存,視其狀,悉有錢處
廃帝の太和年間中,會稽郡山陰縣で倉を建てた,地面を掘ったときに二艘の大船が出てきた,(船の)中は硬貨で満たされており,硬貨はすべて輪文があり大きなものだった。おりしも日は暮れようとしており,(地面を)掘った者は走って役人に報告した,役人は夜に守りを厳重にさせた。あくる朝になり,硬貨はあったところから消え,ただ船があるだけだった。その状況を視るに,どこもかしこにも硬貨があったような痕跡があった。
安帝義熙初,東陽太守殷仲文照鏡不見其頭,尋亦誅翦,占與甘卓同也。
安帝義熙(405‐418)の初,東陽太守殷仲文 鏡に照らすも其の頭を見ず,尋いで亦た誅翦せらる〔一〕,占は甘卓と同じきなり。
〔一〕『晉書』安帝紀:「(義熙)三年春二月己酉(中略)誅東陽太守殷仲文。」
『晉書』殷仲文傳:「義熙三年,又以仲文與駱球等謀反,及其弟南蠻校尉叔文並伏誅。仲文時照鏡不見其面,數日而遇禍。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉安帝義熙初,東陽太守殷仲文照鏡不見其頭,尋亦誅翦,占與甘同。」
安帝の義熙の初め,東陽太守 殷仲文が鏡に(姿を)映すも頭が見えなかった,まもなく(殷仲文も)殺された,占は甘卓と同じ内容である。
『傳』曰「簡宗廟,不禱祠,廢祭祀,逆天時,則水不潤下。」
說曰,水,北方,終藏萬物者也。其於人道,命終而形藏,精神放越。聖人爲之宗廟,以收魂氣,春秋祭祀,以終孝道。王者卽位,必郊祀天地,禱祈神祇,望秩山川,懷柔百神,亡不宗事。愼其齋戒,致其嚴敬,是故鬼神歆饗,多獲福助。此聖王所以順事陰氣,和神人也。及至發號施令,亦奉天時。十二月咸得其氣,則陰陽調而終始成。如此,則水得其性矣。若迺不敬鬼神,政令逆時,水失其性。霧水暴出,百川逆溢,壞郷邑,溺人民,及淫雨傷稼穡,是爲水不潤下。
京房『易傳』曰「顓事者加誅罰絕理,厥災水。其水也,雨,殺人,以隕霜,大風天黃。饑而不損,茲謂泰,厥大水,水殺人。避遏有德,茲謂狂,厥水,水流殺人也。已水則地生蟲。歸獄不解,茲謂追非,厥水寒,殺人。追誅不解,茲謂不理,厥水五穀不收。大敗不解,茲謂皆陰,厥水流入國邑,隕霜殺穀。」董仲舒曰「交兵結讐,伏尸流血,百姓愁怨,陰氣盛,故大水也。」
『傳』に曰く,「宗廟を簡(あなど)り,禱祠せず,祭祀を廢し,天時に逆らへば,則ち水 潤下せず。」と。
說に曰く,水は北方,萬物を終藏する者なり。其れ人道に於いては,命終へて形藏し,精神放越す。聖人 之れが宗廟を爲り,以て魂氣〔一〕を收め,春秋に祭祀し,以て孝道を終ふ。〔二〕王者位に卽けば,必ず天地を郊祀し,神祇に禱祈し,山川を望秩し,〔三〕百神を懷柔し,宗び事へざる亡し。其の齋戒を愼み,其の嚴敬を致し,是の故に鬼神歆饗し,多く福助を獲。此れ聖王陰氣に順ひ事へ,神人を和する所以なり。號を發し令を施すに及至するに,亦た天時を奉ず。十二月咸な其の氣を得れば,則ち陰陽調ひて終始成る。此くの如くんば,則ち水其の性を得。若し迺ち鬼神を敬わず,政令時に逆らへば,水其の性を失ふ。霧水暴出し,百川逆溢し,郷邑を壞し,人民を溺れしめ,及び淫雨 稼穡を傷なふ,是れ水 潤下せざるが爲なり。
京房『易傳』に曰く,「事を顓らにする者誅罰を加ふるに理絕へれば,厥の災は水。其れ水や,雨 人を殺し,以て霜を隕とし,大風あり天黃す。饑へて損なわず,茲れを泰と謂ひ,厥の大水,水 人を殺す。有德を避け遏(とど)む,茲れを狂と謂ひ,厥の水,水流人を殺すなり。水を已まめば則ち地に蟲生ず。獄に歸して解せず,茲れを追非と謂ひ,厥の水寒く,人を殺す。追誅解せず,茲れを不理と謂ひ,厥の水五穀收めず。大敗解せず,茲れを皆陰と謂い,厥の水流 國邑に入り,霜を隕とし穀を殺す。」と。董仲舒曰く,「兵を交へ讐(あだ)を結び,尸を伏せ血を流し,百姓愁怨すれば,陰氣盛ん,故に大水あるなり。」と。
〔一〕『禮記』郊特牲篇:「魂氣歸于天。形魄歸于地。」
『禮記』壇弓下篇:「若魂氣則無不之也。」
〔二〕『孝經』喪親章:「爲之宗廟。以鬼享之。春秋祭祀。以時思之。」
〔三〕『尚書』舜典:「望于山川。徧于羣神。……柴望秩于山川。」
【参照】
『漢書』五行志上:「傳曰「簡宗廟,不禱祠,廢祭祀,逆天時,則水不潤下。」說曰,水,北方,終臧萬物者也。其於人道,命終而形臧,精神放越,聖人爲之宗廟以收魂氣,春秋祭祀,以終孝道。王者卽位,必郊祀天地,禱祈神祇,望秩山川,懷柔百神,亡不宗事。愼其齊戒,致其嚴敬,鬼神歆饗,多獲福助。此聖王所以順事陰氣,和神人也。至發號施令,亦奉天時。十二月咸得其氣,則陰陽調而終始成。如此則水得其性矣。若乃不敬鬼神,政令逆時,則水失其性。霧水暴出,百川逆溢,壞郷邑,溺人民,及淫雨傷稼穡,是爲水不潤下。
京房易傳曰「顓事有知,誅罰絕理,厥災水,其水也,雨殺人以隕霜,大風天黃。飢而不損茲謂泰,厥災水,水殺人。辟遏有德茲謂狂,厥災水,水流殺人,已水則地生蟲。歸獄不解,茲謂追非,厥水寒,殺人。追誅不解,茲謂不理,厥水五穀不收。大敗不解,茲謂皆陰。解,舍也,王者於大敗,誅首惡,赦其衆,不則皆函陰氣,厥水流入國邑,隕霜殺叔草。」
桓公元年「秋,大水」。董仲舒、劉向以爲桓弑兄隱公,民臣痛隱而賤桓。後宋督弑其君,諸侯會,將討之,桓受宋賂而歸,又背宋。諸侯由是伐魯,仍交兵結讐,伏尸流血,百姓愈怨,故十三年夏復大水。一曰,夫人驕淫,將弑君,陰氣盛,桓不寤,卒弑死。劉歆以爲桓易許田,不祀周公,廢祭祀之罰也。」
『宋書』五行志四:「五行傳曰「簡宗廟,不禱祠,廢祭祀,逆天時,則水不潤下。」謂水失其性而爲災也。又曰「聽之不聰,是謂不謀。厥咎急,厥罰恒寒,厥極貧。時則有鼓妖,時則有魚孽,時則有豕禍,時則有耳痾,時則有黑眚、黑祥。惟火沴水。」魚孽,劉歆傳以爲介蟲之孽,謂蝗屬也。……京房易傳曰「顓事有知,一]顓事有知 各本並作「顓事者加」,據漢書五行志改。一]顓事有知 各本並作「顓事者加」,據漢書五行志改。顓事有知 各本並作「顓事者加」,據漢書五行志改。誅罰絕理,厥災水。其水也,雨殺人已隕霜,大風天黃。饑而不損,茲謂泰。厥災水殺人。避遏有德,茲謂狂。厥災水,水流殺人也。已水則地生蟲。歸獄不解,茲謂追非。厥水寒殺人。追誅不解,茲謂不理。厥水五穀不收。大敗不解,茲謂皆陰。厥水流入國邑,隕霜殺穀。」」
『尚書大傳』には次のようにいう。「宗廟をなおざりにし,祈り祀らず,祭祀を取りやめ,天の時に逆らえば,「水」は潤下の性質を失う。」
説には次のようにいう。「水」は北方であり,万物が終わり収蔵するものである。人のありようにあてはめるならば,命が終わると身体は収蔵し,精神は拡散する。聖人は宗廟をつくり、そこに霊魂を収め,春と秋に祭祀し,それによって孝の道を全うするのである。王者がその地位につけば,必ず天地を祀り,天地の神に祈り,山川の神をはるかに望んで祀り,百神を招き来たらしめて安置し,尊重して仕えないことはない。祭祀の前に心身を清らかにし,おそれ敬うならば、鬼神は祭祀の礼を受け,多くの天の助けを得ることになる。これは聖王が陰の気に従い仕え,神と人を調和させる方法である。号令を発し政令を施行する際にも,また天の時を忠実に守る。十二ヶ月全てで正しい気を得れば、陰陽が調い始めから終わりまで整う。このようであれば,「水」はその性質を全うする。もしも鬼神を敬わず,政令が時宜に逆らうならば,「水」はその性質を失う。霧や水が湧き起こり、あらゆる川が溢れ,村やまちを壊し,人々を溺れさせ,長雨が農作物を駄目にするのは,「水」が潤下しないからである。
京房の『易伝』に次のようにいう。「政治を行う者が理にかなわない誅罰を行えば,その災は水である。水というのは,雨が人を殺し,霜を降らせ,大風が吹き天が黃色になる。飢饉にもかかわらず(食べるものを)減らさない,これを泰といい,その(災は)洪水であり,水が人を殺す。徳の有る人物を避けて登用しない,これを狂といい,その(災は)水であり,水流が人を殺す。水が止めば地上に虫が生じる。獄に繫ぎ止めて解放しない,これを追非といい,その水(の災)は寒くて人を殺す。誅罰を追い求め緩めようとしない,これを不理といい,その水(の災)は五穀が収穫できない。(敵を)大敗させ容赦をしない,これを皆陰といい,その(災である)水流はまちに入り,霜を降らせ穀物をだめにする。」董仲舒が次のようにいう。「交戦し反目しあい、屍が折り重なって血が流れ、百姓が愁い怨めば,陰気が盛んになる,だから洪水があるのである。」
魏文帝黃初四年六月,大雨霖,伊・洛溢,至津陽城門,漂數千家,殺人。初,帝卽位,自鄴遷洛,營造宮室,而不起宗廟。太祖神主猶在鄴,嘗於建始殿饗祭如家人禮,終黃初不復還鄴。又郊社神祇,未有定位。此簡宗廟廢祭祀之罰也。
魏の文帝黃初四年六月,大雨あり霖し,伊・洛溢れ,津陽の城門に至り,數千家を漂(ただよ)はせ,人を殺す。〔一〕初め,帝卽位し,鄴より洛に遷り,宮室を營造するも,宗廟を起こさず。太祖の神主猶ほ鄴に在り,嘗て建始殿に於ひて饗祭すること家人の禮の如くし,終ひに黃初復たは鄴に還らず。〔二〕又た郊社神祇,未だ定位有らず。此れ宗廟を簡り祭祀を廢するの罰なり。
〔一〕『三國志』魏書・文帝紀:「(黃初四年)六月甲戌,任城王彰薨於京都。甲申,太尉賈詡薨。太白晝見。是月大雨,伊、洛溢流,殺人民,壞廬宅。」
〔二〕『三國志』魏書・文帝紀・裴松之注:「魏書,甲辰,以京師宗廟未成,帝親祠武皇帝于建始殿,躬執饋奠,如家人之禮。」
【参照】
『宋書』五行志四:「魏文帝黃初四年六月,大雨霖,伊・洛溢至津陽城門,漂數千家,流殺人。初,帝卽位,自鄴遷洛,營造宮室,而不起宗廟,太祖神主猶在鄴。嘗於建始殿饗祭如家人之禮,終黃初不復還鄴,而圓丘・方澤・南北郊・社・稷等神位,未有定所。此簡宗廟,廢祭祀之罰也。」
魏の文帝黄初四年(223年)六月大雨が長く続き,伊水・洛水が溢れ,(水が)津陽の城門まで到達し,数千戸を漂わせ,人を殺した。初め,帝が即位し,鄴から洛に遷都し,宮室を造営したが,宗廟を作らなかった。太祖の位牌は鄴にあり,これまでに建始殿で供物をささげ祀った際には家族としての礼に則り,最後まで黄初に再び鄴に還ることはなかった。さらに天地を祀る場所や天地の神々には,いまだ定まった場所がなかった。これは宗廟をなおざりにし祭祀を廃したことの罰である。
吳孫權赤烏八年夏,茶陵縣鴻水溢出,漂二百餘家。 十三年秋,丹楊、故鄣等縣又鴻水溢出。案權稱帝三十年,竟不於建鄴創七廟。惟父堅一廟遠在長沙,而郊祀禮闕。嘉禾初,羣臣奏宜郊祀,又不許。末年雖一南郊,而北郊遂無聞焉。吳楚之望亦不見秩,反祀羅陽妖神,以求福助。天戒若曰,權簡宗廟,不禱祠,廢祭祀,故示此罰,欲其感悟也。
吳の孫權の赤烏八年夏,茶陵縣に鴻水溢れ出で,二百餘家を漂はす。〔一〕 十三年秋,丹楊・故鄣等の縣又た鴻水溢れ出づ。〔二〕案ずるに權 帝を稱すること三十年,竟に建鄴に於いて七廟を創らず。惟だ父堅の一廟のみ遠く長沙に在れども,郊祀の禮闕く。嘉禾の初め,羣臣宜しく郊祀すべしと奏するも,又た許さず。〔三〕末年一南郊ありと雖も,北郊遂に聞く無し。〔四〕吳楚の望も亦た秩せられず,反って羅陽の妖神を祀り,以て福助を求む。〔五〕天戒めて若くのごとく曰く,權 宗廟を簡り,禱祠せず,祭祀を廢す,故に此の罰を示し,其の感悟を欲するなり、と。
〔一〕『三國志』吳書・呉主孫權傳:「(赤烏八年)夏,雷霆犯宮門柱,又擊南津大橋楹。茶陵縣鴻水溢出,流漂居民二百餘家。」
〔二〕『三國志』吳書・呉主孫權傳:「(赤烏十三年秋)八月,丹楊・句容及故鄣・寧國諸山崩,鴻水溢。」
〔三〕『三國志』吳書・呉主孫權傳・裴松之注:「江表傳曰,是冬,羣臣以權未郊祀,奏議曰「頃者嘉瑞屢臻,遠國慕義,天意人事,前後備集,宜脩郊祀,以承天意。」權曰「郊祀當於土中,今非其所,於何施此。」重奏曰「普天之下,莫非王土。王者以天下爲家。昔周文、武郊於酆、鎬,非必土中。」權曰「武王伐紂,卽阼於鎬京,而郊其所也。文王未爲天子,立郊於酆,見何經典。」復書曰「伏見漢書郊祀志,匡衡奏徙甘泉河東,郊於長安,言文王郊於酆。」權曰「文王性謙讓,處諸侯之位,明未郊也。經傳無明文,匡衡俗儒意說,非典籍正義,不可用也。」
志林曰,吳王糾駮郊祀之奏,追貶匡衡,謂之俗儒。凡在見者,莫不慨然以爲統盡物理,達於事宜。至於稽之典籍,乃更不通。毛氏之說云「堯見天因邰而生后稷,故國之於邰,命使事天。」故詩曰「后稷肇祀,庶無罪悔,以迄于今。」言自后稷以來皆得祭天,猶魯人郊祀也。是以棫樸之作,有積燎之薪。文王郊酆,經有明文,匡衡豈俗,而枉之哉。文王雖未爲天子,然三分天下而有其二,伐崇戡黎,祖伊奔告。天既棄殷,乃眷西顧,太伯三讓,以有天下。文王爲王,於義何疑。然則匡衡之奏,有所未盡。按世宗立甘泉、汾陰之祠,皆出方士之言,非據經典者也。方士以甘泉、汾陰黃帝祭天地之處,故孝武因之,遂立二畤。漢治長安,而甘泉在北,謂就乾位,而衡云「武帝居甘泉,祭于南宮」,此既誤矣。祭汾陰在水之脽,呼爲澤中,而衡云「東之少陽」,失其本意。此自吳事,於傳無非,恨無辨正之辭,故矯之云。」
〔四〕『三國志』吳書二・呉主孫權傳:「(太元元年)冬十一月,大赦。權祭南郊還,寢疾。」
〔五〕『三國志』吳書二・呉主孫權傳:「(太元元年夏五月)初臨海羅陽縣有神,自稱王表。周旋民閒,語言飲食,與人無異,然不見其形。又有一婢,名紡績。是月,遣中書郎李崇齎輔國將軍羅陽王印綬迎表。表隨崇俱出,與崇及所在郡守令長談論,崇等無以易。所歷山川,輒遣婢與其神相聞。秋七月,崇與表至,權於蒼龍門外爲立第舍,數使近臣齎酒食往。表說水旱小事,往往有驗。」
裴注「孫盛曰,盛聞國將興,聽於民;國將亡,聽於神。權年老志衰,讒臣在側,廢適立庶,以妾爲妻,可謂多涼德矣。而僞設符命,求福妖邪,將亡之兆,不亦顯乎。」
【参照】
『宋書』五行志四:「吳孫權赤烏八年夏,茶陵縣鴻水溢出,流漂二百餘家。十三年秋,丹陽故鄣等縣又鴻水溢。案權稱帝三十年,竟不於建業創七廟,但有父堅一廟,遠在長沙,而郊禋禮闕。嘉禾初,羣臣奏宜郊祀,又弗許。末年雖一南郊,而北郊遂無聞焉。且三江・五湖・衡・霍・會稽,皆吳・楚之望,亦不見秩,反禮羅陽妖神,以求福助。天意若曰,權簡宗廟,不禱祠,廢祭祀,示此罰,欲其感悟也。」
呉の孫権の赤烏八年(245年)夏,茶陵県に大水が溢れ出で,二百戸あまりを漂わせた。十三年(250年)秋,丹楊・故鄣などの県でも大水が溢れ出た。考えてみるに孫権が帝を称して三十年経つも,あろうことか建鄴に七廟を創らなかった。ただ父である孫堅の一廟だけが遠い長沙にあるけれども,郊祀の礼を闕いている。嘉禾(232~237年)の初め,羣臣が郊祀すべきであると奏上したが,それも許さなかった。末年に一度南郊の祀りをしたとはいっても,北郊は結局聞いたことがない。呉楚の(山川の)望の祀りもきちんと行われず,逆に羅陽の妖神を祀り,それによってご利益を求める。天は戒めて次のようにいう。権は宗廟をなおざりにし,禱祠せず,祭祀をとりやめた,だからこの罰を示し,感じ悟らせようとするのである。
太元元年,吳又有大風涌水之異。是冬,權南郊,宜是鑒咎徵乎。還而寢疾,明年四月薨。一曰,權時信納譖訴,雖陸遜勳重,子和儲貳,猶不得其終。與漢安帝聽讒免楊震、廢太子同事也。且赤烏中無年不用兵,百姓愁怨。八年秋,將軍馬茂等又圖逆。
太元元年,吳に又た大風涌水の異有り。是の冬,權 南郊するは,宜しく是れ咎徵を鑒みるべきか。還りて寢疾し,明年四月薨ず。〔一〕一に曰く,權時に譖訴を信納し,陸遜の勳重く,子の和もて儲貳とすと雖も,猶ほ其の終を得ず。漢安帝の讒を聽き楊震を免じ、太子を廢することと同事なり。〔二〕且つ赤烏中 年に兵を用ひざる無く,百姓愁怨す。八年秋,將軍馬茂等又た逆を圖る。〔三〕
〔一〕『三國志』吳書・呉主孫權傳:「(太元元年)秋八月朔,大風,江海涌溢,平地深八尺,吳高陵松柏斯拔,郡城南門飛落。冬十一月,大赦。權祭南郊還,寢疾。十二月,驛徵大將軍恪,拜爲太子太傅。詔省徭役,減征賦,除民所患苦。(中略)(二年)夏四月,權薨,時年七十一,諡曰大皇帝。」
〔二〕『後漢書』孝安帝紀:「(延光三年三月壬戌)是日,太尉楊震免。……九月丁酉,廢皇太子保爲濟陰王。」
『後漢書』五行志三:「延光三年,大水,流殺民人,傷苗稼。是時安帝信江京、樊豐及阿母王聖等讒言,免太尉楊震,廢皇太子。」
〔三〕『三國志』吳書・吳主孫權傳:「(赤烏八年)秋七月,將軍馬茂等圖逆,夷三族。」
【参照】
『宋書』五行志四:「太元元年,又有大風涌水之異。是冬,權南郊。疑是鑒咎徵乎。還而寢疾。明年四月,薨。一曰,權時信納譖訴,雖陸議勳重,子和儲貳,猶不得其終。與漢安帝聽讒、免楊震、廢太子同事也。且赤烏中無年不用兵,百姓愁怨。八年秋,將軍馬茂等又圖逆云。」
太元元年(251年),呉にまた大風が吹き水が溢れるという異変があった。この冬に孫権が天を祀る儀式を行ったのは,どうも咎徵を戒めとしたということだろうか。戻って来て病気に伏せ,明年四月に身罷った。あるいは,孫権は時に讒言を聞き入れ,陸遜の功績が大きく,子の孫和を皇太子としていたが,最後には廃嫡したともいう。漢の安帝が讒言を聴き楊震を解任し,太子を廃したことと同じである。しかも赤烏の際,戦争をしない年はなく,百姓は憂え恨んだ。八年の秋,将軍馬茂等も反逆を計画した。
魏明帝景初元年九月,淫雨・冀・兗・徐・豫四州水出,沒溺殺人,漂失財產。帝自初卽位,便淫奢極慾,多占幼女,或奪士妻,崇飾宮室,妨害農戰,觸情恣慾,至是彌甚,號令逆時,飢不損役。此水不潤下之應也。
魏の明帝景初元年九月,淫雨あり,冀・兗・徐・豫の四州水出づ,沒溺し人を殺し,財產を漂失す。〔一〕帝初めて卽位して自り,便ち淫奢慾を極め,多く幼女を占め,或ひは士の妻を奪ひ,宮室を崇飾し,農戰を妨害し,情に觸れ慾を恣にし,是に至りて彌いよ甚だしく,號令時に逆らひ,飢へるも役を損ねず。此れ水潤下せざるの應なり。
〔一〕『三國志』明帝紀:「(景初元年)九月,冀・兗・徐・豫四州民遇水,遣侍御史循行沒溺死亡及失財產者,在所開倉振救之。」
【参照】
『宋書』五行志四:「魏明帝景初元年九月,淫雨過常,冀・兗・徐・豫四州水出,沒溺殺人,漂失財產。帝自初卽位,便淫奢極欲,多占幼女,或奪士妻,崇飾宮室,妨害農戰,觸情恣欲,至是彌甚,號令逆時,饑不損役。此水不潤下之應也。」
魏の明帝の景初元年(237年)九月,長雨があり,冀・兗・徐・豫の四州で洪水が起こり,溺れさせ人を殺し,財産を流し失わせた。(明)帝が即位してから,たちまち欲望のまま妄りに奢り,幼女を多く我が物とし,あるいは臣下の妻を奪い,宮室を美しく飾りたて,屯田を妨害し,情慾に溺れ,この頃にはますます甚だしくなって,号令は時宜に逆らい,人々が飢えても労役を軽減しなかった。これは水が潤下しないことの応である。
吳孫亮五鳳元年夏,大水。亮卽位四年,乃立權廟。又終吳世不上祖宗之號,不修嚴父之禮,昭穆之數有闕。亮及休・晧又並廢二郊,不秩羣神。此簡宗廟不祭祀之罰也。又,是時孫峻專政。陰勝陽之應乎。
吳の孫亮五鳳元年夏,大水あり。〔一〕亮卽位して四年,乃ち權の廟を立つ。〔二〕又た吳世を終ふるも祖宗の號を上らず,嚴父の禮を修めず,昭穆の數に闕有り。〔三〕亮及び休、晧又た並びに二郊を廢し,羣神を秩せず。此れ宗廟を簡り祭祀せざるの罰なり。又た,是の時孫峻專政す。陰 陽に勝るの應なるかな。〔四〕
〔一〕『三國志』吳書三・三嗣主傳:「五鳳元年夏,大水。」
〔二〕『三國志』吳書三・三嗣主傳:「(五鳳二年)十二月,作太廟。」
〔三〕『禮記』祭統篇:「夫祭有昭穆。昭穆者,所以別父子・遠近・長幼・親疏之序,而無亂也。是故有事於大廟,則羣昭羣穆咸在,而不失其倫。此之謂親疏之殺也。」
『漢書』梅福傳:「初,武帝時,始封周後姬嘉爲周子南君,至元帝時,尊周子南君爲周承休侯,位次諸侯王。使諸大夫博士求殷後,分散爲十餘姓,郡國往往得其大家,推求子孫,絕不能紀。」顔師古注「不自知其昭穆之數也。」
〔四〕『三國志』吳書五・妃嬪傳:「建興中,孫峻專政,公族皆患之。」
【参照】
『宋書』五行志四:「吳孫亮五鳳元年夏,大水。亮卽位四年,乃立權廟,又終吳世,不上祖宗之號,不修嚴父之禮,昭穆之數有闕。亮及休、晧又並廢二郊,不秩羣神。此簡宗廟,不祭祀之罰也。又是時,孫峻專政,陰勝陽之應乎。」
呉の孫亮の五鳳元年(254年)夏,大水があった。孫亮が即位して四年,ようやく孫権の廟を立てた。また呉の世となったけれども祖先の号を奉らず,父親に対する礼を修めず,昭穆の数が(本来六つなければならないのに)不足していた。孫亮及び孫休、孫晧もまた一様に二郊(北郊、南郊)を廃し,羣神の順序を定めなかった。これは宗廟をなおざりにし祭祀しなかった罰ある。また,この時孫峻が専政した。陰が陽に勝ったことの応に違いなかろう。
孫休永安四年五月,大雨,水泉涌溢。昔歲作浦里塘,功費無數,而田不可成,士卒死叛,或自賊殺,百姓愁怨,陰氣盛也。休又專任張布,退盛沖等,吳人賊之應也。五年八月壬午,大雨震電,水泉湧溢。
孫休永安四年五月,大雨あり,水泉涌溢す。〔一〕昔歲浦里塘を作り,功費無數なれども,田成すべからず,士卒死叛し,或ひは自ら賊殺し,百姓愁怨し,陰氣盛んなり。〔二〕休又た專ら張布に任せ,盛沖等を退け,吳人之を賊(そこ)なふの應なり。〔三〕五年八月壬午,大雨震電あり,水泉湧溢す。〔四〕
〔一〕『三國志』吳書三・三嗣主傳:「(永安)四年夏五月,大雨,水泉涌溢。」
〔二〕『三國志』吳書三・三嗣主傳:「(永安三年)秋,用都尉嚴密議,作浦里塘。」
〔三〕『三國志』吳書三・三嗣主傳:「休以丞相興及左將軍張布有舊恩,委之以事,布典宮省,興關軍國。休銳意於典籍,欲畢覽百家之言,尤好射雉,春夏之間常晨出夜還,唯此時舍書。休欲與博士祭酒韋曜、博士盛沖講論道藝,曜、沖素皆切直,布恐入侍,發其陰失,令己不得專,因妄飾說以拒遏之。……初休爲王時,布爲左右將督,素見信愛,及至踐阼,厚加寵待,專擅國勢,多行無禮,自嫌瑕短,懼曜、沖言之,故尤患忌。休雖解此旨,心不能悅,更恐其疑懼,竟如布意,廢其講業,不復使沖等入。」
〔四〕『三國志』吳書三・三嗣主傳三:「(永安五年)八月壬午,大雨震電,水泉涌溢。」
【参照】
『宋書』五行志四:「吳孫休永安四年五月,大雨,水泉涌溢。昔歲作浦里塘,功費無數,而田不可成,士卒死叛,或自賊殺,百姓愁怨,陰氣盛也。休又專任張布,退盛沖等,吳人賊之之應也。吳孫休永安五年八月壬午,大雨震電,水泉涌溢。」
孫休の永安四年(261年)五月,大雨が降り,川や泉が溢れた。前年浦里塘を作り,事業費は数えられないほどかかったが,田畑は出来上がらず,士卒は死んだり叛いたりし,あるいは自殺し,百姓愁え怨み,陰気が盛んであった。孫休はまた張布に政治を任せっきりにし,盛沖等を退けており,呉人がこのこと(天時)をおろそかにした応である。五年八月壬午,大雨がふり雷が起こり,川や泉が溢れた。
武帝泰始四年九月,青州・徐・兗・豫四州大水。七年六月,大雨霖,河・洛・伊・沁皆溢,殺二百餘人。自帝卽尊位,不加三后祖宗之號。泰始二年又除明堂南郊五帝座,同稱昊天上帝,一位而已。又省先后配地之祀。此簡宗廟廢祭祀之罰也。
武帝泰始四年九月,青州・徐・兗・豫の四州に大水あり。〔一〕 七年六月,大雨あり霖し,河・洛・伊・沁皆な溢れ,二百餘人を殺す。〔二〕帝尊位に卽きてより,三后祖宗の號を加へず。〔三〕泰始二年も又た明堂南郊の五帝座を除き,同じく昊天上帝を稱し,一位あるのみ。又た先后配地の祀を省く。〔四〕此れ宗廟を簡り祭祀を廢するの罰なり。
〔一〕『晉書』世祖武帝紀:「(泰始四年)九月,青、徐、兗、豫四州大水,伊洛溢,合於河,開倉以振之。」
〔二〕『晉書』世祖武帝紀:「(泰始七年六月)大雨霖,伊、洛、河溢,流居人四千餘家,殺三百餘人,有詔振貸給棺。」
