いつか読みたい晋書訳

晋書_志第十八巻_五行中

翻訳者:池内早紀子・伊藤裕水・大島啓輔・小國結菜・重信あゆみ・島山奈緒子・髙橋あやの・山本優紀子(五十音順)
『晋書』五行志について
基本的には『漢書』と『宋書』からの再構成となっている。
理屈の部分については『漢書』五行志を用い,実例については『宋書』五行志を用いる。実質的には『宋書』をベースに、『宋書』ではあまり記されない五行についての理屈の部分を『漢書』によって接木したような構成となっている。
そのため東洋文庫『漢書五行志』訳注と、筑摩書房『漢書』訳注を参照しながら進めることができる。
また少なからず『捜神記』などの先行事例を引いている部分があり,それらも先行する訳を参照とすることができる。
今回の訳註も,今言及した東洋文庫『漢書五行志』や筑摩書房『漢書』,東洋文庫『捜神記』の訳註によるところが大きいことを附言しておく。

(主催者より)表現形式等に不統一がありますが、早期公開を優先し翻訳者から提出をいただいたテキストに基づいて成形しています。製本版の作成までに現代語訳の記号等を修正予定です。記号等の変更については、翻訳者に許可を頂いています。

原文

傳曰「言之不從,是謂不乂,厥咎僭,厥罰恒陽,厥極憂。時則有詩妖,時則有介蟲之孼,時則有犬禍,時則有口舌之痾,時則有白眚白祥。惟木沴金。」

訓読

傳に曰く「言の不從,是れ不乂と謂ふ,厥の咎 僭,厥の罰 恒陽,厥の極 憂。時には則はち詩妖有り,時には則はち介蟲の孼有り,時には則はち犬禍有り,時には則はち口舌の痾有り,時には則はち白眚白祥有り。惟れ木 金を沴ふ。」と。

【参照】
『漢書』五行志:「傳曰「言之不從,是謂不艾,厥咎僭,厥罰恆陽,厥極憂。時則有詩妖,時則有介蟲之孽,時則有犬旤,時則有口舌之痾,時則有白眚白祥。惟木沴金。」」

現代語訳

傳に「言の不從,このことを不乂と言うのである,その咎は僭,その罰は恒陽,その極は憂。詩妖がでたり,小蟲の怪異がでたり,犬禍がでたり,口舌の痾がでたり,白眚や白祥がでたりすることがある。木が金をそこなったのである。」と言っている。

原文

言之不從,從,順也。是謂不乂,乂,治也。孔子曰「君子居其室,出其言不善,則千里之外違之,況其邇者乎。」詩曰「如蜩如螗,如沸如羹。」言上號令不順人心,虛譁憒亂,則不能治海內。失在過差,故其咎僭差也。刑罰妄加,羣陰不附,則陽氣勝,故其罰常陽也。旱傷百穀,則有寇難,上下俱憂,故其極憂也。君炕陽而暴虐,臣畏刑而箝口,則怨謗之氣發於歌謠,故有詩妖。介蟲孼者,謂小蟲有甲飛揚之類,陽氣所生也,於春秋為螽,今謂之蝗,皆其類也。於易,兌為口,犬以吠守而不可信,言氣毀,故有犬禍。一曰,旱歲犬多狂死及為怪,亦是也。及人,則多病口喉欬嗽者,故有口舌痾。金色白,故有白眚白祥。凡言傷者,病金氣。金氣病,則木沴之。其極憂者,順之,其福曰康寧。

訓読

言の不從,從,順なり。是れ不乂と謂ふは,乂,治なり。孔子曰く「君子其の室に居り,其の言を出だすに不善なれば,則はち千里の外之れに違ふ,況んや其の邇き者をや。〔一〕」と。詩に曰く「蜩の如く螗の如く,沸の如く羹の如く。〔二〕」と。言ふこころは上 號令して人心に順はず,虛譁憒亂すれば,則はち海內を治むること能はず。失は過差に在り,故に其の咎 僭差なり。刑罰妄りに加ふれば,羣陰附せず,則はち陽氣勝る,故に其の罰 常陽なり。旱 百穀を傷なへば,則はち寇難有り,上下俱に憂ふ,故に其の極 憂なり。君 炕陽にして暴虐なれば,臣刑を畏れて口を箝す,則はち怨謗の氣 歌謡に發す,故に詩妖有り。介蟲孼なる者は,小蟲の甲有りて飛揚するの類を謂ふ,陽氣の生ずる所なり,春秋に於いては螽為り〔三〕,今之れを蝗と謂ふは,皆な其の類なり。易に於いては,兌 口為り〔四〕,犬 吠を以って守るも信ずべからず,言氣毀つ,故に犬禍有り。一に曰く,旱の歲 犬 狂死及び怪と為ること多し,亦た是れなり。人に及べば,則はち口喉を病み欬嗽する者多し,故に口舌の痾有り。金の色 白,故に白眚白祥有り。凡そ言傷ふ者,金氣を病む。金氣 病めば,則はち木之れを沴す,其の極 憂なる者は,之れを順ふれば,其の福 康寧。

〔一〕『易』繋辞上伝:「子曰,君子居其室,出其言善,則千里之外應之。況其邇者乎。居其室,出其言不善,則千里之外違之。況其邇者乎」
〔二〕『毛詩』大雅・蕩之什・蕩:「文王曰咨,咨女殷商。如蜩如螗,如沸如羹。」
〔三〕『春秋』:
桓公五年「◯螽。」
僖公十五年「八月,螽。」
文公三年「◯秋。楚人圍江。◯雨螽于宋。」,左氏伝「秋。雨螽于宋。隊而死也。」
文公八年「◯螽。」
宣公六年「◯秋。八月,螽。」
宣公十三年「○秋。螽。」
宣公十五年「○秋螽。」
襄公七年「○八月,螽。」
哀公十二年「○冬。十有二月,螽。」,左氏伝「○冬。十二月,螽。季孫問諸仲尼。仲尼曰,丘聞之,火伏而後蟄者畢。今火猶西流,司厤過也。」
哀公十三年「○九月,螽。 ……○十有二月,螽。」
〔四〕『易』説卦伝:「乾為首。坤為腹。震為足。巽為股。坎為耳。離為目。艮為手。兌為口。」
【参照】
『漢書』五行志:「言之不從」,從,順也。「是謂不乂」,乂,治也。孔子曰「君子居其室,出其言不善,則千里之外違之,況其邇者虖。」詩云「如蜩如螗,如沸如羹。」言上號令不順民心,虛譁憒亂,則不能治海內,失在過差,故其咎僭。僭,差也。刑罰妄加,羣陰不附,則陽氣勝,故其罰常陽也。旱傷百穀,則有寇難,上下俱憂,故其極憂也。君炕陽而暴虐,(師古曰「凡言炕陽者,枯涸之意,謂無惠澤於下也。炕音口浪反。」)臣畏刑而柑口,則怨謗之氣發於童謠,故有詩妖。介蟲孽者,謂小蟲有甲飛揚之類,陽氣所生也,於春秋為螽,今謂之蝗,皆其類也。於易,兌為口,犬以吠守,而不可信,言氣毀故有犬旤。一曰,旱歲犬多狂死及為怪,亦是也。及人,則多病口喉欬者,故有口舌痾。金色白,故有白眚白祥。凡言傷者,病金氣。金氣病,則木沴之。其極憂者,順之,其福曰康寧。

現代語訳

言の不從の,從というのは順ということである。このことを不乂というのは,乂というのは治ということなのである。孔子は「君子がその部屋に居て,不善のことばを出せば,千里のむこうでもそれに違う,その近いところにいる者は言うまでもない。」と言う。詩には「セミどもが鳴くように騒がしく,湯が沸きたち羹が煮えたぎるよう(に乱れる)。」と言う。つまり上のものが號令を発しても民衆の心に受け入れられず,嘘をつき混乱を起こすと,国を治めることができないのである。その過失はずれることである,だからその咎は度を失うことなのである。刑罰をむやみやたらに与えると,もろもろの陰の気がまとまらず,そうすると陽氣が勝る,だからその罰は常陽である。旱が百穀を損なうと,内乱や外敵がおこり,君臣がともに憂う,だからその極は憂なのである。君主が恩沢を与えず暴虐であると,臣下は刑を恐れて口をとざす,そうすると怨嗟の氣が歌謡としてあらわれる,であるから詩妖がおこる。介蟲の孼というものは,甲があって飛ぶ小蟲の類を言い,陽氣によって生まれたものであり,『春秋』においては螽であり,今それを蝗といっているものは,すべてその類である。『易』においては,兌が口であり,犬は吠えることによって守るとはいえ信用することはできない,言の氣が壊れることにより,犬禍がおこる。旱の歲には犬が狂って死ぬことと怪異となることが多いというものがあるのも,このことである。人に及ぶと,口や喉を病み咳やくしゃみをする者が多くなる,だから口舌の痾がおこる。金の色は白,だから白眚や白祥がおこる。およそ言が損なわれると,金氣を病む。金氣は病むと,木がこれを損なう。その極が憂であるということは,金の気によって調和がとれれば,その福は康寧である。

原文

劉歆言傳曰,時則有毛蟲之孼。說以為於天文西方參為獸星,故為毛蟲。

訓読

劉歆言傳に曰く,時には則はち毛蟲の孼有り。說に以為へらく天文に於いては西方參もて獸星と為す,故に毛蟲為り,と〔一〕。

〔一〕『史記』天官書:「西宮咸池,曰天五潢。……參為白虎。」
【参照】
『漢書』五行志:「劉歆言傳曰,時有毛蟲之孽。說以為於天文西方參為虎星,故為毛蟲。」

現代語訳

劉歆の言の傳には,虎の怪異がおこることがある,と言う。說には,天文においては西方の參星を獸星としている,であるから虎なのである,と考えている。

原文

魏齊王嘉平初,東郡有訛言云,「白馬河出妖馬,夜過官牧邊鳴呼,眾馬皆應。明日見其跡,大如斛,行數里,還入河。」楚王彪本封白馬,兗州刺史令狐愚以彪有智勇及聞此言,遂與王淩謀共立之。事泄,淩・愚被誅,彪賜死。此言不從之罰也。詩云「人之訛言,寧莫之懲。」

訓読

魏の齊王嘉平の初,東郡に訛言有りて云ふ,白馬河 妖馬を出だし,夜に官牧の邊を過ぎりて鳴呼し,眾馬皆な應ず。明日其の跡を見るに,大は斛の如く,行くこと數里,還りて河に入る,と。楚王彪 本と白馬に封ぜられ,兗州刺史令狐愚 彪の智勇有る及び此の言を聞くを以って,遂ひに王淩と謀りて共もに之れを立てんとす。〔一〕事泄れ,淩・愚誅せられ,彪死を賜はる。〔二〕此れ言の不從の罰なり。詩に云ふ「人の訛言,寧ぞ之れを懲らす莫からんや。」と。〔三〕

〔一〕『三国志』王淩伝裴松之注引魏略: 「愚聞楚王彪有智勇。初東郡有譌言云「白馬河出妖馬,夜過官牧邊鳴呼,眾馬皆應,明日見其迹,大如斛,行數里,還入河中。」又有謠言「白馬素羈西南馳,其誰乘者朱虎騎。」楚王小字朱虎,故愚與王淩陰謀立楚王。乃先使人通意於王,言「使君謝王,天下事不可知,願王自愛。」彪亦陰知其意,答言「謝使君,知厚意也。」
〔二〕『三国志』王淩伝:是時,淩外甥令狐愚以才能為兗州刺史,屯平阿。……淩・愚密協計,謂齊王不任天位,楚王彪長而才,欲迎立彪都許昌。嘉平元年九月,愚遣將張式至白馬,與彪相問往來。淩又遣舍人勞精詣洛陽,語子廣。廣言「廢立大事,勿為禍先。」其十一月,愚復遣式詣彪,未還,會愚病死。……宣王將中軍乘水道討淩,先下赦赦淩罪,又將尚書廣東,使為書喻淩,大軍掩至百尺逼淩。淩自知勢窮,乃乘船單出迎宣王,遣掾王彧謝罪,送印綬・節鉞。軍到丘頭,淩面縛水次。宣王承詔遣主簿解縛反服,見淩,慰勞之,還印綬・節鉞,遣步騎六百人送還京都。淩至項,飲藥死。……彪賜死,諸相連者悉夷三族。朝議咸以為春秋之義,齊崔杼・鄭歸生皆加追戮,陳屍斲棺,載在方策。淩・愚罪宜如舊典。乃發淩・愚冢,剖棺,暴屍於所近市三日,燒其印綬・朝服,親土埋之。
〔三〕『毛詩』小雅・鴻鴈之什・沔水:「鴥彼飛隼,率彼中陵。民之訛言,寧莫之懲。我友敬矣,讒言其興。」
【参照】
『宋書』五行志:「魏齊王嘉平初,東郡有譌言云,白馬河出妖馬,夜過官牧邊鳴呼,眾馬皆應。明日見其迹,大如斛,行數里,還入河。楚王彪本封白馬,兗州刺史令狐愚以彪有智勇,及聞此言,遂與王淩謀共立之。遣人謂曰「天下事未可知,願王自愛。」彪答曰「知厚意。」事泄,淩・愚被誅,彪賜死。此言不從之罰也。詩云「民之譌言,寧莫之懲。」」

現代語訳

魏の齊王の嘉平年間のはじめ,東郡で謡言がおこり,「白馬河が妖馬を出し,夜には官の牧場のそばを通り過ぎていななき,馬たちはみなそれに応じた。明日その跡を見てみると,そのおおきさは斛(大きな計量器)のようで,數里行き,河に帰って行った,」と言った。楚王の曹彪はもともと白馬に封ぜられており,兗州刺史の令狐愚は曹彪が智勇が有りまたこの謡言を聞いたことから,そのまま王淩と謀って共同して曹彪を(帝位に)立てようとした。謀が漏れ,王淩と令狐愚は誅殺され,曹彪は死を賜わった。このことは言の不從の罰である。詩に「民衆の謡言は,どうして懲らしめなくてよかろうか。」と言う。

原文

蜀劉禪嗣位,譙周曰「先主諱備,其訓具也,後主諱禪,其訓授也。若言劉已具矣,當授與人,甚於晉穆侯・漢靈帝命子之祥也。」蜀果亡,此言之不從也。劉備卒,劉禪即位,未葬,亦未踰月,而改元為建興,此言之不從也。禮,國君即位踰年而後改元者,緣臣子之心不忍一年而有二君。今可謂亟而不知禮義矣。後遂降焉。

訓読

蜀の劉禪位を嗣ぐに,譙周曰く「先主諱は備,其の訓 具なり,後主諱は禪,其の訓 授なり。劉已に具はり,當さに授けて人に與ふと言ふが若し,晉穆侯・漢靈帝の子に命づく〔一〕の祥よりも甚だしきなり。」と〔二〕。蜀果たして亡ぶ,此れ言の不從なり。劉備卒し,劉禪位に即くに,未だ葬らず,亦た未だ月を踰えずして,改元して建興と為す,此れ言の不從なり。禮に,國君位に即くに年を踰えて後ち改元する者は,臣子の心一年にして二君有るに忍びざるに緣る〔三〕。今 亟にして禮義を知らざると謂ふべし。後ち遂に焉れに降る。

〔一〕『史記』晋世家:「獻侯十一年卒,子穆侯費王立。穆侯四年,取齊女姜氏為夫人。七年,伐條。生太子仇。十年,伐千畝,有功。生少子,名曰成師 。」
『後漢書』孝霊帝紀:「丙辰,帝崩于南宮嘉德殿,年三十四。戊午,皇子辯即皇帝位,年十七。尊皇后曰皇太后,太后臨朝。大赦天下,改元為光熹。」
『後漢書』孝献帝紀:「孝獻皇帝諱協,靈帝中子也。母王美人,為何皇后所害。中平六年四月,少帝即位,封帝為勃海王,徙封陳留王。九月甲戌,即皇帝位,年九歲。遷皇太后於永安宮。大赦天下。改昭寧為永漢。丙子,董卓殺皇太后何氏。」
『後漢書』皇后紀下:「靈思何皇后諱某,南陽宛人。家本屠者,以選入掖庭。長七尺一寸。生皇子辯,養於史道人家,號曰史侯 。……時王美人任娠,畏后,乃服藥欲除之,而胎安不動,又數夢負日而行。四年,生皇子協,后遂酖殺美人。帝大怒,欲廢后,諸宦官固請得止。董太后自養協,號曰董侯。」
〔二〕『三国志』蜀書・杜瓊伝:「周緣瓊言,乃觸類而長之曰「春秋傳著晉穆侯名太子曰仇,弟曰成師。師服曰『異哉君之名子也。嘉耦曰妃,怨耦曰仇,今君名太子曰仇,弟曰成師,始兆亂矣,兄其替乎。』其後果如服言。及漢靈帝名二子曰史侯・董侯,既立為帝,後皆免為諸侯,與師服言相似也。先主諱備,其訓具也,後主諱禪,其訓授也,如言劉已具矣,當授與人也。意者甚於穆侯・靈帝之名子。」」
〔三〕『春秋公羊傳』文公九年:「九年。春,毛伯來求金。毛伯者何。天子之大夫也。何以不稱使。當喪,未君也,踰年矣。何以謂之未君。即位矣,而未稱王也。未稱王,何以知其即位。以諸侯之踰年即位,亦知天子之踰年即位也。以天子三年然後稱王,亦知諸侯於其封內三年稱子也, 踰年稱公矣。則曷為於其封內三年稱子。緣民臣之心,不可一日無君。緣終始之義,一年不二君,不可曠年無君。緣孝子之心,則三年不忍當也。」
【参照】
『宋書』五行志:「劉禪嗣位,譙周引晉穆侯・漢靈帝命子事譏之曰「先主諱備,其訓具也。後主諱禪,其訓授也。若言劉已具矣,當授與人,甚於穆侯・靈帝之祥也。」蜀果亡,此言之不從也。劉備卒,劉禪即位,未葬,亦未踰月,而改元為建興。此言之不從也。習鑿齒曰「禮,國君即位踰年而後改元者,緣臣子之心,不忍一年而有二君也。今可謂亟而不知禮矣。君子是以知蜀之不能東遷也。」後又降晉。吳孫亮・晉惠帝・宋元凶亦然。亮不終其位,惠帝號令非己,元凶尋誅。言不從也。」

現代語訳

蜀の劉禪が帝位を嗣ぐと,譙周は「先主の諱は備,その訓は具(調う)である,後主の諱は禪,その訓は授(授ける)である。劉がすでに調い,人にさずけるのであろうと言うようなもので,晉の穆侯(が太子に仇と,弟に成師と)・漢の靈帝が(少帝に史侯と,献帝に董侯と)子に命名したことの予兆よりも甚だしいものである。」と言った〔一〕。蜀は果たして滅亡した,このことは言の不從である。劉備が卒し,劉禪が帝位に即くときに,まだ葬っておらず,またまだ月も変わっていないのに,改元して建興とした,このことは言の不從である。禮に,國の君主が位に即くときに年が改まってから改元することは,臣子の心は一年にして二君に仕えることが忍びないことによるのである〔二〕。このことは性急であって禮義を知らないと言えよう,とある。のちにやはり晋に降った。

原文

魏明帝太和中,姜維歸蜀,失其母。魏人使其母手書呼維令反,并送當歸以譬之。維報書曰「良田百頃,不計一畝,但見遠志,無有當歸。」維卒不免。

訓読

魏の明帝太和中,姜維蜀に歸し,其の母を失ふ。魏人 其の母をして手づから書して維を呼びて反せしめんとし,并びに當歸を送りて以て之れを譬へしむ。維 書に報じて曰く「良田百頃,一畝を計えず,但だ遠志を見,當歸有る無し。」と〔一〕。維 卒に免かれず。

〔一〕『三国志』蜀書・姜維伝裴松之注引孫盛雜記:「初,姜維詣亮,與母相失,復得母書,令求當歸。維曰「良田百頃,不在一畝,但有遠志,不在當歸也。」
【参照】
『宋書』五行志:「魏太和中,姜維歸蜀,失其母。魏人使其母手書呼維令反,并送當歸以譬之。維報書曰「良田百頃,不計一畝。但見遠志,無有當歸。」維卒不免。」

現代語訳

魏の明帝の太和年間に姜維が蜀に歸順し,その母と離れ離れになった。魏の人は姜維の母に自筆の手紙を書かせて姜維を呼び(魏へと)離反させようとし,あわせて當歸を送ることによってそのことを(当さに帰るべしと)喩えた。姜維は「良い畑が百頃あれば,(その百分の一の)一畝の畑など顧みることはありません,ただ(生薬の)遠志を見て遠大な志を持つだけで,(生薬の)當歸を持たず帰るようなことはないのです。」と返書した。姜維は結局(言の不従の罰を)免かれなかった。

原文

景初元年,有司奏,帝為烈祖,與太祖・高祖並為不毀之廟,從之。案宗廟之制,祖宗之號,皆身沒名成乃正其禮。故雖功赫天壤,德邁前王,未有豫定之典。此蓋言之不從失之甚者也。後二年而宮車晏駕,於是統微政逸。

訓読

景初元年,有司,帝もて烈祖と為し,太祖・高祖と並びに不毀の廟と為せ,と奏するに,之れに從ふ。案ずるに宗廟の制,祖宗の號,皆な身沒して名成り,乃はち其の禮を正す。故に功は天壤に赫たり,德は前王に邁(す)ぐと雖も,未だ豫定の典有らず。〔一〕此れ蓋し言の不從の失の甚しき者なり。後二年にして宮車晏駕し,是こに於いて統微にして政逸なり。

〔一〕『三国志』魏書・明帝紀:「有司奏,武皇帝撥亂反正,為魏太祖,樂用武始之舞。文皇帝應天受命,為魏高祖,樂用咸熙之舞。帝制作興治,為魏烈祖,樂用章斌之舞。三祖之廟,萬世不毀。其餘四廟,親盡迭毀,如周后稷・文・武廟祧之制。」
【参照】
『宋書』五行志:「魏明帝景初元年,有司奏帝為烈祖,與太祖・高祖並為不毀之廟。從之。按宗廟之制,祖宗之號,皆身沒名成,乃正其禮。故雖功赫天壤,德邁前王,未有豫定之典。此蓋言之不從,失之甚者也。後二年而宮車晏駕,於是統微政逸。」

現代語訳

景初元年(237)に,官吏が,帝を烈祖とし,太祖・高祖とあわせて不毀の廟としてください,と奏上したので,これに從った。考えてみると宗廟の制では,祖宗の號というのは,すべて死去してからして名称は決まり,そうすることによってその禮を正しくするのである。であるから功業は天地に明らかであり,德行は先王よりも勝るとはいえ,豫じめ定めるという典礼は有ったことがない。〔一〕このことは言の不從の過失のはなはだしいものと言えよう。二年後崩御し,それにより皇統は微かとなり政治は放逸となった。

原文

吳孫休時,烏程人有得困病,及差,能以響言者,言於此而聞於彼。自其所聽之,不覺其聲之大也。自遠聽之,如人對言,不覺聲之自遠來也。聲之所往,隨其所向,遠者所過十數里。其鄰人有責息於外,歷年不還,乃假之使為責讓,懼以禍福。負物者以為鬼神,即傎倒畀之。其人亦不自知所以然也。言不從之咎也。

訓読

吳の孫休の時,烏程の人 困病を得て,差ゆるに及び,能く響を以って言ふ者有り,此こに言ひて彼しこに聞こゆ。其の所自り之れを聽くに,其の聲の大なるを覺えざるなり。遠き自り之れを聽くに,人と對言するが如く,聲の遠く自り來たるを覺えざるなり。聲の往く所,其の向かふ所に隨ひ,遠き者過ぐる所十數里。其の鄰人 責息を外に有り,歷年還らず,乃はち之れを假りて責讓を為さしむれば,懼るるに禍福を以ってし,負物者以って鬼神と為し,即はち傎倒して之れを畀ふ。其の人も亦た自づから然る所以を知らざるなり。言の不從の咎なり。

【参照】
『宋書』五行志:「吳孫休世,烏程民有得困疾,及差,能以響言者,言於此而聞於彼。自其所聽之,不覺其聲之大也。自遠聽之,如人對言,不覺聲之自遠來也。聲之所往,隨其所向,遠者不過十數里。其鄰人有責息於外,歷年不還。乃假之使為責讓,懼以禍福,負物者以為鬼神,即傾倒畀之。其人亦不自知所以然也。言不從之咎也。」

現代語訳

吳の孫休の時,烏程の人が困難な病となり,回復すると,響きによって話すことができるようになった者がおり,ここで話した言葉が向こうで聞こえた。その(声を出した)場所からこの声を聽くと,その聲が大きいと感じなかった。遠くからこの声を聽くと,人と向かい合ってはなすようで,聲が遠くからきたものであるとは感じなかった。聲の行く方向は,その(体の)向きにより,遠いものでは十數里さきまで届いた。その鄰人が外に債権を有していたが,何年経っても返還がなかったので,これに頼んで催促をさせたところ,吉凶どちらとなるかを恐れたが,債務者は鬼神と思い,すぐに恐慌して債務を返済した。本人すらそうなった原因がわからなかった。言の不從の咎である。

原文

魏時起安世殿,武帝後居之。安世,武帝字也。武帝每延羣臣,多說平生常事,未嘗及經國遠圖。此言之不從也。何曾謂子遵曰「國家無貽厥之謀,及身而已,後嗣其殆乎。此子孫之憂也。」自永熙後王室漸亂,永嘉中天下大壞,及何綏以非辜被殺,皆如曾言。

訓読

魏の時 安世殿を起こし,武帝後に之れに居す。安世,武帝の字なり〔一〕。武帝每に羣臣を延するに,平生常事を說くこと多く,未だ嘗て經國遠圖に及ばず。此れ言の不從なり。何曾 子の遵に謂ひて曰く「國家に貽厥の謀無く〔二〕,身に及ぶのみ,後嗣其れ殆ふきか。此れ子孫の憂なり。」と。永熙自り後王室漸く亂れ,永嘉中天下大いに壞れ,何綏の非辜を以って殺さるに及ぶ,皆な曾の言の如し。〔三〕

〔一〕『晋書』世祖武帝紀:「武皇帝諱炎,字安世,文帝長子也。」
〔二〕『毛詩』大雅・文王之什・文王有聲:「豐水有芑,武王豈不仕。詒厥孫謀,以燕翼子,武王烝哉。」,毛伝「芑草也。仕事,燕安,翼敬也。」,鄭箋「詒猶傳也。孫順也。……故傳其所以順天下之謀,以安其敬事之子孫。」
〔三〕『晋書』何綏伝:「綏字伯蔚,位至侍中尚書。自以繼世名貴,奢侈過度,性既輕物,翰札簡傲。城陽王尼見綏書疏,謂人曰「伯蔚居亂而矜豪乃爾,豈其免乎。」劉輿・潘滔譖之於東海王越,越遂誅綏。初,曾侍武帝宴,退而告遵等曰「國家應天受禪,創業垂統。吾每宴見,未嘗聞經國遠圖,惟說平生常事,非貽厥孫謀之兆也。及身而已,後嗣其殆乎。此子孫之憂也。汝等猶可獲沒。」指諸孫曰「此等必遇亂亡也。」及綏死,嵩哭之曰「我祖其大聖乎。」」
【参照】
『宋書』五行志:「魏世起安世殿,晉武帝後居之。安世,武帝字也。晉武帝每延羣臣,多說平生常事,未嘗及經國遠圖。此言之不從也。何曾謂子遵曰「國家無貽厥之謀,及身而已,後嗣其殆乎,此子孫之憂也。」自永熙後,王室漸亂。永嘉中,天下大壞。及何綏以非辜被誅,皆如曾言。」

現代語訳

魏の時に安世殿を作り,武帝はのちにそこに居住した。安世というのは,武帝の字である。武帝はいつも羣臣を延見するときには,ふだんのことについて說くことが多く,未だかつて國を治めるための遠大な方策について話すことはなかった。このことは言の不從である。何曾は子どもの何遵に「國家にその(のちの者へと天下を従えるために伝える)謀は無く,自分のことだけである,後嗣は危ういものであろうよ。このことは(われらが)子孫の憂えである。」と言った。永熙以降,王室はだんだんと亂れていき,永嘉年間には天下は崩壊し,何綏が無辜の罪によって殺されることに至るまで,すべて何曾が言った通りであった。

原文

趙王倫廢惠帝於金墉城,改號金墉城為永安宮。帝尋復位而倫誅。

訓読

趙王倫 惠帝を金墉城に廢し,金墉城を改號して永安宮と為す。帝尋いで復位して〔一〕倫誅せらる〔二〕。

〔一〕『晋書』孝恵帝紀:「永寧元年春正月乙丑,趙王倫篡帝位。丙寅,遷帝于金墉城,號曰太上皇,改金墉曰永昌宮。……夏四月,…‥逐倫歸第,即日乘輿反正。羣臣頓首謝罪,帝曰「非諸卿之過也。」」
〔二〕『晋書』八王伝・趙王倫伝:「梁王肜表倫父子凶逆,宜伏誅。百官會議于朝堂,皆如肜表。遣尚書袁敞持節賜倫死,飲以金屑苦酒。」
【参照】
『宋書』五行志:「趙王倫廢惠帝於金墉城,改號金墉為永安宮。帝尋復位而倫誅。」

現代語訳

趙王司馬倫は恵帝を金墉城で廢位し,金墉城の名を改めて永安宮とした。恵帝はまもなく復位して司馬倫は誅殺された。

原文

惠帝永興元年,詔廢太子覃還爲清河王,立成都王穎爲皇太弟,猶加侍中・大都督,領丞相,備九錫,封二十〔一〕郡,如魏王故事。案周禮傳國以胤不以勳,故雖公旦之聖不易成王之嗣,所以遠絕覬覦,永一宗祧。後代遵履,改之則亂。今擬非其實,僭差已甚。且既爲國嗣,則不應復開封土,兼領庶職。此言之不從,進退乖爽,故帝既播越,穎亦不終,是其咎僭也。後猶不悟,又立懷帝爲皇太弟。懷終流弒,不永厥祚,又其應也。語曰,「變古易常,不亂則亡」,此之謂乎。

訓読

惠帝永興元年,詔して太子覃を廢し還た清河王と爲し,成都王穎を立てて皇太弟と爲し〔二〕,猶ほ侍中・大都督を加へ,丞相〔三〕を領せしめ,九錫〔四〕を備へ,二十郡を封ず,魏王の故事〔五〕の如し。周の禮を案ずるに傳國は胤を以てし勳を以てせず,故に公旦の聖たりと雖ども成王の嗣に易へず〔六〕,覬覦(きゆ)を遠絕し,永へに宗祧を一にする所以なり。後代遵履し,之を改むれば則ち亂る。今其の實に非ざるに擬ふ,僭差已に甚し。且つ既に國嗣爲れば,則ち應さに復た封土を開き,庶職を兼領すべからず。此れ言の不從にして,進退乖爽す,故に帝既に播越し,穎も亦た終へず〔七〕,是れ「其の咎 僭」なり。後猶ほ悟らず,又た懷帝を立てて皇太弟と爲す〔八〕。懷 流弒せらるるに終はり〔九〕,厥の祚永へならず,又た其の應なり。語に「變古易常し〔一〇〕,亂めざれば則ち亡す」と曰ふは,此れ之の謂か。

〔一〕『晋書斠注』本文では「三十」となっているが,注で『宋書』・『晋書』成都王穎伝ともに「二十」であることが指摘されており,これに従い改めた。
『晋書』巻五十九 八王 成都王穎伝:「穎方恣其欲,而憚長沙王乂在内,遂與河間王顒表請誅后父羊玄之・左將軍皇甫商等,檄乂使就第。乃與顒將張方伐京都……穎既入京師,復旋鎮于鄴,增封二十郡,拜丞相。河間王顒表穎宜爲儲副,遂廢太子覃,立穎為皇太弟,丞相如故,制度一依魏武故事,乘輿服御皆遷于鄴。表罷宿衞兵屬相府,更以王官宿衞。僭侈日甚,有無君之心,委任孟玖等,大失眾望。」
〔二〕『晋書』巻四 恵帝本紀 永興元年条:「二月乙酉,廢皇后羊氏,幽于金墉城,黜皇太子覃復爲清河王。……河間王顒表請立成都王穎爲太弟。戊申,詔曰「朕以不德,纂承鴻緒,于茲十有五載。禍亂滔天,姦逆仍起,至乃幽廢重宮,宗廟圮絕。成都王穎溫仁惠和,克平暴亂。其以穎為皇太弟・都督中外諸軍事,丞相如故。」大赦,賜鰥寡高年帛三匹,大酺五日」
〔三〕『晋書』巻二十四 職官志:「丞相・相國,並秦官也。晉受魏禪,並不置,自惠帝以後,省置無恒。爲之者,趙王倫・梁王肜・成都王穎・南陽王保・王敦・王導之徒,皆非復尋常人臣之職。」
〔四〕『春秋公羊伝』荘公元年:「王使榮叔來錫桓公命。錫者何。賜也(注:上與下之辭。)[疏:錫者何○解云正以變賜言錫。與禮九賜之文異。故執不知問。]命者何。加我服也(注:增加其衣服。令有異於諸侯。禮有九錫。一曰車馬,二曰衣服,三曰樂則,四曰朱戸,五曰納陛,六曰虎賁,七曰弓矢,八曰鈇龯,九曰秬鬯,皆所以勸善。扶不能言命。不言服者,重命不重其財物,禮百里不過九命,七十里不過七命,五十里不過五命)」
〔五〕『三国志』巻一 魏書 武帝本紀:「(建安)十三年春正月,公還鄴,作玄武池以肄舟師。漢罷三公官,置丞相・御史大夫。夏六月,以公爲丞相。……(十八年)五月丙申,天子使御史大夫郗慮持節策命公為魏公曰「……今以冀州之河東・河内・魏郡・趙國・中山・常山・鉅鹿・安平・甘陵・平原凡十郡,封君爲魏公。錫君玄土,苴以白茅・爰契爾龜,用建冢社。昔在周室,畢公・毛公入爲卿佐,周・邵師保出爲二伯,外内之任,君實宜之,其以丞相領冀州牧如故。又加君九錫,其敬聽朕命。……」
〔六〕『史記』巻三十三 魯周公世家第三:「周公旦者,周武王弟也。自文王在時,旦爲子孝,篤仁,異於羣子。及武王即位,旦常輔翼武王,用事居多。武王九年,東伐至盟津,周公輔行。十一年,伐紂,至牧野,周公佐武王,作牧誓。破殷,入商宮。已殺紂,周公把大鉞,召公把小鉞,以夾武王,釁社,告紂之罪于天,及殷民。釋箕子之囚。封紂子武庚祿父,使管叔・蔡叔傅之,以續殷祀。徧封功臣同姓戚者。封周公旦於少昊之虛曲阜,是爲魯公。周公不就封,留佐武王。……其後武王既崩,成王少,在強葆之中。周公恐天下聞武王崩而畔,周公乃踐阼代成王攝行政當國。管叔及其羣弟流言於國曰「周公將不利於成王。」周公乃告太公望・召公奭曰「我之所以弗辟而攝行政者,恐天下畔周,無以告我先王太王・王季・文王。三王之憂勞天下久矣,於今而后成。武王蚤終,成王少,將以成周,我所以爲之若此。」於是卒相成王,而使其子伯禽代就封於魯。」
〔七〕『晋書』巻七十 八王 成都王穎伝:「安北將軍王浚・寧北將軍東嬴公騰殺穎所置幽州刺史和演,穎徵浚,浚屯冀州不進,與騰及烏丸・羯朱襲穎。候騎至鄴,穎遣幽州刺史王斌及石超・李毅等距浚,爲羯朱等所敗。鄴中大震,百僚奔走,士卒分散。穎懼,將帳下數十騎,擁天子,與中書監盧志單車而走,五日至洛。羯朱追至朝歌,不及而還。河間王顒遣張方率甲卒二萬救穎,至洛,方乃挾帝,擁穎及豫章王并高光・盧志等歸于長安。顒廢穎歸藩,以豫章王爲皇太弟。
〔八〕『晋書』巻四 恵帝本紀 永興元年条:「十二月丁亥,詔曰「天禍晉邦,冢嗣莫繼。成都王穎自在儲貳,政績虧損,四海失望,不可承重,其以王還第。豫章王熾先帝愛子,令問日新,四海注意,今以爲皇太弟,以隆我晉邦。」
『晋書』巻五 懐帝本紀:「孝懷皇帝諱熾,字豐度,武帝第二十五子也。……永興元年,改授鎮北大將軍・都督鄴城守諸軍事。十二月丁亥,立爲皇太弟,帝以清河王覃本太子也,懼不敢當。典書令廬陵脩肅曰「二相經營王室,志寧社稷,儲貳之重,宜歸時望,親賢之舉,非大王而誰。清河幼弱,未允眾心,是以既升東宮,復贊藩國。今乘輿播越,二宮久曠,常恐氐羌飲馬於涇川,螘衆控弦於霸水。宜及吉辰,時登儲副,上翼大駕,早寧東京,下允黔首喁喁之望。」帝曰「卿,吾之宋昌也。」乃從之。」
〔九〕『晋書』巻五 懷帝本紀 永嘉五年:「六月癸未,劉曜・王彌・石勒同寇洛川,王師頻爲賊所敗,死者甚衆。……丁酉,劉曜・王彌入京師。帝開華林園門,出河陰藕池,欲幸長安,爲曜等所追及。曜等遂焚燒宮廟,……百官士庶死者三萬餘人。帝蒙塵于平陽,劉聰以帝爲會稽公。荀藩移檄州鎮,以琅邪王爲盟主。豫章王端東奔苟晞,晞立爲皇太子,自領尚書令,具置官屬,保梁國之蒙縣。百姓饑儉,米斛萬餘價。」
同 永嘉七年:「(正月)丁未,帝遇弒,崩于平陽,時年三十。」
〔一〇〕『春秋公羊伝』巻十六 宣公十五年:「冬,蝝生。未有言蝝生者。此其言蝝生何。(注:蝝即螽也。始生曰蝝,大曰螽)蝝生不書。此何以書。幸之也(注:幸僥幸)幸之者何(注:聞災當懼,反喜非其類,故執不知問)猶曰受之云爾。受之云爾者何。上變古易常(注:上謂宣公,變易公田古常舊制而税畝)[疏:受之云爾者何○解云災是害物,宜避之。今而云受之,於義似乖,故執不知問]應是而有天災(注:應是變古易常而有天災螽民用飢)其諸則宜於此焉變矣(注:言宣公於此,天災饑後,能受過變,寤明年復古,行中冬大有年。其功美,過於無災,故君子深為喜,而僥倖之。變螽言蝝以不為災,書起其事」
不亂則亡は未詳。
【参照】
『宋書』巻三十一 五行志二 金 言之不從:「晉惠帝永興元年,詔廢太子覃還爲清河王,立成都王穎爲皇太弟,猶加侍中,大都督,領丞相,備九錫,封二十郡,如魏王故事。案周禮,傳國以胤不以勳,故雖公旦之聖,不易成王之嗣。所以遠絕覬覦,永壹宗祧。後代遵履,改之則亂。今擬非其實,僭差已甚。且既爲國副,則不應復開封土,兼領庶職。此言之不從,進退乖爽。故帝既播越,穎亦不終,是其咎也。後猶不悟,又立懷帝爲皇太弟。懷終流弒,不永厥祚,又其應也。語曰「變古易常,不亂則亡。」此之謂乎。」

現代語訳

恵帝永興元年(304),詔を下して太子の覃を廃しふたたび清河王とし,成都王の司馬穎を立てて皇太弟とした上で,依然として〔本来なら臣下に与えられる〕侍中・大都督の位を加え,丞相を兼任させ,九錫〔天子が諸侯に下賜した九種類の物〕を整え,二十郡を封じた,ちょうど魏王(曹操)の故事と同じである。周の礼を参照してみると帝位の継承は血統で以って定めるもので功績によるものではない,だから〔周の武王の弟の〕周公旦は事理に通達していたけれども〔まだ幼かった武王の子の〕成王と取り替え〔て周公旦を王とし〕なかった,(これは)分不相応な望みを切り離し,いつまでも皇家の宗廟を一つのままにできる所以である。後世の人々もそれに従っておこない,これを変えてしまうと秩序が失われる。今その故実でないもの(魏の武帝の前例)に倣い,間違いがすでに甚しい。加えて国の世継ぎである以上,再び領地を持ち,諸々の官職を兼任するべきではない。これは「言の不従」であり,進退を誤る,だから恵帝は既に居所を失ってさすらい,成都王の司馬穎もまた皇太弟の位を全うできなかった,これが「その咎は僭」ということである。この後もまだ〔あやまちに〕思い至らず,さらに懐帝を立てて皇太弟とした。懐帝は夷狄に連れ去られ殺されて終わり,その天子の位は永く続かなかった,更なるその応である。ことわざに「古いしきたりを改めて,治めることができなければ国が亡ぶ」と言うのは,このようなことを言うのだろうか。

原文

元帝永昌二年,大將軍王敦下據姑孰。百姓訛言行蟲病,食人大孔,數日入腹,入腹則死。療之有方,當得白犬膽以爲藥。自淮泗遂及京都,數日之間,百姓驚擾,人人皆自云已得蟲病。又云,始在外時,當燒鐵以灼之。於是翕然,被燒灼者十七八矣。而白犬暴貴,至相請奪,其價十倍。或有自云能行燒鐵灼者,賃灼百姓,日得五六萬,憊而後已。四五日漸靜。說曰「夫裸蟲人類,而人爲之主。今云蟲食人,言本同臭類而相殘賊也。自下而上,明其逆也。必入腹者,言害由中不由外也。犬有守衞之性,白者金色,而膽用武之主也。帝王之運,王霸會于戌。戌主用兵,金者晉行,火燒鐵以療疾者,言必去其類而來火與金合德,共除蟲害也。」案中興之際,大將軍本以腹心受伊呂之任,而元帝末年,遂攻京邑,明帝諒闇,又有異謀,是以下逆上,腹心內爛也。及錢鳳・沈充等逆兵四合,而為王師所挫,踰月而不能濟水,北中郎劉遐及淮陵內史蘇峻率淮泗之眾以救朝廷,故其謠言首作於淮泗也。朝廷卒以弱制強,罪人授首,是用白犬膽可救之效也。

訓読

元帝永昌二年〔一〕,大將軍の王敦下りて姑孰に據る〔二〕。百姓訛言するに蟲病行はれ,人を食らひて大孔あり,數日して腹に入る,腹に入れば則ち死す。之を療やすに方有り,當に白犬の膽を得て以て藥と爲すべしと。淮泗より遂に京都に及び,數日の間,百姓驚擾し,人人皆な自ら已に蟲病を得と云ふ。又た云ふ,始め外に在りし時,當に鐵を燒きて以て之を灼くべしと。是に於いて翕然として,燒灼せらるる者十に七八なり。而して白犬暴貴し,相ひ請ひ奪ふに至り,其の價十倍す。或いは自ら能く鐵を燒きて灼を行うと云う者有り,賃はれて百姓を灼き,日に五六萬を得るも,憊れて後に已む。四五日にして漸く靜まる。説に曰はく「夫れ裸蟲は人の類にして,人之が主爲り〔三〕。今蟲 人を食ふと云ふは,言ふこころは本と同じ臭の類にして相ひ殘賊するなり。下より上すは,明らけし其の逆なり。必ず腹に入るといふ者は,言ふこころは害 中よりして外よりせざるなり。犬 守衞の性有り,白は金の色,而して膽 用武の主る。帝王の運,王霸 戌に會す。戌 用兵を主る,金は晉の行,火もて鐵を燒きて以て療疾する者は,言ふこころは必ず其の類を去らんとすれば而ち火を來たして金と德を合し,共に蟲害を除くなり」と。中興の際を案ずるに,大將軍本と腹心たるを以て伊呂〔四〕の任を受く,而るに元帝末年,遂に京邑を攻め,明帝諒闇するに,又た異謀有り,是れ下を以て上に逆く,腹心内に爛るなり。錢鳳・沈充等〔五〕の逆兵四合するも王師の挫く所と爲り,月を踰えて濟水すること能はざるに及び,北中郎劉遐及び淮陵内史蘇峻 淮泗の衆を率ゐて以て朝廷を救ふ〔六〕,故に其の謠言首め淮泗に作るなり。朝廷卒に弱を以て強を制し,罪人授首す,是れ白犬の膽を用いて之を救ふべきの效なり。

〔一〕永昌元年に元帝が崩御し,明帝が即位して翌年三月に太寧元年に改元するので永昌二年は存在しない。『晋書斠注』では以上の点に加え,『宋書』五行志では元年に作ることを指摘するが,中華書局本の『宋書』は二年になっている。
〔二〕『晋書』巻六 元帝本紀 永昌元年条:「(正月)戊辰,大將軍王敦舉兵於武昌,以誅劉隗爲名,龍驤將軍沈充帥衆應之。……四月,敦前鋒攻石頭,周札開城門應之,奮威將軍侯禮死之。敦據石頭,戴若思・劉隗帥眾攻之,王導・周顗・郭逸・虞潭等三道出戰,六軍敗績。」
『晋書』巻六 明帝本紀 太寧元年条:「三月……王敦獻皇帝信璽一紐。敦將謀篡逆,諷朝廷徵己,帝乃手詔徵之。夏四月,敦下屯于湖,轉司空王導爲司徒,自領揚州牧。」
同書巻九十八 王敦伝:「及帝崩,太寧元年,敦諷朝廷徵己,明帝乃手詔徵之,語在明帝紀。又使兼太常應詹拜授加黃鉞,班劍武賁二十人,奏事不名,入朝不趨,劍履上殿。敦移鎮姑孰,帝使侍中阮孚齎牛酒犒勞,敦稱疾不見,使主簿受詔。以王導爲司徒,敦自爲揚州牧。」
〔三〕『礼記』月令:「中央土。其日戊已。其帝黃帝。其神后土。其蟲倮(鄭注:象物露見。不隱藏虎豹之屬。恒淺毛)[疏:注象物至淺毛○正義曰,大戴禮及樂緯云,麟蟲三百六十,龍爲之長。羽蟲三百六十,鳳爲之長。毛蟲三百六十,麟爲之長。介蟲三百六十,龜爲之長。倮蟲三百六十,聖人爲之長。云象物露見不隱藏者,案仲夏云,可以居高明,可以處臺榭,至六月土王之時,物轉盛大露見。不隱藏也,云虎豹之屬。恒淺毛者,諸鄭之所云。皆象四時之物。與鱗羽毛介相似者,言之不取五靈之長。故中央不言人,西云狐貉之屬,東方兼言蛇,北方兼言鼈,是不取五靈也]」
〔四〕『史記』巻三 殷本紀第三:「伊尹名阿衡。阿衡欲奸湯而無由,乃爲有莘氏媵臣,負鼎俎,以滋味説湯,致于王道。或曰,伊尹處士,湯使人聘迎之,五反然後肯往從湯,言素王及九主之事。湯舉任以國政。」
『史記』巻三十二 斉太公世家第二:「太公望呂尚者,東海上人。其先祖嘗爲四嶽,佐禹平水土甚有功。虞夏之際封於呂,或封於申,姓姜氏。夏商之時,申・呂或封枝庶子孫,或爲庶人,尚其後苗裔也。本姓姜氏,從其封姓,故曰呂尚。……周西伯昌之脫羑里歸,與呂尚陰謀修德以傾商政,其事多兵權與奇計,故後世之言兵及周之陰權皆宗太公爲本謀。周西伯政平,及斷虞芮之訟,而詩人稱西伯受命曰文王。伐崇・密須・犬夷,大作豐邑。天下三分,其二歸周者,太公之謀計居多。」
〔五〕『晋書』巻九十八 王敦伝:「敦既得志,暴慢愈甚,四方貢獻多入己府,將相嶽牧悉出其門。徙含爲征東將軍・都督揚州江西諸軍事,從弟舒爲荊州,彬爲江州,邃爲徐州。含字處弘,凶頑剛暴,時所不齒,以敦貴重,故歷顯位。敦以沈充・錢鳳爲謀主,諸葛瑤・鄧嶽・周撫・李恒・謝雍爲爪牙。」
〔六〕『晋書』巻六 明帝本紀 太寧二年条:「秋七月壬申朔,敦遣其兄含及錢鳳・周撫・鄧岳等水陸五萬,至于南岸。溫嶠移屯水北,燒朱雀桁,以挫其鋒。帝躬率六軍,出次南皇堂。至癸酉夜,募壯士,遣將軍段秀・中軍司馬曹渾・左衞參軍陳嵩・鍾寅等甲卒千人渡水,掩其未畢。平旦,戰于越城,大破之,斬其前鋒將何康。王敦憤惋而死。前宗正虞潭起義師于會稽。沈充帥萬餘人來會含等,庚辰,築壘于陵口。丁亥,劉遐・蘇峻等帥精卒萬人以至,帝夜見,勞之,賜將士各有差。」
【参照】
『宋書』巻三十一 五行志二 金 言之不從:「永昌二年,大將軍王敦下據姑孰。百姓訛言行蟲病,食人大孔,數日入腹,入腹則死。治之有方,當得白犬膽以爲藥。自淮・泗遂及京都,數日之間,百姓驚擾,人人皆自云已得蟲病。又云,始在外時,當燒鐵以灼之。於是翕然被燒灼者十七八矣。而白犬暴貴,至相請奪,其價十倍。或有自云能行燒鐵者,賃灼百姓,日得五六萬,憊而後已。四五日漸靜。說曰,夫裸蟲人類,而人爲之主,今云蟲食人,言本同臭類而相殘賊也。自下而上,斯其逆也。必入腹者,言害由中不由外也。犬有守禦之性,白者金色,而膽用武之主也。帝王之運,五霸會於戌,戌主用兵。金者晉行,火燒鐵以治疾者,言必去其類而來,火與金合德,共治蟲害也。案中興之際,大將軍本以腹心受伊・呂之任,而元帝末年,遂攻京邑,明帝諒闇,又有異謀。是以下逆上,腹心內爛也。及錢鳳・沈充等逆兵四合,而爲王師所挫,踰月而不能濟。北中郎將劉遐及淮陵內史蘇峻率淮・泗之眾以救朝廷,故其謠言首作於淮・泗也。朝廷卒以弱制強,罪人授首,是用白犬膽可救之效也。」

現代語訳

元帝永昌二年(323),大将軍の王敦が兵を挙げて姑孰に拠った。民衆が噂して「蟲の病が広まり,人を食らって大きな穴を空け,数日経って腹に入る,腹に入れば死んでしまう。これを治す方法があり,白い犬の胆を手に入れてそれで薬としなければならない」という。淮水と泗口方面からそのままみやこに及び,数日の間,民衆は驚き乱れ,人々は皆な自分からすでに蟲の病を得たと言った。さらに言うには,始め虫が外にある時,鉄を焼いてそうして蟲を灼かなければならないという。ここに至って突然,鉄を焼いて灼かれた者が十人中に七八人はいるようになった。白い犬の値段が暴騰し,頼んだり奪ったりするまでになり,白い犬の価値が十倍になった。或いは自分から鉄を焼いて灼くことが上手にできると言う者があり,雇われて民衆を〔鉄を焼いて〕灼き,一日に五六万〔の銭〕を得たが,つかれてはじめてやめた。〔そんな騒ぎが〕四五日経ってだんだんと靜まってきた。説に「裸蟲(毛や鱗が無い蟲)は人の類いで,人は裸蟲の主である。今蟲が人を食うというのは,元々同じ類いの仲間であるのにお互い傷つけ合うことを言うのである。〔蟲の中の〕下位のものが上位〔の人間〕を凌ぐのは,明らかに叛逆である。必ず腹に入るというのは,害が中からきて外からではないことを言うのである。犬には守衞の性質があり,白は〔五行の〕金の色で,胆は武力を用いることの主である。帝王の運というものにおいては,王霸が戌の方角にあたっている。戌は武器を用いることを司り,金は晋の徳行で,焼けた鉄で以って病を治すというのは,もし蟲を除こうとするのであれば火を招いて金と徳を合わせ,〔そうすることで〕共に蟲害を除くと言っているのである」と言う。中興の際を考えてみると,王敦はもともと腹心であったから殷の伊尹や周の呂尚のような補弼の任を受けた,それにもかかわらず元帝末年,とうとうみやこを攻め,明帝が喪に服すと,さらに叛逆の企みがあった,これは身分が下の者が上の者に逆らうことであり,からだが内から腐っているのである。錢鳳・沈充らの反乱軍が集まり,王師に打ち砕かれ,翌月になっても河を渡ることができなくなると,北中郎の劉遐と淮陵内史の蘇峻が淮水と泗口の兵を率いて朝廷を救った,だからその噂話は最初淮水と泗口で起こったのだ。朝廷はとうとう弱を以て強を制し,罪人は首を差し出すことになった,これは白い犬の胆を用いて蟲の病を救うことができる効力と言えるだろう。

原文

海西公時,庾晞四五年中喜爲挽歌,自搖大鈴爲唱,使左右齊和。又讌會輒令倡妓作新安人歌舞離別之辭,其聲悲切。時人怪之,後亦果敗。

訓読

海西公の時,庾晞〔一〕 四五年中挽歌を爲るを喜び,自ら大鈴を搖すりて唱と爲し,左右をして齊和せしむ。又た讌會すれば輒ち倡妓をして「新安人歌舞離別の辭」を作さしむるに,其の聲 悲切。時人之を怪しみ,後亦た果して敗る。

〔一〕中華書局標点本の校注では,『世説新語』黜免の注が「司馬晞」の伝を引いており,その中に同様の逸話が記されていることを指摘している。しかし現行の司馬晞伝に同じ話は出てこない。
『晋書』巻六十四 元四王 司馬晞伝:「武陵威王晞字道叔,出繼武陵王喆後,太興元年受封。咸和初,拜散騎常侍。後以湘東增武陵國,除左將軍,遷鎮軍將軍,加散騎常侍。康帝即位,加侍中・特進。建元初,領祕書監。穆帝即位,轉鎮軍大將軍,遷太宰。太和初,加羽葆鼓吹,入朝不趨,贊拜不名,劍履上殿。固讓。晞無學術而有武幹,爲桓溫所忌。及簡文帝即位,溫乃表晞曰「晞體自皇極,故寵靈光世,不能率由王度,修己慎行,而聚納輕剽,苞藏亡命。又息綜矜忍,虐加于人。袁真叛逆,事相連染。頃自猜懼,將成亂階。請免晞官,以王歸藩,免其世子綜官,解子㻱散騎常侍。」㻱以梁王隨晞,晞既見黜,送馬八十五匹・三百人杖以歸溫。溫又逼新蔡王晃使自誣與晞・綜及著作郎殷涓・太宰長史庾倩・掾曹秀・舍人劉彊等謀逆,遂收付廷尉,請誅之。簡文帝不許,溫於是奏徙新安郡,家屬悉從之,而族誅殷涓等,廢晃徙衡陽郡。太元六年,晞卒于新安,時年六十六。孝武帝三日臨于西堂,詔曰「感惟摧慟,便奉迎靈柩,并改移妃應氏及故世子梁王諸喪,家屬悉還。」復下詔曰「故前武陵王體自皇極,克己思愆。仰惟先朝仁宥之旨,豈可情禮靡寄。其追封新寧郡王,邑千戸。」」
『世説新語』黜免 桓宣武既廢太宰父子条注:「司馬晞傳曰「晞字道升,元帝第四子。初封武陵王,拜太宰。少不好學,尚武凶恣。時太宗輔政,晞以宗長不得執權,常懷憤慨,欲因桓溫入朝殺之。太宗即位,新蔡王晃首辭,引與晞及子綜謀逆。有司奏晞等斬刑,詔原之,徙新安。晞未敗,四五年中,喜為挽歌,自搖大鈴,使左右習和之。又燕會,使人作新安人歌舞離別之辭,其聲甚悲,後果徙新安。」
【参照】
『宋書』巻三十一 五行志二 金 言之不從:「晉海西時,庾晞四五年中,喜爲挽歌,自搖大鈴爲唱,使左右齊和。又燕會,輒令倡妓作新安人歌儛離別之辭,其聲悲切。時人怪之,後亦果敗。」

現代語訳

海西公の時(365~371),庾晞は四五年の間挽歌(葬儀で死者を弔うために歌う歌)を作ることを愛好し,自ら大きな鈴をゆすって音頭を取り,左右の人間にそろって歌わせた。さらに宴会のときはいつも楽人に「新安人歌舞離別の辞」を歌わせたが,その声は悲痛だった。当時の人はこれを訝ったが,その後案の定〔庾晞は〕敗れた。

原文

太元中,小兒以兩鐵相打於土中,名曰鬭族。後王國寶・王孝伯一姓之中自相攻擊。

訓読

太元中,小兒 兩鐵を以て土中に相ひ打つ,名づけて鬭族と曰ふ。後王國寶・王孝伯 一姓の中自ら相ひ攻擊す〔一〕。

〔一〕『晋書』巻八十四 王恭伝:「王恭字孝伯,光祿大夫蘊子,定皇后之兄也。……及帝崩,會稽王道子執政,寵昵王國寶,委以機權。恭每正色直言,道子深憚而忿之。及赴山陵,罷朝,歎曰「榱棟雖新,便有黍離之歎矣。」時國寶從弟緒說國寶,因恭入覲相王,伏兵殺之,國寶不許。而道子亦欲輯和內外,深布腹心於恭,冀除舊惡。恭多不順,每言及時政,輒厲聲色。道子知恭不可和協,王緒之說遂行,於是國難始結。或勸恭因入朝以兵誅國寶,而庾楷黨於國寶,士馬甚盛,恭憚之,不敢發,遂還鎮。」
『晋書』巻六十五 王導伝附子洽 附子珣伝:「時帝雅好典籍,珣與殷仲堪・徐邈・王恭・郗恢等並以才學文章見昵於帝。及王國寶自媚於會稽王道子,而與珣等不協,帝慮晏駕後怨隙必生,故出恭・恢爲方伯,而委珣端右。……隆安初,國寶用事,謀黜舊臣,遷珣尚書令。王恭赴山陵,欲殺國寶,珣止之曰「國寶雖終為禍亂,要罪逆未彰,今便先事而發,必大失朝野之望。況擁強兵,竊發於京輦,誰謂非逆。國寶若遂不改,惡布天下,然後順時望除之,亦無憂不濟也。」恭迺止。既而謂珣曰「比來視君,一似胡廣。」珣曰「王陵廷爭,陳平慎默,但問歲終何如耳。」恭尋起兵,國寶將殺珣等,僅而得免,語在國寶傳」
『晋書』巻七十五 王湛附坦之子國寶伝:「時王恭與殷仲堪並以才器,各居名藩。恭惡道子・國寶亂政,屢有憂國之言。道子等亦深忌憚之,將謀去其兵。未及行,而恭檄至,以討國寶爲名,國寶惶遽不知所爲。緒說國寶,令矯道子命,召王珣・車胤殺之,以除羣望,因挾主相以討諸侯。國寶許之。珣・胤既至,而不敢害,反問計於珣。珣勸國寶放兵權以迎恭,國寶信之。語在珣傳。又問計於胤,胤曰「南北同舉,而荊州未至,若朝廷遣軍,恭必城守。昔桓公圍壽陽,彌時乃克。若京城未拔,而上流奄至,君將何以待之」國寶尤懼,遂上疏解職,詣闕待罪。既而悔之,詐稱詔復其本官,欲收其兵距王恭。」
【参照】
『宋書』巻三十一 五行志二 金 言之不從:「太元中,小兒以兩鐵相打於土中,名曰「鬭族」。後王國寶・王孝伯一姓之中,自相攻擊也。」

現代語訳

太元年間(376~396),子供が土を掘って二つの鉄をその中で打ちつけあっていたのを,名づけて「闘族」(族と闘う)といった。後に王国宝と王孝伯(王恭)は同じ王姓の中で,自ら互いを攻撃した。

原文

桓玄初改年爲大亨,遐邇讙言曰「二月了」,故義謀以仲春發也。玄篡立,又改年爲建始,以與趙王倫同,又易爲永始,永始復是王莽受封之年也。始徙司馬道子于安成。安帝遜位,出永安宮,封爲平固王,琅邪王德文爲石陽公,並使往尋陽城。識者皆以爲言不從之妖僭也。

訓読

桓玄初めて年を改め大亨と爲すに〔一〕,遐邇讙言して曰はく「二月了〔二〕」と,故に義謀〔三〕し仲春を以て發すなり。玄篡立し,又た年を改め建始と爲すに,趙王倫と同じかる〔四〕を以て,又た易へて永始と爲す,永始復た是れ王莽受封の年なり〔五〕。始めて司馬道子を安成に徙す〔六〕。安帝 位を遜れば,永安宮より出だし,封じて平固王と爲し,琅邪王 德文を石陽公と爲す,並びに尋陽城に往かしむ〔七〕。識者皆な以爲らく言不從の妖,僭なりと。

〔一〕『晋書』巻九十九 桓玄伝:「玄至新亭,元顯自潰。玄入京師,矯詔曰「義旗雲集,罪在元顯。太傅已別有教,其解嚴息甲,以副義心。」又矯詔加己總百揆,侍中・都督中外諸軍事・丞相・錄尚書事・揚州牧,領徐州刺史,又加假黃鉞・羽葆鼓吹・班劍二十人,置左右長史・司馬・從事中郎四人,甲仗二百人上殿。玄表列太傅道子及元顯之惡,徙道子於安成郡,害元顯於市〔六〕。……大赦,改元爲大亨。玄讓丞相,自署太尉・領平西將軍・豫州刺史。又加袞冕之服,綠綟綬,增班劍為六十人,劍履上殿,入朝不趨,讚奏不名。」
『晋書』巻十 安帝本紀 元興元年条:「三月己巳,劉牢之叛降于桓玄。辛未,王師敗績于新亭,驃騎大將軍・會稽王世子元顯,東海王彥璋,冠軍將軍毛泰,游擊將軍毛邃並遇害。壬申,桓玄自爲侍中・丞相・錄尚書事,以桓謙爲尚書僕射,遷太傅・會稽王道子于安城〔六〕。玄俄又自稱太尉・揚州牧,總百揆,以琅邪王德文爲太宰。」
〔二〕『南史』巻五十三 武陵王紀伝:「二年四月乙丑,紀乃僭號於蜀,改年曰天正,暗與蕭棟同名。識者尤之,以爲於文「天」爲二人,「正」爲一止,言各一年而止也。……永豐侯撝歎曰「王不克矣。夫善人國之基也,今乃誅之,不亡何待。」又謂所親曰「昔桓玄年號大亨,識者爲謂『二月了』,而玄之敗實在仲春。今年曰天正,在文爲『一止』,其能久乎」」
〔三〕『宋書』巻一 武帝本紀:「(元興)三年二月(中略)移檄京邑,曰夫治亂相因,理不常泰,狡焉肆虐,或值聖明。自我大晉,陽九屢構,隆安以來,難結皇室,忠臣碎於虎口,貞良弊於豺狼。逆臣桓玄,陵虐人鬼,阻兵荊郢,肆暴都邑。天未亡難,凶力繁興,踰年之間,遂傾皇祚。主上播越,流幸非所,神器沉淪,七廟毀墜。……今日之舉,良其會也。裕以虛薄,才非古人,勢接於已踐之機,受任於既頹之運。丹誠未宣,感慨憤躍,望霄漢以永懷,眄山川以增厲。授檄之日,神馳賊廷。」
〔四〕『晋書』巻五十九 八王 趙王倫伝:「倫從兵五千人,入自端門,登太極殿,滿奮・崔隨・樂廣進璽綬於倫,乃僭即帝位,大赦,改元建始。」
〔五〕同上 巻九十九 桓玄伝:「改元永始,賜天下爵二級,孝悌力田人三級,鰥寡孤獨不能自存者穀人五斛。其賞賜之制,徒設空文,無其實也。初出僞詔,改年爲建始,右丞王悠之曰「建始,趙王倫僞號也。」又改爲永始,復是王莽始執權之歲,其兆號不祥,冥符僭逆如此。」
『漢書』巻十 成帝 永始元年条:「五月,封舅曼子侍中騎都尉光祿大夫王莽爲新都侯。」
〔六〕注釈〔一〕に引いた桓玄伝の下線〔六〕参照。
〔七〕『晋書』巻九十九 桓玄伝:「又下書曰「夫三恪作賓,有自來矣。爰暨漢魏,咸建疆宇。晉氏欽若曆數,禪位于朕躬,宜則是古訓,授茲茅土。以南康之平固縣奉晉帝爲平固王,車旗正朔一如舊典。」遷帝居尋陽,即陳留王處鄴宮故事。降永安皇后爲零陵君,琅邪王爲石陽縣公,武陵王遵爲彭澤縣侯。」
『晋書』巻十 安帝本紀 元興二年条:「冬十一月壬午,玄遷帝于永安宮。癸未,移太廟神主于琅邪國。十二月壬辰,玄篡位,以帝爲平固王。辛亥,帝蒙塵于尋陽。」
【参照】
『宋書』巻三十一 五行志二 金 言之不從:「桓玄初改年爲大亨,遐邇讙言曰「二月了。」故義謀以仲春發也。玄篡立,又改年爲建始,以與趙王倫同,又易爲永始。永始,復是王莽受封之年也。始徙司馬道子于安成,晉主遜位,出永安宮,封晉主爲平固王,琅邪王德文爲石陽公,並使住尋陽城。識者皆以爲言不從之妖也。厥咎僭。」