〔三〕『晉書』禮志上:「魏元帝咸熙二年十二月……禪位于晉。丙寅,武皇帝設壇場于南郊,柴燎告類于上帝,是時尚未有祖配。」
〔四〕『晉書』禮志上:「(泰始二年正月)時羣臣又議,五帝卽天也,王氣時異,故殊其號,雖名有五,其實一神。明堂南郊,宜除五帝之坐,五郊改五精之號,皆同稱昊天上帝,各設一坐而已。地郊又除先后配祀。帝悉從之。」
【参照】
『宋書』五行志四:「晉武帝泰始四年九月,青・徐・兗・豫四州大水。七年六月,大雨霖,河・洛・伊・沁皆溢,殺二百餘人。帝卽尊位,不加三后祖宗之號,泰始二年,又除明堂南郊五帝坐,同稱昊天上帝,一位而已。又省先后配地之禮。此簡宗廟,廢祭祀之罰,與漢成帝同事。一曰,昔歲及此年,藥蘭泥・白虎文秦涼殺刺史胡烈・牽弘,遣田璋討泥。又司馬望以大眾次淮北禦孫晧。內外兵役,西州饑亂,百姓愁怨,陰氣盛也。咸寧初,始上祖宗號,太熙初,還復五帝位。」
武帝の泰始四年(268年)九月,青州・徐州・兗州・豫州の四州に大水があった。 七年六月,大雨が長く続き,黃河・洛水・伊水・沁水の川はみな溢れ,二百人余りが亡くなった。武帝が即位してから,三后祖宗の号を加えなかった。泰始二年もまた明堂南郊の五帝座を除き,みな同じ昊天上帝を称し,ただ一つにした。また先后を地に配する祀を省いた。これは宗廟をなおざりにし祭祀を廃することの罰である。
咸寧元年九月,徐州大水。 二年七月癸亥,河南・魏郡暴水,殺百餘人。閏月,荊州郡國五大水,流四千餘家。去年采擇良家子女,露面入殿,帝親簡閱,務在姿色,不訪德行。有蔽匿者以不敬論。搢紳愁怨,天下非之。陰盛之應也。 三年六月,益・梁二州郡國八暴水,殺三百餘人。七月,荊州大水。九月,始平郡大水。十月,青・徐・兗・豫・荊・益・梁七州又大水。是時賈充等用事專恣,而正人疏外者多,陰氣盛也。 四年七月,司・冀・兗・豫・荊・揚郡國二十大水,傷秋稼,壞屋室,有死者。
咸寧元年九月,徐州に大水あり。〔一〕 二年七月癸亥,河南・魏郡に暴水あり,百餘人を殺す。〔二〕閏月,荊州の郡國五に大水あり,四千餘家を流す。〔三〕去年良家の子女を采擇し,面を露し入殿し,帝親ら簡閱し,務めて姿色在り,德行を訪ねず。蔽匿有れば以て論を敬(つつし)まず。搢紳愁怨し,天下之を非(そし)る。陰盛んなるの應なり。〔四〕 三年六月,益・梁二州の郡國八に暴水あり,三百餘人を殺す。〔五〕七月,荊州に大水あり。九月,始平郡に大水あり。十月,青・徐・兗・豫・荊・益・梁七州も又た大水あり。〔六〕是の時賈充等事を用ひて專恣し,而して正人の疏外せらるる者多く,陰氣盛んなり。 四年七月,司・冀・兗・豫・荊・揚の郡國二十に大水あり,〔七〕秋稼を傷なひ,屋室を壞し,死者有り。
〔一〕『晉書』世祖武帝紀:「(咸寧元年)九月甲子,青州螟,徐州大水。」
〔二〕『晉書』世祖武帝紀:「(咸寧二年秋七月)河南・魏郡暴水,殺百餘人,詔給棺。」
〔三〕『晉書』世祖武帝紀:「(咸寧二年)閏月,荊州五郡水,流四千餘家。」
〔四〕『晉書』世祖武帝紀:「(泰始九年秋七月)詔聘公卿以下子女以備六宮,采擇未畢,權禁斷婚姻。」
〔五〕『晉書』世祖武帝紀:「(咸寧三年)六月,益・梁八郡水,殺三百餘人,沒邸閣別倉。」
〔六〕『晉書』世祖武帝紀:「(咸寧三年九月)兗・豫・徐・青・荊・益・梁七州大水,傷秋稼,詔振給之。」
〔七〕『晉書』世祖武帝紀:「(咸寧四年秋七月)荊・揚郡國二十皆大水。」
【参照】
『宋書』五行志四:「晉武帝咸寧元年九月,徐州水。二年七月癸亥,河南魏郡暴水,殺百餘人。八月,荊州郡國五大水。去年采擇良家子女,露面入殿,帝親簡閱,務在姿色,不訪德行。有蔽匿者,以不敬論。搢紳愁怨,天下非之。陰盛之應也。咸寧三年六月,益・梁二州郡國八暴水,殺三百餘人。七月,荊州大水。九月,始平郡大水;十月,青・徐・兗・豫・荊・益・梁七州又水。是時賈充等用事日盛,而正人疏外者多。咸寧四年七月,司・冀・兗・豫・荊・揚郡國二十大水。」
咸寧元年(275年)九月,徐州に大水があった。 二年七月癸亥,河南・魏郡に暴水があり,百人余りが亡くなった。閏月,荊州の郡国五つに大水があり,四千戸余りを流した。去年良家の子女を集め,面をさらして入殿させて,武帝がみずから丁寧に検査し,必ず容姿と顔立ちが美しい者とし,道徳的な内面の品性ある者を探し求めなかった。ごまかし隠す者がいても言論を戒めなかった。士大夫は愁い怨み,天下の人々はこのことを誹った。これは陰が盛んであることの応である。 三年六月,益州・梁州の二州の郡国八つに暴水があり,三百人以上が亡くなった。七月,荊州に大水があった。九月,始平郡に大水があった。十月,青州・徐州・兗州・豫州・荊州・益州・梁州の七州にも大水があった。この時賈充等は権勢をふるって横暴であり,正しい行いをして疎んじられる者が多く,陰気が盛んであった。 四年七月,司州・冀州・兗州・豫州・荊州・揚州の郡国二十に洪水があり,秋に収穫する作物を駄目にし,家屋を壊し,死者があった。
太康二年六月,泰山、江夏大水,泰山流三百家,殺六十餘人,江夏亦殺人。時平吳後,王濬爲元功而詆劾妄加,荀・賈爲無謀而並蒙重賞,收吳姬五千,納之後宮,此其應也。 四年七月,兗州大水。十二月,河南及荊・揚六州大水。 五年九月,郡國四大水,又隕霜。是月,南安等五郡大水。 六年四月,郡國十大水,壞廬舍。七年九月,郡國八大水。 八年六月,郡國八大水。
太康二年六月,泰山、江夏に大水あり,泰山三百家を流し,六十餘人を殺し,江夏も亦た人を殺す。〔一〕時に吳を平らぐるの後,王濬 元功を爲せども詆劾もて妄りに加へ,荀・賈 無謀を爲せども並びに重賞を蒙り,吳の姬五千を收め,之を後宮に納る,此れ其の應なり。〔二〕 四年七月,兗州に大水あり。十二月,河南及び荊・揚六州に大水あり。〔三〕 五年九月,郡國四に大水あり,又た霜隕つ。〔四〕是の月,南安等五郡に大水あり。 六年四月,郡國十に大水あり,廬舍を壞す。〔五〕七年九月,郡國八に大水あり。〔六〕 八年六月,郡國八に大水あり。〔七〕
〔一〕『晉書』世祖武帝紀:「(太康二年夏六月)江夏・泰山水,流居人三百餘家。」
〔二〕『晉書』王濬傳:「及濬將至秣陵,王渾遣信要令暫過論事,濬舉帆直指,報曰「風利,不得泊也。」王渾久破晧中軍,斬張悌等,頓兵不敢進。而濬乘勝納降,渾恥而且忿,乃表濬違詔不受節度,誣罪狀之。」
〔三〕『晉書』世祖武帝紀:「(太康四年秋七月)丙寅,兗州大水,復其田租。……是歲,河內及荊州・揚州大水。」
〔四〕『晉書』世祖武帝紀:「(太康五年)九月,南安大風折木,郡國五大水,隕霜,傷秋稼。」
〔五〕『晉書』世祖武帝紀:「(太康六年夏四月)郡國四旱,十大水,壞百姓廬舍。」
〔六〕『晉書』世祖武帝紀:「(太康七年九月)郡國八大水。」
〔七〕『晉書』世祖武帝紀:「(太康八年)六月,魯國大風,拔樹木,壞百姓廬舍。郡國八大水。」
【参照】
『宋書』五行志四:「晉武帝太康二年六月,泰山・江夏大水。泰山流三百家,殺六千餘人。江夏亦殺人。是時平吳後,王濬爲元功,而詆劾妄加。荀・賈爲無謀,而並蒙重賞。收吳姬五千,納之後宮。此其應也。太康四年七月,司・豫・徐・兗・荊・揚郡國二十大水,傷秋稼,壞屋室,有死者。太康六年三月,青・涼・幽・冀郡國十五大水。太康七年九月,西方安定等郡國八大水。太康八年六月,郡國八大水。」
太康二年(281年)六月,泰山・江夏に大水があり,泰山では三百戸が流れ,六十人以上が亡くなり,江夏でも人が亡くなった。時に呉を平らげた後,王濬は大きな功績を挙げたけれども弾劾されでたらめを言われ,荀(荀勖(勗))・賈(賈充)はきちんとした計画がなかったけれどもいずれも手厚い褒美を受け,呉の姬五千を捕え,後宮に納れたが、これはその応である。 四年七月,兗州に大水があった。十二月,河南及び荊州、揚州の六州に大水があった。 五年九月,郡国四つに大水があり,また霜が降りた。この月,南安等五郡に大水があった。 六年四月,郡国十ヶ所に大水があり,住宅を壊した。七年九月,郡国八つに大水があった。 八年六月,郡国八つに大水があった。
惠帝元康二年,有水災。 五年五月,潁川、淮南大水。 六月,城陽・東莞大水,殺人,荊・揚・徐・兗・豫五州又水。是時帝卽位已五載,猶未郊祀,其蒸嘗亦多不親行事。此簡宗廟廢祭祀之罰。 六年五月,荊・揚二州大水。是時賈后亂朝,寵樹賈・郭。女主專政,陰氣盛之應也。 八年五月,金墉城井溢。漢志,成帝時有此妖,後王莽僭逆。今有此妖,趙王倫簒位,倫廢帝於此城,井溢所在,其天意也。九月,荊・揚・徐・冀・豫五州大水,是時賈后暴戾滋甚,韓謐驕猜彌扇,卒害太子,旋以禍滅。 九年四月,宮中井水沸溢。
惠帝元康二年,水災有り。 五年五月,潁川・淮南に大水あり。 六月,城陽・東莞に大水あり,人を殺し,荊・揚・徐・兗・豫五州も又た水あり。〔一〕是の時帝卽位し已に五載,猶ほ未だ郊祀せず,其の蒸嘗も亦た多く親ら行事せず。此れ宗廟を簡り祭祀を廢するの罰なり。 六年五月,荊、揚二州に大水あり。〔二〕是の時賈后 朝を亂し,賈、郭を寵樹す。女主專政し,陰氣盛んなるの應なり。 八年五月,金墉城の井溢る。漢志に,成帝の時此の妖有り,後王莽僭逆す,と。〔三〕今此の妖有り,趙王倫 位を簒ひ,倫 帝を此の城に廢し,井溢るるの在る所,其れ天意なり。九月,荊・揚・徐・冀・豫の五州に大水あり,〔四〕是の時賈后の暴戾滋(ます)ます甚だしく,韓謐の驕猜彌いよ扇(おこ)り,卒に太子を害し,旋(つ)いで禍を以て滅す。 九年四月,宮中の井水沸き溢る。
〔一〕『晉書』孝惠帝紀:「(永平五年)是歲,荊・揚・兗・豫・青・徐等六州大水,詔遣御史巡行振貸。」
訳者注:『晉書』孝帝紀永平元年に注があり,永平元年三月に「元康」と改元されたが,帝紀ではそのまま永平を用いるという。以下も同樣。
〔二〕『晉書』孝惠帝紀:「(永平六年)五月,荊、揚二州大水。」
〔三〕『漢書』成帝紀:「(建始二年)三月,北宮井水溢出。」
『漢書』五行志中之上:「元帝時童謠曰「井水溢,滅竈煙,灌玉堂,流金門。」至成帝建始二年三月戊子,北宮中井泉稍上,溢出南流,象春秋時先有鸜鵒之謠,而後有來巢之驗。井水,陰也。竈煙,陽也。玉堂・金門,至尊之居。象陰盛而滅陽,竊有宮室之應也。王莽生於元帝初元四年,至成帝封侯,爲三公輔政,因以簒位。」
〔四〕『晉書』孝惠帝紀:「(永平八年)秋九月,荊・豫・揚・徐・冀等五州大水。雍州有年。」
【参照】
『宋書』五行志四:「晉惠帝元康二年,有水災。元康五年五月,潁川・淮南大水。六月,城陽、東莞大水殺人。荊・揚・徐・兗・豫五州又大水。是時帝卽位已五載,猶未郊祀,烝嘗亦多不身親近。簡宗廟,廢祭祀之罰也。班固曰「王者卽位,必郊祀天地,望秩山川。若乃不敬鬼神,政令違逆,則霧水暴至,百川逆溢,壞郷邑,溺人民,水不潤下也。」
元康六年五月,荊・揚二州大水。按董仲舒說,水者陰氣盛也。是時賈后亂朝,寵樹賈・郭。女主專政之應也。
元康八年五月,金墉城井水溢。漢成帝時有此妖,班固以爲王莽之象。及趙倫簒位,卽此應也。倫廢帝於此城,井溢所在,又天意乎。
元康八年九月,荊・揚・徐・兗・冀五州大水。是時賈后暴戾滋甚,韓謐驕猜彌扇,卒害太子,旋亦禍滅。
元康九年四月,宮中井水沸溢。」
恵帝の元康二年(292年),水災があった。 五年五月,潁川・淮南に大水があった。 六月,城陽・東莞に大水があり,人を殺し,荊州・揚州・徐州・兗州・豫州の五州でも水害があった。この時帝が即位してすでに五年経ち,今なお郊祀をせず,秋冬の祭祀もまた多く自分で行わなかった。これは宗廟をなおざりにし祭祀を廃することの罰である。 六年五月,荊・揚の二州に大水があった。この時賈后は朝廷を乱し,賈・郭(の一族)を高い地位につけた。これは女主が専政し,陰気が盛んであることの応である。 八年五月,金墉城の井戸が溢れた。『漢書』五行志には,成帝の時この妖があり,その後王莽が身分を越えて上に立った、とある。今この妖があるのは,趙王倫が位を奪い,倫が帝をこの城で退けており,井戸が溢れたのがこの場所であるというのは,天の意である。九月,荊州・揚州・徐州・冀州・豫州の五州に大水があり,この時賈后の残虐で人道に外れた行いはますます甚だしく,韓謐(賈謐)の驕りねたむ行いはいよいよ盛んになり,結局太子を害し,その後すぐ災難を受けて滅亡した。 九年四月,宮中の井戸水が噴き出した。
永寧元年七月,南陽・東海大水。是時齊王冏專政,陰盛之應也。
永寧元年七月,南陽・東海に大水あり。是の時齊王冏專政し,陰盛んなるの應なり。
【参照】
『宋書』五行志四:「晉惠帝永寧元年七月,南陽、東海大水。是時齊王冏秉政專恣。陰盛之應。」
永寧元年(301年)七月,南陽・東海に大水があった。この時斉王冏が専政し,陰が盛んであることの応である。
太安元年七月,兗・豫・徐・冀四州水。時將相力政,無尊王心,陰盛故也。
太安元年七月,兗・豫・徐・冀四州に水あり。〔一〕時に將相力政し,尊王の心無く,陰盛んなるが故なり。
〔一〕『晉書』孝惠帝紀:「(太安元年)秋七月,兗・豫・徐・冀等四州大水。」
【参照】
『宋書』五行志四:「晉惠帝太安元年七月,兗・豫・徐・冀四州水。時將相力政,無尊主心。」
太安元年(302年)七月,兗・豫・徐・冀の四州に水害があった。この時将軍と宰相が武力により政治を行い,尊王の心は無く,陰が盛んであったためである。
孝懷帝永嘉四年四月,江東大水。時王導等潛懷翼戴之計,陰氣盛也。
孝懷帝永嘉四年四月,江東に大水あり〔一〕。時に王導ら潛かに翼戴の計を懷く〔二〕,陰氣の盛んなり。
〔一〕『晉書』孝懷帝本紀・永嘉四年條:「夏四月,大水。」
〔二〕『晉書』王敦列傳:「帝初鎮江東,威名未著,敦與從弟導等同心翼戴,以隆中興,時人為之語曰「王與馬,共天下。」尋與甘卓等討江州刺史華軼,斬之。」
【参照】
『宋書』五行志・水:「晉孝懷帝永嘉四年四月,江東大水。是時王導等潛懷翼戴之計。陰氣盛也。」
孝懐帝永嘉四年(310)四月,江東に大水があった。時に王導らはひそかに翼戴の計(元帝を江東で位につかせようとする計画)を懐いていたので,陰の気が盛んなのである。
元帝太興三年六月,大水。是時王敦内懷不臣,傲很陵上,此陰氣盛也。
四年七月,又大水。
元帝太興三年六月,大水あり〔一〕。是の時王敦内に不臣を懷き,傲很にして上を陵ぐ〔二〕,此れ陰氣盛んなり。
四年七月,又た大水あり〔三〕。
〔一〕『晉書』中宗元帝本紀・太興三年條:「六月,大水。」
〔二〕同王敦列傳:「初,敦務自矯厲,雅尚清談,口不言財色。既素有重名,又立大功於江左,專任閫外,手控強兵,羣從貴顯,威權莫貳,遂欲專制朝廷,有問鼎之心。帝畏而惡之,遂引劉隗、刁協等以為心膂。敦益不能平,於是嫌隙始構矣。毎酒後輒詠魏武帝樂府歌曰「老驥伏櫪,志在千里。烈士暮年,壯心不已。」以如意打唾壺為節,壺邊盡缺。及湘州刺史甘卓遷梁州,敦欲以從事中郎陳頒代卓,帝不從,更以譙王承鎮湘州。敦復上表陳古今忠臣見疑於君,而蒼蠅之人交構其間,欲以感動天子。帝愈忌憚之。」
※このエピソードは永昌元年より前の出来事として書かれている
〔三〕『晉書』中宗元帝本紀・太興四年條:「秋七月,大水。」
【参照】
『宋書』五行志・水:「晉元帝太興三年六月,大水。是時王敦内懷不臣,傲佷作威。後終夷滅。太興四年七月,大水。明年有石頭之敗。」
元帝太興三年(320)六月,大水があった。この時王敦は心の内で臣下としての道に背き,傲岸にも目上の人を凌いでいたので,陰の気が盛んなのである。
四年(321)七月,さらに大水があった。
永昌二年五月,州及丹楊・宣城・呉興・壽春大水。
明帝太寧元年五月,丹楊・宣城・呉興・壽春大水。是時王敦威權震主,陰氣盛故也。
永昌二年五月〔一〕,荊州及び丹楊・宣城・呉興・壽春大水あり。
明帝太寧元年五月,丹楊・宣城・呉興・壽春大水あり〔二〕。是の時王敦威權をして震主す〔三〕,陰氣盛んなるの故なり。
〔一〕『晉書斠注』によれば永昌二年は存在せず、太寧元年の記事を誤って永昌二年としたもので、次の太寧元年と全く同じ内容となっている。(実際には永昌二年は三月まで存在する)なお、『宋書』は永昌二年、太寧元年両方の記事を採っている。
〔二〕『晉書』粛宗明帝本紀・太寧元年條:「五月,京師大水。」
〔三〕同太寧元年三月條:「王敦獻皇帝信璽一紐。敦將謀篡逆,諷朝廷徵己,帝乃手詔徵之。」
同王敦列傳:「及帝崩,太寧元年,敦諷朝廷徵己,明帝乃手詔徵之,語在明帝紀。又使兼太常應詹拜授加黃鉞,班劍武賁二十人,奏事不名,入朝不趨,劍履上殿。敦移鎮姑孰,帝使侍中阮孚齎牛酒犒勞,敦稱疾不見,使主簿受詔。以王導為司徒,敦自為揚州牧。」
【参照】
『宋書』五行志・水:「晉元帝永昌二年五月,荊州及丹陽・宣城・呉興・壽春大水。晉明帝太寧元年五月,丹陽・宣城・呉興・壽陽大水。是時王敦疾害忠良,威權震主。尋亦誅滅。」
永昌二年五月,荊州及び丹楊・宣城・呉興・寿春に大水があった。
明帝太寧元年(323)五月,丹楊・宣城・呉興・寿春に大水があった。このとき王敦は威勢でもって皇帝を脅かしており,陰の気が盛んであったためである。
成帝咸和元年五月,大水。是時嗣主幼沖,母后稱制,庾亮以元舅決事禁中,陰勝陽故也。
二年五月戊子,京都大水。是冬,以蘇峻稱兵,都邑塗地。
四年七月,丹楊・宣城・呉興・會稽大水。是冬,郭默作亂,荊豫共討之,半歳乃定,兵役之應也。
七年五月,大水。是時帝未親機務,政在大臣,陰勝陽也。
成帝咸和元年五月,大水あり。是の時嗣主幼沖なれば,母后稱制〔一〕するに,庾亮 元舅なるを以て禁中に事を決す,陰 陽に勝る故なり。
二年五月戊子,京都に大水あり。是の冬,蘇峻稱兵するを以て,都邑地に塗る〔二〕。
四年七月,丹楊・宣城・呉興・會稽に大水あり。是の冬,郭默亂を作し,荊豫共に之を討ち,半歳にして乃ち定まる〔三〕,兵役の應なり。
七年五月,大水あり。是の時帝未だ機務を親らにせず,政 大臣に在り,陰 陽に勝るなり。
〔一〕『晉書』明穆庾皇后列傳:「及成帝即位,尊后曰皇太后。羣臣奏,天子幼沖,宜依漢和熹皇后故事。辭讓數四,不得已而臨朝攝萬機。后兄中書令亮管詔命,公卿奏事稱皇太后陛下。」
同庾亮列傳:「及帝疾篤,不欲見人,羣臣無得進者。撫軍將軍・南頓王宗,右衛將軍虞胤等,素被親愛,與西陽王羕將有異謀。亮直入臥内見帝,流涕不自勝,既而正色陳羕與宗等謀廢大臣,規共輔政,社稷安否,將在今日,辭旨切至。帝深感悟,引亮升御座,遂與司徒王導受遺詔輔幼主。加亮給事中,徙中書令。太后臨朝,政事一決於亮。」
同咸康八年條:「癸巳,帝崩于西堂,時年二十二,葬興平陵,廟號顯宗。」
※逆算すると即位したときは五歳
〔二〕『晉書』顯宗成帝本紀・咸和三年條:「十一月,豫州刺史祖約・歷陽太守蘇峻等反。」
同蘇峻列傳:「峻素疑亮欲害己,表曰「昔明皇帝親執臣手,使臣北討胡寇。今中原未靖,無用家為,乞補青州界一荒郡,以展鷹犬之用。」復不許。峻嚴裝將赴召,而猶豫未決,參軍任讓謂峻曰「將軍求處荒郡而不見許,事勢如此,恐無生路,不如勒兵自守。」峻從之,遂不應命。朝廷遣使諷諭之,峻曰「臺下云我欲反,豈得活邪。我寧山頭望廷尉,不能廷尉望山頭。往者國危累卵,非我不濟,狡兔既死,獵犬理自應烹,但當死報造謀者耳。」於是遣參軍徐會結祖約,謀為亂,而以討亮為名。約遣祖渙・許柳率衆助峻,峻遣將韓晃・張健等襲姑孰,進逼慈湖,殺于湖令陶馥及振威將軍司馬流。峻自率渙・柳衆萬人,乘風濟自橫江,次於陵口,與王師戰,頻捷,遂據蔣陵覆舟山,率衆因風放火,臺省及諸營寺署一時蕩盡。遂陷宮城,縱兵大掠,侵逼六宮,窮凶極暴,殘酷無道。驅役百官,光祿勳王彬等皆被捶撻,逼令擔負登蔣山。裸剝士女,皆以壞席苫草自鄣,無草者坐地以土自覆,哀號之聲震動内外。」
〔三〕『晉書』顯宗成帝本紀・咸和四年條:「十二月壬辰,右將軍郭默害平南將軍・江州刺史劉胤,太尉陶侃帥衆討默。」
同五年:「夏五月,旱,且飢疫。乙卯,太尉陶侃擒郭默于尋陽,斬之。」
【参照】
『宋書』五行志・水:「晉成帝咸和元年五月,大水。是時嗣主幼沖,母后稱制,庾亮以元舅民望,決事禁中。陰勝陽也。咸和二年五月戊子,京都大水。是冬,蘇峻稱兵,都邑塗炭。咸和四年七月,丹陽・宣城・呉興・會稽大水。是冬,郭默作亂,荊・豫共討之,半歳乃定。咸和七年五月,大水。是時帝未親務,政在大臣。陰勝陽也。」
成帝咸和元年(326)五月,大水があった。この時皇帝は幼かったので,皇太后が代わりに政治を行っていたが,庾亮が皇太后の兄であることを理由に(本来臣下が立ち入ってはならない)宮中で事を決していたので,陰が陽に勝ったのである。
二年(327)五月戊子,京都に大水があった。この冬,蘇峻が兵を起こしたので,みやこは無残な状態になった。
四年(329)七月,丹楊・宣城・呉興・會稽に大水があった。この冬,郭黙が反乱を起こしたが,荊州刺史の陶侃と豫州刺史の庾亮がこれを共に討ち,半年もかかってやっと定まった,この兵役の応である。
七年(332)五月,大水があった。この時皇帝は未だに重要な政務を自らおこなっておらず,政治は大臣がおこなっていたので,陰が陽に勝ったのである。
咸康元年八月,長沙・武陵大水。
咸康元年八月,長沙・武陵に大水あり〔一〕。
〔一〕『晉書』顯宗成帝本紀・咸康元年條:「秋八月,長沙・武陵大水。」
【参照】
『宋書』五行志・水:「晉成帝咸康元年八月,長沙・武陵大水。是年三月,石虎掠騎至歷陽,四月,圍襄陽。於是加王導大司馬,集徒旅。又使趙胤・路永・劉仕・王允之・陳光五將軍,各帥眾戍衞。百姓愁怨。陰氣盛也。」
咸康元年(335)八月,長沙・武陵に大水があった。
穆帝永和四年五月,大水。
五年五月,大水。
六年五月,又大水。時幼主沖弱,母后臨朝,又將相大臣各執權政,與咸和初同事也。
七年七月甲辰夜,濤水入石頭,死者數百人。是時殷浩以私忿廢蔡謨,遐邇非之。又幼主在上而殷桓交惡,選徒聚甲,各崇私權,陰勝陽之應也。一説,濤水入石頭,以為兵占。是後殷浩・桓溫・謝尚・荀羨連年征伐,百姓愁怨也。
穆帝永和四年五月,大水あり〔一〕。
五年五月,大水あり。
六年五月,又た大水あり〔二〕。時に幼主沖弱なれば,母后朝に臨み〔三〕,又た將相大臣各の權政を執る,咸和初めと同事なり。
七年七月甲辰の夜,濤水 石頭に入り,死者數百人〔四〕。是の時殷浩 私忿を以て蔡謨を廢すも〔五〕,遐邇これを非(そし)る。又た幼主上に在りて殷桓交も惡み,徒を選びて甲を聚め,各の私權を崇(ま)す,陰 陽に勝るの應なり。一説に,濤水石頭に入るは,以て兵占と爲す。是の後殷浩・桓溫・謝尚・荀羨連年征伐す,百姓愁怨なり。
〔一〕『晉書』孝宗穆帝本紀・永和四年條:「五月,大水。」
〔二〕同永和六年條:「夏五月,大水。」
〔三〕『晉書』康獻褚皇后傳:「及穆帝即位,尊后曰皇太后。時帝幼沖,未親國政。(中略)太后詔曰「帝幼沖,當賴羣公卿士將順匡救,以酬先帝禮賢之意,且是舊德世濟之美,則莫重之命不墜,祖宗之基有奉,是其所以欲正位于内而已。所奏懇到,形于翰墨,執省未究,以悲以懼。先后允恭謙抑,思順坤道,所以不距羣情,固為國計。豈敢執守沖闇,以違先旨。輒敬從所奏。」於是臨朝稱制。」
〔四〕『晉書』孝宗穆帝本紀・永和七年條:「(七月)甲辰,濤水入石頭,溺死者數百人。」
〔五〕同書・永和六年條:「十二月,免司徒蔡謨為庶人。」
同巻・蔡謨列傳:「穆帝臨軒,遣侍中紀璩・黃門郎丁纂徵謨。謨陳疾篤,使主簿謝攸對曰「臣謨不幸有公族穆子之疾,天威不違顏咫尺,不敢奉詔,寢伏待罪。」自旦至申,使者十餘反,而謨不至。時帝年八歳,甚倦,問左右曰「所召人何以至今不來。臨軒何時當竟。」君臣俱疲弊。皇太后詔「必不來者,宜罷朝。」中軍將軍 殷浩奏免吏部尚書江虨官。簡文時為會稽王,命曹曰「蔡公傲違上命,無人臣之禮。若人主卑屈於上,大義不行於下,亦不知復所以為政矣。」於是公卿奏曰「司徒謨頃以常疾,久逋王命,皇帝臨軒,百僚齊立,俯僂之恭,有望於謨。若志存止退,自宜致辭闕庭,安有人君卑勞終日而人臣曾無一酬之禮。悖慢傲上,罪同不臣。臣等參議,宜明國憲,請送廷尉以正刑書。」謨懼,率子弟素服詣闕稽顙,躬到廷尉待罪。皇太后詔曰「謨先帝師傅,服事累世。且歸罪有司,内訟思愆。若遂致之于理,情所未忍。可依舊制免為庶人。」」