現代語訳

桓玄が初めて改元して大亨としたが,近きも遠きも(あらゆる人が)口ぐちに「〔年号の「亨」の字を分解すると〕「二月了」(二月で終わる)という風に解釈できます」と言った,だから正義のはかりごと〔劉裕による桓玄討伐〕は仲春(二月)に起こった。桓玄が皇帝の位を簒奪して立ち,さらに改元して建始としたが,趙王倫がかつて改元した元号と同じだったので,さらに変えて永始とした,〔しかし〕永始も王莽が諸侯に封ぜられた年の元号であった。このときはじめて司馬道子を安成に移した。安帝が位を譲ったので,永安宮から追放し,所領を封じて平固王とし,琅邪王の司馬徳文を石陽公とし,二人共に尋陽城にいかせた。識者は皆な「言不従」の怪異であり僭(ちぐはぐなこと)であると考えた。

原文

武帝初,何曾薄太官御膳,自取私食,子劭又過之,而王愷又過劭。王愷・羊琇之儔,盛致聲色,窮珍極麗。至元康中,夸恣成俗,轉相高尚,石崇之侈,遂兼王・何,而儷人主矣。崇既誅死,天下尋亦淪喪。僭踰之咎也。

訓読

武帝の初め,何曾 太官〔一〕の御膳を薄くし,自ら取りて私かに食す〔二〕,子の劭又た之を過ぎ〔三〕,而して王愷又た劭を過ぐ。王愷・羊琇の儔,盛んに聲色を致し,珍を窮め麗を極む〔四〕。元康中に至り,夸恣 俗と成り,轉た相ひ高尚す,石崇の侈,遂に王・何を兼ね〔五〕,而して人主に儷ぶ。崇既に誅死し〔六〕,天下尋ひで亦た淪喪す。僭踰の咎なり。

〔一〕『漢書』巻十九上 百官公卿表第七上:「少府,秦官,掌山海池澤之税,以給共養,有六丞。屬官有尚書・符節・太醫・太官・湯官・導官……(師古曰「太官主膳食,湯官主餅餌,導官主擇米。」)」
〔二〕『晋書』巻三十三 何曾伝:「然性奢豪,務在華侈。帷帳車服,窮極綺麗,廚膳滋味,過於王者。每燕見,不食太官所設,帝輒命取其食。蒸餅上不坼作十字不食。食日萬錢,猶曰無下箸處。人以小紙爲書者,敕記室勿報。劉毅等數劾奏曾侈忲無度,帝以其重臣,一無所問。」
〔三〕同上巻三十三 何曾附子劭伝:「劭博學,善屬文,陳説近代事,若指諸掌。永康初,遷司徒。趙王倫篡位,以劭爲太宰。及三王交爭,劭以軒冕而游其間,無怨之者。而驕奢簡貴,亦有父風。衣裘服翫,新故巨積。食必盡四方珍異,一日之供以錢二萬爲限。時論以爲太官御膳,無以加之。然優游自足,不貪權勢。」
〔四〕『晋書』巻九十三 外戚 王洵附弟愷伝:「愷字君夫。少有才力,歷位清顯,雖無細行,有在公之稱。以討楊駿勳,封山都縣公,邑千八百戸。遷龍驤將軍,領驍騎將軍,加散騎常侍,尋坐事免官。起爲射聲校尉,久之,轉後將軍。愷既世族國戚,性復豪侈,用赤石脂泥壁。石崇與愷將爲鴆毒之事,司隸校尉傅祗劾之,有司皆論正重罪,詔特原之。由是衆人僉畏愷,故敢肆其意,所欲之事無所顧憚焉。及卒,諡曰醜。」
『晋書』巻九十八 王敦伝:「時王愷・石崇以豪侈相尚,愷嘗置酒,敦與導俱在坐,有女伎吹笛小失聲韵,愷便敺殺之,一坐改容,敦神色自若。他日,又造愷,愷使美人行酒,以客飲不盡,輒殺之。酒至敦・導所,敦故不肯持,美人悲懼失色,而敦慠然不視。導素不能飲,恐行酒者得罪,遂勉強盡觴。導還,歎曰「處仲若當世,心懷剛忍,非令終也。」洗馬潘滔見敦而目之曰「處仲蜂目已露,但豺聲未振,若不噬人,亦當為人所噬。」及太子遷許昌,詔東宮官屬不得送。」
『晋書』巻九十三 外戚 羊琇伝:「琇性豪侈,費用無復齊限,而屑炭和作獸形以溫酒,洛下豪貴咸競效之。又喜遊讌,以夜續晝,中外五親無男女之別,時人譏之。然黨慕勝己,其所推奉,便盡心無二。窮窘之徒,特能振恤。選用多以得意者居先,不盡銓次之理。將士有冒官位者,為其致節,不惜軀命。然放恣犯法,毎爲有司所貸。其後司隸校尉劉毅劾之,應至重刑,武帝以舊恩,直免官而已。尋以侯白衣領護軍。頃之,復職。」
〔五〕『晋書』巻三十三 石苞附子崇伝:「財産豐積,室宇宏麗。後房百數,皆曳紈繡,珥金翠。絲竹盡當時之選,庖膳窮水陸之珍。與貴戚王愷・羊琇之徒以奢靡相尚。愷以𥹋澳釜,崇以蠟代薪。愷作紫絲布步障四十里,崇作錦步障五十里以敵之。崇塗屋以椒,愷用赤石脂。崇・愷爭豪如此。武帝毎助愷,嘗以珊瑚樹賜之,高二尺許,枝柯扶疏,世所罕比。愷以示崇,崇便以鐵如意擊之,應手而碎。愷既惋惜,又以爲嫉己之寶,聲色方厲。崇曰「不足多恨,今還卿。」乃命左右悉取珊瑚樹,有高三四尺者六七株,條榦絕俗,光彩曜日,如愷比者甚衆。愷怳然自失矣。
〔六〕『晋書』巻三十三 石苞附子崇伝:「及賈謐誅,崇以黨與免官。時趙王倫專權,崇甥歐陽建與倫有隙。崇有妓曰綠珠,美而豔,善吹笛。孫秀使人求之。崇時在金谷別館,方登涼臺,臨清流,婦人侍側。使者以告。崇盡出其婢妾數十人以示之,皆蘊蘭麝,被羅縠,曰「在所擇。」使者曰「君侯服御麗則麗矣,然本受命指索綠珠,不識孰是」崇勃然曰「綠珠吾所愛,不可得也。」使者曰「君侯博古通今,察遠照邇,願加三思。」崇曰「不然。」使者出而又反,崇竟不許。秀怒,乃勸倫誅崇・建。崇・建亦潛知其計,乃與黃門郎潘岳陰勸淮南王允・齊王冏以圖倫・秀。秀覺之,遂矯詔收崇及潘岳・歐陽建等。崇正宴於樓上,介士到門。崇謂綠珠曰「我今爲爾得罪。」綠珠泣曰「當效死於官前。」因自投于樓下而死。崇曰「吾不過流徙交・廣耳。」及車載詣東市・崇乃歎曰「奴輩利吾家財。」收者答曰「知財致害・何不早散之」崇不能答。崇母兄妻子無少長皆被害,死者十五人。崇時年五十二。」
【参照】
『宋書』巻三十一 五行志二 金 言之不從:「晉興,何曾薄太官御膳,自取私食,子劭又過之,而王愷又過劭。王愷・羊琇之疇,盛致聲色,窮珍極麗。至元康中,夸恣成俗,轉相高尚,石崇之侈,遂兼王・何而儷人主矣。崇既誅死,天下尋亦淪喪。僭踰之咎也。」

現代語訳

武帝の初め,何曽は太官(宮中の食事を司る部署)の御膳を少なくし,自ら取って密かにこれを食べた,その子どもの何劭はさらにこれの度を超えて,王愷はさらに何劭を超えた。王愷・羊琇のたぐいは,盛んに音楽と女色に耽り,珍しい宝物や美しい物を追求した。元康中になると,贅をこらすことが風俗となり,ますます互いに〔贅沢の程度を〕高め合い,石崇の奢侈は,とうとう王愷・何曾を兼ねるまでになり,皇帝に並ぶほどとなった。石崇は既に誅死し,天下もまもなく滅びた。僭踰(身の程をわきまえない)の咎である。

恒陽

原文

恒陽
庶徴恒陽,劉向以爲春秋大旱也。其夏旱,雩,禮謂之大雩。不傷二穀謂之不雨。京房易傳曰「欲德不用茲謂張,厥災荒,旱也。其旱陰雲不雨,變而赤,因四際。師出過時茲謂廣,其旱不生。上下皆蔽茲謂隔,其旱天赤三月,時有雹殺飛禽。上緣求妃茲謂僭,其旱三月大溫亡雲。君高臺府茲謂犯陰侵陽,其旱萬物根死,數有火災。庶位踰節茲爲僭,其旱澤物枯,爲火所傷。」

訓読

恒陽
庶徴の「恒陽」,劉向以て春秋の大旱〔一〕と爲すなり。其の夏旱なれば,雩(あまごい)す,禮には之を大雩〔二〕と謂ふ。二穀〔三〕を傷はず之を不雨と謂ふ。京房易傳に曰はく「德を欲して茲れを用ひざるを張と謂ひ,厥の災は荒,旱なり。其の旱 陰雲雨ふらず,變じて赤たり,四際に因る。師出だすに過時す茲れ廣と謂ひ,其の旱生まず。上下皆な蔽ふ茲れ隔と謂ひ,其の旱 天赤たること三月,時に雹の飛禽を殺すこと有り。上 緣りて〔四〕妃を求むを茲れ僭と謂ひ,其の旱三月 大ひに溫かくして雲亡し。君 臺府を高くす茲れ犯と謂ひ,陰 陽を侵す,其の旱 萬物根死し,數しば火災有り。庶位 節を踰す茲れ僭と爲し,其の旱 澤物枯れ,火の傷ふ所と爲る」と。

〔一〕『春秋左氏伝』巻十四 僖公二十一年:「夏大旱(杜注:雩不獲雨,故書旱。自夏及秋,五稼皆不收。)[疏:注雩不至不收。正義曰春秋之例,旱則脩雩。雩必爲旱,而經或書雩,或書旱者,雩而得雨,喜雩有益。書雩不書旱,雩不得雨,則書旱明災成。此時雩不獲雨,故書旱也。周之夏即今之二月・三月・四月也。於時方欲下種,此月不雨,未能成災而書夏大旱者,此後雖得少雨而終,是不堪生殖。從夏及秋,五稼悉皆不收。不收之後擇最旱之月而書之。故書夏大旱也。劉炫云大旱而不書饑者,傳云是歲也。饑而不害,故不書饑]」
〔二〕『礼記』巻五 曲礼下第二:「天子祭天地,祭四方,祭山川,祭五祀,歲徧。諸侯方祀,祭山川,祭五祀,歲徧。大夫祭五祀,歲徧士,祭其先。[疏:天子祭天地者,祭天謂四時迎氣,祭五天帝於四郊,各以當方人帝配之。月令春曰其帝太暭,夏曰其帝炎帝,季夏曰其帝黃帝,秋曰其帝少暭,冬曰其帝顓頊,明爲配天及告朔而言之。其雩祭亦然故月令。孟夏云大雩,帝爲命祀百辟,卿士既云祀百辟,卿士明五方人帝天子亦雩祀之。其夏正郊感生之帝,周以后稷配之,其於明堂揔享五帝,以文王・武王配之故]」
〔三〕『春秋穀梁伝』襄公二十四年:「大饑。五穀不升,爲大饑。一穀不升,謂之嗛。二穀不升,謂之饑。三穀不升,謂之饉。四穀不升,謂之康。五穀不升,謂之大侵。」
〔四〕『漢書』巻二十七中之上 五行志第七中之上 恒陽」「上緣求妃茲謂僭。(師古曰「緣,歷也。言歷衆處而求妃妾也。」)」
【参照】
『漢書』巻二十七中之上 五行志第七中之上 恒陽:「庶徵之恆陽,劉向以爲春秋大旱也。其夏旱雩祀,謂之大雩。不傷二穀,謂之不雨。京房易傳曰「欲德不用茲謂張,厥災荒。荒,旱也,其旱陰雲不雨,變而赤,因而除。師出過時茲謂廣,其旱不生。上下皆蔽茲謂隔,其旱天赤三月,時有雹殺飛禽。上緣求妃茲謂僭,其旱三月大溫亡雲。居高臺府,茲謂犯陰侵陽,其旱萬物根死,數有火災。庶位踰節茲謂僭,其旱澤物枯,爲火所傷。」」
『宋書』巻三十一 五行二 金 恒陽:「魏明帝太和二年五月,大旱。元年以來,崇廣宮府之應也。又是春,晉宣帝南禽孟達,置二郡。張郃西破諸葛亮,斃馬謖。亢陽自大,又其應也。京房易傳曰「欲德不用,茲謂張。厥災荒。其旱陰雲不雨,變而赤煙四際。衆出過時,茲謂廣。其旱不生。上下皆蔽,茲謂隔。其旱天赤三月,時有雹殺飛禽。上緣求妃,茲謂僭。其旱三月大溫亡雲。君高臺府,茲謂犯。陰侵陽。其旱萬物根死,數有火災。庶位踰節,茲謂僭。其旱澤物枯,爲火所傷。」」

現代語訳

恒陽(日照り続き)
庶徴の「恒陽」とは,劉向は『春秋』に記される大旱であるとしている。その夏が日照りであったら,雨乞いする,礼ではこれを大雩と言う。二穀(五穀の内の二種類まで)をそこなわないものを「不雨」と言う。京房の『易傳』は「有徳の人を欲しているがその人を用いないことを「張」といい,その災いは荒,つまり日照りである。その日照りというものは雲が雨を降らさず,赤色に変わるが,〔これは〕四方の果てから発生する。軍を出して適切な期間を超えるものを「広」と言い,その〔ことによって起こる〕日照りは〔生き物が〕生まれない。身分の高いものと低いものが皆な道理に暗くなるのを「隔」と言い,その〔ことによって起こる〕日照りは空が三ヶ月赤くなり,時に雹が降って鳥を殺すことがある。身分が高いものがあちこちから妃を求めることを「僭」と言い,その〔ことによって起こる〕日照りは三月間高温で雲が消えて無くなる。君主が建物を高くするのを「犯」と言い,陰の気が陽の気を侵す,その〔ことによって起こる〕日照りは万物が死に絶え,頻繁に火災が起きる。もろもろの官が節度を越すのを「僭」とし,その〔ことによって起こる〕日照りは沢物(湿地帯に生えている植物)が枯れ,火によって損なわれる」と言う。

原文

魏明帝太和二年五月,大旱。元年以來崇廣宮府之應也。又,是春宣帝南擒孟達,置二郡,張郃西破諸葛亮,斃馬謖。亢陽自大,又其應也。

訓読

魏の明帝太和二年五月,大いに旱す。元年以來 宮府を崇廣するの應なり〔一〕。又た,是の春宣帝南して孟達を擒とし,二郡を置き〔二〕,張郃西して諸葛亮を破り,馬謖を斃す〔三〕。亢陽〔四〕自から大なるは,又た其の應なり。

〔一〕『三国志』巻三 魏書三 明帝本紀 太和元年:「(二月)辛巳,立文昭皇后寢廟於鄴。……(四月)甲申,初營宗廟。」
〔二〕『三国志』巻三 魏書三 明帝本紀 太和元年:「十二月,封后父毛嘉為列侯。新城太守孟達反,詔驃騎將軍司馬宣王討之。二年春正月,宣王攻破新城,斬達,傳其首。分新城之上庸・武陵・巫縣為上庸郡,錫縣為錫郡。蜀大將諸葛亮寇邊,天水・南安・安定三郡吏民叛應亮。遣大將軍曹真都督關右,並進兵。右將軍張郃擊亮於街亭,大破之。亮敗走,三郡平。」
〔三〕巻三十九 馬良附弟謖伝:「建興六年(228),亮出軍向祁山,時有宿將魏延・吳壹等,論者皆言以為宜令為先鋒,而亮違眾拔謖,統大眾在前,與魏將張郃戰于街亭,為郃所破,士卒離散。亮進無所據,退軍還漢中。謖下獄物故,亮為之流涕。」
〔四〕『易』乾:「上九,亢龍有悔。[疏]正義曰上九,亢陽之至,大而極盛。故曰亢龍」
【参照】
『宋書』巻三十一 五行二 金 恒陽:「魏明帝太和二年五月,大旱。元年以來,崇廣宮府之應也。又是春,晉宣帝南禽孟達,置二郡。張郃西破諸葛亮,斃馬謖。亢陽自大,又其應也。京房易傳曰「欲德不用,茲謂張。厥災荒。其旱陰雲不雨,變而赤煙四際。衆出過時,茲謂廣。其旱不生。上下皆蔽,茲謂隔。其旱天赤三月,時有雹殺飛禽。上緣求妃,茲謂僭。其旱三月大溫亡雲。君高臺府,茲謂犯。陰侵陽。其旱萬物根死,數有火災。庶位踰節,茲謂僭。其旱澤物枯,爲火所傷。」」

現代語訳

魏の明帝太和二年(228)五月,大変な日照りになった。太和元年以來宮廷や官署を高く広くした応である。そのうえ,この春宣帝(司馬懿)は南下して孟達を捕らえ,二郡を置き,張郃は西に諸葛亮を破り,馬謖を殺した。亢陽(極盛な陽の気)が自然と大きくなるのは,さらにその応である。

原文

太和五年三月,自去冬十月至此月不雨。辛巳,大雩。

訓読

太和五年三月,去冬十月より此の月に至るまで雨ふらず。辛巳,大雩す〔一〕。

〔一〕『三国志』魏書 巻三 明帝本紀 太和五年条:「五年春正月,帝耕于籍田。三月,大司馬曹真薨。諸葛亮寇天水,詔大將軍司馬宣王拒之。自去冬十月至此月不雨,辛巳,大雩」
【参照】
『宋書』巻三十一 五行二 金 恒陽:「太和五年三月,自去冬十月至此月不雨,辛巳,大雩。是春,諸葛亮寇天水,晉宣王距卻之,亢陽動眾。又是時三隅分據,眾出多過時也。春秋說曰「傷二穀,謂之不雨。」」

現代語訳

太和五(231)年三月,去年の冬の十月からこの月に至るまで雨がふらなかった。辛巳,大雩〔雨乞いの祭〕を行った。

原文

齊王正始元年二月,自去冬十二月至此月不雨。去歲正月,明帝崩。二月,曹爽白嗣主,轉宣帝爲太傅,外示尊崇,内實欲令事先由己。是時宣帝功蓋魏朝,欲德不用之應也。

訓読

齊王正始元年二月,去冬十二月より此の月に至るまで雨ふらず〔一〕。去歲正月,明帝崩ず〔二〕。二月,曹爽 嗣主に白し,宣帝を轉じて太傅と爲し,尊崇を外示するも,内實 事をして先んじて己に由らしめんと欲す〔三〕。是の時宣帝の功 魏朝を蓋ふ,德を欲すも之を用ゐざるの應なり。

〔一〕『三国志』巻四 少帝本紀 正始元年条:「自去冬十二月至此月不雨。」
〔二〕『三国志』巻三 明帝本紀 景初三年条:「三年春正月丁亥,太尉宣王還至河内,帝驛馬召到,引入臥内,執其手謂曰「吾疾甚,以後事屬君,君其與爽輔少子。吾得見君,無所恨」宣王頓首流涕。即日,帝崩于嘉福殿,時年三十六。」
〔三〕『三国志』巻四 少帝本紀:「即皇帝位,大赦。尊皇后曰皇太后。大將軍曹爽・太尉司馬宣王輔政。……丁丑詔曰「太尉體道正直,盡忠三世,南擒孟達,西破蜀虜,東滅公孫淵,功蓋海内。昔周成建保傅之官,近漢顯宗崇寵鄧禹,所以優隆雋乂,必有尊也。其以太尉爲太傅,持節統兵都督諸軍事如故。」」
『三国志』巻九 魏書九 曹真附子爽伝:「爽字昭伯,少以宗室謹重,明帝在東宮,甚親愛之。及即位,爲散騎侍郎,累遷城門校尉,加散騎常侍,轉武衞將軍,寵待有殊。帝寢疾,乃引爽入臥内,拜大將軍,假節鉞,都督中外諸軍事,錄尚書事,與太尉司馬宣王並受遺詔輔少主。明帝崩,齊王即位,加爽侍中,改封武安侯,邑萬二千戸,賜劍履上殿,入朝不趨,贊拜不名。丁謐畫策,使爽白天子,發詔轉宣王爲太傅,外以名號尊之,内欲令尚書奏事,先來由己,得制其輕重也。」
【参照】
『宋書』巻三十一 五行二 金 恒陽:「魏齊王正始元年二月,自去冬十二月至此月不雨。去歲正月,明帝崩。二月,曹爽白嗣主,轉晉宣王爲太傅,外示尊崇,內實欲令事先由己。是時宣王功蓋魏朝,欲德不用之應也。」

現代語訳

斉王正始元年(240)二月,去年の冬の十二月からこの月に至るまで雨がふらなかった。去年の正月に,明帝が崩御した。二月,曹爽は少帝に申し上げ,宣帝(司馬懿)を移して太傅とし,その尊崇ぶりを外に示したが,内実では政事をするのに自分が先に決められるようにさせようとした。この時宣帝の功績は魏朝を覆うほどであり,徳のある人物を欲っしているのにそのような人物を用いなかった応である。

原文

高貴郷公甘露三年正月,自去秋至此月旱。是時文帝圍諸葛誕,衆出過時之應也。初,壽春秋夏常雨淹城,而此旱踰年,城陷,乃大雨。咸以誕爲天亡。

訓読

高貴郷公甘露三年正月,去秋より此の月に至るまで旱たり。是の時文帝 諸葛誕を圍む〔一〕,衆出づるに過時するの應なり。初め,壽春 秋夏常に雨ふりて城を淹す,而れども此の旱 年を踰え,城陷ち,乃ち大いに雨ふる。咸な誕を以て天亡と爲すなり。

〔一〕『三国志』巻四 魏書四 高貴郷公髦本紀 甘露二年:「(五月)乙亥,諸葛誕不就徵,發兵反,殺揚州刺史樂綝。……丁丑,詔曰「諸葛誕造為凶亂,盪覆揚州。昔黥布逆叛,漢祖親戎,隗囂違戾,光武西伐,及烈祖明皇帝躬征吳・蜀,皆所以奮揚赫斯,震耀威武也。今宜皇太后與朕暫共臨戎,速定醜虜,時寧東夏。」己卯,詔曰「諸葛誕造構逆亂,迫脅忠義,平寇將軍臨渭亭侯龐會・騎督偏將軍路蕃,各將左右,斬門突出,忠壯勇烈,所宜嘉異。其進會爵鄉侯,蕃封亭侯。」」
同上甘露三年:「三年春二月,大將軍司馬文王陷壽春城,斬諸葛誕。」
【参照】
『宋書』巻三十一 五行二 金 恒陽:「魏高貴鄉公甘露三年正月,自去秋至此月旱。時晉文王圍諸葛誕,衆出過時之應也。初,壽春秋夏常雨潦,常淹城,而此旱踰年,城陷乃大雨。咸以爲天亡。」

現代語訳

高貴郷公の甘露三年(258)正月,去年の秋からこの月に至るまで日照りが続いた。この時文帝は諸葛誕を包囲しており,軍隊を出すのに適切な期間を超えた応である。初め,寿春では秋と夏に常に雨がふって城をうるおした,しかしこの日照りは年をまたぎ,城が陥落して,やっとたくさん雨がふった。みな諸葛誕のことを天が滅ぼしたのだとした。

原文

呉孫亮五鳳二年,大旱,百姓饑。是歲征役煩興,軍士怨叛。此亢陽自大,勞役失衆之罰也。其役彌歳,故旱亦竟年。

訓読

呉の孫亮の五鳳二年,大いに旱し,百姓饑す。是の歲 征役煩興し,軍士怨叛す。此れ亢陽自ら大にして,勞役失衆の罰なり。其の役 歳を彌くす,故に旱も亦た年を竟ふ。

〔一〕『三国志』巻四十八 呉書三 孫亮伝 五鳳二年条:「二年春正月,魏鎮東大將軍毌丘儉・前將軍文欽以淮南之眾西入,戰于樂嘉。閏月壬辰,峻及驃騎將軍呂據・左將軍留贊率兵襲壽春,軍及東興,聞欽等敗。壬寅,兵進于橐皋,欽詣峻降,淮南餘眾數萬口來奔。魏諸葛誕入壽春,峻引軍還。……三月,使鎮南將軍朱異襲安豐,不克。秋七月,將軍孫儀・張怡・林恂等謀殺峻,發覺,儀自殺,恂等伏辜。陽羨離里山大石自立。使衞尉馮朝城廣陵,拜將軍吳穰為廣陵太守,留略為東海太守。是歲大旱。十二月,作太廟。以馮朝為監軍使者,督徐州諸軍事,民饑,軍士怨畔。」
【参照】
『宋書』巻三十一 五行二 金 恒陽:「呉孫亮五鳳二年,大旱,民饑。是歲閏月,魏將文欽以淮南眾數萬口來奔。孫峻又破魏將曹珍于高亭。三月,朱異襲安豐,不克。七月,城廣陵・東海二郡。十二月,以馮朝為監軍使者,督徐州諸軍,軍士怨叛。此亢陽自大,勞民失眾之罰也。其役彌歲,故旱亦竟年。」

現代語訳

呉の孫亮の五鳳二年(255),大変な日照りになり,民衆が飢えた。是の歳は租税と労役が何度も課せられ,軍士が怨み叛いた。これは亢陽が自然と大きくなるもので,労役で民信を失ったことの罰である。その役は一年の終わりまであり,だから日照りもまた一年中続いたのだ。

原文

孫晧寶鼎元年,春夏旱。時孫晧遷都武昌,勞役動衆之應也。

訓読

孫晧寶鼎元年,春夏旱す。時に孫晧 武昌に遷都し〔一〕,勞役動衆の應なり。

〔一〕『三国志』巻四十八 呉書三 孫晧伝 甘露元年条:「夏四月,蔣陵言甘露降,於是改年大赦。……九月,從西陵督步闡表,徙都武昌,御史大夫丁固・右將軍諸葛靚鎮建業。陟・璆至洛,遇晉文帝崩,十一月,乃遣還。晧至武昌,又大赦。以零陵南部為始安郡,桂陽南部為始興郡。十二月,晉受禪。」
【参照】
『宋書』巻三十一 五行二 金 恒陽:「呉孫晧寶鼎元年春夏旱。是時晧遷都武昌,勞民動衆之應也。」

現代語訳

孫晧の宝鼎元年(266),春と夏に日照りがあった。その時孫晧は武昌に遷都し,勞役で大衆を動かしたことの応である。

原文

武帝泰始七年五月閏月旱,大雩。
八年五月,旱。是時帝納荀勖邪説,留賈充不復西鎭,而任愷漸疎,上下皆蔽之應也。及李憙・魯芝・李胤等並在散職,近厥德不用之謂也。
九年,自正月旱,至于六月,祈宗廟・社稷・山川。癸未,雨。
十年四月,旱。去年秋冬,採擇卿校諸葛沖等女。是春,五十餘人入殿簡選。又取小將吏女數十人,母子號哭於宮中,聲聞于外,行人悲酸。是殆積陰生陽,上緣求妃之應也。

訓読

武帝泰始七年五月閏月旱し,大雩す〔一〕。
八年五月,旱す。是の時 帝 荀勖の邪説を納れ,賈充を留めて復た西鎭せず〔二〕,而して任愷漸く疎んず〔三〕,上下皆な蔽ふの應なり。李憙・魯芝・李胤等〔四〕並びに散職に在るに及び,厥の德 用いざるの謂ひに近きなり。
九年,正月より旱し,六月に至り,宗廟・社稷・山川に祈る。癸未,雨ふる〔五〕。
十年四月,旱す。去年秋冬,卿校の諸葛沖等の女を採擇す。是の春,五十餘人を殿に入れ簡選す。又た小將吏の女 數十人を取るに,母子 宮中に號哭し,聲 外に聞こえ,行人悲酸す〔六〕。是れ殆ど陰を積みて陽を生ず,上緣りて妃を求むるの應なり。

〔一〕『晋書』巻三 武帝本紀 泰始七年:「三月,孫晧帥衆趨壽陽,遣大司馬望屯淮北以距之。……夏四月,九真太守董元爲呉將虞氾所攻,軍敗,死之。北地胡寇金城,涼州刺史牽弘討之。羣虜内叛,圍弘於青山,弘軍敗,死之。(五月)……閏月,大雩,太官減膳。」
〔二〕『晋書』巻三十九 荀勖伝:「充將鎮關右也,勖謂馮紞曰「賈公遠放,吾等失勢。太子婚尚未定,若使充女得爲妃,則不留而自停矣。」勖與紞伺帝間並稱「充女才色絕世,若納東宮,必能輔佐君子,有關雎后妃之德。」遂成婚。當時甚爲正直者所疾,而獲佞媚之譏焉。久之,進位光祿大夫。」
同上巻四十 賈充伝:「侍中任愷・中書令庾純等剛直守正,咸共疾之。又以充女為齊王妃,懼後益盛。及氐羌反叛,時帝深以爲慮,愷因進説,請充鎮關中。……充既外出,自以為失職,深銜任愷,計無所從。將之鎮,百僚餞于夕陽亭,荀勖私焉。充以憂告,勖曰「公,國之宰輔,而為一夫所制,不亦鄙乎。然是行也,辭之實難。獨有結婚太子,不頓駕而自留矣。」充曰「然。孰可寄懷。」對曰「勖請言之。」俄而侍宴,論太子婚姻事,勖因言充女才質令淑,宜配儲宮。而楊皇后及荀顗亦並稱之。帝納其言。會京師大雪,平地二尺,軍不得發。既而皇儲當婚,遂不西行。詔充居本職。」
〔三〕同巻四十五 任愷伝:「愷既在尚書,選舉公平,盡心所職,然侍覲轉希。充與荀勖・馮紞承間浸潤,謂愷豪侈,用御食器。充遣尚書右僕射・高陽王珪奏愷,遂免官。有司收太官宰人檢覈,是愷妻齊長公主得賜魏時御器也。愷既免而毀謗益至,帝漸薄之。然山濤明愷為人通敏有智局,舉為河南尹。坐賊發不獲,又免官。復遷光祿勳。愷素有識鑒,加以在公勤恪,甚得朝野稱譽。而賈充朋黨又諷有司奏愷與立進令劉友交關。事下尚書,愷對不伏。尚書杜友、廷尉劉良並忠公士也,知愷為充所抑,欲申理之,故遲留而未斷,以是愷及友、良皆免官。愷既失職,乃縱酒耽樂,極滋味以自奉養。」
〔四〕同巻三十四 羊祜伝:「後加車騎將軍,開府如三司之儀。祜上表固讓曰「……今天下自服化以來,方漸八年,雖側席求賢,不遺幽賤,然臣不能推有德,達有功,使聖聽知勝臣者多,未達者不少。……且臣雖所見者狹,據今光祿大夫李憙執節高亮,在公正色,光祿大夫魯芝潔身寡欲,和而不同,光祿大夫李胤清亮簡素,立身在朝,皆服事華髮,以禮終始。雖歷位外内之寵,不異寒賤之家,而猶未蒙此選,臣更越之,何以塞天下之望,少益日月」
同巻四十一 李憙伝:「其年,皇太子立,以憙爲太子太傅。自魏明帝以後,久曠東宮,制度廢闕,官司不具,詹事・左右率・庶子・中舍人諸官並未置,唯置衞率令典兵,二傅幷攝衆事。憙在位累年,訓道盡規。」
同巻九十 魯芝伝:「武帝踐阼,轉鎭東將軍,進爵爲侯。帝以芝清忠履正,素無居宅,使軍兵爲作屋五十間。芝以年及懸車,告老遜位,章表十餘上,於是徵爲光祿大夫,位特進,給吏卒,門施行馬。」
同巻四十四 李胤伝:「泰始初,拜尚書,進爵為侯。胤奏以爲「古者三公坐而論道,内參六官之事,外與六卿之教,或處三槐,兼聽獄訟,稽疑之典,謀及卿士。陛下聖德欽明,垂心萬機,猥發明詔,儀刑古式,雖唐虞疇諮,周文翼翼,無以加也。自今以往,國有大政,可親延羣公,詢納讜言。其軍國所疑,延詣省中,使侍中・尚書諮論所宜。若有疾疢,不任覲會,臨時遣侍臣訊訪。」詔從之。遷吏部尚書僕射,尋轉太子少傅。詔以胤忠允高亮,有匪躬之節,使領司隸校尉。胤屢自表讓,忝傅儲宮,不宜兼監司之官。武帝以二職並須忠賢,故毎不許。」
〔五〕巻三 武帝本紀 泰始九年:「五月,旱。」
〔六〕『晋書』巻三十一 后妃上 武元楊皇后伝:「泰始中,帝博選良家以充後宮,先下書禁天下嫁娶,使宦者乘使車,給騶騎,馳傳州郡,召充選者使后揀擇。后性妒,惟取潔白長大,其端正美麗者並不見留。時卞藩女有美色,帝掩扇謂后曰「卞氏女佳。」后曰「藩三世后族,其女不可枉以卑位。」帝乃止。司徒李胤・鎮軍大將軍胡奮・廷尉諸葛沖・太僕臧權・侍中馮蓀・秘書郎左思及世族子女並充三夫人九嬪之列。司・冀・兗・豫四州二千石將吏家,補良人以下。名家盛族子女,多敗衣瘁貌以避之。」
【参照】
『宋書』巻三十一 五行二 金 恒陽:「晉武帝泰始七年五月閏月,旱,大雩。是春,孫晧出華里,大司馬望帥衆次于淮北。四月,北地胡寇金城西平,涼州刺史牽弘出戰,敗沒。泰始八年五月,旱。是時帝納荀勗邪説,留賈充不復西鎮,而任愷稍疏,上下皆蔽之應也。又李憙・魯芝・李胤等並在散職,近欲德不用之謂也。泰始九年,自正月旱,至于六月,祈宗廟社稷山川,癸未雨。去年九月,吳西陵督步闡據城來降,遣羊祜統楊肇等眾八萬救迎闡。十二月,陸抗大破肇軍,攻闡滅之。泰始十年四月,旱。去年秋冬,采擇卿校諸葛沖等女,是春五十餘人入殿簡選。又取小將吏女數十人,母子號哭於宮中,聲聞于外,行人悲酸。是殆積陰生陽之應也。」

現代語訳

武帝泰始七年(271)五月閏月日照りになり,大雩〔雨乞いの祭〕を行った。
八年(272)五月,日照りになった。この時皇帝は荀勖の邪な進言を聞き入れ,賈充を留めて二度と西方に赴任させようとせず,任愷が段々と遠ざけられた,身分が高いものも低いものも皆な道理に暗いことの応である。李憙・魯芝・李胤等がひとしく閑職につくまでになり,徳のある人物を用いないというのに近い。
九年(273),正月より日照りになり,六月に至って,宗廟・社稷・山川に祈った。癸未,雨がふった。
十年(274)四月,日照りになった。去年の秋冬,卿校の諸葛沖等の娘を選んで〔宮中に〕納れた。この春,五十餘人が宮殿に入り〔宮女として〕選び出された。更に位の低い軍人や役人の娘数十人を取ると,母と子が宮中で大声を上げて泣き,声が外に聞こえ,道行く人まで悲しく痛ましい思いをした。これは殆ど陰の気を積んで陽を生ずるものであり,身分の高いものがあちこちに妃を求めた応である。

原文

咸寧二年五月旱,大雩。至六月,乃澍雨。

訓読

咸寧二年五月旱し,大雩す。六月に至り,乃ち澍雨す〔一〕。

〔一〕『晋書』巻三 武帝本紀 咸寧二年:「(五月)庚午,大雩。六月癸丑,薦荔支于太廟。甲戌,有星孛于氐。自春旱,至于是月始雨。」
【出典・参考】
『宋書』巻三十一 五行二 金 恒陽:「晉武帝咸寧二年五月,旱,大雩,及社稷山川。至六月,乃澍雨。」

現代語訳

咸寧二年五月日照りになり,大雩(雨乞い)をした。六月に至り,かくて雨が降った。

原文

太康二年旱,自去冬旱至此春。
三年四月旱,乙酉詔司空齊王攸與尚書・廷尉・河南尹錄訊繫囚,事從蠲宥。
五年六月,旱。此年正月天陰,解而復合。劉毅上疏曰「必有阿黨之臣姦以事君者,當誅而不赦也。」帝不答。是時荀勖・馮紞僭作威福,亂朝尤甚。
六年三月,青・梁・幽・冀郡國旱。六月,濟陰・武陵旱,傷麥。
七年夏,郡國十三大旱。
八年四月,冀州旱。
九年夏,郡國三十三旱,扶風・始平・京兆・安定旱,傷麥。
十年二月,旱。

訓読

太康二年旱す,去冬より旱し此の春に至る〔一〕。
三年四月旱す〔二〕,乙酉 詔して司空の齊王攸〔三〕に尚書・廷尉・河南尹と繫囚を錄訊せしむるに,事 蠲宥に從う。
五年六月,旱す〔四〕。此の年正月天陰,解して復た合す。劉毅上疏して曰はく「必ず阿黨の臣 姦して以て君に事ふる者有らん,當に誅して赦さざるべきなり」と。帝答えず。是の時荀勖・馮紞僭して威福を作し〔五〕,朝を亂すこと尤も甚し。
六年三月,青・梁・幽・冀郡國旱す〔六〕。六月,濟陰・武陵旱し,麥を傷ふ。
七年夏,郡國十三大いに旱す〔七〕。
八年四月,冀州旱す〔八〕。
九年夏,郡國三十三旱す,扶風・始平・京兆・安定旱し,麥を傷ふ〔九〕。
十年二月,旱す。

〔一〕この年に日照りに関する記述はないが,他の自然災害の記述はある。
『晋書』巻三 武帝本紀 太康二年:「夏六月,東夷五國內附。郡國十六雨雹,大風拔樹,壞百姓廬舍。江夏・泰山水,流居人三百餘家。秋七月,上黨又暴風雨雹,傷秋稼。」
〔二〕同上太康三年条:「(十二月)丙申,詔四方水旱甚者無出田租。」
〔三〕同書巻三十八 文六王 斉王攸伝:「及帝晚年,諸子並弱,而太子不令,朝臣内外,皆屬意於攸。中書監荀勖・侍中馮紞皆諂諛自進,攸素疾之。勖等以朝望在攸,恐其為嗣,禍必及己〔五〕,乃從容言於帝曰「陛下萬歳之後,太子不得立也。」帝曰「何故」勖曰「百僚内外皆歸心於齊王,太子焉得立乎。陛下試詔齊王之國,必舉朝以為不可,則臣言有徵矣。」紞又言曰「陛下遣諸侯之國,成五等之制者,宜先從親始。親莫若齊王。」帝既信勖言,又納紞説,太康三年乃下詔曰「古者九命作伯,或入毗朝政,或出御方嶽。周之呂望,五侯九伯,實得征之。侍中・司空・齊王攸,明德清暢,忠允篤誠。以母弟之親,受台輔之任,佐命立勳,劬勞王室,宜登顯位,以稱具瞻。其以爲大司馬・都督青州諸軍事,侍中如故,假節,將本營千人,親騎帳下司馬大車皆如舊,增鼓吹一部,官騎滿二十人,置騎司馬五人。餘主者詳案舊制施行。」攸不悅,主簿丁頤曰「昔太公封齊,猶表東海,桓公九合,以長五伯。況殿下誕德欽明,恢弼大藩,穆然東軫,莫不得所。何必絳闕,乃弘帝載」攸曰「吾無匡時之用,卿言何多。」
〔四〕この年も日照りに関する記述はないが,他の自然災害の記述はある。
同上太康五年条:「秋七月戊申,皇子恢薨。任城・梁國・中山雨雹,傷秋稼。減天下戸課三分之一。九月,南安大風折木,郡國五大水,隕霜,傷秋稼。」
〔五〕『尚書正義』洪範:「臣無有作福威玉食。臣之有作福作威玉食,其害于而家,凶于而國」
刑罰と恩賞を好き勝手に与えた記事は見つけられなかったが,太子(後の恵帝)を帝位に就けるよう働きかけた人物だったらしい。〔三〕の下線〔五〕も参照のこと。
『晋書』巻三十九 荀勖伝:「時帝素知太子闇弱,恐後亂國,遣勖及和嶠往觀之。勖還盛稱太子之德,而嶠云太子如初。於是天下貴嶠而賤勖。帝將廢賈妃,勖與馮紞等諫請,故得不廢。時議以勖傾國害時,孫資・劉放之匹。然性慎密,毎有詔令大事,雖已宣布,然終不言,不欲使人知己豫聞也。族弟良曾勸勖曰「公大失物情,有所進益者自可語之,則懷恩多矣。」其壻武統亦説勖「宜有所營置,令有歸戴者」。勖並默然不應,退而語諸子曰「人臣不密則失身,樹私則背公,是大戒也。汝等亦當宦達人間,宜識吾此意。」久之,以勖守尚書令。」
『晋書』巻三十九 馮紞伝:「帝病篤得愈,紞與勖見朝野之望,屬在齊王攸。攸素薄勖。勖以太子愚劣,恐攸得立,有害於己,乃使紞言於帝曰「陛下前者疾若不差,太子其廢矣。齊王爲百姓所歸,公卿所仰,雖欲高讓,其得免乎。宜遣還藩,以安社稷。」帝納之。及攸薨,朝野悲恨。初,帝友于之情甚篤,既納紞・勖邪説,遂爲身後之慮,以固儲位。既聞攸殞,哀慟特深。紞侍立,因言曰「齊王名過於實,今得自終,此乃大晉之福。陛下何乃過哀」帝收淚而止。」
〔六〕同上太康六年条:「三月,郡國六隕霜,傷桑麥。」
〔七〕同上太康七年条:「夏五月,郡國十三旱。」
〔八〕太康八年条:「夏四月,齊國・天水隕霜,傷麥。」
〔九〕同上太康九年条:「六月庚子朔,日有蝕之。徙章武王威為義陽王。郡國三十二大旱,傷麥。」
【参照】
『宋書』巻三十一 五行二 金 恒陽:「晉武帝太康二年,自去冬旱,至此春平呉,亢陽動衆自大之應也。太康三年四月,旱。乙酉,詔司空齊王攸與尚書・廷尉・河南尹錄訊繫囚,事從蠲宥。太康五年六月,旱。此年正月,天陰,解而復合。劉毅上疏曰「必有阿黨之臣,姦以事君者,當誅而不赦也。」帝不答。是時荀勗・馮紞僭作威福,亂朝尤甚。太康六年三月,青・涼・幽・冀郡國旱。太康六年六月,濟陰・武陵旱,傷麥。太康七年夏,郡國十三旱。 太康八年四月,冀州旱。太康九年夏,郡國三十三旱。太康九年六月,扶風・始平・京兆・安定旱,傷麥。太康十年二月,旱。」

現代語訳

太康二年(281)日照りになった,去年の冬から日照りが続き今年の春に至った。
三年(282)四月日照りになった,乙酉の日に詔をくだして司空の斉王司馬攸に尚書・廷尉・河南尹と囚人を取り調べさせ,寛大に処置した。
五年(284)六月,日照りになった。この年正月は空が真っ黒に曇り,〔黒い雲が〕ばらけて再び一つになった。劉毅が上疏して「おもねり徒党を組む臣でよこしまな心でもって皇帝にお仕えする者が必ずおります,誅して許さずにおくべきです」と言った。皇帝は答えなかった。この時荀勖・馮紞が分を超えて刑罰と恩賞を好き勝手に与え,朝廷の秩序を乱すことがとりわけ甚しかった。
六年(285)三月,青州・梁州・幽州・冀州の郡国で日照りがあった。六月,済陰・武陵で日照りがあり,麦に被害が出た。
七年夏,十三の郡国で大変な日照りがあった。
八年(287)四月,冀州で日照りがあった。
九年(288)の夏,三十三の郡国で日照りがあった,扶風・始平・京兆・安定で日照りがあり,麦に被害が出た。
十年(289)二月,日照りになった。

原文

太熙元年二月,旱。自太康已後,雖正人滿朝,不被親仗,而賈充・荀勖・楊駿・馮紞等迭居要重,所以無年不旱者,欲德不用,上下皆蔽,庶位踰節之罰也。

訓読

太熙元年二月,旱す。太康自り已後,正人朝に滿つると雖も,親仗せられず,賈充〔一〕・荀勖〔二〕・楊駿〔三〕・馮紞〔四〕等 迭いに要重に居し,年に旱せざる無き所以は,德を欲するも用いず,上下皆蔽い,庶位 節を踰ゆるの罰なり。

〔一〕『晉書』武帝紀:「(泰始元年十二月)衞將軍賈充為車騎將軍・魯公。……(泰始七年)秋七月癸酉,以車騎將軍賈充為都督秦・涼二州諸軍事。……(泰始八年)秋七月,以車騎將軍賈充為司空。……(咸寧二年八月)己亥,以太保何曾為太傅,太尉陳騫為大司馬,司空賈充為太尉,鎮軍大將軍齊王攸為司空。……(咸寧五年十一月)以太尉賈充為大都督,行冠軍將軍楊濟為副,總統眾軍。……(咸寧元年五月)庚辰,以王濬為輔國大將軍・襄陽侯,杜預當陽侯,王戎安豐侯,唐彬上庸侯,賈充・琅邪王伷以下增封。」
〔二〕『晉書』武帝紀:「(泰始元年十二月)侍中荀勖為濟北公。……(泰始七年)秋七月癸酉,以車騎將軍賈充為都督秦・涼二州諸軍事。……(泰始八年)秋七月,以車騎將軍賈充為司空。……(咸寧二年八月)己亥,以太保何曾為太傅,太尉陳騫為大司馬,司空賈充為太尉,鎮軍大將軍齊王攸為司空。……(咸寧五年十一月)以太尉賈充為大都督,行冠軍將軍楊濟為副,總統眾軍。……(咸寧元年五月)庚辰,以王濬為輔國大將軍・襄陽侯,杜預當陽侯,王戎安豐侯,唐彬上庸侯,賈充・琅邪王伷以下增封。」
『晉書』荀勖伝:「時帝素知太子闇弱,恐後亂國,遣勖及和嶠往觀之。勖還盛稱太子之德,而嶠云太子如初。於是天下貴嶠而賤勖。帝將廢賈妃,勖與馮紞等諫請,故得不廢。時議以勖傾國害時,孫資、劉放之匹。然性慎密,每有詔令大事,雖已宣布,然終不言,不欲使人知己豫聞也。……久之,以勖守尚書令。勖久在中書,專管機事。及失之,甚罔罔悵恨。或有賀之者,勖曰「奪我鳳皇池,諸君賀我邪!」及在尚書,課試令史以下,覈其才能,有闇於文法,不能決疑處事者,即時遣出。帝嘗謂曰「魏武帝言『荀文若之進善,不進不止。荀公達之退惡,不退不休。』二令君之美,亦望於君也。」居職月餘,以母憂上還印綬,帝不許。遣常侍周恢喩旨,勖乃奉詔視職。勖久管機密,有才思,探得人主微旨,不犯顏迕爭,故得始終全其寵祿。太康十年卒,詔贈司徒,賜東園祕器、朝服一具、錢五十萬、布百匹。」
〔三〕『晉書』武帝紀:「(咸寧二年)十二月,徵處士安定皇甫謐為太子中庶子,封后父鎮軍將軍楊駿為臨晉侯。……(太煕元年)夏四月辛丑,以侍中車騎將軍楊駿為太尉、都督中外諸軍・錄尚書事。」
『晉書』恵帝紀:「(太熙元年五月)以太尉楊駿為太傅,輔政。」
『晋書』巻四十 列伝第十:「楊駿字文長,弘農華陰人也。少以王官為高陸令,驍騎鎮軍二府司馬。後以后父超居重位,自鎮軍將軍遷車騎將軍,封臨晉侯。」
〔四〕『晋書』馮紞伝:「馮紞字少冑,安平人也。祖浮,魏司隸校尉。父員,汲郡太守。紞少博涉經史,識悟機辯。歷仕為魏郡太守,轉步兵校尉,徙越騎。得幸於武帝,稍遷左衞將軍。承顏悅色,寵愛日隆,賈充 、荀勖並與之親善。充女之為皇太子妃也,紞有力焉。及妃之將廢,紞,勖乾沒救請,故得不廢。伐吳之役,紞領汝南太守,以郡兵隨王濬入秣陵。遷御史中丞,轉侍中。」
【参考】
『宋書』五行志:「晉武帝太熙元年二月,旱。自太康以後,雖正人滿朝,不被親仗,而賈充・荀勗・楊駿・馮紞等,迭居要重。所以無年不旱者,欲德不用,上下皆蔽,庶位踰節之罰也。」

現代語訳

太熙元年(290年)二月,日照りとなった。太康より後,正義の人が朝廷に満ちていたが,(天子に)親しく頼られず,賈充・荀勖・楊駿・馮紞等が代わる代わる要職につき,日照りがない年がない理由は,有徳の人を欲しても用いず,身分の高い人も低い人もみな道理に暗く,もろもろの官が節度を越した罰である。

原文

惠帝元康七年七月,秦雍二州大旱,疾疫,關中饑,米斛萬錢。因此氐羌反叛,雍州刺史解系敗績。而饑疫荐臻,戎晉並困,朝廷不能振,詔聽相賣鬻。其九月,郡國五旱。

訓読

惠帝元康〔一〕七年七月,秦〔二〕雍〔三〕二州大いに旱し,疾疫あり,關中饑え,米斛 萬錢なり〔四〕。此れに因り氐・羌反叛し〔五〕,雍州刺史解系敗績す〔六〕。而して饑疫荐に臻り,戎晉並びに困しむも,朝廷 振う能わず,詔して相い賣鬻するを聽す。其の九月,郡國五 旱す。

〔一〕『晉書』孝帝紀永平元年に校注があり,永平元年三月に「元康」と改元されたが,帝紀ではそのまま永平を用いるという。(永平元年 是年三月又改元 元康,依例應作元康元年。此仍作永平,則三月改元後應出元康年號,使讀者明白自此以下至九年皆元康之年。紀文此處既用永平,下文又不出元康,似自此至九年皆屬永平矣。此爲史例之失)
〔二〕『晋書』地理志上:「秦州。案禹貢本雍州之域,魏始分隴右置焉,刺史領護羌校尉,中間暫廢。及泰始五年,又以雍州隴右五郡及涼州之金城・梁州之陰平,合七郡置秦州,鎮冀城。太康三年,罷 秦州,并雍州。七年,復立,鎮上邽。統郡六,縣二十四,戶三萬二千一百。」
〔三〕『晋書』地理志上 :「雍州。案禹貢黑水・西河之地,舜置十二牧,則其一也。以其四山之地,故以雍名焉。亦謂西北之位,陽所不及,陰氣雍閼也。」
〔四〕『晋書』恵帝紀:「秋七月,雍・梁州疫。大旱,隕霜,殺秋稼。關中饑,米斛萬錢。詔骨肉相賣者不禁。」
〔五〕『晋書』恵帝紀:「(永平六年)秋八月,雍州刺史解系又為度元所破。秦雍氐・羌悉叛,推氐帥齊萬年僭號稱帝,圍涇陽。」
〔六〕『晋書』解系伝:「解系字少連,濟南著人也。父脩,魏琅邪太守,梁州刺史,考績爲天下第一。武帝受禪,封梁鄒侯。」

現代語訳

恵帝元康七年(298年)七月,秦・雍の二州はおおいに日照りとなり,疫病がはやり,関中は飢饉となり、米一斛が万銭となった。これによって氐・羌(ていきょう)は反乱を起こし,雍州刺史解系は大敗した。飢饉や疫病はしばしば起こり,異民族も晋もともに困窮するも,朝廷は救うことができず,詔をくだして互いに売買することを許した。その年の九月,郡國のうちの五つが日照りとなった。

原文

永寧元年,自夏及秋,青・徐・幽・并四州旱。十二月,又郡國十二旱。是年春,三王討趙王倫,六旬之中數十戰,死者十餘萬人。

訓読

永寧元年,夏より秋に及び,青〔一〕・徐〔二〕・幽〔三〕・并〔四〕の四州 旱す。十二月,又た郡國十二 旱す〔五〕。是の年 春,三王 趙王倫を討ち〔六〕,六旬の中 數十戰,死者十餘萬人なり。

〔一〕『晋書』地理志下:「青州。案禹貢為海岱之地,舜置十二牧,則其一也。舜以青州越海,又分爲營州,則遼東本為 青州矣。」
〔二〕『晋書』地理志下:「徐州。案禹貢海岱及淮之地,舜十二牧,則其一也。於周入青州之域。」
〔三〕『晋書』地理志上:「幽州。案禹貢冀州之域,舜置十二牧,則其一也。」
〔四〕『晋書』地理志上:「并州。案禹貢蓋冀州之域,舜置十二牧,則其一也。」
〔五〕『晋書』恵帝紀:「十二月,司空何劭薨。封齊王冏子冰為樂安王,英爲濟陽王,超為淮南王。是歲,郡國十二旱,六蝗。」
〔六〕『晋書』恵帝紀:「三月,平東將軍齊王冏起兵以討倫,傳檄州郡,屯于陽翟。征北大將軍成都王穎,征西大將軍河間王顒,常山王乂,豫州刺史李毅,兗州刺史王彥,南中郎將・新野公歆,皆舉兵應之,眾數十萬。倫遣其將閭和出伊闕,張泓、孫輔出堮坂以距冏,孫會・士猗・許超出黃橋以距穎。及穎將趙驤、石超戰于湨水,會等大敗,棄軍走。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉惠帝永寧元年,自夏及秋,青徐幽并四州旱。是年春,三王討趙王倫,六旬之中,大小數十戰,死者十餘萬人。十二月,郡國十二又旱。」

現代語訳

永寧元年(301年),夏から秋にかけて,青・徐・幽・并の四州が日照りとなった。十二月,さらに,郡國のうち十二が日照りとなった。この年の春,(齊王司馬冏・河間王司馬顒・成都王司馬穎の)三王は趙王倫を討ち,六十日で数十戦し,死者は十余万人となった。

原文

懷帝永嘉三年五月,大旱,襄平縣梁水淡池竭,河・洛・江・漢皆可涉。是年三月,司馬越歸京都,遣兵入宮,收中書令繆播等九人殺之,皆僭踰之罰也。又四方諸侯多懷無君之心,劉元海・石勒・王彌・李雄之徒賊害百姓,流血成泥,又其應也。五年,自去冬旱至此春。去歲十一月,司馬越以行臺自隨,斥黜宮衞,無君臣之節。

訓読

懷帝永嘉三年五月,大旱す。襄平縣 梁水 淡池 竭き,河・洛・江・漢皆涉る可し。是の年三月,司馬越京都に歸し,兵を遣わして宮に入らしめ,中書令繆播等九人を收めて之を殺す〔一〕。皆僭踰の罰なり。又た四方諸侯多く君を無みするの心を懷き,劉元海・石勒・王彌・李雄の徒 百姓を賊害し,流血泥を成す〔二〕。又た其の應なり。五年,去冬より旱して此の春に至る。去歲十一月,司馬越 行臺の自ら隨ふを以て,宮衞を斥黜す。君臣の節 無し。

〔一〕『晋書』懐帝紀:「三月戊申,征南大將軍、高密王簡薨。以尚書左僕射山簡為征南將軍、都督荊湘交廣等四州諸軍事,司棣校尉劉暾為尚書左僕射。丁巳,東海王越歸京師。乙丑,勒兵入宮,於帝側收近臣中書令繆播・帝舅王延等十餘人,並害之。丙寅,曲赦河南郡。丁卯,太尉劉寔請老,以司徒王衍為太尉。東海王越領司徒。劉元海寇黎陽,遣車騎將軍王堪擊之,王師敗績于延津,死者三萬餘人。大旱,江、漢、河、洛皆竭,可涉。」
〔二〕『晋書』懐帝紀:「夏四月,左積弩將軍朱誕叛奔於劉元海。石勒攻陷冀州郡縣百餘壁。秋七月戊辰,當陽地裂三所,各廣三丈,長三百餘步。辛未,平陽人劉芒蕩自稱漢後,誑誘羌戎,僭帝號於馬蘭山。支胡五斗叟郝索聚眾數千為亂,屯新豐,與芒蕩合黨。劉元海遣子聰及王彌寇上黨,圍壺關。并州刺史劉琨使兵救之,為聰所敗。淮南內史王曠・將軍施融・曹超及聰戰,又敗,超・融死之。上黨太守龐淳以郡降賊。九月丙寅,劉聰圍浚儀,遣平北將軍曹武討之。丁丑,王師敗績。東海王越入保京城。聰至西明門,越禦之,戰于宣陽門外,大破之。石勒寇常山,安北將軍王浚使鮮卑騎救之,大破勒於飛龍山。征西大將軍・南陽王模使其將淳于定破劉芒蕩・五斗叟,並斬之。使車騎將軍王堪・平北將軍曹武討劉聰,王師敗績,堪奔還京師。李雄別帥羅羨以梓潼歸順。劉聰攻洛陽西明門,不克。宜都夷道山崩,荊・湘二州地震。冬十一月,石勒陷長樂,安北將軍王斌遇害,因屠黎陽。乞活帥李惲・薄盛等帥眾救京師,聰退走。惲等又破王彌于新汲。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉懷帝永嘉三年五月,大旱。襄平縣梁水淡淵竭,河・洛・江・漢皆可涉。是年三月,司馬越歸京都,遣兵入宮,收中書令繆播等九人殺之。此僭踰之罰也。又四方諸侯,多懷無君之心,劉淵・石勒・王彌・李雄之徒,賊害民命,流血成泥,又其應也。永嘉五年,自去冬旱至此春。去歲十二月,司馬越棄京都,以大眾南出,多將王公朝士,及以行臺自隨,斥黜禁衞,代以國人。宮省蕭然,無復君臣之節矣。」

現代語訳

懷帝永嘉三年(309年)五月,日照りとなった。襄平縣の梁水,淡池は水が涸れて,黄河・洛水・長江・漢水はどれも歩いて渡ることができた。この年の三月,司馬越が都に帰り,兵を派遣して宮殿に入らせて,中書令繆播等九人を捕らえて殺した。みな節度を越えることによって起こった罰である。さらに四方の諸侯の多くが心の内で帝を軽んじ,劉元海・石勒・王彌・李雄のともがらは多くの庶民を傷つけ,流れた血が泥を成すほどであった。これもまたその応である。五年,前年の冬より日照りとなりこの春まで続いた。前年の十一月,司馬越は自分に従う者たちを率いて(南遷し),政治をそこで行い,兵たちを追い出した。君臣の節度がなかった。

原文

愍帝建武元年六月,揚州旱。去年十二月,淳于伯冤死,其年即旱,而太興元年六月又旱。干寶曰,殺淳于伯之後旱三年,是也。刑罰妄加,羣陰不附,則陽氣勝之罰也。

訓読

愍帝建武元年六月,揚州旱す。去年十二月,淳于伯〔一〕冤死し,其の年即ち旱し,太興元年六月又た旱す。干寶曰く,淳于伯を殺すの後 旱すること三年と,是なり。刑罰妄に加え,羣陰附かざれば,則ち陽氣勝るの罰なり〔三〕。

〔一〕『晋書』劉隗伝:「建興中,丞相府斬督運令史淳于伯 而血逆流,隗又奏曰「古之為獄必察五聽,三槐九棘以求民情。雖明庶政,不敢折獄。死者不得復生,刑者不可復續,是以明王哀矜用刑。曹參去齊,以市獄為寄。自頃蒸荒,殺戮無度,罪同斷異,刑罰失宜。謹按行督運令史 淳于伯刑血著柱,遂逆上終極柱末二丈三尺,旋復下流四尺五寸。百姓諠譁,士女縱觀,咸曰其寃。伯息忠訴辭稱枉,云伯督運訖去二月,事畢代還,無有稽乏。受賕使役,罪不及死。軍是戍軍,非為征軍,以乏軍興論,於理為枉。四年之中,供給運漕,凡諸徵發租調百役,皆有稽停,而不以軍興論,至於伯也,何獨明之。捶楚之下,無求不得,囚人畏痛,飾辭應之。理曹,國之典刑,而使忠等稱寃明時。謹按從事中郎周莚・法曹參軍劉胤屬李匡幸荷殊寵,並登列曹,當思敦奉政道,詳法慎殺,使兆庶無枉,人不稱訴。而令伯枉同周青,寃魂哭於幽都,訴靈恨於黃泉,嗟嘆甚於𣏌梁,血妖過於崩城,故有隕霜之人,夜哭之鬼。伯有晝見,彭生為豕,刑殺失中,妖眚並見,以古況今,其揆一也。皆由莚等不勝其任,請皆免官。」於是右將軍王導等上疏引咎,請解職。帝曰「政刑失中,皆吾闇塞所由。尋示愧懼,思聞忠告,以補其闕。而引過求退,豈所望也。」由是導等一無所問。」
『晋書』郭璞伝:「往建興四年十二月中,行丞相令史淳于伯刑於市,而血逆流長摽。伯者小人,雖罪在未允,何足感動靈變,致若斯之怪邪。」
〔二〕『捜神記』巻七:「晉元帝建武元年六月,揚州大旱。十二月,河東地震。去年十二月,斬督運令史淳于伯,血逆流,上柱二丈三尺,旋復下流四尺五寸。是時淳于伯冤死,遂頻旱三年。刑罰妄加,群陰不附,則陽氣勝之。罰又冤氣之應也。」
【参考】
『宋書』五行志:「晉愍帝建武元年六月,揚州旱。去年十二月,淳于伯寃死,其年即旱,而太興元年六月又旱。干寶曰「殺伯之後旱三年」是也。案前漢殺孝婦則旱,後漢有囚亦旱,見謝見理,並獲雨澍,此其類也。班固曰,刑罰妄加,羣陰不附,則陽氣勝,故其罰恒暘。建武元年四月,麴允等悉眾禦寇。五月,祖逖攻譙。其冬,周訪討杜曾。又眾出之應也。」

現代語訳

愍帝建武元年(317年)六月,揚州が日照りとなった。前年の十二月,淳于伯が冤罪で殺された。その年は日照りで,太興元年(318)年六月もまた日照りとなった。干宝は次のように述べた。「淳于伯を殺した後 日照りとなること三年」とはこのことである。刑罰がみだりに加わり,もろもろの陰の気がまとまらず,そうすると陽氣が勝る罰となる。

原文

元帝太興四年五月,旱。是時王敦陵僭已著。

訓読

元帝太興四年五月,旱す〔一〕。是の時 王敦の陵僭已に著る〔二〕。

〔一〕『晋書』元帝紀:「(太興四年)五月,旱。庚申,詔曰,昔漢二祖及魏武皆免良人,武帝時,涼州覆敗,諸為奴婢亦皆復籍,此累代成規也。其免中州良人遭難為揚州諸郡僮客者,以備征役。」
〔二〕『晋書』元帝紀:「(太興三年)王敦殺武陵內史向碩。」
『晋書』明帝紀:「及王敦之亂,六軍敗績,帝欲帥將士決戰,升車將出,中庶子溫嶠固諫,抽劍斬鞅,乃止。敦素以帝神武明略,朝野之所欽信,欲誣以不孝而廢焉。」
【参考】
『宋書』五行志:「晉元帝太興四年五月,旱。是時王敦強僭之釁漸著。又去歲蔡豹、祖逖等,並有征役。」

現代語訳

元帝太興四年(321年)五月,日照りとなった。この時、王敦の分もわきまえない行いがすでに現れていた。

原文

永昌元年夏,大旱。是年三月,王敦有石頭之變,二宮陵辱,大臣誅死,僭踰無上,故旱尤甚也。其閏十一月,京都大旱,川谷並竭。

訓読

永昌元年夏,大いに旱す〔一〕。是の年三月,王敦 石頭の變有り,二宮陵辱され,大臣誅死し〔二〕,僭踰すること上無し。故に旱すること尤も甚しきなり。其の閏十一月,京都 大いに旱して,川谷並びに竭く。

〔一〕『晋書』元帝紀:「(永昌元年)六月,旱。」
〔二〕『晋書』元帝紀:「永昌元年春正月乙卯,大赦,改元。戊辰,大將軍王敦 舉兵於武昌,以誅劉隗為名,龍驤將軍沈充帥眾應之。三月,徵征西將軍戴若思、鎮北將軍劉隗還衞京都。以司空王導為前鋒大都督,以戴若思為驃騎將軍,丹楊諸郡皆加軍號。加僕射周顗尚書左僕射,領軍王邃尚書右僕射。以太子右衞率周莚行冠軍將軍,統兵三千討沈充。甲午,封皇子昱為琅邪王。劉隗軍於金城,右將軍周札守石頭,帝親被甲徇六師於郊外。遣平南將軍陶侃領江州,安南將軍甘卓領荊州,各帥所統以躡敦後。四月,敦前鋒攻石頭,周札開城門應之,奮威將軍侯禮死之。敦據石頭,戴若思・劉隗帥眾攻之,王導・周顗・郭逸・虞潭等三道出戰,六軍敗績。尚書令刁協奔於江乘,為賊所害。鎮北將軍劉隗奔于石勒。帝遣使謂敦曰「公若不忘本朝,于此息兵,則天下尚可共安也。如其不然,朕當歸于琅邪,以避賢路。」辛未,大赦。敦乃自為丞相、都督中外諸軍・錄尚書事,封武昌郡公,邑萬戶。丙子,驃騎將軍、秣陵侯戴若思,尚書左僕射、護軍將軍・武城侯周顗為敦所害。敦將沈充陷吳國,魏乂陷湘州,吳國內史張茂、湘州刺史、譙王承並遇害。」
【参考】
『宋書』五行志:「晉元帝永昌元年,大旱。是年三月,王敦有石頭之變,二宮陵辱,大臣誅死。僭踰無上,故旱尤甚也。永昌元年閏十一月,京都大旱,川谷並竭。」