同書・殷浩列傳:「桓溫素忌浩,及聞其敗,上疏罪浩曰,案中軍將軍浩過蒙朝恩,叨竊非據,寵靈超卓,再司京輦,不能恭慎所任,恪居職次,而侵官離局,高下在心。前司徒臣謨執義履素,位居台輔,師傅先帝,朝之元老,年登七十,以禮請退,雖臨軒固辭,不順恩旨,適足以明遜讓之風,弘優賢之禮。而浩虛生狡說,疑誤朝聽,獄之有司,將致大辟。」
【参照】
『宋書』五行志・水:「晉穆帝永和四年五月,大水。是時幼主沖弱,母后臨朝,又將相大臣,各爭權政。與咸和初同事也。永和五年五月,大水。永和六年五月,大水。永和七年七月甲辰夜,濤水入石頭,死者數百人。去年殷浩以私忿廢蔡謨,遐邇非之。又幼主在上,而殷・桓交惡,選徒聚甲,各崇私權。陰勝陽之應也。一説濤入石頭,江右以為兵占。是後殷浩・桓溫・謝尚・荀羨連年征伐。」
穆帝永和四年(348)五月,大水があった。
五年(349)五月,大水があった。
六年(350)五月,さらに大水があった。時に皇帝が幼かったので,母后が政務をおこない,さらに将軍・宰相・大臣らが各の権力を握ったが,咸和初めと同じことである。
七年(351)七月甲辰の夜,濤水が石頭に入り,死者は数百人だった。この時殷浩が私怨から蔡謨を廃したが,近きも遠きも国中の人が非難した。さらに幼い皇帝が上に在るという状況で殷浩と桓温が互いに嫌悪し,人を選んで武器を集め,それぞれの非合法で好き勝手な権力を増やした,陰が陽に勝った応である。一説に,濤水が石頭に入ったのは,軍事に関わる占であるという。この後殷浩・桓温・謝尚・荀羨らは連年征伐をおこなったのは,民衆のうれいうらむところである。
升平二年五月,大水。
五年四月,又大水。是時桓溫權制朝廷,專征伐,陰勝陽也。
升平二年五月,大水あり〔一〕。
五年四月,又た大水あり〔二〕。是の時桓溫 朝廷を權制し,征伐を專らにす,陰 陽に勝るなり。
〔一〕『晉書』孝宗穆帝本紀・升平二年條:「夏五月,大水。」
〔二〕同五年條:「夏四月,大水。太尉桓溫鎮宛,使其弟豁將兵取許昌。」
【参照】
『宋書』五行志・水:「晉穆帝升平二年五月,大水。是時桓溫權制朝廷,征伐是專。升平五年四月,大水。」
升平二年(358)五月,大水があった。
五年(361)四月,さらに大水があった。この時桓温は朝廷を権力でおさえ,征伐を独断で行った,陰が陽に勝っていたのだ。
海西公太和六年六月,京師大水,平地數尺,浸及太廟。朱雀大航纜斷,三艘流入大江。丹楊・晉陵・呉郡・呉興・臨海五郡又大水,稻稼蕩沒,黎庶饑饉。初,四年桓溫北伐敗績,十喪其九,五年又征淮南,踰歲乃克,百姓愁怨之應也。
海西公太和六年六月,京師に大水あり,地 數尺を平らかにし,浸 太廟に及ぶ。朱雀大航纜斷し,三艘大江に流入す。丹楊・晉陵・呉郡・呉興・臨海五郡又た大水あり,稻稼 蕩沒し,黎庶饑饉す〔一〕。初め,四年桓溫北伐して敗績〔二〕し,十に其の九を喪い〔三〕,五年又た淮南に征し,歳を踰えて乃ち克す,百姓愁怨の應なり。
〔一〕『晉書』廢帝海西公本紀・太和六年條:「六月,京都及丹楊・晉陵・呉郡・呉興・臨海並大水。」
〔二〕『春秋左氏傳』桓公十三年:「(經十有三年春二月)已巳,及齊侯・宋公・衞侯・燕人戰齊師・宋師・衞師・燕師敗績」杜注「大崩曰敗績。」
〔三〕同桓温列傳:「太和四年,又上疏悉衆北伐。平北將軍郗愔以疾解職,又以溫領平北將軍・徐兗二州刺史,率弟南中郎沖・西中郎袁真步騎五萬北伐。百官皆於南州祖道,都邑盡傾。軍次湖陸,攻慕容暐將慕容忠,獲之,進次金鄉。時亢旱,水道不通,乃鑿鉅野三百餘里以通舟運,自清水入河。暐將慕容垂・傅末波等率眾八萬距溫,戰于林渚。溫擊破之,遂至枋頭。先使袁真伐譙梁,開石門以通運。真討譙梁皆平之,而不能開石門,軍糧竭盡。溫焚舟步退,自東燕出倉垣,經陳留,鑿井而飲,行七百餘里。垂以八千騎追之,戰于襄邑,溫軍敗績,死者三萬人。溫甚恥之,歸罪於真,表廢為庶人。真怨溫誣己,據壽陽以自固,潛通苻堅・慕容暐。」
【参照】
『宋書』五行志・水:「晉海西太和六年六月,京都大水,平地數尺,侵及太廟。朱雀大航纜斷,三艘流入大江。丹陽・晉陵・呉國・呉興・臨海五郡又大水,稻稼蕩沒,黎庶饑饉。初四年,桓溫北伐敗績,十喪其九;五年,又征淮南,踰歳乃克。百姓愁怨之應也。」
海西公太和六年(371)六月,京師に大水があり,陸地が数尺(水に浸かって)平たくなり,浸水は太廟にまで及んだ。朱雀大航(建康宮の南にあった船を並べて造った橋)のともづなが切れて,そのうちの三艘が長江に流れ入った。丹楊・晋陵・呉郡・呉興・臨海の五郡でさらに大水があり,作物が水没し,多くの民が飢えることとなった。初め,四年に桓温が北伐して敗れ,十のうちの九までを失い,五年にまた淮南に遠征して,歳をまたいでやっと勝った,百姓がうれいうらんだ応である。
簡文帝咸安元年十二月壬午,濤水入石頭。明年,妖賊盧竦率其屬數百人入殿,略取武庫三庫甲仗,遊擊將軍毛安之討滅之,兵興陰盛之應也。
簡文帝咸安元年十二月壬午,濤水 石頭に入る。明年,妖賊の盧竦(しょう) 其の屬數百人を率いて殿に入り〔一〕,武庫三庫の甲仗を略取し,遊擊將軍毛安之これを討滅す,兵興りて陰盛んなるの應なり。
〔一〕『晉書』孝武帝本紀・咸安二年條:「十一月甲午,妖賊盧悚晨入殿庭,游擊將軍毛安之等討擒之。」
同・桓彝列傳附豁弟祕列傳:「孝武帝初即位,妖賊盧竦入宮,祕與左衞將軍殷康俱入擊之。溫入朝,窮考竦事,收尚書陸始等,罹罪者甚衆。祕亦免官,居于宛陵,毎憤憤有不平之色。」
【参照】
『宋書』五行志・水:「晉簡文帝咸安元年十二月壬午,濤水入石頭。明年,妖賊盧竦率其屬數百人入殿,略取武庫三庫甲仗,游擊將軍毛安之討滅之。」
簡文帝咸安元年(371)十二月壬午,濤水が(氾濫して)石頭に入った。翌年,妖賊(人々を惑わす賊)の盧竦が配下の数百人を率いて殿に入り,武器庫三庫ぶんの鎧と武器を略奪し,遊撃将軍の毛安之がこれを討ち滅ぼした,これは兵が興って陰が盛んな応である。
孝武帝太元三年六月,大水。是時帝幼弱,政在將相。
五年五月,大水。
六年六月,揚・荊・江三州大水。
八年三月,始興・南康・廬陵大水,平地五丈。
十年五月,大水。自八年破苻堅後,有事中州,役無寧歳,愁怨之應也。
十三年十二月,濤水入石頭,毀大航,殺人。明年,慕容氏寇擾司兗,鎮戍西北,疲於奔命,愁怨之應也。
孝武帝太元三年六月,大水あり〔一〕。是の時帝 幼弱にして〔二〕,政 將相に在り。
五年五月,大水あり〔三〕。
六年六月,揚・荊・江三州に大水あり〔四〕。
八年三月,始興・南康・廬陵に大水あり,地五丈を平いらかにす〔五〕。
十年五月,大水あり〔六〕。八年に苻堅を破りてより後〔七〕,中州に事有り,役に寧歳無し,愁怨の應なり。
十三年十二月,濤水 石頭に入り,大航を毀ち,人を殺す〔八〕。明年,慕容氏 司兗を寇擾すれば,西北に鎮戍し,奔命に疲れさせしむ,愁怨の應なり。
〔一〕『晉書』孝武帝本紀・太元三年條:「六月,大水。」
〔二〕同二十一年條:「帝幼稱聰悟。簡文之崩也,時年十歳,至晡不臨,左右進諫,答曰「哀至則哭,何常之有。」謝安嘗嘆以為精理不減先帝。」
〔三〕同五年條:「五月,大水。」
〔四〕同六年條:「夏六月庚子朔,日有蝕之。揚・荊・江三州大水。」
〔五〕同八年條:「三月,始興・南康・廬陵大水,平地五丈。」
〔六〕同十年條:「五月,大水。」
〔七〕同八年條:「冬十月,苻堅弟融陷壽春。乙亥,諸將及苻堅戰于肥水,大破之,俘斬數萬計,獲堅輿輦及雲母車。」
同十年條:「三月,(中略)龍驤將軍劉牢之及慕容垂戰于黎陽,王師敗績。夏四月丙辰,劉牢之與沛郡太守周次及垂戰于五橋澤,王師又敗績。」
同十二年正月條:「戊午,慕容垂寇河東,濟北太守溫詳奔彭城。翟遼遣子釗寇陳・潁,朱序擊走之。」
〔八〕同十三年條:「冬十二月戊子,濤水入石頭,毀大桁,殺人。」
【参照】
『宋書』五行志・水:「晉孝武帝太元三年六月,大水。是時孝武幼弱,政在將相。太元五年,大水。去年氐賊攻沒襄陽,又向廣陵。於是逼徙江・淮民悉令南渡,三州失業,道饉相望。謝玄雖破句難等,自後征戍不已。百姓愁怨之應也。太元六年六月,荊・江・揚三州大水。太元十年夏,大水。初八年,破苻堅,自後有事中州,役無已歳。兵民愁怨之應也。太元十三年十二月,濤水入石頭。明年,丁零・鮮卑寇擾司・兗鎮戍,西・北疲於奔命。」
孝武帝太元三年(378)六月,大水があった。この時皇帝が幼かったので,政治の実権は将軍と大臣にあった。
五年(380)五月,大水があった。
六年(381)六月,揚・荊・江の三州に大水があった。
八年(383)三月,始興・南康・廬陵に大水があり,陸地を五丈(水に浸けて)平らにした。
十年(385)五月,大水があった。八年に苻堅を破ってから後,中原に戦争があり,役務(兵役と徭役)の負担がない年がなかった,(多くの人々が)うれいうらむ応である。
十三年(388)十二月,濤水が(氾濫して)石頭に入り,大きな船橋を壊し,人を殺した。翌年,慕容氏が司州と兗州に侵略してきたので,西側と北側を鎮戍し,命令で忙しく駆け回らせて(多くの人々を)疲弊させた,うれいうらむ応である。
十五年七月,沔中諸郡及兗州大水。是時緣河紛爭,征戍勤瘁之應也。
十七年六月甲寅,濤水入石頭,毀大航,漂船舫,有死者。京口西浦亦濤入殺人。永嘉郡潮水湧起,近海四縣人多死。後四年帝崩,而王恭再攻京師,京師亦發衆以禦之,兵役頻興,百姓愁怨之應也。
十八年六月己亥,始興・南康・廬陵大水,深五丈。
十九年七月,荊徐大水,傷秋稼。
二十年六月,荊徐又大水。
二十一年五月癸卯,大水。是時政事多弊,兆庶非之。
十五年七月,沔中諸郡及び兗州大水あり〔一〕。是の時緣河紛爭す,征戍勤瘁の應なり。
十七年六月甲寅,濤水 石頭に入り,大航を毀ち,船舫を漂わせ,死者有り。京口の西浦も亦た濤入りて人を殺す。永嘉郡 潮水湧起し,近海四縣 人死すること多し〔二〕。後四年帝崩れ,而して王恭再び京師を攻め〔三〕,京師も亦た衆を發して以てこれを禦げば,兵役頻りに興こり,百姓愁怨の應なり。
十八年六月己亥,始興・南康・廬陵大水あり,深さ五丈〔四〕。
十九年七月,荊徐大水あり,秋稼を傷う〔五〕。
二十年六月,荊徐又た大水あり〔六〕。
二十一年五月癸卯,大水あり〔七〕。是の時政事弊すこと多く,兆庶これを非(そし)る。
〔一〕『晉書』孝武帝本紀・太元十五年條:「(八月)己丑,京師地震。有星孛于北斗,犯紫微。沔中諸郡及兗州大水。」
〔二〕同十七年條:「六月癸卯,京師地震。甲寅,濤水入石頭,毀大桁。永嘉郡潮水湧起,近海四縣人多死者。」
〔三〕同書・安定本紀・隆安二年七月條:「兗州刺史王恭・豫州刺史庾楷・荊州刺史殷仲堪、廣州刺史桓玄・南蠻校尉楊佺期等舉兵反。」
同書・王恭列傳:「及帝崩,會稽王道子執政,寵昵王國寶,委以機權。恭毎正色直言,道子深憚而忿之。(中略)時國寶從弟緒説國寶,因恭入覲相王,伏兵殺之,國寶不許。而道子亦欲輯和内外,深布腹心於恭,冀除舊惡。恭多不順,毎言及時政,輒厲聲色。道子知恭不可和協,王緒之説遂行,於是國難始結。或勸恭因入朝以兵誅國寶,而庾楷黨於國寶,士馬甚盛,恭憚之,不敢發,遂還鎮。臨別,謂道子曰「主上諒闇,冢宰之任,伊周所難,願大王親萬機,納直言,遠鄭聲,放佞人。」辭色甚厲,故國寶等愈懼。以恭為安北將軍,不拜。乃謀誅國寶,遣使與殷仲堪・桓玄相結,仲堪偽許之。恭得書,大喜,乃抗表京師曰「後將軍國寶得以姻戚頻登顯列,不能感恩效力,以報時施,而專寵肆威,將危社稷。先帝登遐,夜乃犯閤叩扉,欲矯遺詔。賴皇太后聰明,相王神武,故逆謀不果。又割東宮見兵以為己府,讒疾二昆甚於讐敵。與其從弟緒同黨凶狡,共相扇動。此不忠不義之明白也。以臣忠誠,必亡身殉國,是以譖臣非一。賴先帝明鑒,浸潤不行。昔趙鞅興甲,誅君側之惡,臣雖駑劣,敢忘斯義。」表至,内外戒嚴。國寶及緒惶懼不知所為,用王珣計,請解職。道子收國寶,賜死,斬緒于市,深謝愆失,恭乃還京口。恭之初抗表也,慮事不捷,乃版前司徒左長史王廞為呉國内史,令起兵於東。會國寶死,令廞解軍去職。廞怒,以兵伐恭。恭遣劉牢之擊滅之,上疏自貶,詔不許。譙王尚之復説道子以藩伯強盛,宰相權弱,宜多樹置以自衞。道子然之,乃以其司馬王愉為江州刺史,割庾楷豫州四郡使愉督之。由是楷怒,遣子鴻説恭曰「尚之兄弟專弄相權,欲假朝威貶削方鎮,懲警前事,勢轉難測。及其議未成,宜早圖之。」恭以為然,復以謀告殷仲堪・桓玄。玄等從之,推恭為盟主,剋期同赴京師。」
同書巻六十四・會稽文孝王道子・子元顯列傳:「于時王恭威振内外,道子甚懼,復引譙王尚之以為腹心。尚之説道子曰「藩伯強盛,宰相權輕,宜密樹置,以自藩衞。」道子深以為然,乃以其司馬王愉為江州刺史以備恭,與尚之等日夜謀議,以伺四方之隙。王恭知之,復舉兵以討尚之為名。荊州刺史殷仲堪・豫州刺史庾楷・廣州刺史桓玄並應之。」
〔四〕同書・孝武帝本紀・太元十八年條:「夏六月己亥,始興・南康・廬陵大水,深五丈。」
〔五〕同十九年條:「秋七月,荊・徐二州大水,傷秋稼,遣使振卹之。」
〔六〕同二十年條:「夏六月,荊・徐二州大水。」
〔七〕同二十一年 五月條:「大水。」
【参照】
『宋書』巻三十三 五行志 水:「太元十五年七月,兗州大水。是時緣河紛爭,征戍勤悴。太元十七年六月甲寅,濤水入石頭,毀大航,漂船舫,有死者;京口西浦,亦濤入殺人。永嘉郡潮水涌起,近海四縣人民多死。後四年帝崩,而王恭再攻京師。京師亦發大衆以禦之。太元十九年七月,荊州・彭城大水傷稼。太元二十年,荊州・彭城大水。太元二十一年五月癸卯,大水。是時政事多弊,兆庶非之。」
※『宋書』には太元十八年の記載なし
十五年(390)七月,沔中諸郡及び兗州で大水があった。この時黄河の周辺で紛争がおこったことは,戦争で(多くの人々を)疲れさせた応である。
十七年(392)六月甲寅,濤水が(氾濫して)石頭に入り,大きな船を壊し,船ぶねを漂わせ,死者があった。京口の西浦も濤水が入って人を殺した。永嘉郡の海水が噴き出し,近海の四県は人が死ぬことが多かった。その四年後に皇帝が崩御し,王恭が再びみやこを攻め,みやこも軍を出してこれを防いだので,兵役が頻繁に興こり,多くの人々がうれいうらんだ応である。
十八年(393)六月己亥,始興・南康・廬陵に大水があった,深さ五丈だった。
十九年(394)七月,荊州と徐州で大水があり,秋の収穫をそこなった。
二十年(395)六月,荊州と徐州でさらに大水があった。
二十一年(396)五月癸卯,大水があった。この時の政治は悪いことが多く,万民がこれをそしったのだ。
安帝隆安三年五月,荊州大水,平地三丈。去年殷仲堪舉兵向京師,是年春又殺郗恢,陰盛作威之應也。仲堪尋亦敗亡。
五年五月,大水。是時會稽王世子元顯作威陵上,又桓玄擅西夏,孫恩亂東國,陰勝陽之應也。
安帝隆安三年五月,荊州に大水あり,地三丈を平らかにす〔一〕。去年殷仲堪 兵を舉げて京師に向かひ〔二〕,是の年の春又た郗恢を殺す〔三〕,陰盛んにして威を作すの應なり。仲堪尋いで亦た敗亡す〔四〕。
五年五月,大水あり。是の時會稽王の世子元顯 威を作し上を陵ぎ〔五〕,又た桓玄 西夏を擅にし〔六〕,孫恩 東國を亂す〔七〕,陰 陽に勝るの應なり。
〔一〕『晋書』安帝本紀・隆安三年條:「是歳,荊州大水,平地三丈。」
〔二〕同隆安二年七月條:「兗州刺史王恭・豫州刺史庾楷・荊州刺史殷仲堪・廣州刺史桓玄・南蠻校尉楊佺期等舉兵反。」
同書・會稽文孝王道子・子元顯列傳:「既而楊佺期・桓玄・殷仲堪等復至石頭,元顯於竹里馳還京師,遣丹楊尹王愷・鄱陽太守桓放之・新蔡内史何嗣・潁川太守溫詳・新安太守孫泰等,發京邑士庶數萬人,據石頭以距之。道子將出頓中堂,忽有驚馬蹂藉軍中,因而擾亂,赴江而死者甚眾。仲堪既知王恭敗死,狼狽西走,與桓玄屯于尋陽。」
〔三〕同書・郗恢列傳:「及王恭討王國寶,桓玄・殷仲堪皆舉兵應恭,恢與朝廷掎角玄等。襄陽太守夏侯宗之・府司馬郭毗並以為不可,恢皆殺之。既而玄等退守尋陽。以恢為尚書,將家還都,至楊口,仲堪陰使人於道殺之,及其四子,託以羣蠻所殺。」
〔四〕同書・桓玄列傳:「後荊州大水,仲堪振恤飢者,倉廩空竭。玄乘其虚而伐之,先遣軍襲巴陵。梁州刺史郭銓當之所鎮,路經夏口,玄聲云朝廷遣銓為己前鋒,乃授以江夏之衆,使督諸軍並進,密報兄偉令為内應。偉遑遽不知所為,乃自齎疏示仲堪。仲堪執偉為質,令與玄書,辭甚苦至。玄曰「仲堪為人不能專決,常懷成敗之計,為兒子作慮,我兄必無憂矣。玄既至巴陵,仲堪遣衆距之,為玄所敗。玄進至楊口,又敗仲堪弟子道護,乘勝至零口,去江陵二十里,仲堪遣軍數道距之。佺期自襄陽來赴,與兄廣共撃玄,玄懼其鋭,乃退軍馬頭。佺期等方復追玄苦戰,佺期敗,走還襄陽,仲堪出奔酇城,玄遣將軍馮該躡佺期,獲之。廣為人所縛,送玄,並殺之。仲堪聞佺期死,乃將數百人奔姚興,至冠軍城,為該所得,玄令害之。」
〔五〕同書・會稽文孝王道子・子元顯列傳:「會道子有疾,加以昏醉,元顯知朝望去之,謀奪其權,諷天子解道子揚州・司徒,而道子不之覺。元顯自以少年頓居權重,慮有譏議,於是以琅邪王領司徒,元顯自為揚州刺史。既而道子酒醒,方知去職,於是大怒,而無如之何。」
〔六〕同書・桓玄列傳:「於是遂平荊雍,乃表求領江・荊二州。詔以玄都督荊司雍秦梁益寧七州・後將軍・荊州刺史・假節,以桓脩為江州刺史。玄上疏固爭江州,於是進督八州及楊豫八郡,復領江州刺史。玄又輒以偉為冠軍將軍・雍州刺史。時寇賊未平,朝廷難違其意,許之。玄於是樹用腹心,兵馬日盛,屢上疏求討孫恩,詔輒不許。其後恩逼京都,玄建牙聚眾,外託勤王,實欲觀釁而進,復上疏請討之。會恩已走,玄又奉詔解嚴。」
〔七〕『晉書』安帝本紀・隆安三年條:「十一月甲寅,妖賊孫恩 陷會稽,内史王凝之死之,呉國内史桓謙・臨海太守新蔡王崇・義興太守魏隱並委官而遁,呉興太守謝邈・永嘉太守司馬逸皆遇害。」
同隆安五年條:「夏五月,孫恩寇滬瀆,呉國内史袁山松死之。(中略)六月甲戌,孫恩至丹徒。乙亥,内外戒嚴,百官入居于省。冠軍將軍高素・右衞將軍張崇之守石頭,輔國將軍劉襲柵斷淮口,丹楊尹司馬恢之戍南岸,冠軍將軍桓謙・輔國將軍司馬允之・游擊將軍毛邃備白石,左衞將軍王嘏・領軍將軍孔安國屯中皇堂。徵豫州刺史・譙王尚之衞京師。寧朔將軍高雅之擊孫恩于廣陵之郁洲,為賊所執。」
同書・會稽文孝王道子・子元顯列傳:「元顯性苛刻,生殺自己,法順屢諫,不納。又發東土諸郡免奴為客者,號曰「樂屬」,移置京師,以充兵役,東土囂然,人不堪命,天下苦之矣。既而孫恩乘釁作亂,加道子黄鉞,元顯為中軍以討之。」
同書・孫恩列傳:「孫恩字靈秀,琅邪人,孫秀之族也。世奉五斗米道。恩叔父泰,字敬遠,師事錢唐杜子恭。(中略)子恭死,泰傳其術。(中略)王恭之役,泰私合義兵,得數千人,為國討恭。黃門郎孔道・鄱陽太守桓放之・驃騎諮議周勰等皆敬事之,會稽世子元顯亦數詣泰求其祕術。泰見天下兵起,以為晉祚將終,乃扇動百姓,私集徒衆,三呉士庶多從之。于時朝士皆懼泰為亂,以其與元顯交厚,咸莫敢言。會稽内史謝輶發其謀,道子誅之。恩逃于海。衆聞泰死,惑之,皆謂蟬蛻登仙,故就海中資給。恩聚合亡命得百餘人,志欲復讎。及元顯縱暴呉會,百姓不安,恩因其騷動,自海攻上虞,殺縣令,因襲會稽,害内史王凝之,有眾數萬。於是會稽謝鍼、呉郡陸瓌、呉興丘尫、義興許允之、臨海周冑、永嘉張永及東陽、新安等凡八郡,一時俱起,殺長吏以應之,旬日之中,衆數十萬。(中略)於是恩據會稽,自號征東將軍,號其黨曰「長生人」,宣語令誅殺異己,有不同者戮及嬰孩,由是死者十七八。畿内諸縣處處蜂起,朝廷震懼,内外戒嚴。(中略)隆安四年,恩復入餘姚,破上虞,進至刑浦。琰遣參軍劉宣之距破之,恩退縮。少日,復寇刑浦,害謝琰。朝廷大震,遣冠軍將軍桓不才・輔國將軍孫無終・寧朔將軍高雅之撃之,恩復還於海。於是復遣牢之東屯會稽,呉國内史袁山松築扈瀆壘,緣海備恩。明年,恩復入浹口,雅之敗績。牢之進撃,恩復還于海。轉寇扈瀆,害袁山松,仍浮海向京口。牢之率衆西撃,未達,而恩已至,劉裕乃總兵縁海距之。及戰,恩眾大敗,狼狽赴船。尋又集眾,欲向京都,朝廷駭懼,陳兵以待之。恩至新州,不敢進而退,北寇廣陵,陷之,乃浮海而北。劉裕與劉敬宣并軍躡之於郁洲,累戰,恩復大敗,由是漸衰弱,復沿海還南。裕亦尋海要截,復大破恩於扈瀆,恩遂遠迸海中。」
【参照】
『宋書』・五行志・水:「晉安帝隆安三年五月,荊州大水。去年殷仲堪舉兵向京都。是年春,又殺郗恢。陰盛作威之應也。仲堪尋亦敗亡。隆安五年五月,大水。是時司馬元顯作威陵上,又桓玄擅西夏,孫恩亂東國。陰勝陽之應也。」
安帝隆安三年(399)五月,荊州に大水があり,地面を三丈(水に浸けて)平らにした。去年殷仲堪は兵を挙げてみやこに向かい,この年の春さらに郗恢を殺した,これは陰が盛んで威勢を張った応である。仲堪もまもなく戦に敗れて滅びた。
五年(401)五月,大水があった。この時会稽王の世子の元顯は威勢を張り目上の人間を凌ぎ,さらに桓玄は(中華の)西方を好き勝手にし,孫恩は東方を乱した,これも陰が陽に勝った応である。
元興二年十二月,桓玄篡位。其明年二月庚寅夜,濤水入石頭。商旅方舟萬計,漂敗流斷,骸胔相望。江左雖頻有濤變,未有若斯之甚。三月,義軍克京都,玄敗走,遂夷滅之。
三年二月己丑朔夜,濤水入石頭,漂沒殺人,大航流敗。
元興二年十二月,桓玄 位を篡す〔一〕。其の明年二月庚寅夜,濤水 石頭に入る〔二〕。商旅の方舟萬計,漂敗流斷し,骸胔相望む。江左頻りに濤の變有ると雖も,未だ斯くの若きの甚しきは有らず。三月,義軍 京都を克し,玄敗走し,遂に之を夷滅す〔三〕。
三年二月己丑朔夜,濤水 石頭に入り,漂沒して人を殺し,大航流敗す〔四〕。
〔一〕『晉書』安帝本紀・元興二年條:「十二月壬辰,玄篡位,以帝為平固王。」
同書巻九十九・桓玄列傳:「初,玄恐帝不肯為手詔,又慮璽不可得,逼臨川王寶請帝自為手詔,因奪取璽。比臨軒,璽已久出,玄甚喜。百官到姑孰勸玄僭偽位,玄偽讓,朝臣固請,玄乃於城南七里立郊,登壇篡位,以玄牡告天,百僚陪列,而儀注不備,忘稱萬歳,又不易帝諱。(中略)於是大赦,改元永始,賜天下爵二級,孝悌力田人三級,鰥寡孤獨不能自存者穀人五斛。其賞賜之制,徒設空文,無其實也。初出偽詔,改年為建始,右丞王悠之曰「建始,趙王倫偽號也。」又改為永始,復是王莽始執權之歳,其兆號不祥,冥符僭逆如此。又下書曰「夫三恪作賓,有自來矣。爰暨漢魏,咸建疆宇。晉氏欽若曆數,禪位于朕躬,宜則是古訓,授茲茅土。以南康之平固縣奉晉帝為平固王,車旗正朔一如舊典。」遷帝居尋陽,即陳留王處鄴宮故事。」
〔二〕同・安帝本紀・元興三年條:「三年春二月,帝在尋陽。庚寅夜,濤水入石頭,漂殺人戸。」
〔三〕同・安帝本紀・元興三年條:「三月戊午,劉裕斬玄將呉甫之于江乘,斬皇甫敷於羅落。己未,玄衆潰而逃。庚申,劉裕置留臺,具百官。壬戌,桓玄司徒王謐推劉裕行鎮軍將軍・徐州刺史・都督揚徐兗豫青冀幽并八州諸軍事・假節。劉裕以謐領揚州刺史・錄尚書事。辛酉,劉裕誅尚書左僕射王愉・愉子荊州刺史綏・司州刺史溫詳。辛未,桓玄逼帝西上。丙戌,密詔以幽逼於玄,萬機虚曠,令武陵王遵依舊典,承制總百官行事,加侍中,餘如故。并大赦謀反大逆已下,惟桓玄一祖之後不宥。」