現代語訳

永昌元年(322年)夏,大日照りとなった。この年三月,王敦が石頭の反乱を起こし,内廷と外廷が蹂躙され,大臣は誅殺され,これ以上のものがないほどの節度を越えた行いがあった。故に日照りは最も甚だしいものであった。その年の閏十一月,都は大日照りで,川や谷は水が尽き果てた。

原文

明帝太寧三年,自春不雨,至于六月。

訓読

明帝太寧三年,春より雨ふらず,六月に至る〔一〕。

〔一〕『晋書』明帝紀:「(太寧三年六月)大旱,自正月不雨,至于是月。」
【参考】
『宋書』五行志:「晉明帝太寧三年,自春不雨,至于六月。去年秋,滅王敦,亢陽動眾自大之應也。」

現代語訳

明帝太寧三年(325年),春から雨が降らず,六月となった。

原文

成帝咸和元年,夏秋旱。是時庾太后臨朝稱制,言不從而僭踰之罰也。

訓読

成帝咸和元年,夏秋旱す〔一〕。是の時庾太后(ゆたいこう)臨朝稱制す〔二〕,言の不從にして僭踰の罰なり。

〔一〕『晋書』成帝紀:「(咸和元年)九月,旱。」
〔二〕『晋書』成帝紀:「太寧三年三月戊辰,立為皇太子。閏月戊子,明帝崩。己丑,太子即皇帝位,大赦,增文武位二等,賜鰥寡孤老帛,人二匹,尊皇后庾氏為皇太后。」
『晉書』后妃伝下・明穆庾皇后:「及成帝即位,尊后曰皇太后。羣臣奏,天子幼沖,宜依漢和熹皇后故事。辭讓數四,不得已而臨朝攝萬機。后兄中書令亮管詔命,公卿奏事稱皇太后陛下。」
【参考】
『宋書』五行志:「晉成帝咸和元年秋,旱。是時庾太后臨朝稱制,羣臣奏事稱「皇太后陛下」。此婦人專王事,言不從而僭踰之罰也。與漢鄧太后同事。」

現代語訳

成帝咸和元年(326年),夏秋に日照りとなった。この時庾太后が政治を行っていた。これは「言の不従」であり節度を越えた罰である。

原文

二年夏,旱。五年五月,大旱。六年四月,大旱。八年秋七月,旱。九年,自四月不雨,至于八月。

訓読

二年夏,旱す〔一〕。五年五月,大いに旱す〔二〕。六年四月,大いに旱す〔三〕。八年秋七月,旱す。九年,四月より雨ふらず,八月に至る〔四〕。

〔一〕『晋書』成帝紀:「(咸和二年)夏四月,旱。己未,豫章地震。」
〔二〕『晋書』成帝紀:「(咸和五年)夏五月,旱,且飢疫。」
〔三〕『晋書』成帝紀:「(咸和六年)夏四月,旱。」
〔四〕『晋書』成帝紀:「(咸和九年)秋八月,大雩。自五月不雨,至于是月。」
【参考】
『宋書』五行志:「咸和二年夏,旱。咸和五年五月,旱。去年殄蘇峻之黨,此春又討郭默滅之。亢陽動眾之應也。咸和六年四月,旱。去年八月,石勒遣郭敬寇襄陽,南中郎將周撫奔武昌。十月,李雄使李壽寇建平,建平太守楊謙奔宜都。此正月,劉徵略婁縣,於是起眾警備。咸和八年七月,旱。咸和九年,自四月不雨,至于八月。」

現代語訳

咸和二年(327年)夏,日照りとなった。五年(330年)五月,ひどい日照りとなった。六年(331年)四月,ひどい日照りとなった。八年(333年)秋七月,日照りとなった。九年(334年),四月から雨がふらないまま八月となった。

原文

咸康元年六月,旱。是時成帝沖弱,未親萬機,內外之政,決之將相。此僭踰之罰,連歲旱也。至四年,王導固讓太傅,復子明辟。是後不旱,殆其應也。時天下普旱,會稽・餘姚特甚,米斗直五百,人有相鬻者。二年三月,旱。三年六月,旱。時王導以天下新定,務在遵養,不任刑罰,遂盜賊公行,頻五年亢旱,亦舒緩之應也。

訓読

咸康元年六月,旱す。〔一〕是の時成帝沖弱にして,未だ萬機を親らせず,內外の政,之を將相に決す。此れ僭踰の罰にして,連歲旱す。四年に至り,王導固く太傅を讓り〔一〕,復子明辟す。是の後旱せず,殆んど其の應なり。時に天下普く旱して,會稽・餘姚特に甚し。米斗の直五百となり,人 相い鬻る者有り〔三〕。二年三月,旱す〔四〕。三年六月,旱す〔五〕。時に王導 天下を以て新たに定め〔六〕,務めは遵養に在り,刑罰に任ぜず,遂に盜賊公行し,頻に五年亢旱し,亦た舒緩の應なり。

〔一〕『晋書』成帝紀:「(咸康元年)是歲,大旱,會稽餘姚尤甚,米斗五百價,人相賣。」
〔二〕『晋書』成帝紀:「(咸康四年)五月乙未,以司徒王導為太傅・都督中外諸軍事,司空郗鑒為太尉,征西將軍庾亮為司空。」
『晉書』王導伝:「時大旱,導上疏遜位。詔曰「夫聖王御世,動合至道,運無不周,故能人倫攸敘,萬物獲宜。朕荷祖宗之重,託於王公之上,不能仰陶玄風,俯洽宇宙,亢陽踰時,兆庶胥怨,邦之不臧,惟予一人。公體道明哲,弘猶深遠,勳格四海,翼亮三世,國典之不墜,實仲山甫補之。而猥崇謙光,引咎克讓,元首之愆,寄責宰輔,祇增其闕。博綜萬機,不可一日有曠。公宜遺履謙之近節,遵經國之遠略。門下速遣侍中以下敦喻。」導固讓。詔累逼之,然後視事。」
〔三〕上注〔一〕参照
〔四〕『晋書』成帝紀:「(咸康二年)三月,旱,詔太官減膳,免所旱郡縣繇役。」
〔五〕『晋書』巻七 紀第七:「(咸康三年)夏六月,旱。」
〔六〕『晉書』王導伝:「導善於因事,雖無日用之益,而歲計有餘。時帑藏空竭,庫中惟有綀數千端,鬻之不售,而國用不給。導患之,乃與朝賢俱制綀布單衣,於是士人翕然競服之,綀遂踴貴。乃令主者出賣,端至一金。其為時所慕如此。」
【参考】
『宋書』五行志:「晉成帝咸康元年六月,旱。是時成帝沖弱,不親萬機,內外之政,委之將相。此僭踰之罰,故連歲旱也。至四年,王導固讓太傅,復子明辟,是後不旱,殆其應也。時天下普旱,會稽餘姚特甚,米斗直五百,民有相鬻。咸康二年三月,旱。咸康三年六月,旱。」

現代語訳

咸康元年六月(335年),日照りとなった。この時成帝が幼く,まだ政務を自分で執り行わず,內外の政治は宰相や将軍が決めた。これは節度をこえたことの罰であり,連年日照りとなった。四年(339年)となり,王導は固く太傅の位を断り,政治の権力を返還した。この後日照りがおこらなくなったことは,おそらくはその応である。その時国中そこかしこで日照りとなり,会稽と余姚が特にひどく,米一斗の値段が五百となり,人身売買をするものもいた。二年三月,日照りとなった。三年六月,日照りとなった。その時王導は政治を刷新し,施策は民を休めて国力を蓄えることにし,刑罰には頼らず,その結果盜賊が横行し,五年の間でしきりに日照りがおこった。これもまた舒緩の応である。

原文

康帝建元元年五月,旱。

訓読

康帝建元元年五月,旱す〔一〕。

〔一〕『晋書』巻七 紀第七:「(建元元年)五月,旱。」
【参考】
『宋書』五行志:「晉康帝建元元年五月,旱。是時宰相專政,方伯擅重兵,又與咸康初同事也。」

現代語訳

康帝の建元元年(343年)五月,日照りとなった。

原文

穆帝永和元年五月,旱。是時帝在襁褓,褚太后臨朝,如明穆太后故事。五年七月不雨,至于十月。六年夏,旱。八年夏,旱。九年春,旱。

訓読

穆帝永和元年五月,旱す。是の時帝襁褓に在りて,褚太后〔一〕臨朝す〔二〕。明穆太后の故事の如くす。五年七月雨ふらず,十月に至る。六年夏,旱す。八年夏,旱す。九年春,旱す〔三〕。

〔一〕『晋書』巻三十二 列伝第二:「康獻褚皇后諱蒜子,河南陽翟人也。父裒,見外戚傳。后聰明有器識,少以名家入為琅邪王妃。及康帝即位,立爲皇后,封母謝氏爲尋陽鄉君。」
〔二〕『晋書』巻八 紀第八:「穆皇帝諱聃,字彭子,康帝子也。建元二年九月丙申,立為皇太子。戊戌,康帝崩。己亥,太子即皇帝位,時年二歲。大赦,尊皇后為皇太后。壬寅,皇太后臨朝攝政。」
〔三〕『晋書』巻八 紀第八:「三月,旱。交州刺史阮敷討林邑范佛于日南,破其五十餘壘。」
【参考】
『宋書』五行志:「晉穆帝永和元年五月,旱。有司奏依董仲舒術,徙市開水門,遣謁者祭太社。是時帝在繈抱,褚太后臨朝如明穆太后故事。」

現代語訳

穆帝の永和元年(345年)五月,日照りとなった。このとき時帝は乳飲み子であって,褚太后が政治を行った。これは明穆太后の故事のようにしたのである。五年(349年)七月雨が降らないまま十月に至った。六年(350年)夏,日照りとなった。八年(352年)夏,日照りとなった。九年(353年)春,日照りとなった。

原文

升平三年冬,大旱。 四年冬,大旱。

訓読

升平三年冬,大旱す。 四年冬,大旱す。

【参考】
『宋書』五行志:「晉穆帝升平三年十二月,大旱。此冬十月,北中郎將郄曇帥萬餘人出高平,經略河・兗。又遣將軍諸葛悠以舟軍入河,敗績。西中郎將謝萬次下蔡,眾潰而歸。升平四年十二月,大旱。」

現代語訳

升平三年(359年)冬,大干ばつとなった。 四年(360年)冬,大干ばつとなった。

原文

哀帝隆和元年夏,旱。是時桓溫強恣,權制朝廷,僭踰之罰也。

訓読

哀帝隆和元年夏,旱す〔一〕。是の時桓溫〔二〕強恣し,朝廷を權制す。僭踰の罰なり。

〔一〕『晋書』哀帝紀:「(隆和元年)夏四月,旱。」
『晋書』桓温伝:「溫以既總督內外,不宜在遠,又上疏陳便宜七事。其一,朋黨雷同,私議沸騰,宜抑杜浮競,莫使能植。其二,戶口凋寡,不當漢之一郡,宜并官省職,令久於其事。其三,機務不可停廢,常行文案宜為限日。其四,宜明長幼之禮,奬忠公之吏。其五,褒貶賞罰,宜允其實。其六,宜述遵前典,敦明學業。其七,宜選建史官,以成晉書。有司皆奏行之。」
【参考】
『宋書』五行志:「晉哀帝隆和元年夏,旱。是時桓溫強恣,權制朝廷,僭踰之罰也。又去年慕容恪圍冀州刺史呂護,桓溫出次宛陵,范汪・袁真並北伐,眾出過時也。」

現代語訳

哀帝の隆和元年(362年)夏,日照りとなった。この時、桓溫が好き勝手し,朝廷で権力を振った。節度をこえたことによる罰である。

原文

海西公太和元年夏,旱。四年冬,旱。涼州春旱至夏。

訓読

海西公太和元年夏,旱す〔一〕。四年冬,旱す。涼州〔二〕春旱して夏に至る。

〔一〕『晋書』廃帝海西公紀:「(太和元年」夏四月,旱。」
【参考】
『宋書』五行志:「晉海西太和四年十二月,涼州春旱至夏。」

現代語訳

海西公の太和元年(366年)夏,日照りとなった。四年(370年)冬,日照りとなった。涼州では春に日照りとなってそのまま夏に至った。

原文

簡文帝咸安二年十月,大旱,饑。自永和至是,嗣主幼沖,桓溫陵僭,用兵征伐,百姓怨苦。

訓読

簡文帝咸安二年十月,大いに旱し,饑う。永和より是に至るまで,嗣主幼沖にして,桓溫陵僭し〔一〕,兵を用ひて征伐し,百姓怨苦す〔二〕。

〔一〕『晋書』巻八 紀第八:桓溫有不臣之心,欲先立功河朔,以收時望。及枋頭之敗,威名頓挫,遂潛謀廢立,以長威權。
『晉書』桓温伝:「溫既負其才力,久懷異志,欲先立功河朔,還受九錫。既逢覆敗,名實頓減,於是參軍郗超進廢立之計,溫乃廢帝而立簡文帝。詔溫依諸葛亮故事,甲仗百人入殿,賜錢五千萬,絹二萬匹,布十萬匹。溫多所廢徙,誅庾倩・殷涓・曹秀等。是時溫威勢翕赫,侍中謝安見而遙拜,溫驚曰「安石,卿何事乃爾!」安曰「未有君拜於前,臣揖於後。」時溫有腳疾,詔乘輿入朝,既見,欲陳廢立本意,帝便泣下數十行,溫兢懼不得一言而出。」
〔二〕『晋書』高崧伝」:「簡文帝輔政,引為撫軍司馬。時桓溫擅威,率眾北伐,軍次武昌,簡文患之。」
『晉書』桓温伝:「太和四年,又上疏悉眾北伐。平北將軍郗愔以疾解職,又以溫領平北將軍・徐兗二州刺史,率弟南中郎沖・西中郎袁真步騎五萬北伐。百官皆於南州祖道,都邑盡傾。軍次湖陸,攻慕容暐將慕容忠,獲之,進次金郷。時亢旱,水道不通,乃鑿鉅野三百餘里以通舟運,自清水入河。暐將慕容垂・傅末波等率眾八萬距溫,戰于林渚。溫擊破之,遂至枋頭。先使袁真伐譙梁,開石門以通運。真討譙梁皆平之,而不能開石門,軍糧竭盡。溫焚舟步退,自東燕出倉垣,經陳留,鑿井而飲,行七百餘里。垂以八千騎追之,戰于襄邑,溫軍敗績,死者三萬人。溫甚恥之,歸罪於真,表廢為庶人。真怨溫誣己,據壽陽以自固,潛通苻堅、慕容暐。」
【参考】
『宋書』五行志:「晉簡文帝咸安二年十月,大旱民飢。是時嗣主幼沖,桓溫陵僭。」

現代語訳

簡文帝の咸安二年(372年)十月,ひどい日照りとなり,飢饉となった。永和年間からこの年(咸安二年)まで,天下を受け継いだ人君は幼く,桓溫が身分をこえて驕り,軍を指揮して征伐し,多くの民衆が恨み苦しんだ。

原文

孝武帝寧康元年三月,旱。是時桓溫入覲高平陵,闔朝致拜,踰僭之應也。三年冬,旱。

訓読

孝武帝寧康元年三月,旱す〔一〕。是の時桓溫 入りて高平陵に覲するに〔二〕,闔朝 拜を致す。踰僭の應なり。三年冬,旱す。

〔一〕『晋書』孝武帝紀には,寧康元年三月のに「旱」の記載はないが,「夏五月,旱。」とある。
〔二〕『晋書』桓温伝:「及孝武即位(中略)溫既至,以盧悚入宮,乃收尚書陸始付廷尉,責替慢罪也。於是拜高平陵,左右覺其有異,既登車,謂從者曰,先帝向遂靈見。」
【参考】
『宋書』五行志:「晉孝武帝寧康元年二月,旱。是時桓溫入覲高平陵,闔朝致拜,踰僭之應也。」

現代語訳

孝武帝の寧康元年(373年)三月,日照りとなった。この時桓溫が高平陵(簡文帝の墓)で孝武帝に拝謁したさいに,すべての朝臣が(桓温)に拝礼をした。節度をこえたことの応である。三年(376年)冬,日照りとなった。

原文

太元四年夏,大旱。八年六月,旱。十年七月,旱,饑。初,八年破苻堅,九年諸將略地,有事徐豫,楊亮、趙統攻討巴沔。是年正月,謝安又出鎮廣陵,使子琰進次彭城,頻有軍役。

訓読

太元四年夏,大いに旱す〔一〕。八年六月,旱す。十年七月,旱して,饑う〔二〕。初め,八年苻堅を破り〔三〕,九年諸將略地し,事 徐豫に有りて,楊亮、趙統 巴沔(はべん)を攻め討つ〔四〕。是の年正月,謝安又た出でて廣陵を鎮め,子琰をして彭城に進次せしめ,頻(しき)りに軍役有り。

〔一〕『晋書』孝武帝紀:「(太元四年)六月,大旱。戊子,征虜將軍謝玄及超、難戰于君川,大破之。」
〔二〕『晋書』孝武帝紀:「(太元十年)秋七月,苻丕自枋頭西走,龍驤將軍檀玄追之,為丕所敗。旱,饑。丁巳,老人星見。」
〔三〕『晋書』孝武帝紀:「(太元八年)冬十月,苻堅弟融陷壽春。乙亥,諸將及苻堅戰于肥水,大破之,俘斬數萬計,獲堅輿輦及雲母車。」
〔四〕『晋書』孝武帝紀:「(太元八年)夏五月,輔國將軍楊亮伐蜀,拔五城,擒苻堅將魏光。」「(太元九年夏四月)使竟陵太守趙統伐襄陽,克之。」
『晋書』苻堅載記上:「晉梁州刺史楊亮遣督護郭寶率騎千餘救之,戰於陜中,為雅等所敗,纂收眾奔還」
【参照】
『宋書』五行志:「太元十年七月,旱饑。初八年,破苻堅。九年,諸將略地,有事徐、豫。楊亮、趙統攻討巴・沔。是年正月,謝安又出鎮廣陵,使子琰進次彭城。」

現代語訳

太元四年(379年)夏,大日照りとなった。八年(383年)六月,日照りとなった。十年(385年)七月,日照りとなり,飢饉となった。初め,八年に苻堅を破り,九年に諸将が国土を略奪し,反乱が徐州や豫州で起こり,楊亮、趙統が巴(巴蜀)沔(梁州)を攻め討った。この年の正月,謝安はさらに出陣して広陵を鎮め,子の琰を彭城へ進駐させ,しばしば軍役があった。

原文

十三年六月,旱。去歲北府遣戍胡陸,荊州經略河南。是年夏,郭銓置戍野王,又遣軍破黃淮。

訓読

十三年六月,旱す〔一〕。去歲 北府 戍を胡陸に遣わし,荊州 河南を經略す。是の年の夏,郭銓〔二〕戍を野王に置き,又た軍を遣わし黃淮を破る。

〔一〕『晋書』孝武帝紀:「(太元十三年)夏六月,旱。乞伏國仁死,弟乾歸嗣偽位,僭號河南王。」
〔二〕『晋書』孝武帝紀:「(太元十三年)秋九月,翟遼將翟發寇洛陽,河南太守郭給距破之。」※「郭洽」について、『晋書』孝武帝紀、太元八年の中華書局本に「斠注,苻堅載記作「郭銓」。按,通鑑一〇五亦作「郭銓」。」と校注があり、郭洽は郭銓のことか。
【参照】
『宋書』五行志:「太元十三年六月,旱。去歲, 北府遣戍胡陸,荊州經略河南。是年,郭銓置戍野王,又遣軍破黃淮。」

現代語訳

十三年(388年)六月,日照となった。前の年に北府が胡陸に守備兵を遣わし,荊州が河南を平定した。この年の夏,郭銓が野王に守備兵を置き,さらに軍を使わして黄河・淮水周辺地域を攻略した。

原文

十五年七月,旱。十七年,秋旱至冬。是時烈宗仁恕,信任會稽王道子,政事舒緩。又茹千秋爲驃騎諮議,竊弄主相威福。又比丘尼・乳母・親黨及婢僕之子階緣近習,臨部領眾。又所在多上春竟囚,不以其辜,建康獄吏,枉暴既甚。此又僭踰不從冤濫之罰。

訓読

十五年七月,旱す。十七年,秋 旱し冬に至る〔一〕。是の時 烈宗 仁恕にして,會稽王道子を信任し〔二〕,政事 舒緩〔三〕なり。又た茹千秋 驃騎諮議と爲り,主を竊弄し相い威福す。又た比丘尼・乳母・親黨及び婢僕の子 近習に階緣して,部に臨み眾を領す〔四〕。又た所在多く上春 囚を竟するに,其の辜を以てせず,建康の獄吏,枉暴なること既に甚し。此れ又た僭踰不從,冤濫の罰なり。

〔一〕『晋書』孝武帝紀:「(太元十七年)是歲,自秋不雨,至于冬。」
〔二〕『晋書』孝武帝紀:「(太元十七年)十一月癸酉,以黃門郎殷仲堪爲都督荊益梁三州諸軍事,荊州刺史。庚寅,徙封琅邪王道子爲會稽王,封皇子德文爲琅邪王。」
〔三〕『漢書』五行志中之下:「成公元年,二月,無冰。董仲舒以爲方有宣公之喪,君臣無悲哀之心,而炕陽,作丘甲。劉向以爲時公幼弱,政舒緩也。」
〔四〕『晋書』簡文三子伝:「于時孝武帝不親萬機,但與道子酣歌為務,姏姆尼僧,尤為親暱,並竊弄其權。凡所幸接,皆出自小豎。郡守長吏,多為道子所樹立。既為揚州總錄,勢傾天下,由是朝野奔湊。……于時朝政既紊,左衞領營將軍會稽許榮上疏曰,今臺府局吏、直衞武官及僕隸婢兒取母之姓者,本臧獲之徒,無郷邑品第,皆得命議,用爲郡守縣令,並帶職在內,委事於小吏手中。僧尼乳母,競進親黨,又受貨賂,輒臨官領眾。」
【参照】
『宋書』五行志:「太元十五年七月,旱。是春,丁零略兗、豫,鮮卑寇河上。朱序,桓不才等北至太行,東至滑臺,踰時攻討,又戍石門。太元十七年秋,旱,至冬。是時茹千秋為驃騎諮議,竊弄主相威福。又丘尼乳母親黨及婢僕之子,階緣近習,臨民領眾。又在所多上春竟囚,不以其辜,建康獄吏枉暴尤甚。此僭踰不從,寃濫之罰也。」

現代語訳

十五年(390年)七月,日照りとなった。十七年(392年),秋に日照りとなり冬まで続いた。この時烈宗(孝武帝)は仁に篤く,會稽王の司馬道子を信任して,政事は舒緩であった。また茹千秋は驃騎諮議となり,皇帝をたばかり、刑罰や恩賞を勝手に与えた。さらに比丘尼 や乳母、一族郎党及び下男下女が権力者に取り入って,民衆を統べ治めた。さらに、いたるところで一月に囚人を尋問するのに,その罪状によらなかった。建康の獄吏でさえ法を曲げて横暴なことが甚だしかった。これは節度を越えたものであって不従であり、冤罪が多発した罰である。

原文

安帝隆安二年冬,旱,寒甚。四年五月,旱。五年,夏秋大旱。十二月,不雨。時孫恩作亂,桓玄疑貳,迫殺殷仲堪,而朝廷卽授以荊州之任,司馬元顯又諷百僚悉使敬己,內外騷動,兵革煩興。此皆陵僭憂愁之應也。

訓読

安帝隆安二年冬,旱す,寒なること甚し。四年五月,旱す〔一〕。五年,夏秋大いに旱す。十二月,雨ふらず。時に孫恩亂を作し,桓玄貳くを疑い,迫りて殷仲堪を殺す〔二〕。而して朝廷卽ち授けるに荊州の任を以てし,司馬元顯 又た百僚に諷して悉く己を敬わしむ〔三〕。內外騷動し,兵革 煩れ興る。此れ皆陵僭憂愁の應なり。

〔一〕『晋書』安帝紀:「(隆安四年)六月庚辰朔,日有蝕之。旱。」
〔二〕『晋書』安帝紀:「(隆安三年)十一月甲寅,妖賊孫恩陷會稽,內史王凝之死之,吳國內史桓謙・臨海太守新蔡王崇・義興太守魏隱並委官而遁,吳興太守謝邈・永嘉太守司馬逸皆遇害。遣衞將軍謝琰・輔國將軍劉牢之逆擊,走之。十二月,桓玄襲江陵,荊州刺史殷仲堪,南蠻校尉楊佺期並遇害。」
〔三〕『晉書』桓玄伝:「於是遂平荊雍,乃表求領江・荊二州。詔以玄都督荊司雍秦梁益寧七州・後將軍・荊州刺史・假節,以桓脩爲江州刺史。玄上疏固爭江州,於是進督八州及楊豫八郡,復領江州刺史。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉安帝隆安四年五月,旱。去冬桓玄迫殺殷仲堪,而朝廷即授以荊州之任。司馬元顯又諷百僚悉使敬己。此皆陵僭之罰也。」

現代語訳

安帝隆安二年(398年)冬,日照りとなり,非常に寒かった。四年(400年)五月,日照りとなった。五年(401年),夏秋 大日照りとなった。十二月,雨が降らなかった。時に孫恩が反乱を起こし,桓玄は(殷仲堪が)背いたことを疑い、迫って殷仲堪を殺した。そして、朝廷は荊州刺史の任を授け,司馬元顯はさらに役人たちにさとして、ことごとく皆 自分(元顯)を敬わせた。內外が乱れ,反乱が次々に起こった。これらはみな陵僭憂愁の応である。

原文

元興元年七月,大饑。九月,十月不雨,泉水涸。二年六月,不雨。冬,又旱。時桓玄奢僭,十二月遂簒位。三年八月,不雨。

訓読

元興元年七月,大いに饑う。九月,十月雨ふらず,泉水涸る。二年六月,雨ふらず。冬,又た旱す。時に桓玄 奢僭し,十二月遂に簒位す〔一〕。三年八月,雨ふらず。

〔一〕『晋書』安帝紀:「(元興二年)十二月壬辰,玄簒位,以帝爲平固王。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉安帝元興元年七月,大饑,九月十月不雨。是年正月,司馬元顯以大眾將討桓玄,既而玄至,殺元顯。五月,又遣東征孫恩餘黨,十月,北討劉軌。元興二年六月,不雨,冬,又旱。是時桓玄奢僭,十二月,遂簒位。」

現代語訳

元興元年(402年)七月,大飢饉となった。九月、十月は雨が降らず,泉の水が涸れた。二年(404年)六月,雨が降らなかった。冬,さらに日照りとなった。その時、桓玄がおごり高ぶっており,十二月にとうとう帝位を簒奪した。三年(405年)八月,雨が降らなかった。

原文

義熙四年冬,不雨。六年九月,不雨。八年十月,不雨。九年,秋冬不雨。十年九月,旱。十二月又旱,井瀆多竭。是時軍役煩興。

訓読

義熙四年冬,雨ふらず〔一〕。六年九月,雨ふらず。八年十月,雨ふらず。九年,秋冬雨ふらず。十年九月,旱す。十二月又た旱して,井瀆多く竭(つ)く。是の時軍役煩(みだ)れ興る。

〔一〕『晋書』安帝紀:「(義熙四年)冬十一月癸丑,雷。梁州刺史楊思平有罪,棄市。辛卯,大風拔樹。是月。禿髮傉檀僭即涼王位。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉安帝義熙六年九月,不雨。是時王師北討廣固,疆理三州。義熙八年十月,不雨。是秋,王師西討劉毅。分遣伐蜀。義熙十年九月,旱,十二月,又旱。井瀆多竭。」

現代語訳

義熙四年(408年)冬,雨が降らなかった。六年(410年)九月,雨が降らなかった。八年(412年)十月,雨が降らなかった。九年(413年),秋と冬に雨が降らなかった。十年(414年)九月,日照りとなった。十二月さらに日照りとなり,井戸や水路が多く水が尽きた。この時反乱がいたるところで起こった。

詩妖

原文

魏明帝太和中,京師歌兜鈴曹子,其唱曰「其柰汝曹何」。此詩妖也。其後曹爽見誅,曹氏遂廢。

訓読

魏の明帝の太和中,京師に「兜鈴曹子」を歌ふ,其の唱に曰はく「其れ汝曹を柰何せん」と。此れ詩妖なり。其の後,曹爽誅せられ,曹氏遂に廢す〔一〕。

〔一〕『三国志』魏書,曹爽伝:「爽以支屬,世蒙殊寵,親受先帝握手遺詔,託以天下,而包藏禍心,蔑棄顧命,乃與晏、颺及當等謀圖神器,範黨同罪人,皆為大逆不道」。於是收爽・羲・訓・晏・颺・謐・軌・勝・範、當等,皆伏誅,夷三族。」
【参照】
『宋書』五行志:「魏明帝太和中,京師歌兜鈴曹子,其唱曰「其奈汝曹何。此詩妖也。其後曹爽見誅,曹氏遂廢」。

現代語訳

魏の明帝(曹叡)の太和(227-233年)年間,都で「兜鈴の曹子」が流行り歌われ,そのなかで「さて汝曹(お前たち)をどうしようか」と歌われた,これは詩妖である。その後,曹爽が殺され,曹氏は,かくて廃れた。

原文

景初初,童謠曰「阿公阿公駕馬車。不意阿公東渡河,阿公來還當柰何」。及宣帝遼東歸,至白屋,當還鎮長安。會帝疾篤,急召之,乃乘追鋒車東渡河,終如童謠之言。

訓読

景初の初め,童謠に曰はく「阿公,阿公,馬車に駕る。意はず阿公河を東渡す〔一〕,阿公來還するに當に柰何すべきか」と。宣帝遼東より歸り,白屋に至り,當に長安に還鎭せんとするに及び,會たま帝の疾篤く,急ぎ之を召すに,乃ち追鋒車に乘り河を東渡す〔二〕,終ひに童謠の言の如し。

〔一〕『三国志』魏書,東夷伝,高句麗伝:「景初二年,太尉司馬宣王率眾討公孫淵,宮遣主簿大加將數千人助軍。」
〔二〕『三国志』,魏書,明帝紀,景初三年:「三年春正月丁亥,太尉宣王還至河内,帝驛馬召到,引入臥内,執其手謂曰「吾疾甚,以後事屬君,君其與爽輔少子。吾得見君,無所恨。」宣王頓首流涕。即日,帝崩于嘉福殿,時年三十六。癸丑,葬高平陵。」
『晋書』宣帝紀,景初二年:「初,帝至襄平,夢天子枕其膝,曰「視吾面。」俛視有異於常,心惡之。先是,詔帝便道鎭關中,及次白屋,有詔召帝,三日之間,詔書五至。手詔曰「間側息望到,到便直排閤入,視吾面。」帝大遽,乃乘追鋒車晝夜兼行,自白屋四百餘里,一宿而至。引入嘉福殿臥内,升御牀。帝流涕問疾,天子執帝手,目齊王曰「以後事相託。死乃復可忍,吾忍死待君,得相見,無所復恨矣。」與大將軍曹爽並受遺詔輔少主。」
【参照】
『宋書』五行志:「魏明帝景初中,童謠曰「阿公阿公駕馬車,不意阿公東渡河。阿公東還當奈何。」及宣王平遼東,歸至白屋,當還鎮長安。會帝疾篤,急召之。乃乘追鋒車東渡河,終翦魏室,如童謠之言也。」

現代語訳

景初(魏の明帝・曹叡237—239年)の初め,童謡に「おじいさん,おじいさん,馬車にのる。おもいもかけずおじいさん河(黄河)を東にわたる,おじいさん帰って来るのにどうすればいいの」と歌われた。宣帝(司馬懿)が遼東より帰り,白屋に到着し,ちょうど長安に帰って鎮守の任につこうとしていたところ,ちょうどその時,帝の病が重く,急いで彼が召された,そこで(速く走れる)追鋒車に乗って河を東岸に渡り,結局,童謡の言葉通りとなった。

原文

齊王嘉平中,有謠曰「白馬素羈西南馳,其誰乘者朱虎騎。」朱虎者,楚王小字也。王淩・令狐愚 聞此謠,謀立彪。事發,淩等伏誅,彪賜死。

訓読

齊王の嘉平中,謠有りて曰はく「白馬の素羈西南に馳す,其れ誰か乘る者 朱虎が騎る。」と。朱虎は,楚王の小字なり〔一〕。王淩・令狐愚〔二〕 此の謠を聞きて,彪を立てんことを謀る。事 發して,淩等伏誅し,彪は死を賜はる〔三〕。

〔一〕『三国志』魏書,武文世王公伝,楚王彪伝:「楚王彪 字朱虎。」
〔二〕『三国志』,魏書,王毌丘諸葛鄧鍾伝,王淩伝:「王淩字彥雲,太原祁人也。叔父允,為漢司徒,誅董卓。卓將李傕,郭汜等為卓報仇,入長安,殺允,盡害其家。淩及兄晨,時年皆少,踰城得脫,亡命歸鄉里。淩舉孝廉,為發干長,稍遷至中山太守,所在有治,太祖辟為丞相掾屬。」
『三国志』魏書,王毌丘諸葛鄧鍾伝,令狐愚伝:「是時,淩外甥令狐愚 以才能為兗州刺史,屯平阿。舅甥並典兵,專淮南之重。淩就遷為司空。司馬宣王既誅曹爽,進淩為太尉,假節鉞。淩,愚密協計,謂齊王不任天位,楚王彪長而才,欲迎立彪都許昌。嘉平元年九月,愚遣將張式至白馬,與彪相問往來。淩又遣舍人勞精詣洛陽,語子廣。廣言「廢立大事,勿為禍先。」其十一月,愚復遣式詣彪,未還,會愚病死。*二年,熒惑守南斗,淩謂「斗中有星,當有暴貴者。」三年春,吳賊塞涂水。淩欲因此發,大嚴諸軍,表求討賊,詔報不聽。淩陰謀滋甚,遣將軍楊弘以廢立事告兗州刺史黃華,華,弘連名以白太傅司馬宣王。宣王將中軍乘水道討淩,先下赦赦淩罪,又將尚書廣東,使為書喻淩,大軍掩至百尺逼淩。淩自知勢窮,乃乘船單出迎宣王,遣掾王彧謝罪,送印綬,節鉞。軍到丘頭,淩面縛水次。宣王承詔遣主簿解縛反服,見淩,慰勞之,還印綬,節鉞,遣步騎六百人送還京都。淩至項,飲藥死。宣王遂至壽春。張式等皆自首,乃窮治其事。彪賜死,諸相連者悉夷三族。」
*裴松之注「魏略曰,愚聞楚王彪有智勇。初東郡有譌言云「白馬河出妖馬,夜過官牧邊鳴呼,眾馬皆應,明日見其迹,大如斛,行數里,還入河中。」又有謠言「白馬素羈西南馳,其誰乘者朱虎騎。」楚王小字朱虎,故愚與王淩陰謀立楚王。乃先使人通意於王,言「使君謝王,天下事不可知,願王自愛」,彪亦陰知其意,答言「謝使君,知厚意也。」」
〔三〕『三国志』魏書,武文世王公伝,楚王彪伝:「(黄初)七年,徙封白馬。太和五年冬,朝京都。六年,改封楚。(中略)嘉平元年,兗州刺史令狐愚與太尉王淩謀迎彪都許昌。語在淩傳。乃遣傅及侍御史就國案驗,收治諸相連及者。廷尉請徵彪治罪。於是依漢燕王旦故事,使兼廷尉大鴻臚持節賜彪璽書切責之,使自圖焉。彪乃自殺。妃及諸子皆免為庶人,徙平原。彪之官屬以下及監國謁者,坐知情無輔導之義,皆伏誅。」
『三国志』魏書方技伝,朱建平伝:「曹彪封楚王,年五十七,坐與王淩通謀,賜死。」
【参照】
『宋書』五行志:「魏齊王嘉平中,有謠曰「白馬素覊西南馳,其誰乘者朱虎騎。」朱虎者,楚王彪小字也。王淩,令狐愚聞此謠,謀立彪。事發,淩等伏誅,彪賜死。」

現代語訳

魏の斉王(曹芳)の嘉平(249-254年)中,謡が流行り,「素羈(しろきたづな)の白馬が西南に走る,それは誰が乗っている,朱虎(あかい虎)が乗っている。」と歌われた。朱虎とは,楚王(曹彪)の幼名である。そこで王淩と令狐愚はこの謡を聞いて,曹彪を帝位に立てることを企てた。事が露呈し,王淩等は誅殺され,曹彪は死を賜わった。

原文

吳孫亮初,童謠曰「吁汝恪,何若若,蘆葦單衣篾鉤絡,於何相求常子閣。」「常子閣」者,反語石子堈也。鉤絡,鉤帶也。及諸葛恪死,果以葦席裹身,篾束其要,投之石子堈。後聽恪故吏收斂。求之此堈云。

訓読

吳の孫亮の初め,童謠に曰はく「吁,汝恪,何ぞ若若たる,蘆葦の單衣 篾の鉤絡,何くに於いてか相求す,常子閣か。」と。「常子閣」なる者は,石子堈の反語〔二〕なり。鉤絡は,鉤帶なり。諸葛恪〔一〕死するに及び,果して葦席を以て身を裹み,篾もて其の要を束ね,之を石子堈に投ず。後恪の故吏の收斂するを聽す。之を此の堈に求むと云ふ。〔三〕

〔一〕『三国志』吳書,諸葛滕二孫濮陽伝,諸葛恪伝:「諸葛恪,字元遜,瑾長子也」
〔二〕反語は,反切のこと。「常子閣」の「常」の声母と「閣」の韻母から「石」の字が導き出され,「閣」の声母と「常」の韻母から「堈」の字が導き出され「石子堈」となる。
〔三〕『三国志』吳書,諸葛滕二孫濮陽伝,諸葛恪伝:「先是,童謠曰「諸葛恪,蘆葦單衣篾鉤落,於何相求成子閤。」成子閤者,反語石子岡也。建業南有長陵,名曰石子岡,葬者依焉。鉤落者,校飾革帶,世謂之鉤絡帶。恪果以葦席裹其身而篾束其腰,投之於此岡。」
【参照】
『宋書』五行志:吳孫亮初,童謠曰「吁汝恪,何若若,蘆葦單衣篾鈎絡,於何相求成子閣。」成子閣者,反語石子堈也。鈎落,釣帶也。及諸葛恪死,果以葦席裹身,篾束其要,投之石子堈。後聽恪故吏收歛,求之此堈云。

現代語訳

吳の孫亮の治世(252-258年)の初めに,童謡に「ああ,恪さん,何と盛んなのか,蘆葦(あし)の単衣に篾(薄く割った竹)の鉤絡,どこで探すのだろう,常子閣か。」と歌われた。「常子閣」は,「石子堈」の反語である。鉤絡は,鉤(バックル)帯のことである。諸葛恪が死んだ時,結局葦のむしろで身を包み,篾で,その腰をたばねて,「石子堈」に投げこまれた。そののち,諸葛恪につかえていた役人が彼を棺に収めることを許された,これ(諸葛恪の亡骸)をこの堈に探したという。

原文

孫亮初,公安有白鼉鳴。童謠曰,「白鼉鳴,龜背平,南郡城中可長生,守死不去義無成。」「南郡城中可長生」者,有急易以逃也。明年,諸葛恪敗,弟融鎮公安,亦見襲,融刮金印龜服之而死。鼉有鱗介,甲兵之象。又曰,白祥也。

訓読

孫亮の初め,公安に白鼉鳴くこと有り。童謠に曰はく「白鼉〔一〕鳴き,龜背平らか,南郡城中に長生す可し,守死し去らざるも義成ること無し。」と。「南郡城中 長生す可し」とは,急有らば以って逃ぐるに易きなり。明年,諸葛恪敗れ〔二〕,弟融 公安を鎭(おさ)むるも,亦た襲はれ,融 金印の龜を刮りて之を服し死す〔三〕。鼉に鱗介有り,甲兵の象なり。又た曰く,白祥なりと。

〔一〕加納善光『動物の漢字語源辞典』に「鼉」は「ヨウスコウワニ、中国名揚子鰐」。
〔二〕『三国志』吳書,三嗣主伝,孫亮伝,建興二年:「三月,恪率軍伐魏。夏四月,圍新城,大疫,兵卒死者大半。秋八月,恪引軍還。冬十月,大饗。武衞將軍孫峻伏兵殺恪於殿堂。」。孫峻は孫堅の弟,孫静の曾孫。
『三国志』吳書,張顧諸葛步伝,諸葛瑾 子融伝:「赤烏四年,年六十八卒,遺命令素棺斂以時服,事從省約。恪已自封侯,故弟融襲爵,攝兵業駐公安,部曲吏士親附之。」
裴松之注「吳書曰,融字叔長,生於寵貴,少而驕樂,學為章句,博而不精,性寬容,多技藝,數以巾褐奉朝請,後拜騎都尉。赤烏中,諸郡出部伍,新都都尉陳表,吳郡都尉顧承各率所領人會佃毗陵,男女各數萬口。表病死,權以融代表,後代父瑾領攝。」
〔三〕『三国志』吳書,張顧諸葛步伝,諸葛瑾 子融伝:「融父兄質素,雖在軍旅,身無采飾,而融錦罽文繡,獨為奢綺。孫權薨,徙奮威將軍。後恪征淮南,假融節,令引軍入沔,以擊西兵。恪既誅,遣無難督施寬就將軍施績,孫壹,全熙等取融。融卒聞兵士至,惶懼猶豫,不能決計,兵到圍城,飲藥而死,三子皆伏誅。
裴松之注「江表傳曰,先是,公安有靈鼉鳴,童謠曰「白鼉鳴,龜背平,南郡城中可長生,守死不去義無成。」及恪被誅,融果刮金印龜,服之而死。」
【参照】
『宋書』五行志:「孫亮初,公安有白鼉鳴。童謠曰「白鼉鳴,龜背平,南郡城中可長生,守死不去義無成。」南郡城可長生者,有急,易以逃也。明年,諸葛恪敗,弟融鎮公安,亦見襲。融刮金印龜,服之而死。鼉有鱗介,甲兵之象。又白兵祥也。」

現代語訳

孫亮の治世(252-258年)の初めに,公安で白い鼉(ワニ)が鳴くことがあった。童謠に「白いワニが鳴いて,亀の背中は平らになる,南郡城中では長生きでき,死守して去らずとも義はなりたたない。」とうたわれた。「南郡城中では長生できる」とは,危急のとき逃げることが容易なことである。翌年,諸葛恪が敗れ,弟の諸葛融は公安を守っていたが,(諸葛融も)また襲われ,諸葛融は金印の亀を刮って,これを飲んで死んだ。ワニは鱗状の甲があり,甲兵の象(象徴)である。また,白祥であるともいう。

原文

孫休永安二年,將守質子羣聚嬉戲,有異小兒忽來言曰「三公鋤,司馬如。」又曰「我非人,熒惑星也。」言畢上昇,仰視若曳一匹練,有頃沒。干寶曰「後四年而蜀亡,六年而魏廢,二十一年而吳平。於是九服歸晉。」。魏與吳蜀並戰國,「三公鋤,司馬如」之謂也。

訓読

孫休〔一〕の永安二年,將守の質子羣聚して嬉戲するに,異しき小兒有りて忽ち來りて言いて曰く「三公鋤し,司馬如く。」と。又た曰く「我は人に非らず,熒惑(けいわく)の星〔二〕なり。」と。言ひ畢はりて上昇するに,仰視すれば一匹の練を曳くが若し,頃く有りて沒す。干寶曰はく「後四年して蜀亡び,六年して魏廢れ,二十一年して吳平らぐ。是に於いて九服晉に歸す。」と。魏 吳蜀と竝びに國を戰す,「三公鋤し,司馬如く」の謂ひなり。

〔一〕『三國志』吳書,三嗣主伝,孫休伝:「孫休字子烈,權第六子。」
〔二〕『史記』天官書:「察剛氣以處熒惑 。曰南方火,主夏,日丙,丁。禮失,罰出熒惑,熒惑失行是也。出則有兵,入則兵散。以其舍命國。熒惑 為勃亂,殘賊,疾,喪,饑,兵。反道二舍以上,居之,三月有殃,五月受兵,七月半亡地,九月太半亡地。因與俱出入,國絕祀。」
【参照】
『宋書』五行志:「孫休永安二年,將守質子羣聚嬉戲,有異小子忽來,言曰「三公鋤,司馬如。」又曰,「我非人,熒惑星也。」言畢上升,仰視若曳一匹練,有頃沒。干寶曰,後四年而蜀亡,六年而魏廢,二十一年而吳平,於是九服歸晉。魏與吳,蜀,並為戰國,「三公鋤,司馬如」之謂也。」
『捜神記』巻八,中華書局:「吳以草創之國,信不堅固,邊屯守將,皆質其妻子,名曰,「保質童子。」少年以類相與娛遊者,日有十數。孫休永安三年二月,有一異兒,長四尺餘,年可六七歲,衣青衣,忽來從群兒戲。諸兒莫之識也,皆問曰,「爾誰家小兒,今日忽來。」答曰,「見爾群戲樂,故來耳。」詳而視之,眼有光芒,爚爚外射。諸兒畏之重問其故。兒乃答曰,「爾恐我乎。我非人也,乃熒惑星也,將有以告爾。三公歸於司馬。」諸兒大驚,或走告大人,大人馳往觀之。兒曰,「舍爾去乎。」聳身而躍,即以化矣。仰而視之,若曳一疋練以登天。大人來者,猶及見焉。飄飄漸高,有頃而沒。時吳政峻急,莫敢宣也。後四年而蜀亡,六年而魏廢,二十一年而吳平,是歸於司馬也。」
串田久治『王朝滅亡の予言歌 古代中国の童謡』(大修館書店,2009年)P.181も参照。串田久治には他に『中国古代の「謠」と「予言」』(創文社)がある。『晋書』天文志には,永安二年の「熒惑」に関する記載はない。

現代語訳

孫休の永安二(259)年,城を守る将軍の,人質としてとられていた子どもたちが,集まって遊んでいると,不思議な子どもが突然やってきて「三公鋤し,司馬如く。」と言った。またこの様にも「わたしは人ではない。熒惑の星(人を惑わす火星)なのだ。」と言った。言いおえて昇っていき,仰ぎ見ると一匹の白い練り絹を引いているようにみえ,しばらくすると消えた。干宝は「その後四年して蜀が亡び,六年して魏が廃れ,二十一年して吳が平定された。」と言った。こうしてそれぞれの地が晋に帰属した。魏と呉蜀とは互いに戦った,「三公鋤し,司馬如く。」のいわれである。

原文

孫晧遣使者祭石印山下妖祠,使者因以丹書巖曰「楚九州渚,吳九州都。揚州士,作天子。四世治,太平矣。」晧聞之,意益張,曰「從大皇帝至朕四世,太平之主非朕復誰。」恣虐踰甚,尋以降亡,近詩妖也。

訓読

孫晧 使者を遣はして石印山下の妖祠を祭らしむ,使者因りて丹を以て巖に書きて曰はく「楚は九州の渚,吳は九州の都。揚州の士〔一〕,天子と作る。四世にして治り,太平なり。」と。晧 之を聞きて,意 益ます張りて,曰はく「大皇帝從り朕に至りて四世,太平の主 朕に非ざれば復た誰ぞ。」と。恣虐踰いよ甚だしく,尋いで以て降亡す,詩妖に近きなり。

〔一〕『晋書斠注』には「呉志三嗣主傳宋志,土均作士」とある。
〔二〕『三国志』吳書,三嗣主伝,孫皓伝,天璽元年:「秋八月,……。鄱陽言歷陽山石文理成字,凡二十,云「楚九州渚,吳九州都,揚州士,作天子,四世治,太平始」。(江表傳曰,歷陽縣有石山臨水,高百丈,其三十丈所,有七穿駢羅,穿中色黃赤,不與本體相似,俗相傳謂之石印。又云,石印封發,天下當太平。下有祠屋,巫祝言石印神有三郎。時歷陽長表上言石印發,晧遣使以太牢祭歷山。巫言,石印三郎說「天下方太平」。使者作高梯,上看印文,詐以朱書石作二十字,還以啟晧。晧大喜曰,「吳當為九州作都,渚乎。從大皇帝逮孤四世矣,太平之主,非孤復誰。」重遣使,以印綬拜三郎為王,又刻石立銘,褒贊靈德,以答休祥。)
【参照】
『宋書』五行志:「晧遣使者祭石印山下妖祠。使者因以丹書巖曰「楚九州渚,吳九州都。揚州士,作天子。四世治,太平矣。」晧聞之,意益張,曰「從大皇帝至朕四世,太平之主,非朕復誰。」恣虐踰甚,尋以降亡。近詩妖也。」。

現代語訳

孫晧が使者を遣わし石印山の下の妖祠を祭らせた,使者は,そこで朱を用い大岩に「楚は九州の渚,吳は九州の都。揚州の士が,天子となる。四世で治まり,太平である。」と書いた。孫晧はこれを聞いて,ますます気を盛んにして,「大皇帝(孫権)より朕に至って四世となる,太平の主は朕でないのなら,他に誰がいるのだ。」と言った〔二〕。ますますひどく思いに任せて残虐を行うようになり,ほどなくして(晋に)降伏し亡んだ。詩妖に似ている。

原文

孫晧天紀中,童謠曰「阿童復阿童,銜刀游渡江。不畏岸上獸,但畏水中龍。」武帝聞之,加王濬龍驤將軍。及征吳,江西眾軍無過者,而王濬先定秣陵。

訓読

孫晧の天紀中,童謠に曰はく「阿童復た阿童,刀を銜(くは)へて游(およ)いで江を渡る。岸上の獸を畏れず,但だ水中の龍のみ畏る。」と。武帝之を聞きて,王濬〔一〕に龍驤將軍を加ふ。吳を征つに及び,江西の眾軍過ぐる者無きも,王濬先ず秣陵〔二〕を定む。〔三〕

〔一〕『晋書』王濬伝:「王濬 字士治,弘農湖人也。家世二千石。濬博涉墳典,美姿貌,不修名行,不為鄉曲所稱。晚乃變節,疏通亮達,恢廓有大志。」
「武帝謀伐吳,詔濬修舟艦。濬乃作大船連舫,方百二十步,受二千餘人。以木為城,起樓櫓,開四出門,其上皆得馳馬來往。又畫鷁首怪獸於船首,以懼江神。舟楫之盛,自古未有。濬造船於蜀,其木柿蔽江而下。吳建平太守吾彥取流柿以呈孫晧曰「晉必有攻吳之計,宜增建平兵。建平不下,終不敢渡。」晧不從。尋以謠言拜濬為龍驤將軍,監梁益諸軍事。語在羊祜傳。」
〔二〕秣陵,建業の別名,今の南京。
〔三〕『晋書』羊祜伝:「咸寧初,除征南大將軍,開府儀同三司,得專辟召。初,祜以伐吳必藉上流之勢。又時吳有童謠曰「阿童復阿童,銜刀浮渡江。不畏岸上獸,但畏水中龍。」祜聞之曰「此必水軍有功,但當思應其名者耳。」會益州刺史王濬徵為大司農,祜知其可任,濬又小字阿童,因表留濬監益州諸軍事,加龍驤將軍,密令修舟檝,為順流之計。」
【参照】
『宋書』五行志:孫晧天紀中,童謠曰「阿童復阿童,銜刀游渡江。不畏岸上虎,但畏水中龍。」晉武帝聞之,加王濬龍驤將軍。及征吳,江西眾軍無過者,而王濬先定秣陵。

現代語訳

孫晧の天紀(277-280年)中,童謠に「阿童(王濬の幼名)よ阿童,刀をくわえて泳いで長江を渡る。岸上の獸には恐れず,ただ水中の龍だけを恐れる。」とうたわれた。武帝(司馬炎)はこれを聞いて,王濬に龍驤將軍の位を加えた。吳と戦う時になり,江西の諸軍には渡る者がいなかったが,王濬が最初に秣陵を平定した。

原文

武帝太康三年平吳後,江南童謠曰,「局縮肉,數橫目,中國當敗吳當復。」又曰「宮門柱,且當朽,吳當復在,三十年後。」又曰「雞鳴不拊翼,吳復不用力。」于時吳人皆謂在孫氏子孫,故竊發為亂者相繼。案「橫目」者四字,自吳亡至元帝興幾四十年,元帝興於江東,皆如童謠之言焉。元帝愞而少斷,「局縮肉」者,有所斥也。

訓読

武帝の太康三年吳を平ぐの後,江南の童謠に曰はく「局縮〔一〕の肉,數は橫目,中國當に敗れんとし吳は當に復さんとす。」と。又た曰はく「宮門の柱,且らく當(まさ)に朽ちんとす,吳は當に復して在らんとす,三十年の後。」と。又た曰はく「雞鳴するも拊翼せず,吳復するも力を用ひず。」と。時にきいて吳人皆な謂ふ孫氏の子孫に在らんと,故に竊かに發して亂を爲す者相繼ぐ。案ずるに「橫目」は四の字なり,吳の亡ぶ自り元帝の興るに至るまで幾んど四十年,元帝江東に興るは,皆な童謠の言の如し。元帝愞(よわ)く斷少なし,「局縮の肉」は,斥(しりぞ)く所有るなり。

〔一〕「局縮」は,『釈名』釋姿容に「窶數,猶局縮皆小意也」,釋車に「齊人謂,車枕以前曰縮言局縮也」。
【参照】
『宋書』五行志:晉武帝太康後,江南童謠曰「局縮肉,數橫目,中國當敗吳當復。」又曰「宮門柱,且莫朽,吳當復,在三十年後。」又曰「雞鳴不拊翼,吳復不用力。」于時吳人皆謂在孫氏子孫,故竊發亂者相繼。按橫目者「四」字,自吳亡至晉元帝興,幾四十年,皆如童謠之言。元帝懦而少斷,局縮肉,直斥之也。干寶云「不知所斥」,諱之也。

現代語訳

武帝の太康三年(282),吳の平定の後,江南の童謡に「縮こまってる肉,数は橫目,中原(晋)は敗れるだろう。吳は回復するだろう。」とうたわれた。また「宮門の柱,まもなく朽ちるだろう,吳は回復するだろう,三十年後に。」ともうたわれた。また「雞が鳴いても,はばたかない,吳は回復するが力は用いない。」ともうたわれた。この時,吳人はみな孫氏の子孫がおこすだろうと思っていた,なので密かにたくらんで乱をおこす者が相い継いだ。考えてみると「橫目」というのは四の字のことであり,吳が亡んでから元帝が興るまで,ほぼ四十年,元帝が江東に興るのは,皆な童謡の言のとおりである。元帝は弱く決断することが少なかった,「局縮の肉」というのは,斥(しりぞ)けられたところがあるということである。

原文

太康末,京洛為「折楊柳之歌」,其曲始有兵革苦辛之辭,終以擒獲斬截之事。是時三楊貴盛而被族滅。太后廢黜,幽死中宮,「折楊柳」之應也。

訓読

太康の末に,京洛 「折楊柳の歌」を爲し,其の曲の始め兵革苦辛の辭有り,終るに擒獲斬截の事を以す。是の時 三楊〔一〕 貴盛〔二〕なるも族滅せらる,太后廢黜せられて,中宮に幽死せられるるは〔三〕,「折楊柳」の應なり。

〔一〕『晋書』楊駿伝,弟珧濟伝:「而駿及珧,濟勢傾天下,時人有「三楊」之號。」
〔二〕『戰國策』秦策三:「而君之祿位貴盛,私家之富過於三子,而身不退,竊為君危之。」
〔三〕『晋書』孝惠帝紀(司馬衷),永平元年:「(永平元年)三月辛卯,誅太傅楊駿,駿弟衞將軍珧,太子太保濟,中護軍張劭,散騎常侍段廣,楊邈,左將軍劉預,河南尹李斌,中書令蔣俊,東夷校尉文淑,尚書武茂,皆夷三族。壬辰,大赦,改元。賈后矯詔廢皇太后為庶人,徙于金墉城,告于天地宗廟。誅太后母龐氏。」
【参照】
『宋書』五行志:「太康末,京,洛始為「折楊柳」之歌,其曲始有兵革苦辛之詞,終以禽獲斬截之事。是時三楊貴盛而族滅,太后廢黜而幽死。」

現代語訳

太康(280-289年)の末に,京洛(洛陽)で 「折楊柳の歌」が流行った。その曲の始めには戦争の労苦の言葉があり,終わりは捕獲され斬られる事であった。当時 三楊(楊駿・楊珧・楊済)は,地位が高く盛んであったが,一族は誅滅された,太后(武悼皇后楊芷)は廃せられて,中宮に幽閉され殺されたのは,「折楊柳」の應である。

原文

惠帝永熙中,河內溫縣有人如狂,造書曰「光光文長,大戟為牆。毒藥雖行,戟還自傷。」又曰「兩火沒地,哀哉秋蘭。歸形街郵,終為人歎。」及楊駿居內府,以戟為衞,死時又為戟所害傷。楊后被廢,賈后絕其膳八日而崩,葬街郵亭北,百姓哀之也。兩火,武帝諱,蘭,楊后字也。其時又有童謠曰「二月末,三月初,荊筆楊板行詔書,宮中大馬幾作驢。」此時楊駿專權,楚王用事,故言「荊筆楊板」。二人不誅,則君臣禮悖,故云「幾作驢」也。

訓読

惠帝の永熙中,河内の温縣に人有りて狂の如し,書を造りて曰はく「光光たる文長〔一〕,大戟〔二〕もて牆を爲す。毒藥行ぐると雖えども,戟還りて自ら傷う。」と。又た曰はく「兩火地に沒し,哀きかな秋蘭。形を街郵に歸す,終いに人の歎ずるところと爲る。」と。楊駿 内府に居するに及び,戟を以て衞と爲し,死する時も又戟の害傷する所と爲る〔三〕。楊后廢せられ,賈后 其の膳を絕ち八日にして崩ず,街郵亭北に葬り〔四〕,百姓は之を哀れむ。兩火は,武帝の諱〔五〕,蘭は,楊后の字〔六〕なり。其の時 又童謠有りて曰はく「二月の末,三月の初め,荊筆楊板もて詔書を行い,宮中の大馬 幾んど驢と作る。〔七〕」と。此の時 楊駿專權して,楚王〔八〕用事す,故に「荊筆楊板」と言ふ。二人誅せられずんば,則ち君臣の禮悖(もと)る,故に「幾んど驢と作る」と云うなり。

〔一〕『晋書』楊駿伝:「楊駿字文長,弘農華陰人也。少以王官為高陸令,驍騎鎮軍二府司馬。後以后父超居重位,自鎮軍將軍遷車騎將軍,封臨晉侯。識者議之曰「夫封建諸侯,所以藩屏王室也。后妃,所以供粢盛,弘內教也。后父始封而以臨晉為侯,兆於亂矣。」尚書褚䂮,郭奕並表駿小器,不可以任社稷之重。武帝不從。帝自太康以後,天下無事,不復留心萬機,惟耽酒色,始寵后黨,請謁公行。而駿及珧,濟勢傾天下,時人有「三楊」之號。」
〔二〕「大戟」『本草綱目』「大戟」に,「氣味」は「苦,寒,有小毒。……」とある。「主治」は「蠱毒,十二水,腹滿急痛積聚,中風皮膚疼痛,吐逆……」。
〔三〕『晋書』孝惠帝紀(司馬衷),永平元年:「二月甲寅,賜王公已下帛各有差。癸酉,鎮南將軍楚王瑋,鎮東將軍淮南王允來朝。戊寅,復置祕書監官。」
「三月辛卯,誅太傅楊駿,駿弟衞將軍珧,太子太保濟,中護軍張劭,散騎常侍段廣,楊邈,左將軍劉預,河南尹李斌,中書令蔣俊,東夷校尉文淑,尚書武茂,皆夷三族。壬辰,大赦,改元。賈后矯詔廢皇太后為庶人,徙于金墉城,告于天地宗廟。誅太后母龐氏。」
〔四〕『晋書』孝惠帝紀(司馬衷),永平二年:「二年春二月己酉,賈后弒皇太后于金墉城。」
『晋書』武悼楊皇后伝:「又奏,「楊駿造亂,家屬應誅,詔原其妻龐命,以慰太后之心。今太后廢為庶人,請以龐付廷尉行刑。」詔曰,「聽龐與庶人相隨。」有司希賈后旨,固請,乃從之。龐臨刑,太后抱持號叫,截髮稽顙,上表詣賈后稱妾,請全母命,不見省。初,太后尚有侍御十餘人,賈后奪之,絕膳而崩,時年三十四,在位十五年。」
『文選』,巻第十,潘岳,「西征賦」:「爾乃越平樂,過街郵」、李善注「平樂,館名也。 酈善長『水經注』曰,「梓澤西有一原,古舊亭處,即街郵也。」」。
『水經注』五:「縣北有簪亭,蛾近刻晉灑水出其北梓澤中。梓澤,地名也。澤北對原,早即裴氏墓瑩所在,碑闕存焉。其水歷澤束南流,水西有倒原,其上平敞,古簪亭之處也。糠隋黼刻,即潘安仁『西征賦』所謂越街郵者也。」。
〔五〕『晋書』世祖武帝(司馬炎)紀:「武皇帝諱炎,字安世,文帝長子也。」
〔六〕『晋書』武悼楊皇后伝:「武悼楊皇后諱芷,字季蘭,小字男胤,元后從妹。父駿,別有傳。以咸寧二年立為皇后。婉嫕有婦德,美暎椒房,甚有寵。生渤海殤王,早薨,遂無子。太康九年,后率內外夫人命婦躬桑于西郊,賜帛各有差。」
〔七〕『晉書』石苞伝:「自諸葛誕破滅,苞便鎮撫淮南,士馬強盛,邊境多務,苞既勤庶事,又以威德服物。淮北監軍王琛輕苞素微,又聞童謠曰「宮中大馬幾作驢,大石壓之不得舒。」
〔八〕『晋書』八王,楚王瑋伝:「楚隱王瑋字彥度,武帝第五子也。初封始平王,歷屯騎校尉。太康末,徙封於楚,出之國,都督荊州諸軍事,平南將軍,轉鎮南將軍。武帝崩,入為衞將軍,領北軍中候,加侍中,行太子少傅。」
【参照】
『宋書』五行志:晉惠帝永熙中,河內溫縣有人如狂,造書曰「光光文長,大戟為牆。毒藥雖行,戟還自傷。」又曰「兩火沒地,哀哉秋蘭。歸形街郵,路人為歎。」及楊駿居內府,以戟為衞,死時,又為戟所害。楊太后被廢,賈后絕其膳,八日而崩,葬街郵亭北,百姓哀之。兩火,武帝諱,蘭,楊后字也。

現代語訳

晋の恵帝の永熙(290-291年)中,河南の温県に狂ったような人がいて,書をあらわして,「ぴかぴか輝く文長,大戟(タカトウダイ・大きなえだほこ)で塀をつくる。毒薬がめぐるといっても,戟がかえって自らを傷つける。」と言った。また「二つの火が地に沈み,哀しいものだなあ,秋の蘭は。肉体は街郵に帰り,結局は人の歎くところとなった。」と言った。(武帝の皇后である武悼楊皇后の父)楊駿は内府に住むようになり,戟をもった兵で守り,死ぬ時もまた戟によって傷つけられることとなった。楊后は廃位され,(恵帝の皇后)賈后は,(楊后の)食事を断ったため,八日で亡くなり,街郵亭の北に葬られた。人々はそれを哀れんだ。二つの火(炎)は,武帝の諱であり,蘭は,楊后の字である。当時 また童謡があって「二月の末,三月の初め,荊楚の筆と楊(はこやなぎ)板によって詔書をだした,宮中の大馬は驢になったようなものだ。」と歌われた。この時は 楊駿が権力を握り,楚王(司馬瑋)が権力を振るった,なので「荊筆楊板」というのである。二人が誅されなければ,君臣の礼に背く,なので「驢になったようなもの」というのである。

原文

元康中,京洛童謠曰「南風起,吹白沙,遙望魯國何嵯峨,千歲髑髏生齒牙。」。又曰,「城東馬子莫嚨哅,比至來年纏女鬉。」。南風,賈后字也。白,晉行也。沙門,太子小名也。魯賈謐國也。言賈后將與謐為亂,以危太子,而趙王因釁咀嚼豪賢,以成篡奪,不得其死之應也。

訓読

元康中に,京洛の童謠に曰はく,「南風起りて,白沙吹き,遙かに魯國を望めば何ぞ嵯峨たる,千歲の髑髏齒牙を生ず。」と。又た曰はく,「城東の馬子嚨哅すること莫し,來年に至る比(ころお)い女(なんじ)が鬉(たてがみ)を纏う。」と。南風は,賈后の字なり〔一〕。白は,晉の行なり〔二〕。沙門は,太子の小名なり〔三〕。魯は賈謐の國なり。言ふこころは,賈后將に謐と與し亂を爲して,以て太子を危ふくせんとす,而して趙王釁(すき)に因りて豪賢を咀嚼し,以て篡奪を成し,其の死を得ざるの應なり〔四〕。

〔一〕『晉書』惠賈皇后伝:「惠賈皇后諱南風,平陽人也,小名旹。」
〔二〕『晋書』輿服志:「晉氏金行,而服色尚赤,豈有司失其傳歟」
〔三〕『晋書』愍懷太子(司馬遹)伝:「愍懷太子遹字熙祖,惠帝長子,母曰謝才人。幼而聰慧,武帝愛之,恒在左右。」
「先是,有童謠曰「東宮馬子莫聾空,前至臘月纏汝鬉。」。又曰「南風起兮吹白沙,遙望魯國鬱嵯峨,千歲髑髏生齒牙。」南風,后名,沙門,太子小字也。」
『晋書』愍懷太子(司馬遹)伝:「明年正月,賈后又使黃門自首,欲與太子為逆。詔以黃門首辭班示公卿。又遣澹以千兵防送太子,更幽于許昌宮之別坊,令治書御史劉振持節守之。先是,有童謠曰「東宮馬子莫聾空,前至臘月纏汝鬉。」。又曰「南風起兮吹白沙,遙望魯國鬱嵯峨,千歲髑髏生齒牙。」。南風,后名,沙門,太子小字也。」
『晉書』惠賈皇后伝:「初,后詐有身,內稾物為產具,遂取妹夫韓壽子慰祖養之,託諒闇所生,故弗顯。遂謀廢太子,以所養代立。時洛中謠曰「南風烈烈吹黃沙,遙望魯國鬱嵯峨,前至三月滅汝家。」
〔四〕『晋書』天文志:「惠帝元康五年四月,有星孛于奎,……後五年,司空張華遇禍,賈后廢死,魯公賈謐誅。……」
【参照】
『宋書』五行志:「晉惠帝元康中,京洛童謠曰「南風起,吹白沙,遙望魯國何嵯峨,千歲髑髏生齒牙。」。又曰「城東馬子莫嚨哅,比至三月纏汝鬃。」南風,賈后字也。白,晉行也。沙門,太子小名也。魯,賈謐國也。言賈后將與謐為亂,以危太子,而趙王因釁咀嚼豪賢,以成篡奪也。是時愍懷頗失眾望,卒以廢黜,不得其死。」

現代語訳

惠帝の元康(291-299年)中に,都の童謡で「南風が起き,白沙を吹きあげる,遥かに魯国を望めば何と険しく高い山なのか,千歲の髑髏に歯が生えた。」と歌われた。また「城東の馬の子はいななかず,来年になるころには,おまえの鬉(たてがみ)をまとってる。」とも歌われた。南風は,賈后の字である。白は,晋の五行の色である。沙門は,愍懷太子(司馬遹)の幼名である。魯は賈謐の国である。賈后が賈謐と共謀して乱をおこし,太子を害しようとしていた,しかしそのすきに乗じて趙王(司馬倫)が名ある実力者を取り込み,篡奪をしたが,(まっとうな)死に方をすることができなかったことの応であることを言っているのだ。

原文

元康中,天下商農通著大鄣日。時童謠曰「屠蘇鄣日覆兩耳,當見瞎兒作天子。」及趙王倫篡位,其目實眇焉。趙王倫既篡,洛中童謠曰「獸從北來鼻頭汗,龍從南來登城看,水從西來河灌灌。」數月而齊王・成都・河間義兵同會誅倫。案成都西藩而在鄴,故曰「獸從北來」。齊東藩而在許,故曰「龍從南來」。河間水源而在關中,故曰「水從西來」。齊留輔政,居于宮西,又有無君之心,故言「登城看」也。

訓読

元康中,天下の商農通じて大鄣(障)日を著る。時に童謠に曰はく「屠蘇〔一〕の鄣日兩耳を覆い,當に瞎兒の天子と作るを見るべし。」と。趙王倫〔二〕 篡位するに及び,其の目 實に眇なり。趙王倫 既に篡して,洛中の童謠に曰はく,「獸 北從り來りて鼻頭汗す,龍 南從り來りて城に登りて看る,水 西從り來りて河灌灌たり。」と。數月にして齊王〔三〕・成都〔四〕・河間〔五〕の義兵同會して倫を誅す〔六〕。案ずるに成都は西藩なれども鄴に在り,故に曰く「獸 北從り來る」と。齊は東藩なれども許に在り,故に曰く「龍南從り來る」と。河間は水源にして關中に在り,故に曰はく「水 西從り來る」と。齊は留りて政を輔け,宮西に居り,又た君無みするの心有り,故に言ふ「城に登りて看る」と。

〔一〕屠蘇は帽子の名。檐(ひさし)があり,形は家屋に似ている。『酉陽雑俎』黥にも「寶暦中,長樂里門有百姓刺臂,數十人環矚之。忽有一人,白襴屠蘇,傾首微笑而去。」とある。
〔二〕『晋書』八王,趙王倫(司馬倫)伝:「趙王倫字子彝,宣帝第九子也」。
「倫從兵五千人,入自端門,登太極殿,滿奮・崔隨・樂廣進璽綬於倫,乃僭即帝位,大赦,改元建始。」
〔三〕『晋書』八王,齊王冏(司馬冏)伝:「齊武閔王冏字景治,獻王攸之子也」
〔四〕『晋書』八王,成都王(司馬潁)伝:「成都王穎字章度,武帝第十六子也。」
〔五〕『晋書』八王,河間王(司馬顒)伝:「河間王顒字文載,安平獻王孚孫,太原烈王瓌之子也。初襲父爵,咸寧二年就國」
〔六〕『晋書』八王,齊王冏(司馬冏)伝:「冏因眾心怨望,潛與離狐王盛、潁川王處穆謀起兵誅倫。倫遣腹心張烏覘之,烏反,曰,「齊無異志。」冏既有成謀未發,恐事泄,乃與軍司管襲殺處穆,送首於倫,以安其意。謀定,乃收襲殺之。遂與豫州刺史何勖・龍驤將軍董艾等起軍,遣使告成都・河間・常山・新野四王,移檄天下征鎮・州郡縣國,咸使聞知。揚州刺史郗隆承檄,猶豫未決,參軍王邃斬之,送首于冏。冏屯軍陽翟,倫遣其將閭和・張泓・孫輔出堮坂,與冏交戰。冏軍失利,堅壘自守。會成都軍破倫眾於黃橋,冏乃出軍攻和等,大破之。及王輿廢倫,惠帝反正,冏誅討賊黨既畢,率眾入洛,頓軍通章署,甲士數十萬,旌旗器械之盛,震於京都。」
【参照】
『宋書』五行志:元康中,天下商農通著大鄣日,童謠曰「屠蘇鄣日覆兩耳,當見瞎兒作天子。」及趙王篡位,其目實眇焉。趙王倫既篡,洛中童謠曰「虎從北來鼻頭汗,龍從南來登城看,水從西來何灌灌。」數月而齊王,成都,河間義兵同會誅倫。按成都西蕃而在鄴,故曰「虎從北來」,齊東蕃而在許,故曰「龍從南來」,河間水區而在關中,故曰「水從西來」。齊留輔政,居宮西,有無君之心,故言「登城看」也。

現代語訳

元康(291-299年)中に,国中の商人や農民に大きな日よけ帽が流行った。その時,童謡に「屠蘇の日よけは両耳を覆う,盲人が天子となるのを見るだろう」と歌われた。趙王司馬倫が篡位したが,その目は本当に片眼であった。趙王司馬倫が既に君位を奪った後,都で童謡に「獣(虎)が北より来て鼻頭に汗する,竜が南より来て城に登って看る,水が西より来て河はごうごうと流れる。」と歌われた。数ヶ月の後斉王(司馬囧),成都王(司馬穎),河間王(司馬顒)の義兵が盟を結び司馬倫を誅した。思うに成都王(司馬穎)は西の封国であるが(北にある)鄴城に住んでいる,だから「(西を象徴する霊獣である白)虎が北より来る」といったのである。斉王(司馬囧)は東の封国であるが(南の)許に住んでいる,だから「(東を象徴する霊獣である青)竜が南より来る」といったのである。河間の水源は(西の)関中にある,だから「水は西より来る」といったのである。斉王はとどまって朝政を助け,宮中の西にいて,また君主をかろんずる心が有った,だから「城に登って看る」といったのである。

原文

太安中,童謠曰,「五馬游渡江,一馬化為龍。」後中原大亂,宗藩多絕,唯琅邪,汝南,西陽,南頓,彭城同至江東,而元帝嗣統矣。

訓読

太安中,童謠に曰はく,「五馬游ぎて江を渡るに,一馬化して龍と爲る。」と。後ち中原に大亂ありて,宗藩多く絕え,唯だ琅邪〔一〕,汝南〔二〕,西陽〔三〕,南頓〔四〕,彭城〔五〕のみ同に江東に至り,而して元帝〔六〕統を嗣ぐなり。

〔一〕『晉書』中宗元帝(司馬睿)紀:「元皇帝諱睿,字景文,宣帝曾孫,琅邪恭王覲之子也。咸寧二年生於洛陽,有神光之異,一室盡明,所藉藳如始刈。及長,白豪生於日角之左,隆準龍顏,目有精曜,顧眄煒如也。年十五,嗣位琅邪王。」
〔二〕『晉書』八王,司馬祐伝:「祐字永猷。永安中,從惠帝北征。帝遷長安,祐反國。及帝還洛,以征南兵八百人給之,特置四部牙門。永興初,率眾依東海王越,討劉喬有功,拜揚武將軍,以江夏雲杜益封,並前二萬五千戶。越征汲桑,表留祐領兵三千守許昌,加鼓吹,麾旗。越還,祐歸國。永嘉末,以寇賊充斥,遂南渡江,元帝命為軍諮祭酒。建武初,為鎮軍將軍。太興末,領左軍將軍,太甯中,進號衛將軍,加散騎常侍。咸和元年,薨,贈侍中,特進。」」
〔三〕『晉書』司馬羕伝:「羕字延年。……惠帝還洛,復羕封,為撫軍將軍,又以汝南期思,西陵益其國。永嘉初,拜鎮軍將軍,加散騎常侍,領後軍將軍,復以邾,蘄春益之,幷前三萬五千戶。隨東海王越東出鄄城,遂南渡江。」
〔四〕『晉書』司馬宗伝:「宗字延祚。元康中,封南頓縣侯,尋進爵為公。討劉喬有功,進封王,增邑五千,幷前萬戶,為征虜將軍。與兄羕俱過江。」
〔五〕『晉書』彭城穆王(司馬權)伝:「彭城穆王權,字子輿,宣帝弟魏魯相東武城侯馗之子也,初襲封,拜從僕射。武帝受禪,封彭城王,邑二千九百戶。……子康王釋立,官至南中郎將,持節,平南將軍,分魯國蕃,薛二縣以益其國,凡二萬三千戶。薨,子雄立,坐奔蘇峻伏誅,更以釋子紘嗣。」
〔六〕『晋書』中宗元帝(司馬睿)紀,永昌元年:太安之際,童謠云,「五馬浮渡江,一馬化為龍。」及永嘉中,歳・鎮・熒惑・太白聚斗,牛之間,識者以為呉越之地當興王者。是歳,王室淪覆,帝與西陽,汝南,南頓,彭城五王獲済,而帝竟登大位焉。
【参照】
『宋書』五行志:晉惠帝太安中,童謠曰,「五馬游度江,一馬化為龍。」後中原大亂,宗蕃多絕,唯琅邪,汝南,西陽,南頓,彭城同至江表,而元帝嗣晉矣。

現代語訳

恵帝(司馬衷)の太安中(302-303年),童謠に「五頭の馬が泳いで長江を渡るとき,一頭の馬が変化して龍となる。」と歌われた。その後に中原に大乱があり,宗藩(皇室から分封された諸侯)の多くが断絶したが,琅邪王(司馬睿),汝南王(司馬祐),西陽王(司馬羕),南頓王(司馬宗),彭城王(司馬雄)だけが共に江東にうつり,そして元帝(司馬睿)が皇統を嗣いだ。

原文

司馬越還洛,有童謠曰「洛中大鼠長尺二,若不早去大狗至。」。及苟晞將破汲桑,又謠曰「元超兄弟大落度,上桑打椹為苟作。」由是越惡晞,奪其兗州,隙難遂搆焉。

訓読

司馬越洛に還るに,童謠有りて曰はく,「洛中の大鼠 長は尺二,若し早く去らざれば大狗至らん。」と。苟晞〔一〕將に汲桑を破らんとするに及び,又た謠に曰はく,「元超兄弟大いに落度す,桑に上り椹を打ちて苟(かりそ)めに作すを爲す。」と。是に由りて越 晞を惡み,其の兗州を奪い,隙難遂に搆うなり。

〔一〕『晉書』苟晞伝:「苟晞字道將,河內山陽人也。少為司隸部從事,校尉石鑒深器之。東海王越為侍中,引為通事令史,累遷陽平太守。」
「汲桑之破鄴也,東海王越出次官渡以討之,命晞為前鋒。桑素憚之,於城外為柵以自守。晞將至,頓軍休士,先遣單騎示以禍福。桑眾大震,棄柵宵遁,嬰城固守。晞陷其九壘,遂定鄴而還。」
「初,東海王越以晞復其讎恥,甚德之,引升堂,結為兄弟。」
「晞乃多置參佐,轉易守令,以嚴刻立功,日加斬戮,流血成川,人不堪命,號曰「屠伯」。晞出屯無鹽,以弟純領青州,刑殺更甚於晞,百姓號「小苟酷於大苟」」
『晉書』孝懷帝(司馬熾)紀,永嘉元年:「秋七月己酉朔, 東海王越進屯官渡,以討汲桑。己未,以平東將軍,琅邪王睿為安東將軍,都督揚州江南諸軍事,假節,鎮建鄴。八月己卯朔,撫軍將軍苟晞敗汲桑於鄴。甲辰,曲赦幽,并,司,冀,兗,豫等六州。分荊州,江州八郡為湘州。 九月戊申,苟晞又破汲桑,陷其九壘。辛亥,有大星如日,小者如斗,自西方流於東北,天盡赤,俄有聲如雷。始修千金堨於許昌以通運。」
【参照】
『宋書』五行志:「司馬越還洛,有童謠曰「洛中大鼠長尺二,若不蚤去大狗至。」及苟晞將破汲桑,又謠曰,「元超兄弟大落度,上桑打椹為苟作。」由是越惡晞,奪其兗州,隙難遂構。」

現代語訳

司馬越が洛陽に帰還したとき,童謡があり「洛中の大鼠の長さは一尺二寸,もし早く追い払わないと大きな犬がやってくる。」と歌われた。苟晞が汲桑を破ろうとしていた時になると,また謡にうたわれた「元超兄弟(司馬越)が大変落ちぶれる,桑に上って椹(板)を打ちいいかげんな仕事をした。」と。これにより司馬越は苟晞を憎み,彼の兗州を奪い,そうして怨恨が生じることとなったのである。

原文

愍帝初,有童謠曰,「天子何在豆田中。」。至建興四年,帝降劉曜,在城東豆田壁中。

訓読

愍帝の初め,童謠有りて曰はく,「天子は何くに在るか豆田の中。」と。建興四年に至り,帝劉曜に降るに,城東の豆田壁中に在り〔一〕。

〔一〕『晋書』孝惠帝(司馬衷)紀,太安二年:「九月丁丑,帝次于河橋。壬午,皇甫商為張方所敗。甲申,帝軍于芒山。丁亥,幸偃師。辛卯,舍于豆田。」
『晋書』孝愍帝紀,建興四年:十一月乙未,使侍中宋敞送牋于曜,帝乘羊車,肉袒銜璧,輿櫬出降。羣臣號泣攀車,執帝之手,帝亦悲不自勝。御史中丞吉朗自殺。曜焚櫬受璧,使宋敞奉帝還宮。初,有童謠曰「天子何在豆田中。時王浚在幽州,以豆有藿,殺隱士霍原以應之。及帝如曜營,營實在城東豆田壁。」
『晉書』霍原伝:「後王浚稱制謀僭,使人問之,原不答,浚心銜之。又有遼東囚徒三百餘人,依山為賊,意欲劫原為主事,亦未行。時有謠曰「天子在何許。近在豆田中。」浚以豆為霍,收原斬之,懸其首。諸生悲哭,夜竊尸共埋殯之。遠近駭愕,莫不冤痛之。」

現代語訳

愍帝(司馬鄴)(313-316年)の初めに,童謡がありこう歌われた「天子はどこにいるのだろう。豆畑の中にいる。」と。建興四年(316)になり,皇帝が劉曜に降伏したとき,洛陽の東の豆田のとりでの中にいた。

原文

建興中,江南謠歌曰「訇如白坑破,合集持作甒。揚州破換敗,吳興覆瓿甊。」案白者,晉行。坑器有口屬瓮瓦,瓮質剛,亦金之類也。「訇如白坑破」者,言二都傾覆,王室大壞也。「合集持作甒」者,元帝鳩集遺餘,以主社稷,未能剋復中原,但偏王江南,故其喻也。及石頭之事,六軍大潰,兵人抄掠京邑,爰及二宮。其後三年,錢鳳復攻京邑,阻水而守,相持月餘日,焚燒城邑,井堙木刊矣。鳳等敗退,沈充將其黨還吳興,官軍踵之,蹈藉郡縣,充父子授首,黨與誅者以百數。所謂「揚州破換敗,吳興覆瓿甊」,瓿甊瓦器,又小於甒也。

訓読

建興中,江南の謠歌に曰はく,「訇如として白坑破る,合集して持して甒(ぶ)〔一〕と作す。揚州破りて換りて敗る,吳興に〔二〕 瓿甊(ほうろう)を覆す。」と。案ずるに白なる者は,晉の行。坑器は口有りて,瓮瓦に屬す,瓮 質剛にして,亦た金の類なり。「訇如として白坑破る」なる者は,二都傾覆し,王室大壞するを言ふなり。「合集して持して甒と作す」なる者は,元帝 遺餘を鳩集し,以て社稷を主るも,未だ中原を剋復すること能はずして,但だ偏えに江南に王たり,故に其れ喻うなり。石頭の事〔三〕に及びて,六軍大潰し,兵人京邑を抄掠して,爰に二宮に及ぶ。其の後三年にして,錢鳳〔四〕復た京邑を攻め,水を阻てて守りて,相ひ持すること月餘日,城邑を焚燒し,井堙め木刊るなり。鳳等敗退し,沈充 〔五〕其の黨を將ゐて吳興に還るに,官軍 之を踵(お)い,郡縣を蹈藉す,充父子授首せられ,黨與 誅せらるる者百を以て數ふ。所謂「揚州破りて換りて敗る,吳興に 瓿甊〔六〕覆すなり」。瓿甊は瓦器にして,又た甒より小さきなり。

〔一〕『禮記』雜記:「醴者稻醴也甕甒筲衡實見間而后折入。」,陳澔集說「甕甒皆瓦器。」。
『禮記』喪大記:「大夫容壺,士容甒。」,陳澔集說,「壺,甒皆盛酒之器。」。
『禮記』禮器:「有以小為貴者。宗廟之祭,貴者獻以爵,賤者獻以散,尊者舉觶,卑者舉角。五獻之尊,門外缶,門內壺。君尊瓦甒。此以小為貴也。(凡觴一升曰爵,二升曰觚,三升曰觶,四升曰曰角,五升曰散。五獻,子男之饗禮也。壺大一石,瓦甒五斗,缶大小未聞也。『易』曰,尊酒簋貳用缶。)」
〔二〕『宋書』礼志:「寶鼎元年,遂於烏程分置吳興郡,使太守執事。」
〔三〕『晉書』肅宗明帝(司馬紹)紀,太寧二年:「六月,敦將舉兵內向,帝密知之,乃乘巴滇駿馬微行,至于湖,陰察敦營壘而出。……」
「秋七月壬申朔,敦遣其兄含及錢鳳,周撫,鄧岳等水陸五萬,至于南岸。溫嶠移屯水北,燒朱雀桁,以挫其鋒。帝躬率六軍,出次南皇堂。……劉遐又破沈充于青溪。丙申,賊燒營宵遁。」
〔四〕『晉書』沈充伝:「(王)敦引為參軍,充因薦同郡錢鳳。鳳字世儀,敦以為鎧曹參軍,數得進見。」
〔五〕『晉書』沈充伝:「沈充字士居。少好兵書,頗以雄豪聞於鄉里。……知敦有不臣之心,因進邪說,遂相朋構,專弄威權,言成禍福。遭父喪,外託還葬,而密為敦使,與充交構。 」
〔六〕『爾雅』釋器:「甌瓿謂之瓵」,「郭云,甌甊,小甖」。
【参照】
『宋書』五行志」晉愍帝建興中,江南歌謠曰「訇如白阬破,合集持作甒。揚州破換敗,吳興覆瓿甊。」按白者晉行,阬器有口,屬甕,瓦質剛,亦金之類也。「訇如白阬破」者,言二都傾覆,王室大壞也。「合集持作甒」者,言元皇帝鳩集遺餘,以主社稷,未能克復中原,偏王江南,故其喻小也。及石頭之事,六軍大潰,兵人抄掠京邑,爰及二宮。其後三年,錢鳳復攻京邑,阻水而守,相持月餘日,焚燒城邑,井堙木刊矣。鳳等敗退,沈充將其黨還吳興,官軍踵之,蹈藉郡縣。充父子授首,黨與誅者以百數。所謂「揚州破換敗,吳興覆瓿甊」。瓿甊,瓦器,又小於甒也。

現代語訳

建興(313-317年)年間,江南の流行歌に「ゴーンと白い焼き物が壊れた,集めあわせて保持して甒(瓦の酒器)とする。揚州は撃破したが替わって敗北した。吳興でつぼにもどした。」と歌われた。思うに白は,晋の(五行の)色である。坑は器で口があるかめの一種で,かめというものは硬い性質もので,これもまた金の類である。「ゴーンと白い焼き物が壊れた」というのは,二都(洛陽・長安)が攻略され,王室が崩壊するのをいったのである。「集めあわせて保持して甒とする」というのは,元帝が残った者達を集めて,社稷をつかさどったが,まだ中原にもどることが出来ず,ただ片隅の江南で王となっている,つまりその喩えである。石頭城の事件(王敦の乱)になって,六軍が壊滅して,兵士が都で財物をかすめ取り,そして(そのことは)二宮にも及んだ。その三年後には,銭鳳がふたたび都を攻めた,水をへだてて守り,対峙すること一月余りとなり,城邑は燃え,井戸は埋められ木は削られた。銭鳳らは敗退し,沈充が残党を率いて吳興にかえろうとしたときに,官軍が彼等を追って,郡県を踏みにじった。沈充父子は首をはねられ,一味の誅された者は数百人となった。いわゆる「揚州(王敦)は撃破したが,(銭鳳らに)替わって敗北した。吳興でつぼにもどした。」である。瓿甊とは瓦器で,また甒よりも小さなものである。

原文

明帝太寧初,童謠曰「惻惻力力,放馬山側。大馬死,小馬餓。高山崩,石自破。」及明帝崩,成帝幼,為蘇峻所逼,遷於石頭,御膳不足,此「大馬死,小馬餓」也。高山,峻也,又言峻尋死。石,峻弟蘇石也。峻死後,石據石頭,尋為諸公所破,復是崩山石破之應也。

訓読

明帝 太寧(323-326)の初め,童謠に曰く「惻惻力力,馬を山側に放つ。大馬 死し,小馬 餓う。高山 崩れ,石 自(みずか)ら破る。」と。明帝 崩ずるに及び,成帝 幼く,蘇峻の逼る所と為り,石頭に遷され〔一〕,御膳不足す〔二〕,此れ「大馬 死し,小馬 餓う」なり。高山,峻なり,又 峻 尋いで死するを言ふなり〔三〕。石,峻の弟 蘇石なり〔四〕。峻死するの後,石は石頭に據り,尋いで諸公の破る所と為り〔五〕,復た是れ山を崩し石が破れるの應なり。

〔一〕『晉書』成帝紀:「(咸和三年)五月乙未,峻逼遷天子于石頭,帝哀泣升車,宮中慟哭。」
『晉書』蘇峻傳:「時溫嶠、陶侃已唱義於武昌,峻聞兵起,用參軍賈寧計,還據石頭,更分兵距諸義軍,所過無不殘滅。嶠等將至,峻遂遷天子於石頭,逼迫居人,盡聚之後苑,使懷德令匡術守苑城。」
『晉書』天文下:「明帝太寧三年正月,熒惑逆行,入太微。占曰「為兵喪,王者惡之。」閏八月,帝崩。後二年,蘇峻反,攻焚宮室,太后以憂偪崩,天子幽劫于石頭城,遠近兵亂,至四年乃息。」
〔二〕『晉書』成帝紀:「(咸和)四年春正月,帝在石頭,賊將匡術以苑城歸順,百官赴焉。侍中鍾雅・右衞將軍劉超謀奉帝出,為賊所害。戊辰,冠軍將軍趙胤遣將甘苗討祖約于歷陽,敗之,約奔于石勒,其將牽騰帥眾降。峻子碩攻臺城・又焚太極東堂、祕閣,皆盡。城中大飢,米斗萬錢。」
〔三〕『晉書』蘇峻傳:「峻望見胤走,曰「孝能破賊,我更不如乎。」因舍其眾,與數騎北下突陣,不得入,將迴趨白木陂,牙門彭世・李千等投之以矛,墜馬,斬首臠割之,焚其骨,三軍皆稱萬歲。」
〔四〕蘇峻の弟は蘇逸,息子の蘇碩がいる。蘇石という人物は出てこない。
斠注「晋書校文二曰蘇峻弟名逸,不名石。其子雖名碩,然字亦不作石。(割注)世説方正篇注引霊鬼志云,碩峻弟亦誤。 楽府詩集八十八,崩山作山崩。案当以作山崩為是。」
『晉書』蘇峻傳:「峻司馬任讓等共立峻弟逸為主。求峻尸不獲,碩乃發庾亮父母墓,剖棺焚尸。」
〔五〕『晉書』成帝紀:「(咸和二月)丙戌,諸軍攻石頭。李陽與蘇逸戰於柤浦,陽軍敗。建威長史滕含以銳卒擊之,逸等大敗。」
『晉書』蘇峻傳:「逸為李湯所執,斬於車騎府。」
【参照】
『宋書』「晉明帝太寧初,童謠歌曰「惻力惻力,放馬山側。大馬死,小馬餓,高山崩,石自破。」及明帝崩,成帝幼,為蘇峻所逼,遷于石頭,御饍不足。「高山崩」,言峻尋死。「石」,峻弟蘇石也,峻死後,石據石頭,尋為諸公所破也。」

現代語訳

明帝太寧の初め,童謡に「しくしくぽろぽろ(と嘆き悲しみ),馬を山のふもとに放つ。大きな馬は死に,小さな馬は餓える。高山は崩れ,石が自分から砕ける。」と歌われた。明帝が崩御した時,成帝は幼く(数えで5歳),蘇峻に侵略され,石頭城に身柄を移され,食べるものにも不自由した。これは「大きな馬は死に,小さな馬は餓える。」ということである。高山は,蘇峻であり,そのうえ蘇峻がすぐに死んだことを言っている。石は,蘇峻の弟の蘇石である。蘇峻の死後,蘇石は石頭城を拠点にしており,まもなく諸侯に破ることとなり,これもまたさらに山を崩し石が砕けることの應である。

原文

成帝之末,又有童謠曰「礚礚何隆隆,駕車入梓宮。」少日而宮車晏駕。

訓読

成帝の末,又た童謠有りて曰く「礚礚たり何ぞ隆隆たり,駕車して梓宮に入る。」と。少日にして宮車晏駕す。

【参照】
『宋書』五行志:「晉成帝之末,民間謠曰「礚礚何隆隆,駕車入梓宮。」少日而宮車晏駕。」

現代語訳

成帝の末年,また童謠があり「ゴウゴウゴロゴロ,馬車を走らせて御陵に入る。」と歌われた。数日して皇帝が崩御した。

原文

咸康二年十二月,河北謠云「麥入土,殺石武。」後如謠言。

訓読

咸康二年(336年)十二月,河北の謠に云ふ「麥 土に入り,石虎を殺す。」〔一〕と。後に謠言の如し。

〔一〕『斠注』に「志武作虎」とする。注に従い「石虎」と改める。
【参照】
『宋書』五行志:「晉成帝咸康二年十二月,河北謠語曰「麥入土,殺石虎。」後如謠言。」

現代語訳

咸康二年十二月,河北のはやりうたに「麥が土に入り,石虎を殺す。」というものがあった。後にうたの言葉通りになった。

原文

庾亮初鎮武昌,出至石頭,百姓於岸上歌曰「庾公上武昌,翩翩如飛鳥。庾公還揚州,白馬牽旒旐。」又曰「庾公初上時,翩翩如飛烏。庾公還揚州,白馬牽流蘇。」後連徵不入,及薨於鎮,以喪還都葬,皆如謠言。

訓読

庾亮 初め武昌を鎮め〔一〕,出でて石頭に至る,百姓 岸上に於いて歌ひて曰く「庾公 武昌に上る,翩翩たること飛鳥の如し。庾公 揚州に還る,白馬 旒旐を牽く。」と。又曰く「庾公 初め上る時,翩翩たること飛烏の如し。庾公 揚州に還る,白馬 流蘇を牽く。」と。後に連徵せらるるも入らず〔二〕,鎮に薨ずるに及び,喪を以て都に還り葬らる,皆 謠言の如し。

〔一〕『晉書』庾亮傳:「侃薨,遷亮都督江・荊・豫・益・梁・雍六州諸軍事,領江・荊・豫三州刺史,進號征西將軍・開府儀同三司假節。亮固讓開府,乃遷鎮武昌。(中略)時石勒新死,亮有開復中原之謀,乃解豫州授輔國將軍毛寶,使與西陽太守樊峻精兵一萬,俱戍邾城。又以陶稱為南中郎將・江夏相,率部曲五千人入沔中。亮弟翼為南蠻校尉・南郡太守,鎮江陵。以武昌太守陳囂為輔國將軍・梁州刺史,趣子午。又遣偏軍伐蜀,至江陽,執偽荊州刺史李閎・巴郡太守黃植,送于京都。亮當率大眾十萬,據石城,為諸軍聲援,乃上疏曰「蜀胡二寇凶虐滋甚,內相誅鋤,眾叛親離。蜀甚弱而胡尚強,並佃並守,修進取之備。襄陽北接宛許,南阻漢水,其險足固,其土足食。臣宜移鎮襄陽之石城下,并遣諸軍羅布江沔。比及數年,戎士習練,乘釁齊進,以臨河洛。大勢一舉,眾知存亡,開反善之路,宥逼脅之罪,因天時,順人情,誅逋逆,雪大恥,實聖朝之所先務也。願陛下許其所陳,濟其此舉。淮泗壽陽所宜進據,臣輒簡練部分。乞槐棘參議,以定經略。」帝下其議。時王導與亮意同,郗鑒議以資用未備,不可大舉。亮又上疏,便欲遷鎮。會寇陷邾城,毛寶赴水而死。亮陳謝,自貶三等,行安西將軍。有詔復位。尋拜司空,餘官如故,固讓不拜。」
〔二〕『晉書』庾亮傳:「亮自邾城陷沒,憂慨發疾。會王導薨,徵亮為司徒・揚州刺史・錄尚書事・又固辭,帝許之。咸康六年薨,時年五十二。」
また〔一〕参照,
【参照】
『宋書』五行志:「庾亮初出鎮武昌,出石頭,百姓於岸上歌曰「庾公上武昌,翩翩如飛鳥。庾公還揚州,白馬牽旒旐。」又曰「庾公初上時,翩翩如飛烏。庾公還揚州,白馬牽流蘇。」後連徵不入,及薨,還都葬。」

現代語訳

庾亮ははじめ武昌を治め,そこを出て石頭に向かう途中,人々は(長江の)岸の上で「庾亮様は武昌に(長江を遡って)向かう,素早いことは飛ぶ鳥のようだ。庾亮様は揚州(建康)に戻る,白馬が弔い旗を牽く。」と歌った。また「庾亮様が初めて(武昌に)向かう,素早いことは飛ぶ烏のようだ。庾亮様は揚州に戻る,白馬が房飾りのついた馬車を牽く。」とも歌った。その後、度重なり皇帝から召し出されたが朝廷に入らなかった,治めていた武昌で亡くなり,死ぬことで都(建康)に戻り葬られた,皆うたの言葉通りになった。

原文

穆帝升平中,童兒輩忽歌於道曰「阿子聞」,曲終輒云「阿子汝聞不」。無幾而帝崩,太后哭之曰「阿子汝聞不」

訓読

穆帝 升平中(357-361),童兒の輩 忽に道に歌ひて曰く「阿子聞く」と,曲の終に輒ち「阿子 汝聞くや不や」と云ふ。幾も無くして帝崩じ,太后 之を哭して曰く「阿子 汝聞くや不や」と。

【参照】
『宋書』五行志:「晉穆帝升平中,童子輩忽歌於道曰「阿子聞」,曲終輒云「阿子汝聞不」。無幾而穆帝崩,太后哭曰「阿子汝聞不?」」

現代語訳

穆帝の升平年間(357-361)に,子供たちが突然 道端で「こどもよ聞きなさい」と歌い,曲の終わりにいつも「こどもよ、お前は聞いているのか、いないのか。」と歌う。間もなく穆帝は崩御し,皇太后は帝の崩御を悲しみ「我が子や、お前は聞いているのか、いないのか。」と嘆いた。

原文

升平末,俗間忽作廉歌,有扈謙者聞之曰「廉者,臨也。歌云『白門廉,宮庭廉』,內外悉臨,國家其大諱乎。」少時而穆帝晏駕。

訓読

升平の末,俗間 忽に廉歌を作し,扈謙有る者 之を聞きて曰く「廉は,臨なり。歌に云ふ『白門廉し,宮廷廉す』〔一〕と,內外悉く臨し,國家に其れ大諱あるかな。」と。少時にして穆帝 晏駕す。

〔一〕『斠注』に「宋志庭作廷。案当作廷。」とする。注に従い「宮廷」とする。
【参照】
『宋書』五行志:「升平末,民間忽作廉歌。有扈謙者聞之,曰「廉者臨也。歌云『白門廉,宮廷廉』,內外悉臨,國家其大諱乎。」少時而穆帝晏駕。」

現代語訳

升平年間の末に,世間に突然「廉」の歌が作られた,従者で(皇帝を)敬う気持ちの有る者が,この歌を聞いて「廉は,臨(葬儀の時に声をあげて泣く礼)のことである。歌に言っている『白門(建康)が泣き,宮廷が泣く』とは,国の内外がみな泣き,国には天子の死があるのではないか!」と言った。まもなく穆帝は崩御した。

原文

哀帝隆和初,童謠曰「升平不滿斗,隆和那得久。桓公入石頭,陛下徒跣走。」朝廷聞而惡之,改年曰興寧。人復歌曰「雖復改興寧,亦復無聊生。」哀帝尋崩。升平五年而穆帝崩,「不滿斗」,升平不至十年也。

訓読

哀帝 隆和(362‐363)の初め,童謠に曰く「升平 斗に滿たず,隆和 那ぞ久しきを得ん。桓公 石頭に入り〔一〕,陛下 徒跣にて走る。」と。朝廷 聞きて之を惡み,年を改め興寧と曰ふ。人 復た歌ひて曰く「復た興寧に改めると雖も,亦復た聊かの生も無し。」と。哀帝 尋いで崩ず。升平五年にして穆帝崩ず〔二〕,「斗に滿たず」とは,升平 十年に至らざるなり。

〔一〕『晉書』哀帝紀:「(興寧二年)五月,遷陳人于陸以避之。戊辰,以揚州刺史王述為尚書令、衞將軍,以桓溫為揚州牧、錄尚書事。壬申,遣使喻溫入相,溫不從。」秋七月丁卯,復徵溫入朝。
〔二〕『魏書』卷九十六 列傳第八十四 僭晉司馬叡傳:聃死,無子,立衍子丕,號年隆和。時謠曰「升平不滿斗,隆和那得久。」改為興寧,又謠曰:「雖復改興寧,亦自無聊生。」丕死,弟弈立,號年曰太和。
【参照】
『宋書』五行志:「晉哀帝隆和初,童兒歌曰「升平不滿斗,隆和那得久。桓公入石頭,陛下徒跣走。」帝聞而惡之,復改年曰興寧。民復歌曰「雖復改興寧,亦復無聊生。」哀帝尋崩,升平五年,穆帝崩。不滿斗,不至十年也。」

現代語訳

哀帝の隆和年間のはじめ,童謡に「升平は一斗(10升)に滿たなかった,隆和はどうして長く続こうか。桓温さまが石頭に入り,陛下ははだしで逃げる。」と歌われた。朝廷はこの歌を聞いて歌詞を嫌い,年号を改めて興寧とした。人々は再び「ふたたび興寧と改元したとしても,やはりまた少しのいのちも無い。」と歌を歌った。哀帝はまもなく崩御した。升平は五年で穆帝が崩御した。「升平は一斗(10升)に滿たない」とは,升平が十年に満たなかったということである。

原文

海西公太和中,百姓歌曰「青青御路楊,白馬紫遊韁。汝非皇太子,那得甘露漿。」識者曰「白者,金行。馬者,國族。紫為奪正之色,明以紫間朱也。」海西公尋廢,其三子並非海西公之子,縊以馬韁。死之明日,南方獻甘露焉。

訓読

海西公 太和(366‐371)中,百姓 歌ひて曰く「青青たる御路の楊,白馬は紫の遊韁。汝は皇太子に非ず,那ぞ甘露漿を得ん。」と。識者 曰く「白は,金の行なり。馬は,國族なり。紫は正を奪ふの色為り〔一〕,明らかに紫の朱に間はるを以てなり。」と。海西公 尋いで廢され,其の三子 並びに海西公の子に非ず〔二〕,馬韁を以て縊らるる。死の明日,南方 甘露を獻ず。

〔一〕『論語』陽貨:「子曰,惡紫之奪朱也」
注:「孔曰,朱正色。紫間色之好者。惡其邪好而奪正色。」
〔二〕『晉書』廢帝海西公紀」「(太和六年)十一月癸卯,桓溫自廣陵屯于白石。丁未,詣闕,因圖廢立,誣帝在藩夙有痿疾,嬖人相龍・計好・朱靈寶等參侍內寢,而二美人田氏・孟氏生三男,長欲封樹,時人惑之,溫因諷太后以伊霍之舉。己酉,集百官于朝堂,宣崇德太后令曰「王室艱難,穆・哀短祚,國嗣不育,儲宮靡立。琅邪王奕親則母弟,故以入纂大位。不圖德之不建,乃至于斯。昏濁潰亂,動違禮度。有此三孽,莫知誰子。人倫道喪,醜聲遐布。既不可以奉守社稷,敬承宗廟,且昏孽並大,便欲建樹儲藩。誣罔祖宗,傾移皇基,是而可忍,孰不可懷。今廢奕為東海王,以王還第,供衞之儀,皆如漢朝昌邑故事。但未亡人不幸,罹此百憂,感念存沒,心焉如割。社稷大計,義不獲已。臨紙悲塞,如何可言。」于是百官入太極前殿,即日桓溫使散騎侍郎劉享收帝璽綬。帝著白帢單衣,步下西堂,乘犢車出神獸門。羣臣拜辭,莫不歔欷。侍御史・殿中監將兵百人衞送東海第。
初,桓溫有不臣之心,欲先立功河朔,以收時望。及枋頭之敗,威名頓挫,遂潛謀廢立,以長威權。然憚帝守道,恐招時議。以宮闈重閟,牀笫易誣,乃言帝為閹,遂行廢辱。初,帝平生每以為慮,嘗召術人扈謙筮之。卦成,答曰「晉室有盤石之固,陛下有出宮之象。」竟如其言。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉海西公太和年間中,民歌曰「青青御路楊,白馬紫游韁。汝非皇太子,那得甘露漿。」白者金行。馬者國族。紫為奪正之色,明以紫間朱也。海西公尋廢,三子非海西子,並死,縊以馬韁死之。明日,南方獻甘露。」

現代語訳

海西公(廃帝)の太和年間中に,民衆が「青青とした天子さまのお通りになる路の楊,白馬は紫色の手綱。あなたは皇太子ではないのだから,どうして甘露の水を得ることができるだろう?」と、歌った。識者は「白とは,(五行においては)金の色である。馬とは,皇族である。紫は君主の位を奪う色であり,紫は朱色(皇帝の正当な血統)に混ぜた色であるのは明らかである。」と言う。海西公はまもなく退位させられ,その三人の子供はどれも海西公の子ではなく,馬の手綱で絞め殺された。殺された明くる日,南方より甘露が献上された。

原文

太和末,童謠曰「犁牛耕御路,白門種小麥。」及海西公被廢,百姓耕其門以種小麥,遂如謠言。

訓読

太和(366‐371)の末,童謠に曰く「犁牛 御路を耕し,白門 小麥を種う。」と。海西公 廢せらるに及び,百姓 其の門を耕し以て小麥を種う,遂に謠言の如し。

【参照】
『宋書』五行志:「太和末,童謠云「犁牛耕御路,白門種小麥。」及海西被廢,處吳,民犁耕其門前,以種小麥,如謠言。」

現代語訳

太和年間の末に,童謠に「すきを牽く牛が天子さまの(お通りになる)路を耕し,白門(建康の宣陽門)には小麥が種えられる。」と歌われた。海西公が廃位させられる時に及んで,民衆は白門を耕して小麥を植えた,とうとう歌の言葉の通りになった。

原文

海西公初生皇子,百姓歌云「鳳皇生一雛,天下莫不喜。本言是馬駒,今定成龍子。」其歌甚美,其旨甚微,海西公不男,使左右向龍與內侍接,生子,以為己子。

訓読

海西公 初めて皇子を生む,百姓歌ひて云く「鳳皇 一雛を生む,天下喜ばざる莫し。本と是れ馬駒と言ふ,今 定めて龍子と成る。」と。其の歌甚だ美しく,其の旨甚だ微か,海西公は男ならず,左右の向龍を使て內侍とを接せしめ,子を生ましむ,以て己子と為す。〔一〕

〔一〕『晉書』廢帝海西公紀:「(太和六年)十一月癸卯,桓溫自廣陵屯于白石。丁未,詣闕,因圖廢立,誣帝在藩夙有痿疾,嬖人相龍・計好・朱靈寶等參侍內寢,而二美人田氏・孟氏生三男,長欲封樹,時人惑之,溫因諷太后以伊霍之舉。己酉,集百官于朝堂,宣崇德太后令曰「王室艱難,穆、哀短祚,國嗣不育,儲宮靡立。琅邪王奕親則母弟,故以入纂大位。不圖德之不建,乃至于斯。昏濁潰亂,動違禮度。有此三孽,莫知誰子。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉海西公生皇子,百姓歌云「鳳皇生一雛,天下莫不喜。本言是馬駒,今定成龍子。」其歌甚美,其旨甚微。海西公不男,使左右向龍與內侍接,生子以為己子。」

現代語訳

海西公に初めて皇子が生まれたとき,民衆は「鳳凰が一羽の雛を生んだ,天下に喜ばない者は一人もいなかった。本来は若い馬だと言うが,今 きめられて龍の子に成った。」と歌った。其の歌はたいそう美しく,其の趣旨はたいそう分かりにくかった,海西公は痿疾であった,皇帝の近臣である向龍を妾に接触させ,子供を生ませた,(その子供を)自分の子であるとしたのだ。

原文

桓石民為荊州,鎮上明,百姓忽歌曰「黃曇子」。曲中又曰「黃曇英,揚州大佛來上明。」頃之而桓石民死,王忱為荊州。黃曇子乃是王忱字也。忱小字佛大,是「大佛來上明」也。

訓読

桓石民 荊州を為め〔一〕,上明に鎮す,百姓 忽ち歌ひて曰く「黃曇子」と。曲中に又た曰く「黃曇英,揚州の大佛 上明に來る。」と。頃之して桓石民 死し,王忱荊州を為む〔二〕。黃曇子 乃ち是れ王忱の字なり。忱の小字は佛大,是れ「大佛 上明に來る」なり。

〔一〕『晉書』桓石民傳:(桓)沖薨,詔以石民監荊州軍事・西中郎將・荊州刺史。
〔二〕『世說新語』任誕:「王佛大歎言「三日不飲酒,覺形神不復相親。」」
『晉書』王忱傳:「忱字元達。弱冠知名,與王恭・王珣俱流譽一時。歷位驃騎長史。嘗造其舅范甯,與張玄相遇,甯使與玄語。玄正坐斂袵,待其有發,忱竟不與言,玄失望便去。甯讓忱曰「張玄,吳中之秀,何不與語。」忱笑曰「張祖希欲相識,自可見詣。」甯謂曰「卿風流雋望,真後來之秀。」忱曰「不有此舅,焉有此甥。」既而甯使報玄,玄束帶造之,始為賓主。太元中,出為荊州刺史・都督荊益寧三州軍事・建武將軍・假節。忱自恃才氣,放酒誕節,慕王澄之為人,又年少居方伯之任,談者憂之。及鎮荊州,威風肅然,殊得物和。桓玄時在江陵,既其本國,且奕葉故義,常以才雄駕物。忱每裁抑之。玄嘗詣忱,通人未出,乘轝直進。忱對玄鞭門幹,玄怒,去之,忱亦不留。嘗朔日見客,仗衞甚盛,玄言欲獵,借數百人,忱悉給之,玄憚而服焉。性任達不拘,末年尤嗜酒,一飲連月不醒,或裸體而游,每歎三日不飲,便覺形神不相親。婦父嘗有慘,忱乘醉弔之,婦父慟哭,忱與賓客十許人,連臂被髮裸身而入,繞之三帀而出。其所行多此類。數年卒官,追贈右將軍,諡曰穆。」
【参照】
『宋書』五行志:「桓石民為荊州,鎮上明,民忽歌曰「黃曇子」。曲終又曰「黃曇英,揚州大佛來上明。」頃之而石民死,王忱為荊州。「黃曇 子」乃是王忱之字也。忱小字佛大,是「大佛來上明」也。」

現代語訳

桓石民が荊州を治めた時,上明に駐在した,民衆が突然「黃曇子」と歌を歌った。曲中にさらに「黃曇英,揚州の大佛が上明に来る。」と歌った。間もなく桓石民は死に,王忱が荊州を治めた。黃曇子はつまり王忱の字である。王忱の幼名は佛大であり,これは「大佛が上明に来る」ということである。

原文

孝武帝太元末,京口謠「黃雌雞,莫作雄父啼。一旦去毛衣,衣被拉䬃栖。」尋而王恭起兵誅王國寶,旋為劉牢之所敗,故言「拉䬃栖」也。

訓読

孝武帝 太元(376‐396)末,京口の謠に曰く〔一〕「黃雌雞,雄父の啼を作す莫かれ。一旦 毛衣を去りて,衣は拉䬃の栖を被ふ。」と。尋いで王恭 起兵し王國寶を誅すも,旋りて劉牢之の敗る所と為る,故に「拉䬃の栖」と言ふなり。〔二〕

〔一〕『斠注』に「周家録校勘記,「口」下脱「曰」字。」と言う。注に従い「曰」を加えて読む。
〔二〕『晉書』王恭傳:「其後帝將擢時望以為藩屏,乃以恭為都督兗青冀幽并徐州晉陵諸軍事・平北將軍・兗青二州刺史・假節,鎮京口。(中略)或勸恭因入朝以兵誅國寶,而庾楷黨於國寶,士馬甚盛,恭憚之,不敢發,遂還鎮。臨別,謂道子曰「主上諒闇,冢宰之任,伊周所難,願大王親萬機,納直言,遠鄭聲,放佞人。」辭色甚厲,故國寶等愈懼。以恭為安北將軍,不拜。乃謀誅國寶,遣使與殷仲堪、桓玄相結,仲堪偽許之。恭得書,大喜,乃抗表京師曰「後將軍國寶得以姻戚頻登顯列,不能感恩效力,以報時施,而專寵肆威,將危社稷。先帝登遐,夜乃犯閤叩扉,欲矯遺詔。賴皇太后聰明,相王神武,故逆謀不果。又割東宮見兵以為己府,讒疾二昆甚於讐敵。與其從弟緒同黨凶狡,共相扇動。此不忠不義之明白也。以臣忠誠,必亡身殉國,是以譖臣非一。賴先帝明鑒,浸潤不行。昔趙鞅興甲,誅君側之惡,臣雖駑劣,敢忘斯義。」表至,內外戒嚴。國寶及緒惶懼不知所為,用王珣計,請解職。道子收國寶,賜死,斬緒于市,深謝愆失,恭乃還京口。(中略)恭夢牢之坐其處,旦謂牢之曰「事克,即以卿為北府。」遣牢之率帳下督顏延先據竹里。元顯使說牢之,啗以重利,牢之乃斬顏延以降。是日,牢之遣其壻高雅之・子敬宣,因恭曜軍,輕騎擊恭。恭敗,將還,雅之已閉城門,恭遂與弟履單騎奔曲阿。」
【参照】
『宋書』五行志:「太元末,京口謠曰「黃雌雞,莫作雄父啼。一旦去毛衣,衣被拉颯拪。」尋王恭起兵誅王國寶,旋為劉牢之所敗也。」

現代語訳

孝武帝の太元年間の末に,京口(鎮江)の歌謠に「黃色の雌雞は,雄鶏のように鳴いてはいけない。ある日にわかに羽毛を取り去り,羽は乱れた棲みかをおおう。」と歌われた。まもなく王恭は起兵して王國寶を誅殺するも,反旗をひるがえした劉牢之により敗退することになった,したがって「乱れた棲みか」と言うのだ。

原文

會稽王道子於東府造土山,名曰靈秀山。無幾而孫恩作亂,再踐會稽。會稽,道子所封。靈秀,孫恩之字也。

訓読

會稽王 道子 東府に土山を造り,名づけて靈秀山と曰ふ。幾ばくも無くして孫恩 亂を作し,再び會稽を踐む〔一〕。會稽,道子の封ぜらる所,靈秀,孫恩の字なり〔二〕。〔三〕

〔一〕『晉書』安帝紀:「(隆安四年)五月丙寅,散騎常侍・衞將軍・東亭侯王珣卒。己卯,會稽內史謝琰為孫恩所敗,死之。」
〔二〕『晉書』孫恩傳:「孫恩字靈秀,琅邪人,孫秀之族也。」
〔三〕『斠注』に「書鈔九十六異苑曰,太元末有纖云「修起会稽」。二九及安皇肇建,既而孫恩叛據循継寇十載。以二賊叛験之。案此讖不見於史。因以類附注之。」とある。
【参照】
『宋書』五行志:「司馬道子於東府造土山,名曰靈秀山。無幾而孫恩作亂,再踐會稽。會稽,道子所封。靈秀,恩之字也。」

現代語訳

會稽王 司馬道子が東府の屋敷(今の南京)に土山を造営し,靈秀山と名付けた。間を開けずに孫恩が亂を起こし,再度 會稽の地を踏んだ。會稽は,司馬道子が封じられた場所であり,靈秀は,孫恩の字である。

原文

庾楷鎮歷陽,百姓歌曰「重羅黎,重羅黎,使君南上無還時。」後楷南奔桓玄,為玄所誅。

訓読

庾楷 歷陽に鎮し,百姓歌ひて曰く「重羅は黎たり,重羅は黎たり,君を使て南せしめ上りて還る時無し。」と。後に楷 南して桓玄に奔り,玄誅する所と為る〔一〕。

〔一〕『晉書』庾楷傳:「庾楷,征西將軍亮之孫,會稽內史羲小子也。初拜侍中,代兄準為西中郎將・豫州刺史・假節,鎮歷陽。隆安初,進號左將軍。時會稽王道子憚王恭・殷仲堪等擅兵,故出王愉為江州,督豫州四郡,以為形援。楷上疏以江州非險塞之地,而西府北帶寇戎,不應使愉分督,詔不許。時楷懷恨,使子鴻說王恭,以譙王尚之兄弟復握機權,勢過國寶。恭亦素忌尚之,遂連謀舉兵,事在恭傳。詔使尚之討楷。楷遣汝南太守段方逆尚之,戰于慈湖,方大敗,被殺,楷奔于桓玄。及玄等盟于柴桑,連名上疏自理,詔赦玄等而不赦恭・楷,楷遂依玄,玄用為武昌太守。楷後懼玄必敗,密遣使結會稽世子元顯「若朝廷討玄,當為內應。」及玄得志,楷以謀泄,為玄所誅。」
『晉書』安帝紀:(隆安二年)秋七月,慕容寶子盛斬蘭汗,僭稱長樂王,攝天子位。兗州刺史王恭・豫州刺史庾楷・荊州刺史殷仲堪・廣州刺史桓玄・南蠻校尉楊佺期等舉兵反。
【参照】
『宋書』五行志:「庾楷鎮歷陽,民歌曰「重羅犁,重羅犁,使君南上無還時。」後楷南奔桓玄,為玄所誅。」

現代語訳

庾楷が歷陽を治めていた時,民衆が「重なった網は黒い,重なった網は黒い,君主さまを南に行かせたが,上がって戻ってくる時は無かった。」と歌った。後に庾楷は南に向かい,桓玄のもとにはしり,桓玄に誅殺されることとなった。

原文

殷仲堪在荊州,童謠曰「芒籠目,繩縛腹。殷當敗,桓當復。」未幾而仲堪敗,桓玄遂有荊州。

訓読

殷仲堪 荊州に在り,童謠に曰く「芒籠の目,繩は腹を縛る。殷 當に敗るべし,桓 當に復るべし。」と。未だ幾くもならずして仲堪 敗れ〔一〕,桓玄 遂に荊州を有つ。

〔一〕『晉書』安帝紀:「(隆安三年)十二月,桓玄襲江陵,荊州刺史殷仲堪・南蠻校尉楊佺期並遇害。」
『晉書』桓玄傳:「玄在荊楚積年,優游無事,荊州刺史殷仲堪甚敬憚之。(中略)玄既至巴陵,仲堪遣眾距之,為玄所敗。玄進至楊口,又敗仲堪弟子道護,乘勝至零口,去江陵二十里,仲堪遣軍數道距之。佺期自襄陽來赴,與兄廣共擊玄,玄懼其銳,乃退軍馬頭。佺期等方復追玄苦戰,佺期敗,走還襄陽,仲堪出奔酇城,玄遣將軍馮該躡佺期,獲之。廣為人所縛,送玄,並殺之。仲堪聞佺期死,乃將數百人奔姚興,至冠軍城,為該所得,玄令害之。於是遂平荊雍,乃表求領江、荊二州。詔以玄都督荊司雍秦梁益寧七州・後將軍・荊州刺史・假節,以桓脩為江州刺史。玄上疏固爭江州,於是進督八州及楊豫八郡,復領江州刺史。玄又輒以偉為冠軍將軍、雍州刺史。」
【参照】
『宋書』五行志:「殷仲堪在荊州,童謠曰「芒籠目,繩縛腹。殷當敗,桓當復。」無幾而仲堪敗,桓玄有荊州。」

現代語訳

殷仲堪が荊州にいた時、童謡に「芒でできた(首を入れる)籠の目,繩は(死体の)腹を縛る。殷仲堪は敗れるだろう,桓玄は戻ってくるだろう。」と歌われた。ほどなく殷仲堪は敗れ、桓玄はかくて荊州を所有することとなった。

原文

王恭鎮京口,舉兵誅王國寶。百姓謠云「昔年食白飯,今年食麥䴸。天公誅讁汝,教汝捻嚨喉。嚨喉喝復喝,京口敗復敗。」識者曰「昔年食白飯,言得志也。今年食麥䴸,䴸麤穢,其精已去,明將敗也。天公將加譴讁而誅之也。捻嚨喉,氣不通,死之祥也。敗復敗,丁寧之辭也。」恭尋死,京都又大行欬疾,而喉並喝焉。

訓読

王恭 京口に鎮し〔一〕,兵を舉げ王國寶を誅す〔二〕。百姓 謠ひて云く「昔年は白飯を食らひ,今年は麥䴸を食らふ。天公 汝を誅讁し,汝を教て嚨喉を捻る。嚨喉 喝し復た喝す,京口 敗れ復た敗る。」と。識者曰く「昔年は白飯を食らふは,志を得るを言ふなり。今年は麥䴸を食らふは,䴸 麤穢にして,其の精已に去り,將に敗れんとするを明らかにするなり。天公 將に譴讁を加へて之を誅さんとするなり。嚨喉を捻るは,氣 通じず,死の祥なり。敗れ復た敗るは,丁寧の辭なり。」と。恭 尋いで死し〔三〕,京都 又 大ひに欬疾 行はれ,而て喉並びに喝す。

〔一〕『晉書』王恭傳:「其後帝將擢時望以為藩屏,乃以恭為都督兗青冀幽并徐州晉陵諸軍事・平北將軍・兗青二州刺史・假節,鎮京口。」
〔二〕『晉書』安帝紀:「(隆安元年)夏四月甲戌,兗州刺史王恭・豫州刺史庾楷舉兵,以討尚書左僕射王國寶・建威將軍王緒為名。甲申,殺國寶及緒以悅于恭,恭乃罷兵。戊子,大赦。」
〔三〕『晉書』安帝紀:「(隆安二年)九月辛卯,加太傅・會稽王道子黃鉞。遣征虜將軍會稽王世子元顯、前將軍王珣、右將軍謝琰討桓玄等。己亥,破庾楷于牛渚。丙午,會稽王道子屯中堂,元顯守石頭。己酉,前將軍王珣守北郊,右將軍謝琰備宣陽門。輔國將軍劉牢之次新亭,使子敬宣擊敗恭,恭奔曲阿長塘湖,湖尉收送京師,斬之。於是遣太常殷茂喻仲堪及玄,玄等走于尋陽。」
【参照】
『宋書』五行志:「王恭鎮京口,舉兵誅王國寶,百姓謠云「昔年食白飯,今年食麥䴸。天公誅讁汝,教汝捻嚨喉。嚨喉喝復喝,京口敗復敗。」「昔年食白飯」,言得志也。「今年食麥䴸」,䴸,粗穢,其精已去,明將敗也,天公將加譴讁而誅之也。「捻嚨喉」,氣不通,死之祥也。「敗復敗」,丁寧之辭也。恭尋死,京都大行咳疾,而喉並喝焉。」

現代語訳

王恭が京口を治めていた時,挙兵して王國寶を誅殺した。民衆は「むかしは白飯を食べ,今年は麦のふすまを食べる。天帝はおまえを咎め,おまえののどを捻る。のどはかすれふたたびかすれ,京口は敗れふたたび敗れる。」と歌った。識者は「むかしは白飯を食べるとは,意思を強く持っていることを言っている。今年は麦のふすまを食べるとは,ふすまはそまつで悪いものであり,その純粋さがもはや失われ,これから敗退しようとしていることを明らかにしている。天帝は責めてこの者を誅殺しようとしている。のどを捻るとは,氣が通じなくなることであり,死のきざしである。敗れふたたび敗れるとは,念押しの言葉である。」と言った。王恭はまもなく死に,京都(建康)にもまた大層欬の病が流行って,みな声がかすれた。

原文

王恭在京口,百姓間忽云「黃頭小兒欲作賊,阿公在城,下指縛得。」又云「黃頭小人欲作亂,賴得金刀作藩扞。」黃字上恭字頭也,小人恭字下也,尋如謠言者焉。

訓読

王恭 京口に在り,百姓の間に忽ち云ふ「黃頭の小兒 賊を作さんと欲し,阿公 城に在り,下 縛得するを指す。」と。又た云ふ「黃頭の小人 亂を作さんと欲し,賴(さいわい)に金刀を得て藩扞と作す。」と。黃字の上は恭字の頭なり,小人は恭字の下なり,尋いで謠言の如き者にたり。

【参照】
『宋書』五行志:「王恭在京口,民間忽云:「黃頭小人欲作賊,阿公在城下,指縛得。」又云「黃頭小人欲作亂,賴得金刀作蕃扞。」「黃」字上,「恭」字頭也。「小人」,「恭」字下也。尋如謠者言焉。」

現代語訳

王恭が京口にいた時,民衆の間に突然「黃頭のこどもが逆賊になろうとし,おじいさんが町にいて,後に縄をかけて捕らえることを指す。」と歌い出した。「黃頭のこどもが反乱を起こそうとし,都合よく金刀を得て守りとした。」とも歌い出した。「黃」の字の上は「恭」の字の上の部分であり,「小人」は「恭」の字の下の部分である,間もなく歌に歌われる通りになった。

原文

安帝隆安中,百姓忽作懊憹之歌,其曲曰「草生可攬結,女兒可攬擷。」尋而桓玄篡位,義旗以三月二日掃定京都,誅之。玄之宮女及逆黨之家子女妓妾悉為軍賞,東及甌越,北流淮泗。皆人有所獲,故言時則草可結,事則女可擷也。

訓読

安帝隆安中(397-401),百姓 忽ち懊憹の歌作る,其の曲に曰く「草生ゆれば攬結す可し,女兒 攬擷す可し。」と。尋いで桓玄 位を篡ひ〔一〕,義旗 三月二日を以て京都を掃定し,之を誅す〔二〕。玄の宮女及び逆黨の家の子女・妓・妾 悉く軍賞と為り,東は甌越に及び,北は淮泗に流る。皆人 獲る所有り。故に言ふ,時なれば則ち草 結ぶ可し,事あれば則ち女 擷む可きなり。と。

〔一〕『晉書』安帝紀:「(元興二年)二月壬辰,玄篡位,以帝為平固王。辛亥,帝蒙塵于尋陽。」
〔二〕『晉書』安帝紀:「(元興三年)三月戊午,劉裕斬玄將吳甫之于江乘,斬皇甫敷於羅落。己未,玄眾潰而逃。庚申,劉裕置留臺,具百官。壬戌,桓玄司徒王謐推劉裕行鎮軍將軍・徐州刺史・都督揚徐兗豫青冀幽并八州諸軍事・假節。劉裕以謐領揚州刺史・錄尚書事。辛酉,劉裕誅尚書左僕射王愉・愉子荊州刺史綏・司州刺史溫詳。辛未,桓玄逼帝西上。丙戌,密詔以幽逼於玄,萬機虛曠,令武陵王遵依舊典,承制總百官行事,加侍中,餘如故。并大赦謀反大逆已下,惟桓玄一祖之後不宥。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉安帝隆安中,民忽作懊惱歌,其曲中有「草生可擥結,女兒可擥抱」之言。桓玄既篡居天位,義旗以三月二日掃定京都,玄之宮女及逆黨之家子女伎妾,悉為軍賞。東及甌・越,北流淮・泗,皆人有所獲焉。時則草可結,事則女可抱,信矣。

現代語訳

安帝の隆安年間(397-401)中に,民衆が突然 懊憹の歌(こころが悶えるような歌)を作った,その曲は「草が生えたらまとめて束ねたほうがよく,女はつみとったほうがよい。」と歌った。まもなく桓玄が帝位を簒奪し,正義の軍が三月二日に都を平定し、桓玄を誅殺した。桓玄が使用していた女官や逆賊の家の子女・妓女・妾は残らず軍の褒美となり,(彼女らは)東は甌越(今の浙江省あたり)にまで及び,北は淮泗(淮水・泗水流域)にまで流出した。軍人は全員,女を獲得した。そのため,時が来れば草は束ねたほうがよく,何かある場合は女性はつみとったほうがよい。と言うのだ。

原文

桓玄既篡,童謠曰「草生及馬腹,烏啄桓玄目。」及玄敗走至江陵,時正五月中,誅如 其期焉。

訓読

桓玄 既に篡ふ,童謠に曰く「草生ゆること馬腹に及び,烏 桓玄の目を啄む。」と。玄 敗走して江陵に至るに及び,時 正に五月中〔一〕,誅は其の期の如し。〔二〕

〔一〕『晉書』安帝紀:「(元興三年)五月癸酉,冠軍將軍劉毅及 桓玄 戰于崢嶸洲,又破之。己卯,帝復幸江陵。辛巳,荊州別駕王康產、南郡太守王騰之奉帝居于南郡。壬午,督護馮遷斬 桓玄 於貊盤洲。」
〔二〕『斠注』には『宋書』の次の故事も引く。「桓玄時,民謠語云「征鐘落地桓迸走。」征鐘,至穢之服,桓,四體之下稱。玄自下居上,猶征鐘之厠歌謠,下體之詠民口也。而云「落地」,墜地之祥,迸走之言,其驗明矣。」
【参照】
『宋書』五行志:「桓玄既篡,童謠曰「草生及馬腹,烏啄桓玄目。」及玄敗走至江陵,五月中誅,如其期焉。」

現代語訳

桓玄が皇帝の位を簒奪し終わった時,童謠に「草が生えることは馬の腹にまで及び,烏が桓玄の目をついばむ。」と歌われた。桓玄が敗退し,逃げて江陵に至った,その時まさに五月中であり,誅殺の時期は歌われた時期の通りだった。