同書・桓玄列傳:「裕率義軍至竹里,玄移還上宮,百僚步從,召侍官皆入止省中。赦揚・豫・徐・兗・青・冀六州,加桓謙征討都督・假節,以殷仲文代桓脩,遣頓丘太守呉甫之・右衞將軍皇甫敷北距義軍。裕等於江乘與戰,臨陣斬甫之,進至羅落橋,與敷戰,復梟其首。玄聞之大懼,乃召諸道術人推算數為厭勝之法,乃問衆曰「朕其敗乎?」曹靖之對曰「神怒人怨,臣實懼焉。」玄曰「人或可怨,神何為怒。」對曰「移晉宗廟,飄泊失所,大楚之祭,不及於祖,此其所以怒也。」玄曰「卿何不諫。」對曰「輦上諸君子皆以為堯舜之世,臣何敢言。」玄愈忿懼,使桓謙・何澹之屯東陵,卞範之屯覆舟山西,眾合二萬,以距義軍。裕至蔣山,使羸弱貫油帔登山,分張旗幟,數道並前。玄偵候還云「裕軍四塞,不知多少。」玄益憂惶,遣武衞將軍庾頤之配以精卒,副援諸軍。於時東北風急,義軍放火,煙塵張天,鼓譟之音震駭京邑。劉裕執鉞麾而進,謙等諸軍一時奔潰。玄率親信數千人聲言赴戰,遂將其子昇・兄子濬出南掖門,西至石頭,使殷仲文具船,相與南奔。(中略)劉裕以武陵王遵攝萬機,立行臺,總百官。遣劉毅・劉道規躡玄,誅玄諸兄子及石康兄權・振兄洪等。」
〔四〕「三年二月己丑朔夜」の記事は、前年の記事にいう「其明年二月庚寅夜」と同じ出来事を示しており、己丑は庚寅の翌日であると『晋書斠注』にある。なお『宋書』は重複する記事をそのまま採っている。
【参照】
『宋書』五行志・水:「晉安帝元興二年十二月,桓玄篡位。甚明年二月庚寅夜,濤水入石頭。是時貢使商旅,方舟萬計,漂敗流斷,骸胔相望。江左雖有濤變,未有若斯之甚。三月,義軍克京都,玄敗走。遂夷滅。元興三年二月己丑朔夜,濤水入石頭,漂沒殺人,大航流敗。」
元興二年(403)十二月,桓玄が位を篡奪した。その翌年の二月庚寅の夜,濤水が石頭に入った。行商人の万を数えるほどの方舟(二艘の船を並べたもの)が,綱が切れて漂い流れ,骸骨と肉の残った死体が互いを見ているような有様であった。東晋では頻りに濤水の氾濫があったとはいえ,未だこのように甚しいものはなかった。三月,義軍が(桓玄が乗っ取った)みやこを攻め落とし,桓玄が敗走したので,そのまま(桓玄の軍勢を)皆殺しにした。
三年二月己丑ついたちの夜,濤水が石頭に入り,漂よわせたり沈めたりして人を殺し,船橋は流されて壊れた。
義熙元年十二月己未,濤水入石頭。
二年十二月己未夜,濤水入石頭。明年,駱球父環潛結桓胤・殷仲文等謀作亂,劉稚亦謀反,凡所誅滅數十家。
三年五月丙午,大水。
四年十二月戊寅,濤水入石頭。明年,王旅北討。
六年五月丁巳,大水。乙丑,盧循至蔡洲。
八年六月,大水。
九年五月辛巳,大水。
十年五月丁丑,大水。戊寅,西明門地穿,涌水出,毀門扇及限,亦水沴土也。七月乙丑,淮北風災,大水殺人。
十一年七月丙戌,大水,淹漬太廟,百官赴救。明年,王旅北討關河。
義熙元年十二月己未,濤水 石頭に入る。
二年十二月己未夜,濤水 石頭に入る。明年,駱球の父 環潛かに桓胤・殷仲文等と結び亂を作すを謀る,劉稚も亦た謀反し,凡そ誅滅する所數十家〔一〕。
三年五月丙午,大水あり〔二〕。
四年十二月戊寅,濤水 石頭に入る。明年,王旅北を討つ〔三〕。
六年五月丁巳,大水あり。乙丑,盧循 蔡洲に至る〔四〕。
八年六月,大水あり。
九年五月辛巳,大水あり。
十年五月丁丑,大水あり。戊寅,西明門の地穿たれ,涌水出でて,門の扇及び限を毀つ,亦た水 土を沴(やぶ)るなり〔五〕。七月乙丑,淮北に風災あり〔六〕,大水 人を殺す。
十一年七月丙戌〔七〕,大水ありて,太廟を淹漬すれば,百官赴きて救う〔八〕。明年,王旅北のかた關河を討つ〔九〕。
〔一〕『晉書』安帝本紀・義熙三年:「三年春二月己酉,車騎將軍劉裕來朝。誅東陽太守殷仲文・南蠻校尉殷叔文・晉陵太守殷道叔・永嘉太守駱球。」
同書巻九十九・桓玄列傳:「義熙元年正月,南陽太守魯宗之起義兵襲襄陽,破偽雍州刺史桓蔚。無忌諸軍次江陵之馬頭,振擁帝出營江津。魯宗之率眾於柞溪,破偽武賁中郎溫楷,進至紀南。振自擊宗之,宗之失利。時蜀軍據靈溪,毅率無忌・道規等破馮該軍,推鋒而前,即平江陵。振見火起,知城已陷,乃與謙等北走。是日,安帝反正。大赦天下,唯逆黨就戮,詔特免桓胤一人。(中略)三年,東陽太守殷仲文與永嘉太守駱球謀反,欲建桓胤為嗣,曹靖之・桓石松・卞承之・劉延祖等潛相交結,劉裕以次收斬之,并誅其家屬。後桓謙走入蜀,蜀賊譙縱以謙為荊州刺史,使率兵而下,荊楚之衆多應之。謙至枝江,荊州刺史劉道規斬之,梁州刺史傅歆又斬桓石綏,桓氏遂滅。」
同書・桓彝・沖子嗣・嗣子胤列傳:「胤字茂遠。(中略)玄篡位,為吏部尚書,隨玄西奔。玄死,歸降。詔曰「夫善著則祚遠,勳彰故事殊。以宣孟之忠,蒙後晉國。子文之德,世嗣獲存。故太尉沖,昔藩陝西,忠誠王室。諸子染凶,自貽罪戮。念沖遺勤,用悽於懷。其孫胤宜見矜宥,以奬為善。可特全生命,徙于新安。」及東陽太守殷仲文・永嘉太守駱球等謀反,陰欲立胤為玄嗣,事覺,伏誅。」
※桓彝には温・雲・豁・祕・沖の五人の子供がいた。温の子供が玄。沖の孫が胤。桓胤は桓玄の従弟の子供にあたる。
同書・殷仲文列傳:「義熙三年,又以仲文與駱球等謀反,及其弟南蠻校尉叔文並伏誅。仲文時照鏡不見其面,數日而遇禍。」
同書・汝南王亮・子矩・矩子祐列傳:「子義(訳者注:祐の孫)立,官至散騎常侍。薨,子遵之立。義熙初,梁州刺史劉稚謀反,推遵之為主,事泄,伏誅。」
〔二〕『晉書』・安帝本紀・義熙三年:「夏五月,大水。」
〔三〕同五年:「三月己亥,大雪,平地數尺。車騎將軍劉裕帥師伐慕容超。」
〔四〕同六年:「六年春二月丁亥,劉裕攻慕容超,克之,齊地悉平。是月,廣州刺史盧循反,寇江州。(中略)五月丙子,大風,拔木。戊子,衞將軍劉毅及盧循戰于桑落洲,王師敗績。尚書左僕射孟昶懼,自殺。己未,大赦。乙丑,循至淮口,内外戒嚴。」
同書・盧循列傳:「循娶孫恩妹。及恩作亂,與循通謀。恩性酷忍,循每諫止之,人士多賴以濟免。恩亡,餘衆推循為主。元興二年正月,寇東陽,八月,攻永嘉。劉裕討循至晉安,循窘急,泛海到番禺,寇廣州,逐刺史呉隱之,自攝州事,號平南將軍,遣使獻貢。時朝廷新誅桓氏,中外多虞,乃權假循征虜將軍・廣州刺史・平越中郎將。義熙中,劉裕伐慕容超,循所署始興太守徐道覆,循之娣夫也,使人勸循乘虚而出,循不從。道覆乃至番禺,説循曰「朝廷恒以君為腹心之疾,劉公未有旋日,不乘此機而保一日之安,若平齊之後,劉公自率衆至豫章,遣鋭師過嶺,雖復君之神武,必不能當也。今日之機,萬不可失。既克都邑,劉裕雖還,無能為也。君若不同,便當率始興之衆直指尋陽。」循甚不樂此舉,無以奪其計,乃從之。(中略)循遣道覆寇江陵,未至,為官軍所敗,馳走告循曰「請并力攻京都,若克之,江陵非所憂也。」乃連旗而下,戎卒十萬,舳艫千計,敗衞將軍劉毅於桑落洲,逕至江寧。道覆素有膽決,知劉裕已還,欲乾沒一戰,請於新亭至白石,焚舟而上,數道攻之。循多謀少決,欲以萬全之計,固不聽。道覆以循無斷,乃歎曰「我終為盧公所誤,事必無成。使我得為英雄驅馳,天下不足定也。」裕懼其侵軼,乃柵石頭,斷柤浦,以距之。循攻柵不利,船艦為暴風所傾,人有死者。列陣南岸,戰又敗績。乃進攻京口,寇掠諸縣,無所得。循謂道覆曰「師老矣。弗能復振。可據尋陽,并力取荊州,徐更與都下爭衡,猶可以濟。」因自蔡洲南走,復據尋陽。」
〔五〕『宋書』符瑞志:「十一年五月,西明門地陷,水涌出,毀門扉閾。西者,金郷之門,為水所毀,此金德將衰,水德方興之象也。」
漢の火德から数えると魏が土德、晋が金徳なので宋は水德。五行説で金に割り当てられている西の方角の門が水で壊されたというのは、晋が宋に敗れることを象徴するという解釈で、『晉書』五行志とは異なる解釈をしている。
〔六〕『晉書』巻十・安帝本紀・義熙十年:「秋七月,淮北大風,壞廬舍。」
〔七〕十一年七月丙戌は『晋書斠注』では「景戌」になっているが、これは唐の高祖の父李昞の避諱である。
〔八〕同義熙十一年:「秋七月丙戌,京師大水,壞太廟。」
〔九〕同十二年:「十二年春正月,姚泓使其將魯軌寇襄陽,雍州刺史趙倫之擊走之。(中略)秋八月,劉裕及琅邪王德文帥衆伐姚泓。(中略)冬十月丙寅,姚泓將姚光以洛陽降。」
【参照】
『宋書』巻三十三 五行志 水:「晉安帝義熙元年十二月己未,濤水入石頭。義熙二年十二月己未夜,濤水入石頭。明年,駱球父環潛結桓胤・殷仲文等謀作亂,劉雅亦謀反,凡所誅滅數十家。義熙三年五月丙午,大水。義熙四年十二月戊寅,濤水入石頭。明年,王旅北討鮮卑。義熙六年五月丁巳,大水。乙丑,盧循至蔡洲。義熙八年六月,大水。義熙九年五月辛巳,大水。義熙十年五月丁丑,大水。戊寅,西明門地穿涌水出,毀門扉及限。七月乙丑,淮北災風大水殺人。義熙十一年七月丙戌,大水,淹漬太廟,百官赴救。明年,王旅北討關・河。」
義熙元年(405)十二月己未,濤水が(氾濫して)石頭に入った。
二年(406)十二月己未夜,濤水が(氾濫して)石頭に入った。明年,駱球の父の環がひそかに桓胤・殷仲文等と結託し反乱を起こすことを謀った,劉稚も反乱を計画し,おおよそ数十の家を誅した。
三年(407)五月丙午,大水があった。
四年(408)十二月戊寅,濤水が(氾濫して)石頭に入った。明年,皇帝の軍が北方(南燕)を討った。
六年(410)五月丁巳,大水があった。乙丑,盧循が蔡洲に至った。
八年(412)六月,大水があった。
九年(413)五月辛巳,大水があった。
十年(414)五月丁丑,大水があった。戊寅,西明門の下の地面が割れ,勢いよく溢れる水が出て,門の扉と敷居を壊した,これもまた(五行の)水が土に打ち勝ったのである。七月乙丑,淮北に風の災害があり,大水が人を殺した。
十一年(415)七月丙戌,大水があり,太廟を水浸しにしたので,百官が赴いて救った。明年,皇帝の軍が北へ長安・洛陽(後秦)を討った。
經曰「庶用五事,一曰貌,二曰言,三曰視,四曰聽,五曰思。貌曰恭,言曰從,視曰明,聽曰聰,思曰睿。恭作肅,從作乂,明作哲,聰作謀,睿作聖。休徵,曰肅,時雨若,乂,時暘若,哲,時燠若,謀,時寒若,聖,時風若。咎徵,曰狂,恒雨若,僭,恒暘若,豫,恒燠若,急,恒寒若,霿,恒風若。」
『經』に曰く,「五事を庶用す〔一〕,一に曰く貌,二に曰く言,三に曰く視,四に曰く聽,五に曰く思。貌は恭(うやうや)しくすを曰い,言は從うを曰い,視は明らかにするを曰い,聽は聰きを曰い,思は睿(さと)くすを曰う。恭しければ肅と作(な)り,從えば乂と作り,明かなれば哲と作り,聰ければ謀と作り,睿ければ聖と作る。休徵,曰に肅(つつま)しければ,時雨若(したが)う,乂(おさま)れば,時暘若う。哲(あき)らかなれば,時燠若う。謀(はか)れば,時寒若う。聖なれば,時風若う。咎徵,曰に狂なれば,恒雨若う。僭なれば,恒暘若う。豫なれば,恒燠若う。急なれば,恒寒若う。霿〔二〕なれば,恒風若う」
〔一〕「庶用五事」は,王鳴盛『十七史商榷』巻四十七,晋書五に「經曰庶用五事云云案,本是敬用五事、篆敬字似羞,漢書誤爲羞、顔師古因妄爲之説曰羞進也,此又因羞而誤爲庶」とある。
『尚書』洪範では,「初一曰五行。次二曰敬用五事。次三曰農用八政。次四曰協用五紀。次五曰建用皇極。次六曰乂用三德。次七曰明用稽疑。次八曰念用庶徵。次九曰嚮用五福,威用六極。」とある。ここでは「敬用」として訳しておく。
〔二〕中華書局本に,「「霿」各本誤作「霧」,今從宋本及音義作「霿」」とある。今それにしたがう。
【参照】
『尚書』洪範:「五事,一曰貌,二曰言,三曰視,四曰聽,五曰思。貌曰恭,言曰從,視曰明,聽曰聦,思曰睿。恭作肅,從作乂,明作晢,聦作謀,睿作聖。」「曰休徵。曰肅,時雨若。曰乂,時暘若,曰晳,時燠若,曰謀,時寒若。曰聖,時風若。曰咎徵,曰狂,恆雨若。曰僭,恆暘若。曰豫,恆燠若。曰急,恆寒若。曰蒙,恆風若。」
『史記』宋微子世家:「五事,一曰貌,二曰言,三曰視,四曰聽,五曰思。貌曰恭,言曰從,視曰明,聽曰聰,思曰睿。恭作肅,從作治,明作智,聰作謀,睿作聖。」「曰休徵。曰肅,時雨若,曰治,時暘若。曰知,時奧若。曰謀,時寒若。曰聖,時風若。曰咎徵。曰狂,常雨若。曰僭,常暘若。曰舒,常奧若。曰急,常寒若。曰霧,常風若。」
『漢書』五行志第七中之上:「經曰「羞用五事。五事。一曰貌,二曰言,三曰視,四曰聽,五曰思。貌曰恭,言曰從,視曰明,聽曰聰,思曰䜭。恭作肅,從作艾,明作悊,聰作謀,䜭作聖。休徵。曰肅,時雨若。艾,時陽若。悊,時奧若。謀,時寒若。聖,時風若。咎徵。曰狂,恆雨若。僭,恆陽若。舒,恆奧若。急,恆寒若。霿,恆風若。」
※ここでは「睿」が「䜭」となっている。
『経』に曰く「五事をつつしみ用いる。(その)一は貌(容貌、態度),二は言(命令などの言葉),三は視(物事・人事を監察する眼のはたらき),四は聴(他人の意見を聞くなどの耳のはたらき),五は思(物事についての思慮)である。貌は恭しく,言は従順に,視は明らかに,聴は,耳さとく,思は睿(寛大で聡明)にする(のが大切である)。貌が恭しければつつましくなり,言が従順であればおさまり,視が明らかであれば,智あきらかとなり,聴が耳さとければはかりごとはうまくゆき,思が寛大で聡明であれば聖徳となる。吉祥は, つつましくあれば,適時に降る雨がしたがいおこり,おさまっていれば,適時の晴れがしたがいおこり,哲らかであれば,適時の暖かさがしたがいおこり, はかりごとがうまくゆけば,適時の寒さがしたがいおこり,聖徳であれば,適時の風がしたがいおこる。天罰の徴候は,狂であれば,長雨がしたがいおこり,(たがえた)僭であれば,日照りつづきがしたがいおこり,予であれば,暑さ続きがしたがいおこり,急であれば,寒さが続きがしたがいおこり,(くらい)霿であれば,風が続きがしたがいおこるといわれる。」
傳曰「貌之不恭,是謂不肅,厥咎狂,厥罰恒雨,厥極惡。時則有服妖,時則有龜孽,時則有雞禍,時則有下體生上之痾,時則有青眚青祥。惟金沴木。」
『傳』に曰く「貌の不恭,是を不肅と謂ひ,厥の咎は狂,厥の罰は恒雨,厥の極は惡。時には則ち服妖有り,時には則ち龜孽有り,時には則ち雞禍有り,時には則ち下體生上の痾有り,時には則ち青眚・青祥有り。惟れ金 木を沴(やぶ)るなり」と。
【参照】
『漢書』五行志第七中之上・貌羞:「傳曰「貌之不恭,是謂不肅,厥咎狂,厥罰恆雨,厥極惡。時則有服妖,時則有龜孽,時則有雞旤,時則有下體生上之痾,時則有青眚青祥。唯金沴木。」」
『白虎通義』卷四・災變:「尚書大傳曰,時則有介蟲之孽時則有龜孽。」
『尚書大伝』にいう「貌の不恭(恭しくない)を,不肅(粛しくない)といい,その咎(とが)は狂であり,その罰は長雨,その極は悪である。ある時には服妖(あやしげな服装)がおこり,ある時には亀の孽がおこり,ある時には雞の禍があり,ある時には下半身にあるべきものが上半身に生ずるという痾がおこり,ある時には(内に)青眚・(外に)青祥がおきる。これらは「金」が「木」に打ち勝ったためである」と。
說曰,凡草木之類謂之妖。妖猶夭胎,言尚微也。蟲豸之類謂之孽。孽則芽孽矣。及六畜,謂之禍,言其著也。及人,謂之痾。痾,病貌也,言𡩻深也。甚則有異物生,謂之眚。自外來,謂之祥。祥,猶禎也。氣相傷,謂之沴。沴猶臨莅,不和意也。每一事云「時則」以絕之,言非必俱至,或有或亡,或在前或在後。
說に曰く,凡そ草木の類 之を妖と謂う。妖は猶ほ夭胎のごとく,尚ほ微なるを言ふなり。蟲豸の類は之を孽と謂ふ。孽は則ち芽孼なり。六畜に及びては,之を禍と謂ひ,其れ著しきを言ふなり。人に及びては,之を痾と謂ふ。痾は,病の貌なりて,𡩻(浸)の深きを言ふなり。甚だしければ則ち異物生ずること有りて,之を眚と謂ふ。外自り來るは,之を祥と謂ふ。祥は,猶ほ禎のごとし。氣相い傷なふ,之を沴と謂ふ。沴は猶ほ臨莅して,意を和せざるごときなり。一事每に「時則」と云ふは,以て之を絕たん,言ふこころは必しも俱に至るに非らず,或いは有り,或いは亡く,或いは前に在り,或いは後に在り。
【参照】
『漢書』五行志第七中之上・貌羞:「說曰,凡草物之類謂之妖。妖猶夭胎,言尚微。蟲豸之類謂之孽。孽則牙孽矣。及六畜,謂之旤,言其著也。及人,謂之痾。痾,病貌,言𥧲深也。甚則異物生,謂之眚。自外來,謂之祥。祥猶禎也。氣相傷,謂之沴。沴猶臨莅,不和意也。每一事云「時則」以絕之,言非必俱至,或有或亡,或在前或在後也。」
説には(次のように)言っている。「およそ草木の類いに関しては,妖という。妖は,幼少のものや胎児のように,まだ微小なものをいう。足のある動物や足のない動物の類いについては,孽(げつ)という。孽は,つまりひこばえ(切り株かなどから生える若芽)である。六畜(6種の家畜,馬・牛・羊・鶏・犬・豚)にまで及ぶと,禍といい,その著しいものをいう。さらに人にまで及べば,痾という。痾は,病の様子で,深く侵されたことをいう。はなはだしければ異物を生じることがあり,これを眚(せい)という。外部から来るものを,祥という。祥は,めでたいしるしである。気が相互に傷つけあうものを,沴(れい)という。沴はその場に臨んで,和やかでないというようなことである。(伝のなかで)一事ごとに「時則(ときには)」といって,これをわけるのは,必ずしも同時に至るのではなく,おきることもあればおきないこともあり,前におこったり後におこったりすることもあるからである。
孝武時,夏侯始昌通五經,善推五行傳,以傳族子夏侯勝,下及許商,皆以教所賢弟子。其傳與劉向同,惟劉歆傳獨異。貌之不恭,是謂不肅。肅,敬也。內曰恭,外曰敬。人君行己,體貌不恭,怠慢驕蹇,則不能敬萬事,失則狂易,故其咎狂也。上慢下暴,則陰氣勝,故其罰常雨也。水傷百穀,衣食不足,則姦宄並作,故其極惡也。
孝武の時,夏侯始昌〔一〕 五經に通じ,善く五行傳を推して,以て族子の夏侯勝に傳ふ,下は許商〔二〕に及び,皆 以て賢とする所の弟子に教ふ。其の傳は劉向と同じきも,惟だ劉歆の傳のみ獨り異なる。貌の不恭は,是れを不肅と謂ふ。肅は,敬なり。内に恭と曰ひ,外に敬と曰ふ。人君 己を行ふに,體貌の恭しからず,怠慢驕蹇なれば,則ち萬事敬ふこと能はず,失は則ち狂易す,故に其の咎は狂なり。上 慢(あなど)り下 暴すは,則ち陰氣勝る,故に其の罰は常雨なり。水百穀を傷なひ,衣食足らざれば,則ち姦宄(かんき)〔三〕並び作(おこ)る,故に其の極みは惡なり。
〔一〕『漢書』眭兩夏侯京翼李傳・夏侯始昌傳:「夏侯始昌,魯人也。通五經,以齊詩、尚書教授。自董仲舒、韓嬰死後,武帝得始昌,甚重之。始昌明於陰陽,先言柏梁臺災日,至期日果災。時昌邑王以少子愛,上為選師,始昌為太傅。年老,以壽終。族子勝亦以儒顯名。」
〔二〕『漢書』藝文志・六藝略:「許商五行傳記一篇。」「劉向五行傳記十一卷。」
〔三〕『尚書』舜典:「蠻夷猾夏,寇賊姦宄。」
【参照】
『漢書』五行志第七中之上・貌羞:「考武時,夏侯始昌通五經,善推五行傳,以傳族子夏侯勝,下及許商,皆以教所賢弟子。其傳與劉向同,唯劉歆傳獨異。貌之不恭,是謂不肅。肅,敬也。内曰恭,外曰敬。人君行己,體貌不恭,怠慢驕蹇,則不能敬萬事,失在狂易,故其咎狂也。上嫚下暴,則陰氣勝,故其罰常雨也。水傷百穀,衣食不足,則姦軌並作,故其極惡也。」
孝武帝のとき,夏侯始昌は五経に通じ,よく『五行伝』を推し究めて,一族の子である夏侯勝に伝え,以下許商にまで及び,いずれも皆,それを賢い弟子たちに教えた。その『五行伝』は劉向と同じであるが,ただ劉歆の『五行伝』だけは異なっている。貌の不恭(恭しくない)を,不肅(粛しからず)という。粛しとは,敬(つつし)むことである。內面を恭といい,外面を敬という。人君がおのれの行いで,身のこなしや容貌が恭しくなく,怠慢でおごりたかぶれば,万事を敬しむことができず,その失は精神に異常をきたし,その咎は狂である。上にたつものが慢り下のものが粗暴であれば,陰気が勝り,そのため罰は長雨となる。水が百穀を損ない,衣食が不足すれば,道理にそむくことが横行する。そのためその極みは悪である。
一曰,人多被刑,或形貌醜惡,亦是也。風俗狂慢,變節易度,則為剽輕奇怪之服,故有服妖。水類動,故有龜孽。於易,巽為雞。雞有冠・距,文武之貌。而不為威,貌氣毀,故有雞禍。
一に曰く,人 多く刑を被り,或いは形貌の醜惡なるも,亦た是れなり。風俗の狂慢にして,節を變じ度を易(か)ふれば,則ち剽輕奇怪の服を為す,故に服妖有り。水の類は動ず,故に龜孼有り。易に於いて,巽 雞為り。雞に冠・距 有り,文武の貌なり。而るに威を為さざれば,貌氣 毀(こは)る,故に雞禍有り。
【参照】
『漢書』五行志第七中之上・貌羞:「一曰,民多被刑,或形貌醜惡,亦是也。風俗狂慢,變節易度,則為剽輕奇怪之服,故有服妖。水類動,故有龜孽。於易,巽為雞,雞有冠距文武之貌。不為威儀,貌氣毀,故有雞旤。」
『易経』說卦傳:「乾為馬。坤為牛。震為龍。巽為雞。坎為豕。離為雉。艮為狗。兌為羊。」
一説に,民が(肉)刑を受けるのが多い,あるいは姿形が醜悪になるのも,またこれである。風俗が常軌を逸して傲慢であり,節度をたがえ決まりを守らないと,軽はずみで尋常でない服装をする,だから服妖がある。水中の動物の類いが動きだす,だから亀の孽(わざわい)がある。『易経』では,巽の卦は雞とする。雞に「とさか」と,「けづめ」があるのは,文武の容貌である。そこで威儀を正さないと,貌の気がそこなわれる,だから雞禍がおこるのである。
一曰,水歲多雞死及為怪,亦是也。上失威儀,則有強臣害君上者,故有下體生於上之痾。木色青,故有青眚青祥。凡貌傷者病木氣,木氣病則金沴之,衝氣相通也。於易,震在東方,為春為木。兌在西方,為秋為金。離在南方,為夏為火。坎在北方,為冬為水。春與秋日夜分,寒暑平,是以金木之氣易以相變,故貌傷則致秋陰常雨,言傷則致春陽常旱也。
一に曰く,水の歲に雞 死すること多き,及び怪を為すこと,亦た是れなり。上 威儀を失せば,則ち強臣の君上を害する者有り,故に下體 上に生ずるの痾有り。木の色は青,故に青眚,青祥有り。凡そ貌の傷なふ者は木氣を病み,木氣病めば則ち金 之を沴り,衝氣は相ひ通ずるなり。易に於て,震は東方に在り,春と為し木と為し,兌は西方に在り,秋と為し金と為す,離は南方に在り,夏と為し火と為し,坎は北方に在り,冬と為し水と為す。〔一〕春と秋とは日夜を分かち,寒暑は平らか,是を以て金・木の氣易はり以て相ひ變ず,故に貌傷なはば則ち秋陰の常雨を致し,言傷なはば則ち春陽の常旱を致すなり。
〔一〕『易経』說卦傳:「震,東方也」「坎者,水也,正北方之卦也。」「離也者,明也,萬物皆相見南方之卦也。」「坎者,水也,正北方之卦也。」
【参照】
『漢書』五行志第七中之上・貌羞:「一曰,水歲雞多死及為怪,亦是也。上失威儀,則下有彊臣害君上者,故有下體生於上之痾。木色青,故有青眚青祥。凡貌傷者病木氣,木氣病則金沴之,衝氣相通也。於易,震在東方,為春為木也兌在西方,為秋為金也離在南方,為夏為火也坎在北方,為冬為水也。春與秋,日夜分,寒暑平,是以金木之氣易以相變,故貌傷則致秋陰常雨,言傷則致春陽常旱也。」
一説に,水の年には多くの雞が死んだり,怪異となったりするというのも,またこれである。上のものが威儀を失えば,強い臣下で君主を害する者があらわれ,だから下半身にあるべきものが上半身に生ずるという痾(やまい)がおこる。「木」の色は青,だから青眚,青祥がある。およそ「貌」の損傷された者は「木」の気を病む,「木」の気が病めば,「金」(の気)が「木」の気をそこない,衝きすすむ気は通じる。『易』では,震の卦は東方にあって,春とし木とする。兌の卦は西方にあって,秋とし金とする。離の卦は南方にあって,夏とし火とする。坎の卦は北方にあって,冬とし水とする。春と秋とは昼と夜の長さがひとしく,気候もおだやかである。それで「金」と「木」の気がかわり互いに変化する。だから「貌」が損傷されると(ひややかでくもった)秋陰の常雨(長雨)となり,「言」が損傷されると春陽(春の日ざし)は常旱(日照り続き)となるのである。
至於冬夏,日夜相反,寒暑殊絕,水火之氣不得相并,故視傷常燠,聽傷常寒者,其氣然也。逆之,其極曰惡,順之,其福曰攸好德。劉歆貌傳曰有鱗蟲之孽,羊禍,鼻痾。