原文

安帝義熙初,童謠曰「官家養蘆化成荻,蘆生不止自成積。」其時官養盧龍,寵以金紫,奉以名州,養之極也。而龍不能懷我好音,舉兵內伐,遂成讐敵也〔三〕。「蘆生不止自成積」,及盧龍之敗,斬伐其黨,猶如草木以成積也。

訓読

安帝義熙の初,童謠に曰く「官家蘆を養ひて化して荻と成る,蘆生じて止まず自づから積を成す。」と。其の時官盧龍〔一〕を養ふ,寵するに金紫を以ってし,奉ずるに名州を以てす〔二〕,養の極みなり。而して龍我が好音に懐くこと能はず〔三〕,兵を舉げて內伐し,遂に讐敵と成るなり〔四〕。「蘆生じて止まず自づから積を成す。」とは,盧龍の敗るるに及び,其の黨を斬伐するに〔五〕,猶ほ草木の以て積を成すがごときなり。

〔一〕中華書局標点本の校注に盧循の幼名が元龍であることから,ここの盧龍というのはおそらく「盧元龍」の省略であることが指摘されている。
〔二〕『晋書』盧循伝:「盧循字于先,小名元龍,司空從事中郎諶之曾孫也。雙眸冏徹,瞳子四轉,善草隸弈棋之藝。… …時朝廷新誅桓氏,中外多虞,乃權假循征虜將軍・廣州刺史・平越中郎將。」
〔三〕『毛詩』魯頌・駉之什・泮水:「翩彼飛鴞,集于泮林,食我桑黮,懷我好音。」,鄭箋「懷,歸也。言鴞恒惡鳴,今來止於泮水之木上,食其桑黮,為此之故。故改其鳴,歸就我,以善音喻人感於恩則化也。」
〔四〕『晋書』盧循伝:「義熙中,劉裕伐慕容超,循所署始興太守徐道覆,循之姊夫也,使人勸循乘虛而出,循不從。道覆乃至番禺,說循曰「朝廷恒以君為腹心之疾,劉公未有旋日,不乘此機而保一日之安,若平齊之後,劉公自率眾至豫章,遣銳師過嶺,雖復君之神武,必不能當也。今日之機,萬不可失。既克都邑,劉裕雖還,無能為也。君若不同,便當率始興之眾直指尋陽。」循甚不樂此舉,無以奪其計,乃從之。」
〔五〕『晋書』盧循伝:「循勢屈,知不免,先鴆妻子十餘人,又召妓妾問曰「我今將自殺,誰能同者。」多云「雀鼠貪生,就死實人情所難。」有云「官尚當死,某豈願生。」於是悉鴆諸辭死者,因自投於水。慧度取其尸斬之及其父嘏。同黨盡獲,傳首京都。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉安帝義熙初,童謠曰「官家養蘆化成荻,蘆生不止自成積。」其時官養盧龍,寵以金紫,奉以名州,養之已極,而不能懷我好音,舉兵內伐,遂成讎敵也。「蘆生不止自成積」,及盧龍作亂,時人追思童謠,惡其有成積之言。識者曰「芟夷蘊崇之,又行火焉,是草之窮也。伐斫以成積,又以為薪,亦蘆荻之終也。其盛既極,亦將芟夷而為積焉。」龍既窮其兵勢,盛其舟艦,卒以滅亡,僵屍如積焉。」

現代語訳

安帝の義熙年間(405年 - 418年)のはじめに,童謠に「朝廷が蘆を育てて荻(てき)に変化した,蘆は止むことなく生まれつづけて自然と積もっていく。」と言った。その時朝廷は盧龍を養っており,(特別に官位のあかしである)金印紫綬を授け,豊かな州を統治させた,(これは)養うことの極みである。しかし盧龍は朝廷の教化には服すことができずに,挙兵して国内に向かって征伐を行い,そうして仇敵となった。「蘆生じて止まず自づから積を成す。」というのは,盧龍が敗北したときに,その仲間たちを成敗することが,草木が積もっていくかのよう(に多数にのぼったの)であった。

原文

盧龍據廣州,人為之謠曰「蘆生漫漫竟天半。」後擁上流數州之地,內逼京輦,應「天半」之言。

訓読

盧龍廣州に據り,人之れが為に謠ひて曰く「蘆生じて漫漫として竟ひに天に半ばす。」と。後ち上流數州の地を擁し,內は京輦に逼る,「天に半ばす」の言に應あるなり。

【参照】
『宋書』五行志:「盧龍據有廣州,民間謠云「蘆生漫漫竟天半。」後擁有上流數州之地,內逼京輦,應「天半」之言。」

現代語訳

盧龍は廣州を根據地とし,民衆はこのために「蘆が生えてどんどん広がってとうとう天の半分となった。」と歌った。のちに上流の數州の地を占有し,国の中央に向かいみやこへとせまった,(これが)「天の半分」という言葉の應である。

原文

義熙二年,小兒相逢於道,輒舉其兩手曰「盧健健」,次曰「鬭歎鬭歎」,末曰「翁年老翁年老」。當時莫知所謂。其後盧龍內逼,舟艦蓋川,「健健」之謂也。既至查浦,屢剋期欲與官鬭,「鬭歎」之應也。「翁年老」,羣公有期頤之慶,知妖逆之徒自然消殄也。其時復有謠言曰「盧橙橙,逐水流,東風忽如起,那得入石頭。」盧龍果敗,不得入石頭也。

訓読

義熙二年,小兒相ひ道に逢ふに,輒はち其の兩手を舉げて「盧健健」と曰ひ,次に「鬭歎鬭歎」と曰ひ,末に「翁年老翁年老」と曰ふ。當時謂ふ所を知る莫し。其の後盧龍內に逼り,舟艦川を蓋ふ,「健健」の謂ひなり。既に查浦に至り,屢しば剋期して官と鬭はんと欲す〔一〕,「鬭歎」の應なり。「翁年老」とは,羣公期頤〔二〕の慶有り,妖逆の徒自然と消殄するを知るなり。其の時復た謠言有りて曰く「盧橙橙,水流を逐ふ,東風忽如として起ち,那んぞ石頭に入るを得ん。」と。盧龍果たして敗れ,石頭に入るを得ざるなり。

〔一〕『晋書』盧循伝:「裕懼其侵軼,乃柵石頭,斷柤浦,以距之。循攻柵不利,船艦為暴風所傾,人有死者。列陣南岸,戰又敗績。乃進攻京口,寇掠諸縣,無所得。」
『宋書』武帝紀上:「於是大開賞募,投身赴義者,一同登京城之科。發居民治石頭城,建牙戒嚴。時議者謂宜分兵守諸津要。公以為「賊眾我寡,若分兵屯,則人測虛實。且一處失利,則沮三軍之心。今聚眾石頭,隨宜應赴,既令賊無以測多少,又於眾力不分。若徒旅轉集,徐更論之耳。」移屯石頭,乃柵淮斷查浦。既而羣賊大至,公策之曰「賊若於新亭直進,其鋒不可當,宜且回避,勝負之事,未可量也。若回泊西岸,此成擒耳。」道覆欲自新亭・白石焚舟而上。循多疑少決,每欲以萬全為慮,謂道覆曰「大軍未至,孟昶便望風自裁,大勢言之,自當計日潰亂。今決勝負於一朝,既非必定之道,且殺傷士卒,不如按兵待之。」公于時登石頭城以望循軍,初見引向新亭,公顧左右失色。既而回泊蔡洲。道覆猶欲上,循禁之。自是眾軍轉集,修治越城,築查浦・藥園・廷尉三壘,皆守以實眾。冠軍將軍劉敬宣屯北郊,輔國將軍孟懷玉屯丹陽郡西,建武將軍王仲德屯越城,廣武將軍劉懷默屯建陽門外。使寧朔將軍索邈領鮮卑具裝虎班突騎千餘匹,皆被練五色,自淮北至于新亭。賊並聚觀,咸畏憚之。然猶冀京邑及三吳有應之者。遣十餘艦來拔石頭柵,公命神弩射之,發輒摧陷,循乃止不復攻柵。設伏兵於南岸,使羸老悉乘舟艦向白石。公憂其從白石步上,乃率劉毅・諸葛長民北出拒之,留參軍徐赤特戍南岸,命堅守勿動。公既去,賊焚查浦步上,赤特軍戰敗,死沒有百餘人。赤特棄餘眾,單舸濟淮。賊遂率數萬屯丹陽郡。公率諸軍馳歸。眾憂賊過,咸謂公當徑還拒戰。公先分軍還石頭,眾莫之曉。解甲息士,洗浴飲食之,乃出列陳於南塘。以赤特違處分,斬之。命參軍褚叔度・朱齡石率勁勇千餘人過淮。羣賊數千,皆長刀矛鋋,精甲曜日,奮躍爭進。齡石所領多鮮卑,善步矟,並結陳以待之。賊短兵弗能抗,死傷者數百人,乃退走。會日莫,眾亦歸。」
〔二〕『礼記』曲礼上:「百年曰期頤。」,鄭注「期,猶要也。頤,養也。不知衣服食味,孝子要盡養道而已。」
【参照】
『宋書』五行志:「義熙三年中,小兒相逢於道,輒舉其兩手曰「盧健健」,次曰「鬭嘆,鬭嘆」,末復曰「翁年老,翁年老」。當時莫知所謂。其後盧龍內逼,舟艦蓋川,「健健」之謂也。既至查浦,屢剋期欲與官鬭,「鬭嘆」之應也。「翁年老」,羣公有期頤之慶,知妖逆之徒,自然消殄也。其時復有謠言曰「盧橙橙,逐水流,東風忽如起,那得入石頭。」盧龍果敗,不得入石頭。」

現代語訳

義熙二年(406),こども同士が道で会うと,そのたびごとにその兩手を舉げて「盧の健健(元気がよい)」と言い,次に「鬭歎鬭歎(どったんどったん)」と言い,最後に「翁年老翁年老(おじいちゃんが歳をとったおじいちゃんが歳をとった)」と言った。當時そう言っていた理由がわかるものはいなかった。その後盧龍は国の中央に迫り,艦船は川面を覆った,「健健」ということである。既に查浦に至ると,しばしば日を定めて官軍と戦おうとした,「鬭歎」の應である。「翁年老」とは,羣公が百歳となる慶賀があり,妖逆の徒が自然と消えつくすことがわかる。その時また謠言があり「盧のだいだい,水の流を追う,東風が突然起こる,どうして石頭に入ることができようか。」と言った。盧龍はやはり敗北し,石頭に入るができなかった。

原文

昔溫嶠令郭景純卜己與庾亮吉凶。景純云「元吉。」嶠語亮曰「景純每筮,是不敢盡言。吾等與國家同安危,而曰『元吉』,是事有成也。」於是協同討滅王敦。

訓読

昔し溫嶠 郭景純をして己と庾亮との吉凶を卜せしむ。景純云ふ「元ひに吉。」と。嶠 亮に語りて曰く「景純每に筮するに,是こに敢へて盡くは言はず。吾れ等 國家と安危を同じくするに,而して『元吉』と曰ふ,是れ事成る有るなり。」と。〔一〕是に於いて協同して王敦を討滅す 〔二〕。

〔一〕『晋書』郭璞伝:「王敦之謀逆也,溫嶠・庾亮使璞筮之,璞對不決。嶠・亮復令占己之吉凶,璞曰「大吉。」嶠等退,相謂曰「璞對不了,是不敢有言,或天奪敦魄。今吾等與國家共舉大事,而璞云大吉,是為舉事必有成也。」於是勸帝討敦。」
〔二〕『晋書』温嶠伝:「及敦構逆,加嶠中壘將軍・持節・都督東安北部諸軍事。敦與王導書曰「太真別來幾日,作如此事。」表誅姦臣,以嶠為首。募生得嶠者,當自拔其舌。及王含・錢鳳奄至都下,嶠燒朱雀桁以挫其鋒,帝怒之,嶠曰「今宿衞寡弱,徵兵未至,若賊豕突,危及社稷,陛下何惜一橋。」賊果不得渡。嶠自率眾與賊夾水戰,擊王含,敗之,復督劉遐追錢鳳於江寧。事平,封建寧縣開國公,賜絹五千四百匹,進號前將軍。」
【参照】
『宋書』五行志:「昔溫嶠令郭景純卜己與庾亮吉凶。景純云「元吉」。嶠語亮「景純每筮,當是不敢盡言。吾等與國家同安危而曰元吉,事有成也。」於是協同討滅王敦。」

現代語訳

むかし溫嶠が郭景純(郭璞)に自分と庾亮の吉凶を占卜させた。郭景純は「おおいに吉である。」と言った。温嶠は庾亮に語って「景純はいつも卜筮をするときには,あえてすべてを言うことはなかった。われわれは國家と運命を同じくするものであるから,『おおいに吉である』というのは,これは事が成し遂げられることがあるのだ。」と言った。〔一〕そうして協力して王敦を討ち滅ぼした 〔二〕。

原文

苻堅初,童謠云「阿堅連牽三十年,後若欲敗時,當在江湖邊。」及堅在位凡三十年,敗於淝水,是其應也。又謠語云「河水清復清,苻堅死新城。」及堅為姚萇所殺,死於新城。復謠歌云「魚羊田升當滅秦。」識者以為「魚羊,鮮也。田升,卑也,堅自號秦,言滅之者鮮卑也。」其羣臣諫堅,令盡誅鮮卑,堅不從。及淮南敗還,初為慕容沖所攻,又為姚萇所殺,身死國滅。

訓読

苻堅の初,童謠に云ふ「阿堅連牽すること三十年,後ちに若ぢ敗せんと欲するの時,當さに江湖の邊に在り。」と〔一〕。堅の位に在ること凡そ三十年に及びて,淝水に敗る,是れ其の應なり。〔二〕又た謠語に云ふ「河水清く復た清し,苻堅新城に死す。」と。〔三〕堅の姚萇の殺す所と為るに及びて,新城に死す。〔四〕復た謠歌に云ふ「魚羊田升當さに秦を滅ぼすべし。」と。識者以為へらく「魚羊とは,鮮なり。田升とは,卑なり。堅自づから秦と號す,之れを滅ぼす者は鮮卑なるを言ふなり。」と。〔五〕其の羣臣堅を諫め,盡ごとく鮮卑を誅せしめんとするも,堅從はず。淮南に敗還するに及びて,初め慕容沖の攻める所と為り〔六〕,又た姚萇の殺す所と為り,身死して國滅ぶ。

〔一〕『晋書』苻堅載記下:「初,堅強盛之時,國有童謠云「河水清復清,苻詔死新城。」堅聞而惡之,每征伐,戒軍候云「地有名新者避之。」時又童謠云「阿堅連牽三十年,若後欲敗當在江淮間。」堅在位二十七年,因壽春之敗,其國大亂,後二年,竟死於新平佛寺,咸應謠言矣。」
〔二〕『晋書』孝武帝紀:「(太玄八年)冬十月,苻堅弟融陷壽春。乙亥,諸將及苻堅戰于肥水,大破之,俘斬數萬計,獲堅輿輦及雲母車。」
『晋書』苻堅載記下:「堅遣其尚書朱序說石等以眾盛,欲脅而降之。序詭謂石曰「若秦百萬之眾皆至,則莫可敵也。及其眾軍未集,宜在速戰。若挫其前鋒,可以得志。」石聞堅在壽春也,懼,謀不戰以疲之。謝琰勸從序言,遣使請戰,許之。時張蚝敗謝石於肥南,謝玄・謝琰勒卒數萬,陣以待之。蚝乃退,列陣逼肥水。王師不得渡,遣使謂融曰「君懸軍深入,置陣逼水,此持久之計,豈欲戰者乎。若小退師,令將士周旋,僕與君公緩轡而觀之,不亦美乎。」融於是麾軍卻陣,欲因其濟水,覆而取之。軍遂奔退,制之不可止。融馳騎略陣,馬倒被殺,軍遂大敗。王師乘勝追擊,至於青岡,死者相枕。堅為流矢所中,單騎遁還於淮北,飢甚,人有進壺飧豚髀者,堅食之,大悅,曰「昔公孫豆粥何以加也。」命賜帛十匹,緜十斤。辭曰「臣聞白龍厭天池之樂而見困豫且,陛下目所覩也,耳所聞也。今蒙塵之難,豈自天乎。且妄施不為惠,妄受不為忠。陛下,臣之父母也,安有子養而求報哉。」弗顧而退。堅大慚,顧謂其夫人張氏曰「朕若用朝臣之言,豈見今日之事邪。當何面目復臨天下乎。」潸然流涕而去。聞風聲鶴唳,皆謂晉師之至。其僕射張天錫・尚書朱序及徐元喜等皆歸順。初,諺言「堅不出項」,羣臣勸堅停項,為六軍聲鎮,堅不從,故敗。」
〔三〕注〔一〕参照
〔四〕『晋書』孝武帝紀:「(太玄十年八月)是月,姚萇殺苻堅而僭即皇帝位。」
『晋書』符堅載記下:「堅至五將山,姚萇遣將軍吳忠圍之。堅眾奔散,獨侍御十數人而已。神色自若,坐而待之,召宰人進食。俄而忠至,執堅以歸新平,幽之於別室。萇求傳國璽於堅曰「萇次膺符曆,可以為惠。」堅瞋目叱之曰「小羌乃敢干逼天子,豈以傳國璽授汝羌也。圖緯符命,何所依據。五胡次序,無汝羌名。違天不祥,其能久乎。璽已送晉,不可得也。」萇又遣尹緯說堅,求為堯舜禪代之事。堅責緯曰「禪代者,聖賢之事。姚萇叛賊,奈何擬之古人。」堅既不許萇以禪代,罵而求死,萇乃縊堅於新平佛寺中,時年四十八。中山公詵及張夫人並自殺。是歲,太元十年也。」
〔五〕『晋書』苻堅載記上:「時有人於堅明光殿大呼謂堅曰「甲申乙酉,魚羊食人,悲哉無復遺。」堅命執之,俄而不見。祕書監朱彤等因請誅鮮卑,堅不從。」
〔六〕『晋書』孝武帝紀:「(太玄九年七月)苻堅及慕容沖戰于鄭西,堅師敗績。」
【参照】
『宋書』五行志:「苻堅中,童謠曰「阿堅連牽三十年,後若欲敗時,當在江湖邊。」後堅敗於淝水,在偽位凡三十年。苻堅中,謠語云「河水清復清,苻詔死新城。」堅為姚萇所殺,死於新城。苻堅中,歌云「魚羊田斗當滅秦。」「魚羊」,鮮也。「田斗」,卑也。堅自號秦,言滅之者鮮卑也。其羣臣諫堅,令盡誅鮮卑。堅不從。及淮南敗還,為慕容沖所攻,亡奔姚萇,身死國滅。」

現代語訳

苻堅の(統治の)はじめ,童謠に「堅さん引っ張り続けて三十年,のちにお前が敗れようとしたときには,江湖のほとりにあるだろう。」とあった。符堅が在位三十年になったときに,淝水で敗北した,これはその應である。また謠語に「河の水は清くさて清い,苻堅は新城で死ぬ。」とあった。符堅が姚萇に殺されたときには,新城で死んだ。また謠歌に「魚羊田升が秦を滅ぼすだろう。」とあった。識者は「魚羊とは,鮮である。田升とは,卑である。符堅は自分で秦と號したのであるから,これを滅ぼす者は鮮卑であるということを言っている。」と考えた。その臣下たちは符堅を諫めて,ことごとく鮮卑を誅殺させようとしたが,符堅は從わなかった。淮南で敗れて帰還すると,最初は慕容沖に攻められ,さらに姚萇に殺され,その身は死んで國は滅びた。

毛蟲之孼

原文

武帝太康六年,南陽獻兩足猛獸,此毛蟲之孼也。識者爲其文曰,「武形有虧,金獸失儀,聖主應天,斯異何爲。」言兆亂也。京房『易傳』曰「足少者,下不勝任也。」干寶以爲,「獸者陰精,居于陽,金獸也。南陽,火名也。金精入火而失其形,王室亂之妖也。」六,水數,言水數既極,火慝得作,而金受其敗也。至元康九年,始殺太子,距此十四年。二七十四,火始終相乘之數也。自帝受命,至愍懷之廢,凡三十五年焉。

訓読

武帝の太康六年,南陽 兩足の虎〔一〕を獻ず,此れ毛蟲の孼なり。識者其の文を爲りて曰く,「武形に虧有り,金虎〔一〕儀を失ふ,聖主天に應ずるも,斯に異あるは何の爲ならん」と。兆亂を言ふなり。京房『易傳』に曰く,「足少きは,下 任に勝へざえるなり。〔二〕」と。干寶以爲へらく,「虎〔一〕なる者は陰の精なれども,陽に居り,金の獸なり。南陽は,火の名なり。金精火に入りて其の形を失ふ,王室亂るるの妖なり。」と〔三〕。六は,水數,言ふこころは水數既に極まり,火慝作(おこ)るを得,而して金其の敗を受くるなり。元康九年に至り,始めて太子を殺す〔四〕,此を距つること十四年。二七十四,火の始終相乘の數なり。帝の受命自り〔五〕,愍懷の廢に至るまで,凡そ三十五年。

〔一〕「虎」,原文は各々「猛獸」「獸」「獸」であるが、唐の太祖(李虎)の避諱である。今『宋書』五行志に從い「虎」に改める。
〔二〕『漢書』五行志下之上:「京房『易傳』曰,「(中略)足多,所任邪也。足少,下不勝任,或不任下也。」」
〔三〕『捜神記』卷七・兩足虎:「晉武帝太康六年,南陽獲兩足虎。虎者,陰精而居乎陽,金獸也。南陽,火名也。金精入火而失其形,王室亂之妖也。」
〔四〕『晉書』惠帝紀:「(永平九年)十二月壬戌,廢皇太子遹爲庶人,及其三子幽于金墉城,殺太子母謝氏。」
「(永康元年)三月,尉氏雨血,妖星見于南方。癸未,賈后矯詔害庶人遹于許昌。」
〔五〕『晉書』武帝紀:「(咸熙二年十一月)帝初以禮讓,魏朝公卿何曾・王沈等固請,乃從之。」※咸熙二年/泰始元年(265年)
【参照】
『宋書』五行志二:「晉武帝太康六年,南陽送兩足虎,此毛蟲之孽也。識者爲其文曰,「武形有虧,金虎失儀,聖主應天,斯異何爲。」言非亂也。京房『易傳』曰「足少者,下不勝任也。」干寶曰,「虎者陰精,而居于陽。金獸也。南陽,火名也。金精入火,而失其形,王室亂之妖也。六,水數,言水數既極,火慝得作,而金受其敗也。至元康九年,始殺太子,距此十四年。二七十四,火始終相乘之數也。自帝受命,至愍懷之廢,凡三十五年。」太康九年,荊州獻兩足玃。」

現代語訳

武帝の太康六年(285年),南陽郡が二本足の虎を献上した,これは毛蟲の孼である。識者はそのことについて文を作って。「武の形に虧けたところがあり,金虎は礼儀に外れている,知徳のすぐれた天子は天に応じているのに,ここに異があるのはどうしてか」と言った。乱の兆しがあることを言っているのである。京房『易伝』に「足が少ないというのは,下の者がその任に耐えられないということである。」と言う。干宝は次のように考える。「虎というのは陰の精であるけれども,陽に居て,金の獣なのである。南陽は,火の名である。金精が火に入ってその形を失う,(これは)王室が乱れる妖である。」六は(五行の)水の数である,その意味するところは水数が既に極まり,火の災いを起こし,そして金が其の敗を受けるのである。元康九年(299年)に至り,ようやく太子(司馬遹。愍懐太子)が殺された,この毛蟲の孼があってから十四年である。二七十四,火の始終(生数二と成数七)を掛け合わせた数である。帝が天命を受けてから,愍懐太子の廃位までは,およそ三十五年。

原文

太康七年十一月景辰,四角獸見于河間,河間王顒獲以獻。天戒若曰,角,兵象也,四者,四方之象,當有兵亂起于四方。後河間王遂連四方之兵,作爲亂階,殆其應也。

訓読

太康七年十一月丙〔一〕辰,四角獸 河間に見はれ,河間王顒(ぎょう) 獲りて以て獻ず。天戒めて若くのごとく曰く,角は,兵の象なり,四なる者は,四方の象,當に兵亂の四方より起こる有り,と。後ち河間王遂に四方の兵を連ね,亂階を作爲す,殆んど其の應なり。

〔一〕「丙」、原文は「景」であるが、高祖の父(李昞)の避諱である。今『宋書』五行志に從い「丙」に改める。
〔二〕『捜神記』卷七・兩足虎:「其七年十一月景辰,四角獸見於河間。天戒若曰「角,兵象也。四者,四方之象。當有兵革起于四方。」後河間王遂連四方之兵,作爲亂階。」
【参照】
『宋書』五行志二:「太康七年十一月丙辰,四角獸見于河間,河間王顒獲以獻。角,兵象也。董仲舒以四角爲四方之象。後河間王數連四方之兵,作爲亂階,殆其應也。」

現代語訳

太康七年(286年)十一月丙辰,四角獣が河間郡に現れ,河間王の(司馬)顒がこれを獲らえて献上した。天は戒めてこのようにいう,角は兵の象であり,四というのは四方の象である。近いうちに兵乱が四方から起こるだろう。後に河間王はそのまま四方の兵をあわせて,世の中が乱れるきっかけをつくった,恐らくその応である。〔二〕

原文

懷帝永嘉五年,蝘鼠出延陵。郭景純筮之曰「此郡東之縣,當有妖人欲稱制者,亦尋自死矣。」其後吳興徐馥作亂,殺太守袁琇,馥亦時滅,是其應也。

訓読

懷帝の永嘉五年,蝘鼠 延陵に出づ。郭景純之を筮して曰く「此れ郡東の縣,當に妖人の稱制せんと欲する者有り,亦た尋いで自づから死す。」と。其の後吳興の徐馥亂を作し,太守袁琇を殺し,馥も亦た時に滅す,是れ其の應なり。〔一〕

〔一〕『晉書』孝愍帝紀:「三年春正月,盜殺晉昌太守趙珮。吳興人徐馥害太守袁琇。以侍中宋哲爲平東將軍,屯華陰。」
『晉書』周處傳:「馥殺吳興太守袁琇,有眾數千,將奉札爲主。時札以疾歸家,聞而大驚,乃告亂於義興太守孔侃。勰知札不同,不敢發兵。馥黨懼,攻馥,殺之。孫弼眾亦潰,宣城太守陶猷滅之。」
『晉書』郭璞傳(中華書局本1900、1901頁):璞既過江,宣城太守殷祐引爲參軍。(中略)祐遷石頭督護,璞復隨之。時有鼯鼠出延陵,璞占之曰「此郡東當有妖人欲稱制者,尋亦自死矣。後當有妖樹生,然若瑞而非瑞,辛螫之木也。儻有此者,東南數百里必有作逆者,期明年矣。」無錫縣欻有茱萸四株交枝而生,若連理者,其年盜殺吳興太守袁琇。或以問璞,璞曰「卯爻發而沴金,此木不曲直而成災也。」
『捜神記』卷七・蝘鼠:「永嘉五年十一月,有蝘鼠出延陵。郭璞筮之,遇臨之益。曰「此郡之東縣,當有妖人欲稱制者,尋亦自死矣。」」
「永嘉六年正月,無錫縣欻有四枝茱萸樹,相樛而生,狀若連理。先是,郭璞筮延陵蝘鼠,遇臨之益,曰「後當復有妖樹生,若瑞而非,辛螫之木也。儻有此,東西數百里,必有作逆者。」及此生木。其後吳興徐馥作亂,殺太守袁琇。」
【参照】
『宋書』五行志二:「晉懷帝永嘉五年,偃鼠出延陵,此毛蟲之孽也。郭景純筮之曰「此郡東之縣,當有妖人欲稱制者,亦尋自死矣。」其後吳興徐馥作亂,殺太守袁琇,馥亦時滅,是其應也。」

現代語訳

懐帝の永嘉五年(311年),蝘鼠(モグラ)が延陵郡に出現した。郭景純(郭璞)がこのことを占って言う。「(出現したのは延陵)郡の東の県であり,妖しまな心をもった人で、天子の位について政治を行いたいと考える者がいる,またすぐにひとりでに死ぬ。」その後吳興郡の徐馥は反乱を起こし,太守である袁琇を殺し,(徐)馥もまたその時に滅んだ,これはその応である。

原文

成帝咸和六年正月丁巳,會州郡秀孝於樂賢堂,有麏見於前,獲之。孫盛以爲吉祥。夫秀孝,天下之彥士。樂賢堂,所以樂養賢也。自喪亂以後,風教陵夷,秀孝策試,乏四科之實。麏興於前,或斯故乎。

訓読

成帝の咸和六年正月丁巳,會州郡秀孝 樂賢堂に於いて,麏(きん)〔一〕の前に見はるる有り,之を獲。孫盛以爲へらく吉祥と。夫れ秀孝は,天下の彥士。樂賢堂は,樂もて賢を養ふ所以なり。喪亂自り以後,風教〔二〕陵夷し,秀孝の策試,四科の實乏(な)し。麏の前に興る,或ひは斯の故か。

〔一〕『詩経』國風・召南・野有死麕:「野有死麕。惡無禮也。天下大亂。彊暴相陵。遂成淫風。被文王之化。雖當亂世。猶惡無禮也。野有死麕,白茅包之。有女懷春,吉士誘之。林有樸樕,野有死鹿。白茅純束,有女如玉。舒而脫脫兮,無感我帨兮,無使尨也吠。」
『春秋公羊傳』哀公十四年:「十有四年,春,西狩獲麟。何以書,記異也。何異爾,非中國之獸也。然則孰狩之,薪采者也。薪采者則微者也。曷爲以狩言之。大之也。曷爲大之。爲獲麟大之也。曷爲爲獲麟大之。麟者,仁獸也。有王者則至。無王者則不至。有以告者曰「有麕而角者。」孔子,「孰爲來哉。孰爲來哉。」反袂拭面,涕沾袍。顏淵死。子曰「噫。天喪予。」子路死。子曰「噫。天祝予。」西狩獲麟。孔子曰「吾道窮矣。」春秋何以始乎隱。祖之所逮聞也,所見異辭。所聞異辭,所傳聞異辭。何以終乎哀十四年。曰,備矣。君子曷爲爲春秋。撥亂世,反諸正。莫近諸春秋,則未知其爲是與。其諸君子樂道堯舜之道與,末不亦樂乎。堯舜之知君子也。制春秋之義,以俟後聖。以君子之爲,亦有樂乎此也。」
〔二〕『史記』五帝本紀:「太史公曰,學者多稱五帝,尚矣。然『尚書』獨載堯以來。而百家言黃帝,其文不雅馴,薦紳先生難言之。孔子所傳宰予問五帝德及帝繫姓,儒者或不傳。余嘗西至空桐,北過涿鹿,東漸於海,南浮江淮矣,至長老皆各往往稱黃帝・堯・舜之處,風教固殊焉,總之不離古文者近是。」
【参照】
『宋書』五行志二:「晉成帝咸和六年正月丁巳,會州郡秀孝於樂賢堂,有麏見於前,獲之。孫盛曰,「夫秀孝,天下之彥士,樂賢堂,所以樂養賢也。晉自喪亂以後,風教凌夷,秀無策試之才,孝乏四行之實。麏興於前,或斯故乎。」」

現代語訳

成帝の咸和六年(331年)正月丁巳,会州郡の秀才・孝廉が楽賢堂にいると,麏(きばのろ・くじか)が前に現れ,これを獲らえた。孫盛は吉祥だと考えた。そもそも秀才・孝廉は,天下の立派な人物である。楽賢堂は,音楽によって賢を養う場所である。世が乱れ災いが起こって以降,徳による教えはしだいに衰え,秀才・孝廉の登用試験は,四科(徳行・学問・法令・決断)の実体を欠いている。麏が前に現れたというのは,あるいはこのことが原因であろうか。

原文

哀帝隆和元年十月甲申,有麈入東海第。百姓讙言曰「麈入東海第」,識者怪之。及海西廢爲東海王,乃入其第。

訓読

哀帝の隆和元年十月甲申,麈(しゅ)の東海の第に入る有り。百姓讙言して曰く「麈 東海の第に入る」と。識者之を怪しむ。海西廢もて東海王と爲すに及び,乃ち其の第に入る〔一〕。

〔一〕『晉書』穆帝 哀帝 海西公紀:「(太和六年十一月)己酉,集百官于朝堂,宣崇德太后令曰「王室艱難,穆・哀短祚,國嗣不育,儲宮靡立。琅邪王奕親則母弟,故以入纂大位。不圖德之不建,乃至于斯。昏濁潰亂,動違禮度。有此三孽,莫知誰子。人倫道喪,醜聲遐布。既不可以奉守社稷,敬承宗廟,且昏孽並大,便欲建樹儲藩。誣罔祖宗,傾移皇基,是而可忍,孰不可懷。今廢奕爲東海王,以王還第,供衞之儀,皆如漢朝昌邑故事。但未亡人不幸,罹此百憂,感念存沒,心焉如割。社稷大計,義不獲已。臨紙悲塞,如何可言。」于是百官入太極前殿,卽日桓溫使散騎侍郎劉享收帝璽綬。帝著白帢單衣,步下西堂,乘犢車出神獸門。羣臣拜辭,莫不歔欷。侍御史・殿中監將兵百人衞送東海第。(中略)咸安二年正月,降封帝爲海西縣公。」
【参照】
『宋書』五行志二:「晉哀帝隆和元年十月甲申,有麈入東海第。百姓讙言曰,「主入東海第。」識者怪之。及海西廢爲東海王,先送此第。」

現代語訳

哀帝の隆和元年(362年)十月甲申,麈(おおじか・へらじか)が東海のやしきに入っていった。百姓が騒ぎたてて「麈が東海のやしきに入った。」と言った。識者はこのことを訝しんだ。海西(公の)廃(帝)が東海王となると,そこでそのやしきに入ることとなった。

原文

孝武太元十三年四月癸巳,祠廟畢,有兔行廟堂上。天戒若曰,兔,野物也,而集宗廟之堂,不祥莫之甚焉。

訓読

孝武の太元十三年四月癸巳,廟に祠ること畢はりて,兔の廟堂上を行く有り。天戒めて若くのごとく曰く,兔は,野の物なり,而して宗廟の堂に集ふは,不祥 之より甚だしきは莫し、と。

【参照】
『宋書』五行志二:「晉孝武太元十三年四月癸巳,礿祠畢,有兔行廟堂上。兔,野物也,而集宗廟之堂,不祥莫甚焉。」

現代語訳

孝武の太元十三年(388年)四月癸巳,宗廟の祭祀が終わって,兔が廟堂の上を歩いていた。天は戒めてこのように言う,兔は野外の生き物であり,そして宗廟の堂に集うというのは,不祥についてこれよりひどいものはない。

犬禍

原文

犬禍
公孫文懿家有犬冠幘絳衣上屋,此犬禍也。屋上,亢陽高危之地。天戒若曰,亢陽無上,偷自尊高,狗而冠者也。及文懿自立爲燕王,果爲魏所滅。京房『易傳』曰,「君不正,臣欲篡,厥妖狗出朝門。」

訓読

犬禍
公孫文懿〔一〕の家に犬有りて冠幘絳衣して屋に上る,此れ犬禍なり。屋上は,亢陽高危の地。天戒めて若くのごとく曰く,亢陽に上無し,偷かに自ら高きを尊べば,狗にして冠する者あるなり、と。文懿自立し燕王と爲るに及び,果たして魏の滅する所と爲る〔二〕。京房『易傳』に曰く,「君正ならず,臣篡はんと欲すれば,厥れ妖狗 朝門に出づ。〔三〕」と。〔四〕

〔一〕唐の高祖李淵の避諱により、「淵」(名)を「文懿」(字)と記す。
〔二〕『三国志』魏書・明帝紀:「(景初元年秋七月)辛卯,太白晝見。淵自儉還,遂自立爲燕王,置百官,稱紹漢元年。」
〔三〕『漢書』五行志中之上:「京房『易傳』曰「行不順,厥咎人奴冠,天下亂,辟無適,妾子拜。」又曰「君不正,臣欲篡,厥妖狗冠出朝門。」」
〔四〕『捜神記』卷九・公孫淵:「魏司馬太傅懿平公孫淵,斬淵父子。先時,淵家數有怪,一犬著冠幘・絳衣・上屋。欻有一兒,蒸死甑中。襄平北市生肉,長圍各數尺,有頭・目・口・喙,無手足而動搖。占者曰「有形不成,有體無聲,其國滅亡。」」 【参照】
『宋書』五行志二:「公孫淵家有犬冠幘絳衣上屋,此犬禍也。屋上亢陽高危之地。天戒若曰,淵亢陽無上,偷自尊高,狗而冠者也。及自立爲燕王,果爲魏所滅。京房『易傳』曰「君不正,臣欲篡,厥妖狗出朝門。」」

現代語訳

犬禍(犬のわざわい)
公孫淵(文懿)の家に犬がいて,幘(頭巾)をかぶり赤い服を着て屋根に上る,これは犬禍である。屋根の上は,頂点にあって危険な場所である。天は戒めてこのように言う,おごり高ぶるのには上限が無い,ひそかに自分から高い所を尊べば,狗であるのに冠する者が現れる,と。公孫淵が独立して燕王となると,やはり魏に滅ぼされることとなった。京房『易伝』に言う。「君主が公正でなく,臣下が(君主の地位を)奪おうとすれば,妖狗が朝門に現れる。」

原文

魏侍中應璩〔一〕在直廬,欻見一白狗出門,問眾人,無見者〔二〕。踰年卒,近犬禍也。

訓読

魏の侍中應璩 直廬に在り,欻(たちま)ち一白狗の門より出づるを見,眾人に問ふも,見る者無し。年を踰えて卒す,犬禍に近きなり。

〔一〕『三国志』魏書・王衛二劉傳:「(應)瑒弟璩,璩子貞,咸以文章顯。璩官至侍中。貞咸熙中參相國軍事。(注:『文章敍錄』曰,璩字休璉,博學好屬文,善爲書記。文・明帝世,歷官散騎常侍。齊王卽位,稍遷侍中、大將軍長史。曹爽秉政,多違法度,璩爲詩以諷焉。其言雖頗諧合,多切時要,世共傳之。復爲侍中,典著作。嘉平四年卒,追贈衞尉。)」
〔二〕『三国志』魏書・方伎傳:「朱建平,沛國人也。善相術,於閭巷之間,效驗非一。太祖爲魏公,聞之,召爲郎。(中略)謂應璩曰「君六十二位爲常伯,而當有厄,先此一年,當獨見一白狗,而旁人不見也。」(中略)璩六十一爲侍中,直省內,欻見白狗,問之眾人,悉無見者。於是數聚會,幷急游觀田里,飲宴自娛,過期一年,六十三卒。」
【参照】
『宋書』五行志二:「魏侍中應璩在直廬,欻見一白狗,問眾人無見者。踰年卒。近犬禍也。」

現代語訳

魏の侍中応璩〔一〕が宿直室におり,にわかに一匹の白狗が門から出るのを見て,多くの人に尋ねたが,(狗を)見た者はいなかった。(応璩は)翌年亡くなった,犬禍に近いものである。〔二〕

原文

吳諸葛恪征淮南歸,將朝會,犬銜引其衣。恪曰「犬不欲我行乎。」還坐。有頃復起,犬又銜衣,乃令逐犬,遂升車,入而被害。

訓読

吳の諸葛恪 淮南に征きて歸り,將に朝會せんとするに,犬其の衣を銜引す。恪曰く「犬我が行くを欲せざるか。」と。還りて坐す。頃(しばら)く有りて復た起つも,犬又た衣を銜み,乃ち犬を逐はしめ,遂に車に升り,入りて害せらる。〔一〕

〔一〕『三国志』呉書・諸葛滕二孫濮陽傳:「恪意欲曜威淮南,驅略民人(中略)攻守連月,城不拔。士卒疲勞,因暑飲水,泄下流腫,病者大半,死傷塗地。諸營吏日白病者多,恪以爲詐,欲斬之,自是莫敢言。恪內惟失計,而恥城不下,忿形於色。將軍朱異有所是非,恪怒,立奪其兵。都尉蔡林數陳軍計,恪不能用,策馬奔魏。魏知戰士罷病,乃進救兵。恪引軍而去。士卒傷病,流曳道路,或頓仆坑壑,或見略獲,存亡忿痛,大小呼嗟。而恪晏然自若。出住江渚一月,圖起田於潯陽,詔召相銜,徐乃旋師。由此眾庶失望,而怨黷興矣。(中略)孫峻因民之多怨,眾之所嫌,搆恪欲爲變,與亮謀,置酒請恪。恪將見之夜,精爽擾動,通夕不寐。明將盥漱,聞水腥臭,侍者授衣,衣服亦臭。恪怪其故,易衣易水,其臭如初,意惆悵不悅。嚴畢趨出,犬銜引其衣,恪曰「犬不欲我行乎。」還坐,頃刻乃復起,犬又銜其衣,恪令從者逐犬,遂升車。(中略)及將見,駐車宮門,峻已伏兵於帷中,恐恪不時入,事泄,自出見恪曰,「使君若尊體不安,自可須後,峻當具白主上。」欲以嘗知恪。恪答曰「當自力入。」散騎常侍張約・朱恩等密書與恪曰「今日張設非常,疑有他故。」恪省書而去。未出路門,逢太常滕胤,恪曰「卒腹痛,不任入。」胤不知峻陰計,謂恪曰,「君自行旋未見,今上置酒請君,君已至門,宜當力進。」恪躊躇而還,劍履上殿,謝亮,還坐。設酒,恪疑未飲,峻因曰「使君病未善平,當有常服藥酒,自可取之。」恪意乃安,別飲所齎酒。酒數行,亮還內。峻起如廁,解長衣,著短服,出曰「有詔收諸葛恪。」恪驚起,拔劍未得,而峻刀交下。張約從旁斫峻,裁傷左手,峻應手斫約,斷右臂。武衞之士皆趨上殿,峻云「所取者恪也,今已死。」悉令復刃,乃除地更飲。」
『捜神記』卷九・諸葛恪:「吳諸葛恪征淮南歸,將朝會之夜,精爽擾動,通夕不寐。嚴畢趨出,犬銜引其衣。恪曰「犬不欲我行也。」出仍入坐。少頃復起,犬又銜衣,恪令從者逐之。及入,果被殺。其妻在室,語使婢曰「爾何故血臭。」婢曰「不也。」有頃,愈劇。又問婢曰「汝眼目瞻視,何以不常。」婢蹷然起躍,頭至於棟,攘臂切齒而言曰「諸葛公乃爲孫峻所殺。」於是大小知恪死矣。而吏兵尋至。」
【参照】
『宋書』五行志二:「諸葛恪征淮南歸,將朝會,犬銜引其衣。恪曰「犬不欲我行乎。」還坐,有頃復起,犬又銜衣。乃令逐犬。遂升車入而被害。」

現代語訳

呉の諸葛恪は淮南郡に遠征して帰って来,朝見しようとすると,犬が諸葛恪の衣をくわえ引っ張った。諸葛恪が言う、「犬は私に行って欲しくないのか」。戻って座った。しばらくして再び立ち上がったが,犬はまた衣をつかんだ,そこで犬を追いやり,そのまま車に乗り,(朝廷に)入って殺された。

原文

武帝太康九年,幽州有犬,鼻行地三百餘步。天戒若曰,是時帝不思和嶠之言,卒立惠帝,以致衰亂。是言不從之罰也。

訓読

武帝の太康九年,幽州に犬有り,鼻もて地三百餘步を行く。天戒めて若くのごとく曰く,是の時帝 和嶠の言を思はず,卒に惠帝を立て,以て衰亂を致す〔一〕,と。是れ言の不從の罰なり。

〔一〕『晉書』荀勖傳:「時帝素知太子闇弱,恐後亂國,遣勖及和嶠往觀之。勖還盛稱太子之德,而嶠云太子如初。於是天下貴嶠而賤勖。」
『晉書』和嶠傳:「吳平,以參謀議功,賜弟郁爵汝南亭侯。嶠轉侍中,愈被親禮,與任愷・張華相善。嶠見太子不令,因侍坐曰「皇太子有淳古之風,而季世多偽,恐不了陛下家事。」帝默然不答。後與荀顗・荀勖同侍,帝曰「太子近入朝,差長進,卿可俱詣之,粗及世事。」既奉詔而還,顗・勖並稱太子明識弘雅,誠如明詔。嶠曰「聖質如初耳。」帝不悅而起。嶠退居,恒懷慨歎,知不見用,猶不能已。在御坐言及社稷,未嘗不以儲君爲憂。帝知其言忠,毎不酬和。後與嶠語,不及來事。或以告賈妃,妃銜之。太康末,爲尚書,以母憂去職。」
【参照】
『宋書』五行志二:「晉武帝太康九年,幽州有犬,鼻行地三百餘步。」

現代語訳

武帝の太康九年(288年),幽州に犬がいて,鼻を地にすりつけて三百余歩を歩いた。天は戒めてこのように言う,この時(武)帝は和嶠の言ったことをよく考えず,結局恵帝を(皇太子に)立て,それにより世の中が衰え乱れることとなった,これは言の不従の罰である。

原文

惠帝元康中,吳郡婁縣人家聞地中有犬子聲,掘之,得雌雄各一。還置窟中,覆以磨石,經宿失所在。天戒若曰,帝既衰弱,藩王相譖,故有犬禍。

訓読

惠帝の元康中,吳郡婁縣の人家に地中に犬子の聲有るを聞き,之を掘れば,雌雄各おの一を得。還して窟中に置き,覆ふに磨石を以てせば,宿を經て在る所を失ふ〔一〕。天戒めて若くのごとく曰く,帝既に衰弱し,藩王相ひ譖る,故に犬禍有り、と。

〔一〕『捜神記』卷十二・地中犬聲:「晉惠帝元康中,吳郡婁縣懷瑤家忽聞地中有犬聲隱隱。視聲發處,上有小竅,大如螾穴。瑤以杖刺之,入數尺,覺有物。乃掘視之,得犬子,雌雄各一,目猶未開,形大於常犬。哺之而食。左右咸往觀焉。長老或云「此名犀犬,得之者,令家富昌。宜當養之。」以目未開,還置竅中,覆以磨礱。宿昔發視,左右無孔,遂失所在。瑤家積年無他禍幅。至太興中,吳郡太守張懋,聞齋內床下犬聲,求而不得。既而地坼,有二犬子。取而養之,皆死。其後懋爲吳興兵沈充所殺。『尸子』曰「地中有犬,名曰地狼。有人,名曰無傷。」『夏鼎志』曰「掘地而得狗,名曰賈。掘地而得豚,名曰邪。掘地而得人,名曰聚。聚,無傷也。此物之自然,無謂鬼神而怪之。然則賈與地狼,名異,其實一物也。」『淮南畢萬』曰「千歲羊肝,化爲地宰。蟾蜍得苽,卒時爲鶉。」此皆因氣化以相感而成也。」
【参照】
『宋書』五行志二:「晉惠帝元康中,吳郡婁縣民家聞地中有犬聲,掘視得雌雄各一。還置窟中,覆以磨石,宿昔失所在。元帝太興中,吳郡府舍又得二物頭如此。其後太守張茂爲吳興兵所殺。案『夏鼎志』曰,「掘地得狗名曰賈。」『尸子』曰「地中有犬,名曰地狼。」同實而異名也。」

現代語訳

惠帝の元康中(291〜299年),呉郡婁県の人家で地面から犬の子の声が聞こえ,そこを掘ると,(犬の)雌雄それぞれ一匹を得た。(犬を)戻して穴の中に置き,石臼で覆うと,一晩経って場所が分からなくなった。天は戒めてこのように言う,皇帝の権威は既に衰え,藩王は互いに譛る,だから犬禍があるのだ,と。

原文

永興元年,丹楊內史朱逵家犬生三子,皆無頭。後逵爲揚州刺史曹武所殺。

訓読

永興元年,丹楊の內史朱逵〔一〕家の犬三子を生じ,皆頭無し。後ち逵 揚州刺史曹武の殺す所と爲る〔二〕。

〔一〕朱逵は、『宋書』と『晉書』で当該箇所にのみ見える。朱建のことと考えられる。
〔二〕『晉書』孝惠王紀:「(永興二年八月)揚州刺史曹武殺丹楊太守朱建。」
【参照】
『宋書』五行志二:「晉惠帝永興元年,丹陽內史朱逵家犬生三子,皆無頭,後逵爲揚州刺史曹武所殺。」

現代語訳

永興元年(304年),丹楊の内史である朱逵の家の犬が三匹の子を生んだが,皆頭が無かった。のちに朱逵は揚州刺史曹武に殺されこととなった。

原文

孝懷帝永嘉五年,吳郡嘉興張林家狗人言云「天下人餓死。」於是果有二胡之亂,天下饑荒焉。

訓読

孝懷帝の永嘉五年,吳郡嘉興の張林家の狗 人言もて云ふ「天下の人餓死す。」と。是に於ひて果たして二胡の亂〔一〕有り,天下饑荒す。〔二〕

〔一〕永嘉の乱。石勒,劉聰のこと。『晉書』五行志上・貌不恭にも「二胡之亂」とあり。
〔二〕『捜神記』卷七・狗作人言:「永嘉五年,吳郡嘉興張林家,有狗忽作人言云「天下人倶餓死。」於是果有二胡之亂,天下饑荒焉。」
【参照】
『宋書』五行志二:「晉孝懷帝永嘉五年,吳郡嘉興張林家狗人言云「天下人餓死。」」

現代語訳

孝懐帝の永嘉五年(311年),呉郡嘉興県の張林の家の狗が人の言葉で「天下の人々が餓死する。」と言った。そうして本当に二人の胡人が乱を起こし,天下(の人々)が饑え荒廃した。

原文

愍帝建興元年,狗與猪交。案『漢書』,景帝時有此,以爲悖亂之氣,亦犬豕禍也。犬,兵革之占也。豕,北方匈奴之象。逆言失聽,異類相交,必生害也。俄而帝沒于胡,是其應也。

訓読

愍帝の建興元年,狗 猪と交はる。『漢書』を案ずるに,景帝の時此れ有り,以て悖亂の氣と爲す,亦た犬豕の禍なり。犬は,兵革の占なり。豕は,北方匈奴の象。言に逆らひ聽を失ひ,異類相ひ交はれば,必ず害を生ずるなり〔一〕。俄かにして帝 胡に沒す,是れ其の應なり。

〔一〕『漢書』五行志中之上:「景帝三年二月,邯鄲狗與彘交。悖亂之氣,近犬豕之禍也。是時趙王遂悖亂,與吳・楚謀爲逆,遣使匈奴求助兵,卒伏其辜。犬,兵革失衆之占。豕,北方匈奴之象。逆言失聽,交於異類,以生害也。京房『易傳』曰,「夫婦不嚴,厥妖狗與豕交。茲謂反德,國有兵革。」」
【参照】
『宋書』五行志になし。

現代語訳

愍帝の建興元年(313年),狗が猪と交わった。『漢書』を参照してみると,景帝の時にこのことがあったといい,(『漢書』ではそれを)悖乱の気とした,また犬豕の禍である。犬は,兵革の占である。豕は,北方匈奴の象である。諫言に逆らい聴く耳を持たず,異なる類が互いに交われば,必ず害を生ずるのである。突然帝が胡に連れ去られ殺された,これはその応である。

原文

元帝太興中,吳郡太守張懋聞齋內牀下犬聲,求而不得。既而地自坼,見有二犬子。取而養之,皆死。尋而懋為沈充所害。京房易傳曰「讒臣在側,則犬生妖。」

訓読

元帝太興中,吳郡太守 張懋 齋內の牀下に犬の聲を聞き,求むるも得ず。既にして地 自ら坼け,二犬子有るを見る。取りて之を養ふも,皆死す。尋いで懋 沈充の害する所と為る。〔一〕〔二〕京房易傳に曰く「讒臣 側に在れば,則ち犬 妖を生む。」〔三〕と。

〔一〕『捜神記』巻十六・犀犬:「元康中,吴郡婁縣懷瑶家,忽聞地中有犬子聲隱隱。視聲所自發,有小穿,大如螾穴。瑶以杖刺之,入數尺,覺如有物。乃掘視之,得犬子,雌雄各一,目猶未開,形大於常犬也。哺之而食,左右咸往觀焉。長老或云「此名犀犬,得之者令家富昌,宜當養之。」以目未開,還置穿中,覆以磨礱。宿昔發視,左右無孔,遂失所在。瑶家積年無他福禍也。大興中,吴郡府舍中又得二枚,物如初。其後太守張茂爲吴興兵所殺。」
〔二〕『晉書』明帝紀:「(永昌元年四月)敦將沈充陷吳國,魏乂陷湘州,吳國內史張茂・湘州刺史、譙王承並遇害。」
『晉書』張茂伝:「張茂字偉康,少單貧,有志行,為郷里所敬信。初起義兵,討賊陳斌,一郡用全。元帝辟為掾屬。官有老牛數十,將賣之,茂曰「殺牛有禁,買者不得輒屠,齒力疲老,又不任耕駕,是以無用之物收百姓利也。」帝乃止。遷太子右衞率,出補吳興內史。沈充之反也,茂與三子並遇害。」
〔三〕『開元占経』巻119、羊犬豕占:「京房曰、佞臣在側則犬妖生、歳多蝗虫。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉惠帝元康中,吳郡婁縣民家聞地中有犬聲,掘視得雌雄各一。還置窟中,覆以磨石,宿昔失所在。元帝太興中,吳郡府舍又得二物頭如此。其後太守張茂為吳興兵所殺。案夏鼎志曰「掘地得狗名曰賈。」尸子曰「地中有犬,名曰地狼。」同實而異名也。」

現代語訳

元帝の太興中(318年~321年),吳郡の太守である張懋は部屋の床下に犬の声を聞き,探したが見つからなかった。やがて地が自然とさけて,二匹の子犬を発見した。拾ってこれを飼ったが,どちらも死んでしまった。まもなく張懋は沈充によって殺された。京房易傳では「讒臣(よこしまな言をする臣下)が側にいれば, 犬は妖を生む。」といっている。

原文

太興四年,廬江灊縣何旭家忽聞地中有犬子聲,掘之得一母犬。青釐色,狀甚羸瘦,走入草中,不知所在。視其處有二犬子。一雄一雌,哺而養之,雌死雄活。及長為犬,善噬獸。其後旭里中為蠻所沒。

訓読

太興四年,廬江灊縣の何旭の家 忽ち地中に犬子の聲有るを聞く,之を掘り一母犬を得。青釐色にして,狀甚だ羸瘦し,走りて草中に入り,在る所を知らず。其の處を視るに二犬子有り。一雄一雌,哺して之を養ふも,雌は死し雄は活く。長じて犬と為るに及び,善く獸を噬らふ。其の後 旭の里中 蠻の沒する所と為る。

現代語訳

太興四年(321年),廬江灊縣の何旭の家で突然地中から子犬の声が聞こえ,これを掘って一匹の母犬を得た。色は青黒く、姿は大変やせ衰えており,走って草むらに逃げ入り,行方知らずとなった。その(いた)ところをみると二匹の子犬がいた。一匹は雄 もう一匹は雌であり,餌をやって育てたが,雌は死に雄は生きた。(この雄犬は)成長して成犬となり,獸をくらうことを得意とした。その後 何旭のむらは蛮(異民族)に支配された。

原文

安帝隆安初,吳郡治下狗恒夜吠, 聚高橋上。人家狗有限而吠聲甚眾。或有夜覘視之云「一狗假有兩三頭,皆前向亂吠。」無幾,孫恩亂於吳會焉。是時輔國將軍孫無終家于既陽。地中聞犬子聲,尋而地坼,有二犬子。皆白色,一雄一雌,取而養之,皆死。後無終為桓玄所誅滅。案尸子曰「地中有犬,名曰地狼。」夏鼎志曰「掘地得犬,名曰賈。」此蓋自然之物,不應出而出,為犬禍也。

訓読

安帝の隆安初め,吳郡の治下 狗 恒に夜吠え,高橋の上に聚まる。人家の狗 限り有れども吠聲甚だ眾し。或るひと夜に之を覘視すること有りて云ふ「一狗 假に兩三頭有り,皆前向して亂れ吠ゆ。」と。幾ばくも無くして,孫恩 吳會に亂る。是の時 輔國將軍孫無終 既陽に家す。地中に犬子の聲を聞き,尋いで地 坼け,二犬子有り。皆白色,一雄一雌,取りて之を養ふも,皆死す。後に無終 桓玄の誅滅する所と為る。案ずるに『尸子』に曰く「地中に犬有り,名づけて地狼と曰ふ。」と。『夏鼎志』に曰く「地を掘り犬を得,名づけて賈と曰ふ。」と。此れ蓋し自然の物,應に出づべからざるも出づれば,犬禍と為すなり。〔一〕

〔一〕『法苑珠林』六道篇・畜生部・感應緣:「大興中,吴郡府舍中又得二枚物如初。其後太守張茂爲吴興兵沈充所殺。尸子曰:地中有犬,名曰地狼。有人,名曰無傷。夏鼎志曰,掘地而得狗,名曰賈。掘地而得豚,名曰邪。掘地而得人,名曰聚。聚,無傷也。此物之自然,無謂鬼神而怪之。然則賈與地狼名異,其實一物也。淮南萬畢曰,千歲羊肝,化爲地宰。蟾蜍得苽,卒時爲鶉。此皆因氣作以相感而惑也。」

現代語訳

安帝の隆安(397-401)初め,呉郡の治下では犬がつねに夜に吠え,高い橋の上に集まった。人家の犬は数えるほどだが犬の吠える声は大変多かった。またあるひとが夜にこれをうかがいみて「犬がその時には二つ三つの頭があり,みんな前を向いて乱れ吠えていた。」といった。まもなく,孫恩は呉郡・会稽郡(の地域)で反乱を起こした。この時,輔國將軍の孫無終は既陽に住んでいた。地中に子犬の声を聞き,まもなく地がさけ,二匹の子犬があらわれた。どちらも白色で,一匹は雄,もう一匹は雌であり,取りだして育てたが,どちらも死んだ。後に孫無終は桓玄によって誅殺された。考えるに『尸子』では「地中に犬がいる,名付けて地狼という。」といっている。また『夏鼎志』では「地面を掘り 犬を得る,名付けて賈という。」といっている。これはおそらく自然の物が,出現するべきでない(場所である)のに出現しているのであるから,犬禍となるのである。

原文

桓玄將拜楚王。已設拜席,羣官陪位。玄未及出,有狗來便其席。莫不驚怪。玄性猜暴,竟無言者。逐狗改席而已。天戒若曰,桓玄無德而叨竊大位。故犬便其席,示其妄據之甚也。八十日玄敗亡焉。

訓読

桓玄 將に楚王を拜せんとす。〔一〕已に拜の席を設け,羣官陪位す。玄 未だ出るに及ばず,狗 來たりて其の席に便する有り。驚怪せざる莫し。玄 性は猜暴にして,竟に言ふ者無し。狗を逐ひ席を改むるのみ。天戒めて若くのごとく曰く,桓玄德無くして叨りて大位を竊む。故に犬 其の席に便し,其の妄據の甚しきを示すなり。八十日にして玄 敗亡す。〔二〕〔三〕

〔一〕『晉書』安帝紀:「(元興二年)秋八月,玄又自號相國・楚王。」
『晉書』桓玄伝:「是歲,玄兄偉卒,贈開府、驃騎將軍,以桓脩代之。從事中郎曹靖之說玄以桓脩兄弟職居內外,恐權傾天下,玄納之,乃以南郡相桓石康為西中郎將、荊州刺史。偉服始以公除,玄便作樂。初奏,玄撫節慟哭,既而收淚盡歡。玄所親仗唯偉,偉既死,玄乃孤危。而不臣之迹已著,自知怨滿天下,欲速定篡逆,殷仲文、卞範之等又共催促之,於是先改授羣司,解琅邪王司徒,遷太宰,加殊禮,以桓謙為侍中、衞將軍、開府、錄尚書事,王謐散騎常侍、中書監,領司徒,桓胤中書令,加桓脩散騎常侍、撫軍大將軍。置學官,教授二品子弟數百人。又矯詔加其相國,總百揆,封南郡、南平、宜都、天門、零陵、營陽、桂陽、衡陽、義陽、建平十郡為楚王,揚州牧,領平西將軍、豫州刺史如故,加九錫備物,楚國置丞相已下,一遵舊典。又諷天子御前殿而策授焉。玄屢偽讓,詔遣百僚敦勸,又云「當親降鑾輿乃受命。」矯詔贈父溫為楚王,南康公主為楚王后。以平西長史劉瑾為尚書,刁逵為中領軍,王嘏為太常,殷叔文為左衞,皇甫敷為右衞,凡眾官合六十餘人,為楚官屬。玄解平西、豫州,以平西文武配相國府。」
〔二〕『晉書』桓玄伝:「玄自篡盜之後,驕奢荒侈,遊獵無度,以夜繼晝。兄偉葬日,旦哭晚遊,或一日之中屢出馳騁。性又急暴,呼召嚴速,直官咸繫馬省前,禁內讙雜,無復朝廷之體。於是百姓疲苦,朝野勞瘁,怨怒思亂者十室八九焉。於是劉裕、劉毅、何無忌等共謀興復。裕等斬桓脩於京口,斬桓弘於廣陵,河內太守辛扈興、弘農太守王元德、振威將軍童厚之、竟陵太守劉邁謀為內應。至期,裕遣周安穆報之,而邁惶遽,遂以告玄。玄震駭,即殺扈興等,安穆馳去得免。封邁重安侯,一宿又殺之。」「時益州刺史毛璩使其從孫祐之、參軍費恬送弟璠喪葬江陵,有眾二百,璩弟子修之為玄屯騎校尉,誘玄以入蜀,玄從之。達枚回洲,恬與祐之迎擊玄,矢下如雨。玄嬖人丁仙期、萬蓋等以身蔽玄,並中數十箭而死。玄被箭,其子昇輒拔去之。益州督護馮遷抽刀而前,玄拔頭上玉導與之,仍曰「是何人邪。敢殺天子。」遷曰「欲殺天子之賊耳。」遂斬之,時年三十六。又斬石康及濬等五級,庾頤之戰死。昇云「我是豫章王,諸君勿見殺。」送至江陵市斬之。」
〔三〕『晉書』桓玄伝:「初,玄在宮中,恒覺不安,若為鬼神所擾,語其所親云「恐己當死,故與時競。」元興中,衡陽有雌雞化為雄,八十日而冠萎。及玄建國於楚,衡陽屬焉,自篡盜至敗,時凡八旬矣。其時有童謠云「長干巷,巷長干,今年殺郎君,後年斬諸桓。」其凶兆符會如此。郎君,謂元顯也。」
桓玄が即位したのは『晉書』安帝紀・元興二年に「十二月壬辰,玄篡位,以帝為平固王。」とあり,およそ八十日後については,劉裕の挙兵のことを指しており,「三年春二月,帝在尋陽。庚寅夜,濤水入石頭,漂殺人戶。乙卯,建武將軍劉裕帥沛國劉毅、東海何無忌等舉義兵。丙辰,斬桓玄所署徐州刺史桓修于京口,青州刺史桓弘于廣陵。丁巳,義師濟江。三月戊午,劉裕斬玄將吳甫之于江乘,斬皇甫敷於羅落。己未,玄眾潰而逃。庚申,劉裕置留臺,具百官。壬戌,桓玄司徒王謐推劉裕行鎮軍將軍、徐州刺史、都督揚徐兗豫青冀幽并八州諸軍事、假節。劉裕以謐領揚州刺史、錄尚書事。辛酉,劉裕誅尚書左僕射王愉、愉子荊州刺史綏、司州刺史溫詳。辛未,桓玄逼帝西上。丙戌,密詔以幽逼於玄,萬機虛曠,令武陵王遵依舊典,承制總百官行事,加侍中,餘如故。并大赦謀反大逆已下,惟桓玄一祖之後不宥。」とある。

現代語訳

桓玄が楚王の称号を賜ろうとしていた。すでに儀式の席を設けて,多くの臣下が陪席していた。桓玄が出てくるまえに,犬が来て桓玄の席で排泄することがあった。驚き怪しまないものはいなかった。桓玄の性格は邪推深く粗暴であり,とうとう(桓玄に)告げるものはいなかった。犬を追いはらい席を改めただけであった。天は戒めて「桓玄は德が無く,大位を簒奪した。だから犬はその席で排泄し,そのみだりに(あるべきでない位置を)占拠していることを示したのだ。」といった。八十日のちに桓玄は敗れ滅びた。

白眚白祥

原文

白眚白祥
魏明帝青龍三年正月乙亥,隕石于壽光。案左氏傳「隕石,星也」,劉歆說曰「庶眾惟星, 隕于宋者,象宋襄公將得諸侯而不終也。」秦始皇時有隕石,班固以為「石,陰類也。又白祥,臣將爲君。」是後宣帝得政云。

訓読

白眚白祥
魏の明帝の青龍三年正月乙亥,石 壽光に隕つ〔一〕。案ずるに『左氏傳』に「隕石,星なり」〔二〕と,劉歆の說に曰く「庶眾は惟れ星, 宋に隕つるは,宋の襄公將に諸侯を得んとして終らざるを象るなり。」〔三〕と。秦の始皇の時 石隕つる有り〔四〕,班固 以為らく「石,陰類なり。また白祥,臣 將に君を危めんとす。」〔五〕と。是の後に宣帝 政を得と云ふ〔六〕。

〔一〕『三国志』魏書・明帝紀:「(青龍)三年春正月戊子,以大將軍司馬宣王為太尉。己亥,復置朔方郡。京都大疫。丁巳,皇太后崩。乙亥,隕石于壽光縣。」
〔二〕『春秋左氏伝』僖公十六年:「傳,十六年春,隕石于宋五。隕,星也。」
〔三〕『漢書』五行志下之下:「劉歆以為是歲歲在壽星,其衝降婁。降婁,魯分壄也,故為魯多大喪。正月,日在星紀,厭在玄枵。玄枵,齊分壄也。石,山物。齊,大嶽後。五石象齊威卒而五公子作亂,故為明年齊有亂。庶民惟星,隕於宋,象宋襄將得諸侯之衆,而治五公子之亂。 星隕而鶂退飛,故為得諸侯而不終。六鶂象後六年伯業始退,執於盂也。民反德為亂,亂則妖災生,言吉凶繇人,然后陰陽衝厭受其咎。齊、魯之災非君所致,故曰「吾不敢逆君故也」。京房易傳曰「距諫自彊,茲謂卻行,厥異鶂退飛。適當黜,則鶂退。」
なお,「庶民惟星」は『尚書』洪範「庶民惟星」による。
〔四〕『史記』秦始皇本紀:「三十六年,熒惑守心。有墜星下東郡,至地為石,黔首或刻其石曰「始皇帝死而地分」。始皇聞之,遣御史逐問,莫服,盡取石旁居人誅之,因燔銷其石。」
〔五〕「危君」はもと「爲君」に作る。『漢書』『宋書』では「危君」に作る,いま改める。
『漢書』五行志中之上:「史記秦始皇帝三十六年,鄭客從關東來,至華陰,望見素車白馬從華山上下,知其非人,道住止而待之。遂至,持璧與客曰「為我遺鎬池君。」因言「今年祖龍死」。忽不見。鄭客奉璧,即始皇二十八年過江所湛璧也。與周子鼂同應。是歲,石隕于東郡,民或刻其石曰「始皇死而地分。」此皆白祥,炕陽暴虐,號令不從,孤陽獨治,羣陰不附之所致也。一曰,石,陰類也,陰持高節,臣將危君,趙高・李斯之象也。始皇不畏戒自省,反夷滅其旁民,而燔燒其石。是歲始皇死,後三年而秦滅。」
〔六〕『三国志』魏書・三少帝紀・斉王芳:「嘉平元年春正月甲午,車駕謁高平陵。太傅司馬宣王奏免大將軍曹爽・爽弟中領軍羲・武衞將軍訓・散騎常侍彥官,以侯就第。戊戌,有司奏收黃門張當付廷尉,考實其辭,爽與謀不軌。又尚書丁謐・鄧颺・何晏・司隸校尉畢軌・荊州刺史李勝・大司農桓範皆與爽通姦謀,夷三族。語在爽傳。丙午,大赦。丁未,以太傅司馬宣王為丞相,固讓乃止。」
『晉書』宣帝紀:「(嘉平元年)二月,天子以帝為丞相,增封潁川之繁昌、鄢陵、新汲、父城,并前八縣,邑二萬戶,奏事不名。固讓丞相。冬十二月,加九錫之禮,朝會不拜。固讓九錫。」
【参照】
『宋書』五行志:「魏明帝青龍三年正月乙亥,隕石于壽光。按左氏傳,隕石,星也。劉歆說曰「庶民,惟星隕於宋者,象宋襄公將得諸侯而不終也。」秦始皇時有隕石。班固以為石陰類,又白祥,臣將危君。是後司馬氏得政。」

現代語訳

白眚白祥
魏の明帝の青龍三年(235年)正月乙亥,壽光に隕石が落ちた。考えてみると『左氏傳』では「隕石は星である」とあり,劉歆の說では「庶民は星であり、宋に落ちたのは,宋の襄公が諸侯を得ようとして全うできなかった象徴である。」としている。秦の始皇帝の時 隕石が落ちた,班固は「石は陰の類である。また白祥は臣下が君主を危くしようとしている。」と考えた。この後に宣帝(司馬懿)が政権を得たという。

原文

武帝太康五年五月丁巳,于溫及河陽,各二。
六年正月,隕石于溫,三。

訓読

武帝の太康五年五月丁巳,石 溫及び河陽に隕つ,各二。
六年正月,石 溫に隕つ,三。

【参照】
『宋書』五行志:「晉武帝太康五年五月丁巳,隕石于溫及河陽各二。太康六年正月,隕石于溫三。」

現代語訳

武帝の太康五年(284年)五月丁巳,溫県と河陽に隕石が落ちた,各二個。
六年正月,溫県に隕石が落ちた,三個。

原文

成帝咸和八年五月,星隕于肥郷,一。
九年十月,隕石于涼州,二。

訓読

成帝の咸和八年五月,星 肥郷に隕つ,一〔一〕。
九年十月,石 涼州に隕つ,二。〔二〕

〔一〕『晉書』成帝紀:「(咸和八年)五月,有星隕于肥鄉。麒麟、騶虞見于遼東。」
〔二〕『晉書』成帝紀:「(咸和)九年春正月,隕石于涼州二。」
『宋書』五行志も正月に作る。
【参照】
『宋書』五行志:「晉成帝咸和八年五月,星隕于肥郷一。咸和九年正月,隕石于涼州。」

現代語訳

成帝の咸和八年(333年)五月,星が肥郷に落ちた,一個。
九年十月,涼州に隕石が落ちた 二個。

原文

吳孫亮五鳳二年五月,陽羨縣離里山大石自立。案京房易傳曰「庶士為天子之祥也」,其說曰「石立於山同姓,平地異姓。」干寶以為「孫晧承廢故之家得位,其應也」。或曰「孫休見立之祥也」。

訓読

吳の孫亮 五鳳二年五月,陽羨縣の離里山の大石 自ら立す〔一〕。案ずるに『京房易傳』に曰く「庶士 天子と為るの祥なり」と,其の說に曰く「石 山に立つは同姓,平地なれば異姓。」〔二〕と。干寶以為らく「孫晧 廢故の家を承けて位を得る,其の應なり」〔三〕と。或いは曰く「孫休立てらるるの祥なり」と。

〔一〕『三国志』呉書・三嗣主伝・孫亮:「(五鳳二年)秋七月,將軍孫儀・張怡・林恂等謀殺峻,發覺,儀自殺,恂等伏辜。陽羨離里山大石自立。」
〔二〕『漢書』五行志:「孝昭元鳳三年正月,泰山萊蕪山南匈匈有數千人聲。民視之,有大石自立,高丈五尺,大四十八圍,入地深八尺,三石為足。石立處,有白烏數千集其旁。眭孟以為石陰類,下民象,泰山岱宗之嶽,王者易姓告代之處,當有庶人為天子者。孟坐伏誅。京房易傳曰「『復,崩來無咎。』自上下者為崩,厥應泰山之石顛而下,聖人受命人君虜。」又曰「石立如人,庶士為天下雄。立於山,同姓。平地,異姓。立於水,聖人。於澤,小人。」
〔三〕『捜神記』巻六:「吳孫亮五鳳二年五月,陽羨縣離里山大石自立。孫皓承廢故之家得位,其應也。」
【参照】
『宋書』五行志:「吳孫亮五鳳二年五月,陽羨縣離里山大石自立。按京房易傳曰「庶士為天子之祥也。」其說曰「石立於山,同姓。平地,異姓。」干寶以為孫晧承廢故之家得位,其應也。或曰孫休見立之祥也。」

現代語訳

吳孫亮五鳳二年(255年)五月,陽羨縣の離里山の大石がおのずから立った。考えるに『京房易傳』では「庶士が天子となる兆しである」としており,その說によれば「石が山に立つと同姓,平地であれば異姓。」としている。干寶は「孫晧が廃位された家を継いで位を得た,その應である」と考えている。別の意見では「孫休が擁立される兆しである」というものもある。

原文

武帝太康十年,洛陽宮西宜秋里石生地中,始高三尺,如香鑪形,後如傴人,槃薄不可掘。案劉向説,此白眚也。明年宮車晏駕,王室始騷,卒以亂亡。京房易傳曰「石立如人,庶士爲天下雄。」此近之矣。

訓読

武帝太康十年,洛陽宮の西 宜秋里に石 地中に生ず,始め高さ三尺,香鑪の形の如し〔一〕,後 傴(う)人の如し,槃薄く掘るべからず。劉向の説を案ずるに,此れ白眚なり。明くる年宮車晏駕し〔二〕,王室始めて騷ぎ〔三〕,卒に亂を以て亡ぶ。京房易傳に曰わく「石立つこと人の如くんば,庶士 天下の雄と爲る」〔四〕と。此れ之に近し。

〔一〕『晋書斠注』にも指摘があるように『北堂書鈔』巻一百六十石篇に「王隱晉書曰,洛陽宮西宜秋里門東向南壁石生地中,始高三尺,如香爐形,行路人多祀事之。」とあり,「宜秋里」の下に「門東向南壁」の五字があり「如香鑪形」の下に「行路人多祀事之」の七字がある。
〔二〕『晋書』巻三 武帝本紀 太熙元(290)年 夏四月条:「己酉,帝崩于含章殿,時年五十五,葬峻陽陵,廟號世祖。」
〔三〕『晋書』巻三 武帝本紀 太熙元年:「平呉之後,天下乂安,遂怠於政術,耽於遊宴,寵愛后黨,親貴當權,舊臣不得專任,彝章紊廢,請謁行矣。爰至末年,知惠帝弗克負荷,然恃皇孫聰睿,故無廢立之心。復慮非賈后所生,終致危敗,遂與腹心共圖後事。……會帝小差,有詔以汝南王亮輔政,又欲令朝士之有名望年少者數人佐之,楊駿祕而不宣。帝復尋至迷亂,楊后輒爲詔以駿輔政,促亮進發。帝尋小間,問汝南王來未,意欲見之,有所付託。左右答言未至,帝遂困篤。中朝之亂,實始於斯矣。
〔四〕『漢書』巻二十七 中之上 五行志 白眚白祥:「孝昭元鳳三年(78)正月,泰山萊蕪山南匈匈有數千人聲。民視之,有大石自立,高丈五尺,大四十八圍,入地深八尺,三石爲足。石立處,有白烏數千集其旁。眭孟以爲石陰類,下民象,泰山岱宗之嶽,王者易姓告代之處,當有庶人為天子者。孟坐伏誅。京房易傳曰「『復,崩來無咎。』(師古曰「復卦之辭也。今易崩字作朋也。」)自上下者爲崩,厥應泰山之石顛而下,(師古曰「顛,墜也。」)聖人受命人君虜。」又曰「石立如人,庶士爲天下雄。立於山,同姓。平地,異姓。立於水,聖人;於澤,小人。」」
【参照】
『宋書』巻三十一:「晉武帝太康十年,洛陽宮西宜秋里石生地中,始高三尺,如香鑪形,後如傴人,盤薄不可掘。案劉向說,此白眚也。明年,宮車晏駕,王室始騷,卒以亂亡。京房易傳曰「石立如人,庶人為天下雄。」此近之矣。」

現代語訳

武帝太康十(289)年,洛陽宮の西にある宜秋里で石が地中に生じた,始めは高さが三尺(魏晋の一尺は24.2cm。約72cm),香炉の形のようで,後に傴僂の人のような形になり,香炉のはちの部分が薄く掘りだすことができなかった。劉向の説を参照してみると,これは白眚である。明年皇帝が崩御し,王室がそこで始めてかき乱され,結局乱によって滅んだ。京房の『易傳』に「石が人のように立てば,平民が天下の英雄となる。」とある。今回のことはこれに近い。

原文

惠帝元康五年十二月,有石生于宜年里。
永康元年,襄陽郡上言,得鳴石,撞之,聲聞七八里。
太安元年,丹楊湖熟縣夏架湖有大石,浮二百歩而登岸,民驚噪相告曰「石來」。干寶曰「尋有石冰入建鄴。」

訓読

惠帝の元康五年十二月,石の宜年里に生ずる有り〔一〕。
永康元年,襄陽郡上言すらく,鳴石を得,之を撞けば,聲 七八里に聞こゆ,と〔二〕。
太安元年,丹楊湖熟縣の夏架湖に大石の浮かぶこと二百歩にして岸を登る有り,民 驚噪し相い告げて曰わく「石來たる」と。干寶曰わく「尋いで石冰の建鄴に入る有り。」〔三〕と。

〔一〕『晋書』巻四 孝恵帝本紀 永平五年:「十二月丙戌,新作武庫,大調兵器。丹楊雨雹。有石生于京師宜年里。」
〔二〕『晋書斠注』に指摘のある通り,『北堂書鈔』巻一百六十石篇に「王隱晉書曰,惠帝永康元年襄陽郡上言,得石鼓之聲聞七八里。」と「得石鼓之聲」に作り,『太平御覧』巻五十一・地部十六・石上「王隱晉書曰永康元年,襄陽郡上言,得鳴石鍾聞七八里。」と「石鐘」に作る。
〔三〕『捜神記』巻七:「惠帝太安元年,丹陽湖熟縣夏架湖,有大石,浮二百歩而登岸。百姓驚歎,相告曰「石來。」尋而石氷入建鄴」
『晋書』巻四 孝恵帝本紀 太安二年(303):「五月,義陽蠻張昌舉兵反,以山都人丘沈爲主,改姓劉氏,僞號漢,建元神鳳,攻破郡縣,南陽太守劉彬,平南將軍羊伊,鎮南大將軍、新野王歆並遇害。……(七月)張昌陷江南諸郡,武陵太守賈隆・零陵太守孔紘・豫章太守閻濟・武昌太守劉根皆遇害。昌別帥石冰寇揚州,刺史陳徽與戰,大敗,諸郡盡沒。臨淮人封雲舉兵應之,自阜陵寇徐州。」
『晋書』巻五十八 周處 子玘伝:「太安初,妖賊張昌・丘沈等聚眾於江夏,百姓從之如歸。惠帝使監軍華宏討之,敗于障山。昌等浸盛,殺平南將軍羊伊,鎮南大將軍・新野王歆等,所在覆沒。昌別率封雲攻徐州,石冰攻揚州,刺史陳徽出奔,冰遂略有揚土。玘密欲討冰,潛結前南平内史王矩,共推呉興太守顧祕都督揚州九郡軍事,及江東人士同起義兵,斬冰所置呉興太守區山及諸長史。冰遣其將羌毒領數萬人距玘,玘臨陣斬毒。時右將軍陳敏自廣陵率眾助玘,斬冰別率趙驡於蕪湖,因與玘俱前攻冰於建康。」
【参照】
『宋書』巻三十一 五行二 白眚白祥:「晉惠帝元康五年十二月,有石生于宜年里。晉惠帝永康元年,襄陽郡上言得鳴石,撞之,聲聞七八里。晉惠帝太安元年,丹陽湖熟縣夏架湖有大石浮二百歩而登岸。民驚譟相告曰「石來」干寶曰「尋有石冰入建業。」」

現代語訳

恵帝の元康五年(295)十二月,石が宜年里に生じるということがあった。
永康元年(300),襄陽郡(の役人)が上奏するには,よく音が鳴る石を手に入れて,これをたたくと,その音が七,八里に渡って伝わるという。
太安元年(302),丹楊郡湖熟縣の夏架湖で大きな石が水の上を二百歩(一歩は六尺=145.2cm。約290m)も漂って岸まで上がってきたことがあり,民衆は驚き騒いで口々に「石が來た」と言い合った。干宝は「まもなく石冰が建鄴に攻め入ることがある。」と言った。

原文

車騎大將軍・東嬴王騰自并州遷鎭鄴,行次眞定。時久積雪,而當門前方數丈獨消釋,騰怪而掘之,得玉馬,高尺許,口齒缺。騰以馬者國姓,上送之,以爲瑞。然馬無齒則不得食,妖祥之兆,衰亡之徴。案占,此白祥也。是後騰爲汲桑所殺,而天下遂亂。

訓読

車騎大將軍・東嬴王騰〔一〕 并州より遷りて鄴を鎭む,行きて眞定に次る。時に久しく積雪すれども,門に當たりて前方數丈獨り消釋すれば,騰怪しみて之を掘り,玉馬を得〔二〕,高さ尺許り,口齒缺く。騰 馬なる者は國姓たるを以て,上りて之を送り,以て瑞と爲す。然るに馬 齒無ければ則ち食らうを得ず,妖祥の兆にして,衰亡の徴なり。占を案ずるに,此れ白祥なり。是の後騰 汲桑の殺す所と爲りて〔三〕,天下遂に亂る。

〔一〕『晋書斠注』では『晋書』の司馬騰の伝を参照し、永嘉の初めに任じられたのは「車騎將軍」で「大」の字がないこと、「東嬴公」の後「新蔡王」に封じられており、「新蔡王」とするのが正しいことを指摘している。
『晋書』巻三十七 略兄新蔡武哀王騰伝:「新蔡武哀王騰字元邁,少拜宂從僕射,封東嬴公,歷南陽・魏郡太守,所在稱職。……永嘉初,遷車騎將軍・都督鄴城守諸軍事,鎭鄴。又以迎駕之勳,改封新蔡王。」
〔二〕『晋書』巻三十七 略兄新蔡武哀王騰伝:「初,騰發并州,次于眞定。值大雪,平地數尺,營門前方數丈雪融不積,騰怪而掘之,得玉馬,高尺許,表獻之。其後公師藩與平陽人汲桑等爲羣盜,起於清河鄃縣,衆千餘人,寇頓丘。」
〔三〕『晋書』巻五 孝懐帝 永嘉元年(307):「五月,馬牧帥汲桑聚衆反,敗魏郡太守馮嵩,遂陷鄴城,害新蔡王騰。」
『晋書』巻三十七 略兄新蔡武哀王騰伝:「其後公師藩與平陽人汲桑等爲羣盜,起於清河鄃縣,衆千餘人,寇頓丘。以葬成都王穎爲辭,載穎主而行,與張泓故將李豐等將攻鄴。騰曰「孤在并州七年,胡圍城不能克。汲桑小賊,何足憂也。」及豐等至,騰不能守,率輕騎而走,爲豐所害。」
【参照】
『宋書』巻三十一 五行二 白眚白祥:「晉車騎大將軍東嬴王騰自幷州遷鎭鄴,行次眞定。時久積雪,而當門前方數尺獨消釋,騰怪而掘之,得玉馬高尺許,口齒缺。騰以馬者國姓,上送之以爲瑞。然論者皆云馬而無齒,則不得食,妖祥之兆,衰亡之徵。案占,此白祥也。是後騰為汲桑所殺,而晉室遂亡。」

現代語訳

車騎大将軍・東嬴王の司馬騰が并州から遷り鄴を守備することになり,行く途中真定に滞在した。その時長時間雪が積もっていたが,(駐屯地の)門の前の数丈(一丈は十尺=242cm)だけ雪が融けてなくなっていたので,司馬騰が怪しんでそこを掘ると,玉馬を得た,高さは一尺ばかりで,口や歯が欠けていた。司馬騰は馬は皇帝の姓であるので,たてまつってこれを(みやこに)送り,瑞祥とした。しかし馬に歯が無ければ食事をすることができない,(これは)わざわいの前兆であり,衰亡の徴候である。占断によれば,これは白祥である。その後司馬騰は汲桑に殺され,天下はかくて乱れた。

原文

武帝泰始八年五月,蜀地雨白毛,此白祥也。時益州刺史皇甫晏伐汶山胡,從事何旅固諫,不從,牙門張弘等因眾之怨,誣晏謀逆,害之。京房易傳曰「前樂後憂,厥妖天雨羽。」又曰「邪人進,賢人逃,天雨毛。」其易妖曰「天雨毛羽,貴人出走。」三占皆應。

訓読

武帝泰始八年五月,蜀地に白毛雨ふる,此れ白祥なり。時に益州刺史皇甫晏 汶山の胡を伐たんとし,從事の何旅固く諫むるも,從はず,牙門の張弘等 衆の怨に因りて,晏の謀逆を誣し,之を害す〔一〕。京房易傳に曰わく「前樂みて後ろ憂いあり,厥の妖 天 羽を雨ふらす」と。又た曰わく「邪人進みて,賢人逃ぐれば,天 毛を雨ふらす」〔二〕と。其の易妖〔三〕に曰く「天 毛羽を雨ふらせば,貴人出走す」〔四〕と。三占皆な應ず。

〔一〕『晋書』巻三 武帝本紀 泰始八年:「夏四月,置後將軍,以備四軍。六月,益州牙門張弘誣其刺史皇甫晏反,殺之,傳首京師。弘坐伏誅,夷三族。壬辰,大赦。丙申,詔復隴右四郡遇寇害者田租。」
〔二〕『漢書』巻二十七 中之上 五行志 白眚白祥:天漢元年(前100)三月,天雨白毛,三年八月,天雨白氂(師古曰:「凡言氂者,毛之強曲者也,音力之反。」)。京房易傳曰「前樂後憂,厥妖天雨羽。」又曰「邪人進,賢人逃,天雨毛。」
『開元占經』卷三 天占:「京房曰,天雨毛,邪人進,賢人逃,貴人走。」
〔三〕『隋書』巻三十四 經籍三 子 五行:「周易占十二卷京房撰。梁周易妖占十三卷,京房撰。」
〔四〕『晋書』『宋書』の本記事中にしか見られない。
【参照】
『宋書』巻三十一 五行二 白眚白祥:「晉武帝泰始八年五月,蜀地雨白毛。此白祥也。是時益州刺史皇甫晏冒暑伐汶山胡,從事何旅固諫,不從。牙門張弘等因眾之怨,誣晏謀逆,害之。京房易傳曰「前樂後憂,厥妖天雨羽。」又曰「邪人進,賢人逃,天雨毛。」其易妖曰「天雨毛羽,貴人出走。」三占皆應也。」

現代語訳

武帝泰始八年(272)五月,蜀の地に白い毛が降った,これは白祥である。この時益州刺史の皇甫晏は汶山の異民族を討伐しようとし,従事(属官)の何旅が固く諫めたにもかかわらず,從わなかったところ,牙門(直属の配下)である張弘等が(皇甫晏の)配下たちの怨みに乗じて,皇甫晏が反乱を企てていると讒言して,皇甫晏を殺害した。京房の『易傳』に「はじめは楽しんでいるが後には憂いている,その怪異は天が羽を降らす」と言う。また「邪な人がしゃしゃり出て,賢人が逃げると,天は毛を降らす」と言う。京房の『周易妖占』に「天が毛や羽を降らせば,貴人は出奔する」と言う。三つの占断はすべて対應している。

原文

惠帝永寧元年,齊王冏舉義軍。軍中有小兒,出於襄城繁昌縣,年八歳,髮體悉白,頗能卜,於洪範,白祥也。

訓読

惠帝永寧元年,齊王冏義軍を舉ぐ〔一〕。軍中に小兒の襄城繁昌縣より出づる有り,年八歳,髮體悉く白く,頗る卜を能くす,洪範に於いて,白祥なり。

〔一〕『晋書』巻四 孝恵帝本紀 永寧元年:「三月,平東將軍・齊王冏起兵以討倫,傳檄州郡,屯于陽翟。」
【参照】
『宋書』巻三十一 五行二 白眚白祥:「晉惠帝永寧元年,齊王冏舉義軍。軍中有小兒出於襄城繁昌縣,年八歳,髮體悉白,頗能卜。於洪範,則白祥也。」

現代語訳

惠帝永寧元年(301),齊王の司馬冏が義兵を舉げた。軍中に襄城郡の繁昌縣出身の小さな子どもがおり,年は八歳で,髮と體がすべて白く,卜占がよくできた,洪範(災異説)によれば,白祥である。

原文

成帝咸康初,地生毛,近白祥也。孫盛以爲人勞之異也。是後石季龍滅而中原向化,將相皆甘心焉。於是方鎮屢革,邊戍仍遷,皆擁帶部曲,動有萬數。其間征伐徵賦,役無寧歲,天下勞擾,百姓疲怨。

訓読

成帝咸康初め,地 毛を生ず,白祥に近きなり〔一〕。孫盛〔二〕以爲へらく人勞の異なりと。是の後石季龍滅びて中原向化し〔三〕,將相皆な甘心す。是に於いて方鎮屢ば革め,邊戍仍りに遷るに,皆な部曲を擁帶し,動もすれば萬數有り。其の間征伐徵賦,役に寧歳無し,天下勞擾し,百姓疲怨す〔四〕。

〔一〕『開元占經』卷四 地占:「易妖占曰,地生毛,百姓労苦。」
〔二〕『晋書』巻八十二 孫盛伝:「孫盛字安國,太原中都人。祖楚,馮翊太守。……盛篤學不倦,自少至老,手不釋卷。著魏氏春秋・晉陽秋,并造詩賦論難復數十篇。晉陽秋詞直而理正,咸稱良史焉。」
〔三〕『晋書』巻八 穆帝本紀 永和五年(349)条:「五年春正月辛巳朔,大赦。庚寅,地震。石季龍 僭即皇帝位于鄴。……夏四月,益州刺史周撫・龍驤將軍朱燾擊范賁,獲之,益州平。封周撫爲建城公。假慕容儁大將軍・幽平二州牧・大單于・燕王。征西大將軍桓溫遣督護滕畯討范文・爲文所敗。石季龍死,子世嗣僞位。五月,石遵廢世而自立。六月,桓溫屯安陸,遣諸將討河北。石遵揚州刺史王浹以壽陽來降。十一月丙辰,石鑒弒石遵而自立。」
同六年(350)条:「閏月,冉閔弒石鑒,僭稱天王,國號魏。鑒弟祗僭帝號于襄國。」
同七年(351)条:「十二月辛未,征西大將軍桓溫帥衆北伐,次于武昌而止。時石季龍故將周成屯廩丘,高昌屯野王,樂立屯許昌,李歷屯衞國,皆相次來降。」
〔四〕『晋書』巻九十八 桓温伝:「及石季龍死,溫欲率衆北征,先上疏求朝廷議水陸之宜,久不報。時知朝廷杖殷浩等以抗己,溫甚忿之,然素知浩,弗之憚也。以國無他釁,遂得相持彌年,雖有君臣之跡,亦相羈縻而已,八州士衆資調,殆不爲國家用。聲言北伐,拜表便行,順流而下,行達武昌,衆四五萬。殷浩慮為溫所廢,將謀避之,又欲以騶虞幡住溫軍,内外噂𠴲,人情震駭。」
【参照】
『宋書』巻三十一 五行二 白眚白祥:「晉成帝咸康初,地生毛,近白眚也。孫盛以爲民勞之異。是後胡滅而中原向化,將相皆甘心焉。於是方鎮屢革,邊戍仍遷,皆擁帶部曲,動有萬數,其間征伐徵賦,役無寧歲,天下擾動,民以疲怨。」

現代語訳

成帝の咸康初め(335~),地面から毛が生えた,(これは)白祥に近い。孫盛は人を酷使することの怪異であると考えた。この後石季龍が滅んで中原は帰順し,將軍も宰相もみな満足した。ここに至って各地の軍の長官をしばしば変え,辺境を守備する軍も頻りに移動したが,(長官たちは)皆な私兵を抱え率いていて,ともすれば萬を數えるほどの人数がいた。その間征伐や税の取り立てがあり,労役がない年が無く,天下は疲弊して乱れ,人々は疲れ怨んだ。

原文

咸康三年六月,地生毛。

訓読

咸康三年六月,地 毛を生ず。

【参照】
『宋書』五行志:「咸康三年六月, 地生毛 。」

現代語訳

咸康三年(337年)六月,地面から毛が生えた。

原文

孝武太元二年五月,京都地生毛。至四年而氐賊次襄陽〔一〕,圍彭城,向廣陵。征戍仍出,兵連年不解。

訓読

孝武太元二年五月,京都の地 毛を生ず。四年に至りて氐(てい)賊 襄陽に次(やど)り,彭城を圍み,廣陵に向う〔二〕。征戍 仍(しき)りに出だし,兵 連年解かず〔三〕。

〔一〕地理志に拠れば襄國は,廣平郡に属する。この時,襄國は既に前秦の支配地である。以下の史料に基づいて,襄國を襄陽に改めた。
『晉書』巻九,孝武帝紀,太元四年:「二月戊午,苻堅使其子丕攻陷襄陽,執南中郎將朱序。又陷順陽。」
『晋書』巻一百十三,苻堅載記上:「太元四年,晉兗州刺史謝玄率眾數萬次于泗汭,將救彭城。苻丕陷襄陽……」
〔二〕『晋書』巻一百十三,苻堅載記 上:「太元四年,晉兗州刺史謝玄率眾數萬次于泗汭,將救彭城。苻丕陷襄陽,執南中郎將朱序,送于長安,堅署為度支尚書。以其中壘梁成為南中郎將・都督荊揚州諸軍事、荊州刺史,領護南蠻校尉,配兵一萬鎮襄陽,以征南府器仗給之。彭超圍彭城也,置輜重於留城。」
〔三〕『晉書』孝武帝紀,太元八年:「冬十月,苻堅弟融陷壽春。乙亥,諸將及苻堅戰于肥水,大破之,俘斬數萬計,獲堅輿輦及雲母車。」
【参照】
『宋書』五行志・中華書局本:「晉孝武太元二年五月,京都 地生毛 。至四年而氐賊攻襄陽,圍彭城,向廣陵,征戍仍出,兵連不解。」

現代語訳

孝武帝(司馬曜)太元二年(377年)五月,都(建康)の地面から毛が生えた。四年になって氐賊(前秦)が襄陽に駐屯し,彭城を圍み,廣陵に向かった。(晉は)国境を守備するために兵を度々出し、軍を何年も解かなかった。

原文

太元十四年四月,京都地生毛。是時苻堅滅後,經略多事,人勞之應也。 十七年四月,地生毛。

訓読

太元十四年四月,京都の地 毛を生ず。是の時 苻堅 滅ぶの後なるも〔一〕,經略 事多し〔二〕,人 勞するの應なり。 十七年四月,地 毛を生ず。

〔一〕『晉書』孝武帝紀,太元十年:「八月甲午,大赦。丁酉,使持節,侍中,中書監,大都督十五州諸軍事,衞將軍,太保謝安薨。庚子,以琅邪王道子為都督中外諸軍事。是月,姚萇殺苻堅而僭即皇帝位。」
〔二〕『晉書』孝武帝紀:「十四年春正月癸亥,詔淮南所獲俘虜付諸作部者一皆散遣,男女自相配匹,賜百日廩,其沒為軍賞者悉贖出之,以襄陽、淮南饒沃地各立一縣以居之。彭城妖賊劉黎僭稱皇帝於皇丘,龍驤將軍劉牢之討平之。」
「十五年春正月乙亥,鎮北將軍、譙王恬之薨。龍驤將軍劉牢之及翟遼、張願戰于太山,王師敗績。征虜將軍朱序破慕容永於太行。」
「八月,永嘉人李耽舉兵反,太守劉懷之討平之。己丑,京師地震。有星孛于北斗,犯紫微。沔中諸郡及兗州大水。龍驤將軍朱序攻翟遼于滑臺,大敗之,張願來降。」など。
【参照】
『宋書』五行志・中華書局本:「太元十四年四月,京都地生毛 。是時苻堅滅後,經略多事。太元十七年四月,地生毛 。」

現代語訳

太元十四年(389年)四月,都(建康)の地面から毛が生えた。この時,苻堅は滅んだ後だったが,国家の運営に(しなければならない)事柄が多く,人が疲労していたことの應である。 十七年(392年)四月,地面から毛が生えた。

原文

安帝隆安四年四月乙未,地生毛,或白或黑。元興三年五月,江陵地生毛。是後江陵見襲,交戰者數矣。

訓読

安帝隆安四年四月乙未,地 毛を生ず,或いは白 或いは黑。元興三年五月,江陵に地 毛を生ず。是の後江陵襲はれ,交戰する者(こと)數(しば)しばあり〔一〕。

〔一〕『晉書』安帝紀,元興三年:「閏月己丑,桓玄故將揚武將軍桓振陷江陵,劉毅,何無忌退守尋陽,帝復蒙塵于賊營。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉安帝隆安四年四月乙未,地生毛,或白或黑。晉安帝元興三年五月,江陵地生毛。是後江陵見襲,交戰者數矣。」

現代語訳

安帝(司馬徳宗)隆安四年(400年)四月乙未,地面から毛が生え,あるものは白,あるものは黑であった。元興三年(404年)五月,江陵の地面から毛が生えた。この後,江陵は襲撃され,交戰することが度々あった。

原文

義熙三年三月,地生白毛。十年〔一〕三月,地生毛。明年,王旅西討司馬休之。又明年,北埽關洛。

訓読

義熙三年三月,地 白毛を生ず。十年三月,地 毛を生ず。明年,王旅 西のかた司馬休之を討つ〔二〕。又た明年,北のかた關・洛を埽う〔三〕。

〔一〕底本では十三年とあるが,斠注に「晋書校文二曰,帝紀,劉裕討休之在十一年春,志既云「明年王旅西討」,則當從宋志作「十年」乃合。」とあるためこれを改めた。
〔二〕『晉書』安帝紀,義熙十一年:「三月辛巳,淮陵王蘊薨。壬午,劉裕及休之戰于江津,休之敗,奔襄陽」
〔三〕『晉書』安帝紀,義熙十二年:「冬十月丙寅,姚泓將姚光以洛陽降。己丑,遣兼司空、高密王恢之修謁五陵。」
『晉書』安帝紀,義熙十三年:「三月,龍驤將軍王鎮惡大破姚泓將姚紹于潼關。…秋七月,劉裕克長安,執姚泓,收其彝器,歸諸京師。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉安帝義熙三年三月,地生白毛。義熙十年三月,地生白毛。明年,王旅西討司馬休之。又明年,北掃關、洛。」

現代語訳

義熙三年(407年)三月,地面から白毛が生えた。十年(414年)三月,地面から毛が生えた。明くる年,皇帝の軍が西に向かい司馬休之を討った。さらに明くる年,北上して關中・洛陽を掃討した。

木沴金

原文

木沴金
魏齊王正始末,河南尹李勝治聽事,有小材激墮,檛受符吏石彪頭,斷之,此木沴金也。勝後旬日而敗。

訓読

木沴金
魏の齊王正始末,河南尹李勝聽事を治むるに,小材の激しく墮ち,受符吏の石彪の頭を檛ち,之れを斷つ有り,此れ木 金を沴るなり。勝後ち旬日にして敗る。〔一〕

〔一〕『三国志』魏書・曹爽伝・裴注引『魏略』:「勝前後所宰守,未嘗不稱職,為尹歲餘,廳事前屠蘇壞,令人更治之,小材一枚激墮,正撾受符吏石虎頭,斷之。後旬日,遷為荊州刺史,未及之官而敗也。」
【参照】
『宋書』五行志:「木沴金。魏齊王正始末,河南尹李勝治聽事,有小材激墮,檛受浮吏石虎項斷之。此木沴金也。勝後旬日而敗。」

現代語訳

木沴金
魏の齊王(曹芳)の正始年間(240〜248)の末に,河南尹の李勝が政事を行っていると,小さな木材が激しく落下し,受符吏の石彪の頭を打ちつけ,それを断ち切ることがあった,これは木が金をそこなったのである。李勝はそののち十日で敗れた。

原文

惠帝元康八年五月,郊禖壇石中破為二,此木沴金也。郊禖壇者,求子之神位,無故自毀,太子將危之象也。明年,愍懷廢死。

訓読

惠帝元康八年五月,郊禖壇 石 中ばに破れて二と為る〔一〕,此れ木金を沴るなり。郊禖壇なる者は,子を求むるの神位〔二〕,故無くして自づから毀るは,太子將さに危からんとするの象なり。明年,愍懷廢せられて死す。〔三〕

〔一〕『晉書』惠帝紀:「(永平八年)夏五月,郊禖石破為二。」
〔二〕『毛詩』大雅・生民之什・生民:「厥初生民,時維姜嫄,生民如何,克禋克祀,以弗無子。」,毛伝「禋敬弗去也。去無子,求有子。古者必立郊禖焉。玄鳥至之日,以大牢祠于郊禖。天子親往,后妃率九嬪御。乃礼天子所御,帶以弓韣,授以弓矢于郊禖之前。」,鄭箋「克能也,弗之言祓也。姜嫄之生后稷如何乎。乃禋祀上帝於郊禖,以祓除其無子之疾,而得其福也。」
『礼記』月令:「是月也,玄鳥至,至之日以大牢祠于高禖。天子親往。」
〔三〕『晉書』惠帝紀:「(永平九年)十二月壬戌,廢皇太子遹為庶人,及其三子幽于金墉城,殺太子母謝氏。……(永康元年)三月,尉氏雨血,妖星見于南方。癸未,賈后矯詔害庶人遹于許昌。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉惠帝元康八年三月,郊禖壇石中破為二。此木沴金也。郊禖壇者,求子之神位,無故而自毀,太子將危之妖也。明年,愍懷廢死。」

現代語訳

恵帝元康八年(298)五月,郊禖壇の石が真中から壊れて二つになった,これは木が金をそこなったのである。郊禖壇というのは,子を求める神位であり,わけもなく自然と壊れたのは,太子が危険にさらされんとしていることの象徴である。明年,愍懐太子が廃位されて死んだ。

原文

孝武帝太元十年四月,謝安出鎮廣陵,始發石頭,金鼓無故自破。此木沴金之異也,天意也。天戒若曰,安徒揚經略之聲,終無其實,鉦鼓不用之象也。月餘,以疾還而薨。

訓読

孝武帝太元十年四月,謝安出でて廣陵に鎮す。始め石頭より發するに,金鼓故無くして自づから破る〔一〕。此れ木 金を沴るの異なり,天意なり。天戒めて若く曰く,安徒づらに經略の聲を揚げ,終ひに其の實無し,鉦鼓用ひざるの象なり,と。月餘にして,疾を以て還りて薨ず。〔三〕

〔一〕『晉書』孝武帝:「(太元十年四月)壬戌,太保謝安帥眾救苻堅。」
『晉書』謝安傳:「時會稽王道子專權,而姦諂頗相扇構,安出鎮廣陵之步丘,築壘曰新城以避之。」
〔三〕『晉書』孝武帝:「(太元十年)八月甲午,大赦。丁酉,使持節・侍中・中書監・大都督十五州諸軍事・衞將軍・太保謝安薨。」
『晉書』謝安傳:「先是,安發石頭,金鼓忽破,又語未嘗謬,而忽一誤,眾亦怪異之。尋薨,時年六十六。帝三日臨于朝堂,賜東園祕器・朝服一具・衣一襲・錢百萬・布千匹・蠟五百斤,贈太傅,諡曰文靖。以無下舍,詔府中備凶儀。及葬,加殊禮,依大司馬桓溫故事。又以平苻堅勳,更封廬陵郡公。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉孝武帝太元十年四月,謝安出鎮廣陵,始發石頭,金鼓無故自破。此木沴金之異也。天意若曰,安徒揚經略之聲,終無其實,鉦鼓不用之象也。八月,以疾還,是月薨。」

現代語訳

孝武帝の太元十年(385)四月,謝安は(みやこから)出て広陵で鎮守した。石頭から出発しようとしたときに,金鼓がわけもなく自然と壊れた。これは木が金をそこなったことの怪異であり,天意である。天は戒めてこのように言った,「謝安はむだに北伐の声を揚げ,最後までその実は無い,(これは)鉦鼓が用いられないことの象徴なのである。」と。ひと月あまりで,病気で帰還して薨去した。



原文

傳曰「視之不明,是謂不哲,厥咎舒,厥罰恒燠,厥極疾。時則有草妖,時則有蠃蟲之孼,時則有羊禍,時則有目痾,時則有赤眚赤祥。惟水沴火。」

訓読

傳に曰く「視の不明,是れ不哲と謂ふ,厥の咎 舒,厥の罰 恒燠,厥の極 疾。時には則はち草妖有り,時には則はち蠃蟲の孼有り,時には則はち羊禍有り,時には則はち目痾有り,時には則はち赤眚赤祥有り。惟れ水 火を沴る。」と。

【参照】
『漢書』五行志中之下:「傳曰「視之不明,是謂不悊,厥咎舒,厥罰恆奧,厥極疾。時則有草妖,時則有蠃蟲之孽,時則有羊旤,時則有目痾,時則有赤眚赤祥。惟水沴火。」」

現代語訳

傳には「視が不明であること,これを不哲と言う,その咎は舒(ゆるいこと),その罰は恒燠(つねに暑いこと),その極は疾(やまい)。ある時には草妖がおこり,ある時には蠃蟲(甲や羽や毛のない虫)の孼がおこり,ある時には羊禍(羊のわざわい)がおこり,あるときには目痾(目のやまい)がおこり,あるときには赤眚赤祥がおこる。これは水が火をそこなうのである。」という。

原文

視之不明,是謂不哲。哲,知也。詩云「爾德不明,以亡陪亡卿。不明爾德,以亡背亡側。」言上不明,暗昧蔽惑,則不能知善惡,親近習,長同類,亡功者受賞,有罪者不殺,百官廢亂,失在舒緩,故其咎舒也。盛夏日長,暑以養物,政弛緩,故其罰常燠也。燠則冬溫,春夏不和,傷病疾人,其極疾也。誅不行則霜不殺草,繇臣下則殺不以時,故有草妖。凡妖,貌則以服,言則以詩,聽則以聲。視不以色者,五色,物之大分也,在於眚祥,故聖人以為草妖,失物柄之明者也。溫燠生蟲,故有蠃蟲之孼,謂螟螣之類當死不死,當生而不生,或多於故而為災也。劉歆以為屬思心不容。於易,剛而苞柔為離,離為火,為目。羊上角下蹄,剛而苞柔,羊大目而不精明,視氣毀,故有羊禍。一曰,暑歲羊多疫死,及為怪,亦是也。及人,則多病目者,故有目痾。火色赤,故有赤眚赤祥。凡視傷者,病火氣。火氣傷,則水沴之。其極疾者順之,其福曰壽。
劉歆視傳曰有羽蟲之孼,雞禍。說以為於天文南方朱張為鳥星,故為羽蟲。禍亦從羽,故為雞。雞於易自在巽,說非是。

訓読

「視の不明,是れ不哲と謂ふ。」哲とは,知なり。詩に云ふ「爾の德明ならざる,以て陪亡く卿亡し。爾の德を明らかにせざるは,以て背亡く側亡し。〔一〕」と。言ふこころは上明ならず,暗昧蔽惑なれば,則はち善惡を知ること能はず,近習に親み,同類を長じ,功亡き者賞を受け,罪有る者殺さず,百官廢亂す,失は舒緩に在り,故に其の咎舒なり。盛夏日長く,暑くして以て物を養ひ,政は弛緩す,故に其の罰常燠なり。燠なれば則はち冬溫かく,春夏和せず,傷病人を疾む,其の極疾なり。誅行はれざれば則はち霜 草を殺さず,臣下に繇れば則はち殺すに時を以てせず,故に草妖有り。凡そ妖は,貌には則はち服を以てし,言には則はち詩を以てし,聽には則はち聲を以てす。視には色を以てせざる者は,五色は,物の大分にして,眚祥に在り,故に聖人以為へらく草妖,物柄を失ふの明らかなる者なり。溫燠蟲を生ず,故に蠃蟲の孼有り,螟螣の類當さに死すべきも死せず,當さに生ずべきも生ぜず,或いは故より多くして災と為るなりと謂ふ。劉歆以為へらく思心不容に屬す。易に於いては,剛にして柔を苞するを離と為す,離火為り,目為り〔二〕。羊上角下蹄,剛にして柔を苞し,羊大目なるも精明ならず,視氣毀つ,故に羊禍有り。一に曰く,暑歲羊 疫死する及び怪と為る多し,亦た是れなり。人に及べば,則はち目を病む者多し,故に目痾有り。火色赤,故に赤眚赤祥有り。凡そ視傷なふ者,火氣を病む。火氣傷はるれば,則はち水之れを沴る。其の極疾なる者之れに順ふ,其の福壽と曰ふ。
劉歆視傳に曰く羽蟲の孼,雞禍有り。說に以為へらく天文に於いては南方朱張鳥星と為す,故に羽蟲為り。禍も亦た羽に從ふ,故に雞為り。雞 易に於いては自づから巽に在り〔三〕,說是に非ず。

〔一〕『毛詩』大雅・蕩之什・蕩:「文王曰咨,咨女殷商,女炰烋于中國,斂怨以為德。不明爾德,時無背無側。(毛伝:背無臣,側無人也。;鄭箋:無臣無人,謂賢者不用。)爾德不明,以無陪無卿。(毛伝:無陪貳也。無卿士也。)」
〔二〕『周易』説卦:「乾為首。坤為腹。震為足。巽為股。坎為耳。離為目。艮為手。兌為口。……離為火。為日。為電。為中女。為甲冑。為戈兵。其於人也。」
〔三〕『周易』説卦:「乾為馬。坤為牛。震為龍。巽為雞。坎為豕。離為雉。艮為狗。兌為羊。」
【参照】
『漢書』五行志中之下:「「視之不明,是謂不悊」,悊,知也。詩云「爾德不明,以亡陪亡卿。不明爾德,以亡背亡仄。」言上不明,暗昧蔽惑,則不能知善惡,親近習,長同類,亡功者受賞,有罪者不殺,百官廢亂,失在舒緩,故其咎舒也。盛夏日長,暑以養物,政㢮緩,故其罰常奧也。奧則冬溫,春夏不和,傷病民人,故極疾也。誅不行則霜不殺草,繇臣下則殺不以時,故有草妖。凡妖,貌則以服,言則以詩,聽則以聲。視則以色者,五色物之大分也,在於眚祥,故聖人以為草妖,失秉之明者也。溫奧生蟲,故有蠃蟲之孽,謂螟螣之類當死不死,未當生而生,或多於故而為災也。劉歆以為屬思心不容。於易,剛而包柔為離,離為火為目。羊上角下蹏,剛而包柔,羊大目而不精明,視氣毀故有羊旤。一曰,暑歲羊多疫死,及為怪,亦是也。及人,則多病目者,故有目痾。火色赤,故有赤眚赤祥。凡視傷者病火氣,火氣傷則水沴之。其極疾者,順之,其福曰壽。劉歆視傳曰有羽蟲之孽,雞旤。說以為於天文南方喙為鳥星,故為羽蟲。旤亦從羽,故為雞。雞於易自在巽。說非是。庶徵之恆奧,劉向以為春秋亡冰也。小奧不書,無冰然後書,舉其大者也。京房易傳曰「祿不遂行茲謂欺,厥咎奧,雨雪四至而溫。臣安祿樂逸茲謂亂,奧而生蟲。知罪不誅茲謂舒,其奧,夏則暑殺人,冬則物華實。重過不誅,茲謂亡徵,其咎當寒而奧六日也。」」

現代語訳

「視の不明,是れ不哲と謂ふ。」の哲は,知のことである。『詩』には「汝の德が明らかでないのは,三公もなく六卿もいないから。爾の德を明らかにできないのは,後ろから支える良臣もなく左右の賢人もいないから。」と言う。言いたいことは,上のものが聡明でなく,暗愚で道理を知らなければ,善惡を知ることができず,そばのものと親愛し,同類のものを助長し,功のない者が賞を受け,罪のある者を殺さず,百官はぐちゃぐちゃになる,過失はゆるゆるなことにある,であるからその咎は舒(ゆるいこと)なのである。盛夏には昼間が長く,暑いことによって物を養育し,政事はゆるむ,だからその罰は常燠(つねに暑いこと)なのである。燠であれば冬は溫かく,春夏(の気候)がおだやかでなく,怪我や病気が人を病ませる,その極は疾(やまい)なのである。誅殺が行われなければ霜が草を枯らさず,臣下に主導されれば誅殺するのに時宜を得ない,だから草妖がおこるのだ。凡そ妖は,貌には服にあらわれ,言には詩にあらわれ,聽には聲にあらわれる。視には(視に関する)色にあらわれないのは,五色は,物の大きな区分であって,眚や祥にあらわれるからである,だから聖人は草妖は,ものごとの本質への明知を失ったことであると考えたのである。溫燠(あたたかい)であると蟲が発生する,だから蠃蟲(甲や羽や毛のない虫)の孼がある,螟螣(ズイムシやハクイムシ)のたぐいが死ぬべきものが死なず,生まれるべきもの生まれない,あるいはもともとよりも多くなって災となるのである。劉歆は思心不容に屬すと考えた。易においては,剛が柔を包み込んでいるのを離とする,離は火であり,目である。羊は上には角があり下には蹄があり,剛が柔を包み込んでいる,羊は大きな目であるがはっきりと見えない,視の氣が損なわれる,であるから羊の禍いがおこるのである。あるいは,暑い歲には羊が疫病で死ぬことと怪異となることが多い,というのもまたこれである。人に及ぶと,目を病むものが多い,だから目痾(目のやまい)がおこる。火の色は赤,だから赤眚と赤祥がおこるのである。凡そ視がそこなわれたものは,火氣を病むのである。火氣がそこなわれたらば,水がそれをそこなう。「其の極疾」というものもこれに順えば,その福は壽(長生き)というのである。
劉歆の視の傳には羽蟲の孼や雞禍があるという。說には天文においては南方の朱張を鳥星とする,だから羽蟲なのである,とする。禍いも羽に從う,だから雞なのである。雞というのは易においてはそもそも巽にある,說は正しくない。

恒燠

原文

庶徵之恒燠,劉向以為春秋無冰也。小燠不書,無冰然後書,舉其大者也。京房易傳曰「祿不遂行茲謂欺,厥咎燠。其燠,雨雲四至而溫。臣安祿樂逸茲謂亂,燠而生蟲。知罪不誅茲謂舒,其燠,夏則暑殺人,冬則物華實。重過不誅茲謂亡徵,其咎當寒而燠盡六日也。」

訓読

庶徵の恒燠,劉向以為へらく春秋の「冰無し」なり〔一〕。小燠書せず,冰無くして然る後ち書すは,其の大なる者を舉ぐるなり。京房易傳に曰く「祿 遂行せられず茲れ欺と謂ふ,厥の咎燠。其の燠たる,雨雲四至して溫し。臣 祿に安んじ逸を樂しむ茲れ亂と謂ふ,燠にして蟲を生ず。罪を知るも誅せず茲れ舒と謂ふ,其の燠なる,夏なれば則はち暑 人を殺し,冬なれば則はち物 華實す。過を重ぬるも誅せず茲れ亡徵と謂ふ,其の咎 當に寒かるべきも燠 六日に盡きるなり。」と。

〔一〕『春秋』桓公:「經十有四年。春,正月,公會鄭伯于曹。○無冰。」
成公:「經元年。春,王正月。公即位。○二月,辛酉。葬我君宣公○無冰。」
襄公:「經二十有八年。春。無冰。」
【参照】
『漢書』五行志・中之下:「庶徵之恆奧,劉向以為春秋亡冰也。小奧不書,無冰然後書,舉其大者也。京房易傳曰「祿不遂行茲謂欺,厥咎奧,雨雪四至而溫。臣安祿樂逸茲謂亂,奧而生蟲。知罪不誅茲謂舒,其奧,夏則暑殺人,冬則物華實。重過不誅,茲謂亡徵,其咎當寒而奧六日也。」」

現代語訳

庶徵の恒燠については,劉向は『春秋』の「冰無し」とする。小燠については(『春秋』に)書かれておらず,氷が無くてはじめて書いているのは,その著しいことを取り上げているのである。『京房易傳』には「俸祿が執行されない,このことを欺と言う,その咎は燠(あつさ)。その燠(あつさ)といえば,雨や雲が四方からやってきて(むっと)溫かいのである。臣下が俸祿に安息し安逸をむさぼる,このことを亂と言う,暑くて蟲を発生する。罪に気づいているのに誅殺しない,このことを舒(ゆるい)と言う,その燠(あつさ)といえば,夏であれば暑熱が人を殺し,冬であれば万物がはなひらき結實する。過ちを重ねても誅殺しない,このことを亡徵と言う,その咎は寒くあるべき時期に燠(あつさ)が六日間もつづく。」とする。

原文

呉孫亮建興元年九月,桃李華。孫權世政煩賦重,人彫於役。是時諸葛恪始輔政,息校官,原逋責,除關梁,崇寬厚,此舒緩之應也。一說桃李寒華為草妖,或屬華孼。

訓読

呉の孫亮建興元年九月,桃李華さく。孫權の世 政煩にして賦重く,人 役に彫む。是の時諸葛恪始めて政を輔け,校官を息め,逋責を原し,關梁を除き,寬厚を崇ぶ,〔一〕此れ舒緩の應なり。一說に桃李寒きに華さく 草妖と為す,或ひは華孼に屬す。〔二〕

〔一〕『三国志』呉書・諸葛恪伝:「恪更拜太傅。於是罷視聽,息校官,原逋責,除關稅,事崇恩澤,眾莫不悅。」
〔二〕『漢書』五行志下之上:「劉向以為於易巽為風為木,卦在三月四月,繼陽而治,主木之華實。風氣盛,至秋冬木復華,故有華孽。」
【参照】
『宋書』五行志:「吳孫亮建興元年九月,桃李華。孫權世,政煩賦重,民彫於役。是時諸葛恪始輔政,息校官,原逋責,除關梁,崇寬厚。此舒緩之應也。一說桃李寒華為草妖,或屬華孽。」

現代語訳

呉の孫亮の建興元年(252)九月,桃や李が花がさいた。孫權の治世では政事が乱れて賦税は重く,民衆は労役に苦しめられた。この時諸葛恪は政事を補佐しはじめ,校官(公安の諜報員)をやめ,滞納していた税を免じ,関税を取り除き,寛大であることを重んじた,これは舒緩(ゆるいこと)の應である。一說には桃や李が寒いのに花がさくのは草妖としており,あるいは華孼に屬すとする。

原文

魏少帝景元三年十月,桃李華。時少帝深樹恩德,事崇優緩,此其應也。

訓読

魏の少帝〔一〕景元三年十月,桃李華さく。時に少帝深く恩徳を樹て,事に優緩を崇ぶ,此れ其の應なり。

〔一〕原文では「文帝」につくるが,中華書局標点本に従い,「少帝」とした。以下同じ。
【参照】
『宋書』五行志:「魏元帝景元三年十月, 桃李華 。自高貴弒死之後,晉文王深樹恩德,事崇優緩,此其應也。」

現代語訳

魏の少帝(曹奐)景元三年(262)十月,桃や李の花がさいた。その時少帝は恩徳を篤く施し,ことごとに寛大であることを重んじた,これはその應である。

原文

惠帝元康二年二月,巴西郡界草皆生華,結子如麥,可食。時帝初即位,楚王瑋矯詔誅汝南王亮及太保衞瓘,帝不能察。今非時草結實,此恒燠寬舒之罰。

訓読

惠帝元康二年二月,巴西郡界に草皆な華を生じ,子を結ぶこと麥の如く,食すべし。時に帝初め即位するに,楚王瑋 詔を矯げて汝南王亮及び太保衞瓘を誅す〔一〕,帝察すること能はず。今時に非ずして草 實を結ぶ,此れ恒燠寬舒の罰。

〔一〕『晋書』恵帝紀:「(永平元年)六月,賈后矯詔使楚王瑋殺太宰・汝南王亮,太保・菑陽公衞瓘。乙丑,以瑋擅害亮・瓘,殺之。曲赦洛陽。以廣陵王師劉寔為太子太保,司空・隴西王泰錄尚書事。」
『晋書』衞瓘伝:「賈后素怨瓘,且忌其方直,不得騁己淫虐。又聞瓘與瑋有隙,遂謗瓘與亮欲為伊霍之事,啓帝作手詔,使瑋免瓘等官。黃門齎詔授瑋,瑋性輕險,欲騁私怨,夜使清河王遐收瓘。左右疑遐矯詔,咸諫曰「禮律刑名,台輔大臣,未有此比,且請距之。須自表得報,就戮未晚也。」瓘不從,遂與子恒・嶽・裔及孫等九人同被害,時年七十二。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉惠帝元康二年春,巴西郡界竹生花,紫色,結實如麥,外皮青,中赤白,味甘。」

現代語訳

惠帝の元康二年(292)二月,巴西郡の境界で草がみな花をつけ,麥のような實をつけ,食べることができた。恵帝は最初即位したときに,楚王司馬瑋が詔をゆがめて汝南王司馬亮と太保衞瓘を誅殺した。恵帝は気づくことが出来なかった。ここで時期でないのに草が實をつけたのは,これは恒燠寬舒(つねにあついこととゆるやかなこと)の罰である。

原文

穆帝永和九年十二月,桃李華。是時簡文輔政,事多弛略,舒緩之應也。

訓読

穆帝永和九年十二月,桃李華さく。是の時簡文政を輔け〔一〕,事 弛略すること多し,舒緩の應なり。

〔一〕『晋書』簡文帝紀:「永和元年,崇德太后臨朝,進位撫軍大將軍・錄尚書六條事。二年,驃騎何充卒,崇德太后詔(簡文)帝專總萬機。八年,進位司徒,固讓不拜。穆帝始冠,帝稽首歸政,不許。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉穆帝永和九年十二月,桃李華。是時簡文輔政,事多弛略,舒緩之應也。」

現代語訳

穆帝の永和九年(353)十二月,桃や李が花がさいた。この時には簡文帝が政事を補佐しており〔一〕,ことごとにいいかげんなことが多かった,舒緩(ゆるいこと)の應である。

草妖

原文

草妖
漢獻帝建安二十五年春正月,魏武帝在洛陽起建始殿,伐濯龍樹而血出,又掘徙棃,根傷亦血出。帝惡之,遂寢疾,是月崩。蓋草妖,又赤祥,是歲魏文帝黃初元年也。

訓読

草妖
漢の獻帝の建安二十五年春正月,魏の武帝洛陽に在りて〔一〕建始殿を起こす,濯龍〔二〕の樹を伐りて血出づ,又た掘て棃を徙(うつ)すに,根傷れて亦た血出づ〔三〕。帝之を惡むも,遂に疾に寢,是の月に崩ず。蓋し草妖なり,又赤祥なり,是の歲魏の文帝の黃初元年なり〔四〕。

〔一〕『三國志』魏書,武帝(曹操)紀: 「二十五年春正月,至洛陽。權擊斬羽,傳其首。庚子,王崩于洛陽,年六十六。」
裴松之注「世語(郭頒『魏晋世語』)曰,太祖自漢中至洛陽,起建始殿,伐濯龍祠而樹血出。『曹瞞傳』曰,王使工蘇越徙美梨,掘之,根傷盡出血。越白狀,王躬自視而惡之,以為不祥,還遂寢疾。」
〔二〕濯龍は、洛陽にあった濯龍宮。
『後漢書』明德馬皇后紀:「帝幸濯龍中,並召諸才人,下邳王已下皆在側,請呼皇后。」
李賢注「續漢志曰,濯龍,園名也,近北宮。」
〔三〕『三國志』魏書,武帝(曹操)紀:「庚子,王崩于洛陽,年六十六。」
裴松之注「世語(郭頒『魏晋世語』)曰,太祖自漢中至洛陽,起建始殿,伐濯龍祠而樹血出。『曹瞞傳』曰,王使工蘇越徙美梨,掘之,根傷盡出血。越白狀,王躬自視而惡之,以為不祥,還遂寢疾。」
〔四〕『宋史』,五行志:「漢獻帝建安二十五春正月,魏武帝在洛陽,將起建始殿,伐濯龍祠樹而血出,又掘徙棃,根傷亦血出。帝惡之,遂寢疾,是月崩。蓋草妖,又赤祥也。是歲,魏文帝黃初元年也。」

現代語訳

草妖
漢の獻帝の建安二十五年(220年)春正月に,魏の武帝(曹操)は、洛陽にいて建始殿を建てた。濯龍の樹を切ったところ血が出た。また掘って棃(なし)を移植すると,根が傷ついて血が出た。皇帝はこれを嫌ったが,そのまま病に伏し,この月に亡くなった。おそらく「草妖」(草の異変)である,また赤祥でもある,この年は魏の文帝(曹丕)の黃初元年である。

原文

吳孫亮五鳳元年六月,交阯稗草化為稻。昔三苗將亡,五穀變種,此草妖也。其後亮廢。

訓読

吳の孫亮の五鳳元年六月,交阯の稗草化して稻と為る。昔三苗〔一〕將に亡びんとして,五穀變種す,此れ草妖なり。其の後亮廢せらる〔二〕〔三〕。

〔一〕『尚書』虞書,舜典:「放驩兠于崇山。竄三苗于三危。殛鯀于羽山。」
『史記』五帝本紀,帝堯:「三苗 在江淮、荊州數為亂……遷 三苗於三危,以變西戎,殛鯀於羽山,以變東夷,四辠而天下咸服」
〔二〕『三国志』吳書, 三嗣主,孫亮伝:「孫亮字子明,權少子也。權春秋高,而亮最少,故尤留意。姊全公主嘗譖太子和子母,心不自安,因倚權意,欲豫自結,數稱述全尚女,勸為亮納。赤烏十三年,和廢,權遂立亮為太子,以全氏為妃。」
「(太平)三年春正月,諸葛誕殺文欽。三月,司馬文王克壽春,誕及左右戰死,將吏已下皆降。秋七月,封故齊王奮為章安侯。詔州郡伐宮材。自八月沈陰不雨四十餘日。亮以綝專恣,與太常全尚,將軍劉丞謀誅綝。九月戊午,綝以兵取尚,遣弟恩攻殺丞於蒼龍門外,召大臣會宮門,黜亮為會稽王,時年十六。」
〔三〕『捜神記』:「吳孫亮五鳳元年六月,交阯稗草化爲稻。昔三苗將亡,五穀變種,此草妖也。其後亮廢。」
【参照】
『宋書』五行志:「吳孫亮五鳳元年六月,交趾稗草化為稻。昔三苗將亡,五穀變種。此草妖也。其後亮廢。」

現代語訳

吳の孫亮の五鳳元年(254年)六月,交阯(今のベトナム)の稗草(ヒエ)が変化して稲となった。昔三苗が亡びようとしたとき,五穀が変種を生じた。これは「草妖」である。その後、孫亮は退位させられた。

原文

蜀劉禪景耀五年,宮中大樹無故自折。譙周憂之,無所與言,乃書柱曰「眾而大,其之會。具而授,若何復。」言曹者眾也,魏者大也,眾而大,天下其當會也。具而授,如何復有立者乎。蜀果亡,如周言,此草妖也。

訓読

蜀の劉禪〔一〕の景耀五年,宮中の大樹故無くして自ら折る。譙周〔二〕之を憂へども,與(とも)に言う所無く,乃ち柱に書して曰く「眾にして大なれば,其れ之に會せん。具りて授く,若何んぞ復せんや。」〔三〕と。言ふこころは曹なるものは眾なり〔四〕,魏なるものは大なり,眾にして大なるは,天下其れ當に會すべきなり。具りて授かば,如何にして復び立つ者有るか。蜀 果して亡び,周の言の如し,此れ草妖なり。〔五〕

〔一〕『三国志』蜀書,後主(劉禅)伝:「後主諱禪,字公嗣,先主子也。建安二十四年,先主為漢中王,立為王太子。……(章武)三年夏四月,先主殂于永安宮。五月,後主襲位於成都,時年十七。尊皇后曰皇太后。大赦,改元。是歲魏黃初四年也。」
『三国志』蜀書, 後主(劉禅)伝,景耀六年:「後主舉家東遷,既至洛陽,策命之曰,「惟景元五年三月丁亥。皇帝臨軒,使太常嘉命劉禪為安樂縣公。……」
〔二〕『三国志』蜀書,譙周伝:「譙周字允南,巴西西充國人也。父𡸫,字榮始,治尚書,兼通諸經及圖、緯。州郡辟請,皆不應,州就假師友從事。周幼孤,與母兄同居。既長,耽古篤學,家貧未嘗問產業,誦讀典籍,欣然獨笑,以忘寢食。研精六經,尤善書札。頗曉天文,而不以留意,諸子文章非心所存,不悉徧視也。身長八尺,體貌素朴,性推誠不飾,無造次辯論之才,然潛識內敏。」
〔三〕『詩經』大雅,公劉:「乃造其曹。……傳, 曹,羣也。」
『左傳』,昭公十二年:「周原伯絞虐,其輿臣使曹逃。」杜預注「輿,眾也。曹,群也。」
〔四〕『三国志』蜀書,杜瓊伝:「(譙)周緣(杜)瓊言,乃觸類而長之曰『……先主諱備,其訓具也,後主諱禪,其訓授也,如言劉已具矣,當授與人也,意者甚於穆侯、靈帝之名子。』後宦人黃皓弄權於內,景耀五年,宮中大樹無故自折,周深憂之,無所與言,乃書柱曰『眾而大,期之會,具而授,若何復。』言曹者眾也,魏者大也,眾而大,天下其當會也。具而授,如何復有立者乎。蜀既亡,咸以周言為驗。周曰『此雖己所推尋,然有所因,由杜君之辭而廣之耳,殊無神思獨至之異也。』」
『晋書』五行志:「蜀劉禪嗣位,譙周曰『先主諱備,其訓具也,後主諱禪,其訓授也。若言劉已具矣,當授與人,甚於晉穆侯、漢靈帝命子之祥也。』蜀果亡,此言之不從也。劉備卒,劉禪即位,未葬,亦未踰月,而改元為建興,此言之不從也。禮,國君即位踰年而後改元者,緣臣子之心不忍一年而有二君。今可謂亟而不知禮義矣。後遂降焉。」
『宋書』五行志:「劉禪嗣位,譙周引晉穆侯、漢靈帝命子事譏之曰「先主諱備,其訓具也。後主諱禪,其訓授也。若言劉已具矣,當授與人,甚於穆侯、靈帝之祥也。」蜀果亡,此言之不從也。」
〔五〕『捜神記』巻六,中華書局:「蜀景耀五年,宫中大樹無故自折,譙周深憂之,無所與言,乃書柱曰,衆而大,期之㑹,具而授,若何復。言曹者,大也。衆而大,天下其當㑹也。具而授,如何復有立者乎。蜀既亡,咸以周言爲驗。」
【参照】
『宋書』五行志:「蜀劉禪景耀五年,宮中大樹無故自折。譙周憂之,無所與之言,乃書柱曰「眾而大,其之會,具而授,若何復。」言曹者眾也,魏者大也,眾而大,天下其當會也,具而授,如何復有立者乎。蜀果亡,如周言。此草妖也。」