冬夏に至りては,日夜相ひ反し,寒暑殊絕にして,水火の氣 相ひ并ぶを得ず,故に視傷ひ常燠し,聽傷ひ常寒するは,其の氣然らしむるなり。之に逆へば,其の極「惡」と曰ひ,之に順へば,其の福「好む攸(ところ)は德」〔一〕と曰ふ。劉歆の傳に曰く「鱗蟲の孽,羊禍,鼻痾有り」と。
〔一〕『尚書』洪範:「五福。一曰壽,二曰富,三曰康寧,四曰 攸好德,五曰考終命,六極。一曰凶短折,二曰疾,三曰憂,四曰貧,五曰惡,六曰弱。」
【参照】
『漢書』五行志第七・貌羞:「至於冬夏,日夜相反,寒暑殊絕,水火之氣不得相併,故視傷常奧,聽傷常寒者,其氣然也。逆之,其極曰惡。順之,其福曰攸好德。劉歆貌傳曰有鱗蟲之孽,羊旤,鼻痾。」
冬や夏になると,昼と夜のながさが反対になり,暑さ寒さがそれぞれきびしく,「水」と「火」の気が並立することができない,だから「視」が損なわれると暑さつづきとなり,「聴」が損なわれると寒さつづきとなるのは,その(「水」と「火」の)気がそのようにさせるのである。これに逆らえば,その極みは「悪」となり,これに順えば,その福は「好むものは徳」といわれる。劉歆は(「貌」の)伝で「鱗のある動物の孽,羊の禍,鼻の痾がおこる」といっている。
說以為於天文東方辰為龍星,故為鱗蟲。於易,兌為羊,木為金所病,故致羊禍,與常雨同應。此說非是。春與秋氣陰陽相敵,木病金盛,故能相并,惟此一事耳。禍與妖痾祥眚同類,不得獨異。
說に以為へらく天文に於いて東方辰を龍星と為す,故に鱗蟲と為す。易に於いて,兌は羊と為し〔一〕,「木」は「金」の病む所と為る,故に羊禍を致す,常雨と應を同じくす。此の說 是に非ず。春と秋とは氣の陰陽相ひ敵ひ,「木」病めば「金」盛んなり,故に能く相ひ并ぶ,惟だ此の一事のみ。禍と妖痾祥眚とは同類にして,獨り異なることを得ず。
〔一〕『易経』說卦傳:「乾為馬。坤為牛。震為龍。巽為雞。坎為豕。離為雉。艮為狗。兌為羊。」
【参照】
『漢書』五行志第七・貌羞:「説以為於天文東方辰為龍星,故為鱗蟲。於易兌為羊,木為金所病,故致羊旤,與常雨同應。此說非是。春與秋,氣陰陽相敵,木病金盛,故能相并,唯此一事耳。旤與妖痾祥眚同類,不得獨異。」
その劉歆の説ではこう考えている,天文では東方の辰星を龍星とする,だから鱗蟲(鱗のある動物)とするのである。『易経』では,「兌」の卦は羊とし,「木」は「金」によって傷つけられるとする,だから「羊禍」をまねく,(これは)常雨(雨続き)と応を同じとする。この説は、正しくない。春と秋は気の陰陽がバランスがとれており,「木」が傷つけられると「金」は盛んとなり,並立できる。これだけがあてはまる。禍は妖・痾・祥・眚と同類で,これだけを別とすることはできない。
魏尚書鄧颺行步弛縱,筋不束體,坐起傾倚,若無手足,此貌之不恭也。管駱謂之鬼躁。鬼躁者,凶終之徵,後卒誅也。
魏の尚書 鄧颺〔一〕 行步は弛縱し,筋は體を束ねず〔二〕,坐起は傾倚す,手足の無きが若し,此れ貌の不恭なり。管駱之を鬼躁と謂う〔三〕。鬼躁なる者は,凶終の徵,後ち卒に誅さるるなり。〔四〕
〔一〕『三国志』魏書・諸夏侯曹傳・曹真傳・裴松之注所引『魏略』:「鄧颺字玄茂,鄧禹後也。少得士名於京師。明帝時為尚書郎,除洛陽令,坐事免,拜中郎,又入兼中書郎。初,颺與李勝等為浮華友,及在中書,浮華事發,被斥出,遂不復用。正始初,乃出為潁川太守,轉大將軍長史,遷侍中尚書。颺為人好貨,前在內職,許臧艾授以顯官,艾以父妾與颺,故京師為之語曰「以官易婦鄧玄茂。」每所薦達,多如此比。故何晏選舉不得人,頗由颺之不公忠,遂同其罪,蓋由交友非其才。」
〔二〕『黄帝内経素問』痿論:「宗筋主束骨而利機關也。」
〔三〕『三国志』魏書・方技傳・管輅:「歲朝,西北大風,塵埃蔽天,十餘日,聞晏、颺皆誅,然後舅氏乃服。」
裴松之注「輅別傳曰。舅夏大夫問輅「前見何鄧之日,為已有凶氣未也」輅言「與禍人共會,然後知神明交錯。與吉人相近,又知聖賢求精之妙。夫鄧之行步,則筋不束骨,脈不制肉,起立傾倚,若無手足,謂之鬼躁。何之視候,則魂不守宅,血不華色,精爽烟浮,容若槁木,謂之鬼幽。故鬼躁者為風所收,鬼幽者為火所燒,自然之符,不可以蔽也。」」
〔四〕『三国志』魏書・三少帝紀・齊王芳・嘉平元年:「嘉平元年春正月甲午,車駕謁高平陵。太傅司馬宣王奏免大將軍曹爽、爽弟中領軍羲、武衞將軍訓、散騎常侍彥官,以侯就第。戊戌,有司奏收黃門張當付廷尉,考實其辭,爽與謀不軌。又尚書丁謐・鄧颺・何晏・司隸校尉畢軌・荊州刺史李勝・大司農桓範皆與爽通姦謀,夷三族。」
【参照】
『宋書』五行志一・木・貌不恭:「魏尚書鄧颺,行步弛縱,筋不束體,坐起傾倚,若無手足。此貌之不恭也。管輅謂之鬼躁。鬼躁者,凶終之徵。後卒誅死。」
魏の尚書であった鄧颺の歩行は弛んでしまりがなく,筋は体を束ねることができず,立っていても座っていても歪斜して,手足もないようで,これは貌(容貌)が不恭(恭しくない)ということである。管駱は、これを鬼躁といった。鬼躁である者は,よい終りができない徵である,その後,結局誅された。
惠帝元康中,貴游子弟相與為散髮倮身之飲,對弄婢妾,逆之者傷好,非之者負譏。希世之士恥不與焉。蓋貌之不恭,胡狄侵中國之萌也。其後遂有二胡之亂,此又失在狂也。
惠帝の元康中,貴游の子弟,相ひ與に散髮倮身の飲を為し,婢妾に對弄す,之に逆らふ者は好みを傷り,之を非とする者は譏りを負ふ。希世の士は恥じて與みせず。蓋だし貌の不恭にして,胡狄 中國を侵すの萌しなり。其の後,遂に二胡の亂〔一〕有り,此れ又失,狂に在り。
〔一〕永嘉の乱を指す。二胡とは石勒,劉聰のこと。
【参照】
『搜神記』巻七:「元康中,貴游子弟,相與為散髮,倮身之飲,對弄婢妾。逆之者傷好,非之者負譏。希世之士,恥不與焉。胡狄侵中國之萌也。其後遂有二胡之亂」
『宋書』五行志一・木・貌不恭:「晉惠帝元康中,貴遊子弟相與為散髮倮身之飲,對弄婢妾。逆之者傷好,非之者負譏。希世之士,恥不與焉。蓋胡、翟侵中國之萌也。豈徒伊川之民,一被髮而祭者乎。」
恵帝の元康年間(291—299)に,上流社会の子弟たちが,ともにザンバラ髪で裸という姿で酒を飲み,下女や妾を前にたわむれた。これに反対する者は,つきあいを断たれ,非難する者は悪口をいわれた。硬骨の士は恥じて仲間に加わらなかった。貌(容貌)の不恭(恭しくない)のは,胡狄が中国を侵略する兆候である。その後,結局二人の胡人が乱をおこした。これもまた失は,狂にある。
元康中,賈謐親貴,數入二宮,與儲君遊戲,無降下心。又嘗因弈棊爭道,成都王穎厲色曰「皇太子國之儲貳,賈謐何敢無禮」謐猶不悛,故及於禍,貌不恭之罰也。
元康中,賈謐 親貴にして,數しば二宮に入り,儲君と遊戲し,降下するの心無し。又た嘗て弈棊(えきき)に因りて爭道す。成都王 穎 厲色して曰く「皇太子は國の儲貳なり,賈謐,何ぞ敢えて禮を無みするや」と,謐 猶ほ悛(あらた)めず〔一〕,故に禍〔二〕に及ぶ。貌の不恭の罰なり。
〔一〕『晉書』孫謐傳:「謐既親貴,數入二宮,共愍懷太子遊處,無屈降心。常與太子弈棊爭道,成都王穎在坐,正色曰「皇太子,國之儲君,賈謐何得無禮」謐懼,言之於后,遂出穎為平北將軍,鎮鄴」
『晉書』八王傳・成都王潁:「賈謐嘗與皇太子博,爭道。穎在坐,厲聲呵謐曰「皇太子,國之儲君,賈謐何得無禮」謐懼,由此出穎為平北將軍,鎮鄴。轉鎮北大將軍」
〔二〕『晉書』孫謐傳:「而其家數有妖異,飄風吹其朝服飛上數百丈,墜於中丞臺,又蛇出其被中,夜暴雷震其室,柱陷入地,壓毀牀帳,謐益恐。及遷侍中,專掌禁內,遂與后成謀,誣陷太子。及趙王倫廢后,以詔召謐於殿前,將戮之。走入西鍾下,呼曰「阿后救我」乃就斬之。韓壽少弟蔚有器望,及壽兄鞏令保、弟散騎侍郎預、吳王友鑒、謐母賈午皆伏誅。」
『晉書』五行志下・思心不容・山崩地陷:「惠帝元康九年六月夜,暴雷雨,賈謐齋屋柱陷入地,壓謐牀帳,此木沴土,土失其性,不能載也。明年,謐誅焉。」
『宋書』五行志五・土・恒風:「元康九年六月,飈風吹賈謐朝服飛數百丈。明年,謐誅。」
『宋書』五行志五・土・山崩地陷裂:「晉惠帝元康九年六月夜,暴雷雨。賈謐齋屋柱陷入地,壓謐牀帳。此木沴土,土失其性,不能載也。明年,謐誅。」
【参照】
『宋書』五行志一・木・貌不恭:「晉惠帝元康中,賈謐 親貴,數入二宮,與儲君遊戲,无降下心。又嘗同弈棊爭道,成都王穎厲色曰「皇太子,國之儲貳。賈謐何敢無禮」謐猶不悛,故及於禍。」
元康年間,賈謐は皇帝の縁者で,しばしば二宮(中宮と東宮)に入って,皇太子と遊んで,へりくだる心がなかった。またかつて囲棋をして譲らなかったので,成都王の司馬穎が,血相を変えて「皇太子は国の世継ぎである。にもかかわらず賈謐め,なぜ礼をないがしろにするのだ。」といったが,賈謐は,それでも態度をあらためなかった。そのために禍がおこった。それは貌(容貌)が不恭(恭しくなかったこと)の罰なのである。
齊王冏既誅趙王倫,因留輔政,坐拜百官,符敕臺府,淫醟專驕,不一朝覲,此狂恣不肅之咎也。天下莫不高其功而慮其亡也。冏終弗改,遂致夷滅。
齊王 冏,趙王 倫を既に誅す,輔政に留まるに因りて,百官を坐拜せしめ,臺府に符敕し,淫醟し專驕して,一たびも朝覲をせず〔一〕,此の狂恣は不肅の咎なり。天下 其の功を高しとするも,其の亡を慮らざる莫きなり。冏 終に改めず,遂に夷滅を致す。
〔一〕『晉書』八王傳・齊王冏:「冏於是輔政,居攸故宮,置掾屬四十人。大築第館,北取五穀市,南開諸署,毀壞廬舍以百數,使大匠營制,與西宮等。鑿千秋門牆以通西閣,後房施鍾懸,前庭舞八佾,沈于酒色,不入朝見。坐拜百官,符敕三臺,選舉不均,惟寵親昵。」
【参照】
『宋書』五行志一・木・貌不恭:「齊王冏既誅趙倫,因留輔政,坐拜百官,符敕臺府,淫醟專驕,不一朝覲。此狂恣不肅之容也。天下莫不高其功,而慮其亡也。冏終弗改,遂至夷滅。」
斉王司馬冏は,趙王の司馬倫を既に討ちほろぼしたのち,輔政(政務を補佐する役割)の立場になり,百官を跪拝させ,御史台に(勝手に)敕を下し,酔い乱れ,ほしいままに驕り,(天子への)朝覲をちゃんとしなかった。この常軌を逸して勝手気ままにしていることは、肅しからずの咎である。人々が,彼の功績は高いけれども,彼の破滅を考えないものはいなかった。司馬冏は結局改めなかったので,遂に誅殺されることになった。
司馬道子於府園內列肆,使姬人酤鬻,身自貿易。干寶以為貴者失位,降在皁隸之象也。俄而道子見廢,以庶人終,此貌不恭之應也。
司馬道子府園の內に肆を列ね,姬人をして酤鬻せしめ,身自ら貿易す〔一〕。干寶,以為らく貴なる者位を失ふは,皁隸に降るの象なり,と。俄かに道子 廢せられ,庶人を以て終る,此れ貌の不恭の應なり。
〔一〕『晉書』簡文三子・會稽文孝王道子傳:「于時孝武帝不親萬機,但與道子酣歌為務,姏姆尼僧,尤為親暱,並竊弄其權。凡所幸接,皆出自小豎。郡守長吏,多為道子所樹立。」
「嬖人趙牙出自優倡,茹千秋本錢塘捕賊吏,因賂諂進,道子以牙為魏郡太守,千秋驃騎諮議參軍。牙為道子開東第,築山穿池,列樹竹木,功用鉅萬。道子使宮人為酒肆、沽賣於水側、與親昵乘船就之飲宴、以為笑樂。」
【参照】
『宋書』五行志一・木・服妖:「晉司馬道子於府北園內為酒鑪列肆,使姬人酤鬻酒肴,如裨販者,數遊其中,身自買易,因醉寓寢,動連日夜。漢靈帝嘗若此。干寶以為「君將失位,降在皁隸之象也。」道子卒見廢徙,以庶人終。」
司馬道子は府園で店を開き,妾に売り買いをさせて,自ら取引をした。干宝が考えるには貴い者がその立場を失するのは,奴僕に降るの象である。たちまち道子は廃せられて,庶人として終わった,これは貌(容貌)が 不恭(恭しくなかったこと)の応である。
安帝義熙七年,將拜授劉毅世子。毅以王命之重,當設饗宴,親請吏佐臨視。至拜日,國僚不重白,默拜於廄中。王人將反命,毅方知之,大以為恨,免郎中令劉敬叔官。天戒若曰,此惰略嘉禮不肅之妖也。其後毅遂被殺焉。
安帝 義熙七年,將に劉毅〔一〕に世子を拜授せんとす。毅 王命の重きを以て,當に饗宴を設け,親ら吏佐に臨視するを請ふべし。拜日に至り,國僚重ねて白(もう)さず,廄中に默して拜す。王人 将に反命せんとす,毅 方に之を知り,大いに以て恨みとなし,郎中令 劉敬叔が官を免す。天 戒めて 若くのごとく曰く,此の嘉礼〔二〕を惰略するは,不肅の妖なり。其の後,毅 遂に殺さる〔三〕。
〔一〕『晉書』劉毅傳:「劉毅字希樂,彭城沛人也。曾祖距,廣陵相。叔父鎮,左光祿大夫。毅少有大志,不修家人產業,仕為州從事,桓弘以為中兵參軍屬。」「詔以毅為都督豫州揚州之淮南歷陽廬江安豐堂邑五郡諸軍事・豫州刺史・持節・將軍・常侍如故,本府文武悉令西屬。」
〔二〕『周禮』春官・大宗伯:「以嘉禮,親萬民,以飲食之禮,親宗族兄弟,以昏冠之禮,親成男女,以賓射之禮,親故舊朋友,以饗燕之禮,親四方之賓客,以脤膰之禮,親兄弟之國,以賀慶之禮,親異姓之國。」
鄭玄注「嘉,善也。所以因人心所善者而為之制。嘉禮之別有六。」
〔三〕『晉書』安帝紀・義熙八年:「九月癸酉,葬僖皇后于休平陵。己卯,太尉劉裕害右將軍兗州刺史劉藩・尚書左僕射謝混。庚辰,裕矯詔曰「劉毅苞藏禍心,構逆南夏,藩・混助亂,志肆姦宄。賴寧輔玄鑒,撫機挫銳,凶黨即戮,社稷乂安。夫好生之德,所因者本,肆眚覃仁,實資玄澤。況事興大憝,禍自元凶。其大赦天下,唯劉毅不在其例。普增文武位一等。孝順忠義,隱滯遺逸,必令聞達。」己丑,劉裕帥師討毅。裕參軍王鎮惡陷江陵城,毅自殺。」
【参照】
『宋書』五行志一・木・貌不恭:「晉安帝義熙七年,晉朝拜授劉毅世子。毅以王命之重,當設饗宴親,請吏佐臨視。至日,國僚不重白,默拜於廄中。王人將反命,毅方知,大以為恨,免郎中令劉敬叔官。識者怪焉。此墮略嘉禮,不肅之妖也。」
安帝の義熙七年(411),劉毅が世子の位を授かることになった。劉毅は 皇帝の命令を重んじて,饗宴を準備し,自ら(司令官などの)吏佐に臨席するよう頼んだ。その拝命する日になると,国僚は重ねて告げず,厩の中でひっそりと拝命した。(使者が)復命しようとした,そのとき劉毅はこのことを知って,大いに恨み,郎中令の劉敬叔を免官した。天の戒めはつぎの様に言っている,この嘉禮を怠惰にも,簡略にしたことは,肅しくないことの妖である。その後, 劉毅は結局殺された。
恒雨
庶徵恒雨,劉歆以為春秋大雨,劉向以為大水。
恒雨
庶徵の「恒雨」,劉歆 以為らく春秋の大雨なりと,劉向以為らく大水なりと。
【参照】
『漢書』五行志第七中之上・貌羞・恆雨:「庶徵之恆雨,劉歆以為春秋大雨也,劉向以為大水。」
恒雨
庶徵のうちの「恒雨」は,劉歆は『春秋』の大雨だと考え,劉向は大水だと考えている。
魏明帝太和元年秋,數大雨,多暴卒,雷電非常,至殺鳥雀。案楊阜上疏,此恒雨之罰也。時天子居喪不哀,出入弋獵無度,奢侈繁興,奪農時,故水失其性而恒雨為罰。
魏の明帝の太和元年秋,數しば大雨ありて,暴卒多く,雷電常に非ず,鳥雀を殺すに至る。楊阜〔一〕の上疏を案ずるに,此れ恒雨の罰なり。時に天子喪に居るも哀しまず,出入して,弋獵 度なく,奢侈繁興し,農時を奪ふ,故に水其の性を失ひて「恒雨」もて罰と為す。
〔一〕『三國志』魏書・楊阜傳:「楊阜 字義山,天水冀人也。……遷將作大匠。時初治宮室,發美女以充後庭,數出入弋獵。秋,大雨震電,多殺鳥雀。阜上疏曰「臣聞明主在上,羣下盡辭。堯、舜聖德,求非索諫。大禹勤功,務卑宮室。成湯遭旱,歸咎責己。周文刑於寡妻,以御家邦。漢文躬行節儉,身衣弋綈。此皆能昭令問,貽厥孫謀者也。伏惟陛下奉武皇帝開拓之大業,守文皇帝克終之元緒,誠宜思齊往古聖賢之善治,總觀季世放盪之惡政。所謂善治者,務儉約、重民力也;所謂惡政者,從心恣欲,觸情而發也。惟陛下稽古世代之初所以明赫,及季世所以衰弱至于泯滅,近覽漢末之變,足以動心誡懼矣。曩使桓・靈不廢高祖之法,文・景之恭儉,太祖雖有神武,於何所施其能邪。而陛下何由處斯尊哉。今吳・蜀未定,軍旅在外,願陛下動則三思,慮而後行,重慎出入,以往鑒來,言之若輕,成敗甚重。頃者天雨,又多卒暴雷電非常,至殺鳥雀。天地神明,以王者為子也,政有不當,則見災譴。克己內訟,聖人所記。惟陛下慮患無形之外,慎萌纖微之初,法漢孝文出惠帝美人,令得自嫁;頃所調送小女,遠聞不令,宜為後圖。諸所繕治,務從約節。書曰『九族既睦,協和萬國。』事思厥宜,以從中道,精心計謀,省息費用。吳、蜀以定,爾乃上安下樂,九親熙熙。如此以往,祖考心歡,堯舜其猶病諸。今宜開大信於天下,以安眾庶,以示遠人。」時雍丘王植怨於不齒,藩國至親,法禁峻密,故阜又陳九族之義焉。詔報曰「閒得密表,先陳往古明王聖主,以諷闇政,切至之辭,款誠篤實。退思補過,將順匡救,備至悉矣。覽思苦言,吾甚嘉之。」」
【参照】
『宋書』五行志一・木・恒雨:「魏明帝太和元年秋,數大雨,多暴雷電,非常,至殺鳥雀。案楊阜上蔬,此桓雨之罰也。時帝居喪不哀,出入弋獵無度,奢侈繁興,奪民農時,故木失其性而恒雨為災也。」
魏の明帝の太和元年(227)秋,たびたび大雨があり,急死が多く,稲光が通常とは異なり,雀のような小鳥を殺すほどであった。楊阜の上奏を考えてみると,これは長雨の罰であるとしている。この時,天子は喪であったのに哀しむこともなく,外出し,狩猟は度をこえ,度々の奢侈を行い,農作業の時を奪った,そこで水がその性を失って長雨の罰となったのだ。
太和四年八月,大雨霖三十餘日,伊・洛・河・漢皆溢,歲以凶饑。
太和四年八月,大雨し霖すること三十餘日,伊・洛・河・漢皆溢れ〔一〕,歲以て凶饑す。
〔一〕『三國志』魏書・明帝紀・太和四年:「九月,大雨,伊・洛・河・漢水溢,詔真等班師。」
【参照】
『宋書』五行志一・木・恒雨:「太和四年八月,大雨霖三十餘日,伊・洛・河・漢皆溢,歲以凶饑。」
魏の明帝の太和四年(230)八月,大雨の長雨が三十日以上つづき,伊水・洛水・黄河・漢水がすべて溢れ,その歲は饑饉となった。
吳孫亮太平二年二月甲寅,大雨,震電。乙卯,雪,大寒。案劉歆說,此時當雨而不當大,大雨,恒雨之罰也。於始震電之明日而雪,大寒,又常寒之罰也。劉向以為既已雷電,則雪不當復降,皆失時之異也。天戒若曰,為君失時,賊臣將起。先震電而後雪者,陰見間隙,起而勝陽,逆弒之禍將成也。亮不悟,尋見廢。此與春秋魯隱同。
吳の孫亮の太平二年,二月甲寅,大いに雨ふる,震電あり。乙卯,雪ふる,大いに寒し。劉歆の説〔一〕を案ずるに,此の時は雨に當たり,大に當らず,大雨,恒雨の罰なり。始めて震電するの明日において雪ふりて,大いに寒きは,又た常寒の罰なり。劉向以為へらく既已(すで)に雷電すれば,則ち雪 當に復た降るべからず,皆 失時の異なり。天 戒しめて若くのごとく曰はく,君 時を失するをなせば,賊臣將に起きんとす。先に震電ありて後に雪ふるは,陰 間隙に見はれ,起りて陽に勝り,逆弒の禍 將に成らんとす。亮 悟らず,尋(つ)いで廢せらる。此れ春秋の魯の隱〔二〕と同じ。
〔一〕『漢書』五行志中之上・貌羞・恆雨:「隱公九年「三月癸酉,大雨,震電;庚辰,大雨雪」大雨,雨水也。震,雷也。劉歆以為三月癸酉,於曆數春分後一日,始震電之時也,當雨,而不當大雨。大雨,常雨之罰也。於始震電八日之間而大雨雪,常寒之罰也。劉向以為周三月,今正月也,當雨水,雪雜雨,雷電未可以發也。既已發也,則雪不當復降。皆失節,故謂之異……天戒若曰,為君失時,賊弟佞臣將作亂矣。後八日大雨雪,陰見間隙而勝陽,篡殺之旤將成也。公不寤,後二年而殺。」
〔二〕『春秋左傳』隱公九年:「三月癸酉,大雨震電。庚辰,大雨雪,挾卒。」
【参照】
『宋書』五行志一・木・恒雨:「孫亮太平二年二月甲寅,大雨震電。乙卯,雪,大寒。案劉歆說,此時當雨而不當大,大雨,恒雨之罰也。於始震電之明日而雪大寒,又恒寒之罰也。劉向以為既已震電,則雪不當復降,皆失時之異也。天戒若曰,為君失時,賊臣將起。先震電而後雪者,陰見間隙,起而勝陽。逆殺之禍將及也。亮不悟,尋見廢。此與春秋魯隱同也。」
吳の孫亮の太平二年(257),二月甲寅,大いに雨がふり,雷があった。(翌日の)乙卯,雪がふり,非常な寒さであった。劉歆の説を参照すると,この時は雨に相当して,大には相当しない。大雨とは,長雨の罰である。始めて雷があり、その次の日に雪がふり,非常な寒さとなるのは,また寒さつづきの罰である。劉向が考えるには、すでに雷があれば,雪がふたたび降ることはなく,これらは時節を誤ったことの異常である。天は戒めてこの様にいっている,君主が時節を誤ると,賊臣がでてくるであろう。初めに稲妻・雷鳴があってその後に雪となるのは,陰が間隙からあらわれて,たち起こり陽に勝って,臣下が君子を殺す禍がおころうとしている。孫亮はわからなかったので,廃位させられた。これと『春秋』の魯の隠公とは同じである。
武帝泰始六年六月,大雨霖。甲辰,河・洛・伊・沁水同時並溢,流四千九百餘家,殺二百餘人,沒秋稼千三百六十餘頃。
武帝泰始六年六月〔一〕,大いに雨ふり霖す。甲辰,河・洛・伊・沁水,時同じくして並びに溢れ,四千九百餘家流し,二百餘人を殺し,秋稼 千三百六十餘頃を沒す。
〔一〕『晉書』五行志の水條には「武帝 泰始 四年九月,青・徐・兗・豫四州大水。七年六月, 大雨 霖,河、洛、伊、沁皆溢,殺二百餘人」と,「七年」とする。本條の『晋書斠注』には「六年」は誤りという。
【参照】
『宋書』五行志一・木・恒雨:「晉武帝泰始六年六月,大雨霖,甲辰,河・洛・沁水同時並溢,流四千九百餘家,殺二百餘人,沒秋稼千三百六十餘頃。」
武帝の泰始六年(270)六月,大いに雨がふり長雨となった。甲辰に,黄河・洛水・伊水・沁水が,同時にみな溢れて,四千九百余戸が流され,二百余人を殺し,秋の田畑が千三百六十余頃の広さにわたり水没した。
太康五年七月,任城・梁國暴雨,害豆麥。九月,南安郡霖雨暴雪,樹木摧折,害秋稼。是秋,魏郡西平郡九縣・淮南・平原霖雨暴水,霜傷秋稼。
太康五年七月,任城・梁國暴雨ありて,豆麥を害なふ。九月,南安郡 霖雨暴雪ありて,樹木摧折し,秋稼を害なふ。是の秋,魏郡,西平郡の九縣・淮南平原,霖雨暴水ありて,霜ふり秋稼を傷なふ。
【参照】
『宋書』五行志一・木・恒雨:「晉武太康五年七月,任城・梁國暴雨,害豆麥。太康五年九月,南安霖雨暴雪,折樹木,害秋稼。魏郡・淮南・平原雨水,傷秋稼。是秋,魏郡・西平郡九縣霖雨暴水,霜傷秋稼。」
太康五年(284)七月,任城国・梁国で暴雨がふり豆や麦に損害があった。九月,南安郡で長雨・暴雪があって,樹木がくだけ折れ,秋の収穫に損害があった。この秋,魏郡・西平郡の九県、淮南・平原で長雨がふり洪水がおこり,霜が秋の収穫に損害をあたえた。
惠帝永寧元年十月,義陽・南陽・東海霖雨,淹害秋麥。
惠帝永寧元年十月,義陽・南陽・東海に霖雨ありて,淹して秋麥を害なふ。
【参照】
『宋書』五行志一・木・恒雨:「晉惠帝永寧元年十月,義陽・南陽・東海霖雨,淹害秋麥。」
恵帝永寧元年(301)十月,義陽郡・南陽郡・東海郡に長雨がふり,浸水して秋の麦に損害をあたえた。
元帝太興三年,春雨至于夏。是時王敦執權,不恭之罰也。
元帝太興三年,春雨 夏に至る。是の時,王敦 執權し,不恭の罰なり。
【参照】
『宋書』五行志四・水・水不潤下:「晉元帝太興三年六月,大水。是時王敦內懷不臣,傲佷作威。後終夷滅。」
『晉書』五行志上・水:「元帝太興三年六月,大水。是時王敦内懷不臣,傲很陵上,此陰氣盛也。」
元帝太興三年(320),春の雨が夏まで続いた。当時,王敦が政治の権力を握っており,不恭(恭しくなかった)であった罰である。
永昌元年,春雨四十餘日,晝夜雷電震五十餘日。是時王敦興兵,王師敗績之應也。
永昌元年,春雨四十餘日,晝夜に雷電震すること五十餘日。是の時,王敦兵を興し〔一〕,王師敗績するの應なり。
〔一〕『晉書』元帝紀・永昌元年:「永昌元年春正月乙卯,大赦,改元。戊辰,大將軍王敦舉兵於武昌,以誅劉隗為名,龍驤將軍沈充帥眾應之。」
『晉書』五行志上・水:「明帝太寧元年五月,丹楊・宣城・吳興・壽春大水。是時王敦威權震主,陰氣盛故也」
【参照】
『宋書』五行志四・水・水不潤下:「晉明帝太寧元年五月,丹陽・宣城・吳興・壽陽大水。是時王敦疾害忠良,威權震主。尋亦誅滅」
元帝永昌元年(322),春の雨が四十日余り続き,五十日余り昼夜に雷が鳴り響き続けた。この時,王敦が挙兵し,皇帝の軍が大敗したことの応である。
成帝咸和四年,春雨五十餘日,恒雷電。是時雖斬蘇峻,其餘黨猶據守石頭。至其滅後,淫雨乃霽。
成帝咸和四年,春雨五十餘日,恒に雷電あり。是の時,蘇峻を斬ると雖も,其の餘黨猶ほ石頭を據守す〔一〕。其の滅する後に至りて,淫雨乃ち霽(は)る。〔二〕
〔一〕『晉書』成帝紀・咸和四年:「二月,大雨霖。丙戌,諸軍攻 石頭」
〔二〕『晉書』五行志上・水:「咸和四年七月,丹陽・宣城・吳興・會稽大水。是冬,郭默作亂,荊・豫共討之,半歲乃定。」
成帝の咸和四年(329),春の雨が五十余日続き,つねに雷が鳴り響き続けた。この時,すでに(乱をおこした)蘇峻を斬殺していたが,その残党はまだ石頭に立てこもっていた。これが滅亡した後になって,長雨がやっと晴れた。
咸康元年八月乙丑,荊州之長沙攸・醴陵,武陵之龍陽,三縣雨水,浮漂屋室,殺人,損秋稼。是時帝幼,權在於下。
咸康元年八月乙丑,荊州の長沙の攸・醴陵,武陵の龍陽,三縣に雨水ありて〔一〕〔二〕,屋室は浮漂し,人を殺し,秋稼を損なふ。是の時,帝 幼くして,權 下に在り。
〔一〕『晉書』五行志上・水:「咸康元年八月,長沙武陵大水。」
〔二〕『晉書』康帝紀・咸康元年:「秋八月,長沙武陵大水。」
【参照】
『宋書』五行志一・木・恒雨:「晉成帝咸康元年八月乙丑,荊州之長沙攸・醴陵・武陵之龍陽三縣,雨水浮漂屋室,殺人,傷損秋稼。」
成帝の咸康元年(335)八月乙丑,荊州の長沙郡の攸県・醴陵県,武陵の龍陽,この三県に雨がふり,家屋は浮き漂よい,人を殺し,秋の収穫に損害を与えた。この時,帝は幼く,権力は、臣下にあった。
服妖
魏武帝以天下凶荒,資財乏匱,始擬古皮弁,裁縑帛為白帢,以易舊服。傅玄曰「白乃軍容,非國容也。」〔一〕干寶以為「縞素,凶喪之象也」。〔二〕名之為帢,毀辱之言也。蓋革代之後,劫殺之妖也。
服妖
魏武帝天下凶荒して,資財乏匱するを以って,始めて古への皮弁を擬して,縑帛を裁ちて白帢を為し,以て舊服に易ふ。傅玄曰く「白は乃はち軍容なり,國容に非ざるなり。」〔一〕と。干寶以為へらく「縞素,凶喪の象なり」〔二〕と。之れに名づけて帢と為すは,毀辱の言なり。蓋し革代の後,劫殺の妖なり。
〔一〕『三国志』武帝紀・裴注:「傅子曰,漢末王公,多委王服,以幅巾為雅,是以袁紹・崔鈞之徒,雖為將帥,皆著縑巾。魏太祖以天下凶荒,資財乏匱,擬古皮弁,裁縑帛以為帢,合于簡易隨時之義,以色別其貴賤,于今施行,可謂軍容,非國容也。」
〔二〕『捜神記』巻七:「昔魏武軍中,無故作白帢。此縞素凶喪之徵也。初,橫縫其前以別後,名之曰「顏帢」,傳行之。至永嘉之間,稍去其縫,名「無顏帢」。而婦人束髮,其緩彌甚,紒之堅不能自立,髮被於額,目出而已。無顏者,愧之言也。覆額者,慚之貌也。其緩彌甚者,言天下亡禮與義,放縱情性,及其終極,至於大耻也。其後二年,永嘉之亂,四海分崩,下人悲難,無顏以生焉。」
【参照】
『宋書』五行志:「魏武帝以天下凶荒,資財乏匱,始擬古皮弁,裁縑帛為白帢,以易舊服。傅玄曰「白乃軍容,非國容也。」干寶以為縞素,凶喪之象,帢,毀辱之言也。蓋革代之後,攻殺之妖也。初為白帢,橫縫其前以別後,名之曰「顏」,俗傳行之。至晉永嘉之間,稍去其縫,名「無顏帢」。而婦人束髮,其緩彌甚,紒之堅不能自立,髮被于額,目出而已。無顏者,愧之言也。覆額者,慚之貌。其緩彌甚,言天下忘禮與義,放縱情性,及其終極,至乎大恥也。永嘉之後,二帝不反,天下愧焉。」
服妖(衣服の怪異)
魏の武帝は天下が荒れ果て,資財が乏しく欠けていることにより,いにしえの皮弁(鹿皮で作ったかんむり)を真似して,絹を裁って白帢を新しく作り,旧来の服に代えた。傅玄は「白は軍の服装であって,国の(正式な)服装ではない」〔一〕と言った。干寶は「縞素というのは,葬式の象徴である」〔二〕とした。これに帢と名前をつけたのは,謗り侮辱することばである。王朝交替した後裔が,殺害されることの怪異であろう。
魏明帝著繡帽,披縹紈半袖,常以見直臣。楊阜諫曰「此禮何法服邪。」帝默然。近服妖也。夫縹,非禮之色。褻服尚不以紅紫,況接臣下乎。人主親御非法之章,所謂自作孽不可禳也。帝既不享永年,身沒而祿去王室,後嗣不終,遂亡天下。
魏の明帝繡帽を著け,縹紈の半袖を披す,常に以て直臣を見る。楊阜諫めて曰く「此れ禮の何の法服なるや。」と。帝默然たり。〔一〕服妖に近きなり。夫れ縹は,非禮の色。褻服すら尚ほ紅紫を以ってせず,況んや臣下に接するをや。人主親づから非法の章を御す,所謂自づから孽を作して禳ふべからざるなり。帝既にして永年を享けず,身沒して祿 王室より去り,後嗣終へず,遂に天下を亡ふ。
〔一〕『三国志』楊阜伝:阜常見明帝著繡𧛕,被縹綾半褎,阜問帝曰「此於禮何法服也。」帝默然不答,自是不法服不以見阜。
【参照】
『宋書』五行志:「魏明帝著繡帽,被縹紈半袖,嘗以見直臣楊阜。阜諫曰「此於禮何法服邪。」帝默然。近服妖也。縹,非禮之色,褻服不貳。今之人主,親御非法之章,所謂自作孽不可禳也。帝既不享永年,身沒而祿去王室,後嗣不終,遂亡天下。」
魏の明帝は刺繍のある帽子をかぶり,縹色の絹の半袖を着,常にそうして臣下に接見した。楊阜は諫めて「これは禮のどんなきまりの服でしょうか」と言った。帝はだまった。服妖に近いものである。そもそも縹というのは,非禮の色である。家で着るような普段着ですら紅や紫を用いない,ましてや臣下に接するのにそうするであろうか。人君がみづから法でないきまりを用いており,いわゆるみづから災いを招いて禳うことができない,というものである。明帝は短命に終わっただけでなく,逝去した後に福祿は王室から去っていき,後嗣は(あるべき)終わりを全うせずに,そのまま天下を失った。
景初元年,發銅鑄為巨人二,號曰翁仲,置之司馬門外。〔一〕案古長人見,為國亡。長狄見臨洮,為秦亡之禍,始皇不悟,反以為嘉祥,鑄銅人以象之。〔二〕魏法亡國之器,而於義竟無取焉。蓋服妖也。
景初元年,銅を發して鑄して巨人二を為し,號して翁仲と曰ひ,之れを司馬門外に置く。〔一〕案ずるに古へ長人見はるるは,國亡の為にす。長狄臨洮に見はるるは,秦亡の禍の為にするも,始皇悟らず,反って以て嘉祥と為し,銅人を鑄して以て之れを象る。〔二〕魏亡國の器に法りて,義に於いて竟ひに取る無し。蓋し服妖なり。
〔一〕『三国志』明帝紀・裴注:「魏略曰,是歲,徙長安諸鐘簴・駱駝・銅人・承露盤。盤折,銅人重不可致,留于霸城。大發銅鑄作銅人二,號曰翁仲,列坐于司馬門外。又鑄黃龍・鳳皇各一,龍高四丈,鳳高三丈餘,置內殿前。起土山于芳林園西北陬,使公卿羣僚皆負土成山,樹松竹雜木善草於其上,捕山禽雜獸置其中。」
〔二〕『史記』秦始皇本紀:「收天下之兵聚之咸陽,銷鋒鑄鐻,以為金人十二,以弱黔首之民。」
『漢書』五行志・下之上:「史記秦始皇帝二十六年,有大人長五丈,足履六尺,皆夷狄服,凡十二人,見于臨洮。天戒若曰,勿大為夷狄之行,將受其禍。是歲始皇初并六國,反喜以為瑞,銷天下兵器,作金人十二以象之。遂自賢聖,燔詩書,阬儒士。奢淫暴虐,務欲廣地。南戍五嶺,北築長城以備胡越,塹山填谷,西起臨洮,東至遼東,徑數千里。故大人見於臨洮,明禍亂之起。後十四年而秦亡,亡自戍卒陳勝發。」
【参照】
『宋書』五行志:「魏明帝景初元年,發銅鑄為巨人二,號曰「翁仲」。置之司馬門外。案古長人見,為國亡。長狄見臨洮,為秦亡之禍。始皇不悟,反以為嘉祥,鑄銅人以象之。魏法亡國之器,而於義竟無取焉。蓋服妖也。」
景初元年,銅を供して巨人の像を二つ鋳造し,翁仲と名付けて,それを司馬門外に置いた。考えてみるに,古代に長人があらわれるのは,国の滅亡のためにおこるのである。巨人の狄人が臨洮に出現したのは,秦の滅亡という禍のためにおこったものであるが,始皇帝はそのことを理解せず,かえってそれを吉祥として,銅人を鋳造してそれを象った。魏は亡国の器物に法っており,道理からしてもまったくとるところはない。おそらくは服妖であろう。
尚書何晏好服婦人之服,傅玄曰「此妖服也。夫衣裳之制,所以定上下殊內外也。大雅云『玄袞赤舄,鉤膺鏤鍚』,歌其文也。小雅云『有嚴有翼,共武之服』,詠其武也。若內外不殊,王制失敘,服妖既作,身隨之亡。末嬉冠男子之冠,桀亡天下。何晏服婦人之服,亦亡其家,其咎均也。」
尚書何晏婦人の服を服するを好み,傅玄曰く「此れ妖服なり。夫れ衣裳の制は,上下を定め內外を殊にする所以なり。大雅に云ふ『玄袞赤舄,鉤膺鏤鍚』〔一〕と,其の文を歌ふなり。小雅に云ふ『嚴なる有り翼なる有り,武の服を共にす』〔二〕と,其の武を詠ふなり。若し內外殊ならず,王制敘を失へば,服妖既に作り,身 之れに隨ひて亡ず。末嬉男子の冠を冠し,桀天下を亡ふ。何晏婦人の服を服し,亦た其の家を亡ふ,其の咎均しきなり。」と。
〔一〕『毛詩』大雅・蕩之什・韓奕:「入覲于王,王錫韓侯,淑旂綏章,簟茀錯衡。玄袞赤舄,鉤膺鏤鍚,鞹鞃淺幭,鞗革金厄。」
〔二〕『毛詩』小雅・南有嘉魚之什・六月:「四牡脩廣,其大有顒,薄伐玁狁,以奏膚公。有嚴有翼,共武之服,共武之服,以定王國。」
【参照】
『宋書』五行志:「魏尚書何晏,好服婦人之服。傅玄曰「此服妖也。」夫衣裳之制,所以定上下,殊內外也。大雅云「玄袞赤舄,鉤膺鏤鍚。」歌其文也。小雅云「有嚴有翼,共武之服。」詠其武也。若內外不殊,王制失敍,服妖既作,身隨之亡。末嬉冠男子之冠,桀亡天下。何晏服婦人之服,亦亡其家。其咎均也。」
尚書の何晏は婦人の服を着ることを好んでおり,傅玄は「これは奇(あや)しい服装である。そもそも衣裳の制度というのは,上下を定めて內と外とを区別する方法なのである。大雅には『くろい袞服に赤いくつ,かざりのついた馬の胸当てに頭飾り』〔一〕と言って,その文事について歌っている。小雅には『厳粛であるものがおり恭敬であるものがおり,武事の服を共に着る』〔二〕と言って,その武事について詠じている。もし内と外とが区別されず,王の制度が秩序を失うと,服妖がおこり,身はそれに従って亡びる。末嬉が男子の冠をつけ,桀は天下を失った。何晏は婦人の服を着て,またその家を失った,その咎はおなじものである。」と言った。
吳婦人修容者,急束其髮而劘角過于耳,蓋其俗自操束太急,而廉隅失中之謂也。故吳之風俗,相驅以急,言論彈射,以刻薄相尚。居三年之喪者,往往有致毀以死。諸葛患之,著正交論。雖不可以經訓整亂,蓋亦救時之作也。
吳の婦人の修容する者,急に其の髪を束ねて角を劘ちて耳を過ぐ,蓋し其の俗自づから操束すること太はだ急にして,廉隅〔一〕中を失ふの謂ひなり。故に吳の風俗,相ひ驅くるに急を以ってし,言論彈射,刻薄を以って相ひ尚ぶ。三年の喪に居る者,往往にして毀を致して〔二〕以て死する有り。諸葛之れを患ひ,正交論を著す。經訓を以って亂を整ふべからずと雖も,蓋し亦た救時の作なり。
〔一〕『禮記』儒行:「儒有上不臣天子,下不事諸侯,慎靜而尚寬,強毅以與人,博學以知服,近文章,砥厲廉隅,雖分國,如錙銖,不臣不仕。其規為有如此者。」
〔二〕『禮記』曲礼上:「居喪之禮,頭有創則沐,身有瘍則浴,有疾則飲酒食肉,疾止復初。不勝喪,乃比於不慈不孝。五十不致毀,六十不毀,七十唯衰麻在身,飲酒食肉處於內。」
【参照】
『宋書』五行志:「吳婦人之修容者,急束其髮,而劘角過于耳。蓋其俗自操束大急,而廉隅失中之謂也。故吳之風俗,相驅以急,言論彈射,以刻薄相尚。居三年之喪者,往往有致毀以死。諸葛患之,著正交論,雖不可以經訓整亂,蓋亦救時之作也。」
呉の婦人で着飾るものは,きつくその髪を束ねて総角を耳より上でひっつめ結っており,おそらくはその風俗はみづからひどくきつく縛っており,品行が中を失っていることを言っているのである。そのため呉の風俗は,駆けるのには急であり,論争においては,刻薄であることを尊んだ。三年の喪を行なっているものは,往往にして痩せすぎて死ぬものがいた。諸葛はこのことを憂慮して,『正交論』を著した。経書の教えによって乱れを整えることができなかったとはいえ,またその時節を救おうとした著作といえよう。
孫休後,衣服之制上長下短,又積領五六而裳居一二。干寶曰「上饒奢,下儉逼,上有餘下不足之妖也。」至孫晧,果奢暴恣情於上,而百姓彫困於下,卒以亡國,是其應也。
孫休の後,衣服の制上長く下短く,又た領を積むこと五六なるも裳は一二に居り。干寶曰く「上 饒奢にして,下 儉逼,上餘り有り下足らざるの妖なり。」と。〔一〕孫晧に至りて,果たして上に奢暴恣情して,百姓下に彫困し,卒ひに以て國を亡す,是れ其の應なり。
〔一〕『捜神記』巻六:「孫休後,衣服之制,上長下短,又積領五六,而裳居一二。蓋上饒奢,下儉逼,上有餘,下不足之象也。」
【参照】
『宋書』五行志:「孫休後,衣服之制,上長下短,又積領五六而裳居一二。干寶曰「上饒奢,下儉逼,上有餘下不足之妖也。」至孫晧,果奢暴恣情於上,而百姓彫困於下,卒以亡國。是其應也。」
孫休ののち,衣服の制度は上が長く下は短くなり,さらに襟は五六枚も重ねるのに裳は一二枚重ねるだけであった。干寶は「上のものが豪奢であって,下のものは貧窮する,上は余裕があり下が不足していることの怪異である。」といった。孫晧の時になると,やはり上では豪奢に好き勝手をして,下では庶民が貧困に喘ぎ,さいごにはそれによって国を滅ぼした,これはその応である。
武帝泰始初,衣服上儉下豐,著衣者皆厭䙅,此君衰弱,臣放縱,下掩上之象也。
至元康末,婦人出兩襠,加乎交領之上,此內出外也。
為車乘者苟貴輕細,又數變易其形,皆以白篾為純,蓋古喪車之遺象也。
夫乘者,君子之器。蓋君子立心無恒,事不崇實也。干寶以為晉之禍徵也。
及惠帝踐阼,權制在於寵臣,下掩上之應也。至永嘉末,六宮才人流冗沒於戎狄,內出外之應也。及天下撓亂,宰輔方伯多負其任,又數改易,不崇實之應也。
武帝泰始の初,衣服上 儉にして下 豐,衣を著す者皆な厭䙅,此れ君衰弱して,臣放縱,下 上を掩ふの象なり。
元康の末に至りて,婦人兩襠を出だし,交領の上に加ふ,此れ內 外に出づるなり。
車乘を為す者苟しくも輕細を貴び,又た數しば其の形を變易し,皆な白篾を以って純と為すは,蓋し古への喪車の遺象なり。
夫れ乘なる者,君子の器〔一〕。蓋し君子心を立てて恒無く,事 實を崇ばざるなり。干寶以て晉の禍徵と為す〔二〕。
惠帝の踐阼するに及びて,權制寵臣に在るは,下 上を掩ふの應なり。永嘉の末に至りて,六宮の才人流冗して戎狄に没するは,內 外に出づるの應なり。天下撓亂〔三〕するに及びて,宰輔方伯多く其の任を負ひ,又た數しば改易す,實を崇ばざるの應なり。
〔一〕『周易』繋辞上傳:「乘也者君子之器也。」
〔二〕『捜神記』巻七:「武帝泰始初,衣服上儉下豐,著衣者皆厭腰。此君衰弱,臣放縱之象也。至元康末,婦人出兩襠,加乎交領之上。此內出外也。為車乘者,苟貴輕細,又數變易其形,皆以白篾為純。蓋古喪車之遺象。晉之禍徵也。」
〔三〕『春秋左氏傳』成公十三年:「無祿文公即世,穆為不弔,蔑死我君,寡我襄公,迭我殽地,奸絕我好,殄滅我費滑,散離我兄弟,撓亂我同盟,傾覆我國家。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉興後,衣服上儉下豐,著衣者皆厭䙅蓋裙。君衰弱,臣放縱,下掩上之象也。陵遲至元康末,婦人出兩襠,加乎脛之上,此內出外也。為車乘者,苟貴輕細,又數變易其形,皆以白篾為純,古喪車之遺象。乘者,君子之器,蓋君子立心無恒,事不崇實也。干寶曰「及晉之禍,天子失柄,權制寵臣,下掩上之應也。永嘉末,六宮才人,流徙戎翟,內出外之應也。及天下亂擾,宰輔方伯,多負其任,又數改易,不崇實之應也。」」
武帝の泰始年間(265~274)のはじめ,その衣服は上衣を詰めて下はゆったりとしており,服を着るときには腰を締め付けた。これは君主が衰弱して臣下がほしいままにし,下のものが上のものを覆っていることの象である。
元康(291~299)の末年には婦人は(本来内側に着る)袖なしを上着とし,衿の上に重ねた。これは(身の程をわきまえずに本来)内側のものが外へと出たものである。
車を作るときには,軽く細いことが尊ばれ,さらになんどもその形を変え,すべて素の竹ひごで作ったものを純良であるとした。これは昔の葬式用の車の制度である。
そもそも,車というものは君子の器物である。恐らくは君子が心を決めきれず,政事において実(本質)を尊ばないからである。干宝はこのことを晉の禍徵とした。
恵帝が位に即くときには,その権勢は寵臣のもとにあった,これは下のものが上のものを覆っていることの応である。永嘉の末年に後宮の才人(などの女官)たちが夷狄の手に落ちたのは,内側のものが外へと出たことの応である。
天下が乱れるようになると,大臣や諸侯の多くのものが重任を背負ったが,しばしばすげ変わった,これは実(本質)を尊ばないことの応である。
泰始之後,中國相尚用胡牀貊槃,及為羌煮貊炙,貴人富室,必畜其器,吉享嘉會,皆以為先。〔一〕太康中,又以氊為絈頭及絡帶袴口。百姓相戲曰,中國必為胡所破。夫氊毳產於胡,而天下以為絈頭・帶身・袴口,胡既三制之矣,能無敗乎!〔二〕至元康中,氐羌互反,永嘉後,劉、石遂篡中都,自後四夷迭據華土,是服妖之應也。
泰始の後,中國相ひ胡牀貊槃を用ふる,及び羌煮〔一〕貊炙〔二〕を為すを尚び,貴人富室,必らず其の器を蓄へ,吉享嘉會,皆な以て先と為す。〔三〕太康中,又た氊を以って絈頭及び絡帶袴口を為す。百姓相ひ戲れて曰く「中國必らず胡の破る所と為らん。夫れ氊毳 胡に產して,天下以て絈頭・帶身・袴口と為す,胡既に三たび之れを制せり,能に敗るること無からんか。」と。〔四〕元康中に至りて,氐羌互ひに反し,永嘉の後,劉、石遂ひに中都を篡し,自りして後四夷迭ひに華土に據る,是れ服妖の應なり。
〔一〕『齊民要術』羹臛法第七十六:「羌煑法,好鹿頭,純煮令熟。著水中洗,治作臠,如兩指大。豬肉,琢,作臛。下蔥白,長二寸一虎口,細琢薑及橘皮各半合,椒少許。下苦酒鹽豉適口。一鹿頭,用二斤豬肉作臛。」
〔二〕『釋名』釋飲食第十三:「貊炙,全體炙之,各自以刀割。出於胡貊之爲也。」
〔三〕『捜神記』巻七:「胡床,貊盤,翟之器也。羌煮,貊炙,翟之食也。自太始以來,中國尚之。貴人富室,必蓄其器。吉享嘉賓,皆以為先。戎翟侵中國之前兆也。」
〔四〕『捜神記』巻七:「太康中,天下以氈為絔頭及絡帶褲口。於是百姓咸相戲曰「中國其必為胡所破也。夫氈,胡之所產者也,而天下以為絔頭帶身褲口,胡既三制之矣,能無敗乎。」」
【参照】
『宋書』五行志:「晉武帝泰始後,中國相尚用胡牀・貊盤及為羌煑・貊炙。貴人富室,必置其器,吉享嘉會,皆此為先。太康中,天下又以氈為絈頭及絡帶・衿口。百姓相戲曰,中國必為胡所破也。氈產於胡,而天下以為絈頭・帶身・衿口,胡既三制之矣,能无敗乎。干寶曰「元康中,氐羌反,至于永嘉,劉淵・石勒遂有中都。自後四夷迭據華土,是其應也。」」
泰始ののちには,中國では胡牀や貊槃(といった胡狄の道具)を用いることや,羌煮や貊炙(といった胡狄の料理)を作ること尊び,貴人や金持ちの家には,必らずそのための器を備え,めでたい席では,これらを優先した。太康年間には,さらに毛織物によって頭巾や帯や袴をつくった。民衆は戯れて,中国はかならずや胡狄に破られるだろう。はて氊毳(といった毛織物)は胡に産出するもので,天下はそれによって頭巾や帯や袴を作っている,胡狄はすでに三回も中国を制しているのだから,(中国が)負けないことがあろうか,と言った。元康年間になると,氐と羌とは互ひに反目し,永嘉の後には,劉淵と石勒がついに都を奪い,それよりのち四夷はかわるがわる中華を治めた,これは服妖の応である。
初作屐者,婦人頭圓,男子頭方。圓者順之義,所以別男女也。至太康初,婦人屐乃頭方,與男無別。此賈后專妬之徵也。
初め屐を作る者,婦人は頭圓,男子は頭方。圓なる者は順の義,男女を別つ所以なり。太康の初めに至りて,婦人の屐乃はち頭方,男と別無し。此れ賈后專妬の徵なり。〔一〕
〔一〕『捜神記』巻七:「初作屐者,婦人圓頭,男子方頭。蓋作意欲別男女也。至太康中,婦人皆方頭屐,與男無異,此賈后專妬之徵也。」
【参照】
『宋書』五行志:「昔初作履者,婦人圓頭,男子方頭。圓者,順從之義,所以別男女也。晉太康初,婦人皆履方頭,此去其圓從,與男無別也。」
もともとくつを作るには,婦人は先を円形にし,男子は先を方形にした。円というのは順という意義であり,男女を区別する方法である。太康の初めになると,婦人のくつはなんと先を方形にして,男のものと区別がなくなった。このことは賈后が好き勝手に嫉妬ぶかい行いをしたことの徵である。〔一〕
太康中,天下為晉世寧之舞,手接杯盤而反覆之,歌曰「晉世寧,舞杯盤」。識者曰「夫樂生人心,所以觀事也。今接杯盤於手上而反覆之,至危之事也。杯盤者,酒食之器,而名曰晉世寧,言晉世之士苟偷於酒食之間,而知不及遠,晉世之寧猶杯盤之在手也。」
太康中,天下晉世寧の舞を為し,手に杯盤を接ぎ之れを反覆し,歌ひて曰く「晉世寧らか,杯盤を舞ふ」〔一〕と。識者曰く「夫れ樂は人心に生ず,事を觀る所以なり〔二〕。今杯盤を手上に接ぎて之れを反覆す,至危の事なり。杯盤なる者は,酒食の器にして,名づけて晉世寧と曰ふは,晉世の士苟めに酒食の間に偷みて,知は遠くに及ばず,晉世の寧は猶ほ杯盤の手に在るがごときを言ふなり。」と。〔三〕
〔一〕『宋書』樂志・杯槃舞歌詩一篇:「晉世寧,四海平,普天安樂永大寧。四海安天下歡,樂治興隆舞杯槃。舞杯槃,何翩翩,舉坐翻覆壽萬年。天與日,終與一,左回右轉不相失。箏笛悲,酒舞疲,心中慷慨可健兒。樽酒甘,絲竹清,願令諸君醉復醒。醉復醒,時合同,四坐歡樂皆言工。絲竹音,可不聽,亦舞此槃左右輕。自相當,合坐歡樂人命長。人命長,當結友,千秋萬歲皆老壽。」
『宋書』樂志:「又云晉初有杯槃舞・公莫舞。史臣按。杯槃,今之齊世寧也。張衡舞賦云「歷七槃而縱躡。」王粲七釋云「七槃陳於廣庭。」近世文士顏延之云「遞間關於槃扇。」鮑昭云「七槃起長袖。」皆以七槃為舞也。搜神記云「晉太康中,天下為晉世寧舞,矜手以接杯槃反覆之。」此則漢世唯有槃舞,而晉加之以杯,反覆之也。」
〔二〕『禮記』樂記:「凡音之起,由人心生也。人心之動物使之然也。感於物而動,故形於聲。聲相應,故生變。變成方謂之音。比音而樂之,及干戚羽旄,謂之樂。樂者,音之所由生也。其本在人心之感於物也。」
〔三〕『捜神記』巻七:「太康中,天下為「晉世寧」之舞。其舞,抑手以執杯盤,而反覆之。歌曰「晉世寧舞,杯舞盤」反覆,至危也。杯盤,酒器也,而名曰「晉世寧」者,言時人苟且飲食之間,而其智不可及遠,如器在手也。」
【参照】
『宋書』五行志:「太康之中,天下為晉世寧之舞,手接杯槃反覆之,歌曰「晉世寧,舞杯槃。」夫樂生人心,所以觀事。故記曰「總干山立,武王之事也。發揚蹈厲,太公之志也。武亂皆坐,周召之治也。」又曰「其治民勞者,舞行綴遠。其治民逸者,舞行綴近。今接杯槃於手上而反覆之,至危也。杯槃者,酒食之器也,而名曰晉世寧者,言晉世之士,偷苟於酒食之間,而其知不及遠,晉世之寧,猶杯槃之在手也。」」
太康年間に,国中で晋世寧の舞が舞われ,手には杯と大皿を持ってひっくり返して「晋の世は安寧,杯や大皿を踊らせよ」と歌った。識者は次のように言っている,「そもそも楽というのは人の心に生まれるもので,政事を観る方法である。今,杯と大皿とを手の上にのせてそれをひっくり返す,(これは)もっとも危うい事である。杯と大皿というのは,食事の道具であって,しかも晋世寧と名付けられたのは,晋の世のひとびとは飲食のことを楽しんでいるだけで,その洞察は遠くのことまでには届いておらず,晋の世の安寧というのが杯と大皿が手の上にあるよう(に危ういもの)であるということを言っているのである。」と。