現代語訳

蜀の劉禅の景耀五年(262年),宮中の大樹が理由もなく自然に折れた。譙周はこれをたいそう心配したが,話す相手もなく,そこで柱に書いてしるした「衆(おお)くして大であれば,きっとそこに集まるだろう。具えて授けるのであれば,どうしてもとにもどれよう」と。つまりこの意味は,曹とは衆(おお)いの意味であり,魏は大きいと言う意味である,おおくて大きいのであれば,天下はそのもと(魏・曹氏)に集まるはずだ, (劉備が)具えて(劉禅)授ければ,どうして再度立つ人がでてこようか。蜀はやはり亡び,周の言葉のとおりとなった。これは「草妖」である。

原文

吳孫晧天璽元年,吳郡臨平湖自漢末穢塞,是時一夕忽開除無草。長老相傳,此湖塞,天下亂,此湖開,天下平。吳尋亡而九服為一。

訓読

吳の孫晧の天璽元年,吳郡の臨平湖漢末自り穢(あ)れ塞(ふさ)がる,是の時一夕にして忽ち開き除かれ草無し。長老相ひ傳ふらく,此の湖塞がれば,天下亂れ,この湖開かば,天下平らぐと〔一〕。吳尋いで亡びて九服〔二〕一と為る。〔三〕

〔一〕『三国志』吳書, 三嗣主伝,孫晧伝:「天璽元年,吳郡言臨平湖自漢末草穢壅塞,今更開通。長老相傳,此湖塞,天下亂,此湖開,天下平。又於湖邊得石函,中有小石,青白色,長四寸,廣二寸餘,刻上作皇帝字,於是改年,大赦。會稽太守車浚、湘東太守張詠不出算緡,就在所斬之,徇首諸郡。」
〔二〕『周禮』,夏官,職方氏:「乃辨九服之邦國,方千里曰王畿,其外方五百里曰侯服,又其外方五百里曰甸服,又其外方五百里曰男服,又其外方五百里曰采服,又其外方五百里曰衛服,又其外方五百里曰蠻服,又其外方五百里曰夷服,又其外方五百里曰鎮服,又其外方五百里曰藩服。」
〔三〕『宋書』五行志:「吳孫晧天璽元年,吳郡臨平湖自漢末穢塞,是時一夕忽開除無草。長老相傳,此湖塞,天下亂,此湖開,天下平。吳尋亡,而九服為一。」

現代語訳

吳の孫晧の天璽元年(276年),吳郡の臨平湖は漢の末より草が生い茂り塞(ふさ)がっていた,ところがこの時一晩にしてたちまち開き除かれ草が無くなった。長老が代々語り伝えてきたのには,この湖が塞がれば,天下は乱れ,この湖が開けば,天下が平らぐ,という。吳はまもなく亡び天下は統一された。

原文

天紀三年八月,建鄴有鬼目菜於工黃狗家生〔一〕,依緣棗樹,長丈餘,莖廣四寸,厚二分。又有蕒菜生工吳平家,高四尺,如枇杷形,上圓,徑一尺八寸,莖廣五寸,兩邊生葉,綠色。東觀案圖,名鬼目作芝草,蕒菜作平慮,遂以狗為侍芝郎,平為平慮郎,皆銀印青綬。干寶曰,明年平吳,王濬止船正得平渚,姓名顯然,指事之徵也。黃狗者,吳以土運承漢,故初有黃龍之瑞。及其季年,而有鬼目之妖託黃狗之家。黃稱不改,而貴賤大殊,天道精微之應也。

訓読

天紀三年八月,建鄴に鬼目菜〔一〕 工の黃狗の家に生ずる有り,棗樹に依緣して,長 丈餘,莖の廣 四寸,厚 二分なり。又た蕒菜〔二〕工の吳平の家に生ずる有り,高 四尺,枇杷の形の如く,上圓なり,徑 一尺八寸,莖は廣 五寸,兩邊に葉生じ,綠色なり。東觀 圖を案ずるに,鬼目に名づけて,芝草〔三〕と作し,蕒菜 平慮(平露)〔四〕と作す,遂に狗を以て侍芝郎と為し,平もて平慮郎と為す,皆な銀印青綬〔五〕なり。干寶曰く「明年吳平ぎ,王濬船に止まり正に渚を平ぐを得〔六〕ること,姓名顯然たり,事を指すの徵なり。黃狗なる者は,吳 土運を以て漢を承く,故に初め黃龍の瑞有り〔七〕。其の季年に及びて,鬼目の妖有りて黃狗の家に託す。黃の稱改めざるも,貴賤大いに殊なり,天道精微の應なり。」と。〔八〕

〔一〕底本はもと「建鄴有鬼目菜工黃狗家生」に作る、いまここでは中華書局本に従った。「鬼目」は、(1)(2)(3)などとされる。
(1)紫葳(別名,凌霄花・陵時・陵苕,和名ノウゼンカズラ)。
『太平御覧』薬部, 紫葳:「吳氏本草曰,紫葳,一名武威,一名瞿麥,一名陵時,一名鬼目,一名茇華。」
(2)苻(別名, 白英,和名ヒヨドリジョウゴ)
『爾雅』釋草:「苻,鬼目」晉郭璞注,「今江東有鬼目草,莖似葛,葉員而毛,子如耳璫也,赤色叢生。」
『証類本草』白英:「今按陳藏器本草云,白英,主煩熱,風疹,丹毒,瘧瘴寒熱,小兒結熱。煮汁飲之。一名鬼目。『爾雅』云,苻,鬼目。」
(3)羊蹄(和名ギシギシ)。
『証類本草』羊蹄根:「羊蹄,味苦寒,無毒。主頭秃,疥瘙,除熱,女子隂蝕,浸淫,疸痔蟲。一名東方宿,一名連蟲陸,一名鬼目,一名蓄。生陳留川澤。」
また『太平御覧』百草部,鬼目には「爾雅曰,苻,鬼目。吴志曰,建業有鬼目菜,於工人黄狗家生依棗樹,長丈餘,莖廣四寸,厚五分。本草經曰,鬼目,一名東方宿,一名連蟲陸,一名羊蹄。郭璞曰,今江東有鬼目草,莖似葛,葉圓而毛,子赤色,樷生茂」
〔二〕『廣韻』巻三,上聲,蟹韻,「蕒,吳人呼苦」。
『廣雅』,釋草,「蕒,𧃢也。」。清・王念孫『廣雅疏證』,巻十上,釋草「𧃢蕒也」,「此苦菜之一種也。𧃢或作𦼫、或作苣。『說文』云,『𦼫,菜也。似蘇者。』,『玉篇』云,『𦼫,今之苦𦼫,江東呼為苦蕒。』」
〔三〕『文選』左太沖魏都賦に「德連木理,仁挺芝草。」とある。
〔四〕平慮は平露・平路,瑞木の名。
『白虎通』封禪に「王者使賢不肖位不相踰,則平路生於庭。平路者,樹名也。官位得其人則生,失其人則死。」と見える。
〔五〕『漢書』百官公卿表:「御史大夫,秦官,位上卿,銀印青綬 ,掌副丞相。」
〔六〕『三国志』吳書, 三嗣主,孫皓伝,天紀四年:「壬申, 王濬 最先到,於是受晧之降,解縛焚櫬,延請相見。伷以晧致印綬於己,遣使送晧。晧舉家西遷,以太康元年五月丁亥集于京邑。四月甲申,詔曰「孫晧窮迫歸降,前詔待之以不死,今晧垂至,意猶愍之,其賜號為歸命侯。進給衣服車乘,田三十頃,歲給穀五千斛,錢五十萬,絹五百匹,緜五百斤。」晧太子瑾拜中郎,諸子為王者,拜郎中。五年,晧死于洛陽。」
『晉書』世祖武帝(司馬炎)紀,太康元年:「三月壬寅, 王濬 以舟師至于建鄴之石頭,孫晧大懼,面縳輿櫬,降于軍門。濬杖節解縛焚櫬,送于京都。」
〔七〕『三国志』吳書, 吳主孫權伝,黃龍元年:「黃龍元年(222年)春,公卿百司皆勸權正尊號。夏四月,夏口、武昌並言黃龍、鳳凰見。丙申,南郊即皇帝位,是日大赦,改年。」
〔八〕『三國志』吳書,三嗣主,孫皓伝,天紀三年:「有鬼目菜生工人黃耉家,依緣棗樹,長丈餘,莖廣四寸,厚三分。又有買菜生工人吳平家,高四尺,厚三分,如枇杷形,上廣尺八寸,下莖廣五寸,兩邊生葉綠色。東觀案圖,名鬼目作芝草,買菜作平慮草,遂以耉為侍芝郎,平為平慮郎,皆銀印青綬。」
【参照】
『宋書』五行志:「吳孫晧天紀三年八月,建業有鬼目菜生工黃狗家,依緣棗樹,長丈餘,莖廣四寸,厚三分。又有蕒菜生工吳平家,高四尺,如枇杷形,上圓徑一尺八寸,下莖廣五寸,兩邊生葉緣色。東觀案圖,名鬼目作芝草,蕒菜作平慮。遂以狗為侍芝郎,平為平慮郎,皆銀印青綬。干寶曰,『明年晉平吳,王濬止船,正得平渚,姓名顯然,指事之徵也。黃狗者,吳以土運承漢,故初有黃龍之瑞,及其季年,而有鬼目之妖,託黃狗之家,黃稱不改,而貴賤大殊。天道精微之應也。』」

現代語訳

天紀三年(279年)八月に,建鄴に鬼目菜が工人(職人)の黃狗の家に生えた。棗の樹にからみつき,長さは一丈あまり,莖(くき)の広さ四寸,厚さ二分であった。また工人の吳平の家に蕒菜が生えた,高さは四尺,枇杷の形のように,上は丸く,直径は一尺八寸,莖は広さ五寸,両側に葉を生じ,緑色であった。東觀(の役人)が圖書を調べたところ,鬼目に名づけて,(瑞草の)芝草とし,蕒菜を(瑞木の)平慮(平露)とした。結局, 黃狗は侍芝郎とし,吳平は平慮郎とした,どちらも銀印青綬の位である。干寶がいうには「翌年吳は平定され,王濬が船に止まり(長江の)川辺(建鄴)を平らげることができたのは,姓名が明らかにしており,(王濬が川を濬(さら)うように呉を平定した)事を示した徵である。黃狗というのは,吳は(五行では黄を象徴する)土運をもって漢を受けついだ,だから(呉の)初めには黃龍の瑞祥が有った。呉の末年になると,鬼目の妖が黃狗の家に顕われた。黃という名称は変らないが,(龍と狗の)貴賤は大きく異なる。天道の精微をしめす應なのである。」と。

原文

惠帝元康二年春,巴西郡界竹生花紫色。結實如麥,外皮青,中赤白,味甘。

訓読

惠帝元康二年の春,巴西郡の界に竹 花を生じ紫色なり,實を結ぶこと麥の如く,外皮青く,中赤白にして,味甘し。

【参照】
『宋書』五行志:「晉惠帝元康二年春,巴西郡界竹生花,紫色,結實如麥,外皮青,中赤白,味甘」

現代語訳

惠帝(司馬衷)元康二年(292年)の春,巴西郡(今の重慶市と四川省東部)のあたりに竹が花を生じ紫色であった。そして麦のような実を結んだ,外皮青く,中は赤白色で,味は甘かった。

原文

元康九年六月庚子,有桑生東宮西廂,日長尺餘,甲辰枯死。此與殷太戊同妖。太子不能悟,故至廢戮也。班固稱「野木生朝而暴長,小人將暴居大臣之位,危國亡家之象,朝將為墟也」。是後孫秀・張林用事,遂至大亂。

訓読

元康九年六月庚子,桑の東宮の西廂に生ず有り,日ごとに長ずること尺餘,甲辰に枯死す。此と殷の太戊とは同妖なり〔一〕。太子悟ること能はず,故に廢戮に至るなり〔二〕。班固 稱すらく「野木朝に生じて暴かに長ずるは,小人將に暴かに大臣の位に居,危國亡家せんとするの象,朝 將に墟と為らんとするなり」と〔三〕。是の後孫秀・張林事を用いて,遂に大亂に至る〔四〕〔五〕。

〔一〕『史記』殷本紀:「亳有祥桑穀共生於朝,一暮大拱。帝 太戊 懼,問伊陟。伊陟曰,「臣聞妖不勝德,帝之政其有闕與。帝其修德。」 太戊 從之,而祥桑枯死而去。」
〔二〕『晉書』愍懷太子(司馬遹)伝:「愍懷太子遹,字熙祖,惠帝長子,母曰謝才人。」
「九年六月,有桑生于宮西廂,日長尺餘,數日而枯。十二月,賈后將廢太子,詐稱上不和,呼太子入朝。既至,后不見,置于別室,遣婢陳舞賜以酒棗,逼飲醉之。……后懼事變,乃表免太子為庶人,詔許之。於是使尚書和郁持節,解結為副,及大將軍梁王肜・鎮東將軍淮南王允、前將軍東武公澹、趙王倫・太保何劭詣東宮,廢太子為庶人。……明年正月,賈后又使黃門自首,欲與太子為逆。詔以黃門首辭班示公卿。又遣澹以千兵防送太子,更幽于許昌宮之別坊,令治書御史劉振持節守之。……三月,矯詔使黃門孫慮齎至許昌以害太子。初,太子恐見酖,恒自煮食於前。慮以告劉振,振乃徙太子於小坊中,絕不與食,宮中猶於牆壁上過食與太子。慮乃逼太子以藥,太子不肯服,因如廁,慮以藥杵椎殺之,太子大呼,聲聞于外。時年二十三。」
〔三〕『漢書』五行志:「書序曰,『伊陟相太戊,亳有祥桑穀共生。』傳曰『俱生乎朝,七日而大拱。伊陟戒以修德,而木枯。』劉向以為殷道既衰,高宗承敝而起,盡涼陰之哀,天下應之,既獲顯榮,怠於政事,國將危亡,故桑穀之異見。桑猶喪也,穀猶生也,殺生之秉失而在下,近草妖也。一曰,野木 生朝而暴長,小人將暴在大臣之位,危亡國家,象朝將為虛之應也。」
『漢書』郊祀志:「後八世,帝太戊 有桑穀生於廷,一暮大拱,懼。伊陟曰,「祅不勝德。」 太戊修德,桑穀死。」
〔四〕『晉書』八王,趙王司馬倫伝:「太子既遇害,倫・秀之謀益甚,……梁王肜表倫父子凶逆,宜伏誅。百官會議于朝堂,皆如肜表。遣尚書袁敞持節賜倫死,飲以金屑苦酒。倫慚,以巾覆面,曰「孫秀誤我。 孫秀誤我。」於是收荂・馥・虔・詡付廷尉獄,考竟。」
「淮南王允、齊王冏以倫、秀驕僭,內懷不平。秀等亦深忌焉,乃出冏鎮許,奪允護軍。允發憤,起兵討倫。允既敗滅,倫加九錫,增封五萬戶。倫偽為飾讓,詔遣百官詣府敦勸,侍中宣詔,然後受之。加荂撫軍將軍、領軍將軍,馥鎮軍將軍、領護軍將軍,虔中軍將軍、領右衞將軍,詡為侍中。又以孫秀為侍中、輔國將軍、相國司馬,右率如故。 張林 等並居顯要。增相府兵為二萬人,與宿衞同,又隱匿兵士,眾過三萬。起東宮三門四角華櫓,斷宮東西道為外徼。或謂秀曰「散騎常侍楊準、黃門侍郎劉逵欲奉梁王肜以誅倫。」會有星變,乃徙肜為丞相,居司徒府,轉準、逵為外官。」
「倫從兵五千人,入自端門,登太極殿,滿奮、崔隨、樂廣進璽綬於倫,乃僭即帝位,大赦,改元建始。是歲,賢良方正直言・秀才・孝廉・良將皆不試,……以世子荂為太子,馥為侍中・大司農・領護軍・京兆王,虔為侍中・大將軍領軍・廣平王,詡為侍中・撫軍將軍・霸城王,孫秀為侍中・中書監・驃騎將軍・儀同三司, 張林等諸黨皆登卿將,並列大封。」
〔五〕『宋書』五行志:「元康九年六月庚子,有桑生東宮西廂,日長尺餘,甲辰,枯死。此與殷太戊同妖。太子不能悟,故至廢戮也。班固稱「野木生朝而暴長,小人將暴居大臣之位,危亡國家,象朝將為墟也」。是後孫秀、張林尋用事,遂至大亂。」

現代語訳

元康九年(299年)六月庚子の日に,桑が東宮の西廂(西側の棟)に生えた,日に一尺余り成長し,(四日後の)甲辰の日に枯死した。これは殷の太戊の時と同じ妖である。太子(司馬遹)はこれを悟ることができず,そのために廃位され殺されるに至った。班固は「野生の木が朝廷に生えて突然成長するのは,小人が突然大臣の位について,国家が滅びようとしている象であり,朝廷が廃墟になろうとしているのだ。この後,孫秀・張林が政権をにぎり,とうとう大乱となった。

原文

永康元年四月,立皇孫臧為皇太孫。五月甲子,就東宮,桑又生於西廂。明年,趙王倫篡位,鴆殺臧,此與愍懷同妖也。是月,壯武國有桑化為柏,而張華遇害。壯武,華之封邑也。

訓読

永康元年四月,皇孫臧を立てて皇太孫と為す〔一〕。五月甲子,東宮に就く,桑又た西廂に生ず。明年,趙王倫篡位し,臧を鴆殺す〔二〕,此れ愍懷と同妖なり。是の月,壯武國に桑 化して柏と為ること有り,而して張華害に遇ふ〔三〕。壯武は,華の封邑なり〔四〕。

〔一〕『晉書』孝惠帝(司馬衷)紀,永康元年:「五月己巳,立皇孫臧為皇太孫,尚為襄陽王。」
〔二〕『晉書』孝惠帝(司馬衷)紀, 永寧元年:「永寧元年春正月乙丑,趙王倫篡帝位。丙寅,遷帝于金墉城,號曰太上皇,改金墉曰永昌宮。廢皇太孫臧為濮陽王。五星經天,縱橫無常。癸酉,倫害濮陽王 臧。」
〔三〕『晉書』孝惠帝(司馬衷)紀,永康元年:「夏四月辛卯,日有蝕之。癸巳,梁王肜、趙王倫矯詔廢賈后為庶人,司空張華、尚書僕射裴頠皆遇害,侍中賈謐及黨與數十人皆伏誅。」
〔四〕『晉書』張華伝 1068,1078:「張華字茂先,范陽方城人也。……。久之,論前後忠勳,進封壯武郡公。華十餘讓,中詔敦譬,乃受。」
「初,華所封壯武郡有桑化為柏,識者以為不祥。……遂害之於前殿馬道南,夷三族,朝野莫不悲痛之。時年六十九。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉惠帝永康元年四月丁巳,立皇孫臧為皇太孫。五月甲子,就東宮。桑又生於西廂。明年,趙倫篡位,鴆殺臧。此與愍懷同妖也。」「永康元年四月,壯武國有桑化為柏。是月,張華遇害。」

現代語訳

永康元年(300年)四月に,恵帝司馬衷の孫である司馬臧を立て皇太孫とした。五月甲子の日に,東宮に移った,また桑が西廂(棟)に生えた。明くる年,趙王司馬倫が篡位して,司馬臧を鴆毒で殺した。これは愍懷太子司馬遹の場合と同じ妖である。この月には,壯武國に桑が変化して柏となることがあり,張華は殺された。壯武は,張華の封邑である。

原文

孝懷帝永嘉二年冬,項縣桑樹有聲如解材,人謂之桑樹哭。案劉向說,「桑者喪也」,又為哭聲,不祥之甚。是時京師虛弱,胡寇交侵,東海王越無衞國之心,四年冬季而南出,五年春薨于此城。石勒邀其眾,圍而射之,王公以下至眾庶,死者十餘萬人。又剖越棺,焚其屍。是敗也,中原無所請命,洛京亦尋覆沒,桑哭之應也。

訓読

孝懷帝永嘉二年冬,項縣の桑樹聲有りて材を解くが如し,人之を桑樹哭くと謂ふ。劉向の說を案ずるに,「桑は喪なり」と〔一〕,又哭聲も為すは,不祥の甚なり。是の時京師虛弱にして,胡寇交ごも侵し,東海王越 國を衞るの心無く,四年冬季にして南に出で,五年春此の城に薨ず。石勒其の眾を邀(むか)え,圍みて之を射る,王公以下眾庶に至るまで,死者十餘萬人〔二〕。又た越の棺を剖きて,其の屍を焚く。是の敗や,中原命を請ふ所無し,洛京も亦た尋(つい)で覆沒す,桑哭の應なり。

〔一〕『漢書』五行志:「書序曰『伊陟相太戊,亳有祥桑穀共生。』傳曰『俱生乎朝,七日而大拱。伊陟戒以修德,而木枯。』劉向以為殷道既衰,高宗承敝而起,盡涼陰之哀,天下應之,既獲顯榮,怠於政事,國將危亡,故桑穀之異見。桑猶喪也,穀猶生也,殺生之秉失而在下,近草妖也。一曰,野木 生朝而暴長,小人將暴在大臣之位,危亡國家,象朝將為虛之應也。」
〔二〕『晋書』八王,東海王(司馬越)伝:「越專擅威權,圖為霸業,朝賢素望,選為佐吏,名將勁卒,充于己府,不臣之迹,四海所知。而公私罄乏,所在寇亂,州郡攜貳,上下崩離,禍結釁深,遂憂懼成疾。永嘉五年,薨于項。祕不發喪。以襄陽王範為大將軍,統其眾。還葬東海。石勒追及於苦縣甯平城,將軍錢端出兵距勒,戰死,軍潰。勒命焚越柩曰,「此人亂天下,吾為天下報之,故燒其骨以告天地。」於冬十月辛卯,晝昏,至于庚子。大星西南墜,有聲。壬寅,石勒圍倉垣,陳留內史王讚擊敗之,勒走河北。壬子,以驃騎將軍王浚為司空,平北將軍劉琨為平北大將軍。京師饑。東海王越羽檄徵天下兵,帝謂使者曰,「為我語諸征鎮,若今日,尚可救,後則無逮矣。」時莫有至者。石勒陷襄城,太守崔曠遇害,遂至宛。王浚遣鮮卑文鴦帥騎救之,勒退。浚又遣別將王申始討勒于汶石津,大破之。」
『晋書』孝懷帝(司馬熾)紀,永嘉五年:「五年春正月,帝密詔苟晞討東海王越。壬申,晞為曹嶷所破。乙未,越遣從事中郎將楊瑁、徐州刺史裴盾共擊晞。癸酉,勒入江夏,太守楊珉奔于武昌。乙亥,李雄攻陷涪城,梓潼太守譙登遇害。湘州流人杜弢據長沙反。戊寅,安東將軍、琅邪王睿使將軍甘卓攻鎮東將軍周馥于壽春,馥眾潰。庚辰,太保、平原王幹薨。二月,石勒寇汝南,汝南王祐奔建鄴。三月戊午,詔下東海王越罪狀,告方鎮討之。以征東大將軍苟晞為大將軍。丙子,東海王越薨。四月戊子,石勒追東海王越喪,及于東郡,將軍錢端戰死,軍潰,太尉王衍、吏部尚書劉望、廷尉諸葛銓、尚書鄭豫、武陵王澹等皆遇害,王公已下死者十餘萬人。東海世子毗及宗室四十八王尋又沒于石勒。賊王桑、冷道陷徐州,刺史裴盾遇害,桑遂濟淮,至于歷陽。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉孝懷帝永嘉三年冬,項縣桑樹有聲如解材,民謂之桑林哭。案劉向說,桑者喪也,又為哭聲,不祥之甚。是時京師虛弱,胡寇交逼,司馬越無衞上國之心,四年冬,委而南出,至五年春,薨于此城,石勒邀其眾,圍而射之,王公以下至庶人,死者十餘萬人,又剖越棺焚其尸。是敗也,中原無所請命,洛京尋沒。桑哭之應也。」

現代語訳

孝懷帝の永嘉二年(308年)冬,項県の桑の樹が木材がバラバラになるような音をたてた。人はこのことを桑樹が哭くといった。劉向の説を考えると「桑は喪である」といっている,そのうえ哭く声がするのは,不祥の甚しいものである。この時都(洛陽)は脆弱で,異民族が次々と侵略し,東海王司馬越は,国をまもる意志がなく,四年の冬の終わりに南に移り,五年の春にこの城で薨去した。石勒はその人々を待ち受けて,取り囲みこれを射た,王公から庶民に至るまで,死者は十万人以上にも及んだ。また司馬越の棺をあばき,その屍体を焚いた。この敗北により,中原には命令を伺う所もなく,洛陽もまたまもなく陥落した,桑が哭いたことの應である。

原文

六年五月,無錫縣有四株茱萸樹,相樛而生,狀若連理。先是,郭景純筮延陵蝘鼠,遇臨之益,曰「後當復有妖樹生,若瑞而非,辛螫之木也。儻有此,東西數百里必有作逆者。」及此木生,其後徐馥果作亂,亦草妖也。郭又以為「木不曲直」。

訓読

六年五月,無錫縣に四株の茱萸の樹有り,相ひ樛まりて生じ,狀は連理の若し。是れに先んじて,郭景純 延陵に蝘鼠を筮ふに〔一〕,「臨」の「益」に之くに遇ふ,曰く「後 當に復た妖樹生ず有るべし,瑞の若くして非なり,辛螫の木なり。儻いは此れ有るより,東西〔二〕數百里に必ず逆を作す者有り。」と。此に及び木 生じ,其の後 徐馥 果して亂を作す〔三〕,亦た草妖なり。郭又た以為く「木 曲直ならず」と。

〔一〕〔二〕『晉書』郭璞傳:「璞既過江,宣城太守殷祐引為參軍。時有物大如水牛,灰色卑腳。腳類象,胸前尾上皆白,大力而遲鈍,來到城下,眾咸異焉。祐使人伏而取之,令璞作卦,遇遯之蠱,其卦曰「艮體連乾,其物壯巨。山潛之畜,匪兕匪武。身與鬼并,精見二午。法當為禽,兩靈不許。遂被一創,還其本墅。按卦名之,是為驢鼠。」卜適了,伏者以戟刺之,深尺餘,遂去不復見。郡綱紀上祠,請殺之。巫云「廟神不悅,曰『此是䢼亭驢山君鼠,使詣荊山,暫來過我,不須觸之。』」其精妙如此。祐遷石頭督護,璞復隨之。時有鼯鼠出延陵,璞占之曰「此郡東當有妖人欲稱制者,尋亦自死矣。後當有妖樹生,然若瑞而非瑞,辛螫之木也。儻有此者,東南數百里必有作逆者,期明年矣。」無錫縣欻有茱萸四株交枝而生,若連理者,其年盜殺吳興太守袁琇。或以問璞,璞曰「卯爻發而沴金,此木不曲直而成災也。」」
『捜神記』巻七:「永嘉六年正月,無錫縣歘有四枝茱萸樹,相樛而生,狀若連理。先是,郭璞筮延陵蝘鼠,遇臨之益,曰「後當復有妖樹生,若瑞而非,辛螫之木也。儻有此,東西數百里必有作逆者。」及此生木,其後呉興徐馥作亂,殺太守袁琇。」」
〔三〕『晉書』孝愍帝紀:「建興三年(315)三年春正月,盜殺晉昌太守趙珮。吳興人徐馥害太守袁琇。以侍中宋哲為平東將軍,屯華陰。」
【参照】
『宋書』五行志:「永嘉六年五月,無錫縣有四株茱萸樹,相樛而生,狀若連理。先是,郭景純筮延陵偃鼠,遇臨之益,曰「後當復有妖樹生,若瑞而非,辛螫之木也。儻有此,東南數百里必有作逆者。」其後徐馥作亂。此草妖也,郭以為木不曲直。」

現代語訳

(永嘉)六年(312年)五月、無錫縣に四株のかわはじかみの樹が有り、どれも絡まって生えており、その状態は連理の枝のようであった。このことより前に、郭景純(郭璞)が延陵で蝘鼠を(筮竹で)占い,「臨」が「益」に変化するという卦を得た,「後に必ずふたたび妖しい樹が生えることがある,瑞徴のようであるのにそうではない,辛螫の木(刑罰の木)である。おそらくはこの(木が生えている)場所より,東西數百里の範囲に必ず反逆をおこす者があらわれる。」と言った。この時になり木が生え,その後 徐馥がやはり反乱をおこした,これもまた草妖である。郭景純(郭璞)は「木が曲直ではない」とする。

原文

其七月,豫章郡有樟樹久枯,是月忽更榮茂,與漢昌邑枯社復生同占。是懷愍淪陷之徵,元帝中興之應也。

訓読

其(永嘉六年)の七月,豫章郡に樟樹 久しく枯れたる有り,是の月 忽に更に榮茂す,漢の昌邑 枯社復生と同占なり〔一〕。是れ懷・愍 淪陷の徵,元帝 中興の應なり。

〔一〕『漢書』五行志第七中之下 草妖:「惠帝五年十月,桃李華,棗實。昭帝時,上林苑中大柳樹斷仆地,一朝起立,生枝葉,有蟲食其葉,成文字,曰「公孫病已立」。又昌邑王國社有枯樹復生枝葉。眭孟以為木陰類,下民象,當有故廢之家公孫氏從民間受命為天子者。昭帝富於春秋,霍光秉政,以孟妖言,誅之。後昭帝崩,無子,徵昌邑王賀嗣位,狂亂失道,光廢之,更立昭帝兄衞太子之孫,是為宣帝。帝本名病已。京房易傳曰「枯楊生稊,枯木復生,人君亡子。」」
【参照】
『宋書』五行志:「永嘉六年七月,豫章郡有樟樹久枯,是月忽更榮茂。與昌邑枯社復生同占。懷帝不終其祚,元帝由支族興之應也。」

現代語訳

その年の(永嘉六年:312)の七月,豫章郡に樟で長く枯れているものがあり,この月( 永嘉六年七月)に急にふたたび生い茂った,漢の昌邑王の社の古木がふたたび枝葉を生やしたことと同じ占断である。これは懷帝と愍帝がおちぶれることの徵候であり,元帝(司馬睿)中興の應である。

原文

明帝太寧元年九月,會稽剡縣木生如人面。是後王敦稱兵作逆,禍敗無成。昔漢哀成之世並有此妖,而人貌備具,故其禍亦大。今此但如人面而已,故其變也輕矣。

訓読

明帝 太寧元年九月,會稽剡縣に木 生じ人面の如し。是の後 王敦 兵を稱げ逆を作し,禍敗し成す無し。昔 漢の哀・成の世に並びに此の妖有りて,人貌 備具す,故に其の禍亦た大なり〔一〕。今 此れ但だ人面の如きのみ,故に其の變たるや輕し。

〔一〕『漢書』五行志第七中之下 草妖:「建昭五年,兗州刺史浩賞禁民私所自立社。山陽橐茅鄉社有大槐樹,吏伐斷之,其夜樹復立其故處。成帝永始元年二月,河南街郵樗樹生支如人頭,眉目須皆具,亡髮耳。哀帝建平三年十月,汝南西平遂陽鄉柱仆地,生支如人形,身青黃色,面白,頭有頿髮,稍長大,凡長六寸一分。京房易傳曰「王德衰,下人將起,則有木生為人狀。」」
【参照】
『宋書』五行志:「晉明帝太寧元年九月,會稽剡縣木生如人面。是後王敦稱兵作逆,禍敗無成。漢哀、靈之世,並有此妖,而人貌備具,故其禍亦大。今此但人面而已,故其變亦輕。」

現代語訳

明帝の太寧元年(323)九月に,會稽郡剡縣に生えた木が人面のようであった。この後に王敦が兵を挙げ反乱をおこし,失敗してなにも成しえなかった。昔 漢の哀帝・成帝の世にも共にこの怪異があり,人の容貌を欠くことなく具えていた,そのためその(怪異の)禍が甚だ大きかったのだ。今 これ(會稽剡縣の怪異)はわずかに人面のようなものだけだったので,その結果起こる異変は軽微だった。

原文

成帝咸和六年五月癸亥,曲阿有柳樹枯倒六載,是日忽復起生。至九年五月甲戌,吳縣吳雄家有死榆樹,是日因風雨起生,與漢上林斷柳起生同象。初,康帝為吳王,于時雖改封琅邪,而猶食吳郡為邑,是帝越正體饗國之象也。曲阿先亦吳地,象見吳邑雄之舍,又天意乎。

訓読

成帝 咸和六年五月癸亥,曲阿に柳樹 枯倒して六載なる有り,是の日 忽に復た起生す。九年五月甲戌に至りて,吳縣 吳雄家に死したる榆樹 有り,是の日 風雨に因り起生す,漢の上林の斷柳 起生す,と同象なり〔一〕。初め,康帝 吳王と為り,時に于いて琅邪に改封されると雖も,而れども猶ほ吳郡を食みて邑と為す,是れ帝 正體を越へて國を饗くるの象なり。曲阿は先に亦た吳地,象は吳邑 雄の舍に見る,又た天意なるかな!

〔一〕『漢書』昭帝紀 元鳳三年:「三年春正月,泰山有大石自起立,上林有柳樹枯僵自起生。」,顔師古「僵,偃也,謂樹枯死偃臥在地者也。僵音紀良反。」
『漢書』五行志第七中之下 草妖:「惠帝五年十月,桃李華,棗實。昭帝時,上林苑中大柳樹斷仆地,一朝起立,生枝葉,有蟲食其葉,成文字,曰「公孫病已立」。又昌邑 王國社有枯樹復生枝葉。眭孟以為木陰類,下民象,當有故廢之家公孫氏從民間受命為天子者。昭帝富於春秋,霍光秉政,以孟妖言,誅之。後昭帝崩,無子,徵昌邑王賀嗣位,狂亂失道,光廢之,更立昭帝兄衞太子之孫,是為宣帝。帝本名病已。京房易傳曰「枯楊生稊,枯木復生,人君亡子。」」
【参照】
『宋書』五行志:「晉成帝咸和六年五月癸亥,曲阿有柳樹倒地六載,是月忽復起生。咸和九年五月甲戌,吳雄家有死榆樹,是日因風雨起生。與漢上林斷柳起生同象。初,康帝為吳王,于時雖改封琅邪,而猶食吳郡為邑。是帝越正體饗國之象也。曲阿先亦吳地,象見吳邑雄舍,又天意也。」

現代語訳

成帝の咸和六年(331)五月癸亥,曲阿に柳の樹が枯れて倒れて六年になるものが有り,この日(和六年五月癸亥)突然 ふたたび起きあがって再生した。九年(334)五月甲戌になり,吳縣の吳雄家に枯死した榆の樹が有り,この日(九年五月甲戌)風雨のために起きあがり再生した,漢の上林の折れた柳が起きあがって再生することと同じ象である。最初に,康帝は吳王になり,今は改めて琅邪に封ぜられているとはいっても,まだ吳郡を食邑としたままである,これは康帝が正統な跡継ぎを越えて帝位を継承することの象である。曲阿はもとよりまた吳郡の土地であり,象は吳邑の雄の家にあらわれた,これもまた天意なのだ。

原文

哀帝興寧三年五月癸卯,廬陵西昌縣修明家有僵栗樹,是日忽復起生。時孝武年始四歲,俄而哀帝崩,海西即位,未幾而廢,簡文越自藩王,入纂大業,登阼享國,又不踰二年,而孝武嗣統。帝諱昌明,識者竊謂西昌修明之祥,帝諱實應焉。是亦與漢宣帝同象也。

訓読

哀帝 興寧三年五月癸卯,廬陵 西昌縣の修明の家に僵れた栗樹有り,是の日 忽に復た起生す。時に孝武の年 始まりて四歲,俄にして哀帝 崩じ,海西 即位す,未だ幾くならずして廢せらる,簡文越ゆること藩王自りし,入纂し大業をなす,登阼 享國するも,又た二年を踰えずして,孝武 統を嗣ぐ。帝の諱は昌明,識者 竊そかに謂ふに西昌・修明の祥は,帝の諱實に應ず。是れも亦た漢の宣帝と同象なり〔一〕。

〔一〕『漢書』五行志第七中之下 草妖:「惠帝五年十月,桃李華,棗實。昭帝時,上林苑中大柳樹斷仆地,一朝起立,生枝葉,有蟲食其葉,成文字,曰「公孫病已立」。又昌邑 王國社有枯樹復生枝葉。眭孟以為木陰類,下民象,當有故廢之家公孫氏從民間受命為天子者。昭帝富於春秋,霍光秉政,以孟妖言,誅之。後昭帝崩,無子,徵 昌邑王賀嗣位,狂亂失道,光廢之,更立昭帝兄衞太子之孫,是為宣帝。帝本名病已。京房易傳曰「枯楊生稊,枯木復生,人君亡子。」」
【参照】
『宋書』五行志:「晉哀帝興寧三年五月癸卯,盧陵西昌縣脩明家有死栗樹,是日忽起生。時孝武年四歲,而簡文居蕃,四海宅心。及得位垂統,則祚隆孝武。識者竊曰西昌脩明之祥,帝諱實應之矣。是與漢宣帝頗同象也。」

現代語訳

哀帝の興寧三年(365)五月癸卯,廬陵郡の西昌縣の修明の家に倒れた栗の樹があった,この日(興寧三年五月癸卯)急にふたたび起きあがって再生した。この時は孝武帝が生まれて四歳で,すぐに哀帝が崩御し,海西公が即位し,まもなく廢位された,簡文帝は藩王(という地位)を越えて,帝位に就き天下を治めた,帝位に就くも,また二年を越えずに,孝武帝があとを継いで統治した。孝武帝の諱は昌明である,有識者が考えることには,西昌と修明の吉祥というのは,孝武帝の諱実は対応していたのである。これもまた漢の宣帝と同じ象である。

原文

海西太和九年,涼州楊樹生松。天戒若曰「松者不改柯易葉,楊者柔脆之木,今松生於楊,豈非永久之業將集危亡之地邪。」是時張天錫稱雄於涼州,尋而降苻堅。

訓読

海西太和元年〔一〕,涼州の楊樹 松を生ず。天戒めて若くのごとく曰く「松は柯を改めず葉を易えず,楊は柔脆の木,今 松 楊に生ずるは,豈に永久の業 將に危亡の地に集(やす)んぜんとするに非ざるか。」と。是の時 張天錫 雄を涼州に稱し,尋ひで苻堅を降す〔二〕。

〔一〕斠注「晋書校文二曰,太和僅六年,九年顕譌。當従宋志作元年。」
中華書局本の注に「太和元年 「元」,各本誤作「九」,太和無九年,今從宋本。」とあり中華書局本は「元年」に改める。今是に従い改める。
〔二〕『晉書』廢帝海西公紀:「太和元年春二月己丑,以涼州刺史張天錫為大將軍・都督隴右關中諸軍事・西平郡公。夏四月,慕容暐將慕容塵寇竟陵,太守羅崇擊破之。苻堅將王猛寇涼州,張天錫距之,猛師敗績。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉海西太和元年,涼州楊樹生松。天戒若曰,松不改柯易葉,楊者柔脆之木,此永久之業,將集危亡之地。是後張天錫降氐。」

現代語訳

海西公(廃帝)の太和元年(366),涼州の楊の樹に松が生えた。天が戒めてこのように言った「松は枝葉を落とさない,楊は柔らかくよわよわしい木である,今 松が楊に生えるのは,(国家運営のような)永久の務めが危急存亡の地で安定しようとしているということではなかろうか。」と。この時 張天錫は涼州に覇権をたもっており,まもなく苻堅を破った。

原文

孝武太元十四年六月,建寧郡銅樂縣枯樹斷折,忽然自立相屬。京房易傳曰「棄正作淫,厥妖木斷自屬。妃后有專,木仆反立。」是時正道多僻,其後張夫人專寵,及帝崩,兆庶歸咎張氏焉。

訓読

孝武 太元十四年六月,建寧郡銅樂縣の枯樹斷折す,忽然として自立し相ひ屬く。京房易傳に曰く「正を棄て淫を作さば,厥の妖 木斷ちて自ら屬く。妃后專にすること有れば,木 仆れて反りて立つ。」と〔一〕 。是の時 正道 僻多く,其の後 張夫人寵を專にす,帝崩ずるに及び,兆庶 咎を張氏に歸す〔二〕。

〔一〕『漢書』五行志第七中之下 草妖:「哀帝建平三年,零陵有樹僵地,圍丈六尺,長十丈七尺。民斷其本,長九尺餘,皆枯。三月,樹卒自立故處。京房易傳曰「棄正作淫,厥妖木斷自屬。(師古曰「屬,連續也。音之欲反。」)妃后有顓,木仆反立,斷枯復生。(師古曰「顓謂專寵。」)天辟惡之。」(如淳曰「天辟,謂天子也。」師古曰「辟音壁。」)」
〔二〕『晉書』孝武帝紀 太元二十一年:「時張貴人有寵,年幾三十,帝戲之曰「汝以年當廢矣。」貴人潛怒,向夕,帝醉,遂暴崩。時道子昏惑,元顯專權,竟不推其罪人。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉孝武太元十四年六月,建寧同樂縣枯木斷折,忽然自立相屬。京房易傳曰「棄正作淫,厥妖木斷自屬。妃后有專,木仆反立。」是時治道方僻,多失其正。其後張夫人專寵,及帝崩,兆庶歸咎張氏焉。」

現代語訳

孝武帝の太元十四年(389)六月,建寧郡銅樂縣の枯れた樹が完全に折れ,突然に立ちあがりくっついた。『京房易傳』に「正道をすてて道に外れたことを行うと,その怪異は木が折れ自然とつながることである。妃后が寵愛を占有することがあれば,木が倒れても元に戻って立ちあがる。」とある。この時に正道がゆがめられることが多くあり,その後 張夫人(張貴人)が寵愛を占有し,孝武帝が崩御してから,民衆は(皇帝が崩御したのは)張氏のせいで あるとした。

原文

安帝元興三年,荊・江二州界竹生實,如麥。

訓読

安帝 元興三年,荊・江二州の界の竹 實生ず,麥の如し。

【参照】
『宋書』五行志:「晉安帝元興三年,荊・江二界生竹實如麥。」

現代語訳

安帝の元興三年(404)に,荊州と江州の二州の境界にある竹に実がついた,麦のようであった。

原文

義熙二年九月,揚武將軍營士陳蓋家有苦蕒菜,莖高四尺六寸,廣三尺二寸,厚三寸,亦草妖也。此殆與吳終同象。識者以為「苦蕒者,買勤苦也。」自後歲歲征討,百姓勞苦,是買苦也。十餘年中,姚泓滅,兵始戢,是苦蕒之應也。

訓読

義熙二年九月,揚武將軍營士 陳蓋の家に苦蕒菜有り,莖の高四尺六寸,廣三尺二寸,厚三寸,亦た草妖なり。此れ殆ど吳の終りと同象〔一〕。識者以為く「苦蕒は,勤苦を買ふなり。」と。自後歲歲征討し,百姓勞苦す,是れ買苦なり。十餘年中,姚泓滅び,兵始めて戢む,是れ苦蕒の應なり。

〔一〕『晋書』五行志・中 草妖:「天紀三年八月,建鄴有鬼目菜於工黃狗家生,依緣棗樹,長丈餘,莖廣四寸,厚二分。又有蕒菜生工吳平家,高四尺,如枇杷形,上圓,徑一尺八寸,莖廣五寸,兩邊生葉,綠色。東觀案圖,名鬼目作芝草,蕒菜作平慮,遂以狗為侍芝郎,平為平慮郎,皆銀印青綬。干寶,明年平吳,王濬止船正得平渚,姓名顯然,指事之徵也。黃狗者,吳以土運承漢,故初有黃龍之瑞。及其季年,而有鬼目之妖託黃狗之家。黃稱不改,而貴賤大殊,天道精微之應也。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉安帝義熙二年九月,揚州營揚武將軍營士陳蓋家有苦蕒菜,莖高四尺六寸,廣三尺二寸。此殆與吳終同象也。」

現代語訳

義熙二年(406)九月,揚武將軍の兵士 陳蓋の家に苦蕒菜(ニガナ)が生えていた,莖の高さは四尺六寸,幅は三尺二寸,厚さは三寸,これもまた草妖である。これは吳の末に起こった事とほぼ同じ現象である。有識者は「苦蕒は,たいへんな苦労を買うことだ。」と考えた。その後毎年討伐が行われ,民衆は疲弊し苦労した,これは「苦労を買う」ということだ。十数年のうちに,後秦の姚泓は滅ぼされ,戦争がようやく収束した,これは「苦労を買う」ということの應である。

原文

義熙中,宮城上及御道左右皆生蒺藜,亦草妖也。蒺藜有刺,不可踐而行。生宮牆及馳道,天戒若曰,人君不聽政,雖有宮室馳道,若空廢也,故生蒺藜。

訓読

義熙中,宮城の上及び御道の左右に皆な蒺藜〔一〕を生ず,亦た草妖なり。蒺藜刺有り,踐みて行く可からず。宮牆及び馳道に生ず,天戒めて若のごとく曰く「人君 聽政せず,宮室馳道有りと雖も,空廢が若きなり。故に蒺藜生ず。」と

〔一〕『周易』困:「六三。困于石,據于蒺蔾。入于其宮,不見其妻,凶。」
『春秋左傳正義』襄公二十五年:「據于蒺棃,所恃傷也。」
疏「兌為澤說卦文也。釋草云,茨蒺䔧。郭璞曰,布地,蔓生細葉子,有三角剌人。蒺䔧有剌,是草之險者踐之則被剌,故恃之則傷也。」
【参照】
『宋書』五行志:「義熙中,宮城上御道左右皆生蒺蔾。草妖也。蒺蔾有刺,不可踐而行,生宮牆及馳道,天戒若曰,人君拱默不能聽政,雖居宸極,猶若空宮,雖有御道,未嘗馳騁,皆生蒺蔾若空廢也。」

現代語訳

義熙中(405‐418)に,宮殿の城壁の上と皇帝の通る道の左右にどこも蒺藜(はまびし)が生えた,これもまた草妖である。蒺藜には棘が有り,踏んで進んではいくことができない。宮殿の城壁と皇帝の通る道に(蒺藜が)生えることを,天は戒めて「君主が政治を行わず,宮殿や皇帝の通る道が有るとはいっても,虚ろな廃墟のようなものだ,そのために蒺藜が生えた。」と言っている。

羽蟲之孼

原文

魏文帝黃初四年五月,有鵜鶘鳥集靈芝池。案劉向説,此羽蟲之孼,又青祥也。詔曰「此詩人所謂汙澤者也。曹詩『刺共公遠君子近小人』,今豈有賢智之士處于下位,否則斯鳥何爲而至哉。其博舉天下儁德茂才・獨行君子,以答曹人之刺。」於是楊彪・管寧之徒咸見薦舉,此所謂覩妖知懼者也。然猶不能優容亮直而多溺偏私矣。京房易傳曰「辟退有德,厥妖水鳥集于國中」。

訓読

魏文帝黃初四年五月,鵜鶘鳥の靈芝池に集る有り〔一〕。劉向の説を案ずるに,此れ羽蟲の孼,又た青祥なり。詔して曰はく「此れ詩人の所謂汙澤なる者なり〔二〕。曹の詩に『共公の君子を遠ざけ小人を近くするを刺る』と〔三〕,今豈に賢智の士 下位に處る有り,否からずんば則ち斯の鳥何爲れぞ至らんや。其れ博く天下の儁德の茂才・獨行の君子を舉げ,以て曹人の刺に答へん。」と。是に於いて楊彪・管寧の徒咸な薦舉せらる,此れ所謂妖を覩て懼るるを知る者なり。然るに猶ほ亮直を優容すること能はずして多く偏私に溺る。京房易傳に曰はく「辟 有德を退く,厥の妖 水鳥の國中に集う」〔四〕と。

〔一〕『三国志』魏書二 文帝紀 黄初四年:「夏五月,有鵜鶘鳥集靈芝池,詔曰「此詩人所謂污澤也。曹詩『刺恭公遠君子而近小人』,今豈有賢智之士處於下位乎。否則斯鳥何為而至。其博舉天下儁德茂才・獨行君子,以答曹人之刺。」」
〔二〕『漢書』巻二十七中之下 五行志 蠃蟲之孽:「昭帝時有鵜鶘或曰禿鶖,(師古曰「鵜鶘即汙澤也,一名淘河,腹下胡大如數升囊,好羣入澤中,抒水食魚,因名禿鶖,亦水鳥也。鵜音大奚反。鶘音胡。鶖音秋。」)集昌邑王殿下,王使人射殺之。」
〔三〕『詩経』國風 曹 候人:「候人。刺近小人也。共公遠君子而好近小人焉。(注:候人官名。)[疏:候人四章章四句至人焉○正義曰,首章上二句言其遠君子以下皆近小人也。此詩主刺君近小人以君子宜用而被遠小人應疏而卻近故經先言遠君子也。](中略)維鵜在梁,不濡其翼。(注:鵜,洿澤鳥也。梁,水中之梁。鵜在梁可謂不濡其翼乎。箋云鵜在梁當濡其翼而不濡者,非其常也。以喻小人在朝亦非其常。)」
〔四〕『漢書』巻二十七中之下 五行志 蠃蟲之孽:「昭帝時有鵜鶘或曰禿鶖,集昌邑王殿下,王使人射殺之。劉向以為水鳥色青,青祥也。時王馳騁無度,慢侮大臣,不敬至尊,有服妖之象,故青祥見也。野鳥入處,宮室將空。王不寤,卒以亡。京房易傳曰「辟退有德,厥咎狂,厥妖水鳥集于國中。(師古曰「辟,君也。」)」
【参照】
『宋書』巻三十二 火 羽蟲之孽:「魏文帝黃初四年五月,有鵜鵠鳥集靈芝池。案劉向説,此羽蟲之孽,又青祥也。詔曰「此詩人所謂汙澤者也。曹詩刺恭公遠君子,近小人。今豈有賢智之士,處于下位,否則斯鳥胡為而至哉。其博舉天下儁德茂才,獨行君子,以答曹人之刺。」於是楊彪・管寧之徒,咸見薦舉。此謂覩妖知懼者也。雖然不能優容亮直,而多溺偏私矣。京房易傳曰「辟退有德,厥妖水鳥集于國井。」」

現代語訳

魏の文帝黄初四年(223年)五月,鵜鶘(ペリカン)が霊芝池に群れて集まっていることがあった。劉向の説を参照してみると,これは羽蟲の孼(鳥のわざわい)であり,そのうえ青祥である。(文帝が)詔を下して「これは詩人が言うところの汙沢という鳥である。(『詩経』の)曹風の(「候人」の)詩に『共公が君子を遠ざけつまらないものを近づけていることを誹る』とあるが,今恐らく賢智を備えた人物が下風に立たされるということがあり,そうでなければどうしてこの鳥がやってくるだろうか。広く天下の優れた才徳の持ち主や志の高い君子を推挙して,曹人の風刺に応じよう。」と述べた。ここで楊彪や管寧などの人士がみな登用された,これはいわゆる怪異を見て恐れることを知ることである。しかしながら,依然として明亮で正直な人を優遇することができずに大抵えこひいきに陥っていた。京房の『易伝』に「君主が德のある人物を退ける,その怪異は水鳥が国中に集う」とある。

原文

黃初元年,未央宮中又有燕生鷹,口爪俱赤,此與商紂・宋隱同象。
景初元年,又有燕生巨鷇於衞國李蓋家,形若鷹,吻似燕,此羽蟲之孼,又赤眚也。高堂隆曰「此魏室之大異,宜防鷹揚之臣於蕭牆之内。」其後宣帝起誅曹爽,遂有魏室。

訓読

黄初元年,未央宮中に又た〔一〕燕の鷹を生む有り,口爪俱に赤し〔二〕,此れ商紂・宋隱と同象なり。
景初元年,又た燕の巨鷇を衞國の李蓋の家に生む有り,形 鷹の若し,吻 燕に似る,此れ羽蟲の孼,又た赤眚なり。高堂隆曰はく「此れ魏室の大異,宜しく鷹揚の臣を蕭牆の内に防ぐべし。」と〔三〕。其の後宣帝起ちて曹爽を誅し,遂に魏室を有つ〔四〕。

〔一〕『晋書斠注』では衍字であるとする。今これに従い,訳出しない。
〔二〕・〔三〕『三国志』巻二十五 魏書二十五 高堂隆伝:「臣觀黃初之際,天兆其戒,異類之鳥,育長燕巢,口爪胸赤,此魏室之大異也,宜防鷹揚之臣於蕭牆之内。……嘉平元年春正月甲午,天子謁高平陵,爽兄弟皆從。是日,太白襲月。帝于是奏永寧太后廢爽兄弟。」
〔四〕『晋書』巻一 宣帝紀:「爽・晏謂帝疾篤,遂有無君之心,與當密謀,圖危社稷,期有日矣。帝亦潛爲之備,爽之徒屬亦頗疑帝。」
【参照】
『宋書』巻三十二 火 羽蟲之孽:「黃初末,宮中有鷰生鷹,口爪俱赤。此與商紂・宋隱同象。」
「景初元年,又有鷰生鉅鷇於衞國涓桃里李蓋家。形若鷹,吻似燕。案劉向説,此羽蟲之孽,又赤眚也。高堂隆曰「此魏室之大異,宜防鷹揚之臣於蕭牆之内。」其後晉宣王起,遂有魏室。」

現代語訳

黄初元年(220年),未央宮の中で燕が鷹を生むことがあった,口と爪がともに赤く,これは商(殷)の紂王・宋隱(不詳)のときに起きたことと同じ現象である。
景初元年(237年),燕が巨大なひなを衛国の李蓋の家で生むことがあり,形は鷹のようで,吻(くちばし)は燕に似ていた,これは羽蟲の孼で,そのうえ赤眚でもある。高堂隆は「これは魏の皇室の大きな異変である,勢力が強い臣下をかこいの内側(のように近しい身内)から警戒したほうがよい。」と言った。その後(晋の)宣帝(司馬懿)が立って曹爽を誅し,その結果魏の皇室はたもたれた。

原文

漢獻帝建安二十三年,禿鶖鳥集鄴宮文昌殿後池。明年,魏武王薨。
魏文帝黃初三年,又集雒陽芳林園池。七年,又集。其夏,文帝崩。
景初末,又集芳林園池。已前再至,輒有大喪,帝惡之。其年,明帝崩。

訓読

漢獻帝建安二十三年,禿鶖鳥 鄴宮文昌殿の後池に集ふ〔一〕。明年,魏武王薨ず。
魏文帝黃初三年,又た雒陽芳林園池に集ふ。七年,又た集ふ。其の夏,文帝崩ず。
景初末,又た芳林園池に集ふ。已前再び至り,輒ち大喪有れば,帝之を惡む。其の年,明帝崩ず。

〔一〕『後漢書』志第十四 羽蟲孽:「魏志曰「二十三年,禿鶖集鄴宮文昌殿後池。」」
『漢書』巻二十七中之下 五行志 蠃蟲之孽:「昭帝時有鵜鶘或曰禿鶖(後略)」
【参考】
『宋書』巻三十二 火 羽蟲之孽:「漢獻帝建安二十三年,禿鶖鳥集鄴宮文昌殿後池。明年,魏武王薨。」

現代語訳

漢の献帝の建安二十三年(218年),禿鶖鳥(ペリカン)が鄴の宮殿である文昌殿の後ろにある池に集まった。明くる年,魏の武王(曹操)が亡くなった。
魏の文帝黄初三年(222年),また雒陽の芳林園の池に(禿鶖鳥)が集った。七年,また(禿鶖鳥が)集った。その夏,文帝が崩御した。
景初の末(239年),また芳林園の池に集った。これまでに(禿鶖鳥が)再びやってくると,そのたびにいつも大喪があったので,明帝は禿鶖鳥を嫌った。その年,明帝が崩御した。

原文

蜀劉禪建興九年十月,江陽至江州有鳥從江南飛渡江北,不能達墮水死者以千數。是時諸葛亮連年動衆,志吞中夏,而終死渭南,所圖不遂。又諸將分爭,頗喪徒旅,鳥北飛不能達墮水死者,皆有其象也。亮竟不能過渭,又其應乎。此與漢時楚國烏鬭墮泗水粗類矣。

訓読

蜀劉禪建興九年十月,江陽より江州に至るまで鳥の江南より江北に飛渡する有り,達すること能わずして水に墮ち死するもの千を以て數う〔一〕。是の時諸葛亮 連年衆を動かし,志 中夏を吞むも,而れども終に渭南に死し,圖る所遂げず。又た諸將分爭し,頗る徒旅を喪う,鳥の北のかた飛びて達すること能わずして水に墮ちて死する者は,皆な其の象有るなり。亮竟に渭を過ぐること能わず,又た其の應か。此れ漢の時楚國の烏 鬭いて泗水に墮すると粗ぼ類なり〔二〕。

〔一〕『三国志』蜀書 巻三十三 劉禅伝 建興九年条:「九年春二月,亮復出軍圍祁山,始以木牛運。魏司馬懿・張郃救祁山。夏六月,亮糧盡過軍,郃追至青封,與亮交戰,被箭死。秋八月,都護李平廢徙梓潼郡。」
裴松之注「漢晉春秋曰冬十月,江陽至江州有鳥從江南飛渡江北,不能達,墮水死者以千數。」
〔二〕『漢書』巻二十七之中 五行志 臝蟲之孽:「景帝三年十一月,有白頸烏與黑烏羣鬬楚國呂縣,白頸不勝,墮泗水中,死者數千。劉向以為近白黑祥也。時楚王戊暴逆無道,刑辱申公,與吳王謀反。烏羣鬬者,師戰之象也。白頸者小,明小者敗也。墮於水者,將死水地。王戊不寤,遂舉兵應吳,與漢大戰,兵敗而走,至於丹徒,為越人所斬,墮死於水之效也。京房易傳曰「逆親親,厥妖白黑烏鬬於國。」
【参考】
『宋書』巻三十二 火 羽蟲之孽:「蜀劉禪建興九年十月,江陽至江州有鳥從江南飛渡江北,不能達,墮水死者以千餘。是時諸葛亮連年動衆,志吞中夏,而終死渭南,所圖不遂。又諸將分爭,頗喪徒旅。鳥北飛不能達,墮水死,皆有其象也。亮竟不能過渭,又其應乎。此與漢・楚國烏鬭墮泗水觕類矣。」

現代語訳

蜀の劉禪の建興九年(231年)十月,江陽より江州に至るまで鳥が長江の南から北に飛んで渡ることが有り,到達できずに水に落ちて死ぬものが千を數えた。この時諸葛亮は連年大衆を動かし,中原を併呑することを目指していたが,とうとう渭水の南に死んで,企図したことを遂行できなかった。そのうえ諸將が分かれて爭い,あまたの兵を失った,鳥が北の方へ飛んで到達することができずに水に墮ちて死ぬのは,皆なその象が有ったのである。諸葛亮はついに渭水をこえることができなかった,またその應であろうか。これは漢の時に楚の國で烏が闘って泗水に落ち(呉楚七国の乱で楚が敗北し)たのとほぼ同じ出来事である。

原文

景初元年,陵霄闕始構,有鵲巢其上。鵲體白黑雜色,此羽蟲之孼,又白黑祥也。帝以問高堂隆,對曰「詩云『惟鵲有巢,惟鳩居之』,今興起宮室而鵲來巢,此宮室未成身不得居之象也。天戒若曰,宮室未成,將有他姓制御之,不可不深慮。」於是帝改顏動色。

訓読

景初元年,陵霄闕始めて構ふるに,鵲の巢其の上に巢くふ有り。鵲の體 白黑 色を雜ふ,此れ羽蟲の孼,又た白黑祥なり。帝以て高堂隆に問ふに,對へて曰はく「詩に云ふ『惟れ鵲巢有り,惟れ鳩之に居す』〔一〕と,今宮室を興起して鵲來たりて巢す,此れ宮室未だ成らず身之に居するを得ざるの象なり。天戒めて若くのごとく曰ふ,宮室未だ成らざるに,將に他姓の之を制御すること有らん,深慮せざるべからず。」と。是に於いて帝顏を改め色を動かす〔二〕。

〔一〕『詩経』國風 召南 鵲巢:「維鵲有巢。維鳩居之。之子于歸。百兩御之。(注:興也。鳩,鳲鳩。秸鞠也。鳲鳩不自爲巢,居鵲之成巢。箋云鵲之作巢,冬至架之)」
〔二〕『三國志』巻二十五 高堂隆傳:「陵霄闕始構,有鵲巢其上,帝以問隆,對曰「詩云『維鵲有巢,維鳩居之』。今興宮室,起陵霄闕,而鵲巢之,此宮室未成身不得居之象也。天意若曰,宮室未成,將有他姓制御之,斯乃上天之戒也。夫天道無親,惟與善人,不可不深防,不可不深慮。夏・商之季,皆繼體也,不欽承上天之明命,惟讒諂是從,廢德適欲,故其亡也忽焉。太戊・武丁,覩災竦懼,祗承天戒,故其興也勃焉。今若休罷百役,儉以足用,增崇德政,動遵帝則,除普天之所患,興兆民之所利,三王可四,五帝可六,豈惟殷宗轉禍為福而已哉。臣備腹心,苟可以繁祉聖躬,安存社稷,臣雖灰身破族,猶生之年也。豈憚忤逆之災,而令陛下不聞至言乎。」於是帝改容動色。」
【参照】
『宋書』巻三十二 火 羽蟲之孽:「魏明帝景初元年,陵霄閣始構,有鵲巢其上。鵲體白黑雜色。此羽蟲之孽,又白黑祥也。帝以問高堂隆,對曰「詩云『惟鵲有巢,惟鳩居之。』今興起宮室,而鵲來巢,此宮室未成,身不得居之之象。天意若曰,宮室未成,將有它姓制御之,不可不深慮。」於是帝改容動色。」

現代語訳

景初元年(237年),陵霄闕を始めて構えたところ,鵲(かささぎ)がその上に巣を作ることがあった。鵲の体は白と黒色が混ざっており,これは羽蟲の孼で,その上白黒祥である。明帝がこのことを高堂隆に問うと,答えて「詩に『鵲の巣が有り,鳩がそこにいる』といいます,今宮殿を建てたところに鵲が來て巣を作った,これは宮殿がまだ完成しないうちに御身が宮殿に住むことができないことの象徴です。天が戒めて言うには,宮殿がまだ完成しないうちに,(皇室と)異なる姓の人間が宮殿を支配しようとすることがあるだろう,深慮しなければならない,とのことです。」と言った。そこで明帝は態度と表情を改めた。

原文

呉孫權赤烏十二年四月,有兩烏銜鵲墮東館,權使領丞相朱據燎鵲以祭。案劉歆説,此羽蟲之孼,又黑祥也。視不明・聽不聰之罰也。是時權意溢德衰,信讒好殺,二子將危,將相俱殆,覩妖不悟,加之以燎,昧道之甚者也。明年,太子和廢,魯王霸賜死,朱據左遷,陸議憂卒,是其應也。東館,典教之府,鵲墮東館,又天意乎。

訓読

呉孫權赤烏十二年四月,兩烏の鵲を銜み東館に墮つること有りて,權 領丞相〔一〕の朱據をして鵲を燎き以て祭らしむ〔二〕。劉歆の説を案ずるに,此れ羽蟲の孼,又た黑祥なり。視の不明・聽の不聰の罰なり〔三〕。是の時權 意溢れ德衰え,讒を信じ殺すを好み〔四〕,二子將に危ふからんとし〔五〕,將相俱に殆し,妖を覩て悟らず,之に加ふるに燎を以てするは,昧道の甚しき者なり。明年,太子和 廢され,魯王霸 死を賜はり〔六〕,朱據左遷し〔七〕,陸議〔八〕憂卒す,是れ其の應なり。東館,典教の府,鵲の東館に墮つるは,又た天意か。