惠帝元康中,婦人之飾有五兵佩,又以金銀瑇瑁之屬,為斧鉞戈戟,以當笄。干寶以為「男女之別,國之大節,故服物異等,贄幣不同。今婦人而以兵器為飾,此婦人妖之甚者。於是遂有賈后之事」。終亡天下。是時婦人結髮者既成,以繒急束其環,名曰擷子紒。始自中宮,天下化之。其後賈后廢害太子之應也。
惠帝元康中,婦人の飾に五兵佩有り,又た金銀瑇瑁の屬を以って,斧鉞戈戟を為り,以て笄に當つ。干寶以為へらく「男女の別,國の大節なり,故に服物 等を異にし,贄幣同じからず。今婦人にして兵器を以て飾を為す,此れ婦人の妖の甚だしき者なり。是に於いて遂ひに賈后の事有り」と。終ひに天下を亡ぼす。〔一〕是の時婦人の結髮する者,既に成り,繒を以って急に其の環を束ね,名づけて擷子紒と曰ふ。始むること中宮自りし,天下之れに化す。其の後賈后太子を廢害するの應なり。〔二〕
〔一〕『捜神記』巻七:「晉惠帝元康中,婦人之飾有五佩兵。又以金銀象角瑇瑁之屬為斧鉞戈戟而載之,以當笄。男女之別,國之大節,故服食異等。今婦人而以兵器為飾,蓋妖之甚者也。於是遂有賈后之事。」
〔二〕『捜神記』巻七:「晉時,婦人結髮者,既成,以繒急束其環,名曰「擷子髻」。始自宮中,天下翕然化之也。其末年,遂有懷惠之事。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉惠帝元康中,婦人之飾有五兵佩,又以金銀瑇瑁之屬為斧鉞戈戟,以當笄□。干寶曰「男女之別,國之大節,故服物異等,贄幣不同。今婦人而以兵器為飾,又妖之大也。遂有賈后之事,終以兵亡天下。」」
恵帝の元康年間には,婦人の装飾品に五兵佩というものがあり,さらに金や銀,鼈甲といったものを使って,斧や鉞,戈や戟といった武器をつくり,それを笄とした。干宝は「男女の区別というのは,国の大事な節度であるから,衣服や器物は等級があり,礼に用いる物品も異なるのである。今婦人が武器を装飾品としている,このことは婦人の怪異の甚だしいものである。そうした結果賈后の事件があったのである」と考えた。しまいには天下を亡ぼした。この時には婦人が髪を結ぶのに,結い上げてから,絹できつくその環にした部分を束ねて,擷子紒となづけた。宮中から始まったものであるが,国中これをまねした。その後賈后が太子を廃して害したことの応である。
元康中,天下始相傚為烏杖,以柱掖其後,稍施其鐓,柱則植之。夫木,東方之行,金之臣也。杖者扶體之器,烏其頭者,尤便用也。必旁柱掖者,旁救之象也。施其金,柱則植之,言木因於金,能孤立也。及懷愍之世,王室多故,而此中都喪敗,元帝以藩臣樹德東方,維持天下,柱掖之應也。至社稷無主,海內歸之,遂承天命,建都江外,獨立之應也。
元康中,天下始めて相ひ傚ひて烏杖を為り,以って其の後を柱掖し,稍や其の鐓を施し,柱〔一〕するには則はち之れを植う。夫れ木は,東方の行,金の臣なり。杖なる者は體を扶くるの器,其の頭に烏する者は,尤も用に便なればなり。必らず旁に柱掖する者は,旁救の象なり。其の金を施し,柱するには則はち之れを植うるは,木 金に因りて,能く孤立するを言ふなり。懷愍の世に及びて,王室故多くして,而かも此の中都喪敗し,元帝 藩臣を以って德を東方に樹て,天下を維持するは,柱掖の應なり。社稷主無きも,海內之れに歸すに至りて,遂ひに天命を承け,都を江外に建つるは,獨立の應なり。〔二〕
〔一〕『晉書斠注』に引く周家祿校勘記に「住,当作柱。」とあるのに従う。
〔二〕『捜神記』巻七:「元康中,天下始相傚為烏杖,以柱掖其後,稍施其鐓,住則植之。及懷愍之世,王室多故,而中都喪敗,元帝以藩臣樹德東方,維持天下,柱掖之應也。」
【参照】
『宋書』五行志:「元康中,天下始相倣為㮧杖,以柱掖其後,稍施其錞,住則植之。夫木,東方之行,金之臣也。杖者,扶體之器,㮧其頭者,尤便用也。必傍柱掖者,傍救之象也。王室多故,而元帝以蕃臣樹德東方,維持天下,柱掖之應也。至社稷無主,海內歸之,遂承天命,建都江外,獨立之應也」
元康年間に,国中で烏杖を作って,そうして背後に突っかえにして寄りかかることを真似しあいはじめ,さらに石突きを施し,立ち止まる時には杖を突き立てた。そもそも木は,東方の五行で,金の臣下である。杖というものは体を扶ける道具である,その頭の部分に烏の形のものを作るのは,もっとも用いるのに便利だからである。必らずかたわらに寄りかかるというのは,かたわらから救うということの象徴である。その金属を施し,突くときには杖を突き立てるというは,木が金によって,自立することを言うのである。懐帝愍帝の世になると,王室に災いが多く,洛陽は敗れ失われ,元帝は藩臣を引き連れて徳政を東方に樹立して,天下を維持したことは,突き寄りかかることの応である。社稷に木主が無いとはいえ,国内中が元帝のもとに帰するにいたると,そのまま天命を承けて,都を長江の南に建てたのは,独立の応である。
元康、太安之間,江淮之域有敗屩自聚于道,多者至四五十量,人或散投坑谷,明日視之復如故。或云,見狸銜聚之。干寶以為「夫屩者,人之賤服,處于勞辱,黔庶之象也。敗者,疲弊之象。道者,四方往來,所以交通王命也。今敗屩聚于道者,象黔庶罷病,將相聚為亂,以絕王命也」。太安中,發壬午兵,百姓怨叛。江夏張昌唱亂,荊楚從之如流。於是兵革歲起,服妖也。
元康、太安の間,江淮の域に敗屩の自づから道に聚まる有り,多き者四五十の量に至る,人或ひは坑谷に散投するも,明日に之れを視るに復た故との如し。或ひと云ふ,狸の銜へて之れを聚むるを見る,と。干寶以為へらく「夫れ屩なる者は,人の賤服にして,勞辱に處り,黔庶の象なり。敗なる者は,疲弊の象。道なる者は,四方往來し,王命を交通する所以なり。今敗屩道に聚まるなる者は,黔庶罷病し,將相聚まりて亂を為し,以て王命を絶やすを象るなり」と〔一〕。太安中,壬午兵を發し〔二〕,百姓怨叛す。江夏の張昌亂を唱え,荊楚之れに從ふこと流の如し〔三〕。是こに於いて兵革歲ごとに起こる,服妖なり。
〔一〕『捜神記』巻七:「元康太安之間,江淮之域,有敗屩自聚於道,多者至四五十量。人或散去之,投林草中,明日視之,悉復如故。或云「見貍銜而聚之。」世之所說「屩者,人之賤服。而當勞辱下民之象也。敗者,疲弊之象也。道者,地里四方所以交通,王命所由往來也。今敗屩聚於道者,象下民疲病,將相聚為亂,絕四方而壅王命也。」
〔二〕『晉書』張昌傳:「張昌,本義陽蠻也。少為平氏縣吏,武力過人,每自占卜,言應當富貴。好論攻戰,儕類咸共笑之。及李流寇蜀,昌潛遁半年,聚黨數千人,盜得幢麾,詐言臺遣其募人討流。會壬午詔書發武勇以赴益土,號曰「壬午兵」。」
〔三〕『春秋左氏傳』成公八年:「君子曰,從善如流,宜哉。」
【参照】
『宋書』五行志:「元康末至太安間,江淮之域,有敗編自聚于道,多者或至四五十量。干寶嘗使人散而去之,或投林草,或投坑谷。明日視之,悉復如故。民或云見狸銜而聚之,亦未察也。寶說曰「夫編者,人之賤服,最處于下,而當勞辱,下民之象也。敗者,疲斃之象也。道者,地理四方,所以交通王命所由往來也。故今敗編聚於道者,象下民罷病,將相聚為亂,絕四方而壅王命之象也。在位者莫察。太安中,發壬午兵,百姓嗟怨。江夏男子張昌遂首亂荊楚,從之者如流。於是兵革歲起,天下因之,遂大破壞。此近服妖也。」」
元康から太安年間(291~303)に,江淮の地域に敗屩(こわれたぞうり)が自然に道に集まるということがあり,多いときには四五十といった量に至り,穴や谷にばらばらに投げ捨てたりしたが,翌日にこれを視てみるとまたもとどおりになっていた。やまねこがこれをくわえて集めたのを見た,と言うものもいた。干宝は「そも屩(ぞうり)というものは,身分が低い民衆の服であり,労役される,庶民の象徴である。敗というのは,疲弊していることの象徴である。道というものは,四方と往来して,王命を伝えるための手段である。今敗屩(こわれた草履)が道に集まるというのは,民衆が疲弊し,将軍や大臣が集まって乱をなし,それによって王命を絶やすことを象っている」と考えた。太安年間に,壬午兵をおこし,民衆は怨み叛いた。江夏の張昌は乱をおこし,荊州は水の流れるようにそれに従った。それから戦争は毎年起こった,服妖である。
初,魏造白帢,橫縫其前以別後,名之曰顏帢,傳行之。至永嘉之間,稍去其縫,名無顏帢,而婦人束髮,其緩彌甚,紒之堅不能自立,髮被于額,目出而已。無顏者,愧之言也。覆額者,慚之貌也。其緩彌甚者,言天下亡禮與義,放縱情性,及其終極,至于大恥也。永嘉之後,二帝不反,天下愧焉。
初め,魏 白帢を造り,橫に其の前を縫ひ以て後を別かつ,之れを名づけて 顏帢と曰ひ,之を傳行す。〔一〕永嘉の間に至り,稍く其の縫を去め,無顏帢と名づけ,婦人は髮を束ね,其の緩 彌いよ甚し,紒の堅 自ら立すること能わず,髮は額を被ひ,目 出でるのみ。無顏なる者,愧の言なり。額を覆ふ者,慚の貌なり。其の緩み彌いよ甚しき者,言ふこころは天下 禮と義亡く,情性を放縱にす,と。其の終極に及びて,大恥に至るなり。永嘉の後,二帝反らず,天下 愧づ。〔二〕
〔一〕『三国志』武帝紀・裴注:「傅子曰,漢末王公,多委王服,以幅巾為雅,是以袁紹、崔鈞之徒,雖為將帥,皆著縑巾。魏太祖以天下凶荒,資財乏匱,擬古皮弁,裁縑帛以為帢,合于簡易隨時之義,以色別其貴賤,于今施行,可謂軍容,非國容也。」
〔二〕『搜神記』卷七:「昔魏武軍中無故作白帢,此縞素凶喪之徵也。初,橫縫其前以別後,名之曰「顏帢」,傳行之。至永嘉之間,稍去其縫,名「無顏帢」,而婦人束髮,其緩彌甚,紒之堅不能自立,髮被於額,目出而已。無顏者,愧之言也。覆額者,慚之貌也。其緩彌甚者,言天下亡禮與義,放縱情性,及其終極,至於大恥也。其後二年,永嘉之亂,四海分崩,下人悲難,無顏以生焉。」
【参照】
『宋書』五行志:「魏武帝以天下凶荒,資財乏匱,始擬古皮弁,裁縑帛為白帢,以易舊服。傅玄曰「白乃軍容,非國容也。」干寶以為縞素,凶喪之象,帢,毀辱之言也。蓋革代之後,攻殺之妖也。初為白帢,橫縫其前以別後,名之曰「顏」,俗傳行之。至晉永嘉之間,稍去其縫,名「無顏帢」。而婦人束髮,其緩彌甚,紒之堅不能自立,髮被于額,目出而已。無顏者,愧之言也。覆額者,慚之貌。其緩彌甚,言天下忘禮與義,放縱情性,及其終極,至乎大恥也。永嘉之後,二帝不反,天下愧焉。魏明帝著繡帽,被縹紈半袖,嘗以見直臣楊阜。阜諫曰「此於禮何法服邪?」帝默然。近服妖也。縹,非禮之色,褻服不貳。今之人主,親御非法之章,所謂自作孽不可禳也。帝既不享永年,身沒而祿去王室,後嗣不終,遂亡天下。」
初め,魏では白帢を造り,その帽子の前を橫に縫って前と後ろを区別した,これを名付けて顏帢といい,世の中に伝わり広まった。永嘉年間(307年~313年)になり,だんだんその帽子の横縫いをやめ,無顏帢と名付けた,婦人が髮を束ねるには,その緩さがますますひどくなり,髮を結んだ際のかたさは自ら立つことができないほどで,髮は額を被い,目を出すだけになっている。無顏というのは,愧(はじ)の言である。額を覆うことは,慚(はじる)の貌である。その(髪の束ね方の)緩みがますますひどくなっているのは,天下に禮と義がなく,心のおもむくままにふるまうことを言うのである。それが最終的に極まると,大恥にまでなるのである。永嘉の後,二帝(懐帝・愍帝)は(連れ去られ)かえらず,天下はこのことを恥じた。
孝懷帝永嘉中,士大夫競服生箋單衣。識者指之曰「此則古者繐衰,諸侯所以服天子也。今無故服之,殆有應乎!」其後遂有胡賊之亂,帝遇害焉。
孝懷帝の永嘉中,士大夫競ひて生箋の單衣を服す。識者之れを指して曰く「此れ則ち古への繐衰なり〔一〕,諸侯の天子に服する所以なり。今 故無くして之を服するは,殆んど應有るか。」と。其の後遂に胡賊の亂有り,帝 害に遇ふ。〔二〕
〔一〕『儀礼』喪服:「傳曰,繐衰者何。以小功之繐也。諸侯之大夫為天子。傳曰,何以繐衰也。諸侯之大夫以時接見乎天子。」
〔二〕『捜神記』巻七:「永嘉中,士大夫競服生箋單衣。識者怪之,曰「此古練纕之布,諸侯所以服天子也。今無故服之,殆有應乎。」其後懷、愍晏駕。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉孝懷永嘉以來,士大夫竟服生箋單衣。遠識者怪之,竊指擿曰「此則古者繐衰之布,諸侯大夫所以服天子也。今無故畢服之,殆有應乎?」其後愍、懷晏駕,不獲厥所。」
孝懷帝の永嘉中,士大夫は競って生箋の單衣を着た。識者がこれに対して「これはいにしえの(麻布で作られた)喪服であり,諸侯が天子に服属する理由なのである。今理由なくこれを着ることは,おそらく應があるのだろう」といった。その後やはり胡賊の亂がおこり,皇帝が殺された。
元帝太興中,兵士以絳囊縛紒。識者曰「紒者在首,為乾,君道也。囊者坤,臣道也。今以朱囊縛紒,臣道上侵君之象也。」於是王敦陵上焉。
元帝の太興中,兵士 絳囊を以て縛紒す。識者曰く「紒なる者は首に在り,乾為り〔一〕,君道なり〔二〕。囊は坤〔三〕,臣道なり〔四〕。今朱囊を以て縛紒するは,臣道 上のかた君を侵すの象なり」と。是に於ひて王敦 上を陵ぐ。〔五〕
〔一〕『周易』説卦:「乾為首。」
〔二〕『周易』説卦:「乾為天,為圜,為君,為父。」
〔三〕『周易』坤:「六四。括囊,无咎无譽。象曰,括囊无咎,慎不害也。」
〔四〕『周易』坤・文言伝:「地道也。妻道也。 臣道也。」
〔五〕『捜神記』巻七:「太興中兵士以絳囊縛紒。識者曰「紒在首,為乾,君道也,囊者,為坤,臣道也。今以朱囊縛紒,臣道侵君之象也,為衣者上帶短纔至於掖﹔著帽者,又以帶縛項,下逼上,上無地也。為褲者,直幅,無口,無殺,下大之象也。」尋而王敦謀逆,再攻京師。」
元帝の太興(318年~321)中,兵士の絳囊(赤色のふくろ)で縛って髮を結んだ。識者は「髪を結ぶというのは頭にあるのだ,乾であり,君道である。囊というのは坤であり,臣道である。今 朱囊によって髮を結ぶことは,臣道が上にある君主を侵すことの象である」といった。そうして王敦は上をしのいだ。
舊為羽扇柄者,刻木象其骨形,列羽用十,取全數也。自中興初,王敦南征,始改為長柄,下出可捉,而減其羽用八。識者尤之曰「夫羽扇,翼之名也。創為長柄者,將執其柄以制羽翼也。改十為八者,將未備奪已備也。此殆敦之擅權以制朝廷之柄,又將以無德之材欲竊非據也。」是時,為衣者又上短,帶纔至于掖,著帽者又以帶縛項。下逼上,上無地也。為袴者直幅為口,無殺,下大之象。尋而王敦謀逆,再攻京師。
舊と羽扇の柄を為す者,木を刻み其の骨の形を象り,羽を列して用ひること十,全數を取るなり。中興の初めより,王敦の南征するに,始めて改め長柄と為す,下 出でて捉ふるべくして,其の羽を減らして八を用ふ。識者之れを尤めて曰く「夫れ羽扇,翼の名なり。創りて長柄を為すは,將に其の柄を執りて以って羽翼を制さんとするなり。十を改め八と為す者は,未だ備はざるを將て已に備はるを奪ふなり。此れ殆んど敦の權を擅ひままにして以て朝廷の柄を制し,又た將に無德の材を以て據るに非ざるを竊まんと欲するなり」と。〔一〕是の時,衣を為す者又上 短く,帶 纔かに掖に至り,帽を著ける者 又た帶を以て項を縛る。下 上に逼り,上 地無きなり。袴 直幅もて口と為し,殺すること無し,下 大なるの象なり。尋で王敦謀逆し,再び京師を攻む。〔二〕
〔一〕『捜神記』巻七:「舊為羽扇柄者,刻木象其骨形,列羽用十,取全數也。初,王敦南征,始改為長柄,下出,可捉。而減其羽,用八。識者尤之曰「夫羽扇,翼之名也。創為長柄,將執其柄以制其羽翼也。改十為八,將未備奪已備也。此殆敦之擅權,以制朝廷之柄,又將以無德之材,欲竊非據也。」」
〔二〕『捜神記』巻七:「太興中兵士以絳囊縛紒。識者曰「紒在首,為乾,君道也,囊者,為坤,臣道也。今以朱囊縛紒,臣道侵君之象也,為衣者上帶短纔至於掖。著帽者,又以帶縛項,下逼上,上無地也。為褲者,直幅,無口,無殺,下大之象也。」尋而王敦謀逆,再攻京師。」
もともと羽扇の柄をつくるのには,木を彫ってその(鳥の)骨の形をかたどり,十枚の羽を並べたものである,これはきりの良い数字である。中興の初め,王敦が南征し,その際はじめて長柄にあらためて,柄の下部を出して握りやすくし,その羽の枚数を八枚に減らした。識者がこれをとがめていうには「そもそも羽扇は,(鳥の)翼を意味する名称である。長柄としたのは,まさにその柄を握ってとって羽翼を押さえようとするあらわれである。羽の枚数を十枚から八枚へと改めたのは,不完全なものが完全なものと置き換わってしまった。これは王敦がほとんど専権をふるって朝廷の根本をおさえ,その上まさに徳がない人物であるにもかかわらず,分不相応に権力をかすめとろうとしているのである。」と。この時,衣服は上着が短く,帶の位置はようやくわきの下に届くほどであり,帽子をかぶる際はまた首で帶を縛っている。下が上にせまり,上は地(居場所)がない。袴は裾の幅が上と同じであり,すぼまることが無いのは,下が肥大していることの象徴である。まもなく王敦は反逆し,再び都である建康を攻めた。
海西公嗣位,忘設豹尾。天戒若曰,夫豹尾,儀服之主,大人所以豹變也。而海西豹變之日,非所宜忘而忘之。非主社稷之人,故忘其豹尾,示不終也。尋而被廢焉。
海西公位を嗣ぐに〔一〕,豹尾を設くることを忘る。天戒めて若くのごとく曰く,「夫れ豹尾は,儀服の主なり,大人豹變の所以なり」と。而して海西 豹變〔二〕の日,宜しく忘るべきとする所に非ずして之を忘る。社稷を主るの人に非ず,故に其の豹尾を忘れ,終らざるを示すなり。尋いで廢せらる。〔三〕
〔一〕『晉書』海西公紀:「興寧三年二月丙申,哀帝崩,無嗣。丁酉,皇太后詔曰「帝遂不救厥疾,艱禍仍臻,遺緒泯然,哀慟切心。琅邪王奕。明德茂親,屬當儲嗣,宜奉祖宗,纂承大統。便速正大禮,以寧人神。」於是百官奉迎于琅邪第。是日,即皇帝位,大赦。」
〔二〕『周易』革:「上六。君子豹變,小人革面。征凶。居貞吉。」
象伝「君子豹變,其文蔚也。小人革面,順以從君也。」
〔三〕『晉書』海西公紀:「十一月癸卯,桓溫自廣陵屯于白石。丁未,詣闕,因圖廢立,誣帝在藩夙有痿疾,嬖人相龍、計好、朱靈寶等參侍內寢,而二美人田氏、孟氏生三男,長欲封樹,時人惑之,溫因諷太后以伊霍之舉。己酉,集百官于朝堂,宣崇德太后令曰「王室艱難,穆、哀短祚,國嗣不育,儲宮靡立。琅邪王奕親則母弟,故以入纂大位。不圖德之不建,乃至于斯。昏濁潰亂,動違禮度。有此三孽,莫知誰子。人倫道喪,醜聲遐布。既不可以奉守社稷,敬承宗廟,且昏孽並大,便欲建樹儲藩。誣罔祖宗,傾移皇基,是而可忍,孰不可懷。今廢奕為東海王,以王還第,供衞之儀,皆如漢朝昌邑故事。但未亡人不幸,罹此百憂,感念存沒,心焉如割。社稷大計,義不獲已。臨紙悲塞,如何可言。」于是百官入太極前殿,即日桓溫使散騎侍郎劉享收帝璽綬。帝著白帢單衣,步下西堂,乘犢車出神獸門。羣臣拜辭,莫不歔欷。侍御史、殿中監將兵百人衞送東海第。初,桓溫有不臣之心,欲先立功河朔,以收時望。及枋頭之敗,威名頓挫,遂潛謀廢立,以長威權。然憚帝守道,恐招時議。以宮闈重閟,牀笫易誣,乃言帝為閹,遂行廢辱。初,帝平生每以為慮,嘗召術人扈謙筮之。卦成,答曰「晉室有盤石之固,陛下有出宮之象。」竟如其言。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉海西初嗣位,迎官忘設豹尾。識者以為不終之象,近服妖也。」
海西公(廃帝)は皇帝の地位を継承したが,豹尾(皇帝の車の飾り)を飾ることを忘れた。天は戒めて「豹尾というのは,儀服の主であり,地位のあるものが態度を急に変える理由である」といった。そして海西公は(皇帝の位に着く)豹變の日に,忘れてはいけないものであるにもかかわらずそれ(豹尾)を忘れたのだ。(本来)国家を統治する人でない,だからその豹尾を忘れ、皇帝としての在位をまっとうできないことを示したのである。まもなく(皇帝の地位を)廢された。
孝武太元中,人不復著帩頭。天戒若曰,頭者元首,帩者助元首為儀飾者也。今忽廢之,若人君獨立無輔佐,以至危亡也。至安帝,桓玄乃篡位焉。
孝武太元中,人 復た帩頭を著けず。天戒めて若くのごとく曰く,「頭なる者は元首,帩なる者は元首を助けて儀飾と為る者なり」と。今忽ち之れを廢するは,人君獨立するも輔佐無く,以て危亡に至るが若きなり。安帝に至り,桓玄乃ち篡位す〔一〕。
〔一〕『晉書』安帝紀・元興二年:「十二月壬辰,玄篡位,以帝為平固王。辛亥,帝蒙塵于尋陽。」
『晉書』桓玄伝:「十一月,玄矯制加其冕十有二旒,建天子旌旗,出警入蹕,乘金根車,駕六馬,備五時副車,置旄頭雲罕,樂儛八佾,設鍾虡宮縣,妃為王后,世子為太子,其女及孫爵命之號皆如舊制。玄乃多斥朝臣為太宰僚佐,又矯詔使王謐兼太保,領司徒,奉皇帝璽禪位於己。又諷帝以禪位告廟,出居永安宮,移晉神主於琅邪廟。」
【参照】
『宋書』五行一 木 貌不恭:「太元中,人不復著帩頭。頭者,元首,帩者,令髮不垂,助元首為儀飾者也。今忽廢之,若人君獨立無輔,以至危亡也。其後桓玄篡位。」
孝武帝の太元年間(376年~396年),人は帩頭(髪を包む布巾)をつけなくなってしまった。天は戒めて「頭というものは元首のことである,帩というものは元首を助けて(マナー上の)飾りとなるのである」といった。今すぐにもこれを廢するということは,君主が独立しているが輔佐するものが無く,そうして国がかたむいて滅びるようなものである。安帝になると,桓玄はそこで君主の地位を簒奪した。
舊為屐者,齒皆達楄上,名曰露卯。太元中忽不徹,名曰陰卯。識者以為卯,謀也,必有陰謀之事。至烈宗末,驃騎參軍袁悅之始攬搆內外,隆安中遂謀詐相傾,以致大亂。
舊と屐為る者は,齒は皆な楄上に達し,名づけて露卯と曰ふ。太元中忽ち徹さず,名づけて陰卯と曰ふ。識者以為らく「卯,謀なり,必ず陰謀の事有り」と。烈宗の末に至り,驃騎參軍袁悅之 始めて內外を攬搆し,隆安中遂に謀詐し相傾き,以て大亂を致す。
〔一〕『晉書』袁悅之伝:「袁悅之,字元禮,陳郡陽夏人也。父朗,給事中。悅之能長短說,甚有精理。始為謝玄參軍,為玄所遇,丁憂去職。服闋還都,止齎戰國策,言天下要惟此書。後甚為會稽王道子所親愛,每勸道子專覽朝權,道子頗納其說。俄而見誅。」
『晉書』簡文三子・司馬道子伝:「中書郎范甯亦深陳得失,帝由是漸不平於道子,然外每優崇之。國寶即甯之甥,以諂事道子,甯奏請黜之。國寶懼,使陳郡袁悅之因尼妙音致書與太子母陳淑媛,說國寶忠謹,宜見親信。帝因發怒,斬悅之。」
【参照】
『宋書』五行一 木 貌不恭:「舊為屐者,齒皆達楄上,名曰「露卯」。太元中,忽不徹,名曰「陰卯」。其後多陰謀,遂致大亂。」
もともと屐(下駄のようなはきもの)というものは,齒はすべてその台の上まで達しており,名称を露卯といった。太元年間には突然つらぬきとおさないようになり,名称を陰卯といった。識者は「卯は謀であり,必ず陰謀の事がある」と考えていた。烈宗(孝武帝)の時代の末期になり,驃騎參軍の袁悅之がはじめて内外のことを執り行い,隆安年間に案の定謀りごとをなし(国を)傾け,それによって大亂をまねいた。
太元中,公主婦女必緩鬢傾髻,以為盛飾。用髲既多,不可恒戴,乃先於木及籠上裝之,名曰假髻,或名假頭。至於貧家,不能自辦,自號無頭,就人借頭。遂布天下,亦服妖也。無幾時,孝武晏駕而天下騷動,刑戮無數,多喪其元。至於大殮,皆刻木及蠟或縛菰草為頭,是假頭之應云。
太元中,公主婦女必ず鬢を緩め髻を傾け,以て盛飾を為す。髲を用ひること既にして多く,恒には戴くべからず,乃ち先んじて木及び籠上に於ひて之を裝ふ,名づけて假髻と曰ひ,或ひは假頭と名づく。貧家に至りては,自ら辦すること能はず,自ら無頭と號し,人に就きて頭を借る。遂に天下へ布す,亦た服妖なり。幾時無く,孝武晏駕して天下騷動し,刑戮すること無數,其の元を喪ふこと多し。大殮に至るに,皆木及び蠟を刻み或ひは菰草を縛りて頭と為す,是れ假頭の應と云ふ。
【参照】
『宋書』五行志:「晉海西公太和以來,大家婦女,緩鬢傾髻,以為盛飾。用髮既多,不恒戴。乃先作假髻,施於木上,呼曰「假頭」。人欲借,名曰「借頭」。遂布天下。自此以來,人士多離事故,或亡失頭首,或以草木為之。假頭之言,此其先兆也。」
太元年間,公主や婦女はだれもが鬢の毛を緩め束ねた髪は傾き,そうして豪華な飾りをつけていた。かつらを用いることはもちろん多くみられ,つねに(頭に)のせておくことはできず,あらかじめ木や籠の上で(かざりつけて)整える,名称を假髻といい,または假頭と呼ばれた。貧しい家では,自分で用意することが出来ず,自ら無頭と呼んで,人に頼んでかつらを借りた。そのまま天下に広まったが,これもまた服妖なのである。ほどなくして,孝武帝が崩御して天下はみだれ騒ぎ,死刑が無数におこなわれ,頭を喪ったものが多かった。大殮の儀式をおこなうに至って,みな木や蠟を刻んだり菰草を縛って頭とした,これが假頭の應というのである。
桓玄篡立,殿上施絳帳,鏤黃金為顏,四角金龍銜五色羽葆流蘇。羣下相謂曰「頗類轜車。」尋而玄敗,此服之妖也。
桓玄篡立し,殿上に絳帳を施し,黃金を鏤して顏を為り,四角に金龍の五色の羽葆・流蘇を銜む。羣下相ひ謂ひて曰く「頗る轜車に類る」と。尋いで玄敗れる,此れ服の妖なり。
『晉書』桓玄傳:「玄入建康宮,逆風迅激,旍旗儀飾皆傾偃。及小會于西堂,設妓樂,殿上施絳綾帳,縷黃金為顏,四角作金龍,頭銜五色羽葆旒蘇,羣臣竊相謂曰「此頗似轜車,亦王莽仙蓋之流也。龍角,所謂亢龍有悔者也。」又造金根車,駕六馬。」
【参照】
『宋書』五行志:「桓玄篡立,殿上施絳綾帳,鏤黃金為顏,四角金龍,銜五色羽葆流蘇。羣下竊相謂曰「頗類輀車。」此服妖也。」
桓玄は(皇帝の位を)簒奪し,殿上にあかい帳を設置し,黄金を鏤金して扁額とし,四隅に五色の羽葆(鳥のはねで作ったかざり)や流蘇(房飾り)をくわえた金の龍を置いた。群臣は口々に「きわめて轜車(柩をはこぶ車)に似ている」といった。まもなく桓玄は敗れた,これは服の妖である。
晉末皆冠小而衣裳博大,風流相放,輿臺成俗。識者曰「上小而下大,此禪代之象也。」尋而宋受終焉。
晉末 皆な冠小さくして衣裳博大,風流相放ひ,輿臺 俗を成す。識者曰く「上 小にして下大なり,此れ禪代の象なり」と。尋いで宋終りを受く〔一〕。
〔一〕『尚書』舜典:「舜讓于德,弗嗣。正月上日,受終于文祖。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉末皆冠小冠,而衣裳博大,風流相倣,輿臺成俗。識者曰「此禪代之象也。」永初以後,冠還大云。」
晉の末には冠は小さく上衣や下裳は広く大きく,その習俗が(身分を超えて)流行っており,身分の低いものたちの風俗ともなった。識者は「上が小さく下が大きい,これは禅譲の象である」といった。まもなく宋が禅譲をうけた。
雞禍
魏明帝景初二年,廷尉府中雌雞化為雄,不鳴不將。干寶曰「是歲宣帝平遼東,百姓始有與能之義,此其象也。然晉三后並以人臣終,不鳴不將。又天意也。」
雞禍
魏の明帝景初二年,廷尉府中の雌雞 化して雄と為り,鳴かず將(ひき)いず〔一〕。干寶曰く「是の歲 宣帝遼東を平らげ〔二〕,百姓 始め能に與するの〔三〕義〔四〕 有り,此れ其の象なり。然れども晉の三后並びに人臣を以て終はり,鳴かず將いず。又た天意なり。」と。
〔一〕『漢書』五行志第七中之上:「宣帝黃龍元年,未央殿輅軨中雌雞化為雄,毛衣變化而不鳴,不將,無距。」
顔師古注「將謂率領其羣也。距,雞附足骨,鬬時所用刺之。」
〔二〕『三國志』魏書 明帝紀 景初二年:「二年春正月,詔太尉司馬宣王帥眾討遼東。」
『三國志』魏書 程郭董劉蔣劉傳第十四 劉放・孫資傳:「景初二年,遼東平定,以參謀之功,各進爵,封本縣,放方城侯,資中都侯。」
〔三〕『周易』卷第八 繫辭下:「人謀鬼謀百姓與能」
『周易正義』「謂聖人欲舉事之時,先與人眾謀圖,以定得失,又卜筮於鬼神,以考其吉凶。是與鬼為謀也。聖人既先與人謀鬼神謀,不煩思慮,與探討自,然能類萬物之情,能通幽深之理。是其能也。則天下百姓,親與能人,樂推為王也。自此巳上,論易道之大。聖人法之而行。」
〔四〕『宋書』は「義」を「議」に作る。今これに従う。
【参照】
『宋書』五行志:「雞禍 魏明帝景初二年,廷尉府中有雌雞變為雄,不鳴不將。干寶曰「是歲,晉宣帝平遼東,百姓始有與能之議,此其象也。然晉三后並以人臣終,不鳴不將,又天意也。」」
雞禍(にわとりのわざわい)
魏の明帝景初二年(238年)、廷尉府の中の雌鶏が変化して雄になり、鳴かず群れを率いなかった。干寶『晉紀』には「この年、宣帝(司馬懿)が遼東を平定し、民衆には始めは優秀な人を推薦しようとする議論があり、これはその表れである。しかし、晋の3人の皇帝は皆 臣下の立場で一生を終わり、号令を発することもなく民を率いる立場にもならなかった。これもまた天意である。」とある。
惠帝元康六年,陳國有雞生雄雞無翅,既大,墜坑而死。王隱以為「雄者,胤嗣子之象。坑者,母象。今雞生無翅,墜坑而死,此子無羽翼,為母所陷害乎。於後賈后誣殺愍懷。此其應也。」
惠帝元康六年,陳國に雞有りて雄雞の翅無きを生む,既に大なる,坑に墜ちて死す。王隱以為へらく「雄は,胤嗣子の象。坑は,母の象。今 雞 翅無きを生み,坑に墜ちて死す,此れ子 羽翼無きは,母の陷害する所とならんか?後に於いて賈后 愍懷を誣殺す〔一〕。此れ其の應なり。」と。
〔一〕『晉書』列傳第二十三 愍懷太子遹:「太子既廢非其罪,眾情憤怨。右衞督司馬雅,宗室之疏屬也,與常從督許超並有寵於太子,二人深傷之,說趙王倫謀臣孫秀曰「國無適嗣,社稷將危,大臣之禍必起。而公奉事中宮,與賈后親密,太子之廢,皆云豫知,一旦事起,禍必及矣。何不先謀之。」秀言於趙王倫,倫深納焉。計既定,而秀說倫曰「太子為人剛猛,若得志之日,必肆其情性矣。明公素事賈后,街談巷議,皆以公為賈氏之黨。今雖欲建大功於太子,太子雖將含忍宿忿,必不能加賞於公,當謂公逼百姓之望,翻覆以免罪耳。若有瑕釁,猶不免誅。不若遷延却期,賈后必害太子,然後廢賈后,為太子報讐,猶足以為功,乃可以得志。」倫然之。秀因使反間,言殿中人欲廢賈后,迎太子。賈后聞之憂怖,乃使太醫令程據合巴豆杏子丸。三月,矯詔使黃門孫慮齎至許昌以害太子。初,太子恐見酖,恒自煮食於前。慮以告劉振,振乃徙太子於小坊中,絕不與食,宮中猶於牆壁上過食與太子。慮乃逼太子以藥,太子不肯服,因如廁,慮以藥杵椎殺之,太子大呼,聲聞于外。時年二十三。將以庶人禮葬之,賈后表曰「遹不幸喪亡,傷其迷悖,又早短折,悲痛之懷,不能自已。妾私心冀其刻肌刻骨,更思孝道,規為稽顙,正其名號。此志不遂,重以酸恨。遹雖罪在莫大,猶王者子孫,便以匹庶送終,情實憐愍,特乞天恩,賜以王禮。妾誠闇淺不識禮義,不勝至情,冒昧陳聞。」詔以廣陵王禮葬之。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉惠帝元康六年,陳國有雞生雄雞無翅,既大,墜坑而死。王隱曰「雄,胤嗣象,坑地事為母象,賈后誣殺愍懷,殆其應也。」」
恵帝元康六年(296年)、陳国に翅が無く、既に成長している雄鶏を生み,あなに墜ちて死んだ鶏がいた。王隠は「雄は、跡継ぎの子の象である。坑は、母の象である。今 鶏が羽の無い(雄鶏)を生み、あなに墜ちて死ぬ、そのことは子に助けが無く、母によって害に陥れられることなのではないだろうか。後に賈后は愍懐太子(司馬遹)を濡れ衣を着せて殺した。これは其の応である。」と、考えている。
太安中,周玘家雌雞逃承霤中,六七日而下,奮翼鳴將,獨毛羽不變。其後有陳敏之事。敏雖控制江表,終無紀綱文章,殆其象也。卒為玘所滅。雞禍見玘家,又天意也。京房易傳曰「牝雞雄鳴,主不榮。」
太安中,周玘の家の雌雞 承霤中〔一〕に逃がれ,六七日にして下り,翼を奮はせ鳴き將い,獨り毛羽變らず。其の後 陳敏の事あり。敏 江表を控制すると雖も,終ひに紀綱文章無し,殆ど其の象なり。卒ひに玘の為に滅す所となる〔二〕。雞禍 玘の家に見はるるは,又た天意なり。京房易傳に曰く「牝雞 雄鳴すれば,主 榮えず。〔三〕」と。
〔一〕『禮記』檀弓上:「池視重霤。」
鄭玄注「承霤以木為之,用行水。亦宮之飾也。柳,宮象也。以竹為池,衣以青布,縣銅魚焉。今宮中有承霤云,以銅為之。」
〔二〕『晉書』列傳第七十 陳敏傳:「敏凡才無遠略,一旦據有江東,刑政無章,不為英俊所服,且子弟凶暴,所在為患。周玘、顧榮之徒常懼禍敗,又得譚書,皆有慚色。玘・榮遣使密報征東大將軍劉準遣兵臨江,己為內應。準遣揚州刺史劉機・寧遠將軍衡彥等出歷陽,敏使弟昶及將軍錢廣次烏江以距之,又遣弟閎為歷陽太守,戍牛渚。錢廣家在長城,玘鄉人也,玘潛使圖昶。廣遣其屬何康・錢象投募送白事於昶,昶頫頭視書,康揮刀斬之,稱州下已殺敏,敢有動者誅三族,吹角為內應。廣先勒兵在朱雀橋,陳兵水南,玘、榮又說甘卓,卓遂背敏。敏率萬餘人將與卓戰,未獲濟,榮以白羽扇麾之,敏眾潰散。敏單騎東奔至江乘,為義兵所斬,母及妻子皆伏誅,於是會稽諸郡並殺敏諸弟無遺焉。」
〔三〕『漢書』五行志第七中之上:「京房易傳曰「賢者居明夷之世,知時而傷,或衆在位,厥妖雞生角。雞生角,時主獨。」又曰「婦人顓政,國不靜。牝雞雄鳴,主不榮。」故房以為己亦在占中矣。」
『開元占經』卷一百十五:「京房曰,雌鶏非時而雄鳴者,家大傷。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉惠帝太安中,周玘家有雌雞逃承霤中,六七日而下,奮翼鳴將,獨毛羽不變。其後有陳敏之事。敏雖控制江表,終無綱紀文章,殆其象也。卒為玘所滅。雞禍見玘家,又天意也。」
太安中(302年 - 303年)、周玘の家の雌鶏が逃げて雨どいのなかに入った,六七日するとおりてきて、翼を奮わせ鳴いて群れをひきい,(雌鶏なのに)一匹だけ羽毛が生え変わらなかった。その後陳敏の事があった。陳敏は江表(江東)に割拠したが,最後まで法律や政治がわからなかった,おそらくはその象である。(陳敏は)最後には周玘に滅ぼされることとなった。鶏禍が周玘の家にあらわれたのも、又た天意である。『京房易傳』には「雌鶏が雄のように鳴けば、君主は栄えない。」とある。
元帝太興中,王敦鎮武昌。雌雞化為雄。天戒若曰,雌化為雄,臣陵其上。其後王敦再攻京師。
元帝太興中,王敦 武昌を鎮む。雌雞 化して雄と為る。天戒めて若くのごとく曰く「雌 化して雄と為るは,臣 其の上を陵ぐ。」と。其の後 王敦 再び京師を攻む。
【参照】
『宋書』五行志:「晉元帝太興中,王敦鎮武昌,有雌雞化為雄。天戒若曰「雌化為雄,臣陵其上。」其後王敦再攻京師。」
元帝の太興中(318年 - 321年)に,王敦が武昌を鎮圧した。雌雞が変化して雄になるものがいた。天は戒めて「雌が変化して雄になるのは,臣下が上を侵すことだ。」と言う。その後 王敦は再度 京師を攻めた。
孝武太元十三年四月,廣陵高年閻嵩家雌雞生無右翅,彭城人劉象之家雞有三足。京房易傳曰「君用婦人言,則雞生妖。」是時,主相並用尼媼之言,寵賜過厚,故妖象見焉。
孝武太元十三年四月,廣陵の高年 閻嵩の家の雌雞 右翅無きを生み,彭城人 劉象の家の雞 三足有り。京房易傳に曰く「君 婦人の言を用ふれば,則ち雞 妖を生む。」と。是の時,主相 並びに尼媼の言を用ひ,寵賜厚きに過ぐ,故に妖象 見る。
【参照】
『宋書』五行志:「晉孝武太元十三年四月,廣陵高平閻嵩家雄雞,生無右翅;彭城到象之家雞,無右足。京房易傳曰「君用婦人言,則雞生妖。」」
孝武太元十三(388年)年四月、広陵郡の高齢である閻嵩の家の雌雞が右の羽がないものを生み,彭城郡の人 劉象の家の雞は足が三本あった。『京房易伝』には「君主が婦人の言葉を(政治に)用いると,雞が妖怪を生む。」とある。この時,君主と宰相がどちらも尼や乳母の言葉を(政治に)用い,寵愛を受けることが甚だしかったので,怪異の象があらわれたのだ。
安帝隆安元年八月,琅邪王道子家青雌雞化為赤雄雞,不鳴不將。桓玄將篡,不能成業之象。四年,荊州有雞生角,角尋墮落。是時桓玄始擅西夏,狂慢不肅,故有雞禍。天戒若曰,角,兵象,尋墮落者,暫起不終之妖也。後皆應也。
安帝隆安元年八月,琅邪王の道子の家 青雌雞 化して赤雄雞と為り,鳴かず將いず。桓玄 將に篡(うば)はんとするも,業を成すこと能はざるの象なり。四年,荊州に雞の角を生ずる有り,角 尋いで墮落す。是の時 桓玄 始めて西夏を擅にし,狂慢不肅,故に雞禍有り。天戒めて若くのごとく曰く「角,兵の象,尋いで墮落する者は,暫く起こして終らざるの妖なり。」と。後 皆な應なり。
【参照】
『宋書』五行志:「晉安帝隆安元年八月,琅邪王道子家青雌雞化為赤雄,不鳴不將。後有桓玄之事,具如其象。隆安四年,荊州有雞生角,角尋墮落。是時桓玄始擅西夏,狂慢不肅,故有雞禍。角,兵象。尋墮落者,暫起不終之妖也。」
安帝の隆安元年(397年)八月,司馬道子の家の青雌雞が変化して赤雄雞になり、鳴かず群れを率いなかった。(このことは)桓玄が(帝位を)簒奪しようとして,成し遂げることができないことの象である。四年(400年),荊州に角が生えた雞がいたが,すぐに角が落ちた。この時 桓玄ははじめて西夏(中国の西の地域)をほしいままにし、おごりたかぶり慎まなかった,したがって雞禍があったのだ。天は戒めて「角は兵の象であり,ただちに落ちるということは、まもなく兵を起こしても完遂できないことの怪異である。」といっている。後のことは皆な(これに)応じている。
元興二年,衡陽有雌雞化為雄,八十日而冠萎。天戒若曰,衡陽,桓玄楚國之邦略也。及桓玄篡位,果八十日而敗,此其應也。
元興二年,衡陽に雌雞 化して雄と為る有り,八十日にして冠萎ゆ。天戒めて若くのごとく曰く,「衡陽,桓玄楚國の邦略なり。桓玄 篡位に及び,果して八十日にして敗る,此れ其の應なり。」と。
【参照】
『宋書』五行志:「晉安帝元興二年,衡陽有雌雞化為雄,八十日而冠萎。衡陽,桓玄楚國封略也。後篡位八十日而敗,徐廣以為玄之象也。」
元興二年(403年),衡陽郡に雌鶏が変化して雄となったものがいた,八十日たつと鶏冠がしぼんだ。天は戒めて「衡陽は桓玄の楚国の国境である。桓玄が(皇帝の)位を奪うと,やはり八十日で敗れた,此れは其の応である。」と,言う。
青祥
武帝咸寧元年八月丁酉,大風折大社樹,有青氣出焉,此青祥也。占曰「東莞當有帝者。」明年,元帝生。是時,帝大父武王封東莞,由是徙封琅邪。孫盛以為中興之表。晉室之亂,武帝子孫無孑遺,社樹折之應,又常風之罰。
青祥
武帝咸寧元年八月丁酉〔一〕大風が大社〔二〕の樹 折り,青氣 出ずる有り,此れ青祥なり。占に曰く「東莞に當に帝者有り。」と。明年,元帝 生まる。是の時,帝の大父 武王 東莞に封ぜられ,是れに由り琅邪に徙封さる。孫盛 以為く中興の表。と。晉室の亂あり,武帝の子孫 孑遺〔三〕 無し,社樹折れるの應,又た常風〔四〕の罰なり。
〔一〕この年の8月に丁酉の日はない
〔二〕『晋書斠注』に引く『太平御覧』では「洛陽太祖廟」とし、『北堂書鈔』では「洛陽太社」としている。
〔三〕『毛詩』大雅・雲漢:「周餘黎民,靡有孑遺,昊天上帝,則不我遺。」
〔四〕『漢書』五行志下之上:「雨旱寒奧,亦以風為本,四氣皆亂,故其罰常風也。常風傷物,故其極凶短折也。傷人曰凶,禽獸曰短,草木曰折。」なお『晋書斠注』には「案常風従漢宋志作恒風。本志上文亦均作恒。」とある。
『尚書』洪範:「曰咎徵。曰狂,恆雨若。曰僭,恆暘若。曰豫,恆燠若。曰急,恆寒若。曰蒙,恆風若。」,孔傳「君行蒙闇,則常風順之。」
【参照】
『宋書』五行志:「青眚青祥 晉武帝咸寧元年八月丁酉,大風折太社樹,有青氣出焉。此青祥也。占曰「東莞當有帝者。」明年,元帝生。是時帝大父武王封東莞,由是徙封琅邪。孫盛以為中興之表。晉室之亂,武帝子孫無孑遺,社樹折之應,又恒風之罰也。」
青祥
武帝の咸寧元年(275年)八月丁酉の日,大風が(洛陽の地を祀る)大社の樹を折り,青い気が出るものがあった、此れは青祥である。占断には「東莞郡に皇帝になるべき者がいる。」と,ある。明年,元帝(司馬睿)が生まれた。是の時,元帝の祖父である武王(司馬伷)が東莞王に封ぜられ,このことによって琅邪王に改封された。孫盛が考えるに中興の象徴である。晉の王室の乱があった(八王の乱),武帝の子孫にはわずかな生き残りもなかった,(これは)廟の樹が折れたことの応であり,また常風の罰である。
惠帝元康中,洛陽南山有虻作聲,曰「韓尸尸」。識者曰「韓氏將尸也,言尸尸者,盡死意也。」其後韓謐誅而韓族殲焉,此青祥也。
惠帝元康中,洛陽の南山に虻有りて聲を作して,曰く「韓尸尸」と。識者曰く「韓氏 將に尸にならんとするなり,尸尸と言ふは、盡く死する意なり。」と。其の後 韓謐 誅されて韓族 殲ぼさる,此れ青祥なり。
【参照】
『宋書』五行志:「晉惠帝元康中,洛陽南山有䖟作聲曰「韓屍屍。」識者曰「韓氏將死也。言屍屍者,盡死意也。」其後韓謐誅而韓族殲焉。此青祥也。」
恵帝の元康年間中(291年 - 299年),洛陽の南山に「韓尸尸」と鳴く虻がいた。識者は「韓氏が屍になろうとしている,尸尸というのは,ことごとく死に絶えるという意味である。」と言った。その後 韓謐(賈謐)は誅殺されて韓謐(賈謐)の一族は滅ぼされた,これは青祥である。
金沴木
魏文帝黃初七年正月,幸許昌。許昌城南門無故自崩,帝心惡之,遂不入,還洛陽。此金沴木,木動之也。五月,宮車晏駕。京房易傳曰「上下咸悖,厥妖也城門壞。」
金木を沴る
魏文帝黃初七年正月,許昌に幸す。許昌城の南門 故無くして自ら崩る,帝心 之を惡み,遂に入らず,洛陽に還る〔一〕。此れ金が木を沴るなり,木 之に動く。五月,宮車晏駕す〔二〕。京房易傳に曰く「上下咸な悖(みだ)れ,厥の妖や城門 壞る。」と。〔三〕
〔一〕『三國志』魏書・文帝紀:「七年春正月,將幸許昌,許昌城南門無故自崩,帝心惡之,遂不入。壬子,行還洛陽宮。」
〔二〕『三國志』魏書・文帝紀:「(五月)丁巳,帝崩于嘉福殿。」
〔三〕『後漢書』五行志:「靈帝光和元年,南宮平城門內屋・武庫屋及外東垣屋前後頓壞。蔡邕對曰「平城門,正陽之門,與宮連,郊祀法駕所由從出,門之最尊者也。武庫,禁兵所藏。東垣,庫之外障。易傳曰『小人在位,上下咸悖,厥妖城門內崩。』潛潭巴曰『宮瓦自墮,諸侯強陵主。』此皆小人顯位亂法之咎也。」」
【参照】
『宋書』五行志:金沴木「魏文帝初七年正月,幸許昌。許昌城南門無故自崩,帝心惡之,遂不入,還洛陽。此金沴木,木動也。五月,宮車晏駕。京房易傳曰「上下咸悖,厥妖城門壞。」」
金が木を沴る
魏の文帝黃初七年(226年)正月,許昌に行幸しようとした。許昌のまちの南門が理由なくひとりでに崩れた,皇帝はそれを快く思わず,結局は許昌にはいらず,洛陽に戻った。これは金が木を沴ることであり,木がこれ(金)によって動かされたのである。五月,皇帝が崩御した。『京房易傳』には「(身分が)上の者も下の者も皆な乱れると,その怪異というのは城門が壊れることである。」とある。
元帝太興二年六月,吳郡米廡無故自壞。天戒若曰「夫米廡,貨糴之屋,無故自壞,此五穀踴貴,所以無糴賣也。」是歲遂大饑,死者千數焉。
元帝太興二年六月,吳郡の米廡 故無くして自から壞す。天戒めて若くのごとく曰く「夫れ米廡は,貨糴の屋,故無く自から壞す,此れ五穀踴貴し,所以に糴賣無し。」と。是の歲 遂に大いに饑え,死者千もて數ふ。
〔一〕『宋書』は「廡」を「廩」に作る。いまこれに從う。
【参照】
『宋書』五行志:「晉元帝太興二年六月,吳郡米廩無故自壞。是歲大饑,死者數千。」
元帝太興二年(319年)六月,呉郡の米蔵〔一〕が理由なくひとりでに壊れた。天は戒めて「米蔵というものは,買い入れた穀物の建物であり,理由なくひとりでに壊れた,五穀の値段が高騰し,したがって穀物の売り買いができない。」と言う。この年は結局 大きな飢饉があり,死者が千人単位で数えるほどだった。
明帝太寧元年,周莚自歸王敦,既立其宅宇,所起五間六梁,一時躍出墜地,餘桁猶亙柱頭。此金沴木也。明年五月,錢鳳謀亂,遂族滅筵,而湖熟尋亦為墟矣。
明帝太寧元年,周莚 自ら王敦に歸す,既に其の宅宇を立つ,起こす所の五間六梁,一時 躍出し地に墜つ,餘桁も猶お柱頭を亙いするがごとし。此れ金が木を沴るなり。明年五月,錢鳳 亂を謀り,遂に筵を族滅す,而して湖熟 尋いで亦た墟と為る。
【参照】
『宋書』五行志:「晉明帝太寧元年,周筵自歸王敦,既立宅宇,而所起五間六架,一時躍出墮地,餘桁猶亘柱頭。此金沴木也。明年五月,錢鳳謀亂,遂族滅筵,而湖熟尋亦為墟矣。」
明帝の太寧元(323年)年,周莚は自分から王敦のもとに降った,そのときすでに邸宅を建てており,五つの部屋に六本の梁をめぐらせた,ある時(梁が)躍るように動き出し地面に落ちた,他の横木も柱の頭をぶつけ合うようだった。これは金が木を沴ることだ。明年五月,銭鳳が乱を企て,最後に周筵一族は皆殺しにされたので,湖熟県もまもなく荒廃した。
安帝元興元年正月丙子,會稽王世子元顯將討桓玄,建牙竿于揚州南門,其東者難立,良久乃正。近沴妖也。而元顯尋為玄所擒。
三年五月,樂賢堂壞。時帝嚚眊,無樂賢之心,故此堂是沴。
安帝元興元年正月丙子〔一〕,會稽王の世子 元顯 將に桓玄を討たんとし〔二〕,牙竿を揚州の南門に建つ,其の東の者は立ち難く,良や久しくして乃ち正なり。沴妖に近きなり。而して元顯 尋いで玄のために擒ふる所と為る。
三年五月,樂賢堂 壞す。時に帝 嚚眊にして,賢を樂む心 無し,故に此の堂 是れに沴る。
〔一〕『晋書斠注』は「丙」を「景」につくる。唐の高祖(李淵)の父の李昞の避諱。
〔二〕『晉書』安帝紀:「元興元年春正月庚午朔,大赦,改元。以後將軍元顯為驃騎大將軍、征討大都督,鎮北將軍劉牢之為元顯前鋒,前將軍、譙王尚之為後部,以討桓玄。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉安帝元興元年正月丙子,司馬元顯將西討桓玄,建牙揚州南門,其東者難立,良久乃正。近沴妖也。尋為桓玄所禽。元興三年五月,樂賢堂壞。天意若曰,安帝嚚眊,不及有樂賢之心,故此堂見沴也。」
安帝の元興元年(402年)正月丙子の日,會稽王司馬道子の嫡男である司馬元顯が桓玄を討とうとしていた,牙旗の竿を揚州の南門に建てた,其の東の竿は立てるのが難しく、長い間を経てきちんと立った。沴妖に近いものだ。そのため司馬元顯はついに桓玄に捕らえられるところとなった。
元興三年五月,楽賢堂が壞れた。そのとき皇帝は愚鈍であり,賢人との交わりを楽しむ心がなかった,そのため楽賢堂はそこなわれたのだ。
義熙九年五月,國子聖堂壞。天戒若曰「聖堂,禮樂之本,無故自壞,業祚將墜之象。」未及十年而禪位焉。
義熙九年五月,國子聖堂 壞す。天戒めて若くのごとく曰く「聖堂,禮樂の本なり,故無くして自から壞するは,業祚 將に墜ちんとするの象なり。」と。未だ十年に及ばずして禪位す。
【参照】
『宋書』五行志:「晉安帝義熙九年五月乙酉,國子聖堂壞。」
義熙九年(413年)五月,国子聖堂が壊れた。天は戒めて「国子聖堂は、礼楽の根本であり,理由なくひとりでに壊れるのは,皇帝の位がくずれる象である。」と言う。(安帝は即位して)十年もたたずに禅譲した。