〔一〕注釈〔二〕で引く孫権伝では「驃騎將軍朱據領丞相」とあり、朱據が丞相を兼任していたことがわかるが、『晋書』では「領丞相」を一つの官職としたか。
〔二〕『三国志』巻四十七 呉書二 孫権伝 赤烏十二年:「十二年春三月,左大司馬朱然卒。四月,有兩烏銜鵲墮東館。丙寅,驃騎將軍朱據領丞相,燎鵲以祭。」
〔三〕『漢書』巻二十七中之下 五行志第七中之下 視羞 臝蟲之孽:「昭公二十五年「夏,有鸜鵒來巢」。劉歆以爲羽蟲之孽,其色黑,又黑祥也,視不明聽不聰之罰也。」
〔四〕『三国志』巻四十七 呉書二 孫権伝 太元二年:「評曰孫權屈身忍辱,任才尚計,有句踐之奇英,人之傑矣。故能自擅江表,成鼎峙之業。然性多嫌忌,果於殺戮,暨臻末年,彌以滋甚。至于讒説殄行,胤嗣廢斃,豈所謂貽厥孫謀以燕翼子者哉。其後葉陵遲,遂致覆國,未必不由此也。」
〔五〕『三国志』巻五十九 呉書十四 孫和伝:「殷基通語曰,初權既立和爲太子,而封霸爲魯王,初拜猶同宮室,禮秩未分。羣公之議,以爲太子・國王上下有序,禮秩宜異,於是分宮別僚,而隙端開矣。自侍御賓客造爲二端,仇黨疑貳,滋延大臣。丞相陸遜・大將軍諸葛恪・太常顧譚・驃騎將軍朱據・會稽太守滕胤・大都督施績・尚書丁密等奉禮而行,宗事太子,驃騎將軍步騭・鎮南將軍呂岱・大司馬全琮・左將軍呂據・中書令孫弘等附魯王,中外官僚將軍大臣舉國中分。權患之,謂侍中孫峻曰「子弟不睦,臣下分部,將有袁氏之敗,爲天下笑。一人立者,安得不亂。」於是有改嗣之規矣。」
〔六〕『三国志』巻四十七 呉書二 孫権伝 赤烏十三年八月条:「廢太子和,處故鄣。魯王霸賜死。冬十月,魏將文欽偽叛以誘朱異,權遣呂據就異以迎欽。異等持重,欽不敢進。十一月,立子亮爲太子。」
〔七〕『三国志』巻五十七 呉書十二 朱據伝:「赤烏九年,遷驃騎將軍。遭二宮搆爭,據擁護太子,言則懇至,義形于色,守之以死,遂左遷新都郡丞。未到,中書令孫弘譖潤據,因權寢疾,弘爲昭書追賜死,時年五十七。」
〔八〕『三国志』卷五十八 呉書十三 陸遜伝:「陸遜字伯言,呉郡呉人也。本名議,世江東大族。遜少孤,隨從祖廬江太守康在官。袁術與康有隙,將攻康,康遣遜及親戚還呉。遜年長於康子績數歳,爲之綱紀門戸。……先是,二宮並闕,中外職司,多遣子弟給侍。全琮報遜,遜以爲子弟苟有才,不憂不用,不宜私出以要榮利,若其不佳,終爲取禍。且聞二宮勢敵,必有彼此,此古人之厚忌也。琮子寄,果阿附魯王,輕爲交構。遜書與琮曰「卿不師日磾,而宿留阿寄,終爲足下門戸致禍矣。」琮既不納,更以致隙。及太子有不安之議,遜上疏陳「太子正統,宜有盤石之固,魯王藩臣,當使寵秩有差,彼此得所,上下獲安。謹叩頭流血以聞。」書三四上,及求詣都,欲口論適庶之分,以匡得失。既不聽許,而遜外生顧譚・顧承・姚信,並以親附太子,枉見流徙。太子太傅吾粲坐數與遜交書,下獄死。權累遣中使責讓遜,遜憤恚致卒,時年六十三,家無餘財。
【参照】
『宋書』巻三十二 火 羽蟲之孽:「呉孫權赤烏十二年四月,有兩烏銜鵲墮東館。權使領丞相朱據燎鵲以祭。案劉歆説,此羽蟲之孽,又黑祥也。視不明,聽不聰之罰也。是時權意溢德衰,信讒好殺,二子將危,將相俱殆。覩妖不悟,加之以燎,昧道之甚者也。明年,太子和廢,魯王霸賜死,朱據左遷,陸議憂卒,是其應也。東館,典教之府,鵲墮東館,又天意乎。」

現代語訳

呉の孫権の赤烏十二年(249)四月,二羽の烏が鵲(カササギ)を銜えた状態で東館に落下したことがあり,孫権は領丞相の朱據に鵲を焼いて祀らせた。劉歆の説を参照すると,これは羽蟲の孼で,その上黒祥である。視が明らかでなく聴が耳聡くないことの罰である。この時の孫権は心は驕り徳は衰え,讒言を信じて殺すことを好み,孫権の二人の子ども(孫和と孫覇)は今にも危険が迫っており,将軍と宰相はともに立場が危うく,怪異を見てもその意味するところを悟らず,そのうえ鵲を焼いて祀るのは,道理に暗いことこの上ないのである。明くる年,太子の孫和は廃され,魯王の孫霸は死を賜わり,朱據は左遷され,陸議(陸遜)は失意のうちに死んだ,これはその応である。東館は,典範と教訓の集まる所で,鵲が東館に落下したのは,これもまた天意だろうか。

原文

呉孫權太元二年正月,封前太子和爲南陽王,遣之長沙,有鵲巢其帆檣。和故宮僚聞之,皆憂慘,以爲檣末傾危,非久安之象。是後果不得其死。

訓読

呉孫權太元二年正月,前太子和を封じて南陽王と爲し,之を長沙に遣はすに〔一〕,鵲の其の帆檣に巢くう有り。和の故の宮僚 之を聞くや,皆な憂慘し,以爲へらく檣末傾危たり,久安に非ざるの象と。是の後果して其の死を得ず〔二〕。

〔一〕『三国志』巻四十七 呉書二 孫権伝 太元二年条:「二年春正月,立故太子和爲南陽王,居長沙,子奮爲齊王,居武昌,子休爲瑯邪王,居虎林。二月,大赦,改元爲神鳳。皇后潘氏薨。諸將吏數詣王表請福,表亡去。夏四月,權薨,時年七十一,諡曰大皇帝。秋七月,葬蔣陵。」
〔二〕『三国志』巻五十九 呉書十四 孫和伝:「太元二年正月,封和爲南陽王,遣之長沙。」
裴松之注「呉書曰,和之長沙,行過蕪湖,有鵲巢于帆檣,故官寮聞之皆憂慘,以爲檣末傾危,非久安之象。或言鵲巢之詩有「積行累功以致爵位」之言,今王至德茂行,復受國土,儻神靈以此告寤人意乎。」
「四月,權薨,諸葛恪秉政。恪即和妃張之舅也。妃使黃門陳遷之建業上疏中宮,并致問於恪。臨去,恪謂遷曰「爲我達妃,期當使勝他人。」此言頗泄。又恪有徙都意,使治武昌宮,民間或言欲迎和。及恪被誅,孫峻因此奪和璽綬,徙新都,又遣使者賜死。」
【参照】
『宋書』巻三十二 火 羽蟲之孽:「呉孫權太元二年正月,封前太子和爲南陽王,遣之長沙。有鵲巢其帆檣。和故宮僚聞之,皆憂慘,以爲檣末傾危,非久安之象。是後果不得其死。」

現代語訳

呉の孫権の太元二年(252)正月,先の太子の孫和を封じて南陽王とし,孫和を長沙に追いやったが,鵲がその(長沙に行く)船の帆柱の上に巣を作ることがあった。元々の孫和の側仕えたちはこのことを聞くと,皆な憂苦し,帆柱の先端は傾いて危険であり,安泰ではないことの象徴と考えた。そののち結局天寿を全うすることができなかった。

原文

孫亮建興二年十一月,有大鳥五見于春申,呉人以爲鳳皇。明年,改元爲五鳳。漢桓帝時有五色大鳥,司馬彪云「政道衰缺,無以致鳳,乃羽蟲孼耳。」孫亮未有德政,孫峻驕暴方甚,此與桓帝同事也。案瑞應圖,大鳥似鳳而為孼者非一,宜皆是也。

訓読

孫亮建興二年十一月,大鳥の五たび春申に見るる有り〔一〕,呉人以爲らく鳳皇と。明年,改元して五鳳と爲す。漢の桓帝の時に五色の大鳥有り,司馬彪云ふ「政道衰缺し,以て鳳を致す無し,乃ち羽蟲の孼なるのみ。」と〔二〕。孫亮未だ德政有らず,孫峻の驕暴方に甚し〔三〕,此れ桓帝と同事なり。瑞應圖〔四〕を案ずるに,大鳥 鳳に似るも孼爲る者一に非ず,宜しく皆な是れなるべし。

〔一〕『三国志』巻四十八 呉書 孫亮 建興二年:「冬十月,大饗。武衞將軍孫峻伏兵殺恪於殿堂。大赦。以峻為丞相,封富春侯。十一月,有大鳥五見于春申,明年改元。」
〔二〕『後漢書』志第十四 五行二 羽蟲孽:「桓帝元嘉元年十一月,五色大鳥見濟陰己氏。時以爲鳳皇。此時政治衰缺,梁冀秉政阿枉,上幸亳后,皆羽孽時也。……章帝末,號鳳皇百四十九見。時直臣何敞以爲羽孽似鳳,翺翔殿屋,不察也。記者以爲其後章帝崩,以爲驗。案宣帝・明帝時,五色鳥羣翔殿屋,賈逵以爲胡降徵也。帝多善政,雖有過,不及至衰缺,末年胡降二十萬口,是其驗也。帝之時,羌胡外叛,讒慝内興,羽孽之時也。樂叶圖徵説五鳳皆五色,爲瑞者一,爲孽者四。」
〔三〕『三国志』巻六十四 呉書十九 孫峻伝:「孫峻字子遠,孫堅弟靜之曾孫也。靜生暠。暠生恭,為散騎侍郎。恭生峻。少便弓馬,精果膽決。孫權末,徙武衞都尉,爲侍中。權臨薨,受遺輔政,領武衞將軍,故典宿衞,封都鄉侯。既誅諸葛恪,遷丞相大將軍,督中外諸軍事,假節,進封富春侯。……峻素無重名,驕矜險害,多所刑殺,百姓囂然。又姦亂宮人,與公主魯班私通。五鳳元年,吳侯英謀殺峻,英事泄死。」
〔四〕『隋書』巻三十四 経籍志 子「五行」:「瑞應圖三卷、瑞圖讚二卷(注)梁有孫柔之瑞應圖記、孫氏瑞應圖贊各三卷,亡。」
敦煌出土ペリオ文書No2683や松浦史子『漢魏六朝における『山海経』の受容とその展開』(汲古書院、2012)を参照
【参考】
『宋書』巻三十二 火 羽蟲之孽:「呉孫亮建興二年十一月,大鳥五見于春申。呉人以爲鳳皇,明年,改元爲五鳳。漢桓帝時,有五色大鳥。司馬彪云「政治衰缺,無以致鳳,乃羽蟲孽耳。」孫亮未有德政,孫峻驕暴方甚,此與桓帝同事也。案瑞應圖,大鳥似鳳而為孽者非一,疑皆是也。」

現代語訳

孫亮の建興二年(253)十一月,大鳥が五回春申に現れることがあり,呉の人はこれを鳳凰であると考えた。明くる年,改元して五鳳とした。後漢の桓帝の時に五色の大鳥が現れることがあり,司馬彪は「政道は廃れ,鳳凰を招き寄せる方法が無い,まさに羽蟲の孼なのである。」と評した。孫亮は未だ徳政を敷かず,孫峻の驕り昂ぶり横暴であることは今まさにひどくなっていて,これは桓帝のときと同じである。『瑞應圖』を参照すると,大鳥とは鳳凰に似ているが孼であり鳳凰と同じ鳥ではない,すべて(孼である)大鳥であるとするのが妥当だろう。

原文

孫晧建衡三年,西苑言鳳皇集,以之改元,義同於亮。

訓読

孫晧建衡三年,西苑言えらく鳳皇の集ふと,之を以て改元す〔一〕,義 亮に同じ。

〔一〕『三国志』巻四十八 呉書 孫晧伝 建衡三年:「西苑言鳳凰集,改明年元。」
この翌年から元号は鳳凰となる。
【参考】
『宋書』巻三十二 火 羽蟲之孽:「呉孫晧建衡三年,西苑言鳳皇集,以之改元。義同於亮。」

現代語訳

孫晧の建衡三年(271),西の御苑の官吏が鳳凰が集まっていると申し上げたので,これを以て改元した,その意味するところは孫亮のときと同じである。

原文

武帝泰始四年八月,有翟雉飛上閶闔門。天戒若曰,「閶闔門非雉所止,猶殷宗雉登鼎耳之戒也。」

訓読

武帝の泰始四年八月,翟雉飛びて閶闔門に上る有り。天戒めて若くのごとく曰く,「閶闔門は雉の止まる所に非ず,猶ほ殷宗の雉の鼎耳に登るの戒のごときなり。」と。〔一〕

〔一〕『史記』殷本紀:「帝武丁祭成湯,明日,有飛雉登鼎耳而呴,武丁懼。祖己曰「王勿憂,先修政事。」祖己乃訓王曰,「唯天監下典厥義,降年有永有不永,非天夭民,中絕其命。民有不若德,不聽罪,天既附命正厥德,乃曰其奈何。嗚呼,王嗣敬民,罔非天繼,常祀毋禮于弃道。」武丁修政行德,天下咸驩,殷道復興。帝武丁崩,子帝祖庚立。祖己嘉武丁之以祥雉爲德,立其廟爲高宗,遂作高宗肜日及訓。」
『尚書』商書・高宗肜日:「高宗祭成湯,有飛雉升鼎耳而雊。祖己訓諸王,作高宗肜日・高宗之訓・高宗肜日。」
【参照】
『宋書』五行志三:「晉武帝泰始四年八月,翟雉飛上閶闔門。……昔殷宗感雉雊,懼而修德,倫覩二物,曾不知戒,故至滅亡也。」

現代語訳

武帝の泰始四年(268 年)八月,翟雉(キジ)が飛んで閶闔門に登った。天は戒めて、「閶闔門は雉の止まる所ではない,これはちょうど殷の高宗の時に雉が鼎の耳に登った戒めのようである。」といった。

原文

惠帝永康元年,趙王倫既篡,京師得異鳥,莫能名。倫使人持出,周旋城邑帀以問人。積日,宮西有小兒見之,逆自言曰「服留鳥。」翳。持者卽還白倫,倫使更求,又見之,乃將入宮。密籠鳥,幷閉小兒戶中,明日視之,悉不見。此羽蟲之孼。時趙王倫有目瘤之疾。言服留者,謂倫留將服其罪也。尋而倫誅。

訓読

惠帝の永康元年,趙王倫既に篡ふ〔一〕に,京師 異鳥を得るも,能く名づくる莫し。倫 人をして持ち出し,城邑を周旋して帀(めぐ)り以て人に問はしむ。積日,宮の西に小兒之れを見る有り,逆(むか)へて自ら言ひて曰く「服留鳥。」と。翳なり。持者卽ち還りて倫に白(もう)し,倫更に求めしめ,又た之れを見るに,乃ち將に宮に入らんとす。籠に鳥を密(と)じ,幷びに小兒を戶中に閉じ,明日之れを視るに,悉く見えず。此れ羽蟲の孼。時に趙王倫 目瘤の疾有り。〔二〕服留と言うは,倫留まりて將に其の罪に服せんとするを謂うなり。尋いで倫誅せらる。〔三〕

〔一〕『晉書』孝惠帝紀:「永寧元年春正月乙丑,趙王倫篡帝位。」
〔二〕『晉書』趙王倫傳:「又倫於殿上得異鳥,問皆不知名,累日向夕,宮西有素衣小兒言是服劉鳥。倫使錄小兒幷鳥閉置牢室,明旦開視,戶如故,並失人鳥所在。倫目上有瘤,時以爲妖焉。」
〔三〕『晉書』孝惠帝紀:「(永寧元年夏四月癸亥)誅趙王倫・義陽王威・九門侯質等及倫之黨與。」
『晉書』趙王倫傳:「梁王肜表倫父子凶逆,宜伏誅。百官會議于朝堂,皆如肜表。遣尚書袁敞持節賜倫死, 飲以金屑苦酒。倫慚,以巾覆面,曰「孫秀誤我,孫秀誤我。」」
『捜神記』卷十七:「晉惠帝永康元年,京師得異鳥,莫能名。趙王倫使人持出,周旋城邑市以問人。卽日,宮西有一小兒見之,遂自言曰「服留鳥。」持者還白倫。倫使更求,又見之。乃將入宮,密籠鳥,幷閉小兒於戶中。明日往視,悉不復見。」
【参照】
『宋書』五行志三:「趙倫既篡,洛陽得異鳥,莫能名。倫使人持出,周旋城邑匝以問人。積日,宮西有小兒見之,逆自言曰「服留鳥。」翳。持者卽還白倫。倫使更求小兒。至,又見之,將入宮,密籠鳥,閉兒戶中。明日視,悉不見。此羽蟲之孽,又妖之甚者也。」

現代語訳

恵帝の永康元年(300 年),趙王(司馬)倫が既に(帝位を)簒奪すると,京師に異鳥が現れたが,名前がわからなかった。(司馬)倫は(鳥を)持ち出させ,城邑をめぐって人々 に尋ねさせた。日数を経て,宮の西で子どもがこれを見て,推し量って自ら「服留鳥だ。」といった。翳(という鳥)のことである。持者はただちに戻って(司馬)倫に申し上げ,(司馬)倫は再び(子どもを)探させ,さらに子どもを見ると,ちょうど宮に入ろうとしているところであった。籠に鳥を閉じこめ,一緒に子どもを戸の中に閉じこめて,翌日これを視ると,みないなくなっていた。これは羽蟲の孼である。当時趙王倫には目の瘤という病気があった。(子どもがいった)服留というのは,(司馬)倫が(帝位に)留まりその罪に服することをいうのである。まもなく(司馬)倫は殺された。

原文

趙王倫篡位,有鶉入太極殿,雉集東堂。天戒若曰「太極・東堂皆朝享聽政之所,而鶉・雉同日集之者,趙王倫不當居此位也。『詩』云「鵲之疆疆,鶉之奔奔,人之無良,我以爲君。」其此之謂乎。」尋而倫滅。

訓読

趙王倫位を篡ふに,鶉 太極殿に入り,雉 東堂に集(とど)まる有り。〔一〕天戒めて若くのごとく曰く「太極・東堂皆な朝享〔二〕聽政の所にして,鶉・雉同日之れに集まるは,趙王倫當に此の位に居るべからざるなり。『詩』に云ふ「鵲の疆疆たり,鶉の奔奔たり,人の良無し,我れ以て君と爲す。」と。〔三〕其れ此れの謂ひか。」と。尋いで倫滅す。

〔一〕『晉書』趙王倫傳:「時有雉入殿中,自太極東階上殿,驅之,更飛西鍾下,有頃,飛去。」
〔二〕『周禮』司尊彝:「凡四時之間祀,追享・朝享。」
〔三〕『毛詩』鄘風、鶉之奔奔:「鶉之奔奔,刺衛宣姜也。衛人以爲宣姜鶉鵲之不若也。鶉之奔奔,鵲之彊彊,人之無良,我以爲兄。鵲之彊彊,鶉之奔奔,人之無良,我以爲君。
【参照】
『宋書』五行志三:「趙倫篡位,有鶉入太極殿,雉集東堂。按太極・東堂,皆朝享聽政之所,而鶉・雉同日集之者,天意若曰,不當居此位也。『詩』云「鵲之疆疆,鶉之奔奔。人之無良,我以爲君」。其此之謂乎。昔殷宗感雉雊,懼而修德,倫覩二物,曾不知戒,故至滅亡也。」

現代語訳

趙王倫が帝位を簒奪すると,鶉が太極殿に入り,雉が東堂にとどまるということがあっ た。天は戒めてこのようにいう,「太極・東堂はいずれも政務を執り行う場所であって, 鶉と雉が同じ日にこの場に集まるというのは,趙王倫が(帝)位にいるべきではないという意味に違いない。『詩』には「鵲が飛び,鶉が走る,人の品行も(どちらも非常に荒っぽく雌が雄をさそう鵲や鶉のように)よくない,私はそのような人を国夫人とするとは。」という。このことを言っているのか。」と。まもなく(司馬)倫は滅んだ。

原文

孝懷帝永嘉元年二月,洛陽東北步廣里地陷,有蒼白二色鵝出,蒼者飛翔沖天,白者止焉。此羽蟲之孼,又黑白祥也。陳留董養曰「步廣,周之狄泉,盟會地也。白者,金色,國之行也。蒼爲胡象,其可盡言乎。」是後,劉元海・石勒相繼亂華。

訓読

孝懷帝の永嘉元年二月,洛陽の東北步廣里の地陷(おちい)り〔一〕,蒼白二色の鵝出づる有り,蒼なる者沖天に飛翔し,白なる者焉に止まる。此れ羽蟲の孼,又た黑白祥なり。陳留の董養曰く「步廣は,周の狄泉,盟會の地なり。〔二〕白なる者は,金の色,國の行なり。蒼は胡の象爲り,其れ言を盡くすべけんや。」と。〔三〕是の後,劉元海・石勒相ひ繼いで華を亂す。〔四〕

〔一〕『晉書』五行志下:「懷帝永嘉元年三月,洛陽東北步廣里地陷。」
『宋書』五行志五:「晉孝懷帝永嘉元年三月,洛陽東北步廣里地陷。」
〔二〕『春秋左氏傳』昭公傳三十二年:「冬十一月,晉魏舒,韓不信,如京師,合諸侯之大夫于狄泉。尋盟,且令城成周。」
『春秋左氏傳』定公傳元年:「傳元年春王正月辛巳。晉魏舒合諸侯之大夫于狄泉。將以城成周。」
『春秋公羊傳』僖公二十九年:「夏六月,公會王人・晉人・宋人・齊人・陳人・蔡人・秦人,盟于狄泉。」
〔三〕『晉書』孝懷帝紀:「(永嘉元年夏五月)洛陽步廣里地陷,有二鵝出,色蒼者沖天,白者不能飛。建寧郡夷攻陷寧州,死者三千餘人。」
『晉書』董養傳:「永嘉中,洛城東北步廣里中地陷,有二鵝出焉,其蒼者飛去,白者不能飛。養聞歎曰「昔周時所盟會狄泉,卽此地也。今有二鵝,蒼者胡象,白者國家之象,其可盡言乎。」顧謂謝鯤・阮孚曰「易稱知機其神乎,君等可深藏矣。」乃與妻荷擔入蜀,莫知所終。」
『北堂書抄』卷七十九・説官部・考廉:「董養歎鵞(注:王隠晉書石瑞記云「洛城内東北角步廣里中地陷,中有二鵞,其一蒼者飛去,其一白者不能飛。問之博士不能對。陳留前孝廉浚儀董養字仲道聞而歎曰,「昔周所盟會狄泉,卽此地也。今有二鵝,蒼有胡象,後胡當入海。白者不能飛,此國諱也。」」
〔四〕『晉書』劉元海載記:「劉元海,新興匈奴人,冒頓之後也。名犯高祖廟諱,故稱其字焉。……永嘉二年,元海僭卽皇帝位,大赦境內,改元永鳳。」
『晉書』石勒載記:「石勒字世龍,初名㔨,上黨武鄉羯人也。其先匈奴別部羌渠之冑。……及元海僭號,遣使授勒持節・平東大將軍,校尉・都督・王如故。勒幷軍寇鄴,鄴潰,和郁奔于衞國。執魏郡太守王粹于三臺。進攻趙郡,害冀州西部都尉馮沖。攻乞活赦亭・田禋于中丘, 皆殺之。元海授勒安東大將軍・開府,置左右長史・司馬・從事中郎。……羣臣固請勒宜卽尊號,勒乃僭卽皇帝位,大赦境內,改元曰建平,自襄國都臨漳。」
【参照】
『宋書』五行志三:「晉孝懷帝永嘉元年二月,洛陽東北步廣里地陷,有鵝出,蒼色者飛翔沖天,白者止焉。此羽蟲之孽,又黑白祥也。董養曰「步廣,周之狄泉,盟會地也。白者金色,蒼爲胡象,其可盡言乎。」是後劉淵・石勒相繼擅華,懷・愍二帝淪滅非所。」

現代語訳

孝懷帝の永嘉元年(307年)二月,洛陽の東北にある步廣里の地面が陷沒し,蒼白二色のガチョウが出現した,蒼黑いガチョウは天高く飛翔し,白いガチョウはその場にとどまった。これは羽蟲の孼であり,黑白祥でもある。陳留の董養が「步廣は,周の狄泉のことであり,盟會の地である。白というのは,(五行の)金の色で,(晉)國の五行である。蒼は胡の象であり,何を意味しているかは言うまでもない。」といった。その後,劉元海や石勒が相い繼いで中華を亂した。

原文

明帝太寧三年八月庚戌,有大鳥二,蒼黑色,翼廣一丈四尺。其一集司徒府,射而殺之,其一集市北家人舍,亦獲焉。此羽蟲之孼,又黑祥也。及閏月戊子而帝崩,後遂有蘇峻・祖約之亂。

訓読

明帝の太寧三年八月庚戌,大鳥二有り,蒼黑色,翼の廣一丈四尺なり。其の一は司徒府に集(とど)まり,射て之を殺す。其の一は市の北の家人舍に集まり,亦た焉(これ)を獲。此れ羽蟲の孼,又た黑祥なり。閏月戊子に及びて帝崩じ,〔一〕後遂に蘇峻・祖約の亂有り。〔二〕

〔一〕『晉書』明帝紀:「(太寧三年閏月)戊子,帝崩于東堂,年二十七,葬武平陵,廟號肅祖。」
〔二〕『晉書』成帝紀:「(咸和二年)十一月,豫州刺史祖約・歷陽太守蘇峻等反。」
【参照】
『宋書』五行志三:「晉明帝太寧三年八月庚戌,有鳥二,蒼黑色,翼廣一丈四尺。其一集司徒府,射而殺之。其一集市北家人舍,亦獲焉。此羽蟲之孽,又黑祥也。閏月戊子,帝崩。後有蘇峻・祖約之亂。」

現代語訳

明帝の太寧三年(325年)八月庚戌に,大鳥が二羽おり,蒼黑色,翼の長さが一丈四尺であった。そのうち一羽は司徒府にとどまったので,これを射殺した。もう一羽は市の北側の平民の家にとどまり,これも獲た。これが羽蟲の孼であり,さらに黑祥である。閏月戊子になって帝が崩御し,後とうとう蘇峻・祖約の亂があった。

原文

成帝咸和二年正月,有五鷗鳥集殿庭,此又白祥也。是時庾亮苟違眾謀,將召蘇峻,有言不從之咎,故白祥先見也。三年二月,峻果作亂,宮掖焚毀,化爲汙萊,此其應也。

訓読

成帝の咸和二年正月,五鷗鳥 殿庭に集う有り,此れ又た白祥なり。是の時庾亮苟くも眾謀に違ひ,將に蘇峻を召さんとし,言の不從の咎有り,故に白祥先ず見はるるなり。〔一〕三年二月,峻果たして亂を作し,宮掖焚毀し,化して汙萊と爲る,〔二〕此れ其の應なり。

〔一〕『晉書』王導傳:「庾亮將徵蘇峻,訪之於導。導曰「峻猜險,必不奉詔。且山藪藏疾,宜包容之。」固爭不從。亮遂召峻。」
『晉書』蘇峻傳:「時明帝初崩,委政宰輔,護軍庾亮欲徵之。」
〔二〕『晉書』成帝紀:「(咸和三年)二月庚戌,峻至于蔣山。假領軍將軍卞壼節,帥六軍,及峻戰于西陵,王師敗績。丙辰,峻攻青溪柵,因風縱火,王師又大敗。尚書令・領軍將軍卞壼,丹楊尹羊曼,黃門侍郎周導,廬江太守陶瞻並遇害,死者數千人。庾亮又敗于宣陽門內,遂攜其諸弟與郭默・趙胤奔尋陽。於是司徒王導・右光祿大夫陸曄・荀崧等衞帝于太極殿,太常孔愉守宗廟。賊乘勝麾戈接於帝座,突入太后後宮,左右侍人皆見掠奪。是時太官唯有燒餘米數石,以供御膳。百姓號泣,響震都邑。丁巳,峻矯詔大赦,又以祖約爲侍中・太尉・尚書令,自爲驃騎將軍・錄尚書事。吳郡太守庾冰奔于會稽。」
【参照】
『宋書』五行志三:「晉成帝咸和二年正月,有五鷗鳥集殿庭。此又白祥也。是時庾亮苟違眾謀,將召蘇峻,有言不從之咎,故白祥先見也。三年二月,峻果作亂,宮室焚毀,化爲汙萊,其應也。」

現代語訳

成帝の咸和二年(327年)正月,五羽の鷗が宮殿のきざはし前の庭に集まった,これもまた白祥である。この時庾亮は一時的に人々の意見と違い,蘇峻を召し出そうとし,言の不從の咎があった,だから白祥がまず現れたのである。(咸和)三年二月,蘇峻はとうとう亂を起こし,後宮は焼き崩れ,燃えて荒れ果てた,これはその應である。

原文

咸康八年七月,有白鷺集殿屋。是時康帝始卽位,不永之祥也。後涉再朞而帝崩。案劉向曰,「野鳥入處,宮室將空。」此其應也。

訓読

咸康八年七月,白鷺 殿屋に集まる有り。是の時康帝始めて卽位する〔一〕も,永からざるの祥なり。後再朞〔二〕に涉りて帝崩ず。〔三〕案ずるに劉向曰く,「野鳥入處すれば,宮室將に空ならんとす。」と。〔四〕此れ其の應なり。

〔一〕『晉書』康帝紀:「康皇帝諱岳,字世同,成帝母弟也。咸和元年封吳王,二年徙封琅邪王。九年拜散騎常侍,加驃騎將軍。咸康五年遷侍中・司徒。八年六月庚寅,成帝不悆,詔以琅邪王爲嗣。癸巳,成帝崩。甲午,卽皇帝位,大赦。」
〔二〕『禮記』喪服小記:「再期之喪、三年也。期之喪、二年也。九月七月之喪、三時也。五月之喪、二時也。三 月之喪、一時也。故期而祭、禮也。期而除喪、道也。祭不爲除喪也。」
〔三〕『晉書』康帝紀:「(建元二年九月)戊戌,帝崩于式乾殿,時年二十三,葬崇平陵。」
〔四〕『漢書』五行志中之下:「昭帝時有鵜鶘或曰禿鶖,集昌邑王殿下,王使人射殺之。劉向以爲水鳥色青,青祥也。 時王馳騁無度,慢侮大臣,不敬至尊,有服妖之象,故青祥見也。野鳥入處,宮室將空。王不寤,卒以亡。京房『易傳』曰「辟退有德,厥咎狂,厥妖水鳥集于國中。」」
【参照】
『宋書』五行志三:「晉成帝咸康八年七月,白鷺集殿屋。是時康帝始卽位,此不永之祥也。後涉再朞而帝 崩。劉向曰「野鳥入處,宮室將空。」張瓘在涼州正朝,放隹雀諸鳥,出手便死。左右放者悉飛去。」

現代語訳

咸康八年(342年)七月,白鷺が宮中の建物にとどまっていた。この時は康帝が卽位したばかりだったが,(康帝の治世が)永くないことの祥である。後三年の喪を經て康帝は崩御した。考えてみるに,劉向が「野鳥が入りとどまれば,宮室は空っぽになるだろう。」といった。これはその應である。

原文

海西公初以興寧三年二月卽位,有野雉集于相風。此羽蟲之孼也。尋爲桓溫所廢也。

訓読

海西公初めて興寧三年二月を以て卽位するに,〔一〕野雉 相風〔二〕に集まる有り。此れ羽蟲の孼なり。尋いで桓溫の廢する所と爲るなり。〔三〕

〔一〕『晉書』海西公紀:「廢帝諱奕,字延齡,哀帝之母弟也。咸康八年封爲東海王。永和八年拜散騎常侍,尋加鎭軍將軍。升平四年拜車騎將軍。五年,改封琅邪王。隆和初,轉侍中・驃騎大將軍・開府儀同三司。」
「興寧三年二月丙申,哀帝崩,無嗣。丁酉,皇太后詔曰「帝遂不救厥疾,艱禍仍臻,遺緒泯然,哀慟切心。琅邪王奕,明德茂親,屬當儲嗣,宜奉祖宗,纂承大統。便速正大禮,以寧人神。」於是百官奉迎于琅邪第。是日,卽皇帝位,大赦。」
〔二〕『芸文類聚』相風:「晉潘岳「相風賦」曰、「(中略)立成器以相風,栖靈鳥于帝庭。」」
〔三〕『晉書』海西公紀:「十一月癸卯,桓溫自廣陵屯于白石。丁未,詣闕,因圖廢立,誣帝在藩夙有痿疾,嬖人相龍・計好・朱靈寶等參侍內寢,而二美人田氏・孟氏生三男,長欲封樹,時人惑之,溫因諷太后以伊霍之舉。己酉,集百官于朝堂,宣崇德太后令曰「王室艱難,穆・哀短祚,國嗣不育,儲宮靡立。琅邪王奕親則母弟,故以入纂大位。不圖德之不建,乃至于斯。昏濁潰亂,動違禮度。有此三孽,莫知誰子。人倫道喪,醜聲遐布。既不可以奉守社稷,敬承宗廟,且昏孽並大,便欲建樹儲藩。誣罔祖宗,傾移皇基,是而可忍,孰不可懷。今廢奕爲東海王,以王還第,供衞之儀,皆如漢朝昌邑故事。但未亡人不幸,罹此百憂,感念存沒,心焉如割。社稷大計,義不獲已。臨紙悲塞,如何可言。」于是百官入太極前殿,卽日桓溫使散騎侍郎劉享收帝璽綬。帝著白帢單衣,步下西堂,乘犢車出神獸門。羣臣拜辭,莫不歔欷。侍御史・殿中監將兵百人衞送東海第。」
【参照】
『宋書』になし。

現代語訳

海西公が興寧三年(365年)二月に即位したばかりの時,野雉が風見にとどまった。これは羽蟲の孼である。まもなく(海西公は)桓溫に廢せられた。

原文

孝武帝太元十六年六月,鵲巢太極東頭鵄尾,又巢國子學堂西頭。十八年東宮始成,十九年正月鵲又巢其西門。此殆與魏景初同占。學堂,風教之所聚。西頭,又金行之祥。及帝崩後,安皇嗣位,桓玄遂篡,風教乃穨,金行不競之象也。

訓読

孝武帝の太元十六年六月,鵲 太極東頭鵄尾(しび)に巢くひ,又た國子の學堂の西頭に巢くふ。十八年東宮始めて成り〔一〕,十九年正月鵲又た其の西門に巢くふ。此れ殆んど魏の景初と占を同じくす。學堂は,風教の聚まる所なり。西頭は,又た金行の祥なり。帝崩ずるの後に及び,安皇位を嗣ぐも,〔二〕桓玄遂に篡ひ,風教乃ち穨(くず)れ,〔三〕金行競はざるの象なり。

〔一〕『晉書』孝武帝紀:「(太元十七年)八月,新作東宮。」
〔二〕『晉書』安帝紀:「安皇帝諱德宗,字德宗,孝武帝長子也。太元十二年八月辛巳,立爲皇太子。二十一年 九月庚申,孝武帝崩。辛酉,太子卽皇帝位,大赦。」
〔三〕『晉書』安帝紀:「(元興二年)十二月壬辰,玄篡位,以帝爲平固王。辛亥,帝蒙塵于尋陽。」
【参照】
『宋書』五行志三:「晉孝武帝太元十六年正月,鵲巢太極東頭鴟尾,又巢國子學堂西頭。十八年,東宮始成,十九年正月,鵲又巢其西門。此殆與魏景初同占。學堂,風教所聚,西門,金行之祥也。」

現代語訳

孝武帝の太元十六年(391年)六月,鵲が太極殿の東頭にある屋根飾りに巢を作り,さらに國子監の學堂の西頭に巢を作った。(太元)十八年に東宮がようやく完成し,十九年の正月に鵲がまた東宮の西門に巢を作った。これは恐らく魏の景初と同じ占断である。學堂は,德による教えが聚まる所である。そのうえ西頭は(五行の)金行の祥である。孝武帝が崩御した後,安帝が帝位を嗣いだものの,かくて桓玄が(帝位を)簒奪し,德による教えがくずれた,金行(である晉)が競わないという象である。

原文

安帝義熙三年,龍驤將軍朱猗戍壽陽。婢炊飯,忽有羣烏集竈,競來啄噉,婢驅逐不去。有獵狗咋殺兩烏,餘烏因共啄殺狗,又噉其肉,唯餘骨存。此亦羽蟲之孼,又黑祥也。明年六月,猗死,此其應也。

訓読

安帝の義熙三年,龍驤將軍朱猗 壽陽を戍(まも)る。婢 飯を炊くに,忽ち羣烏 竈に集い,競い來りて啄啖する有り,婢驅るも逐に去らず。獵狗有りて兩烏を咋殺し, 餘烏因りて共に狗を啄殺し,又た其の肉を啖み,唯だ餘は骨のみ存す。此れも亦た羽蟲の孼,又た黑祥なり。明年六月,猗死す,此れ其の應なり。

【参照】
『宋書』五行志三:「晉安帝義熙三年,龍驤將軍朱猗戍壽陽。婢炊飯,忽有羣烏集竈,競來啄噉,婢驅逐不去。有獵狗咋殺烏鵲,餘者因共啄狗卽死,又噉其肉,唯餘骨存。五年六月,猗死。」

現代語訳

安帝の義熙三年(407年),龍驤將軍の朱猗が壽陽を守備していた。婢が飯を炊いていると,突然烏の群れが竈に集まり,競いあって啄ばんだ,婢が追い出そうとしたが結局去らなかった。獵犬がいて二羽の烏を咬み殺したので,残りの烏は共に犬をつつき殺し,さらにその肉を啄ばみ,残ったのは骨だけであった。これもまた羽蟲の孼,さらには黑祥である。明年六月,朱猗が死んだ,これはその應である。

羊禍

原文

成帝咸和二年五月,司徒王導廄羊生無後足,此羊禍也。京房『易傳』曰「足少者,下不勝任也。」明年,蘇峻破京都,導與帝俱幽石頭,僅乃得免,是其應也。

訓読

成帝の咸和二年五月,司徒王導の廄に羊生まるるも後足無し,此れ羊禍なり。京房『易傳』に曰く「足少なきは,下 任に勝へざるなり。」と。〔一〕明年,蘇峻 京都を破り,導 帝と俱に石頭に幽せらるも,僅かに乃ち免るるを得,〔二〕是れ其の應なり。

〔一〕『漢書』五行志下之上:「六月,長安女子有生兒,兩頭異頸面相鄉,四臂共匈俱前鄉,凥上有目長二寸所。京房『易傳』曰「『睽孤,見豕負塗』,厥妖人生兩頭。下相攘善,妖亦同。人若六畜首目在下,茲謂亡上,正將變更。凡妖之作,以譴失正,各象其類。二首,下不壹也。足多,所任邪也。足少,下不勝任,或不任下也。凡下體生於上,不敬也。上體生於下,媟瀆也。生非其類,淫亂也。人生而大,上速成也。生而能言,好虛也。羣妖推此類,不改乃成凶也。」」
〔二〕『晉書』王導傳:「庾亮將徵蘇峻,訪之於導。導曰「峻猜險,必不奉詔。且山藪藏疾,宜包容之。」固爭不從。亮遂召峻。既而難作,六軍敗績,導入宮侍帝。峻以導德望,不敢加害,猶以本官居己之右。峻又逼乘輿幸石頭,導爭之不得。峻日來帝前肆醜言,導深懼有不測之禍。時路永・匡術・賈寧並說峻,令殺導,盡誅大臣,更樹腹心。峻敬導,不納,故永等貳於峻。導使參軍袁耽潛諷誘永等,謀奉帝出奔義軍。而峻衞御甚嚴,事遂不果。導乃攜二子隨永奔于白石。」
【参照】
『宋書』五行志三:晉成帝咸和二年五月,司徒王導廄,羊生無後足。此羊禍也。京房『易傳』曰「足少者, 下不勝任也。」明年,蘇峻入京都,導與成帝俱幽石頭,僅乃免身。是其應也。

現代語訳

成帝の咸和二年(327年)五月,司徒王導の廄に羊が生まれたが後足が無かった,これは羊禍である。京房『易傳』に「足が少ないのは,下(の者)がその任に堪えられないのである。」とある。明年,蘇峻が都を破り,王導は成帝と俱に石頭に幽閉されそうになったが,どうにか逃走することができた,これはその應である。

赤眚赤祥

原文

赤眚赤祥
公孫文懿時,襄平北市生肉,長圍各數尺,有頭目口喙,無手足而動搖,此赤祥也。占曰「有形不成,有體不聲,其國滅亡。」文懿尋為魏所誅。

訓読

赤眚赤祥
公孫文懿の時,襄平〔一〕の北の市に肉を生ず,長圍各おの數尺,頭・目・口・喙有り,手足無くして動搖す,此れ赤祥なり。占に曰く「形有りて成らず,體有りて聲せざれば,其れ國滅亡す。」と。文懿 尋ひで魏の誅する所と為る。〔二〕

〔一〕斠注「案,東平,当従宋志作襄平。」に従い「襄平」と改めた。
〔二〕『三國志』魏書 二公孫陶四張傳:「初,淵家數有怪,犬冠幘絳衣上屋,炊有小兒蒸死甑中。襄平北巿生肉,長圍各數尺,有頭目口喙,無手足而動搖。占曰「有形不成,有體無聲,其國滅亡。」始度以中平六年據遼東,至淵三世,凡五十年而滅。」
『搜神記』卷九:「魏司馬太傅懿平公孫淵,斬淵父子。先時,淵家數有怪,一犬著冠幘絳衣上屋。欻有一兒,蒸死甑中。襄平北市生肉,長圍各數尺,有頭目口喙,無手足而動搖。占者曰「有形不成,有體無聲,其國滅亡。」」
【参照】
『宋書』赤眚赤祥:「公孫淵時,襄平北市生肉,長圍各數尺,有頭目口喙,無手足,而動搖。此赤眚也。占曰「有形不成,有體無聲,其國滅亡。」淵尋為魏所誅。」

現代語訳

赤眚赤祥
公孫淵の時に,襄平の北にある市に肉があらわれ,長さと周囲はそれぞれ数尺あり,頭・目・口・喙があり,手足はないが動き搖れた,これは赤祥である。占断には「形が有るのに不完全で,體が有るのに聲を発しないというのは,それは国が滅亡するということだ。」とあった。公孫淵はまもなく魏によって誅殺されることとなった。

原文

呉戍將鄧喜殺猪祠神,治畢懸之,忽見一人頭往食肉,喜引弓射中之,咋咋作聲,繞屋三日,近赤祥也。後人白喜謀北叛,闔門被誅。京房易傳曰「山見葆,江于邑,邑有兵,狀如人頭,赤色。」

訓読

呉の戍將 鄧喜 猪を殺し神に祠る,治め畢へ之を懸くと,忽ち一人の頭が往きて肉を食ふを見る,喜 弓を引き之を射中す,咋咋と聲を作し,屋を繞ること三日,赤祥に近きなり。後に人 喜 北のかた叛を謀ると白し,闔門誅さる。と。京房『易傳』に曰く「山に葆を見,邑に江あり,邑は兵を有ち,狀は人頭の如くして,赤色。」と。

【参照】
『宋書』五行志:「呉戍將鄧嘉殺猪祠神,治畢縣之,忽見一人頭往食肉,嘉引弓射中之,咋咋作聲,繞屋三日。近赤祥也。後人白嘉謀北叛,闔門被誅。京房易妖曰「山見葆,江于邑,邑有兵,狀如人頭赤色。」」

現代語訳

呉の国境の守備を司る将軍である鄧喜が猪を殺し神にささげた,祀りを終え猪をぶらさげると,突然に一人の頭が(猪のもとに)向かって行き肉を食べるのを見た,鄧喜は弓を引きこれを射貫いた,大きな声を発し,三日間、建物のまわりにまとわりついた,赤祥に近いものだ。後に人が鄧喜は北にむかい謀反を企てると言い,一族全て誅殺された。京房『易傳』には「山には草木の芽生えを見て,川は邑に流れる,邑には兵がいる,姿は人の頭のようであり,赤色である。」とある。

原文

武帝太康五年四月壬子,魯國池水變赤如血。 七年十月,河陰有赤雪二頃。此赤祥也。是後四載而帝崩,王室遂亂。

訓読

武帝太康五年四月壬子,魯國の池水赤く變ずること血の如し〔一〕。 七年十月,河陰に赤雪二頃有り〔二〕。此れ赤祥なり。是の後四載にして帝崩じ〔三〕,王室遂に亂る。

〔一〕『晋書』武帝紀:「(太康五年)夏四月,任城、魯國池水赤如血。」
〔二〕『晋書』武帝紀:「(太康七年)十二月,遣侍御史巡遭水諸郡。出後宮才人・妓女以下二百七十人歸于家。始制大臣聽終喪三年。己亥,河陰雨赤雪二頃。」
〔三〕『晋書』武帝紀:「(太熙元年:290)夏四月(中略)己酉,帝崩于含章殿,時年五十五,葬峻陽陵,廟號世祖。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉武帝太康七年十一月,河陰有赤雪二頃。此赤祥也。後涉四載而帝崩,王宮遂亂。」

現代語訳

武帝の太康五年(284)四月壬子,魯國の池の水が赤く変化し血のようであった。 七年(286) 十月,河陰で赤い雪が二頃(364アール)の範囲に降った。これは赤祥である。この後 四年で皇帝が崩御し,そのまま朝廷は乱れていった。

原文

惠帝元康五年三月,呂縣有流血,東西百餘步,此赤祥也。至元康末,窮凶極亂,僵屍流血之應也。干寶以為「後八載而封雲亂徐州,殺傷數萬人」,是其應也。

訓読

惠帝元康五年三月,呂縣に流血し,東西百餘步になること有り〔一〕,此れ赤祥なり。元康の末に至りて,凶を窮め亂を極む,僵屍流血の應なり。干寶以為く「後八載にして封雲 徐州に亂し,數萬人を殺傷す」と〔二〕。是れ其の應なり。

〔一〕『晋書』惠帝紀:「(永平六年)三月,東海隕霜,傷桑麥。彭城呂縣有流血,東西百餘步。」
〔二〕『搜神記』卷七:「元康五年三月,呂縣有流血,東西百餘步,其後八載,而封雲亂徐州,殺傷數萬人。」
『晉書』惠帝紀:「(太安二年:303)秋七月,中書令卞粹、侍中馮蓀、河南尹李含等貳於長沙王乂,乂疑而害之。張昌陷江南諸郡,武陵太守賈隆・零陵太守孔紘・豫章太守閻濟・武昌太守劉根皆遇害。昌別帥石冰寇揚州,刺史陳徽與戰,大敗,諸郡盡沒。臨淮人封雲舉兵應之,自阜陵寇徐州。」
【参照】
『宋書』五行志:「晉惠帝元康五年三月,呂縣有流血,東西百餘步。此赤祥也。元康末,窮凶極亂,僵尸流血之應也。干寶以為後八載而封雲亂徐州,殺傷數萬人,是其應也。」

現代語訳

惠帝の元康五年(295)三月,呂縣で血が流れだし,東西百步あまりになることがあった,これは赤祥である。元康の末になると,飢饉と貧しさで世の中は非常に乱れた,死体が流血したことの應である。干寶は「その後八年たち封雲が徐州で反乱を起こし,数万人が殺傷された」と考えた。これはその應である。

原文

永康元年三月,尉氏雨血。夫政刑舒緩,則有常燠赤祥之妖。此歲正月,送愍懷太子幽于許宮。天戒若曰,不宜緩恣姦人,將使太子冤死。惠帝愚眊不寤,是月愍懷遂斃。於是王室成釁,禍流天下。淖齒殺齊湣王日,天雨血霑衣,天以告也,此之謂乎。京房易傳曰「歸獄不解,茲謂追非,厥咎天雨血,茲謂不親,下有惡心,不出三年,無其宗。」又曰「佞人祿,功臣戮,天雨血也。」

訓読

永康元年三月,尉氏に血雨る〔一〕。夫れ政刑 舒緩なれば,則ち常燠赤祥の妖有り。此の歲の正月,愍懷太子を送り許宮に幽す〔二〕。天戒めて若くのごとく曰く「宜く姦人を緩く恣にすべからず,將に太子をして冤死せしめんとす。惠帝 愚眊にして寤めず,是の月 愍懷 遂に斃る。是に於ひて王室釁を成し,禍 天下に流る。淖齒 齊の湣王を殺すの日〔三〕,天 血を雨らし衣を霑す,天以て告ぐるなり,此れの謂ひか。」と。京房『易傳』に曰く「歸獄 解けず,茲れを追非と謂ひ,厥の咎は天 血を雨らす,茲れ不親と謂ひ,下は惡心有り,三年を出でず,其の宗無し。」と。又た曰く「佞人祿され,功臣戮せらるれば,天 血を雨らすなり。」と〔四〕。

〔一〕〔二〕『晋書』惠帝紀:「(永康元年)  三月,尉氏雨血,妖星見于南方。癸未,賈后矯詔害庶人遹于許昌。」
〔二〕『晋書』惠帝紀:「(永平九年:299)十二月壬戌,廢皇太子遹為庶人,及其三子幽于金墉城,殺太子母謝氏。」
〔三〕『史記』田敬仲完世家:「四十年,燕・秦・楚・三晉合謀,各出銳師以伐,敗我濟西。王解而卻。燕將樂毅遂入臨淄,盡取齊之寶藏器。湣王出亡,之衞。衞君辟宮舍之,稱臣而共具。湣王不遜,衞人侵之。湣王去,走鄒魯,有驕色,鄒魯君弗內,遂走莒。楚使淖齒將兵救齊,因相齊湣王。 淖齒遂殺湣王而與燕共分齊之侵地鹵器。湣王之遇殺,其子法章變名姓為莒太史敫家庸。太史敫女奇法章狀貌,以為非恆人,憐而常竊衣食之,而與私通焉。 淖齒既以去莒,莒中人及齊亡臣相聚求湣王子,欲立之。法章懼其誅己也,久之,乃敢自言「我湣王子也」。於是莒人共立法章,是為襄王。以保莒城而布告齊國中「王已立在莒矣。」」
『戦国策』齊策:「齊負郭之民有孤狐咺者,正議閔王,斮之檀衢,百姓不附。齊孫室子陳舉直言,殺之東閭,宗族離心。司馬穰苴為政者也,殺之,大臣不親。以故燕舉兵,使昌國君將而擊之。齊使向子將而應之。齊軍破,向子以輿一乘亡。達子收餘卒,復振,與燕戰,求所以償者,閔王不肯與,軍破走。王奔莒,淖齒數之曰「夫千乘・博昌之間,方數百里,雨血沾衣,王知之乎。」王曰「不知。」「嬴・博之間,地坼至泉,王知之乎。」王曰「不知。」「人有當闕而哭者,求之則不得,去之則聞其聲,王知之乎。」王曰「不知。」淖齒曰「天雨血沾衣者,天以告也。地坼至泉者,地以告也。人有當闕而哭者,人以告也。天地人皆以告矣,而王不知戒焉,何得無誅乎。」於是殺閔王於鼓里。太子乃解衣免服,逃太史之家為溉園。君王后,太史氏女,知其貴人,善事之。田單以即墨之城,破亡餘卒,破燕兵,紿騎劫,遂以復齊,遽迎太子於莒,立之以為王。襄王即位,君王后以為后,生齊王建。」
〔四〕『漢書』五行志第七中之下:「惠帝二年,天雨血 於宜陽,一頃所,劉向以為赤眚也。時又冬雷,桃李華,常奧之罰也。是時政舒緩,諸呂用事,讒口妄行,殺三皇子,建立非嗣,及不當立之王,退王陵、趙堯、周昌。呂太后崩,大臣共誅滅諸呂,僵尸流血。京房易傳曰「歸獄不解,茲謂追非,厥咎天雨血。茲謂不親,民有怨心,不出三年,無其宗人。」又曰「佞人祿,功臣僇,天雨血。」」
【参照】
『宋書』五行志:「晉惠帝永康元年三月,尉氏雨血。夫政刑舒緩,則有常燠赤祥之妖。此歲正月,送愍懷太子幽于許宮。天戒若曰,不宜緩恣姦人,將使太子冤死。惠帝愚眊不悟,是月愍懷遂斃。於是王室釁成,禍流天下。淖齒殺齊閔王日,天雨血沾衣,天以告也,此之謂乎。京房易傳曰「歸獄不解,茲謂追非,厥咎天雨血,茲謂不親,民有怨心,不出三年,無其宗人。」又曰「佞人祿,功臣戮,天雨血。」」

現代語訳

永康元年(300)三月,尉氏県で血が降った。政治と刑罰がだらければ,暑さ続きや赤祥の異変がある。この歲の正月に,愍懷太子(司馬遹)許昌の宮殿(金墉城)に送り幽閉した。天が戒めてこのように言うには「奸臣をだらしなくやりたいようにさせるべきではない,愍懷太子は濡れ衣を着せられたまま殺されようとしている。惠帝は愚かで道理に暗くその目は覚めなかった,この月に愍懷太子はとうとう横死した。ここにいたり王室にはひずみが生じ,災いが世の中に流出した。淖齒が齊の湣王を殺した日に,天は血を降らせ衣服を濡らして,天が告げたのだ,(血が降るということは)このことを言っているのではないだろうか。」と。京房『易傳』には「罪を人になすりつけて解き明かさない,これを追非といい,その罰は天が血を降らせることだ,これを不親といい,下に悪い心(を持つ者が)有る,三年たたずに,その宗族はいなくなる。」とあり、さらに「小人に祿を食ませ,功臣が殺されれば,天は血を降らせるのだ。」ともある。

原文

愍帝建興元年十二月,河東地震,雨肉。 四年十二月丙寅,丞相府斬督運令史淳于伯,血逆流上柱二丈三尺,此赤祥也。是時,後將軍褚裒鎮廣陵,丞相揚聲北伐,伯以督運稽留及役使贓罪,依軍法戮之。其息訴稱「督運事訖,無所稽乏,受賕役使,罪不及死。兵家之勢,先聲後實,實是屯戍,非為征軍。自四年已來,運漕稽停,皆不以軍興法論。」僚佐莫之理。及有變,司直彈劾眾官,元帝不問,遂頻旱三年。干寶以為冤氣之應也。郭景純曰「血者水類,同屬于坎。坎為法象,水平潤下,不宜逆流。此政有咎失之徵也。」

訓読

愍帝建興元年十二月,河東地震ふ,肉雨る。〔一〕 四年十二月丙寅,丞相府 督運令史淳于伯を斬る,血逆流上柱すること二丈三尺,此れ赤祥なり。是の時,後將軍褚裒〔二〕廣陵に鎮し,丞相聲を揚げて北伐するに〔三〕,伯 督運の稽留及び役使の贓罪を以て,軍法に依りて之れを戮す。其の息訴へて稱すらく「督運の事訖はりて,稽乏する所なく,賕を受けて役使す,罪は死に及ばず。兵家の勢,聲を先にし實を後にす〔四〕,實は是れ屯戍,征軍為るに非ず。四年自り已來,運漕稽停し,皆な軍興法を以て論ぜず。」と。僚佐之れを理むる莫し。變有るに及びて,司直眾官を彈劾するも,元帝問はず,遂に頻りに旱すること三年。〔五〕干寶以為へらく冤氣の應なり。〔六〕郭景純曰く「血なる者は水の類,同もに坎に屬す。坎は法の象為り,水 平にして潤下,宜しく逆流すべからず。此れ政に咎失有るの徵なり。」〔七〕と。

〔一〕『晉書』孝愍帝紀:「(建興元年)十二月,河東地震,雨肉。」
〔二〕『晋書』の中華書局本校注には「據褚裒傳推算,裒此時年僅十歲,不能領軍出鎮,此「褚」字恐是譌字。以元四王傳及建武元年帝紀考之,疑本琅邪王裒事。」とあり,同様の内容を持つ『宋書』の中華書局校注では「陸錫熊炳爥偶鈔云:「志所云後將軍褚裒鎮廣陵事,必有誤。裒為康獻皇后父,蘇峻構逆時,始為郗鑒參軍。其見郭璞筮卜時,年纔總角,何得有建興末鎮廣陵事。元帝子琅邪孝王裒以宣城公拜後將軍,志或以名同致誤。然裒傳無鎮廣陵明文,未敢臆定也。」張森楷校勘記云:「按是時後將軍為元帝子裒,非褚裒也。『褚』字衍文。」」と指摘するように,この「褚裒」は「司馬裒」を指すと思われる。
〔三〕『晉書』元帝紀:「愍帝即位,加左丞相。歲餘,進位丞相・大都督中外諸軍事。遣諸將分定江東,斬叛者孫弼于宣城,平杜弢于湘州,承制赦荊揚。及西都不守,帝出師露次,躬擐甲冑,移檄四方,徵天下之兵,剋日進討。」
〔四〕『史記』淮陰侯列傳:「廣武君對曰「方今為將軍計,莫如案甲休兵,鎮趙撫其孤,百里之內,牛酒日至,以饗士大夫醳兵,北首燕路,而後遣辯士奉咫尺之書,暴其所長於燕,燕必不敢不聽從。燕已從,使諠言者東告齊,齊必從風而服,雖有智者,亦不知為齊計矣。如是,則天下事皆可圖也。兵固有先聲而後實者,此之謂也。」」
〔五〕『晉書』劉隗傳:「建興中,丞相府斬督運令史淳于伯而血逆流,隗又奏曰「古之為獄必察五聽,三槐九棘以求民情。雖明庶政,不敢折獄。死者不得復生,刑者不可復續,是以明王哀矜用刑。曹參去齊,以市獄為寄。自頃蒸荒,殺戮無度,罪同斷異,刑罰失宜。謹按行督運令史淳于伯刑血著柱,遂逆上終極柱末二丈三尺,旋復下流四尺五寸。百姓諠譁,士女縱觀,咸曰其寃。伯息忠訴辭稱枉,云伯督運訖去二月,事畢代還,無有稽乏。受賕使役,罪不及死。軍是戍軍,非為征軍,以乏軍興論,於理為枉。四年之中,供給運漕,凡諸徵發租調百役,皆有稽停,而不以軍興論,至於伯也,何獨明之。捶楚之下,無求不得,囚人畏痛,飾辭應之。理曹,國之典刑,而使忠等稱寃明時。謹按從事中郎周莚・法曹參軍劉胤・屬李匡幸荷殊寵,並登列曹,當思敦奉政道,詳法慎殺,使兆庶無枉,人不稱訴。而令伯枉同周青,寃魂哭於幽都,訴靈恨於黃泉,嗟嘆甚於𣏌梁,血妖過於崩城,故有隕霜之人,夜哭之鬼。伯有晝見,彭生為豕,刑殺失中,妖眚並見,以古況今,其揆一也。皆由莚等不勝其任,請皆免官。」於是右將軍王導等上疏引咎,請解職。帝曰「政刑失中,皆吾闇塞所由。尋示愧懼,思聞忠告,以補其闕。而引過求退,豈所望也!」由是導等一無所問。」
〔六〕『捜神記』巻七:「晉元帝建武元年六月,揚州大旱。十二月,河東地震。去年十二月,斬督運令史淳于伯,血逆流,上柱二丈三尺,旋復下流四尺五寸。是時淳于伯冤死,遂頻旱三年。刑罰妄加,群陰不附,則陽氣勝之。罰,又冤氣之應也。」
『晉書』五行志:「元帝建武元年六月,揚州旱。去年十二月,淳于伯冤死,其年即旱,而太興元年六月又旱。干寶曰「殺淳于伯之後旱三年,是也。刑罰妄加,羣陰不附,則陽氣勝之罰也。」」
〔七〕『晉書』郭璞傳:「往建興四年十二月中,行丞相令史淳于伯刑於市,而血逆流長摽。伯者小人,雖罪在未允,何足感動靈變,致若斯之怪邪!」
【参照】
『宋書』五行志:「晉愍帝建興四年十二月丙寅,丞相府斬督運令史淳于伯,血逆流上柱二丈三尺。此赤祥也。是時後將軍褚裒鎮廣陵,丞相揚聲北伐,伯以督運稽留及役使臧罪,依征軍法戮之。其息訴稱「伯督運事訖,無所稽乏,受賕役使,罪不及死。兵家之勢,先聲後實,實是屯戍,非為征軍。自四年以來,運漕稽停,皆不以軍興法論。」僚佐莫之理。及有此變,司直彈劾眾官,元帝又無所問。於是頻旱三年。干寶以為寃氣之應也。郭景純曰「血者水類,同屬於坎,坎為法家。水平潤下,不宜逆流。此政有咎失之徵也。」」

現代語訳

愍帝の建興元年(313)十二月,河東で地震があり,肉が降ってきた。 四年十二月丙寅,丞相府が督運令史の淳于伯を斬った,血が逆流して二丈三尺の高さまで柱のように立ち上った,これは赤祥である。この時,後將軍の褚裒は廣陵に鎮守し,丞相は聲をあげて北伐しようとしていたが,淳于伯が輸送が滞ったことと職務についての贈賄の罪によって,軍法に従って淳于伯を殺した。その息子が「輸送の業務を終えて,滞り不足することなく,賄賂を受けて業務を行なったのであり,罪は死までは及ばない。軍事における兵勢では,聲威を先にして実戦を後にする,(ここでの)實戦というのは辺境の守備であり,遠征軍ではないのである。四年以降,輸送は滞っていたが,だれも軍法によって論ぜられていなかった。」と訴えた。役人でこのことを審議するものはいなかった。異變が起こると,司直は諸官を彈劾したが,元帝は不問としたため,そのまましきりにひでりが起こることが三年続いた。干寶は冤罪のたたりの應であると考えた。郭璞は「血というのは水の類である,どちらも坎に屬している。坎は法の象徴である,水は偏ることなく潤して下へと流れていく,逆流などしないのである。これは政に過失があることの徵である。」と言った。

原文

劉聰偽建元元年正月,平陽地震,其崇明觀陷為池,水赤如血,赤氣至有天,赤龍奮迅而去。流星起于牽牛,入紫微,龍形委蛇,其光照地,落于平陽北十里。視之則肉,臭聞于平陽,長三十步,廣二十七步。肉旁常有哭聲,晝夜不止。數日,聰后劉氏產一蛇一獸,各害人而走。尋之不得,頃之見於隕肉之旁。是時,劉聰納劉殷三女,並為其后。天戒若曰,聰既自稱劉姓,三后又俱劉氏,逆骨肉之綱,亂人倫之則。隕肉諸妖,其眚亦大。俄而劉氏死,哭聲自絕。

訓読

劉聰偽建元元年正月,平陽地震ふ,其の崇明觀陷りて池と為り,水赤くして血の如し,赤氣至りて天に有り,赤龍の奮迅して去る。流星牽牛より起こり,紫微に入り,龍形委蛇,其の光 地を照らし,平陽の北十里に落つ。之れを視れば則はち肉なり,臭は平陽に聞こえ,長三十步,廣二十七步。肉旁常に哭聲有り,晝夜止まず。數日して,聰后劉氏一蛇一獸を產む,各おの人を害して走る。之れを尋ぬるも得ず,之れに頃らくして隕肉の旁に見はる。是の時,劉聰 劉殷の三女を納れ,並びに其の后と為す。天戒しめて若くのごとく曰く,聰既に自づから劉姓を稱し,三后も又た俱に劉氏,骨肉の綱に逆き,人倫の則を亂す。隕肉諸妖,其の眚も亦た大なり,と。俄にして劉氏死し,哭聲自づから絕ゆ。〔一〕

〔一〕『晉書』劉聡載記:「時流星起於牽牛,入紫微,龍形委蛇,其光照地,落于平陽北十里。視之,則有肉長三十步,廣二十七步,臭聞于平陽,肉旁常有哭聲,晝夜不止。聰甚惡之,延公卿已下問曰「朕之不德,致有斯異,其各極言,勿有所諱。」陳元達及博士張師等進對曰「星變之異,其禍行及,臣恐後庭有三后之事,亡國喪家,靡不由此,願陛下慎之。」聰曰「此陰陽之理,何關人事。」既而劉氏產一蛇一猛獸,各害人而走,尋之不得,頃之,見在隕肉之旁。俄而劉氏死,乃失此肉,哭聲亦止。自是後宮亂寵,進御無序矣。」

現代語訳

劉聰の正統でない建元元年(315)正月,平陽で地震があった,その崇明觀が陥没して池となり,水は血のように赤く,赤氣が天まで到達し,赤龍が激しくたけって去っていった。流れ星が牽牛から起こり,紫微宮へと入り,(その形は)龍の形でまがりくねり,その光は地上を照らし,平陽の北十里に落ちた。これを見てみると肉であった,臭気は平陽でもにおい,長さは三十歩,廣さは二十七歩であった。肉の旁では常に哭く聲がしており,晝と夜と止むことはなかった。數日して,劉聰の后の劉氏は蛇一匹・獸一匹を產みおとし,それぞれが人を害して走っていった。それを探したが見つけられず,それからしばらくして隕肉のそばに現れた。この時,劉聰は劉殷の三人の娘を(後宮に)納れ,揃ってその后とした。天は戒しめてこのように言った,劉聰はみずから劉姓を名乗り,三人の后もみな劉氏である,骨肉の大綱にそむいており,人倫の法則を亂している。隕肉の諸妖は,その眚についても大である,と。突然劉氏は死に,哭く聲は自然とおさまった。